引いて開けるドアを押していても、いつまでもドアの先へは行けません

クリスマスなんて大嫌いですが、クリスマスソングは好きです。

🎄Hurry Xmas 🎄 ~L'arc~en~ciel~

とか。熱唱するとテンションが上がります。カラオケ行きてぇ(笑)


さて、阿弥陀仏の救いは、南無阿弥陀仏の一方的はおはたらきによるものです。こちらの方で何かを加えたりすることはありません。私としては、一方的なお救いであることを聞き受けるのみです。「助けるぞ」の仰せに対し、「こうすれば」「こうしたら」とか余計な計らいを加えずに、その仰せのままに素直に後生おまかせするのです。「助けるぞ」を「助けるぞ」とそのまま聞くのが即ち信です。

これは如何にも簡単そうであり、既に本願招喚の勅命を疑いなく聞き受けた身としては簡単という言葉も要らぬほどのことです。しかし、今から信心決定しよう、信心獲得したい、阿弥陀仏に救われたいと求めておられる方にとっては、「それが難しい」と悩む方が多数なのではと思います。私も例に漏れず最後まで阿弥陀さまを苦しませた系ですから、その苦悩は十二分に経験しています。

未信の方は、聴聞という行や、念仏称えるという行、お勤めを欠かさずするという行、あるいは親切やよい心がけに努めるという行、その他人それぞれ思いつく行為や心がけを熱心に重ねることで、こちらから阿弥陀さまの救いをつかもう、救いに近づこうと方法論を模索しがちです。図にすると、

阿弥陀仏 ← 私

という形で、阿弥陀仏の一方的なはたらきかけを受け容れられず、逆にこちらからはたらきかけなければ阿弥陀さまは応じて下さらない、救いには遇えないと信じて方法論に走りがちです。特に親鸞会の会員は、本来浄土真宗に存在しない「横の線に該当する教え」「光に向かう教え」を叩き込まれていますから尚更こうした信心は強いでしょう。

・宿善の薄い私は、このままで助かるわけがない
・他力と無力を混同している信仰の幼稚園児ではいけない
・最初から他力の人はいないんだから、みんな自力で求めていくんだ
・他力になるまで他力を求め抜くんだ
・「ただじゃった~!」となるまで「ただ」を聞くんだ
・群賊・悪獣・悪知識の非難の中を煩悩と闘って進んでいくんだ


このように信じて高森会長や上司の朝令暮改の無理難題を必死にこなそうと頑張っている会員さんも少なくないと思いますが、残念ながら大変な思い違いであるため、どれだけ会で勧められる活動に励もうとそれによって阿弥陀仏に救われるということはありません。

『飛雲』真実の信心を教えられた親鸞聖人、他教の信心を教える高森顕徹会長より引用しますと、

報土往生の因は、100%阿弥陀仏が用意して下されたものなので、われらの方で何かすることは不要なのです。もっと言えば、報土往生のために何かしてはいけないのです。

ということです。尤も、会員は報土往生という死んでからの証果よりは、現世における絶対の幸福だとかいう幻想的な楽を追い求めている場合が多いので話にもならないんですけどね・・・

さて、このような思い違いを示す分かりやすい例えとしては、「引いて開けるドアを押しているようなもの」というのが適切でしょうか。引いて開けるドアをいくら押しても、いつまでもドアの先へは行けませんし、ドアを押している行為もそれに費やす時間も全くの無駄です。
それと似たようなもので、阿弥陀さまが私の心のドアを開けて浄土へと導こうとされているのを、「ドア位は私が開けねば」と頑張って押しているのが実は裏目に出ているという感じです。私はドアを開けようとするのをやめて、ただ阿弥陀さまの救いの御名をお聞きし念仏すればよいのです。そうすれば自然とドアは開いて、阿弥陀さまが私を浄土へお連れ下さるものを、私は阿弥陀さまの仰せを素直に聞こうとしません。自分の浅はかな考えで、何とかしてドアの外へ出たいとの思いが勝ってガチャガチャやっているのです。『もののけ姫』のアシタカのような者なら「押し通る!」の言葉通り押し通れるのかも知れません(笑)が、それは私には無理です。
このままの私をそのまま救おうとする阿弥陀さまと、このままの私で助かるわけがないと方法論に走る私。私は私で真剣にやっているのですが、私の行為が阿弥陀さまの救いを撥ね付ける方向にはたらいているので、これではいつまで経っても両者の溝は埋まりません。

こうした思い違いを思い違いと知らせて頂き、本願の仰せをそのままお受けするのが聴聞です。ただ、聴をひたすら重ねて、いつか聞と聞こえる時が来る、今生で来たらラッキーなんていうのは、「聴聞という行をしていかなければならない」という考え方で間違いです。勿論獲信の現在から「ひたすら聴聞を重ねてきたな」と振り返ることはあるでしょう。しかし、未信の人が「これからひたすら聴聞を重ねなければ助からない」と救いを先延ばしにするのは間違った心がけです。一体いつ助かるつもりでしょうか。只今、ここにいる、このままの私が救われるのです。この世は無常であり、今、この場のこの聴聞が最後になるかも知れないのに、にもかかわらず救いを先延ばしにするとは随分とのんきなものです。

阿弥陀仏の救いというのはてのひらを返すように容易いので、あれこれ計らうのをやめて「助けるぞ」をそのままお聞きした只今、この場で救われます。ただあまりに容易いため、逆に浅はかな私達は余計な詮索や先入観でもって「そんなわけあるかい」と疑って中々素直に聞き受けられません。だから「難信」であり「易往而無人」と言われるのですが、といって何十年も求道しなければ救われないというものではありません。親鸞会ではなぜ「難信」なのか間違って教えられているため、会員は法を聞くにしても長い求道を要してようやく救われるかのように余計な詮索や先入観をもって身構えてしまうのです。このような凡夫の浅はかな智慧を交えずに、そのまま助ける本願をそのままお聞きすれば、難信ではなくなります。心得やすの安心、取りやすの安心だと分かり、今まであれこれ計らっていた私は愚かだった、よく阿弥陀さまはこんな私を見放さず諦めずにいて下さったなとお念仏せずにいられなくなります。

そもそも、その信心をとらんずるには、さらに智慧もいらず才学もいらず、富貴も貧窮もいらず、善人も悪人もいらず、男子も女人もいらず、ただもろもろの雑行をすてて正行に帰するをもって本意とす。その正行に帰するというは、なにのようもなく、弥陀如来を一心一向にたのみたてまつることわりばかりなり。かように信ずる衆生を、あまねく光明のなかに摂取してすてたまわずして、一期のいのちつきぬれば、かならず浄土におくりたまうなり。この一念の安心ひとつにて浄土に往生することの、あら、ようもいらぬとりやすの安心や。されば安心という二字をばやすきこころとよめるは、このこころなり。さらになにの造作もなく、一心一向に如来をたのみまいらする信心ひとつにて、極楽に往生すべし。あら、こころえやすの安心や。また、あら、ゆきやすの浄土や。これによりて『大経』には、「易往而無人」とこれをとかれたり。この文のこころは、安心をとりて弥陀を一向にたのめば、浄土へはまいりやすけれども、信心をとるひとまれなれば、浄土へはゆきやすくしてひとなしといえるは、この経文のこころなり。かくのごとくこころうるうえには、昼夜朝暮にとなうるところの名号は、大悲弘誓の御恩を報じたてまつるべきばかりなり。かえすがえす仏法にこころをとどめて、とりやすき信心のおもむきを存知して、かならず今度の一大事の報土の往生をとぐべきものなり。あなかしこ、あなかしこ。(『御文章』2帖目7通)

この取りやすの安心、心得やすの安心を自力でつかもうとしているから、これ以上難しいことはないとなってしまうのです。何の造作も要らず、念仏以外の諸善を捨てて、「阿弥陀仏が唯一選び択られた念仏一つで助かる」と信ずる一つにて往生は定まります。そうなれば、昔はとんだ心得違いだったな、回り道だったな、そんな自分をよくもお救い下されたものだと過去の迷いも御恩喜ぶタネとなり、あながち無駄ではなかったと思えます。要は、

阿弥陀仏 → 私

という一方的なはたらきを何の造作も要らず受け容れられるかどうかです。本日只今にもそういう身になれる、いや、本願を信じさせ念仏称えさせると阿弥陀さまが仰せですから、逆らわず計らわず、阿弥陀さまの仰せを素直に受けて下さい。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。
スポンサーサイト

コメントの投稿

非公開コメント

プロフィール

淳心房&しゃあ

Author:淳心房&しゃあ
(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


(しゃあ)
平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
singikensho@yahoo.co.jp
(スパム防止のため@を大文字にしてあります。メール送信時は小文字に変えて下さい。)

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QRコード