縦と横の線のマインドコントロール下では、只今の救いを只今の救いと捉えることは難しい

最近は大きな行事では当たり障りのないことしか言わない高森顕徹会長ですが、今年の報恩講ではどんな話があったか、情報をお持ちの方は教えて頂けたらと思います。


さて、親鸞会の視覚的マインドコントロールが、縦と横の線と人の図です。



何回かチャレンジしましたが、私にはことりさんのブログのように上手く描けませんでした。本当は縦の線の左側に「人生の目的完成」「絶対の幸福」などの字を入れたかったのですが、下手くそ過ぎて・・・(´・ω・`)。きちんとした図については、

『親鸞会を脱会した人(したい人)へ』親鸞会会員が「横の線」を進んでいるのになぜ「縦の線」にたどり着けないのかを、エッシャー上りと下り(無限階段)から考える
『同』高森会長「善をしなければ、自惚れ心が砕かれないので救われない」(5月6日二千畳座談会・6月1日顕正新聞より)

等の記事にある図を参照して下さい。

これは勧誘当初からスケッチブックや黒板、ホワイトボードに書かれ、初期部会から毎回出てきます。図で言う人の位置(右端)が仏教の聞き始めで、聴聞を重ねて段々と理解し進んでいき、縦の線で人生の目的を達成・完成し、絶対の幸福になる。それを無碍の一道とも、摂取不捨の利益とも言うと説いています。

実は、この縦と横の線の図も大沼法竜師のパクリではないかと言われています。

『高森センセイの通信簿』大沼法龍師と高森顕徹師の決定的な相異点

に、大沼法竜師が書かれたという図が載っています。

そこから、徐々に変化していき現在のオリジナル図になったのでしょう。昔は横の線が縦の線の左側まで伸びていたという話も聞いたことがあります。


この、勧誘当初から聞く者の脳裏に視覚的に刻み込まれる上の図ですが、残念なことに縦と横の線のマインドコントロール下では、只今の救いを只今の救いと捉えることは難しいです。この図が頭にある限り、人生の目的完成・信心決定は求めていった先の未来にあり、現在は人生の目的完成・信心決定はできないという思考に陥ってしまうのです。以下にそのプロセスを述べてみます。

会員の皆さん、特に学友部の皆さんは、高森会長の説法の前に目的の確認をすると思います。そこで、「仏法を聞く目的は後生の一大事の解決。今日こそは信心決定するぞ」と決意して聴聞に臨むでしょう。

しかし、説法の途中で高森会長が縦と横の線を書くのを見るとどうでしょうか?

「自分はまだ因果の道理も本当に分かっているとは言えない。廃悪修善の気持ちも弱い。後生に驚きも立っていない。自分はまだまだ黒板の右端だ。いや、あのスタートラインにも立っていないのではないだろうか」

と、真面目に求めている方ならこんな気持ちにならないでしょうか? というのは、高森会長は

「因果の道理の結論は廃悪修善。廃悪修善を実践して見えてくるのは悪しかできない己の姿。これでは因果の道理に順じて後生は一大事。ここで後生に驚きが立つ。後生に驚きが立って初めてあの(横の線の)軌道に乗る。お釈迦様は全人類をあの軌道に乗せるのに45年かかった」

というようなことを説いているからです。

会員の皆さんは、最初の頃は聴聞を重ねる毎に少しずつ横の道を進んで縦の線に近づいていると思っていたのが、やがて一向に進んでいる気配もないと感じるようになり、今では横の線の軌道にすら乗れていないのではないかという気分になっていることと思います。こんなことで本当に助かるのかと疑問を持ちながらも、

「難信だから」
「よく聞くことも難ければと言われるから」
「高森先生に間違いがあるはずがない」


と、現在助からない理由付けをし、ごまかしごまかし求めているというのが実態ではないでしょうか?

そして、何とかして横の線の軌道に乗ろう、横の道を進もう、信仰を進めよう、縦の線に近づこう、そのための手段として、

1、高森会長の法話は欠かさず参詣し、真剣に聞く
2、因果の道理をよく聞いて自分に落とし込む
3、親鸞会で推進される活動になるべく参加する
(お布施、AT、チラシ配り、行事に人を誘う、顕正人数目標達成・・・)

等々、「光に向かう教え」に従って各々取り組んでいることと思います。

このように、親鸞会では縦の線という理想郷に向かってひたすら進めと励まされ、一向に進んでいるか分からないまま活動を余儀なくされます。しかも自分が横の線の軌道に乗っているかどうかさえ不確かなのですから、助かるのはいつになることやら。そんな状況なのですから、とてもではないが現在助かる教えではありません。あの図が頭にある限り、救いは求めていった遥か先の未来であり、まだ求めている最中の現在ではないという思考に陥るプロセスは、これでご理解頂けたかと思います。


聴聞中「今日こそ」「今日こそ」と力んでも時間は空しく過ぎ、恩徳讃を歌って終了。帰りの道中は、その日の話の暗記大会や今後の目標達成を誓って終わるでしょう。自分が会員であった時、運転しながら「もし交通事故でも起こして死んでしまったら、一体いつ横の線を進み、信仰が進んで助かるというんだろう?」という不安にかられていたことを時々思い出しますが、会員の皆さんの中にそんなことを思う人はいないのでしょうか?

会員の皆さんが一向に信心決定できないのは、往生・獲信と無関係な教え、自分で救いに向かっていくという自力回向的教えを視覚的にも徹底されているからです。信心獲得するには、親鸞会教義を真受けにしていたらまず不可能ですから、一刻も早く邪義から決別すべきです。中にはあさ川進さんのように会にいながら救われた方もいらっしゃいますが、自分は教義の誤りを知らされたからには退会しか道がなかったですね。

「親鸞会で聞いてきた話を基準にするので無く、親鸞聖人がどう教えられているかを基準にしよう」

熱心な会員さんが高森会長のその時その時の教え、『なぜ生きる』『こんなことが知りたい』等の著書を絶対の基準としているのに対し、あさ川さんはこのように思われていたというのですから驚きました。でも、そうでもしないと間違いだらけの親鸞会の中にいて信心決定は無理ということでしょう。

まぁとにかくあの縦と横の線の図は頭から消し去ってしまうのが良いです。そして、「横の道を進む教え」「縦の線に向かう教え」「”私が”阿弥陀仏の救いに向かう教え」とは向きが正反対の、「”阿弥陀仏が”私を救う教え」を聞いて頂ければと思います。

阿弥陀仏 ← 私

ではなく、

阿弥陀仏 → 私

です。向きを間違えてはなりません。ようやく親鸞会の邪義から離れて阿弥陀仏に救われようとされている方でさえ「阿弥陀仏 ← 私」となっています。逆なんです。私が救いに向かって進むのではなく、既に私一人に向かって喚びかけられている救いのお言葉を聞き受けるのです。「阿弥陀仏 → 私」という一方的なお助けを仰ぐのです。これだけです。だからこそ淳心房のような者でも平生業成の身になれたのです。そして、どなたでも只今、ここで、このままの自分がお助けに助けられます。安心して下さい、大丈夫ですよ。



今年の親鸞会報恩講でも相変わらず縦と横の線の図は出てきたでしょうが、あの視覚的マインドコントロールが一番いかんと感じる今日この頃です。未だに活動しているであろうかつての仲間達が偲ばれてなりません。まことに宿善まかせとはいいながら、何とかならんもんかなぁ・・・。
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阿弥陀仏から他力の信心を頂いた会員です。

ネットで親鸞会教義非難サイトをたくさん読んでいますが、
「19願(仮)には触れるな、入るな」
という聞き損ないが多いのが残念です。

『観経』の三心をえてのちに、『大経』の三信心をうるを一心をうるとは申すなり。

と表現なされていますが、その結論が

三信かけぬるゆゑにすなはち報土に生れずとなり。雑行雑修して定機・散機の人、他力の信心かけたるゆゑに、多生曠劫をへて他力の一心をえてのちに真実報土に生るべきゆゑに、すなはち生れずといふなり。

>と親鸞聖人は化土往生、つまり19願の自力修善を厳しく誡めておられます。


親鸞聖人は、19願に留まってしまい三信を獲れないことを戒められているのであり、19願をするなとはどこにも書かれていません。
親鸞聖人は、
「雑行雑修して定機・散機の人」(仮)に留まることを戒められているのであり、
「19願(観経の三心)に入るな」
とはどこにも言われていないのです。

三心を具すこと(19願の実践)は他力までの不可欠なプロセスだということは、以下の根拠で明らかです。


至心発願欲生と
十方衆生を方便し(浄土和讃)

福徳蔵を顕説して群生海を誘引し、
阿弥陀如来、本誓願を発してあまねく諸有海を化したまふ。(化土巻)

まず三心を具して必ず往生を得。なんらをか三とする。一つには至誠心。いわゆる、身業にかの仏を礼拝す、口業にかの仏を讃嘆し称揚す、意業にかの仏を専念し観察す。おおよそ三業を起こすに、必ず真実を須いるがゆえに、「至誠心」と名づく、と。乃至 三つには回向発願心。所作の一切の善根、ことごとくみな回して往生を願ず、かるがゆえに「回向発願心」と名づく。この三心を具して必ず生を得るなり。もし一心少けぬればすなわち生を得ず。(化土巻)

念仏もうさんには、三心を具すべし。
ただ名号をとなうることは、たれの人か一念・十念の功をそなえざる。
しかはあれども、往生するものはきわめてまれなり。
これすなわち、三心を具せざるによりてなり。
『観無量寿経』にいわく、「具三心者 必生彼国」といえり。
善導の釈にいわく、「具此三心必得往生也 若少一心即不得生」(往生礼讃)といえり。
三心の中に一心かけぬれば、うまるることをえずという。
よの中に弥陀の名号となうる人おおけれども、往生する人のかたきは、この三心を具せざるゆえなりとこころうべし。
その三心というは、
(中略)
みつには、回向発願というは、なのなかに、その義きこえたり。わしくこれをのぶべからず。
過現三業の善根をめぐらして、極楽にうまれんと願ずるなり。
(唯信鈔)

『観経』の三心は定散二機の心なり、定散二善を回して、『大経』の三信をえんとねがふ方便の深心と至誠心としるべし。
(唯信鈔文意)

定散ともに廻して宝国に入れ、すなわちこれ如来の異の方便なり。韋提はすなわちこれ女人の相、貪瞋具足の凡夫の位なり、(化土巻)

廻してとは、辞書の意味からしても必要な所に差し向けるこであり、
親鸞聖人は定善散善を、
「発願の行と名づく、 また回心の行と名づく、 ゆゑに浄土の雑行と名づく、 これを浄土の方便仮門と名づく、 また浄土の要門と名づくるなり。」
と言われ、
ひそかに 観経の三心
往生を案ずれば、 これすなはち諸機自力各別の三心なり。 大経の三信に帰せしめんがためなり、
諸機を勧誘して三信
に通入せしめんと欲うふなり。
(愚禿鈔)

この要門・仮門より、もろもろの衆生(つまり十方衆生)をすすめこしらへて、本願一乗円融無碍真実功徳大宝海にをしへすすめ入れたまふがゆゑに、よろづの自力の善業をば、方便の門と申すなり。(一念多念証文)

と言われています。
その上で覚如上人は、

三経のなかに、『観経』の至誠・深心等の三心をば、凡夫のおこすところの自力の三心ぞとさだめ、『大経』の所説の至心・信楽・欲生等の三信をば、他力よりさずけらるるところの仏智とわけられたり。
しかるに、「方便より真実へつたい、凡夫発起の三心より、如来利他の信心に通入するぞ」と教えおきまします、祖師親鸞聖人の御釈を拝見せざるにや(覚如上人)

と、三願転入の教えを破壊する者を戒められています。

No title

またまた嘘八百ですね。

簡単なところから。

貴方の理屈なら、
「19願を実践しなさい」
「19願を進みなさい」
と仰った親鸞聖人のお言葉もありませんので、
19願を通る必要はありません。

『観経』の三心をえてのちに、『大経』の三信心をうるを一心をうるとは申すなり。

基本的な知識が不足しているようですが、
『観経』の三心のうち1つでも欠けたら化土往生ということです。
三心の中で一心だけ、或いは二心だけは自力、三心揃って他力ということを仰ったのです。つまり、「『観経』の三心をえて」とは、他力の信心になってということであり、「『大経』の三信心をうるを一心をうる」こととはイコールなのです。他力の信心を『観経』を通して獲ると、それは『大経』の三信心を獲たことになると仰ったものです。

もう少し分かりやすく言うと、

『観経』の三心をえようとしてのちに、『大経』の三信心をうるを一心をうる

ならば、19願を通ってという筋は成り立ちますが、ここは、

『観経』の三心をえて

ですから完全な勘違いです。


至心発願欲生と
十方衆生を方便し(浄土和讃)

この十方衆生についての言い換えが、

臨終現前の願により
 釈迦は諸善をことごとく
 『観経』一部にあらはして
 定散諸機をすすめけり

で、釈尊が諸善を勧めるという方便をされた相手は定散諸機で、逆悪の機ではありません。
つまり善人に、善を勧められたのが『観経』の定散二善の意図。

福徳蔵を顕説して群生海を誘引し、
阿弥陀如来、本誓願を発してあまねく諸有海を化したまふ。(化土巻)

この前に、

しかるに濁世の群萌、穢悪の含識、いまし九十五種の邪道を出でて、半満・権実の法門に入るといへども、真なるものははなはだもつて難く、実なるものははなはだもつて希なり。
偽なるものははなはだもつて多く、虚なるものははなはだもつて滋し。ここをもつて

とあるから、外道から聖道門に入りながらさとりをえることのできない者に対して、『観経』定散二善と19願が説かれたとしか解釈のしようがありません。


廻してとは、自力回向してと翻しての二種の意味があります。

回心にも、自力と他力があります。

一向専修のひとにおいては、回心といふこと、ただひとたびあるべし。その回心は、日ごろ本願他力真宗をしらざるひと、弥陀の智慧をたまはりて、日ごろのこころにては往生かなふべからずとおもひて、もとのこころをひきかへて、本願をたのみまゐらするをこそ、回心とは申し候へ。(歎異抄)

親鸞会ワンパターンの勘違い

この要門・仮門より、もろもろの衆生をすすめこしらへて、本願一乗円融無碍真実功徳大宝海にをしへすすめ入れたまふがゆゑに、よろづの自力の善業をば、方便の門と申すなり。(一念多念証文)

「もろもろの衆生」とは、要門・仮門にいる人のことで、要門・仮門より本願一乗円融無碍真実功徳大宝海に入れと仰ったのであり、要門・仮門に入れではないです。


しかるに、「方便より真実へつたい、凡夫発起の三心より、如来利他の信心に通入するぞ」と教えおきまします、祖師親鸞聖人の御釈を拝見せざるにや(覚如上人)

この後に

まづ能化・所化をたて、自力・他力を対判して、自力をすてて他力に帰し、能化の説をうけて所化は信心を定得するこそ、今師(親鸞)御相承の口伝にはあひかなひはんべれ。

ですから、

「方便より真実へつたい、凡夫発起の三心より、如来利他の信心に通入するぞ」

「まづ能化・所化をたて、自力・他力を対判して、自力をすてて他力に帰し、能化の説をうけて所化は信心を定得する」
とは同じ意味。
簡単に言えば、
自力と他力を比較して、自力を捨てて他力に帰しなさい、
つまり、方便と真実を比較して、方便を捨てて他力に帰しなさい、との意味です。

三願転入の教えを勧める者を戒められています。

>貴方の理屈なら、
「19願を実践しなさい」
「19願を進みなさい」
と仰った親鸞聖人のお言葉もありませんので、
19願を通る必要はありません。


「19願をしてはいけません」というお言葉はありません。
親鸞聖人は仏教を説いているのですから、
19願、六度万行の実践は当たり前なのです。ただ、私たちの行う善では獲信、往生はできませんが。


>至心発願欲生と
十方衆生を方便し(浄土和讃)

この十方衆生についての言い換えが、

臨終現前の願により
 釈迦は諸善をことごとく
 『観経』一部にあらはして
 定散諸機をすすめけり

で、釈尊が諸善を勧めるという方便をされた相手は定散諸機で、逆悪の機ではありません。
つまり善人に、善を勧められたのが『観経』の定散二善の意図。


つまり、あなたは(退会者)は生まれつき善人ではないから善をする必要はないということですか?
ところで親鸞会を非難している人や退会者は善人なのでしょうか?悪人なのでしょうか?何品何生なのでしょうか?


>福徳蔵を顕説して群生海を誘引し、
阿弥陀如来、本誓願を発してあまねく諸有海を化したまふ。(化土巻)

この前に、

しかるに濁世の群萌、穢悪の含識、いまし九十五種の邪道を出でて、半満・権実の法門に入るといへども、真なるものははなはだもつて難く、実なるものははなはだもつて希なり。
偽なるものははなはだもつて多く、虚なるものははなはだもつて滋し。ここをもつて

とあるから、外道から聖道門に入りながらさとりをえることのできない者に対して、『観経』定散二善と19願が説かれたとしか解釈のしようがありません。


「外道から聖道門に入りながらさとりをえることのできない者に対して、『観経』定散二善と19願が説かれた」
なら、
「福徳蔵を顕説して偽なるもの虚なるものを誘引し、
阿弥陀如来、本誓願を発して偽なるもの、虚なるものを化したまふ。」
と説かれるはず。
後、外道から聖道門に入りながらのこの「聖道門」とは釈迦の説かれた自力仏教であるから、
釈迦が地球に現れて教えを説いてから偽なるもの、虚なるもの(聖道門の人)は現れました。
あなたの理屈なら、聖道門がいなければ19願は存在しないことになりますが、
しかし、実際には19願が先にありましたから、
聖道門のために19願が説かれたは全くの間違いです。


>「方便より真実へつたい、凡夫発起の三心より、如来利他の信心に通入するぞ」

「まづ能化・所化をたて、自力・他力を対判して、自力をすてて他力に帰し、能化の説をうけて所化は信心を定得する」
とは同じ意味。
簡単に言えば、
自力と他力を比較して、自力を捨てて他力に帰しなさい、
つまり、方便と真実を比較して、方便を捨てて他力に帰しなさい、との意味です。


他力に入ると同時に方便は廃る(捨てる)のですが、
あなたは、自分の頭で方便(19、20願)と真実(18願)を比較して方便を捨てて真実に入ったことはできたのでしょうか?
真実(他力)に入る前は方便(自力)ではなかったのではないですか?

>この前に、

しかるに濁世の群萌、穢悪の含識、いまし九十五種の邪道を出でて、半満・権実の法門に入るといへども、真なるものははなはだもつて難く、実なるものははなはだもつて希なり。
偽なるものははなはだもつて多く、虚なるものははなはだもつて滋し。ここをもつて

とあるから、外道から聖道門に入りながらさとりをえることのできない者に対して、『観経』定散二善と19願が説かれたとしか解釈のしようがありません。


「外道から聖道門に入りながらさとりをえることのできない者に対して、『観経』定散二善と19願が説かれた」
なら、
「福徳蔵を顕説して偽なるもの虚なるものを誘引し、
阿弥陀如来、本誓願を発して偽なるもの、虚なるものを化したまふ。」
と説かれるはず。
後、外道から聖道門に入りながらのこの「聖道門」とは釈迦の説かれた自力仏教であるから、
釈迦が地球に現れて教えを説いてから偽なるもの、虚なるもの(聖道門の人)は現れました。
あなたの理屈なら、聖道門がいなければ19願は存在しないことになりますが、
しかし、実際には19願が先にありましたから、
聖道門のために19願が説かれたは全くの間違いです。


少し訂正しますと、

「聖道門に行き詰まった人だけに19願が説かれた」
は間違いということです。

恩徳讃

淳心房様に教えていただき信心決定し、念仏を喜んでおります。ありがとうございます。
ところで親鸞聖人は、この身に救われたことのご恩で、師主知識のご恩を述べられていますが、比叡山で自力の仏教を教えてもらった師匠に対するご恩はこの師主知識のご恩の中に入っているのでしょうか。
それとも比叡山時代の師匠に対しては逆に非難されているのでしょうか。よろしくお願いします。

No title

>「19願をしてはいけません」というお言葉はありません。

「19願をしなさい」というお言葉はありません。

鈍いですね。貴方の理論で、貴方の理屈が覆される訳ですよ。

何度でも書きますが、
「19願をしなさい」というお言葉はありません。

ないのにどうして親鸞聖人が19願をしなさいと教えられたいう理屈になるのですか?

>親鸞聖人は仏教を説いているのですから、
>19願、六度万行の実践は当たり前なのです。ただ、私たちの行う善では獲信、往生はできませんが。

親鸞聖人は本願力回向を教えられました。 法蔵菩薩が六度万行の実践をされたので、私たちが六度万行の実践は不要だと教えられたのです。
大乗仏教で回向とは、他因自果のことですよ。

>つまり、あなたは(退会者)は生まれつき善人ではないから善をする必要はないということですか?

少なくとも六度万行の実践ができるような善人ではありません。
六度万行の実践ができない人に六度万行の実践を勧めることは『観経』にはありません。

>ところで親鸞会を非難している人や退会者は善人なのでしょうか?悪人なのでしょうか?何品何生なのでしょうか?

七高僧は何品何生と御自身のことを仰っていますか?
親鸞聖人は何品何生と御自身のことを仰っていますか?
覚如上人は何品何生と御自身のことを仰っていますか?
蓮如上人は何品何生と御自身のことを仰っていますか?

仰っていません。私ごときものが何品何生と言える筈もないです。

>あなたの理屈なら、聖道門がいなければ19願は存在しないことになりますが、
>しかし、実際には19願が先にありましたから、
>聖道門のために19願が説かれたは全くの間違いです。

法蔵菩薩は聖道門の御修行をなされました。つまり、19願の先に聖道門がありました。
法蔵菩薩の時代 聖道門が先にあった
法蔵菩薩の成仏 19願が成就した
釈尊の時代 聖道門が先にあった
釈尊の時代 19願を後に説かれた

簡単ですね。

>他力に入ると同時に方便は廃る(捨てる)のですが、

そんな奇妙な教えはどこに説かれていますか?
親鸞聖人の御文でお示しください。

>あなたは、自分の頭で方便(19、20願)と真実(18願)を比較して方便を捨てて真実に入ったことはできたのでしょうか?

できましたが何か?

>真実(他力)に入る前は方便(自力)ではなかったのではないですか?

親鸞会というヘンテコな教えに迷っていましたが、親鸞会を捨ててからの方便はありません。
問題の自力は自力念仏であって、自力諸善は親鸞会退会と同時に捨ててます。

No title

親鸞会も認めている以下の獲信者の中で、三願転入した、あるいは三願転入しなければならないと仰った方を教えてください。19願が必要だと仰った方でも結構です。

韋提希
アジャセ
龍樹菩薩
天親菩薩
曇鸞大師
道綽禅師
善導大師
源信僧都
法然上人
聖覚法印
耳四郎
熊谷次郎直実
日野左衛門
弁円
覚如上人
蓮如上人
庄松
おかる

韋提希
アジャセ
龍樹菩薩
天親菩薩
曇鸞大師
道綽禅師
善導大師
源信僧都
法然上人
聖覚法印
耳四郎
熊谷次郎直実
日野左衛門
弁円
覚如上人
蓮如上人
庄松
おかる


真実信心獲得した人は、皆三願転入しています。
獲信すれば、真仮の違いが知らされ、19願、20願は私にとって不可欠な方便だったと知らされます。
この中で三願転入してはいけません、19願、20願をしてはいけません、しませんでしたと仰った方を教えて下さい。

No title

>真実信心獲得した人は、皆三願転入しています。
>獲信すれば、真仮の違いが知らされ、19願、20願は私にとって不可欠な方便だったと知らされます。

このように仰った方は、ないと言うことで決定です。

ないと言うことは、三願転入自体、知る必要もないということは、小学生以上の知恵があればわかりますよね。

小学生以上の知恵があればですが。

>この中で三願転入してはいけません、19願、20願をしてはいけません、しませんでしたと仰った方を教えて下さい。

つまり、三願転入なんか問題にもされていないということです。
問題にもされていないのに、言及する必要はないですよね。
小学生以上の知恵があればわかります。
あくまで小学生以上の知恵があればですがね。

No title

次に親鸞聖人の仰せについて。

三願転入は『教行信証』にのみ記されています。
『教行信証』をまとめられた『浄土文類聚鈔』には三願転入はありません。19願のこともありません。
一字一涙の思いで記された『正信偈』にも三願転入はありません。
親鸞聖人が同行に宛てられたお手紙はたくさん残っていますが、三願転入について書かれたお手紙はありませんし、同行から親鸞聖人に宛てた手紙にも三願転入に関することはありません。
親鸞聖人が読むように勧められた書は、『唯信鈔』『後世物語聞書』『一念多念事』ですが、これらには三願転入はありません。

つまり、親鸞聖人のおられた時代でさえも、三願転入について知っているお弟子、同行は数えるほどしかいなかったということです。
『教行信証』を読めるお弟子は僅かですから。同行は『教行信証』を読んでいません。

覚如上人は三願転入の文を引用されて説明されたことはありません。
蓮如上人も三願転入の文を引用されて説明されたことはありません。

つまり、覚如上人の時代、蓮如上人の時代でも、『教行信証』を読んでいるほんの一握りの人以外、三願転入自体を知りません。

以上から、三願転入は知る必要がないと、親鸞聖人、覚如上人、蓮如上人は判断されていた。
言うまでもなく、七高僧方は、三願転入の概念自体お持ちでなかった。

小学生でも分かる話です。

もちろん小学生並の知能があればですが。

No title

ひろちゃん様

恩徳讃の元になった『唯信抄』のお言葉があります。

「倩思教授恩徳実等弥陀悲願者」といふは、師主のをしへをおもふに、弥陀の悲願に等しとなり、 大師聖人(源空)の御をしへの恩おもくふかきことをおもひしるべしとなり。 「粉骨可報之摧身可謝之」といふは、大師聖人の御をしへの恩徳のおもきことをしりて、骨を粉にしても報ずべしとなり、身を摧きても恩徳を報ふべしとなり。

師主知識の恩とは、法然聖人のご恩のことを仰ったものと拝されます。

コメント返信

随分を多くのコメントを頂いておりました。全て目を通させて頂きました。


阿弥陀仏から他力の信心を頂いた会員(自力から他力へ)様

他力の信心を頂いておられるなら何よりです。阿弥陀仏の救いに、親鸞会に属しているとかいないとかいった隔てはありませんからね。ただ、親鸞会流三願転入の教えを正しいと信じ擁護する立場のようですので、そこはいただけません。
随分と多くの御文を並べられているようですが、まずは親鸞聖人が「他力の信心を獲るために19願の実践をせよ、定散二善をせよ」と仰った明確な根拠をご提示下さい。そうすれば貴方の仰ることにも正当性が出てきます。
『三心を具すこと(19願の実践)は他力までの不可欠なプロセス』(三心を具す≠19願の実践ですが)と断言していますが、その不可欠なプロセスを通らずして救われることを示しているのが『観無量寿経』下三品の往生と、アジャセの獲信、また貴方が先生と仰いでいる高森顕徹会長の獲信の記録です。


三願転入不要様

素早くて的確な返しに驚いています。ありがとうございます。


ひろちゃん様、いつもの元会員様

ひろちゃんの質問へは既にいつもの元会員さんがお答え下さったようですね。
直接的には法然聖人への御恩、また七高僧方への御恩とも言えるでしょうが、比叡山時代の師匠方に関しましては味わいの域になりますね。

恩徳讃

淳心房様、いつもの元会員様、恩徳讃についてお答え下さり、ありがとうございました。
私は最後は淳心房様のお導きにより信心決定させていただき、淳心房様に深いご恩を感じておりますが、世間まみれだった私に、信心決定することがいかに大切かを教えてくれましたのは、親鸞会でした。その親鸞会の高森先生にはご恩を感じる必要はないのでしょうか。
味わいの領域だとのことですが、淳心房様はどのように味わっておられますでしょうか。
すみませんが、この点についても教えていただけないでしょうか。

Re: ひろちゃん様

> 私は最後は淳心房様のお導きにより信心決定させていただき、淳心房様に深いご恩を感じておりますが、

何とも恐れ多いことです。私達は共に御同朋・御同行ですから('∀')



>世間まみれだった私に、信心決定することがいかに大切かを教えてくれましたのは、親鸞会でした。その親鸞会の高森先生にはご恩を感じる必要はないのでしょうか。

私も、高森会長や声をかけてくれた先輩方がいなければ親鸞聖人の教えを知りませんでしたし、聞こうともしなかったでしょう。ですから、私に親鸞聖人の教えを知らせてくれたという一点においては親鸞会に感謝しています。恩を感じる感じないは人それぞれですから、ひろちゃんが親鸞会や高森会長に対して恩を感じるのであればそれはそれでよいと思います。

ただ私はそれよりも間違った教えを聞かされてきたこと、今も間違った教えを説いて現会員や今後勧誘されるであろう人々を騙し続けていることに深い失望と憤りを感じるので、教義批判を続けています。『飛雲』や『親鸞会を脱会した人(したい人)へ』、『親鸞会教義の誤り』、また当ブログをご覧になればお分かりかと思いますが、親鸞会は一切衆生必堕無間を説いて会員に地獄の恐怖を植え付け、善の勧めと称して会員を組織拡大要員として利用・搾取し、無条件服従を強いて会長や上司の指示に無条件に従わなければ助からないかのように教えています。こればかりは見過ごすことはできません。阿弥陀仏や親鸞聖人に深い御恩を感じるほど、教えを捻じ曲げる者は許せないのです。この点もご理解頂ければと思います。
プロフィール

淳心房&しゃあ

Author:淳心房&しゃあ
(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


(しゃあ)
平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
singikensho@yahoo.co.jp
(スパム防止のため@を大文字にしてあります。メール送信時は小文字に変えて下さい。)

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