第十八の願のこころと第十九の願のこころ ― 自力の行者・諸行往生のひとになること、臨終をまち来迎をたのむこと、辺地・胎生・懈慢界の往生を勧めている高森顕徹会長

本願念仏(18願)の機の不体失往生と、非本願諸行往生(19願)の機の体失往生の諍論
19願は横出、漸教、自力方便、方便化土に往生する遠回りの善の教え

の記事にて、法然聖人と親鸞聖人の19願についての解釈を紹介しました。両聖人とも、19願と18願を対比して述べられており、18願による救いを求めて19願の善をやれなどという説示はないことはお分かり頂けたと思います。今回は、覚如上人が19願についてどのように教えられているかを見ていきたいと思います。

一 本願寺聖人(親鸞)の仰せにのたまはく、
 来迎は諸行往生にあり、自力の行者なるがゆゑに。臨終まつこと来迎たのむことは、諸行往生のひとにいふべし。真実信心の行人は摂取不捨のゆゑに正定聚に住す、正定聚に住するがゆゑに、かならず滅度に至る。かるがゆゑに臨終まつことなし、来迎たのむことなし。これすなはち第十八の願のこころなり。臨終をまち来迎をたのむことは、諸行往生を誓ひまします第十九の願のこころなり。
(執持鈔)

まず最初に、「親鸞聖人がこのように仰せになりました」と書かれています。以前に一部紹介しましたが、親鸞聖人は『末灯鈔』にて

来迎は諸行往生にあり、自力の行者なるがゆゑに。臨終といふことは、諸行往生のひとにいふべし、いまだ真実の信心をえざるがゆゑなり。また十悪・五逆の罪人のはじめて善知識にあうて、すすめらるるときにいふことなり。真実信心の行人は、摂取不捨のゆゑに正定聚の位に住す。このゆゑに臨終まつことなし、来迎たのむことなし。信心の定まるとき往生また定まるなり。来迎の儀則をまたず。
 正念といふは、本弘誓願の信楽定まるをいふなり。この信心うるゆゑに、かならず無上涅槃にいたるなり。この信心を一心といふ、この一心を金剛心といふ、この金剛心を大菩提心といふなり。これすなはち他力のなかの他力なり。
 また正念といふにつきて二つあり。一つには定心の行人の正念、二つには散心の行人の正念あるべし。この二つの正念は他力のなかの自力の正念なり。定散の善は諸行往生のことばにをさまるなり。この善は他力のなかの自力の善なり。この自力の行人は、来迎をまたずしては、辺地・胎生・懈慢界までも生るべからず。このゆゑに第十九の誓願に、「もろもろの善をして浄土に回向して往生せんとねがふ人の臨終には、われ現じて迎へん」と誓ひたまへり。臨終まつことと来迎往生といふことは、この定心・散心の行者のいふことなり。


と仰っているので、それを承けてのお言葉です。覚如上人は、親鸞聖人の教えをそのまま相承された方であるということが判ります。ここでは、第十八の願のこころ第十九の願のこころが教えられています。

まずは第十八の願のこころについてです。18願の真実信心を得た人は、阿弥陀仏の光明に摂め取られて決して捨てられません(摂取不捨)。それゆえ、信心を得たその時に真実報土に往生することが正しく定まり、必ずさとりを開いて仏になることが決定しているともがらとなります(正定聚に住す)。ですから、この世の縁尽きた臨終一念の夕には、必ず完全に煩悩が寂滅した無為涅槃に至るのです(かならず滅度に至る)。このようなことですから、臨終を待つことなく、阿弥陀仏の来迎をたのむことなく往生定まる身となるのです。

次に第十九の願のこころについてです。19願の自力の行者は、様々な善根功徳を修めて往生を願うので諸行往生のひとと言われています。19願の行人は、平生は修諸功徳の善を積み、その臨終に往生が定まります。平生の功績が認められて、臨終に阿弥陀仏の来迎があれば往生(化土往生)できますが、もし来迎がなければ化土往生もできません。ですから、臨終を待ち、来迎にあずかることで往生が定まるというわけです。

親鸞聖人、覚如上人のお言葉に基づいてまとめますと、以下の通りです。

第十八の願のこころ
○真実信心の行人
○摂取不捨のゆゑに正定聚に住す、正定聚に住するがゆゑに、かならず滅度に至る
○臨終まつことなし、来迎たのむことなし


第十九の願のこころ
○自力の行者、諸行往生のひと
○来迎をまたずしては、辺地・胎生・懈慢界までも生るべからず
○臨終をまち来迎をたのむ


親鸞聖人の教えをそのまま承けているので当たり前なのですが、覚如上人も

第十八の願のこころはこういうこと、第十九の願のこころはこういうこと

と、18願と19願を対比して教えられ、

19願の自力の行者のように臨終をまち来迎をたのむのではなく、18願の真実信心を得て「臨終まつことなし、来迎たのむことなし」と平生に往生定まる身となりなさい

ということを勧められています。どこにも、

18願による救いを求めて19願の善をやれ

などという説示はないことがお分かり頂けると思います。これは言葉を換えれば、

18願による救いを求めて19願の善をやれ
=18願の真実信心の行人となるために、まず19願の自力の行者・諸行往生のひとになりなさい
=「臨終まつことなし、来迎たのむことなし」の身になるために、まず臨終をまち来迎をたのみなさい
=正定聚に住し、かならず滅度に至る身となるために、まず辺地・胎生・懈慢界の往生を願いなさい


ということだからです。滅茶苦茶でしょう? でもそんな滅茶苦茶なことを教えているのが高森会長なのです。高森会長は親鸞聖人の教えをそのまま承けるどころか、全く違う珍しい教え、トンデモ邪義にしてしまっていることが、このように聖教を読むことでお判りになるでしょう。

会員の皆さんは限られたごく一部の聖教のお言葉を、前後の意味も知らずに紹介され、覚えて理解しているに過ぎません。だから、本来の意味とは違った教えを「正しい親鸞聖人の教え」と勘違いしているケースが多いのです。「18願の救いを求めて19願の善をやれ」などという珍説を受け容れてしまうのは、「聖教に触れていないから」の一言に尽きます。会員の皆さんには、親鸞会で聞いてきた話を基準にするので無く、親鸞聖人がどう教えられているかを基準にし、高森本ではなく聖教に直に触れて頂きたいものです。
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No title

淳心房様のお導きで、善を捨てて信心決定させていただき、毎日充実した念仏の生活を送っております。
ところで、真偽検証で述べられている内容を拝見しますと、親鸞聖人は善を勧められなかったということですから、親鸞聖人の教えは仏教ではないということですね。お釈迦様は自力の善を勧められましたので、親鸞聖人の教えは仏教ではなく、親鸞教というのがふさわしいのではないでしょうか。私は仏教ではなく、親鸞教によって救われたと味わっています。
一方、親鸞会は仏教により近いと言えるのでしょうか。

Re: ひろちゃん様

> 毎日充実した念仏の生活を送っております。

それは大変素晴らしいことです。喜びの日も、悲しみの日も、お互い念仏の生活をしてお浄土の旅路を往きましょう。


さて、頂いたご質問ですが、これについてはひろちゃんの誤解が随分とあるようですので記事にて書いておきました。ご覧いただければと思います。
プロフィール

淳心房&しゃあ

Author:淳心房&しゃあ
(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


(しゃあ)
平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
singikensho@yahoo.co.jp
(スパム防止のため@を大文字にしてあります。メール送信時は小文字に変えて下さい。)

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