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新入生の皆さんはこんな話に注意!(5)

新入生の皆さんはこんな話に注意!(4)の続きです。

※以前からの非難により、現在は、勧誘の最初の段階で仏教とか『歎異鈔』や『教行信証』に学ぶと触れる大学もあります。

※以下のような内容をサークルで聞いたら親鸞会の可能性が高いです。不安に思ったらコメント欄に聞いた内容やサークルの様子を教えて下さい。親鸞会である可能性を検討してみたいと思います。

※サークルや先輩のメルマガ登録を勧められるたら、親鸞会である可能性があります。

※『なぜ生きる』、『光に向かって100の花束』など一万年堂出版の書籍をゼミ(部会、ミーティング、講座)で用いていたら親鸞会だと思って間違いないでしょう。


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◎三枚の鏡

人生の目的といっても、「私」の生きる目的である。

「敵を知り、己を知らば、百戦危うからず」と孫子も言う。
人生に当てはめると、敵とは生きている世界であり、己とは自分(私)であろう。
真の人生の成功者となるにおいて、私とはいかなるものかを知ることはとても大事なことである。
古代ギリシアから、「汝自身を知れ」とも言われている。

そこで今日は、「私」とはいかなるものかについて話をしよう。

みんな自分のことは自分が一番よく知っていると思うだろうが、はたしてそうか?

・「なくて七癖」 自分の欠点はどれくらいあげられるか?
・蔡君謨という宰相 長いあご髭で有名 髭を布団から出して寝るか入れて寝るか分からない
・この中に泥棒がいるなといった泥棒の親分の話

昔から「知るとのみ思いながらになによりも知られぬものはおのれなりけり」といわれるように、知っていると思いながら、一番分からないのが自分なのである。

なぜ自分のことが分からないのか?それは、近すぎるからである。
そこで、近いものをみるときには、鏡を用いる。

自分をうつしだす鏡に「他人鏡」「自分鏡」「法鏡」の三枚の鏡があると教えられている。

まず「他人鏡」とは、他人から見た私の姿である。それを通して自分はどんな者かを知るのだ。
ところが、人間の価値判断はいい加減なもので、一休は、
「今日ほめて 明日悪くいう 人の口 泣くも笑うも ウソの世の中」
と笑っている。 自分に都合のよいときは善人で、都合が悪くなれば悪人という。
自分の都合で判断が変わってしまう他人鏡は、本当の自己をうつしだす鏡ではない。

次に「自分鏡」とは、自分で評価した自分、自分の眼に映れた自分のことだ。
ところが、人間には欲目があり、自分のことはどうしてもよいようにしか見ることができない。
欲目のことを自惚れともいう。仏教では、「慢」という。この自惚れ心を七つに分けて七慢という。
慢 過慢 慢過慢 我慢 増上慢 卑下慢 邪慢
私たちは、この自惚れ心から離れて生きることは絶対にできない。よって、自分鏡も本当の自己をうつしだす鏡ではない。

では、本当の私をうつしだす鏡はあるのか?それが最後の「法鏡」である。
法鏡とは仏教のことである。
お釈迦様はお亡くなりになられるとき「汝らに法鏡を授けるであろう」と仰ったと伝えられている。

法とは真実ということ。真実の自己、本当の私のすがたをうつしだす鏡のようなものが仏教なのだ。
つまり、仏教を聞くとは、自己を知るということ。
「仏道を習うは己を習うなり」(道元禅師)
「よもすがら仏の道に入りぬればわが心にぞたずね入りぬる」(源信僧都)
とも言われている。

鏡に近づけば近づくほど自分の姿がよく見えるように、仏教を聞けば聞くほど自分のすがたが知らされてくる。

では、私とは何なのかというと、私の心のことである。
本当の私とは、本当の私の心のすがたということなのだ。

この本当の私の心のすがたを、仏教では「煩悩具足」と教えられている。



◎煩悩具足

煩悩とは、私達を煩わせ悩ませるもの。
全部で108つあり、中でも代表的なものが欲、怒り、愚痴である。

今日は時間がないので欲について話をしよう。
欲とはなければないで欲しい、あればあったでもっと欲しいもっと欲しいと際限もなく求める心である。
私たちは、朝から晩まで欲に振り回されているといってもいいだろう。

西洋哲学は、古来こうした欲と向き合い方で、およそ2つに分かれる。

1つは自分の欲望をできるだけ多く満たそうとする「快楽説」。
ところが人間の欲望は無限で、有限な命を持った人間は満たし切ることはできない。

もう1つは、反対に欲望を抑えよう、減らそう、できるなら断ち切ろうとする「禁欲説」。
だが、抑えよう抑えようとすると余計に噴き上がってくるのが欲望というものである。

「煩悩具足」の具足とはそれで出来上がっているということ。煩悩に目鼻つけたようなのが人間なのだ。
つまり、煩悩はなくもならないし、減りもしないものだというのである。

限りない欲望を満たそうとしても満たしきれず、抑えようとしても抑えることはできない。
西洋哲学はここで行き詰まっている。
ではどうしたら人間は幸福になれるのか?



◎煩悩即菩提

実は、煩悩をなくも減らしもせずに、煩悩がそのまま菩提(幸せ)となるという世界がある。
それを教えているのが東洋哲学、仏教だ。
仏教では、「煩悩即菩提」とか「転悪成善」と教えられている。
煩悩がそのまま菩提になる、悪(苦しみ)が転じて善(幸福)になるということ。

それは一体どんなことなのか。例えで説明する。

ある村に、山一つ隔てた学校へ通学しなければならない男の子がいた。
山は険しく、道は寂しく、雨となればたちまち道が洪水になる。いつも山と道とがうらめしかった。
そこへある日、同じクラスに一人の可愛い転校生の女の子がやってきた。何と彼女は、同じ村ではないか。
男の子はすぐに彼女と打ち解け、いつも一緒に登下校して、険しい山道について語り合う仲になった。
ある日の下校時、にわか雨が降ってきた。傘は彼女の一本だけ。奇しくも相合傘になった男の子は、ひそかにこう願った。
「雨が止まないでほしい」「山がもっと険しければいい」「道がもっと長ければいい」
あんなに嫌だった雨も山も道も、返って喜ぶ元と転じているのである。
例えで全てをあらわすことはできないが、苦しみがそのまま喜びに転じ変わる世界があるのだ。

その世界を昔の人は、
「しぶがきのしぶがそのまま甘みかな」
「見れば見るほど たのもしそうな. 添うて苦労が してみたい」
「罪障功徳の体となる 氷と水のごとくにて 氷多きに水多し 障り多きに徳多し」
などとも言っている。

ではどうしたらその身になれるのか。
それは「聴聞に極まる」といわれている。聞くことが大事なので、続けて聞いてもらいたい。

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(つづく)
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プロフィール

淳心房&しゃあ

Author:淳心房&しゃあ
(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


(しゃあ)
平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
singikensho@yahoo.co.jp
(スパム防止のため@を大文字にしてあります。メール送信時は小文字に変えて下さい。)

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