19願からは、自分の意思で、あるいは教えてもらうことで離れることができます

会員の皆さんの大きな誤解の一つに、

19願の善に励んで、できない自分を知らされてからでなければ次へ進めない

というものがあります。念仏往生、平生業成の教えをいつの間にか諸行往生、臨終業成、死ぬまで求道の教えにすり替えられていたらこうした考えは無理からぬこと、というか当然のことです。


19願からは、自分の意思で、あるいは教えてもらうことで離れることができます。19願による往生を願わない、19願に誓われている雑行・雑修の行をやらなければいいだけの話です。こんな簡単なことができないとは、会員の皆さんにかけられている深いマインドコントロールの恐ろしさが知らされるというものです。

行を自分の意思で選んで捨てられることは、会員の皆さんが五雑行を自分の意思で選んで捨てていることからも分かると思います。言っておきますが、五雑行は諸善万行の一つです。「修諸功徳」の中の行の一つです。親鸞会で「方便の善だからやりなさい。やらねば信仰は進みません」なんかと言われている善の一つです。でも、高森会長から「心も行為も間違い」と教えられるから、自分の意思で選んで捨てているでしょう?


ちなみにこの「選んで」ということですが、私達が迷いを離れさとりを得るには何を捨て、何を「選んで」取るべきなのでしょうか。これについては法然聖人が教えられています。

それすみやかに生死を離れんと欲はば、二種の勝法のなかに、しばらく聖道門を閣きて選びて浄土門に入るべし。浄土門に入らんと欲はば、正雑二行のなかに、しばらくもろもろの雑行を抛てて選びて正行に帰すべし。正行を修せんと欲はば、正助二業のなかに、なほ助業を傍らにして選びて正定をもつぱらにすべし。正定の業とは、すなはちこれ仏名を称するなり。名を称すれば、かならず生ずることを得。仏の本願によるがゆゑなり。選択本願念仏集

【現代語訳】
そもそも、速やかに迷いの世界を離れようと思うなら、二種のすぐれた法門のうちで、聖道門をさしおき、浄土門に入れ。浄土門に入ろうと思うなら、正行と雑行の中で、雑行を捨てて正行に帰せ。正行を修めようと思うなら、正定業と助業の中で、助業を傍らにおいておきもっぱら正定業を修めよ。正定業とは、すなわち仏の名号を称えることである。称名するものは必ず往生を得る。阿弥陀仏の本願によるからである。

この御言葉は「選」という字が三回も重ねられていることから「三選の文」と呼ばれますが、その中で

浄土門に入らんと欲はば、正雑二行のなかに、しばらくもろもろの雑行を抛てて選びて正行に帰すべし。

と言われていることに会員の皆さんは注目です。「五正行以外の諸善」=「雑行」ですから、五雑行であろうが他の諸善であろうが関係なく法然聖人は抛ててと教えられています。

更には助業を差し置いて正定業である称名念仏一行を専らにしなさい。本願の御名を二心なく専ら修する者は必ず往生を得る。なぜならそれが本願に誓われ、阿弥陀仏のお心にかなった行為であるからだと仰せです。

実に分かりやすい仰せです。いやぁ、法然聖人のご教化、マジパネェっす! 親鸞聖人もこの、宗の淵源が尽くされ、教の理致がきわめられている法然聖人の『選択本願念仏集』を

『選択本願念仏集』は、禅定博陸[月輪殿兼実、法名円照]の教命によりて撰集せしめるところなり。真宗の簡要、念仏の奥義、これに摂在せり。見るもの諭り易し。まことにこれ希有最勝の華文、無上甚深の宝典なり。(化身土文類・後序)

【現代語訳】
『選択集』は、関白九条兼実公の求めによって著されたものである。浄土真実の教えのかなめ、他力念仏の深い思召しがこの中におさめられていて、拝読するものは容易にその道理に達することができる。まことに、たぐいまれなすぐれたご文であり、この上なく奥深い教えが説かれた尊い書物である。

と絶賛されていることは度々述べています。これは諭り易いですわ。法然聖人は捨てるものは「捨てよ」、選び取るものは「選んで何々せよ」とこれ以上ないくらいハッキリ仰せです。であるが故に明恵上人高弁は『選択本願念仏集』を激しく批判し、『摧邪輪』という書物を著しているほどなのですが…。


話を元に戻します。19願を自分の意思で捨てるということについてです。19願は定散諸機が対機であり、19願の善は化土往生する因であり、この世は生涯修諸功徳の善に努め、往生が定まるのは臨終、来迎がなければ化土往生することもできない、阿弥陀仏はそういった雑行・雑修を修める者を照らし摂めない、これは浄土を願わせるための方便の教えだということを聞いて、私が救われる教えではないと自分の意思で19願から離れればいいだけのことです。

経家によりて師釈を披くに、雑行のなかの雑行雑心・雑行専心・専行雑心あり。また正行のなかの専修専心・専修雑心・雑修雑心は、これみな辺地・胎宮・懈慢界の業因なり。ゆゑに極楽に生ずといへども三宝を見たてまつらず。仏心の光明、余の雑業の行者を照摂せざるなり。仮令の誓願(第十九願)まことに由あるかな。仮門の教、欣慕の釈、これいよいよあきらかなり。(化身土文類)

【現代語訳】
釈尊の経説にもとづき、祖師方の解釈を見てみると、雑行の中には、雑行雑心、雑行専心、専行雑心があり、また正行の中には、専修専心、専修雑心、雑修雑心がある。これらはみな自力の行であって、辺地・疑城胎宮・懈慢界といわれる方便の浄土に生れる因なのである。だから、浄土に生れても仏を見たてまつることができず、教えを聞くことができず、菩薩や声聞たちを見ることもできない。阿弥陀仏の光明は自力の行をまじえるものを照らしおさめることはないのである。第十九願を方便の願とするのは、まことに意味深いことである。釈尊が『観無量寿経』に定善・散善を説かれ、善導大師がこれは浄土を慕い願わせるための方便の教えであると解釈されたおこころが、いよいよ明らかに知られるのである。

このようなことですから、「19願を捨てよ」というのが聖人のお心なわけです。


実態としては、会員の皆さんは19願の善の真似事の真似事(にもならない?)をやっているだけであって、高森会長が言うように講師部員でさえ「君たちは十九願の入口にも入ってない」のです。私も会員だった頃の感覚としては、19願の門前でうろうろしているというものでした。
元々19願には入っていないのですから、その門戸を叩くのは止めて、引き返して直ちに18願の門戸を叩けばいいだけです。19願の先に20願、20願の先に18願があるという誤った理解は捨てて下さい。直ちに18願を聞いて、そして平生に往生定まる身となれます。仏の本願によるが故です。

中には、あなたは、自分の頭の中で三願転入した(したつもりになっている) 仏教を舐めている。なんかと、親鸞会で勧められる善もどきの善をやった程度で19願を実地にやったつもりになっているおめでたい方もいらっしゃいますが、こうした主張は六度万行、修諸功徳の善、定散二善、19願などに対する無知から生じる謬見です。実際に19願の行に励まれている方から見れば、親鸞会での行など仏教の行の内に入らないと一笑に付すことでしょう。

末法の世でしかも在家の身である私達は、とてもではないが六度万行、修諸功徳の善、定散二善に堪えられぬ末代不善の凡夫でありますから、親鸞聖人や蓮如上人がお勧めのように雑行・雑修・自力のこころをふり捨てて、一心に弥陀に帰命する以外に救われる手立てはありません。言葉通りの「親鸞学徒」であるなら、直ちに親鸞聖人、蓮如上人の仰せに順いましょう。


ところで、私が以前から求めているところの

親鸞聖人が「他力の信心を獲るために19願を実践せよ、定散二善をせよ」と仰った直接的な根拠

が提示されないままもう幾日も経過しています。高森流解釈による間接的な根拠(しかも根拠になっていない)しか出してこないのが現状です。私が求めているのは、例えば

・もつぱらこの行に奉へ、ただこの信を崇めよ。(総序)

・誠なるかな、摂取不捨の真言、超世希有の正法聞思して遅慮することなかれ。(総序)

・「それすみやかに生死を離れんと欲はば、二種の勝法のなかに、しばらく聖道門を閣きて、選んで浄土門に入れ。浄土門に入らんと欲はば、正・雑二行のなかに、しばらくもろもろの雑行を抛ちて、選んで正行に帰すべし。正行を修せんと欲はば、正・助二業のなかに、なほ助業を傍らにして、選んで正定をもつぱらにすべし。正定の業とはすなはちこれ仏の名を称するなり。称名はかならず生ずることを得。仏の本願によるがゆゑに」(行文類)

・大小の聖人・重軽の悪人、みな同じく斉しく選択の大宝海に帰して念仏成仏すべし。(行文類)

・万善の自力、勤修を貶す。円満の徳号、専称を勧む。(行文類)

・『観経』の定散の諸機は、極重悪人、ただ弥陀を称せよと勧励したまへるなり。濁世の道俗、よくみづからおのれが能を思量せよとなり、知るべし。(化身土文類)

・それ濁世の道俗、すみやかに円修至徳の真門に入りて、難思往生を願ふべし。(化身土文類)


というような根拠です。ちなみに今挙げたお言葉ですが、前の6つは18願の信心・念仏を勧められ、一番最後は20願を勧められています。20願を勧められた根拠はこの唯一ヶ所ですが、親鸞聖人は化土往生を厳しく誡められた方ですから、親鸞聖人のお勧めは18願一つと見るべきだということは散々述べてきました。

こんな感じで、実際は無いですけれども、

・それ濁世の道俗、すみやかに万行諸善の仮門に入りて、双樹林下往生を願ふべし。

・大小の聖人・重軽の悪人、みな同じく斉しく選択の大宝海に帰せんがために定散二善を修すべし。


みたいな文言があれば親鸞会の主張も筋が通るというものです。こういう根拠が最低一ヶ所、19願の実践が他力への不可欠なプロセスであるというなら18願を勧められたお言葉のように至る箇所に散見されれば、私を含め親鸞会批判者の皆さんも高森顕徹会長の主張に納得すると思います。しかし、何度も何度も言うように、親鸞聖人の教えに19願の勧め、修諸功徳の善の勧め、六度万行の勧め、定散二善の勧めはありません。19願を勧められた根拠は、聖教上にただの一ヶ所も見出すことができないのです。

いくらあなたが尤もらしいことを申されても、
聖教にないことでは浄土真宗ではありません!


どっかのアニメをもじって言ってみました。親鸞会が正しいと主張するなら、根拠の提示をお願いします。
スポンサーサイト

コメントの投稿

非公開コメント

管理人のみ閲覧できます

このコメントは管理人のみ閲覧できます

Re: 秘密コメント様

2食健康法は会員だった時に同居していた後輩から教えてもらいました。一時期3食に戻した時期もあったのですが、やはり午前中の頭の冴え、普段の体調等を考慮すると自分は朝食は抜いて水分のみにするべきだという結論に至りました。

さて、お尋ねの質問ですが、

>「自分の意思」というのは自力でしょうか。それとも他力でしょうか。

まずその前に自力、他力という言葉の意味をご理解下さい。

まづ自力と申すことは、行者のおのおのの縁にしたがひて余の仏号を称念し、余の善根を修行してわが身をたのみ、わがはからひのこころをもつて身・口・意のみだれごころをつくろひ、めでたうしなして浄土へ往生せんとおもふを自力と申すなり。また他力と申すことは、弥陀如来の御ちかひのなかに、選択摂取したまへる第十八の念仏往生の本願を信楽するを他力と申すなり。(親鸞聖人御消息)

阿弥陀仏以外の仏の名を称え、念仏以外の善を励み、自分の計らいの心から身口意の三業を良くして、立派に振舞って浄土へ往生しようと思うのを自力と言います。第十八の念仏往生の本願を疑いなく信じるのを他力と言います。ですから、「自分の意思」そのものは自力でも他力でもありません。「自分の意思」であれこれ計らい方法論を実践して浄土へ往生しようと思うならそれは自力といい、「自分の意思」を入れずに如来の仰せをそのままお受けするなら他力といいます。

19願を捨てるのは阿弥陀仏の本願力によってではないのかという質問ではないかと思いますが、聖道門と浄土門を自分の意思で、あるいは教えられて選ぶのと同じように、願の上では18願と19願を自分の意思で、あるいは教えられて選ぶのです。自力の心と違って、雑行・雑修の行を捨てるのですから、実践してできないことを知らされずとも自分の意思で捨てられる、ということを言いたかったのです。まぁ元々19願をやろうともしていなければ、捨てるも何もないし、捨てようという「自分の意思」も存在しないのですがね。


> また、20願を離れるのも自分の意思でしょうか。

これについては複雑ですね。20願と18願とでは、行は同じ選択本願の念仏、信が自力か他力かの違いということです。他力を聞くところに自力は廃るのですから、20願の行者が18願に転入するのは自分の意思ではなく、如来の願力です。
ただ、これは信前の者をみな20願の行者と捉えるかどうかの問題でして、もし捉えないなら20願は結論として浄土真宗では勧められませんので入るも離れるもありません。20願については親鸞聖人は多く触れられていますが、七高僧方や覚如上人、存覚上人、蓮如上人は不勉強で恐縮ですが触れられている箇所があるのかもしれませんが見つかりません。どなたか七高僧方や覚如上人、存覚上人、蓮如上人の20願についての記述をご存じの方は根拠をお知らせ下さい。もし私達を20願の行者と捉えないならば、先ほどと同様に20願から離れようという「自分の意思」はそもそも存在しません。

親鸞会では獲信までのプロセスとしてすべての人は19願から始めなければならないと教え、19願に執拗にこだわります。そして、19願が廃るのは自力一杯19願を実践して善のカケラもできない自分だったと知らされてからだというのです。それで私は、そのこだわっている人に「19願では報土往生はできないから捨てなさい」「親鸞聖人の教えには19願を実践せよという説示はありません」「19願を捨てるのは自分の意思で、あるいは教えてもらうことでできます」「19願の実践をする必要なく19願から離れられます」と申し上げているだけです。そこをご理解下さい。

19願の先に20願があり、20願の先に18願があり、行はどうかとしても心の道程としては19願→20願→18願と進むという親鸞会の考えがもしおありでしたら、それはお捨てになった方がよろしいと思います。そんな考えがなければ結構です。
プロフィール

淳心房&しゃあ

Author:淳心房&しゃあ
(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


(しゃあ)
平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
singikensho@yahoo.co.jp
(スパム防止のため@を大文字にしてあります。メール送信時は小文字に変えて下さい。)

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QRコード