本願念仏(18願)の機の不体失往生と、非本願諸行往生(19願)の機の体失往生の諍論

19願による往生は臨終に定まります。この世は生涯かけて修諸功徳の善に励まなければなりません。油断していたら臨終来迎にあずかれないかも知れないからです。これはまさに親鸞会で言われる

死ぬまで求道

です。「30年や40年聞いて助かるものではない」という高森顕徹会長の主張はある意味当然のことです。

19願の機は、もし臨終に阿弥陀仏の来迎がなければ化土往生もできません。そしてたとえ来迎にあずかれたとしても往く先は胎生辺地、双樹林下の往生すなわち化土往生ですし、

胎生辺地に生れても五百歳をへ、あるいは億千万衆のなかに、ときにまれに一人、真の報土にはすすむとみえたり。(唯信鈔文意)

とあるように化土に往生して完成ではありません。化土で更に500年を経て、あるいは億千万という化土往生した方々の中で時に稀に一人報土往生できるというものです。ですから、親鸞聖人はこうした化土往生すなわち19願(と20願)を厳しく誡め、私達には一貫して報土往生すなわち18願のみをお勧めになっています。


こうした19願と18願を対比して教えられているのが、親鸞会でも有名な

体失・不体失往生の諍論

です。親鸞会ではアニメにしてまで強調していますが、これは「人生の目的は、あるのか、ないのか」だとかいう諍いでも、「若不生者」の「生」は肉体のことか心のことかという諍いでもありません。弥陀の救いは現在か死後かという諍いでもありません。

「往生が定まる」のは「平生」か「臨終」か

という諍いです。

一 体失・不体失の往生の事。

 上人[親鸞]のたまはく、先師聖人[源空]の御とき、はかりなき法文諍論のことありき。善信(親鸞)は、「念仏往生の機は体失せずして往生をとぐ」といふ。小坂の善恵房[証空]は、「体失してこそ往生はとぐれ」と[云々]。この相論なり。

 ここに同朋のなかに勝劣を分別せんがために、あまた大師聖人[源空]の御前に参じて申されていはく、「善信御房と善恵御房と法文諍論のことはんべり」とて、かみくだんのおもむきを一々にのべまうさるるところに、大師聖人[源空]の仰せにのたまはく、善信房の体失せずして往生すとたてらるる条は、やがて「さぞ」と御証判あり。善恵房の体失してこそ往生はとぐれとたてらるるも、またやがて「さぞ」と仰せあり。

 これによりて両方の是非わきまへがたきあひだ、そのむねを衆中よりかさねてたづねまうすところに、仰せにのたまはく、「善恵房の体失して往生するよしのぶるは、諸行往生の機なればなり。善信房の体失せずして往生するよし申さるるは、念仏往生の機なればなり。〈如来教法元無二〉(法事讃・下)なれども、〈正為衆生機不同〉(同・下)なれば、わが根機にまかせて領解する条、宿善の厚薄によるなり。念仏往生は仏の本願なり、諸行往生は本願にあらず。念仏往生には臨終の善悪を沙汰せず、至心信楽の帰命の一心、他力より定まるとき、即得往生住不退転の道理を、善知識にあうて聞持する平生のきざみに治定するあひだ、この穢体亡失せずといへども、業事成弁すれば体失せずして往生すといはるるか。本願の文あきらかなり、かれをみるべし。つぎに諸行往生の機は臨終を期し、来迎をまちえずしては胎生辺地までも生るべからず。このゆゑにこの穢体亡失するときならでは、その期するところなきによりてそのむねをのぶるか。第十九の願にみえたり。勝劣の一段におきては、念仏往生は本願なるについて、あまねく十方衆生にわたる。諸行往生は、非本願なるによりて定散の機にかぎる。本願念仏の機の不体失往生と、非本願諸行往生の機の体失往生と、殿最懸隔にあらずや。いづれも文釈ことばにさきだちて歴然なり」。


この『口伝鈔』のお言葉によれば、法然聖人は

仏の本願である念仏往生(18願往生)の機は、善知識より即得往生住不退転の道理を疑い無く聞いた信心獲得のときに往生治定する。平生に業事成弁するので、往生は肉体が滅びる前、すなわち平生に定まる。念仏往生は本願であるから、その救いはあまねく十方衆生にわたる。

非本願である諸行往生の機は、臨終を待ち、来迎がなければ化土往生もできないことが第十九の願からうかがえる。往生はこの肉体が滅びるとき、すなわち臨終に定まる。諸行往生は非本願であるから、その救いは定散諸機に限られる。

と仰っていることが判ります。

もうお分かりかと思いますが、体失・不体失往生の諍論でも19願の勧めは否定されているのです。

体失・不体失往生の諍論とは、本願念仏(18願)の機の不体失往生と、非本願諸行往生(19願)の機の体失往生の諍論と言えるでしょう。私達が体失・不体失往生の諍論から学ぶことは、

・18願念仏往生は仏の本願であるが、19願諸行往生は本願にあらず。
・18願による往生は平生に定まる(不体失往生)のに対して、19願の往生は臨終に定まる(体失往生)。
・18願による救いはあまねく十方衆生にわたるのに対し、19願による救いは定散諸機に限られる。
・18願による救いを求めて19願の善をやれなどという説示はない。


ということです。お聖教のどこを読んでも、「18願はこういう願」「19願はこういう願」ということが比較して書かれてありますが、「18願の救いを目指して19願の善をやりなさい」という珍しい教えはどこにも見出すことはできません。ところが、会員の皆さんは

・全ての人は19願→20願→18願と進んで助かる
・18願の世界に入るには、19願・20願の道程を通らなければならない


という誤った概念を縦と横の線の図で視覚的にも植え付けられていて、また要門、方便、浄土方便の善などのお言葉を本来とは違った意味で教え込まれるため、19願のことを自分にとって必要、重要、通らなければならないかなめの教えと誤解してしまうのです。

先に書いたように19願の善にいくら励んでも往生が定まるのは臨終ですから、この世は

死ぬまで求道

です。ゴールがある、完成があると言われながら実際はゴールのない、完成のない道に進まされているという事実に、会員の皆さんには一刻も早く気がついて頂きたいものです。


なお、体失・不体失往生の諍論については

体失不体失往生の諍論(『口伝鈔』を直に拝読しましょう)
『飛雲』体失不体失往生の諍論

でも取り沙汰されていますので参照して下さい。これらをお読みになった上で、

『親鸞会公式ホームページ』親鸞聖人の三大諍論とは、どんなことか(1) ~体失不体失往生の諍論~

と比較してみるのも面白いかも知れません。
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淳心房&しゃあ

Author:淳心房&しゃあ
(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


(しゃあ)
平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
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