私は先日、「阿弥陀仏は必ず救いとる」と信じて念仏したら、心がとても軽くなったのですが、これで私は信心決定したと言って良いのでしょうか。(頂いた質問)

親鸞会の「欺瞞」の一つ、「善のすすめ」について

の記事にコメントを頂き、ありがとうございました。お寄せ頂いた情報では、今年の親鸞会報恩講の演題は

『恩徳讃』

だそうです。講師部員や幹部は「高森先生の御恩に報いるためにも多くの人をお誘いしましょう」なんて言い回しで会員の尻を叩いていそうですね。


さて、今回はこちらがメインですが、「ひろちゃん」さんより頂いた質問に答えたいと思います。

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ところで淳心房様はいつ信心決定なされたのでしょうか。親鸞会在籍のときなのでしょうか。それともお辞めになられてからでしょうか。

私は先日、「阿弥陀仏は必ず救いとる」と信じて念仏したら、心がとても軽くなったのですが、これで私は信心決定したと言って良いのでしょうか。

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まずは前半の質問からですが、私は今からおよそ7年前に信心決定しました。親鸞会を退会してからになります。詳しくは謹賀新年(2010年1月1日の記事)をご覧下さい。

次に後半の質問についてです。「これで私は信心決定したと言って良いのでしょうか。」ということですが、正直に申し上げて私にはひろちゃんの信心が真実信心か否かについては判りかねます。ただ信心決定とは如何なるものかについて再度述べていきますので、それによって判断なされたらよいと思います。以下、信心決定とはより、一部内容を変更して引用します。

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信心決定とは、南無阿弥陀仏、すなわち「我をたのめ、必ず助けるぞ」の本願招喚の勅命を自分の計らいを交えずに、そのまま受け容れたことをいいます。

・「聞其名号」といふは、本願の名号をきくとのたまへるなり。きくといふは、本願をききて疑ふこころなきを「聞」といふなり。またきくといふは、信心をあらはす御のりなり。(一念多念証文)

・「聞名念我」といふは、「聞」はきくといふ、信心をあらはす御のりなり。「名」は御なと申すなり、如来のちかひの名号なり。「念我」と申すは、ちかひの御なを憶念せよとなり、諸仏称名の悲願(第十七願)にあらはせり。憶念は、信心をえたるひとは疑なきゆゑに本願をつねにおもひいづるこころのたえぬをいふなり。(唯信鈔文意)

・信心獲得すといふは第十八の願をこころうるなり。この願をこころうるといふは、南無阿弥陀仏のすがたをこころうるなり。(御文章)


如来の誓いの名号を聞くのが信心ということです。本願の名号、南無阿弥陀仏を聞くことの外に信心はないということです。そして本願の仰せを受け容れているのは何も信一念だけではなく、只今の話なのですから、信心決定とは「極めて鮮やかなハッキリした体験」ということではありません。中には信一念の瞬間がどうだったのかをハッキリ記憶しているという人もあるかも知れませんが、それは問題ではありません。その記憶が本当に信一念の時だったのかという疑惑もあるからです。問題なのは、只今、「助けるぞ」の仰せを仰せのままに聞き受けているかどうかです。

現時点でひろちゃんが親鸞会会員なのか、退会者なのか、あるいは親鸞会とは全く関係がない方なのかは分かりません。次の機会に教えて頂ければと思いますが、親鸞会では「信心決定するとハッキリする」と教えていますので、信一念の瞬間にハッキリした自覚があるかどうかは問題ではないことをまずご理解下さい。


本願の仰せに疑いある間は、念仏を自分の功徳として称え、それを往生に役立てようという心があります。この自力心ある限り、いかなる聖者も善人も報土往生することはできません。

おほよそ大小聖人、一切善人、本願の嘉号をもつておのれが善根とするがゆゑに、信を生ずることあたはず、仏智を了らず。かの因を建立せることを了知することあたはざるゆゑに、報土に入ることなきなり。(化身土文類)
(大乗や小乗の聖者たちも、またすべての善人も、本願の名号を自分の功徳として称えるから、他力の信心を得ることができず、仏の智慧のはたらきを知ることがない。すなわち阿弥陀仏が浄土に往生する因を設けられたことを知ることができないので、真実報土に往生することがないのである。)


自力の心とはどんなものか、分かりやすく図で示しますと、

阿弥陀仏 ← 私

という私から阿弥陀仏へ救いを祈願請求する思いのことです。

「助かりたい」
「安心したい」
「ハッキリしたい」
「何とかなりたい」

という思いは勿論、このような思いが叶わず

「どうして助けて下さらないのか」
「こんなに苦しんでいるのに」

と文句を垂れているのもそうです。これが仰せを受け容れますと、

阿弥陀仏 → 私

という、阿弥陀仏から私への一方的なお救いであり、私の中には報土往生の足しになるようなものは何もないということに疑いなくなります。阿弥陀仏への祈願請求の思いは消え、「助けるぞ」の仰せの通りに救いを受け容れる(許諾する)のです。私が「助かりたい」と思う遥か以前に「助ける」と思い立たれ、五劫永劫の願行を成就して、衆生(私一人)の救いにかかりきりだった、という仏願の生起・本末を聞いて疑心有ること無しです。

「オレが聴聞している」
「オレが念仏している」

という、オレがオレがの思い(我執)が消え失せて、素直に「我汝を救う」の仰せに順う他力信心の行者とならせて頂くのです。これまでは

「助かりたい」
「何とかなりたい」
「こんなに苦しんでるのに何で助けてくれないんだ」

と自分の思いばかりぶつけて相手の話を聞こうともしなかったのが、

よくよくお慈悲を聞いて見りゃ助ける弥陀が手を下げて
まかしてくれとの仰せとはほんに今まで知らなんだ(尾添の数え歌)


と、世を超えた大慈悲心を知らされて慚愧の念が起きてまいります。

不思議なことに、妙好人や救われたという人が言っていた、謎かけか単なる言葉遊びだろと思っていたことが、その通りその通りと受容できてしまいます。上の数え歌もそうですし、例えば、

・私が南無阿弥陀仏と称えて救われるのではない、私の口から称えられる南無阿弥陀仏によって救われるのだ
・聞いたら助かるのではない、「助けるぞ」を聞くのだ


などもです。私も当初は意味がわかりませんでした。それが私から阿弥陀仏へ救いを祈願請求する心が消え、阿弥陀仏から私への一方的なお助けだと知らされて後は、まるで手のひらを返したように「そうだなぁ」と思わされるのですから不思議です。ひろちゃんはどう思われますか?

阿弥陀仏の「助けるぞ」の仰せ通りに後生をおまかせしたのが信心決定です。火に触れれば熱い、氷水を飲めば冷たい、と感じるように、「助けるぞ」の仰せをそのまま「左様にございますか」とお受けするのみです。仰せを聞いて安心するのではなく、仰せのみで安心してしまうのです。
********************

読んでみて如何でしょうか。自分の中に生死を出離できるようなものはなく、阿弥陀仏の一方的なおはたらきによる救いであることに疑いなければそれが信心決定ということです。私も、南無阿弥陀仏を聞き受けて当初は自分の信心が真実信心なのかどうかよく分からなかったのですが、私の中には信心らしきものは何もなく、強いて言えば南無阿弥陀仏しかないというものでした。それは今も同じです。

今回はこれまでといたします。ぜひ感想を聞かせて下さい。他にご質問ありましたら合わせてどうぞ。また、下に参照資料を載せましたので、お時間あれば目を通して頂ければと思います。


【参照】
『安心問答』「私は信心決定した」といえるなにか証拠のようなものはないのでしょうか。私は阿弥陀仏の本願はそうだなと思っていますが、なんだかもやもやします。(頂いた質問)
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No title

ああ、有り難い。
何も言うことはありません。
言われる通りです。

南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏

>とくよしみね様

ありがとうございます。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。

p.s.
先ほどとくよしみねさんのブログにコメントしたらちゃんと承認されました。以前の、何回コード入力やっても認証されなかったのは何だったのか…(´・ω・`)

No title


淳心房さま

先ほどブログへのコメント見ました。ありがとうございます。
お目にかかったことはありませんが、私も含め同じ時期に退会した人は結構沢山いますね。
その人達がその人なりに今活躍されているのですが不思議なことです。
阿弥陀様のお導きとは言え、不思議不思議の他は無し。

南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏

Re: とくよしみね様

私は2009年に退会しましたが、同時期に退会した人の中に教義を重視するタイプの人が多かったのではないかと思います。だから同時期に退会した人が少なからずいるのだと見ています。

今も皆さん元気でご活躍されていることとは思いますが、ブログをやり始めた方の中には無期限活動停止の方も結構いらっしゃり、少し寂しいと感じる日々です(私もそういう時期があったのでひとの事は言えないのですが・・・)。

そんな中で、現在も更新されているのを見ると大変有難く感じます。とくよしみねさんやあさ川さん、また他の皆さんとは、いずれ勉強会などでお会いしたいものです。

No title

私は2004年に退会した者です。当時会社から遠隔地への長期間の転勤を命じられ、それがきっかけで退会してしまいました。
淳心房様には貴重な時間を割いてお答え下さり、ありがとうございます。
仏教用語が多くて、正直むずかしく、十分な理解はできなかったのですが、私は善をしようという気持ちがもともとありませんでした。なので善が役立つとは最初から思っていません。もちろん、念仏も殆どとなえていなかったので、念仏が必要だとも思っていません。ですから、阿弥陀仏に祈願請求する気持ちは消えていたというか、もともとありませんでした。ですから「助けるぞ」の仰せを素直にきけましたし、お念仏をとなえると心がとても軽くなったのです。ハッキリした体験はありませんが、阿弥陀仏に後生をおまかせできました。淳心房様が書かれたことに照らし合わせると多分、信心決定したのだと思います。
素直にそのままお任せすれば信心決定できることをお教え下さり、誠にありがとうございました。

Re: ひろちゃん様

私は2001年入会ですので、もしかしたら富山の会館ですれ違ったことはあるかも知れませんね。

「助けるぞ」の仰せを素直にお聞きし、後生をおまかせしたのであれば、私が認定するわけではありませんが信心決定といっていいのではないかと思います。何度も言いますが私なんぞの言葉は当てにならず、阿弥陀仏の仰せ以外、南無阿弥陀仏以外まことはありませんからね。
私もハッキリした体験はありませんが、後生は阿弥陀さまにおまかせし、必堕無間の恐怖に怯えることはなくなりました。有難いことです、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。

『飛雲』金剛心と暁
http://hiun.cocolog-nifty.com/blog/2010/03/post-e3bc.html

などに真宗安心五十問答が載っていますので、そちらもご参照下さい。

「仰せを聞いて安心するのではなく、仰せのみで安心してしまうのです。」
これはどういうことでしょうか。教えていただきたいです、よろしくお願いします。

No title

初めてコメントします。今回の記事もありがたく読ませて頂きました。
淳心房さんとはおそらく学生時代にご縁があったのだろうと思っております。世の中は広いようで狭いのかも知れませんね。

横からですが、「仰せを聞いて安心するのではなく、仰せのみで安心してしまうのです。」 を読みまして、おかるさんの「弥陀のお慈悲を聞いてみりゃ 聞くより先のお助けよ 聞くに用事はさらにない 用事なければ聞くばかり」の言葉を思い出しました。私にはうまく説明できませんが、これまたありがたいです。

南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏

コメント返信

ベリー様

新しい記事にお返事として載せましたのでご覧下さい。その上でご理解頂けたかどうか、教えて頂ければと思います。



あさ川進様

コメントありがとうございます。
恐らくあさ川さんとはご縁があったように思います。いずれ勉強会などの縁でお会いしたいものです。

>「弥陀のお慈悲を聞いてみりゃ 聞くより先のお助けよ 聞くに用事はさらにない 用事なければ聞くばかり」

私もぱっとすぐに説明できる言葉が見当たりませんが、確かにありがたいお言葉と思います。名人の作られたものはそのままにしておきましょう。

No title

淳心房様

淳心房様に「信心決定したといってていいのでは」と言われてとても安心しました。

これで後生は阿弥陀様におまかせすることができます。

このたびはありがとうございました。

Re: ひろちゃん様

私は阿弥陀仏の仰せを取り次ぎしているに過ぎません。お礼なら阿弥陀さまに(^^)/

私の言葉ではなく、阿弥陀仏のお助けに安心なさって下さい。後生を阿弥陀さまにゆだねていらっしゃるなら問題ありません。

これからもひろちゃんのできる範囲で構いませんので、ご法義相続、念仏相続して下さいませ。

南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。

No title

淳心房様に教えていただき信心決定し、念仏を喜んでおります。ありがとうございます。
ところで親鸞聖人は、この身に救われたことのご恩で、師主知識のご恩を述べられていますが、比叡山で自力の仏教を教えてもらった師匠に対するご恩はこの師主知識のご恩の中に入っているのでしょうか。
それとも比叡山時代の師匠に対しては逆に非難されているのでしょうか。よろしくお願いします。

別の記事のところに書いてしまったので、再度こちらに掲載いたしました。

Re:ひろちゃん様

この度は不思議なご縁でしたね。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。

ひろちゃんの質問へは既にいつもの元会員さんがお答え下さったようですね。
直接的には法然聖人への御恩、また開けば七高僧方への御恩とも言えるでしょうが、比叡山時代の師匠方に関しましては味わいの域になりますね。
プロフィール

淳心房&しゃあ

Author:淳心房&しゃあ
(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


(しゃあ)
平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
singikensho@yahoo.co.jp
(スパム防止のため@を大文字にしてあります。メール送信時は小文字に変えて下さい。)

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