会員の皆さんは、いつ19願に入って、いつその19願から出るつもりなのでしょうか?

因果の道理の結論は廃悪修善。廃悪修善を実践して見えてくるのは悪しかできない己の姿。これでは因果の道理に順じて後生は一大事。ここで後生に驚きが立つ。後生に驚きが立って初めてあの(横の線の)軌道に乗る。お釈迦様は全人類をあの軌道に乗せるのに45年かかった。

親鸞会でこんなことを聞いている会員さんの多くは、自分は縦と横の線でいうどの程度の位置にいると感じているでしょうか? 私は、黒板の右側欄外の、遥か右の方にいると感じていました。下の図で言うと、矢印の辺りです(パソコン上での位置のため、他のツールからご覧の方は変な位置にあるかも知れません)。
                                                                ↓


「因果の道理を聞いているものの悪を慎み善に向かう心は弱く、他の人からしたらちょっとした苦しみでも自分には堪え切れない苦しみに感じてすぐに音を上げてしまう。後生が恐ろしく感じても一過性で、しばらくすると大して恐怖を感じなくなる。とても地獄一定の自己が知らされ、後生に驚きが立っているとは言えない。
お釈迦様は全ての人を横の線の軌道に乗せるのに45年かかったと言われるが、自分は一体いつになったら横の線の軌道に乗り、横の道を進んで縦の線まで行けるのだろう? 今日の帰りに交通事故など起こして死んでしまうかも知れないのに、いつどのような善をしたら信仰が進んで助かるというんだろう? 救われるのは一念でも、その一念が遥か遠くに感じる。求め続けて、今生の終わりまでに何とか間に合えばいいが・・・」


私は会員だった当時、こんなことを考えながら、しかし後生の問題を諦めきれずに、苦しみの現実にもがきながらやっとやっと求めていました。一向に解決できないことに疑問を抱きながら、しかし説かれる先生が悪いのではなく、教えの通りに実行できない自分がいけないと苦しんでいたことを今でも覚えています。

「教えは正しいが、教えの通り実行できないから救われない」

現会員の方は勿論、退会者の中にもこう考えている方は少なくないと思います。


ところが、あるきっかけから親鸞聖人の仰せと高森顕徹会長の主張との相違点を検証していった結果、

「教えが真逆と言っていいほど全く異なるから、そんな教えをまともに信じていて救われるはずがない」

ということを知らされました。それが当ブログでも度々引用している相違点で言えば、

4.獲信のために善は必要か

親鸞聖人 念仏1つ、獲信に善は不要
- - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -
高森会長 善をしなければ絶対に獲信できない

6.定散二善について

親鸞聖人 定散二善を捨てよ
- - - - - - - - - - - - - -
高森会長 定散二善をせよ

7.19願について

親鸞聖人 19願を捨てよ
- - - - - - - - - - - - - -
高森会長 19願を実践せよ


でした。ここ10月半ばから19願や定散二善ということに大分触れてきましたが、親鸞聖人の仰せには

18願の救いを求めて19願の善をせよ、定散二善をせよ

などという珍説はそもそも存在しなかったのです。

今まで絶対正しいと信じてきた教義が、こうも間違いだらけだったとは・・・。恐らく多くの会員さんは、親鸞会への導入部分の話、いわゆる人間の実相部分の話が正しいと思うことをもって親鸞会教義全体を正しいと信じているのだと思われます。あくまで人それぞれですが、私は人間の実相部分の話に共感するところが多く、これはまさに世の真実だと思えました。ですからついつい8年以上も続けてしまったわけです。
そして、導入部分の話を聞いてきた上で親鸞会の話を聞きますと、根拠を示して尤もらしく話をするから、それも真実であると思えてしまいます。そうやって、

「誰が何と言おうと高森先生が正しい」
「親鸞会教義は正しいが、教え通り実行できない自分が悪い」


という信心が出来上がるのです。一度この信心が固まってしまいますと、人の言葉を聞かなくなってしまいますからそれを崩すのは大変困難なケースが多いです。幽霊会員でさえこの信心を持っていて説得困難な方もあるということを、私は約7年前に身をもって思い知らされました。

さて、もしもかつての私と同じように、自分は縦と横の線で言えば右側欄外の遥か右の方だと感じる方、またそうでない方も、会員の皆さんは、いつ19願に入って、いつその19願から出るつもりなのでしょうか? 時間は矢のように過ぎ去り、これから長い人生と感じていてもあっという間に終わってしまいます。高森会長からしたら講師部員でさえ

「君たちは 十九願 の入り口にも 入っとらん」
『あさ川進の、宗教と私』【投稿文】第 3回ー1「親鸞会を退会して 間違いが分りました・( 言動 )」より)

らしいじゃないですか。まして況や会員をや、です。臨終に、親鸞会が正しいと信じてついてきたのに結局信心決定はならなかったと後悔してもあまりに遅いのです。臨終にでも救われるのが18願ですが、親鸞会では邪義満載のため、邪義に汚染された頭でしかも臨終に18願を聞き受けることは甚だ困難でしょう。

本願の名号は至って易く、しかも最も勝れた大行であって、本願を信じ念仏する者は直ちに往生が定まります。仏教には様々な法門が説かれていますが、これ以上成仏への近道はありません。この選択本願の名号、すなわち「助けるぞ」の仰せを計らいなく聞き受けて念仏するのみです。これだけです。これだけのことを、会員の皆さんはどれだけ迂回させられているか知れたものではありません。

また横出あり、すなはち三輩・九品、定散の教、化土・懈慢、迂回の善なり。(信文類)

とあるように、19願は横出の教えであり、19願の善、定散二善は方便化土である懈慢界に往生する遠まわりの善の教えだと親鸞聖人は仰せです。今、この遠回りの善の教えを捨てて、如来の大願他力に帰さなければ、わずか一呼吸ほどの間にすぐ来世となる人生、一体いつ助かるというのでしょうか? どうか、深く無常を思って、いたずらに悔いを残すようなことはしないでほしい、私もそう思います。

『楽邦文類』にいはく、「総官の張掄いはく、〈仏号はなはだ持ち易し、浄土はなはだ往き易し。八万四千の法門、この捷径にしくなし。ただよく清晨俛仰の暇を輟めて、つひに永劫不壊の資をなすべし。これすなはち力を用ゐることは、はなはだ微にして、功を収むることいまし尽くることあることなけん。衆生またなんの苦しみあればか、みづから棄ててせざらんや。ああ、夢幻にして真にあらず。寿夭にして保ちがたし。呼吸のあひだにすなはちこれ来生なり。ひとたび人身を失ひつれば万劫にも復せず。このとき悟らずは、仏もし衆生をいかがしたまはん。願はくは深く無常を念じて、いたづらに後悔を貽すことなかれと。浄楽の居士張掄縁を勧む〉」と。(行文類)

【現代語訳】
『楽邦文類』にいっている。 「総官の職にあった張掄がいう。<仏の名号ははなはだたもちやすく、浄土ははなはだ往きやすい。八万四千の法門の中で、これ以上の近道はない。明け方のわずかな時間をさいても、ぜひ、永久に損なわれることのない功徳をたくわえるべきである。仏の名号をたもつのは、力を用いることがはなはだ少なくて、功徳を得ることがはかり知れない。人々は何の苦しみがあって、自らこのような尊い法を捨ててしまい、修めようとしないのであろうか。ああ、人生は夢幻のようであり、真実のものは何一つない。寿命ははかなくて、長くたもつことができない。わずか一呼吸ほどの間にすぐ来世となる。ひとたび人としての命を失えば、もはや一万劫を経てももとにはかえらない。今この時目覚めなかったなら、仏にも、わたしたち衆生をどうすることもできない。どうか、深く無常を思って、いたずらに悔いを残すようなことはしないでほしい。浄楽居士張掄、縁のある人々に勧める>」
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では、なぜ18願に善の勧めがないのでしょう?
18願は「浄土に生まれたい人(善がしたい人)」の為に誓われた願だからですよ。

善がしたくてしたくて仕方ない人に「善をしなさい」と勧める必要がないですからね。
善がしたいのでなく、「早く極楽(欲楽)に生まれて楽がしたい(化土に生まれたい)」と思ってるそこら中の人達には19願が必要でしょう。

No title

>では、なぜ18願に善の勧めがないのでしょう?
>18願は「浄土に生まれたい人(善がしたい人)」の為に誓われた願だからですよ。

ということは、善をしたくないというようより善のできなかった耳四郎は、18願から漏れているし、救われることはないってことですね。

こんな面白い珍説は、高森会長でもさすがに言わないでしょう。

耳四郎が善をしたかったかどうか、少しも出来なかったかどうかなんて、分かるんでしょうか。
屁理屈凄いですね(笑)

あと、面識もない、人様の話をいきなり「珍説」と言って放つ貴方はおいくつですか?他人に対する礼儀、言葉を学んだ上で、人と向き合った方が良いと思いますよ。

No title

無知ですね。
耳四郎は、獲信後も盗みが止められなかったほどの人物です。法然上人に遭うまでは、強盗、放火、殺人と悪の限りを尽くしたので、獲信後もそれまでの業を引きずったままだったってことは有名。
昔、とどろきでも書いてあった話。

それとね、悪人の定義は、
「仏法世俗の二種の善根有ること無し」
だから、善をしようとも思っていない人のことですよ。

No title

次に下輩の三人を対せば、諸師のいふ、「これらの人はすなはちこれ大乗始学の凡夫なり。 過の軽重に随ひて分ちて三品となす。 いまだ道位にあらず。 階降を弁ちがたし」とは、まさに謂ふにしからず。 なんとなれば、この三品の人、仏法・世俗の二種の善根あることなし。 ただ悪を作ることを知るのみ。(観経疏)

下輩に対する聖道の諸師の説「過去に大乗仏法を学んできたが覚りを得ていない人」に対して善導大師は、「まさに謂ふにしからず」と頭から全面否定されています。「珍説」どころの否定のし方ではないですね。

「無知ですね」とか、完全に礼儀を欠いた言い方ですね。都合良いように根拠出しても、常識・礼儀が備わってないと社会に出たら「子供」として誰も相手にしてくれませんよ。

No title

都合よく出したというなら、自ら根拠を出しては如何ですか?
ちなみに、ベテラン社会人です。

No title

退会者を、シロアリ、ウジムシと罵る会員は、社会では通用しないですね、

西本願寺を死に本願寺、東本願寺を干餓死本願寺と罵る会長は社会で通用してませんね。

No title

>屁理屈凄いですね(笑)

>都合良いように根拠出しても

ここまで、大上段から物事を言うなら、それなりのバックボーンがあるはずですよね。
どうやらないようですが。

さて、こんな時、社会人としての礼儀をわきまえているなら、謝罪するのが常識ですよ。

礼儀にうるさい通りすがりさんなら、当然、謝罪するのでしょうね。子供じゃないのだから。

通りすがりさんへ

>では、なぜ18願に善の勧めがないのでしょう?
>18願は「浄土に生まれたい人(善がしたい人)」の為に誓われた願だからですよ。

そのように教えられた聖教上の根拠はありますか?

阿弥陀仏が本願(18願)において諸善を往生の行とされなかった理由を法然聖人は、

まさに知るべし、上の諸行等をもつて本願となさば、往生を得るものは少なく、往生せざるものは多からん。しかればすなはち弥陀如来、法蔵比丘の昔平等の慈悲に催されて、あまねく一切を摂せんがために、造像起塔等の諸行をもつて往生の本願となしたまはず。ただ称名念仏一行をもつてその本願となしたまへり。 (選択本願念仏集)

と教えられていますが、どのようにお考えでしょうか?
プロフィール

淳心房&しゃあ

Author:淳心房&しゃあ
(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


(しゃあ)
平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
singikensho@yahoo.co.jp
(スパム防止のため@を大文字にしてあります。メール送信時は小文字に変えて下さい。)

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