【ツッコミ】自力から他力へさんのコメント

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自力から他力へさんのコメント
19願の対象はすべての人であることは明らかですが

違います。『飛雲』[mixi]三願転入議論の解説1より。

『大無量寿経』18願の「十方衆生」
=『平等覚経』17願の「諸天人民蠕動之類者」
=『大阿弥陀経』4願の「諸天人民蜎飛蠕動之類」
諸々の神々や人々や虫の類

『大無量寿経』19願の「十方衆生」
=『平等覚経』18願の「諸佛國人民有作菩薩道者」
=『大阿弥陀経』7願の「八方上下無央數佛國諸天人民若善男子善女人有作菩薩道」
諸々の仏国土の菩薩の行を行う者


19願の「十方衆生」は、19願文に発菩提心 修諸功徳とあるように、菩提心を発して諸々の善を修める、菩薩の行を行う者が対機です。これについて、 林遊@なんまんだぶ様がコメントにて説明して下さっていますので引用します。

*********************
第十九願に「発菩提心 修諸功徳」とあります。この菩提心については『往生要集』作願門p.902に詳しく説いてあります。その内容として四弘誓願が挙げられています。
http://wikidharma.org/57fe2b54deeb7

四弘誓願
①衆生無辺誓願度。 一切の衆生をさとりの岸にわたそうと誓う。
②煩悩無尽誓願断。 一切の煩悩を断とうと誓う。
③法門無量誓願学。 一切の教えを学びとろうと誓う。
④仏道無上誓願成。 この上ないさとりを成就しようと誓う。
こ成の四は諸仏・菩薩に共通する願なので総願という。 これに対してそれぞれの仏や菩薩に固有の願を別願という。 {wikiarc}
*往生要集と少しく文言が違いますが意味は同じです。

この四弘誓願を発(おこ)せというのですから、普通の人間なら無理なことは一目瞭然です。本当にこのような願いを発したら衆生無辺誓願度ですから、あらゆる衆生(生きとし生けるもの)を済度するまで死んでいる暇はないわけですね。
また、修諸功徳とは六度万行(六波羅蜜)ですが、六波羅蜜は阿弥陀如来が因位の法蔵菩薩であったときに修した行法です。

 国を棄て王を捐てて財色を絶ち去け、みづから六波羅蜜を行じ、人を教へて行ぜしむ。{無量寿経p.26}
http://wikidharma.org/57fe2a5ae84b5

ですから虚心に第十九願文を読めば、これは私には不可能だとサルでもわかります。それを言葉の定義を言い換えて、会員に勧めるのですから無茶苦茶です。
まさに「濁世の道俗、よくみづからおのれが能を思量せよとなり、知るべし。」p.381ですね。

*********************

読まれればお分かりかと思いますが、会員の皆さんが、普段の身口意の三業で行っているであろう親切や言行一致等の倫理・道徳的な善を、六度万行や19願の行と同列に見做すこと自体がそもそも間違っているのです。布施が親切で、持戒が言行一致で・・・なんていう認識が仏教で説かれる「善」というもの、「行」というものをなめている証拠です。会員とは会話ができないという林遊様のご意見はまことにご尤もです。
この世で悟りを開くか、浄土を願うかの違いだけで、修諸功徳の善そのものは聖道行なのですから、在家の人間が仕事片手間で行ずることができるほど甘っちょろい行ではないのです。それこそ出家して、一生涯修行に打ち込んでなんぼという世界です。いや、なんぼにもならないかも知れません。それで親鸞聖人は、

しかるに常没の凡愚、定心修しがたし、息慮凝心のゆゑに。散心行じがたし、廃悪修善のゆゑに。ここをもつて立相住心なほ成じがたきがゆゑに、「たとひ千年の寿を尽すとも、法眼いまだかつて開けず」(定善義)といへり。いかにいはんや無相離念まことに獲がたし。ゆゑに、「如来はるかに末代罪濁の凡夫を知ろしめして、相を立て心を住すとも、なほ得ることあたはじと。いかにいはんや、相を離れて事を求めば、術通なき人の空に居て舎を立てんがごときなり」(同)といへり。(化身土文類)

【現代語訳】
しかし、はかり知れない昔から迷い続けてきた愚かな凡夫は、定善の行を修めることができない。心を乱さず思いを一つに集中して浄土の相を観ずる行だからである。散善の行も修めることができない。悪い行いをやめて善い行いをすることだからである。このようなわけで、仏や浄土の相を観じて思いを一つに集中することさえできないのだから、『観経疏』には、「たとえ千年という長い寿命を費やしても、真実を見る智慧の眼が開かない」(散善義)といわれている。ましてすべての相を離れ、真如法性をそのまま観ずることなど決してできない。だから、『観経疏』には、「釈尊は、はるかに遠く、末法の世の煩悩に汚れた衆生のことを、仏や浄土の相を観じて思いを一つに集中することなどできないと見通しておられる。ましてすべての相を離れて真如法性を観じようとするなら、それは、神通力のないものが空中に家を建てようとするようなものであり、決してできるはずがない」(定善義)といわれている。

と、我々には定善散善の行を修めることができないと教えられるのです。そのような定善散善、19願の善、また六度万行といった仏教で説かれる諸善を、親鸞聖人が我々にやれと勧められるはずがありますか? 自力から他力へさんには

親鸞聖人が「他力の信心を獲るために19願を実践せよ、定散二善をせよ」と仰った直接的な根拠をご提示下さい

と求めたはずですが、的外れな根拠ばかりで一向に回答がありません。根拠だけで結構ですから、親鸞聖人のお言葉をご提示下さるよう重ねて求めます。

ところで、19願の実践が他力への不可欠なプロセスといい、他力の信心を頂いたと仰るのですから、当然自力から他力へさんは19願を実践されたのでしょうね? 林遊様のコメントをご覧になったなら、今後19願の実践などと軽々しく言わないことです。19願の行が実際はどんな行かも知らずに、親鸞会で勧められる善もどきの善をやった位で19願を通ったつもりになっている者こそ戯論者でしょう。



自力から他力へさんのコメント
後、すべての人が「逆謗の屍」というのは、仏眼からご覧になった実機のことです。
獲信すれば、「逆謗の屍」であることが知らされます。


根拠のない高森邪義の受け売りです。七高僧方、親鸞聖人、覚如上人、蓮如上人は、ご自身のことを「逆謗の屍」だなどとは仰っていません。仰っていたら根拠を提示して下さい。



自力から他力へさんのコメント
ひそかに『観経』の三心往生を案ずれば、これすなはち諸機自力各別の三心なり。『大経』の三信に帰せしめんがためなり、諸機を勧誘して三信に通入せしめんと欲ふなり。(愚禿鈔)

定散諸機を勧誘して大経の三信に帰せしめるということですね。定散二善に堪えられぬ悪人には最初から念仏一つです。ただ親鸞聖人は、悪人に定散諸機も含めて

『観経』の定散の諸機は、極重悪人、ただ弥陀を称せよと勧励したまへるなり。濁世の道俗、よくみづからおのれが能を思量せよとなり、知るべし。(化身土文類)

と仰っています。定散諸機にさえ「ただ弥陀を称せよ」ですから、我々は尚更「ただ弥陀を称せよ」以外お勧めはありません。また、定散二善や19願の実践が他力への不可欠なプロセスでない証拠に、聖人は

定散諸機各別の
 自力の三心ひるがへし
 如来利他の信心に
 通入せんとねがふべし
(浄土和讃)

と仰せです。自力の三心をひるがえし捨てて『大経』の三信に通入せよということですから、定散二善や19願の勧めがないことはここでも明らかです。



自力から他力へさんのコメント
実機は逆謗、救われていないときは自惚れている疑心の善人、救われると逆謗と知らされます。

だからどこにそんなことを教えられているのですか? 根拠を提示して下さい。ちなみに疑心の善人とは20願自力念仏の人のことです(『飛雲』誡疑讃を19願を勧められたお言葉と解釈して、真宗界から笑われていますよ参照)。



自力から他力へさんのコメント
雑行は浄土の方便仮門であり浄土の要門だから、18願までの必要不可欠なプロセスということです。

は? 雑行は最初から「捨てて」ですが。雑行をやれなどと教える人は善知識方には見当たりません。真宗には「雑行の勧め」はありません。五正行以外の諸善を全て「雑行」と言いますので、当然諸善の勧めはありません。19願の勧めはありません。19願の実践が他力への不可欠なプロセスなどとはとんだ珍説というわけです。



三願転入不要さんに鋭く突っ込まれて、挙句の果てに自力から他力へさんが出してきた根拠が『歎異抄をひらく』(高森顕徹著)とは笑止千万です。結局根拠は聖教にはなく、高森会長の教え、高森会長の本にしかなかったということですね。

三願転入不要さん、また林遊様には私が言いたかったこと以上のことをコメント下さいまして大変感謝しております。この場を借りて御礼申し上げます。
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『大阿弥陀経』の第七願

『平等覚経』と『大阿弥陀経』はWikiArcにupしてあります。
『平等覚経』は読み下し文ですが『大阿弥陀経』は御開山の引文以外は漢文です。
で、『大阿弥陀経』の第七願を漢文ぶんなげでは会員があまりにもかわいそうなので、読み下しておきました。速攻で読み下したのですが意味はとれると思ふ。

なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ

これだけ論破されたら普通は気がつくけどね。

>自力から他力へさんのコメント
後、すべての人が「逆謗の屍」というのは、仏眼からご覧になった実機のことです。
>獲信すれば、「逆謗の屍」であることが知らされます。

>根拠のない高森邪義の受け売りです。七高僧方、親鸞聖人、覚如上人、蓮如上人は、ご自身のことを「逆謗の屍」だなどとは仰っていません。仰っていたら根拠を提示して下さい。


煩悩具足(逆謗の屍)とはっきり知らされていないということは、残念ですが親鸞聖人の信心と異なります。あなたは間違っています。
早く弥陀の救いに値って、真実の自己の姿を知らされて下さい。
二種深信が立っていなければ、阿弥陀仏に救われた人とはいわれません。真実の信心とは二種深信のことです。二種深信といいますのは、二種の深信をいいます。二種とは、機(自己)と法(本願)の二つをいい、深信とは、ツユチリほどの疑いもなくなったことをいいます。

一つには決定して、「自身は、現にこれ罪悪生死の凡夫、曠劫より已来常に没し常に流転して、出離の縁有る事無し」と深信す(機の深信)

“ いままでも、いまも、いまからも、助かる縁のない極悪人の自己が、ハッキリした”

二つには決定して、「彼の阿弥陀仏四十八願をもって衆生を摂受したまうこと、疑無く慮無く彼の願力に乗ずれば、定んで往生を得」と、深信す
(法の深信)

“この世も未来も、絶対の幸福に救い摂るという弥陀の誓い、まことだったとハッキリした”

 機といいますのは、罪深い自己のことであり、法とは、阿弥陀仏の本願のことです。

 金輪際助かる縁のない自己に、ツユチリほどの疑心もなくなったことを機の深信といい、そんな者を必ず助けるという、弥陀の本願にツユチリほどの疑心もなくなったのを、法の深信といいます。これを機法二種深信といいます。

 分かりやすくいえば、己の罪深きことと、弥陀の恩徳の高きことを、ハッキリと知らされたことをいいます。
「ひょっとしたら助からぬのではなかろうか」という不安は、絶対、助かる縁なき者と知らされる機の深信がないから起きる心です。

 また、「ひょっとしたら助からんのではなかろうか」という心は、「必ず助ける」と誓われている弥陀の本願を疑っている心ですから法の深信がないのです。

「一切の群生海、無始よりこのかた、乃至、今日今 時に至るまで、穢悪汚染にして清浄の心無く、虚仮諂偽にして真実の心なし」(教行信証信巻)

「無始よりこのかた、一切群生海、無明海に流 転し、諸有輪に沈没し、衆苦輪に繋縛せられて、清浄の信楽なく、法爾として真実の信楽なし」(教行信証信巻)

「然るに、微塵界の有情、煩 悩海に流転し、生死海に漂没して真実の廻向心なく、清浄の廻向心なし」(教行信証信巻)

下品下生
さるべき業縁の催せば、如何なる振舞もすべし(歎異鈔)

「善知識をおろかに思い、師をそしる者をば謗法の者と申すなり。親をそしる者をば五逆の者と申すなり」(末灯鈔)

お手紙の送り先の同行ではなく、あなたはどうでしょうか?

愚禿悲歎述懐

浄土真宗に帰すれども
真実の心はありがたし
虚仮不実のわが身にて
清浄の心もさらになし

外儀のすがたはひとごとに
賢善精進現ぜしむ
貪瞋邪儀おおきゆえ
奸詐ももはし身にみてり


悪性さらにやめがたし
こころは蛇蝎のごとくなり
修善も雑毒なるゆえに
虚仮の行とぞなづけたる

無慚無愧のこの身にて
まことのこころはなけれども
弥陀の回向の御名なれば
功徳は十方にみちたまう

蛇蝎奸詐のこころにて
自力修善はかなうまじ
如来の回向をたのまでは
無慚無愧にてはてぞせん

罪業もとよりかたちなし  
妄想顛倒のなせるなり  
心性もとよりきよけれど  
この世はまことのひとぞなき

無明煩悩しげくして
 塵数のごとく遍満す
 愛憎違順することは
 高峰岳山にことならず(正像末和讃)

三願転入が万人共通の道程であることは、
これで理解できると思います。


福徳蔵(19願)を顕説して群生海を誘引し、
阿弥陀如来、本誓願を発してあまねく諸有海を化したまふ。(教行信証化土巻)

聖道門に行き詰まった人も含めたすべての人を19願へ誘引し、(群生海、あまねく諸有海ですから、偽なるもの、虚なるものだけではないですよ)

「それ濁世の道俗、すみやかに円修至徳の真門に入りて、難思往生を願ふべし。」(教行信証化土巻)
と仰っています。

19願の人々に、折れず曲がらず速やかに20願へ進めよ、ということですから、すべての人が19願を通るように親鸞聖人が勧められています。

しかればすなはち釈迦牟尼仏は、功徳蔵を開演して、十方濁世を勧化したまふ。阿弥陀如来はもと果遂の誓[この果遂の願とは二十願なり]を発して、諸有の群生海を悲引したまへり。(教行信証化土巻)

No title

なんだ。
あの偽僧侶か。

No title

まだ言ってくるなんて、小学生以下の知能ですね。

最初に

煩悩具足と逆謗の屍との違いも理解できないとはね。

簡単に言うと、善人も煩悩具足、悪人も煩悩具足、逆謗の者も煩悩具足

善人、悪人、逆謗に共通しているのは煩悩具足

『高僧和讃』に

願力成就の報土には
 自力の心行いたらねば
 大小聖人みなながら
 如来の弘誓に乗ずなり

煩悩具足と信知して
 本願力に乗ずれば
 すなはち穢身すてはてて
 法性常楽証せしむ

とある通り、大小聖人も煩悩具足と信知してなんですよ。
小学生以下の知能では

善人の代表である大小聖人も逆謗だ!

と邪教徒のようなことを平気で言うでしょうけど。

機の深信も「煩悩具足と信知して」であって、「逆謗と信知して」ではないです。

親鸞聖人の御和讃も煩悩具足の懺悔です。逆謗に関する語は全くないです。

No title

福徳蔵(19願)を顕説して群生海を誘引し、
阿弥陀如来、本誓願を発してあまねく諸有海を化したまふ。(教行信証化土巻)

これについては前回言った通りですが、物忘れが激しいようで。

再掲
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
福徳蔵を顕説して群生海を誘引し、
阿弥陀如来、本誓願を発してあまねく諸有海を化したまふ。(化土巻)

この前に、

しかるに濁世の群萌、穢悪の含識、いまし九十五種の邪道を出でて、半満・権実の法門に入るといへども、真なるものははなはだもつて難く、実なるものははなはだもつて希なり。
偽なるものははなはだもつて多く、虚なるものははなはだもつて滋し。ここをもつて

とあるから、外道から聖道門に入りながらさとりをえることのできない者に対して、『観経』定散二善と19願が説かれたとしか解釈のしようがありません。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

日本語では「ここをもつて」とある時には、前の文をうけることになっているのです。

>聖道門に行き詰まった人も含めたすべての人を19願へ誘引

なら、前の文章は無意味ですね、日本語では。

群生海≠一切の群生海
諸有海≠一切の諸有海

日本語ではこうなります。

>19願の人々に、折れず曲がらず速やかに20願へ進めよ、ということですから、すべての人が19願を通るように親鸞聖人が勧められています。

日本語が分かっていないようですね。
【19願の人々に】と貴方は書いていますよ。
19願 → 20願
これと誰もが19願を通るという話は関係ないことです、日本語では。

貴方も人間でしょうから、まず恥を知る知恵をつけて、次に小学生並の知能を身につけてからコメントしましょう。

>日本語では「ここをもつて」とある時には、前の文をうけることになっているのです。

>聖道門に行き詰まった人も含めたすべての人を19願へ誘引

>なら、前の文章は無意味ですね、日本語では。


せっかく外道を離れて聖道門に入った(仏縁を結んだ)のに、
偽なるもの虚なるものが多いので、善を浄土に差し向ける19願の教えを説いて、(偽なるもの虚なるものを含めて)広く一切の人々を誘引した。

この解釈が普通です。

No title

>せっかく外道を離れて聖道門に入った(仏縁を結んだ)のに、
>偽なるもの虚なるものが多いので、善を浄土に差し向ける19願の教えを説いて、(偽なるもの虚なるものを含めて)広く一切の人々を誘引した。

>この解釈が普通です。

合ってますよ。
ただし、貴方の日本語の理解が幼稚なので、貴方の書いた文の意味も分かっていないみたいですね。

聖道門に入って偽なるもの虚なるものが多いとは、聖道門に行き詰った人のこと。

貴方の文を言い換えると

聖道門に行き詰った人が多いので、善を浄土に差し向ける19願の教えを説いて、(偽なるもの虚なるものを含めて)広く一切の人々を誘引した。

聖道門に関係していない人のことはないですね。

まずは恥を知りましょう。

>群生海≠一切の群生海
 諸有海≠一切の諸有海


「あまねく」が抜けています。
あまねくの意味は、
[副]《形容詞「あまねし」の連用形から》もれなくすべてに及んでいるさま。広く。一般に。「世間に―知れわたる」

>貴方の文を言い換えると

>聖道門に行き詰った人が多いので、善を浄土に差し向ける19願の教えを説いて、(偽なるもの虚なるものを含めて)広く一切の人々を誘引した。

>聖道門に関係していない人のことはないですね。


あまねく諸有海ですから(広く一切の人々)ですから、19願を説かれた相手は、偽なるもの虚なるものの他に一般人にも及びます。

No title

あまねく諸有海
十方衆生

同じ意味ですね。
残念ですが、十方衆生といっても、関係するものとしないものがあることは、19願の「十方衆生」でも明白になっていますが、聖道門の経典にも「十方衆生」「あまねく衆生」など多くあります。もし、それら聖道経典の「十方衆生」「あまねく衆生」にあなたも入るのなら、聖道門をしましょうね。聖道門は「十方衆生」「あまねく衆生」に対して説かれたのですから。

No title

貴方の引用した

「一切の群生海、無始よりこのかた、乃至、今日今 時に至るまで、穢悪汚染にして清浄の心無く、虚仮諂偽にして真実の心なし」(教行信証信巻)

「無始よりこのかた、一切群生海、無明海に流 転し、諸有輪に沈没し、衆苦輪に繋縛せられて、清浄の信楽なく、法爾として真実の信楽なし」(教行信証信巻)

ここには「一切」とあるのは分かりますか?

親鸞聖人は「一切」と敢えて入れられている訳ですね。それによって、関係ない人はいないことを表現されている。逆にいうと、「一切」がないと漏れている者がいるということ。

簡単な日本語ですよ。

No title

18願についての親鸞聖人の説明
「一切の群生海」

19願についての親鸞聖人の説明
「群生海」

違うのですよ。

19願から始めて下さい

>あまねく諸有海
 十方衆生

>同じ意味ですね。
残念ですが、十方衆生といって  も、関係するものとしないものがあることは、19願の「十方衆生」でも明白になっていますが、聖道門の経典にも「十方衆生」「あまねく衆生」など多くあります。もし、それら聖道経典の「十方衆生」「あまねく衆生」にあなたも入るのなら、聖道門をしましょうね。聖道門は「十方衆生」「あまねく衆生」に対して説かれたのですから。


聖道門は釈迦の説かれた自力仏教(19願から出た教え)であり、方便だが、助からない教えです。
末法の私たちは修する必要がありませんし、後生の一大事を解決できません。

それに対して19願は他力仏教であり浄土門です。
対象はあまねく諸有海(すべての人)です。
生まれたときから極重の悪人(救われている人)はいません。
親鸞聖人は19願を浄土の要門、仮門と言っていますので、
18願までの必要なプロセスであり仮に留まる所であることが理解できると思います。
つまり、すべての人は19願から始める必要があるということです。

No title

>聖道門は釈迦の説かれた自力仏教(19願から出た教え)であり、方便だが、助からない教えです。
>末法の私たちは修する必要がありませんし、後生の一大事を解決できません。

19願は阿弥陀仏の建てられた方便の願(聖道門を断念した人のための願)であり、方便だが、助からない教えです。
末法の私たちは修する必要がありませんし、後生の一大事を解決できません。

>生まれたときから極重の悪人(救われている人)はいません。

極重の悪人とは下品下生のこと。仏語の使い方が間違っています。

>親鸞聖人は19願を浄土の要門、仮門と言っていますので、
>18願までの必要なプロセスであり仮に留まる所であることが理解できると思います。
>つまり、すべての人は19願から始める必要があるということです。

親鸞聖人は19願を浄土の要門、仮門と言っていますので、
聖道門の人の18願までの必要なプロセスであり仮に留まる所であることが理解できると思います。
つまり、すべての人は19願から始める必要がないということです。

>18願についての親鸞聖人の説明
「一切の群生海」

>19願についての親鸞聖人の説明
「群生海」

違うのですよ。


19願の対象から外れるのは、18願に救われた人(逆謗の屍)です。
あなたは、自分の頭の中で三願転入した(したつもりになっている)
仏教を舐めている。
獲信は簡単ではありません。

身をもって19願から20願に進み、18願に救われ(南無阿弥陀仏を頂いて)、真仮の違いを知らされ、報謝の念仏を称える身になって下さい。

No title

19願は誰のための願か?

平等覚経    諸佛國人民有作菩薩道者(諸々の仏国の菩薩道をなす者)
大阿弥陀経   八方上下無央數佛國諸天人民若善男子善女人有作菩薩道(諸々の仏国の菩薩道をなす善男人善女人)
尊号真像銘文  「唯除五逆誹謗正法」がないから、五逆・謗法の者は除かれている
化土巻・要門釈 半満・権実の法門(聖道門)を断念した人
西方指南抄   諸行の人
浄土和讃    定散諸機
高僧和讃    定散諸機


19願が悪人に関係があるなんて、どこにもありません。
全聖教が、19願は善人(聖道門を断念した人)のための願としかないです。

No title

>19願の対象から外れるのは、18願に救われた人(逆謗の屍)です。

麻原死刑囚と同類の思考ですね。

>あなたは、自分の頭の中で三願転入した(したつもりになっている)
>仏教を舐めている。
>獲信は簡単ではありません。

法の難を説くなかに、まことにこの法をもつて凡を転じて聖となすこと、なほし掌を反すがごとくなるをや。大きにこれ易かるべきがゆゑに、おほよそ浅き衆生は多く疑惑を生ぜん。(信巻)

獲信は簡単ですよ。簡単すぎるから、浅智慧の貴方のような人が疑惑を生ずるのです。

自力から他力へ

>19願は誰のための願か?

平等覚経    諸佛國人民有作菩薩道者(諸々の仏国の菩薩道をなす者)
大阿弥陀経   八方上下無央數佛國諸天人民若善男子善女人有作菩薩道(諸々の仏国の菩薩道をなす善男人善女人)
尊号真像銘文  「唯除五逆誹謗正法」がないから、五逆・謗法の者は除かれている
化土巻・要門釈 半満・権実の法門(聖道門)を断念した人
西方指南抄   諸行の人
浄土和讃    定散諸機
高僧和讃    定散諸機


19願が悪人に関係があるなんて、どこにもありません。
全聖教が、19願は善人(聖道門を断念した人)のための願としかないです。


あなたは善をしない悪人ですか?
善をしたくない言い訳に都合よく解釈しているのでしょうか?
私は善人ではありませんと言いたいのでしょうか?
悪人で生まれた人は、何があっても死ぬまで悪人ですか?
善人で生まれた人は、何があっても死ぬまで善人ですか?
要門釈に書かれているあまねく諸有海が分からないみたいですね。

>19願の対象から外れるのは、18願に救われた人(逆謗の屍)です。

>麻原死刑囚と同類の思考ですね。


尊号真像銘文  「唯除五逆誹謗正法」がないから、五逆・謗法の者は除かれている というのは、
「麻原死刑囚と同類の思考」ということが言いたいのですか?

私は阿弥陀仏から他力の信心を頂いた親鸞会に所属する親鸞学徒です。

ネットで親鸞会の教義非難をしている方々の記事をたくさん読み込み、退会者の方々の教義理解や解釈が明らかに間違っていることが分かったのでコメントしています。

「親鸞会憎し」で今生を終えて欲しくないと思います。
退会者の方々には何とか早く間違いに気付いて頂き、真実の弥陀の救いに値って頂きたいです。

No title

>尊号真像銘文  「唯除五逆誹謗正法」がないから、五逆・謗法の者は除かれている というのは、
>「麻原死刑囚と同類の思考」ということが言いたいのですか?

日本語を学んでからコメントしましょう。

>ネットで親鸞会の教義非難をしている方々の記事をたくさん読み込み、退会者の方々の教義理解や解釈が明らかに間違っていることが分かったのでコメントしています。

ネットで親鸞会の教義非難をしている方々の記事をたくさん読み込み、高森顕徹氏と愉快な仲間たちの教義理解や解釈が明らかに間違っていることが分かったのでコメントしています。

麻原彰晃と同じとはなかなか厳しいが、麻原と同じといのはカルト宗教と同じ意味ではないのか。
中にいると分からないだろうが、世間からすれば親鸞会はいわゆるカルト宗教の一つですからね。
世間に出てみるとよくわかるよ。
プロフィール

淳心房&しゃあ

Author:淳心房&しゃあ
(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


(しゃあ)
平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
singikensho@yahoo.co.jp
(スパム防止のため@を大文字にしてあります。メール送信時は小文字に変えて下さい。)

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