「仰せを聞いて安心するのではなく、仰せのみで安心してしまうのです。」 これはどういうことでしょうか。(頂いた質問)

私は先日、「阿弥陀仏は必ず救いとる」と信じて念仏したら、心がとても軽くなったのですが、これで私は信心決定したと言って良いのでしょうか。(頂いた質問)

の記事に、ベリーさんからコメントを頂きました。

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「仰せを聞いて安心するのではなく、仰せのみで安心してしまうのです。」
これはどういうことでしょうか。

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この言葉は、当ブログで掲載している『親鸞の世界』(加茂仰順師)のお言葉が元です。

正信偈の内容(12)ー凡夫のつまづきより

 先徳は「仰せで安心するのである。仰せを聞いて、わが胸の中へ持ちこんで安心しようとするのではない。仰せだけで安心してしまうのである」と申されていますが、まことに適切であります。仰せをわが胸に持ちこんでとは、仰せをわが胸に持ちかえて、計らい心を差しはさんで「これでよし」と心得ることです。いかにも大丈夫のようですが、そこに凡夫のつまずきがあります。これでよしとすることが、いつしか計らい心におちいっています。真宗は聞こえたまま、仰せのとどいたままこそ、計らいのないすがたであります。


大部言葉を端折っていたので分かりづらかったかも知れませんが、これでお分かりになるのではと思います。

以下、蛇足になるかも知れませんが補足させて頂きます。

普段私達が人から何かを聞く時、一つの事を聞いてもその人その人で受け取り方が違います。それは、各自が各自の知識や経験などを基に聞いたことを思考・整理して理解するからです。

これは日常生活を営む上では当然のことですが、阿弥陀仏の仰せを聞く時にこのような聞き方をするのは間違った自力の聞き方です。仰せを聞いて、我が胸の中へ持ち込んで、思考・整理して、「こういうことだろう」と理解しているのは、既に阿弥陀仏の仰せに対して自分で手を加えているのです。それは聞即信ではありません。

聞即信とは、聞いたままが信心ということです。「たすけるぞ」の仰せを聞く、その聞くままが信心ということです。「聞く→思考・整理→理解」という、一般の物事を聞く道程とは違います。だから仰せを聞いて、聞いたことを思考・整理して、「こういうことだろう」と理解して安心するのではなく、聞いたままの仰せのみで安心してしまうのです。このようなことが言いたくて先日申し上げました。

聞いたことを思考・整理するという凡夫の小賢しい詮索、また自分のそれまでの知識や経験から阿弥陀さまのお助けを判断しようとする先入観、こういったものを取っ払って、素直な気持ちで「助けるぞ」の仰せを「助けるぞ」と聞くのです。「助けるぞ」を「助かるぞ」などと持ち替えるのではなく、聞いたまま受け取るのです。「自分が」それまでの知識や経験を基に聞くのではなく、そういったものを抜きに「如来の方から」聞こえて下さるのです。そのお助けの聞こえたのが信心です。

他力の信心とは、凡夫の小賢しい詮索や先入観の入り混じる隙の無い、それらを差し挟む余地の無い、純度100%阿弥陀仏からの賜りものです。賜るといっても何かものを貰うということではなく、お助けの聞こえたまま、仰せのとどいたままが他力の信心です。


説明が拙くて申し訳ないです。お分かりになったかどうか、コメントお待ちしております。
また、「もっとこう言った方がいいのではないか」というご意見もお待ちしております。



【追記】
あさ川進さんからもコメントを頂いておりました。ありがとうございました。

おかるさん(六連島のおかる同行)の言葉に

「弥陀のお慈悲を聞いてみりゃ 聞くより先のお助けよ 聞くに用事はさらにない 用事なければ聞くばかり」

というものがあると教えて頂きました。

私もうまく説明できる言葉が見当たりませんが、同様の事を言っているのだと拝見します。有難いことです。
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淳心房様、あさ川様、ありがとうございます。
仰せを聞いて理解して安心するのではなく、仰せをそのまま聞いて•聞こえたままの仰せで安心してしまう、と理解しました。
仰せを聞いたのが信心、助けるの仰せ•南無阿弥陀仏を聞いたのが信心と思ってよいでしょうか。

Re: ベリー様

> 仰せを聞いたのが信心、助けるの仰せ•南無阿弥陀仏を聞いたのが信心と思ってよいでしょうか。

そうです。『御文章5帖目11通』には、

他力の信心をとるというも、別のことにはあらず。「南無阿弥陀仏」の六つの字のこころをよくしりたるをもって、信心決定すとはいうなり。

とありまして、南無(我に任せよ)阿弥陀仏(必ず救う)の六字のこころをよく知ることを信心決定と言われています。このお助けの勅命が私に届いたまま、仰せを聞いたままが信心です。

他力の他は私です

主体の転換ですね。
浄土真宗のご法義は私が主体なのではなく、阿弥陀如来が主体でした。
越前では昔から「持ち替え安心」と言って、阿弥陀如来の仰せを、こちら側に持ち替えて納得しようということを戒めていましたです。

なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ

「弥陀をたのむとは、向きをかえるなり」
http://blog.wikidharma.org/blogs/blog/2009/10/25/%e5%bc%a5%e9%99%80%e3%82%92%e3%81%9f%e3%81%ae%e3%82%80%e3%81%a8%e3%81%af%e3%80%81%e5%90%91%e3%81%8d%e3%82%92%e3%81%8b%e3%81%88%e3%82%8b%e3%81%aa%e3%82%8a/


仰せを聞いたままが信心、これが有難いです。主体が阿弥陀様ですから安心できます。
ただ持ち替えていないか、自分を差し挟んでいないかが怖いなと思いました。
淳心房様、林遊様、ありがとうございます。

コメント返信

林遊@なんまんだぶ様

ご無沙汰しております。いつもありがとうございます。「弥陀をたのむとは、向きをかえるなり」、有難く読ませて頂きました。

他力とは、利他力ということで、他を利する力。だからこの「他」は私。私を利する力が如来の本願力ということですね。阿弥陀如来が主体、私は客体。阿弥陀仏がそのままの私を助けるということを計らい無く受け容れ、お助けにあずかると聞き開かねば所詮がないとの仰せ、心に沁みました。今後ともよろしくお願いいたします。



ベリー様

>仰せを聞いたままが信心、これが有難いです。

そうですね。私としては、阿弥陀さまの仰せをそのままお受けするのみ。全て阿弥陀さまに計らわれてゆくのですから、これほど有難く、安心できるものはありませんね。
プロフィール

淳心房&しゃあ

Author:淳心房&しゃあ
(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


(しゃあ)
平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
singikensho@yahoo.co.jp
(スパム防止のため@を大文字にしてあります。メール送信時は小文字に変えて下さい。)

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