親鸞聖人は善を勧められなかったということですから、親鸞聖人の教えは仏教ではないということですね。お釈迦様は自力の善を勧められましたので、親鸞聖人の教えは仏教ではなく、親鸞教というのがふさわしいのではないでしょうか。私は仏教ではなく、親鸞教によって救われたと味わっています。一方、親鸞会は仏教により近いと言えるのでしょうか。(頂いた質問)

今回はひろちゃんのコメントに答えていきたいと思います。質問が2つありますので、まずは

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親鸞聖人は善を勧められなかったということですから、親鸞聖人の教えは仏教ではないということですね。お釈迦様は自力の善を勧められましたので、親鸞聖人の教えは仏教ではなく、親鸞教というのがふさわしいのではないでしょうか。私は仏教ではなく、親鸞教によって救われたと味わっています。
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ということからです。

これは誤解です。正確に言うと、親鸞聖人は「獲信・往生のために」善を勧められなかったということです。

仏教は八万四千の法門と言われるように実に様々な教えがあります。阿弥陀仏の第十八願の教法も釈尊の説かれた教えですから当然仏教です。自力の善を説かないからと言って仏教ではないと否定はできません。
確かに釈尊の説かれた法門の多くは聖道門、自力の善を積み重ね、廃悪修善によって心身を浄化してさとりを開く、最終的には仏陀となるという教えです。しかし、それは勝れた資質を持った者が永劫の修行を経ることでようやくさとりを開くという非常に厳しい教えです。末法の、しかも在家の人間である我々が到底歩める道ではありません。

それに対して、阿弥陀仏の第十八願の教法は、諸仏が匙を投げた最低の悪人を規範として本願が建てられてあります。この本願は、私達を救うにあたって私達に難しい条件を課さず、ただ如来回向の本願力のみで私達を往生成仏させて下さいます。例えば救いの条件が戒律を守ることだとしたら、戒律を守れないものは救いから落ちこぼれてしまいます。しかも世の中には戒律を守れる者は少なく、破戒の者は甚だ多いのです。救いの条件が沢山のお布施をすることだとしたら、布施のできない貧乏人は救いから落ちこぼれてしまいます。しかも世の中には裕福な者は少なく、貧乏な者は甚だ多いのです。

このように、善をする者を助ける本願であるなら、善のできない悪人は救いから落ちこぼれてしまいます。例えば最近述べる機会の多い第19願は、「発菩提心 修諸功徳」とありまして菩提心を発して仏教で説かれる様々な善根功徳を修めるという願です。菩提心を発す、諸々の功徳を修めるということについては、

【ツッコミ】自力から他力へさんのコメント

の記事で林遊@なんまんだぶ様から教えて頂いたことを紹介していますが、行自体は私達が考えている倫理道徳上の善とは比べ物にならない聖道の難行なのです。それで、親鸞聖人はこうした19願の善、定散二善は我々にはできないと教えられ、逆にそれらの善、また善に執着する自力心が、如来回向の真実信心を疑い反発することになりますから、19願や自力心を厳しく誡められているのです。

阿弥陀仏は、あまねく一切衆生を平等に救うために私達に布施や持戒等の厳しい条件を一切課さず、ただ如来回向の念仏一行を称えて救われる本願とされました。そして五劫永劫の思惟と御修行を経て、私達を往生成仏させる功徳の大宝海である南無阿弥陀仏を成就して下さったのです。その名号を、この私目がけて回向して下さり、私はその名号を聞いて念仏すればその時往生成仏が定まるという救いの法を完成なされたわけです。念仏を称えるのはいつでもどこでもどなたにでもできる至って易い行であり、しかも五劫永劫の願行がおさまっている円融無碍不可思議不可称不可説の至徳でありますから、他のどのような善も遥か及ばない最も勝れた選択本願の大行であります。

この阿弥陀仏の本願を説くことが釈尊出世の本懐であったことを、『大無量寿経』には

如来、無蓋の大悲をもつて三界を矜哀したまふ。世に出興するゆゑは、道教を光闡して群萌を拯ひ、恵むに真実の利をもつてせんと欲してなり。

【現代語訳】
如来はこの上ない慈悲の心で迷いの世界をお哀れみになる。世にお出ましになるわけは、仏の教えを説き述べて人々を救い、まことの利益を恵みたいとお考えになるからである。

と説かれ、『教文類』には、

それ真実の教を顕さば、すなはち『大無量寿経』これなり。
この経の大意は、弥陀、誓を超発して、広く法蔵を開きて、凡小を哀れんで選んで功徳の宝を施することを致す。釈迦、世に出興して、道教を光闡して、群萌を拯ひ恵むに真実の利をもつてせんと欲すなり。


【現代語訳】
さて真実の教を顕すならば、それは『無量寿経』である。
この『無量寿経』が明かそうとされている法義を要約すると、まず阿弥陀仏は、万人を平等に救おうという、諸仏に超え勝れた誓願をおこし、わけても愚かな凡夫を哀れんで、仏のみがしろしめすさとりの蔵を開いて、その無量の徳を南無阿弥陀仏という名号におさめて、施されていることが説かれています。この阿弥陀仏のこころを承けて、この世に出現された釈尊は、さまざまな経を説いて未熟なものを導かれましたが、その本意は、一切の衆生に阿弥陀仏の本願のいわれを聞かせて、往生させ、成仏させるという、真実の利益を恵むために、この経を説かれたといわれています。


と教えられています。

親鸞聖人は独自の「親鸞教」を説かれたのではなく、元を辿れば釈尊がお説き下された阿弥陀仏の第十八願の教法をご自身も疑いなく信じ、人にも教えて聞かせるばかりの方だったのです。


以前にもひろちゃんのコメントに返信する形で記事を書きましたが、未信の時は本願に救われるには「どうしたら」「どうすれば」ばかり考え、あるいは少しでも善に励んだらよかろうか、あるいは一回でも多く念仏称えた方がよかろうか、あるいは今の自分の心をもっと清くしていったらよかろうかと、方法論ばかり模索しがちです。既に阿弥陀さまの方で五劫永劫の願行を成就され、それを南無阿弥陀仏としてお受けするのみで往生成仏が定まるというのに、それでは足りぬと煩悩に満ちた我々が浅はかな考えを巡らしてあれこれとやっているのは何と愚かなことでしょうか。どれほど万行諸善に励もうと私達の力は及ばず、往生成仏はかないません。それどころか、諸行諸善ををあて力、たとりとしていますと、その自力心あるゆえに他力回向の信心を受け容れられなくなってしまいます。それで親鸞聖人は「獲信・往生のために」善を勧められなかったのです。

こうした我々の善の要らない阿弥陀仏の第十八願の教法を、得手に法を聞いて誤解した人々が多くいます。確かに本願を信じ念仏すれば、どのような悪を造っても往生の妨げにはなりません。しかし、煩悩の悪い心にまかせて思うがままにふるまってもよいのだという邪義に陥る人が、親鸞聖人時代も多くあったと見えて、聖人はお手紙で幾度も

煩悩具足の身なればとて、こころにまかせて、身にもすまじきことをもゆるし、口にもいふまじきことをもゆるし、こころにもおもふまじきことをもゆるして、いかにもこころのままにてあるべしと申しあうて候ふらんこそ、かへすがへす不便におぼえ候へ。

などと誡められています。煩悩にまかせてやりたい放題やり散らかしてはいけないということです。常識ある人なら当然理解できると思いますが、何しろ煩悩具足の我々ですから、中にはそういった邪義に陥り、周りにもそう言いふらす輩が出てきてもあり得ないことではありません。

「獲信・往生のために」善は要らないが、この世を生きていく上では倫理道徳上の善に心がけることは大事であり当然のことです。



さて、次の質問に答えたいと思います。

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一方、親鸞会は仏教により近いと言えるのでしょうか。
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これもまた誤解です。結論から言いますと、親鸞会は仏教もどき、浄土真宗もどきの新興宗教です。

教義上は善を勧めているように見えますが、実際に勧めているのは、主に

・高森会長の話を聞くこと
・親鸞会主催の行事に一つでも多く参加すること
・親鸞会に献金すること
・親鸞会に人を勧誘すること
・高森会長や上司の指示に無条件服従すること


などの善もどきの善です。親切や親孝行、朝晩のおつとめなども勧められますが、親鸞会で信仰が進むと考えられ、強烈にプッシュされているのは上に列記したようなことです。

親鸞会が真に浄土真宗の教えを正しく説く団体ならばまだしも、当ブログや他の批判ブログを読んで頂ければお分かりのように、親鸞聖人の仰せと高森顕徹会長の主張は全くと言っていいほど異なります。親鸞聖人が「右へ行け」と言っているのを高森会長は「左へ行け」と言っていると言っていいほど違います。高森会長は親鸞聖人の教えを私利私欲を満たすために利用しているに過ぎません。

【考察】親鸞会の「善の勧めの実践」と「自因自果」

にて述べていますが、高森会長及び親鸞会上層部の人間が廃悪修善をまともに実践しているとは言い難い事例が『さよなら親鸞会』には多数取り上げられています。教義に関することだけ挙げても、

・「親鸞会教義の誤り」への反論を依頼した特専部員を除名する。
・反論もしないのに、「これが親鸞聖人の正しい教えだ」と主張し、間違った教えを弘め続ける。「誤りを犯さないことを誇りとするよりも 誤りを直ちに改めることを誇りとしよう」ではなかったのか。
・大沼氏や伊藤氏から盗作しておきながら、あたかも自分が書いたものであるかのように振る舞う。
・意図的な断章をした御文を教学聖典に用い、会員に親鸞会ドグマを浸透させる。
・根拠が存在しなかったり、根拠が間違った御文を教学聖典に掲載し続ける。
・法論すれば相手の主張を歪曲し、相手があきれて論戦放棄すると、勝手に勝利宣言。
・過去の法論では頑なに自説を曲げなかったのに、後になってしれっとそれまでの主張を修正してくる。若不生者の「生」の解釈が典型例。㈱チューリップ企画と田中一憲の法論はまさに勝他のための議論。
・いつでも公開法論に応じると宣言していながら、『飛雲』との公開法論に4年以上も応じていない。


など、高森顕徹会長には教えを説く者としての誠実さはかけらもありません。団体名に「浄土真宗」「親鸞」の文言を使ってほしくないと常々言っているのはそうした理由があるからです。


今回はこれまでと致します。ご感想やご質問があればお寄せ下さい。私が答えられる範囲でお答えします。
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淳心房様

このたびは私のためにこのような丁寧なご回答を下さり、恐縮しています。ありがとうございました。
親鸞聖人は「往生浄土のために」善を勧められなかったと教えていただきました。
ということは、「最終的に仏になるために」善を勧められなかった、としても良いでしょうか。
すると、仏になるために善をせよ、というお釈迦様の教えを否定することになりますから、親鸞聖人の教えは仏教とは言えないと思います。それともお釈迦様の教えは、この世を生きていく上で善をせよ、と教えられた単なる倫理道徳の教えだったのでしょうか。そうは思えません。
お釈迦様の説かれた八万四千の法門のほとんどが仏になるために善をせよ、という教えなのに、そのほとんどの教えを否定しておられる親鸞聖人のみ教えは仏教ではなく、どう考えても親鸞教に思えます。お釈迦様の教えのごく一部である阿弥陀仏の本願を親鸞聖人が説かれたから仏教というなら、イスラム教も旧約聖書を使っているからキリスト教だということになってしまいます。ですからごく一部が一致しただけで仏教というのは無理があるのではないでしょうか。
やはり仏教という以上は、お釈迦様の説かれた教えの大部分と一貫していないと無理があるように思います。もし親鸞聖人が善を勧められたのなら仏教と言えますが、親鸞聖人の教えに善の勧めは全くないのですから、とても仏教とは言えないと思います。
お釈迦様は正法の時代の厳しい善が出来る人が相手であり、親鸞聖人の教えは末法の善のできない人を相手にした教えとなれば、時代も相手も仏になる方法も全く違う教えなので、それを同じ宗教と言えるのでしょうか。
お釈迦様の説かれた仏教は、現在の末法の世では役に立たず、親鸞聖人の説かれた教えだけがこの世を照らしています。
私は仏教では救われませんでした。親鸞聖人のみ教えによって初めて救われました。
淳心房様のお導きによって救われた身でありながら、このように味わってしまった非礼をお許し下さい。

Re: ひろちゃん様

新しい記事にてお返事を書きました。ご覧いただければと思います。
プロフィール

淳心房&しゃあ

Author:淳心房&しゃあ
(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


(しゃあ)
平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
singikensho@yahoo.co.jp
(スパム防止のため@を大文字にしてあります。メール送信時は小文字に変えて下さい。)

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