退会して7年を振り返る ― 決して幸せにならない教えに彷徨(まよ)って

早いもので、既に私が親鸞会を退会して7年が経過しました。日々の苦労は絶えませんが、本願を信じ念仏するようになったこと、親鸞会での無駄な苦労が無くなったことは何にも代えがたい幸福です。親鸞会教義の誤りに気づくことができて本当に良かったです。

さて、今回は会員だった頃を振り返って今思うことを書きます。かつての自分を含めて会員の皆さんの高森会長および親鸞会への思いというのは、ある意味で恋に似ているように感じます。一度正しいと信じ込むと、例えば教義や組織について非難があった時、脳内は

そんなはずはない、あなたは誤解している、あなたに親鸞会の何が分かるというんだ

という思考になると思います。これは、心底好きな異性の悪口を聞いた時に、

そんなはずはない、あなたは誤解している、あなたに彼(彼女)の何が分かるというんだ

という思考になるのと似ています。そして、

親鸞会や高森会長を擁護しよう、何とかして相手の説を破ろう

という気持ちが先行して非難を聞きますから、その内容はほとんど会員には刺さっていません。私も、ご縁の浅い人が親鸞会の教えに対して非難めいたことを言ってきた時はこんな思考で苦々しく思っていたものです。

こちら(親鸞会批判者)が根拠を示して、「このように親鸞聖人は教えられている、このような教えは親鸞聖人にはない」と理論的に説明しても受け入れないのは、恋は麻薬、恋は盲目と言われるように、もはや感覚が麻痺していて、今まで自分が信じて拠り所としてきた教えだからと盲目的に信じているからでしょう。また、今さら間違っていると言われても困るという思いもあるかと。正確には、いわゆる人間の実相部分の話が正しいと思えることをもって、親鸞会教義全体を正しいと盲目的に信じているとでも言いましょうか。あるいは、親鸞会製作ビデオや講師・先輩などから高森会長の苦労話を見聞きして、

こんなにも苦労して真実開顕に邁進しておられる高森先生なのだから私達を騙すはずがない

と勝手に妄想・盲信しているとも考えられます。

そして、あさ川進さんとやり取りしている中で、「一方的な恋であり、相手はそれほど思っていない」という点もそうだなぁと思いました。実際は結婚詐欺師と同じで、それほどどころか利用することしか思っていないというのが現実でしょうが。


ところが、ふとしたきっかけで高森信心、親鸞会信心という砂の城は壊れてしまうものです。腑に落ちないことがいくつも重なり、それがやがて一本の線でつながった時、それまで唯一絶対にして真実の宗教、全人類の救われるただ一本の道だと固く信じて疑わなかった教えが、他人の剽窃によるデタラメ創作寄せ集め教義だったという衝撃に茫然自失してしまいます。

Flower「他の誰かより悲しい恋をしただけ」の歌詞に次のような一節があります。

突然 砂の城は壊れてしまうものなの
愛してた…決して幸せにならない恋に彷徨(まよ)って
終わりがあることを見ようともせずに
あなたを想い続ける理由を
噓つき…ウソツキ… 捜していた
他の誰かより悲しい恋をしただけ
そんなふうに思い込んで忘れるわ
もうだめよだめ もう終わりにしましょう
私たち永遠に…Forbidden love Forbidden love


妻子ある男との不倫関係の終わりを歌っているような歌詞です。それになぞらえて、退会後の自分の親鸞会・高森会長に対する気持ちを書いてみました。

突然 砂の城は壊れてしまうものなの
信じてた…決して幸せにならない教えに彷徨(まよ)って
終わりがある生を見ようともせずに
あなたの会に居続ける理由を
噓つき…ウソツキ… 捜していた
他の誰かより悲しい経験をしただけ
そんなふうに思い込んで忘れるわ
もうだめよだめ もう終わりにしましょう
私たち永遠に…Unrelated Unrelated


あ、言っておきますが決して僕はゲイでもオカマでも老人フェチでもありませんよ、念の為。正直に言う…俺も水着は好きだ!!(笑)。最近の芸能人で言えば広瀬すずちゃんや橋本環奈ちゃんが好きだ!!(爆)

・・・上の歌、歌詞については

他の誰かより悲しい恋をしただけ
他の誰かより悲しい恋をしただけ 歌詞

からどうぞ。ちなみに歌は2分過ぎから始まりますので待てない人はそこまで飛んで視聴下さい。


「求めても苦しいだけ。先輩や講師部員に悩みを打ち明けても、

あなたがそう思うのは、それだけ横の道を進んでいるからだよ

という慰めがあるだけで救いはない。そして「もっと光に向かって進ませて頂きましょう」と励まされるだけ。自分も悩みを打ち明けてきた後輩にそう話していましたが、そう言っていて自分でもしっくりきていませんでした。

終わりのない求道。完成の無い道。それでも求め切らねば後生は一大事だからなぁ・・・。

決して幸せにならない教えに彷徨って、それでも一縷の望みをかけていました。必ず終わりが来る生を見ようともせずに、親鸞会流「三願転入の教え」に従って、19願の実践をしようとしていました。苦しみの中で、親鸞会に居て求め続ける理由を嘘つき、ウソツキ、探していた気がします。今でも、騙されていたという憤りを感じることはあります。でも、他の誰かより悲しい経験をしただけだと思い込んで忘れます。高森会長とは二度と会うことはないでしょう。私達は決して意見が一致することはない、永遠に無関係です。」

この歌を聞いて、そんなことを思ったので、退会後7年ということもあって記事にしてみました。もし会員の皆さんでこの記事をご覧になり、親鸞会という組織・教義に疑問に感じている方は、ぜひとも教義の真偽検証を行って頂きたいと思います。そして、本願を信じ念仏する御同行が一人でも現れてくれたらと願うばかりです。
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修造先輩が出てきたという事は

俺がコメしてもいいって事ですよね(違

退会時期、多分俺もその頃でしたね。記事の内容、よくわかります。俺も昔、母親に「一直線になってる。視野が狭い」と言われて反発した事があります。今となってはその通りでした。

プライバシーもあるので詳しく書けませんが、未だに会におられる方とちょっと前にメールしたところ、最近は特に活動が激しくなって、一時期精神のバランスを崩してしまわれたそうです。その方は優しく真面目な方なので、退会者ブログはみていないでしょうが、いつかネットなどで間違いに気づいてほしいです。

会員時代を思い出すと、心に余裕がなかったからほとんど笑った記憶がないですが、笑いって大事だと思うんですよね。
最近笑った漫画は、江戸パインの「社畜!修羅コーサク」で、それに出てくるファク山さんが好きですね。なんのことかさっぱりでしょうが、気が向かれたら是非w

そして全ての有情がお念仏喜んで、皆が心から笑える日が来たら最高だと思います。

南無阿弥陀仏

勝手に恋していました

コメントを失礼致します。

退会して2年になる元親鸞会員です。
退会者に笑われましたが、32年間在籍しました。

私も、親鸞会の教義や言っていることとやっていることの違いなど、腑に落ちないことがいくつも重なり、それがやがて一本の線でつながった時に親鸞会信心という砂の城が壊れました。

親鸞聖人は、仏願の生起本末を聞きなさいと仰いました。
仏願の生起本末を聞かせて頂こうと支部のテレビ聴聞会場まで100km以上の距離を何度も通いました。
演題は「仏教の本から末へ」で、内容は因果の道理でした。

仏願の生起本末を聞きに来て、仏教の本から末へ???。
似ているけど、違う。
今日の話のどこが仏願の生起本末だったのだろうと振り返り、
因果の道理を否定したり、粗末にしてはいけないと自分に言い聞かせながら何度も帰路につきました。

自分の心が求めると今まで見えなかったものが見え、聞こえなかった聞こえる。
これを引き寄せの法則というと聞いたことがあります。
インターネットの情報をとり、親鸞会以外の書籍を読むようになり、
ふとした縁で大阪の稲城選恵和上の動画を観た時に、
「この和上の教えは正しい。」と衝撃が走りました。

そこから私の真偽検証に拍車がかかりました。

それまでは、本願寺は葬式仏教、法事仏教で衰退し真実を説いていないと聞かされ、親鸞会が正しいと信じて疑わず、本願寺に座り込みにも行きました。
白道燃ゆや本願寺なぜ答えぬを戸別訪問して頒布もしました。

とんでもない間違いでした。

でも、「悪いのは俺のせいだ」と思っています。
後生ほどの大事を自分で調べることをしてきませんでした。

2、3度本願寺の門をくぐったこともあります。
「へ~ぇ、ご法話があるんだ。聞いてみたい。」と思いましたが、
押せば3歳の子供でも開く軽い扉が2度3度試みても自分で手を引っ込めるので押せませんでした。
何度も扉の前に立つ私を誰かが見たら不振に思うだろうと臆病になり、
「どうせ葬式仏教、法事仏教の話さ。」とイソップ寓話のキツネとブドウのキツネが捨て台詞を残して去るようにその場を立ち去りました。

その頃の自分を振り返れば、
「親鸞会を辞めたら行くところがない。」
「地獄必定と説く後生の一大事があきらめきれない。」
「親鸞会につながっていれば、そのうち突然一念でなんとかなるかもしれない。」
「親鸞会を辞めたら生きてもいけない、死ぬこともできない。」
本音ではそう思っていました。

私は、高森顕徹会長に恋をしていたのかもしれません。

30年数前、まだ仏教を聞き始めて間もない頃に滋賀県の彦根会館でご法話がありました。その晩は会館に宿泊させてもらうことになり、夕食を終え、同行した10数人の会員と会館の後方でくつろいでいました。
すると突然高森会長が現れ、柱にもたれながらその場に座り、
「今日の話はどうでしたか?わかりましたか?わかりにくいところはありませんでしたか?」と尋ねてきました。
わずか2mの距離です。
その時に見た高森会長の瞳は、純粋に見えました。
「この先生に嘘はない。」
私は勝手にそう思い、恋をしました。

その後、末端会員である私が高森会長に近づく縁はありませんでした。

「高森会長は私らのことをそれ程大切に思っていないかもしれない。」
そういう思いがわいてきたのは、くしくも支部会館の落慶法要に高森会長が来た時でした。
恋をしたのも直感、恋が破れたのも直感です。


私は、お念仏をよろこんでいます。
いつでも、どこにいても、この瞬間が有り難いです。

南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏


この文章を読んでいるあなたが現役会員さんだったら、
あなたにお伝えしたいことは、
あなたの後生はあなたが負わなければなりません。
正しい仏教を、自分の目で確かめ、自分の耳で聞き、自分で調べた方がよい
ということです。

実行したことがありますか?


ただのただもいらないただとはこのことだったのか。
阿弥陀さまに後生の心配をとって頂くとこんなに楽なのか。
煩悩具足のまま何一つ変わりません。
往生の証拠は、私のビックリするような体験ではなく、南無阿弥陀仏です。

かつては、「いま死んだら困る。いま死んだら困る。」と思っていました。
今は、「いつ死んでも、いま死んでも困りません。」

人間に生まれてきて本当に良かった。
お父さんお母さんありがとうと初めて思えました。

これまで縁のあった人、お世話になった人に感謝し、
いじめられたこと、奪われたこと、泣いたこと、傷ついたことなど、
今までは、何度も思い返して、悔しかったり、恨んだりしたことに対しても、
「ああ、あのことがなかったら仏教は聞けなかった。」
と感謝の念が湧いてきます。


ここまで読んで頂きありがとうございます。
コメントを書かせて頂きありがとうございます。

南無阿弥陀仏














コメント返信

R1000様

いやぁ、コメントはいつでもどうぞ!(^^)!

俺も母親に同じことを言われました(笑) 今は阿弥陀さまの仰せを一直線に聞き受けていますがね♪ 視野は昔が狭すぎたからアレですけど、随分と広がったとは思います。

残っている会員の皆さん一人一人の負担がますます大きくなっているようですね。私としては何もできませんが、早く気がついてほしいです。

少し画像を見ましたが、面白そうですね。ファク山さんイケメン(笑)
人生笑いは必要です。私は会員時代は全く笑いは無かったかというとそうではありませんでしたが、やはり苦しかった思い出が多くて、今ほど笑えていなかったと思います。

私も、かつての仲間と念仏を喜び合いたいです。なんまんだぶなんまんだぶ



バットマン様

32年も続けてらしたのですか・・・その間の苦労はとても一言二言では語り尽くせませんね。ただ、本願を信じ念仏を喜ばれるようになったとのことで、そこが救いと言いましょうか。ひどい人は一生涯親鸞会の活動で終わってしまいますからね・・・

私はバットマンさんのように直接話しかけられたこともなく、「井戸のぞく 子を呼ぶ親は 命がけ」とだけ書かれたハガキを一枚もらった程度です。でも、講師部や先輩の話、親鸞会製作ビデオ、著書などを真に受けて勝手に蓮如上人以来の善知識だと信じ込んでしまいました。もし当時の高森会長と目が合ったら、自分も「この方だ!」と思ってしまったかも知れません。

ただ、やはり気づく人は気づくと言いますか、後生の解決、今の救いを求めている人は、一向に解決の糸口すら掴めないことに疑問を感じるものです。しかし、仰るように親鸞会以外に居場所がないとか、親鸞会を離れてどこへ行こう、後生の解決はどうするんだという不安もあるので、中々外へ出ようと決心がつかないものです。私も最初は不安だらけでした。

それでもお互い、親鸞会を離れて本願の救いに遇うことができて、本当に良かったですね。南無阿弥陀仏のまことの御法を頂き、往生はひとえに阿弥陀さまにおまかせし、いつどこにいてもこのままの私一人を救うぞの仰せが常に届いて、このような私を浄土へ引き導いて下さる本願がたのもしくまたかたじけないです。未だ信じ込んでいる会員の皆さんも、早く気付いて、私一人を救う本願を聞いて頂きたいですね。なんまんだぶなんまんだぶ

>終わりのない求道。完成の無い道。それでも求め切らねば後生は一大事だからなぁ・・・。

>決して幸せにならない教えに彷徨って、それでも一縷の望みをかけていました。必ず終わりが来る生を見ようともせずに、親鸞会流「三願転入の教え」に従って、19願の実践をしようとしていました。苦しみの中で、親鸞会に居て求め続ける理由を嘘つき、ウソツキ、探していた気がします。今でも、騙されていたという憤りを感じることはあります。でも、他の誰かより悲しい経験をしただけだと思い込んで忘れます。高森会長とは二度と会うことはないでしょう。私達は決して意見が一致することはない、永遠に無関係です。」


以前コメントした者です。
私は親鸞会に所属して高森先生から阿弥陀仏の本願をお聞き、本願に救い摂られました。
「機」と「法」の二つのことに疑い晴れて無上の幸せ者です。

一つには決定して、「自身は、現にこれ罪悪生死の凡夫、曠劫より已来常に没し常に流転して、出離の縁有る事無し」と深信す(機の深信)

二つには決定して、「彼の阿弥陀仏四十八願をもって衆生を摂受したまうこと、疑無く慮無く彼の願力に乗ずれば、定んで往生を得」と、深信す
(法の深信)

真実信心か否かの判定基準は、
二種深信(金剛心)が立ったかどうかです。
念仏はそのお礼です。
自力が廃るまでの道程が19願、20願の方便願です。
親鸞聖人は、「定散二善を修することなかれ」と仰っていませんし、
それどころか「往生浄土の方便の善とならぬはなかりけり」とか「浄土の要門」と仰っています。

親鸞会にいたがなかなか信心獲得できず、もしくは人間ですから会の中で何か人間関係等で面白くないことがあり、不審や疑いが強くなってインターネットの誹謗サイトを見て、騙されていたと思い込んでしまい、親鸞会や高森先生に恨みを持ち感情的に記事を書いているのだと思います。
退会者の記事は、
「何年も求めてきたが時間、お金、体力の無駄だった」と恨み辛みの元に書かれた内容の記事が多く感情的で愚痴ばかりで腹いせに書いてるようなものが多いです。
本当に信心獲得(多生の目的達成)したならば、
親鸞会に対する恨みどころか、
「親鸞会が無ければ親鸞聖人の教えを学ぶような私ではなかった。親鸞会も不可欠な方便だった」
と感謝の気持ちも出てくると思うのですが。

>この文章を読んでいるあなたが現役会員さんだったら、
あなたにお伝えしたいことは、
あなたの後生はあなたが負わなければなりません。
正しい仏教を、自分の目で確かめ、自分の耳で聞き、自分で調べた方がよい
ということです。

>実行したことがありますか?

はい、実行し聞き求めた結果、善知識は高森先生で間違いないです。
なぜなら、阿弥陀仏のお計らいで親鸞会に御縁があり後生の一大事を解決できたからです。

Re: 自力から他力へ様

結局あなたの体験ばかりで根拠はなしですか。華光会や退会者を「体験至上主義」だとか非難しているのに、自分のこととなるとさっぱりわからなくなってしまうようですね。それで、

親鸞聖人が「他力の信心を獲るために19願を実践せよ、定散二善をせよ」と仰った直接的な根拠

は? これが示されない限りあなたがいくら尤もらしいことを言っても浄土真宗ではありません。浄土の要門とは言葉を換えれば浄土の雑行ということです。親鸞聖人の教えに雑行の勧めはありません。雑行を勧めていてよく浄土真宗などと言えますね。浄土新種じゃないですか?

>結局あなたの体験ばかりで根拠はなしですか。華光会や退会者を「体験至上主義」だとか非難しているのに、自分のこととなるとさっぱりわからなくなってしまうようですね。


一つには決定して、「自身は、現にこれ罪悪生死の凡夫、曠劫より已来常に没し常に流転して、出離の縁有る事無し」と深信す(機の深信)
二つには決定して、「彼の阿弥陀仏四十八願をもって衆生を摂受したまうこと、疑無く慮無く彼の願力に乗ずれば、定んで往生を得」と、深信す
(法の深信)

二種深信は、信心獲得すれば阿弥陀仏のお力によってすべての人が一味平等に知らされることですが。


>親鸞聖人が「他力の信心を獲るために19願を実践せよ、定散二善をせよ」と仰った直接的な根拠


「雑行」とは、私たちの行う善を阿弥陀仏の救いに役立てようとしている諸善万行。
阿弥陀仏の救いに役立てようとする心を「自力の心」といい、「雑行」とは、自力の心でする諸善万行。
ではなぜ、諸善を雑行といって嫌い、捨てよといわれるのかといいますと、
それらの諸善をしている私たちの心が、恐ろしい自力の心だからです。
 だから自力の心でやっている諸善万行を、「雑行」と嫌われ、捨てよと教えられるのです。
お分かりのように、
雑行は、その体は決して悪いものではないのですが、悪い自力の心でするから、雑行・雑修と嫌われ捨てよといわれるのです。
 雑行を捨てよとは、あくまでも「自力の心」を捨てよということなのです。
他力になるまでは、自力です。他力までの道程が自力(弥陀の本願を疑う心)ですから、自力は不可欠なプロセスです。
「身・口・意の乱心を繕い、めでとうしなして浄土へ往生せんと思うを自力と申すなり。」(末灯鈔)

本師本仏の阿弥陀仏は、十方衆生(すべての人)を真実の十八願まで導くのに、五劫(幾億兆年よりも永い期間)に思惟なされて、十九、二十の方便願を建てられた。その十九の願意を、弟子の釈迦が一代かけて開説されたのが仏教であり、廃悪修善の教えです。
その釈迦の教えを、
「更に親鸞珍らしき法をも弘めず、
 如来の教法をわれも信じ人にも教え聞かしむるばかりなり」(御文章)
ですから、
親鸞聖人の教えが廃悪修善の教えであるのは当然です。
ですから、聴聞できない時は、18願を目指して19願を実行することが宿善になるので善を勧めます。
悪を勧めているのではなく善を勧めているのですから良いではないですか。

そんなに善をするのが嫌なら、親鸞聖人が、
「定散二善を修することなかれ」と仰った直接的な根拠を出して下さい。

自力から他力へ様へ

あなた様は高森会長と同じ 信心 ということなのでしょうか?

もし良ければ阿弥陀様の「声無き声」 を
どのように聞かれたかお聞かせ下さい。

Re: 自力から他力へ様

全く話になりませんね。

>はい、実行し聞き求めた結果、善知識は高森先生で間違いないです。
>なぜなら、阿弥陀仏のお計らいで親鸞会に御縁があり後生の一大事を解決できたからです。

こんなことを書いてくるところが体験至上主義だと言っているのですよ。お判り?


しかるに常没の凡愚、定心修しがたし、息慮凝心のゆゑに。散心行じがたし、廃悪修善のゆゑに。ここをもつて立相住心なほ成じがたきがゆゑに、「たとひ千年の寿を尽すとも、法眼いまだかつて開けず」(定善義)といへり。いかにいはんや無相離念まことに獲がたし。ゆゑに、「如来はるかに末代罪濁の凡夫を知ろしめして、相を立て心を住すとも、なほ得ることあたはじと。いかにいはんや、相を離れて事を求めば、術通なき人の空に居て舎を立てんがごときなり」(同)といへり。

しかし、はかり知れない昔から迷い続けてきた愚かな凡夫は、定善の行を修めることができない。心を乱さず思いを一つに集中して浄土の相を観ずる行だからである。散善の行も修めることができない。悪い行いをやめて善い行いをすることだからである。このようなわけで、仏や浄土の相を観じて思いを一つに集中することさえできないのだから、『観経疏』には、「たとえ千年という長い寿命を費やしても、真実を見る智慧の眼が開かない」(散善義)といわれている。ましてすべての相を離れ、真如法性をそのまま観ずることなど決してできない。だから、『観経疏』には、「釈尊は、はるかに遠く、末法の世の煩悩に汚れた衆生のことを、仏や浄土の相を観じて思いを一つに集中することなどできないと見通しておられる。ましてすべての相を離れて真如法性を観じようとするなら、それは、神通力のないものが空中に家を建てようとするようなものであり、決してできるはずがない」(定善義)といわれている。

親鸞聖人ができないと仰っている定善散善を実行したとか言っている貴方は一体何者ですか? 親鸞会で勧められる善もどきの善をやった位で19願の善や定散二善を行じたつもりになっているのですからおめでたいですね。


逆質問には応じません。

親鸞聖人が「他力の信心を獲るために19願を実践せよ、定散二善をせよ」と仰った直接的な根拠

を出してこない限り貴方の主張は通りません。以後のコメントは荒らしと判断し削除します。

No title

雑行は、その体が悪いの。
自力から他力と言いたいのなら、念仏。

体が良いのは、念仏のみ。
悪い心掛けを捨てよとは、自力念仏についてのみ適用されるもの。

つまり、雑行は、体も心掛けも共に悪いから捨てよ。

この単純明快な理屈が分からない愚か者が、妄想コメントを書いたところで、親鸞聖人の教えとは、接点さえ見出せないのです。

管理人のみ閲覧できます

このコメントは管理人のみ閲覧できます

Re: 秘密コメント様

私も、「法」と言っていいのか分かりませんが「法」に恋していた口です。親鸞会で説かれる機の部分の話が真実であると思ったから、そして死の問題を解決せねば本当の幸せにはなれないと思ったから、入会して求めていました。親鸞会を非難する人を当時苦々しく思っていたのも、人生の実態と末路を真面目に考えずに教えをまともに受け取らないことに対する思いからです。

一方で、真実と思える機の部分の話をする高森会長を正しい教えを説かれる方、私達の後生を案じて導いて下さるお方と信じていました。ただウェートとしては、高森会長という人物より、説かれる内容を重視していました。

ですから、主に救いの法の部分に関する教えが間違いだったということを知らされた時は、親鸞会教義という教え、高森顕徹会長という人物の両方への恋が冷めました。

確かに人物重視の人は、高森会長が他人の著書を剽窃していたとか、莫大な金額を私利私欲のために費やしていたとか、そのようなことを知らされたら一気に恋が冷めてしまうと思います。

ただ書いていて思ったのですが、「自分が正しいと判断してずっと求めてきた教えだから」と、自分自身の考えやそれまでの人生に恋しているのもあります。そっちの恋が重い人は、自分自身への恋が冷めないと辞めないでしょう。

高森会長が亡くなったら、人物重視の人の多くは辞めていくでしょう。でも、確信犯、自分重視の人、居場所がない人、今救われないことに不安も疑問も感じない人などは残ると思われます。
プロフィール

淳心房&しゃあ

Author:淳心房&しゃあ
(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


(しゃあ)
平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
singikensho@yahoo.co.jp
(スパム防止のため@を大文字にしてあります。メール送信時は小文字に変えて下さい。)

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