私達が親鸞聖人から学び知るべきは三願転入ではなく、19願でもなく、18願、本願力回向、他力回向です

三願転入不要さんのコメントより。

三願転入は『教行信証』にのみ記されています。
『教行信証』をまとめられた『浄土文類聚鈔』には三願転入はありません。19願のこともありません。
一字一涙の思いで記された『正信偈』にも三願転入はありません。
親鸞聖人が同行に宛てられたお手紙はたくさん残っていますが、三願転入について書かれたお手紙はありませんし、同行から親鸞聖人に宛てた手紙にも三願転入に関することはありません。
親鸞聖人が読むように勧められた書は、『唯信鈔』『後世物語聞書』『一念多念事』ですが、これらには三願転入はありません。

つまり、親鸞聖人のおられた時代でさえも、三願転入について知っているお弟子、同行は数えるほどしかいなかったということです。
『教行信証』を読めるお弟子は僅かですから。同行は『教行信証』を読んでいません。

覚如上人は三願転入の文を引用されて説明されたことはありません。
蓮如上人も三願転入の文を引用されて説明されたことはありません。

つまり、覚如上人の時代、蓮如上人の時代でも、『教行信証』を読んでいるほんの一握りの人以外、三願転入自体を知りません。

以上から、三願転入は知る必要がないと、親鸞聖人、覚如上人、蓮如上人は判断されていた。
言うまでもなく、七高僧方は、三願転入の概念自体お持ちでなかった。


『化身土文類』にのみ唯一ヶ所、七高僧方の書にも、覚如上人や蓮如上人の書にもどこにも書かれていない「三願転入の御文」を殊更重視し、19願の実践は他力までの不可欠なプロセスだと珍説を喚き散らしているのが親鸞会です。

その親鸞会も、設立してしばらくは「三願転入の教え」なるものは説いてきませんでした。しかし、親鸞会結成35周年大会で突如として高森顕徹会長が説き始めて以来、すっかり親鸞会教義の「根基」となっています。
もう皆さんご存知の通り、「三願転入は親鸞聖人の教えの根基」の元ネタは大沼法竜師です。

『飛雲』「三願転入の教え」の正体

に師の著書が引用されています。当ブログも一部ですがそこから引用して紹介しておきます。

 然るに真宗の学者は頭だけ初めから第十八願に据り込んで、実地の求道をして居ないではないか、祖師の苦心された三三の法門は骨董化して学問の羅列になり、蓮師の雑行雑修自力の心をふり捨ては自分とは無関係で、はいの返事も向うからと助かった積りで死後を夢見て居るが、何んと恐しい堕落だろう、脈が上って居るから処置なしだ。畢竟感情に瞞され、自惚れに酔うて実地の求道を抜きにして居るから三願転入の真意を無視して居るのだ、実地に通って居ないから真仮の分斉も知らず、信一念の極意も諦得せず、頭は合点しても腹は流転するのだ、俗人は気に掛るから熱心に法の話をするが、坊主はてんで気に掛らないから阿呆の話でもして居るのだ。君達は第十八願の真似をして有難がって布教しているのだ、大沼は三願転入を根基として布教して居るのだ、これを異安心と言うのなら祖師も釈尊も弥陀も皆異安心ぞ、自分達の無安心を反省したらどうだ。

かつて「『根基』とは何ですか?」という質問がなされていたこともありましたが、それについて明確な回答がなかったのは大沼師からのパクリだったからでしょう。高森会長が突如三願転入を言い出したのは、善の勧めを、宿善よりも強力な根拠として利用するためです。その証拠に、三願転入で高森会長が説明するそのほとんどが19願、定散二善、諸善万行といった話です。

過去に散々紹介してきましたが、19願は臨終現前の願とも言われるように、菩提心を発し、至心発願して修諸功徳の善を修める者を臨終に迎えに行き、化土往生させるという誓いです。往生が決するのは臨終ですから、臨終業成を誓われているのです。臨終に迎えに行くという願の行を、平生に往生を決すると誓われた願の証を得るためにやりなさいと勧める意味が分かりません。また化土往生させるという願の行を、報土往生させるという願の証を得るためにやりなさいと勧める意味が分かりません。月に行くのに歩いて向かおうとしているようなもので、目的と、それを果たす手段が全く噛み合っていないのです。

このように、親鸞会では19願の説明がまるでなっていません。例えば「発菩提心」について高森会長は「よーしやるぞ!」と奮発心を起こしてなどと説明しています。しかし本来の意味での「菩提心を発す」とはれっきとした聖道行の一つです。言葉では「悟りを求める心を起こして」ということですが、言うは易し行うは難しで、口で説明するほど容易く我々ができる行ではないのです。特に日常生活や仕事に身心共に追われ、その合間にほんの少し聴聞しているような者が容易く起こし、そして相続できる心ではありません。まして、聴聞する動機が「絶対の幸福だとかいう幻想的な楽・自己満足を求めて」では話になりません。こんな体たらくでは、今も聖道行に真剣に取り組む方々に失礼極まりないことです。

道元禅師 正法眼蔵 現代訳の試み 発菩提心(1)

に道元禅師の言葉ではありますが発菩提心について説明があります。読み進めていくと親鸞会で聞いたような話も出てきますので、時間のある方は一読してみて下さい。19願の行自体は聖道行ですから、煩悩具足の生活をしている我々が考えるほど甘っちょろい行ではないのです。

「修諸功徳」にしてもそうです。六度万行や定散二善と、倫理・道徳的な善は明らかに異なりますに書きましたが、仏教で言う諸功徳、諸善というのは、成仏の因となる行のことです。私達が煩悩に穢れた心で行う倫理的・道徳的・世俗的な善とは桁が違うのです。それも、善ができないと知らされるためにやるものではありません。定散二善も、例えば散善は、

なんぢいま、知れりやいなや。この三種の業は、過去・未来・現在、三世の諸仏の浄業の正因なり。

と『観無量寿経』に教えられるように諸仏成仏の因ですから、六度万行と同じく行は聖道行です。そのことを親鸞会は全く分かっていませんので、親鸞会が獲信の因縁として善を勧める根拠に七仏通戒偈や19願を提示した際、本願寺は驚いて「捨家棄欲、自力修行でも勧めているのか」と回答したわけです。これらのようなことを理解して会員の皆さんは善に励もうとしているのか、よく考えて頂きたいと思います。言っておきますが、親鸞会への献金や勧誘、高森会長や上司への無条件服従などという善もどきの善をいくら積んでも19願を行じたことには決してなりませんよ。

私達が『観経』九品でいうところの中品下生以上であれば定散二善を行じて臨終業成、化土往生の道もありましょうが、親鸞聖人のお勧めは平生業成、報土往生です。聖人は他の方便のない極重の悪人に定散諸機の善人も加えて、

『観経』の定散の諸機は、極重悪人、ただ弥陀を称せよと勧励したまへるなり。濁世の道俗、よくみづからおのれが能を思量せよとなり、知るべし。(化身土文類)

と仰いました。親鸞聖人がよくみづからおのれが能を思量せよと仰っているのは誰の事か、会員の皆さんはよくよく思い計るべきでしょう。そして言葉通りの「親鸞学徒」であるならば、親鸞聖人のお勧めに直ちに順い、往生のためには一切の諸善を捨てて、念仏一行を一心に称えるべきなのです。身も心も高森信心に支配されていたら、それこそ迷界にとどまるのみです。

私達が親鸞聖人から学び知るべきは三願転入ではなく、19願でもなく、18願、本願力回向、他力回向です。
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19願の対象はすべての人であることは明らかですが、退会者の方々はなぜ自分が善人ではないと断言できるのでしょうか?

>ところで自力から他力へさんは19願の実践は他力までの不可欠なプロセスと断言し、他力の信心を頂いたと仰っているのですから、当然19願、また定善、散善を実践された方と見受けます。であれば、少なくとも下三品の方ではなく、中品下生以上の善人だということになります。となると高森顕徹会長が主張している、全ての人は「逆謗の屍」という説に反していることにもなります。


善人で生まれた人は、何があっても死ぬまで善人ですか?
悪人で生まれた人は、何があっても死ぬまで悪人ですか?
上品上生で生まれた人は、何があっても死ぬまで上品上生のままですか?
後、すべての人が「逆謗の屍」というのは、仏眼からご覧になった実機のことです。
獲信すれば、「逆謗の屍」であることが知らされます。

No title

以前、親鸞会の講師から実機は下品下生だが、自惚れ心の違いを九つに分けられているのが九品だ、と言われました。

九つに分けられていると聞いて、その中から自分に当てはめようとする。
それが上品だったり、中品だったりするのだそうです。

その自惚れ心を、知らせて下品下生だとしらせる手立てが19願であり、それが弥陀のご方便みたいな事を言っていました。

根拠はもちろん出てきませんでしたが。


会員は何でも鵜呑みしてしまうので、その場にいた会員は納得していましたが、
「諸善が勧められているなら、あなたは中品下生以上の善人という事になってしまいますよ?」と言っても、「実機は下品下生だから、その指摘は違う」というような反応でした。


「善は救いには間に合わないが、善を修めることは必要」みたいな矛盾しているのに、矛盾と思えないのだと思います。
親鸞会以外の情報に目を向けないのが大きな要因でしょうが、講師部またはこのようなガチガチの会員にたいして淳心房さんならどのように説明されますか?

>「善は救いには間に合わないが、善を修めることは必要」みたいな矛盾しているのに、矛盾と思えないのだと思います。


「実機は下品下生だが、自惚れ心の違いを九つに分けられているのが九品だ、と言われました。

九つに分けられていると聞いて、その中から自分に当てはめようとする。
それが上品だったり、中品だったりするのだそうです。

その自惚れ心を、知らせて下品下生だとしらせる手立てが19願であり、それが弥陀のご方便」
なので、

親鸞聖人は定善散善を、
「発願の行と名づく、 また回心の行と名づく、 ゆゑに浄土の雑行と名づく、 これを浄土の方便仮門と名づく、 また浄土の要門と名づくるなり。」
と言われ、
ひそかに 観経の三心
往生を案ずれば、 これすなはち諸機自力各別の三心なり。 大経の三信に帰せしめんがためなり、
諸機を勧誘して三信
に通入せしめんと欲うふなり。
(愚禿鈔)

と言われています。

No title

>19願の対象はすべての人であることは明らかですが、退会者の方々はなぜ自分が善人ではないと断言できるのでしょうか?

まだ愚かな迷信を信じているのですね。

19願の対象は善人であることは明らかですが、高森信者はなぜ自分が善ができるのに逆謗だと断言できるのでしょうか?

>「発願の行と名づく、 また回心の行と名づく、 ゆゑに浄土の雑行と名づく、 これを浄土の方便仮門と名づく、 また浄土の要門と名づくるなり。」

雑行の定義を親鸞聖人がされたものですが、それで何が言いたいのですか?


>ひそかに 観経の三心
>往生を案ずれば、 これすなはち諸機自力各別の三心なり。 大経の三信に帰せしめんがためなり、
>諸機を勧誘して三信
>に通入せしめんと欲うふなり。
>(愚禿鈔)

観経の三心は、定散諸機の善人に対する方便だとの説明ですが、悪人に関係あるとでも思っているのですか?

貴方は善のできる善人なのか、善の全くできない悪人なのか、明言したら如何ですか?
六度万行ができるなら上品の善人
雑毒の善さえできないのが悪人

高森信者は自己を悪人と定義しながら善をしているという愚かな理屈を信じ込んでいるのですよ。

小学生でも分かる矛盾です。
あくまで小学生並の知能があるならですが。

三願転入不要さんは、自分の頭の中で三願転入できたそうです。

No title

私の質問には一つも答えられないとは、みじめですね。

ただ、根拠のない理屈と負け惜しみだけは一流と認めましょう。

No title

自力から他力へさんて、幼稚園児レベルの論理展開で、言い訳、負け惜しみも幼稚園児とよく似てます。かわいいです。

>小学生でも分かる矛盾です。
あくまで小学生並の知能があるならですが。

>私の質問には一つも答えられないとは、みじめですね。

ただ、根拠のない理屈と負け惜しみだけは一流と認めましょう。

>自力から他力へさんて、幼稚園児レベルの論理展開で、言い訳、負け惜しみも幼稚園児とよく似てます。かわいいです。


18願に救われている仏法者(自称)がよくこんなことが言えますね。
親鸞会が無ければ親鸞聖人の教えを学ぶような私ではなかったという意味で少しは親鸞会に対する感謝はないのでしょうか?

No title

高森親鸞会では、言葉の概念定義が通常の仏教で使われる意味と違うのです。
会員の人と話していてもさっぱり会話が成立しないのも、それぞれの仏教語の概念定義が違うからでした。だから話にならない。

第十九願に「発菩提心 修諸功徳」とあります。この菩提心については『往生要集』作願門p.902に詳しく説いてあります。その内容として四弘誓願が挙げられています。
http://wikidharma.org/57fe2b54deeb7

四弘誓願
①衆生無辺誓願度。 一切の衆生をさとりの岸にわたそうと誓う。
②煩悩無尽誓願断。 一切の煩悩を断とうと誓う。
③法門無量誓願学。 一切の教えを学びとろうと誓う。
④仏道無上誓願成。 この上ないさとりを成就しようと誓う。
こ成の四は諸仏・菩薩に共通する願なので総願という。 これに対してそれぞれの仏や菩薩に固有の願を別願という。 {wikiarc}
*往生要集と少しく文言が違いますが意味は同じです。

この四弘誓願を発(おこ)せというのですから、普通の人間なら無理なことは一目瞭然です。本当にこのような願いを発したら衆生無辺誓願度ですから、あらゆる衆生(生きとし生けるもの)を済度するまで死んでいる暇はないわけですね。
また、修諸功徳とは六度万行(六波羅蜜)ですが、六波羅蜜は阿弥陀如来が因位の法蔵菩薩であったときに修した行法です。

 国を棄て王を捐てて財色を絶ち去け、みづから六波羅蜜を行じ、人を教へて行ぜしむ。{無量寿経p.26}
http://wikidharma.org/57fe2a5ae84b5

ですから虚心に第十九願文を読めば、これは私には不可能だとサルでもわかります。それを言葉の定義を言い換えて、会員に勧めるのですから無茶苦茶です。
まさに「濁世の道俗、よくみづからおのれが能を思量せよとなり、知るべし。」p.381ですね。

なお、『観経』の九品について法然聖人は『西方指南抄』で、

 問。極楽に九品の差別の候事は、阿弥陀仏のかまへたまへる事にて候やらむ。

 答。極楽の九品は、弥陀の本願にあらす、四十八願の中になし、これは釈尊の巧言なり。善人悪人一処にむまるといはは、悪業のものとも慢心をおこすへきかゆへに、品位差別をあらせて、善人は上品にすすみ、悪人は下品にくたるなりと、ときたまふなり。いそぎまいりてみるべし。 云云
http://wikidharma.org/57fe1c3017371

とされ、四十八願の中に九品の差別はないから、釈尊の方便であると言われています。これを承けられたのが御開山で、信文類(末)で、

大願清浄の報土には品位階次をいはず。
http://wikidharma.org/4b93acfa2387b

とされておられますから、『観経』の九品の教説に拘泥するより、「欲生我国 乃至十念 若不生者 不取正覚」と、自らの正覚と衆生の往生を自他不二に誓って下さってある第十八願を聞信するほうがよいと思ふ。
ともあれ『観経』は、善導大師に依れば、なんまんだぶを称えることを明かした経典です。

 六に「仏告阿難汝好持是語」より以下は、まさしく弥陀の名号を付属して、遐代に流通せしめたまふことを明かす。
上来定散両門の益を説くといへども、仏の本願に望むるに、意、衆生をして一向にもつぱら弥陀仏の名を称せしむるにあり。
http://wikidharma.org/57fe1e24985c2

口に称え耳に聞こえる済度の法が、なんまんだぶのご法義なのでした。

なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ

>19願の対象は善人であることは明らかですが、高森信者はなぜ自分が善ができるのに逆謗だと断言できるのでしょうか?

実機は逆謗、救われていないときは自惚れている疑心の善人、救われると逆謗と知らされます。


>雑行の定義を親鸞聖人がされたものですが、それで何が言いたいのですか?

雑行は浄土の方便仮門であり浄土の要門だから、18願までの必要不可欠なプロセスということです。


>観経の三心は、定散諸機の善人に対する方便だとの説明ですが、悪人に関係あるとでも思っているのですか?

あなたはが自身を少なくとも善のできない者だと決めつける根拠は何ですか?
今のあなたは、善人ですか?悪人ですか?
私は他力の信心を頂いて極悪人と知らされました。

No title

>18願に救われている仏法者(自称)がよくこんなことが言えますね。
>親鸞会が無ければ親鸞聖人の教えを学ぶような私ではなかったという意味で少しは親鸞会に対する感謝はないのでしょうか?

曇鸞大師は聖道門から道教に迷われましたが、それが結果的に浄土教に帰依される縁となりました。
ということは

道教が無ければ浄土教を学ぶような私ではなかったという意味で少しは道教に対する感謝はないのでしょうか?


親鸞聖人なら、

比叡山が無ければ法然上人の教えを学ぶような私ではなかったという意味で少しは比叡山に対する感謝はないのでしょうか?

これで宜しいですね。

No title

>実機は逆謗、救われていないときは自惚れている疑心の善人、救われると逆謗と知らされます。

こんな妄言は、七高僧も親鸞聖人も覚如上人も蓮如上人も仰っていません。


>雑行は浄土の方便仮門であり浄土の要門だから、18願までの必要不可欠なプロセスということです。

こんな妄言は、七高僧も親鸞聖人も覚如上人も蓮如上人も仰っていません。


>あなたはが自身を少なくとも善のできない者だと決めつける根拠は何ですか?

決めつけていませんが。


>今のあなたは、善人ですか?悪人ですか?

さあ、どうなのでしょうかね。親鸞聖人にお尋ねください。


>私は他力の信心を頂いて極悪人と知らされました。

こんな妄言は、七高僧も親鸞聖人も覚如上人も蓮如上人も仰っていません。
つまり、信心が異なるということですよ。

No title

【善導大師・親鸞聖人の信心】

深心はすなはちこれ真実の信心なり。自身はこれ煩悩を具足せる凡夫、善根薄少にして三界に流転して火宅を出でずと信知す。


【自力から他力へさんの信心】

私は他力の信心を頂いて極悪人と知らされました。


「善根が薄くて少ない」

「極悪人=善根があることなしで五逆罪の者」

信心が違うようです。残念ですが。

>実機は逆謗、救われていないときは自惚れている疑心の善人、救われると逆謗と知らされます。

>こんな妄言は、七高僧も親鸞聖人も覚如上人も蓮如上人も仰っていません。


>雑行は浄土の方便仮門であり浄土の要門だから、18願までの必要不可欠なプロセスということです。

>こんな妄言は、七高僧も親鸞聖人も覚如上人も蓮如上人も仰っていません。


>あなたはが自身を少なくとも善のできない者だと決めつける根拠は何ですか?

>決めつけていませんが。


>今のあなたは、善人ですか?悪人ですか?

>さあ、どうなのでしょうかね。親鸞聖人にお尋ねください。


>私は他力の信心を頂いて極悪人と知らされました。

>こんな妄言は、七高僧も親鸞聖人も覚如上人も蓮如上人も仰っていません。
つまり、信心が異なるということですよ。


善人なおもって往生を遂ぐ、
いわんや悪人をや
(『歎異抄』第三章)

善人でさえ浄土へ生まれることができる。
まして悪人は、なおさらだ。

『歎異抄』でも特に知られる、日本思想史上、もっとも有名な言葉といわれる。

衝撃的な内容だけに、
大変な誤解も生んだ。

「善人でさえ浄土へ往ける。
まして悪人は、なおさら助かる」
と聞けば、
「悪をするほど浄土へ往けるのか」と、
誰でも思うだろう。

実際、
“悪をするほど助かるのだ”
と好んで悪を行う「造悪無碍」とよばれる輩が現れ、
「悪人製造の教え」と非難された。

それはまた、
今もある『歎異抄』の根深い謬見(間違った考え)でもある。

かかる誤解を正すには、
親鸞聖人の「善人」「悪人」の認識を、
徹底して明らかにするしか道はない。

それなしに、
三章は勿論、
『歎異抄』をいくら熟読しても、
論語読みの論語知らずにならざるを得ないであろう。


私たちは常に、
常識や法律、倫理・道徳を頭に据えて、
「善人」「悪人」を判断する。

だが、
聖人の「悪人」は、
犯罪者や世にいう悪人だけではない。
極めて深く重い意味を持ち、
人間観を一変させる。

『いずれの行も及び難き身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし』
(どんな善行もできぬ親鸞であるから、所詮、地獄の外に行き場がないのだ)

この告白は、
ひとり聖人のみならず、古今東西万人の、偽らざる実相であることを、
『教行信証』や『歎異抄』には多く強く繰り返される。

『一切の群生海、無始よりこのかた、乃至今日・今時に至るまで、穢悪汚染にして清浄の心無く、虚仮諂偽にして真実の心無し』
(すべての人間は、果てしなき昔から今日・今時にいたるまで、邪悪に汚染されて清浄の心はなく、そらごと、たわごとのみで、真実の心は、まったくない)

悠久(果てしない昔)の先祖より
無窮(未来永遠)の子孫まで、
すべての人は、邪悪に満ちて、
そらごとたわごとばかりで、
まことの心は微塵もない。
しかも、それを他人にも自己にも恥じる心のない無慚無愧の鉄面皮。
永久に助かる縁なき者である。
『歎異抄』三章後半も、念を押す。

『煩悩具足の我らはいずれの行にても生死を離るることあるべからざるを憐れみたまいて願をおこしたまう本意、悪人成仏のためなれば……』
(煩悩(欲や怒り、ねたみそねみなど、私たちを煩わせ悩ませるもの)にまみれ、
どのような修行を励んでも、到底、迷い苦しみから離れ切れない我らを不憫に思い、建てられた本願だから、
弥陀の本意は悪人を救うて成仏させるためだったのである)

人間はみな煩悩の塊(かたまり)、
永遠に助かる縁なき「悪人」と阿弥陀仏は、知り抜かれたからこそ
“必ず救う” と誓われたのだ。
これぞ、弥陀の本願の真骨頂(真価。本来の姿) なのである。

聖人の言われる「悪人」は、
このごまかしの利かない阿弥陀仏に、
悪人と見抜かれた全人類のことであり、
いわば「人間の代名詞」にほかならない。

では
聖人の「善人」とは、
どんな人をいうのであろうか。

“善を励んで助かろう”
“念仏称えて救われよう”
と努める人である。

励めば善ができ、
念仏ぐらいは称え切れると思っている人だから「自力作善」の善人と聖人はおっしゃる。

“諸善も念仏も、いずれの行もおよばぬ悪人”
と見極められて建てられた、弥陀の本願を疑っている人だから、
「疑心の善人」とも言われている。

そのような自力におぼれている人は、
自己の一切の思慮分別を投げ捨てて、
弥陀にうちまかせる心がないから、
弥陀の本願の対象にはならないのだ。

これを
「自力作善の人は、ひとえに他力をたのむ心欠けたる間、弥陀の本願にあらず」
と教誡(教えさとすこと) されるのである。

だが弥陀は、
そのような邪見におごり自己の悪にも気づかぬ、「自力作善」の自惚れ心をも打ち砕き一切をうちまかさせ、
浄土へ生まれさせると誓われている。

かかる「自力作善」の善人さえも、
弥陀は誘引し救いたもうから、
「善人なおもって往生を遂ぐ、いわんや悪人をや」
と言われているのである。

「悪をするほど助かる」
「悪は往生の正因」など、
聖人の教えからは出ようがなかろう。

善人であれ悪人であれ、
要するに「自力の心をひるがえして、他力をたのみたてまつる」
他力の信心(阿弥陀仏から頂く信心) ひとつが強調されるのだ。

『自力の心をひるがえして、他力をたのみたてまつれば、真実報土の往生を遂ぐるなり』
(本願を疑う自力の心をふり捨てて、他力の信心を獲得すれば、真実の浄土へ往生できるのである)

『他力をたのみたてまつる悪人、もっとも往生の正因なり』
(他力の信心を獲た悪人こそが、往生の正因を獲た人だ)

同じ表現を、聖人自作の聖教(仏教の書物) からも挙げておこう。

『本願他力をたのみて自力をはなれたる、これを “唯信” という』
(他力の信心を獲て、自力の心のすたったことを、唯信心で救われるという)

親鸞聖人は、
「他力をたのみて」と言われ、
『歎異抄』では
「他力をたのみたてまつれば」という。
『御文章』(蓮如上人の書物)では
「弥陀をたのみまいらせて」とあるが、
総てみな「信心一つで救われる」
他力信心のことにほかならない。

すでに『歎異抄』一章には、
「弥陀の救いには、善人も悪人も差別はない」と説き、
「ただ信心を要とすと知るべし」
と明言されている。

これによっても、
善人悪人、
一応、分けてはあるが、
弥陀の救いの焦点は、
他力信心一つに絞られていることが、明々白々である。

No title

結論は、

高森会長は歴代の善知識と異なることを言っていても絶対に正しいのだ!

という異安心だということで決着ですね。

歴代の善知識の仰せを踏みにじる高森会長の著書が唯一絶対無二の根拠だなんて、恥ずかしくないのですかね。

No title

『法然上人絵伝』より

上品上生  智覚禅師(新修往生伝)
上品中生  尼善慧(戒珠集)
上品下生  侍従所監藤原忠季(後捨遺往生伝)
中品上生  大原沙彌(戒珠集)
中品中生  少将義孝(保胤往生伝有夢告)
中品下生  沙門智縁(戒珠伝)
下品上正  釈法敬(戒珠伝)
下品中生  覚真阿闍梨(続本朝往生伝)
下品下生  釈慧進(新修往生伝)

全人類は下品下生ではなかったのですか?

No title

禅に参はり性を見ること、たれか高玉・智覚にしかんや。みな社を結び、仏を念じて、ともに上品に登りき。(信巻)

高玉・智覚禅師は上品の往生を遂げたって親鸞聖人仰っているのは嘘ですか?


法然上人も親鸞聖人も嘘つきで、高森会長だけが嘘をつかず正しい教えを伝えているってことですか?

でも、高森会長は、親鸞聖人の教えを正しく伝えると公言しているのに、明らかに違っていますが、高森会長は嘘つきじゃないのですか?

>名無し様

>親鸞会以外の情報に目を向けないのが大きな要因でしょうが、講師部またはこのようなガチガチの会員にたいして淳心房さんならどのように説明されますか?

下品下生なら念仏一つだと『観無量寿経』を見せながら答えますかね。まぁガチガチの会員は判らないでしょうけど。高森信心が篤い内はこちらが言うだけ意固地になる傾向があるので難しいです。

No title

淳心房様

名無しです。

お返事、有難うございました。

> 高森信心が篤い内はこちらが言うだけ意固地になる傾向があるので難しいです。

そうですよね。

言わなければ伝わらないし、言うと意固地になってしまうので困っています。
特に家族が相手だと言わない訳にもいきませんしねぇ。

高森信心に少しでもほころびが出て来れば早いのでしょうから、どうやって気づかせるかなんですけど、そこが難しいです。

>名無し様

仰ることご尤もです。私もかつての仲間達に幾度も教義の誤りをメールして、結局向こう側の情報統制と高森信心のために気づかせることができなかったという経験をしていますので、特に家族となると本当に難しいというのはよく分かります。

私も妻を説得するのに大分時間がかかりました。幸い、私を退会に導いてくれた人が共に私と妻の先輩であったこと、お聖教にどう書かれているかを重視するタイプだったことから分かってくれたのでよかったですが、感情やこれまでの経験、上司の指示を重視するタイプだと厄介です。

私も具体的な策が練り出せずお力になれません。申し訳ないです・・・
プロフィール

淳心房&しゃあ

Author:淳心房&しゃあ
(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


(しゃあ)
平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
singikensho@yahoo.co.jp
(スパム防止のため@を大文字にしてあります。メール送信時は小文字に変えて下さい。)

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