末代の我々が救われる阿弥陀仏の第十八願の教法を、この地球上で最初にお説きになられたのはお釈迦様です

今回も、ひろちゃんから頂いたコメントについてお答えします。

********************
親鸞聖人は「往生浄土のために」善を勧められなかったと教えていただきました。
ということは、「最終的に仏になるために」善を勧められなかった、としても良いでしょうか。
すると、仏になるために善をせよ、というお釈迦様の教えを否定することになりますから、親鸞聖人の教えは仏教とは言えないと思います。それともお釈迦様の教えは、この世を生きていく上で善をせよ、と教えられた単なる倫理道徳の教えだったのでしょうか。そうは思えません。
お釈迦様の説かれた八万四千の法門のほとんどが仏になるために善をせよ、という教えなのに、そのほとんどの教えを否定しておられる親鸞聖人のみ教えは仏教ではなく、どう考えても親鸞教に思えます。お釈迦様の教えのごく一部である阿弥陀仏の本願を親鸞聖人が説かれたから仏教というなら、イスラム教も旧約聖書を使っているからキリスト教だということになってしまいます。ですからごく一部が一致しただけで仏教というのは無理があるのではないでしょうか。
やはり仏教という以上は、お釈迦様の説かれた教えの大部分と一貫していないと無理があるように思います。もし親鸞聖人が善を勧められたのなら仏教と言えますが、親鸞聖人の教えに善の勧めは全くないのですから、とても仏教とは言えないと思います。
お釈迦様は正法の時代の厳しい善が出来る人が相手であり、親鸞聖人の教えは末法の善のできない人を相手にした教えとなれば、時代も相手も仏になる方法も全く違う教えなので、それを同じ宗教と言えるのでしょうか。
お釈迦様の説かれた仏教は、現在の末法の世では役に立たず、親鸞聖人の説かれた教えだけがこの世を照らしています。
私は仏教では救われませんでした。親鸞聖人のみ教えによって初めて救われました。

********************

要は、聖者や善人に向けて説かれた教えと、悪人に向けて説かれた教えが違うということです。対機説法、応病与薬という言葉はご存じかと思いますが、仏様は優れた医者の如く、それぞれの病に応じて薬を与える如くそれぞれの相手に最もふさわしい法(教え)を説かれた方だったのです。それが、

薬をもつて病を治するに、かろき 病をばかろき薬をもつてつくろひ、おもき病をばおもき薬をもつていやす。病をしりて薬をほどこす、これを良医となづく。如来はすなはち良医のごとし。機をかがみて法を与へたまふ。しかるに上根の機には諸行を授け、下根の機には念仏をすすむ。(持名鈔)

のお言葉で分かるかと思います。聖道門は釈尊在世時および正法の時機相応の教えであって、末法の私達は救われない教えです。釈尊は時の経過と共に説かれた法が衰退していくことを察知され、聖道門の教えとは別に末代の我々が救われる阿弥陀仏の本願をお説きになられたわけです。

親鸞聖人は、「最終的に仏になるために」善を勧められなかった、と理解して構いません。では何を勧められたかと言うと、先のお言葉にもあるように、ひろちゃんが日々称えていらっしゃるであろう念仏です。なぜなら、

そのゆゑは、自余の行もはげみて仏に成るべかりける身が、念仏を申して地獄にもおちて候はばこそ、すかされたてまつりてといふ後悔も候はめ。いづれの行もおよびがたき身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし。 (歎異抄第二条)

とあるように、念仏以外の諸行諸善に励んで仏になれる身ならよいが、いずれの行も修しがたく成仏の道が絶たれてしまっている親鸞であるからだというのです。親鸞聖人は法然聖人の教えを承けて念仏一つ私達にお勧めになりました。

念仏には、本当は私達がやらねばならない往生成仏のための万善万行恒沙の功徳を阿弥陀さまが代わって修められています。私達はこの念仏を回向されて救われるのです。私達が日々何となく称えている念仏には、阿弥陀仏が五劫という間思惟され、兆載永劫の御修行をされた、それひとえにこの私を往生成仏させるためだったという阿弥陀仏の願いと行とが納まっています。それを我々に最初にお説きになられたのはお釈迦様ですから、この第十八願の教法を仏教と言わずして何と言うでしょうか? お釈迦様がこのように明らかにして下さらなかったら、歴代の善知識も明らかにされなかったでしょう。そうであれば、親鸞聖人まで本願念仏の教えが届くことはありませんでした。もし親鸞聖人が明らかにして下さらなかったらこの淳心房も教えを聞いて念仏する身になれなかったでしょうし、ひろちゃんも同様です。元を辿ればお釈迦様がこの地球上で最初にお説きになられた方ですから、ひろちゃんの思いも分からないこともありませんが、やはりお釈迦様の御恩というものを忘れてはなりません。

弥陀の本願まことにおはしまさば、釈尊の説教虚言なるべからず。仏説まことにおはしまさば、善導の御釈虚言したまふべからず。善導の御釈まことならば、法然の仰せそらごとならんや。法然の仰せまことならば、親鸞が申すむね、またもつてむなしかるべからず候ふか。(歎異抄第二条)

のお言葉を、よくよくお味わい下さい。


ところで、以前にひろちゃんはこのようにコメント下さいましたね。

********************
世間まみれだった私に、信心決定することがいかに大切かを教えてくれましたのは、親鸞会でした。その親鸞会の高森先生にはご恩を感じる必要はないのでしょうか。
********************

もし高森顕徹会長に恩を感じているようなら、それよりももっともっと大きな御恩をお釈迦様に感じて頂きたいものです。お釈迦様なかりせば知りえなかった阿弥陀仏の本願念仏の教えです。



【お知らせ】
昨日の記事で、高森会長及び親鸞会上層部の人間が廃悪修善をまともに実践しているとは言い難い事例(教義面)に関して、以下の内容を加筆しましたことを、皆様にお知らせいたします。

・過去の法論では頑なに自説を曲げなかったのに、後になってしれっとそれまでの主張を修正してくる。若不生者の「生」の解釈が典型例。㈱チューリップ企画と田中一憲の法論はまさに勝他のための議論。

私は退会直前までこの法論を見たことはありませんでしたが、退会直前にこの法論を見て、親鸞会側のあまりに酷い応対に憤りを感じたことを覚えています。本文だけでなく、長いですがコメント欄も目を通して頂ければ、親鸞会側の誤りがより顕著に分かるかと思います。
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No title

私自身は浄土真宗は仏教だと思っていますが、
その人が本願を信受したのならそれ以外の事は拘らなくても良いのではないか、
と思っています。
※個人の見解です。

Re: 通りすがり様

私もそのように思う部分はあります。


現会員、元会員の間で、最後まで悩ませるのが、この「善の勧め」です。

『飛雲』18願の救いと聖道門との違いさえも認識できない高森顕徹会長
http://hiun.cocolog-nifty.com/blog/2016/10/post-1747.html#comments

には、会員の理屈の最後の砦が

「親鸞聖人も仏教を教えられたのだから、善の勧めがあるに決まっている」

だと書かれています。これは逆を言えば、

「仏教は善を教えられたのだから、善の勧めの無い親鸞聖人の教えは仏教ではないのでは?」

ということになります。それほど、善の勧めを否定することは私たちには受け入れがたいことなのだということです。

ですから、浄土真宗を聞きながら諸行往生のようなことを言う人も出てくるわけです。

これは大変根深い問題であるため、記事として取り上げましたことを、まずご理解頂ければと思います。

そして、私たちが報土に往生するためには阿弥陀仏より回向される本願力以外になく、凡夫の穢れた善は往生の役には立たないと往生のための善を廃された親鸞聖人の教えを広く明らかにしたいと思いまして書いておりますこと、皆様に伝わってもらえればと思います。

No title

淳心房様
今回も詳しいご説明をいただき誠にありがとうございます。
要は、聖者や善人に向けて説かれた教えと、悪人に向けて説かれた教えが違うということですね。
ということは、お釈迦様の正法の時代は、ほとんどが善人で、善ができ、お金もちだったということであり、善のできない悪人やお布施のできない貧乏人はいなかったということになるのでしょうか。だからお釈迦様は善のできるお金持ちに対する教えを大部分の時間を使ってお説きになられたのでしょうか。
 私はたとえ正法の時代であっても、ほとんどの人は善ができない人だったのでは、と思います。それは人間の本性は時代とともにそんなに変わらないと思うからです。
 では、なぜお釈迦様は善のできるわずかな人を相手の八万四千の法門を生涯の大部分を使って説かれたのでしょうか。
親鸞聖人は、悪人が仏になるためには八万四千の法門は不要であり、無駄なことであるとおっしゃっておられます。お釈迦様が生涯の大部分をかけて説かれた八万四千の法門を、「仏になるには無駄な不要な教え」と非難される親鸞聖人を仏教徒というには無理があるのではないでしょうか。
 たとえ お釈迦様の教えのごく一部である阿弥陀仏の本願を親鸞聖人が信じられたにしても、釈尊の大部分の教えを「仏になるには無関係な不必要な無駄な教え」と徹底的に非難されているわけですから、仏教徒とはいいがたく、親鸞教と考えてしまうわけです。
 しかし、もしお釈迦様がこの世に生まれられた本当の目的が善人相手ではなく、実は悪人相手だったなら、どうして最初からお念仏を説かれなかったのか、という疑問が出てきます。八万四千の法門など説かれずに最初からお念仏をお説きになられていたなら、「浄土に行って仏になるためには善が必要だ」などという団体は出てこなかったと思います。お釈迦様は末法のことまでは予測できなかったのでしょうか。お釈迦様は正法時代のごくわずかの善ができる人達を仏にすることに精一杯で、末法の善のできない人々のことについて考える余裕がおありでなかったのかもしれません。

 今回のご返事でわかったことは、お釈迦様は正法の時代のごく一部の善ができる人を相手にしていたということです。親鸞聖人は、釈尊の説かれた八万四千の法門を末法の我々にとっては「無用なもの、無駄なもの」と批判されていることが判りました。
本当にありがとうございました。

No title

挙げ足を取るのに必死になって、まともに話をする気がないみたいですね。

まず、浄土の教えは釈尊在世の時代から当然あり、多くの人に説かれていた教えです。親鸞会でも有名なエピソードでは、浄飯王に対して釈尊は念仏を勧められています。行巻にもありますので、読んでみられるとわかりますが、念仏を勧められた浄飯王は釈尊のことを不審に思って質問しています。なぜ他の弟子と同じ行を勧めないのかと。釈尊のお答えは明解です。浄飯王にはできないから。
ここで何がわかるかと言うと、釈尊は善人と悪人に対して、善を勧められるか念仏を勧められるかを分けられていることです。しかも、これは浄土三部経以外の経典です。アジャセに対してもそうです。涅槃経にあり、信巻で紹介されていますが、釈尊はアジャセに善を全く勧められていません。観無量寿経なら、イダイケにも善を勧められていません。
簡単な話で、善人には善を勧められていますが、善のできない人には善を勧められていないのです。できないのですから当然です。
じゃあ、八万四千の法門の大半が善の勧めになるのはおかしいのではないかとの言いがかりですが、これも簡単なことで、善ができるといっても、善のできる程度が人によって、全く違うからそれだけ善の種類、経典が増えるのですが、善ができない人には念仏の教えしかないから、多くの人に共通のことで、経典は少なくなります。

親鸞教とか、レッテル貼りをするところが親鸞会脳ですが、浄土教はインドにも中国にも、台湾にも、韓国にも、チベットにも、モンゴルにもあります。日本独自の教えではありません。

往生の金剛心のおこることは、仏の御はからひよりおこりて候へば、金剛心をとりて候はんひとは、よも師をそしり善知識をあなづりなんどすることは候はじとこそおぼえ候へ。(末灯鈔)

訳)
浄土往生を疑うことのない金剛の信心がおこるのは、 仏のはたらきによるのですから、 その信心を得た人は、 決して師を謗り善知識をおとしめるようなことはないと思います。

親鸞聖人を謗り貶める人は、金剛心のおこっていない人

挙げ足取りにしか興味がない人には、何を言っても無駄でしょうから、高森教を信じられれば宜しいかと思います。

コメント返信

ひろちゃん様 偽物様

>浄土の教えは釈尊在世の時代から当然あり、多くの人に説かれていた教えです。親鸞会でも有名なエピソードでは、浄飯王に対して釈尊は念仏を勧められています。行巻にもありますので、読んで見られるとわかりますが、念仏を勧められた浄飯王は釈尊のことを不審に思って質問しています。なぜ他の弟子と同じ行を勧めないのかと。釈尊のお答えは明解です。浄飯王にはできないから。

『飛雲』死期の迫った人に、何を勧めるのか?
http://hiun.cocolog-nifty.com/blog/2011/03/post-fed3.html

にありますね。

対機説法、応病与薬と紹介したように、お釈迦様はその人その人に合わせて最もふさわしい教えを説いていかれたのでした。それであれだけの膨大な数の経典になっているわけです。親鸞会製作アニメ「親鸞聖人と王舎城の悲劇」などを見ていると、お釈迦様の説法を大勢の大衆が聞きに来るというスタイルが一般的かと誤解してしまいますね。


 それ、諸宗のこころまちまちにして、いづれも釈迦一代の説教なれば、まことにこれ殊勝の法なり。もつとも如説にこれを修行せんひとは、成仏得道すべきことさらに疑なし。
しかるに末代このごろの衆生は、機根最劣にして如説に修行せん人まれなる時節なり。ここに弥陀如来の他力本願といふは、今の世において、かかる時の衆生をむねとたすけすくはんがために、五劫があひだこれを思惟し、永劫があひだこれを修行して、「造悪不善の衆生をほとけになさずはわれも正覚ならじ」と、ちかごとをたてましまして、その願すでに成就して阿弥陀と成らせたまへるほとけなり。末代今の時の衆生においては、このほとけの本願にすがりて弥陀をふかくたのみたてまつらずんば、成仏するといふことあるべからざるなり。(御文章3帖目2通)

とあるように、聖道門や浄土門内の自力の教えは如説に修行すればその利益がありますから、教え自体を非難しているのではありません。しかし今の世の衆生は仏の教法を受け取り修行する根機(能力)が、最も劣っているので如説に修行している人はいないといっても過言ではありません。ですから行を修し証果を得られない私達には要にあらず、ただ私達に相応する弥陀如来の他力本願によって往生成仏を願うべきだと仰せられています。


>もしお釈迦様がこの世に生まれられた本当の目的が善人相手ではなく、実は悪人相手だったなら、どうして最初からお念仏を説かれなかったのか、という疑問が出てきます。

この手の質問について最も分かりやすいのが、『選択本願念仏集』のお言葉

問ひていはく、もししからば、なんがゆゑぞただちに本願の念仏の行を説かず、煩はしく本願にあらざる定散諸善を説くや。

答へていはく、本願念仏の行は、『双巻経』(大経)のなかに委しくすでにこれを説く。ゆゑにかさねて説かざるのみ。また定散を説くことは、念仏の余善に超過したることを顕さんがためなり。もし定散なくは、なんぞ念仏のことに秀でたることを顕さんや。

です。『観無量寿経』にはそれまで広く説かれた定散二善ではなく、下三品にわずかに説かれた念仏を阿難に付属されています。どうして直ちに本願念仏の行を説かず、煩わしく本願ではない定散諸善を説かれたのかという問いです。
それに対して法然聖人は、念仏が他の善とは比較にならないほど遥かに勝れていることを明らかにするためだった、もし定散二善がなければ、どうして念仏が特別に勝れているかを顕すことができようか、とお答えになっています。


>八万四千の法門など説かれずに最初からお念仏をお説きになられていたなら、「浄土に行って仏になるためには善が必要だ」などという団体は出てこなかったと思います。お釈迦様は末法のことまでは予測できなかったのでしょうか。お釈迦様は正法時代のごくわずかの善ができる人達を仏にすることに精一杯で、末法の善のできない人々のことについて考える余裕がおありでなかったのかもしれません。

仏教の目的はあくまで成仏です。経典には成仏得道の方法が教えられています。ただそれには如説に修行しなければ証果は得られません。世俗の生活をしていて、合間に仏教の修行をして成仏を目指せるほど甘っちょろいものではないのです。
それでは一般大衆は救いから落ちこぼれてしまいますから、釈尊はそういった聖道門とは別に浄土門、阿弥陀仏の本願をお説きになられたことは既に述べた通りです。
あまりお釈迦様を非難するような発言は公開コメントで発信しない方がいいと思いますよ。そういうことを書かれるならメールか秘密コメントになさったら如何かと思いますが・・・。

お釈迦様の教えは多岐に渡りますが、私達としては善を勧められているところは、善人に対してのことであり、念仏を勧められているところを悪人の我等は自分のこととして経典を拝読すべきなのです。

『飛雲』善人をすゝめ給へる所をば善人の分と見、悪人を勧め給へる所をば我分と見て得分にするなり。
http://hiun.cocolog-nifty.com/blog/2010/10/post-6343.html

そうすれば、親鸞聖人の教えが仏教ではないとか、親鸞教だとかいう思想は出てこないかと思いますが。まして本願を信じ念仏している方であるなら尚更です。

No title

淳心房様、偽者様

淳心房様、
私の批判的質問に、とても丁寧にお答えいただき感謝申し上げます。おかげでようやく分かったように思います。思えば私が親鸞会に誘われた時も、仏教や親鸞聖人に対し反発ばかりしていました。それなのに、少しも怒らずに懇切丁寧に教えてくれた人がいたなればこそ入会したのです。偽者さんのように、「揚げ足ばかりとっている」と決めつけられたら親鸞会には入会しなかったでしょう。
私は淳心房様のおかげで救われました。しかし救われたからといっても、無知なるが故に仏法を謗ってしまうこともあるのです。淳心房様はそんな私にも懇切丁寧に教えて下さり、なんとお礼申し上げてよいかわかりません。このブログには偽者さんのように、怨みによって下品な親鸞会非難を行っている人もいますが、淳心房様は本当に純粋に教義の面で批判なされていることを知って質問させていただきました次第です。
淳心房様におかれましては、これからも怨みや愚痴を離れた純粋な教義批判を行っていただき、真の親鸞聖人のみ教えを明らかにしていただきたく思います。
これからもよろしくお願いします。
南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏

No title

>>しかし救われたからといっても、無知なるが故に仏法を謗ってしまうこともあるのです。


当たり前の付け所が間違っています。無知を理由に謗ることは許されません。本当に救われた人なら、わかるはずです。

ひろちゃん様へ

親鸞聖人は、釈尊の説かれた八万四千の法門を末法の我々にとっては「無用なもの、無駄なもの」と批判されているという点について一言申し上げたいと思います。

親鸞聖人は、八万四千の法門の大部分を占める聖道門の教えを、

聖道といふは、すでに仏に成りたまへる人の、われらがこころをすすめんがために、仏心宗・真 言宗・法華宗・華厳宗・三論宗等の大乗至極の教なり。仏心宗といふは、この世にひろまる禅宗これなり。また法相宗・成実宗・倶舎宗等の権教、小乗等の教なり。これみな聖道門なり。権教といふは、すなはちすでに仏に成りたまへる仏・菩薩の、かりにさまざまの形をあらはしてすすめたまふがゆゑに権といふなり。(親鸞聖人御消息)

と説かれ、聖道門の教えは、既に仏になられた方々が還相の菩薩となって、私たちを導くために説かれたものだと見られています。聖道門の教えそのものを批判されていたなどということはありません。

末法の今、聖道門の教えを修めている人に対しては、

しかれば穢悪・濁世の群生、末代の旨際を知らず、僧尼の威儀を毀る。今の時の道俗、おのれが分を思量せよ。(教行信証化土巻)

と、自分の能力をよくよく考えよと仰っていますが、教えそのものを批判されてはいません。

また、蓮如上人は、

そもそも、当流念仏者のなかにおいて、諸法を誹謗すべからず。まづ越中・加賀ならば、立山・白山そのほか諸山寺なり。越前ならば、平泉寺・豊原寺等なり。されば『経』(大経)にも、すでに「唯除五逆誹謗正法」とこそこれをいましめられたり。これによりて、念仏者はことに諸宗を謗ずべからざるものなり。また聖道諸宗の学者達も、あながちに念仏者をば謗ずべからずとみえたり。
そのいはれは、経・釈ともにその文これおほしといへども、まづ八宗の祖師龍樹菩薩の『智論』(大智度論)にふかくこれをいましめられたり。その文にいはく、「自法愛染故毀呰他人法 雖持戒行人不免地獄苦」といへり。かくのごとくの論判分明なるときは、いづれも仏説なり、あやまりて謗ずることなかれ。それみな一宗一宗のことなれば、わがたのまぬばかりにてこそあるべけれ。ことさら当流のなかにおいて、なにの分別もなきもの、他宗をそしること勿体なき次第なり。あひかまへてあひかまへて、一所の坊主分たるひとは、この成敗をかたくいたすべきものなり。あなかしこ、あなかしこ。 (誤文章1帖目14通)

と他宗の教えを謗ることを誡めておられます。

聖道門の教えは、末法の私たちの根機に合わないだけであり、教えは仏説ですから、決して謗ったりしてはいけませんし、親鸞聖人があたかも聖道門の教えを批判していたかのように受け取れるような、事実に反する発言は慎むべきだと思います。

気になりましたので一言申し上げました。

No title

いつもの元会員様

前回に続き、この度もコメントいただき、ありがとうございます。

親鸞聖人が、聖道門仏教を、権教としてそのように味わっておられることは知りませんでした。それなら親鸞聖人が聖道門仏教を批判することはないですね。

ただ、教行信証に「諸寺の釈門 教に昏くして真仮の門戸を知らず」とおっしゃっておられるものですから、諸寺、すなわち聖道門の仏教を批判されたのでは、と思っていました。

この度は私の間違いや無知を教えて下さり、ありがとうございました。
これからもよろしくお願いします。

>しかし救われたからといっても、無知なるが故に仏法を謗ってしまうこともあるのです。

本当に救われた人は、親鸞聖人のことを謗ったり貶めたりしません。
親鸞聖人が仰っていることをまた、否定しましたね。

往生の金剛心のおこることは、仏の御はからひよりおこりて候へば、金剛心をとりて候はんひとは、よも師をそしり善知識をあなづりなんどすることは候はじとこそおぼえ候へ。(末灯鈔)

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コメントを頂いた皆様

皆様お忙しい中、当ブログをご覧頂きコメントまで頂いてありがとうございます。決して少なくない方々に読まれているのだなと少し安心しています。心にまかせて、日々の思いや思い出したことをブログに綴っていますが、「こんな稚拙なブログを誰が読んでいるのだろう?」と時々そんな思いになることもあります。私は入試の時の国語の点数は自己採点で105点という、実に低レベルな国語力です。本を読むのも遅いですしそれほど好きではありません。恐らく人の倍、三倍時間をかけて書いていると思います。何度も書いた文章を読み直しては「これで法義的にも文章的にもいいか?」と思いながらやっています。それでも乱文乱筆がある場合も多く、時には指摘を頂いています。まぁ誰が読んでいなくても関係はないんですが、書いたからには誰かに、できればかつての仲間たちに届いてくれるといいなと思っています。


さて、『御一代記聞書』に

(86)
一 蓮如上人仰せられ候ふ。物をいへいへと仰せられ候ふ。物を申さぬものはおそろしきと仰せられ候ふ。信不信ともに、ただ物をいへと仰せられ候ふ。物を申せば心底もきこえ、また人にも直さるるなり。ただ物を申せと仰せられ候ふ。

 蓮如上人は,「仏法について語りあう場では、すすんでものをいいなさい。
黙りこんで一言もいわないものは何を考えているかわからず恐ろしい。
信心を得たものも得ていないものも、ともかくものをいいなさい。
そうすれば、心の奥で思っていることもよくわかるし、また、間違って受けとめたことも人に直してもらえる。
だから、すすんでものをいいなさい」と仰せになりました。

(196)
一 世間の物語ある座敷にては、結句法義のことをいふこともあり。さやうの段は人なみたるべし。心には油断あるべからず。あるいは講談、または仏法の讃嘆などいふ時、一向に物をいはざること大きなる違ひなり。仏法讃嘆とあらん時は、いかにも心中をのこさず、あひたがひに信不信の義、談合申すべきことなりと[云々]。

「世間のことを話しあっている場で、かえって仏法の話しが出ることがある。
そのようなときは、われ先にものをいわないで人並みに振舞っておきなさい。
どのような考えの人がいるかわからないのだから、注意をおこたってはならない。
けれども、念仏の仲間が集まって、お聖教の講釈を聞いて学ぶときや、仏法について語りあったりするときに、少しもものをいわないのは、大きな誤りである。
仏法について語りあう場では、心の中をすべて打ち明け、互いに、信心を得ているかいないかについて語らなければならない」と仰せになりました。

(203)
一 仏法談合のとき物を申さぬは、信のなきゆゑなり。わが心にたくみ案じて申すべきやうに思へり。よそなる物をたづねいだすやうなり。心にうれしきこ とはそのままなるものなり。寒なれば寒、熱なれば熱と、そのまま心のとほりをいふなり。仏法の座敷にて物を申さぬことは、不信のゆゑなり。また油断といふことも信のうへのことなるべし。細々同行に寄合ひ讃嘆申さば、油断はあるまじきのよしに候ふ。

「仏法について話しあうとき、ものをいわないのは、信心がないからである。
そういう人は、心の中でうまく考えていわなければならないように思っているのであろうが、それはまるでどこかよそにあるものを探し出そうとしているかのようである。
心の中にうれしいという思いがあれば、それはそのままあらわれるものである。
寒ければ寒い、暑ければ暑いと、心に感じた通りがそのまま口に出るものである。
仏法について話しあう場で、ものをいわないのは、うちに信心がないからである。
また、油断ということも、信心をいただいた上で言うことである。
しばしば念仏の仲間とともに集まり、み教えを聞いて喜び語りあうなら、油断するということはあるはずがないのである」と、蓮如上人は仰せになりました。

と蓮如上人も仰せのように、心の内を包み隠さず正直に申しなさいとのことです。ひろちゃんも心の内の疑問を正直に書いているのだと思います。

ただ、一つ申し上げますと、公開コメントでお釈迦様や親鸞聖人を非難していると取れる内容をお書きにならない方がよいということです。私もぶっちゃけ話をする時もありますが、話をする相手や手段をなるべく選んでしています。公開の場だと、どなたが読んでいるか分かりませんからね。私もそうですが、やはり自分が信奉している釈尊や親鸞聖人の教えを非難していると受け取れる発言は気持ちの良いものではありません。ですから、そういう時はやはり非公開、あるいはメールなどのツールを使って個別に尋ねて頂きたいのです。

私も不勉強なるが故に法義と外れることを書いてしまったこともあります。それを、共著の者や、もっと真宗に詳しい方々に指摘を受けて直しました。間違っていたら、間違っていたと認め、そこで改めればよいと思います。それは恥ではありません。本当に恥なのは頑なに自説を曲げず、後になってしれっと修正してくる高森顕徹会長のような行為です。
私も仕事、家事の片手間に勉強していますから、真宗の学者の方々と比べたらそれはもう素人みたいなもんです。龍大生より劣るんじゃないかと自分でも思うくらいです。知らないことはこれから覚えて、誤解していた部分は正して、そして念仏して暮らしていったらいいんじゃないかと思います。

また他の内容で分からないこと、疑問に思うことなどありましたらお寄せ下さい。私の答えられる範囲でお答えします。

No title

お釈迦様と親鸞聖人を非難することは考えられません。
仏教徒がお釈迦様を非難することはありえませんし、親鸞聖人の教えに救われて親鸞聖人のことを仏教ではないと非難することもあり得ません。

そこを指摘されているのに、救われても無知で謗ることもあると他教徒のようなことを平気でいうのは、信心の無い証拠です。私の言っている信心とは親鸞聖人と同じ信心のことで、他教他宗の信心ではありません。

「ただ正法を誹謗せしめて、さらに余の罪なしといへども、かならず生ずることを得じ。」

正法を誹謗する人は、絶対に往生できないと親鸞聖人も断言されています。誹謗をやめれば往生できることはありますが、誹謗したままで往生は絶対にできません。これまでのコメントを懺悔すべきです。

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Re: 秘密コメント様

ありがとうございます。当ブログをご覧の方には色々な方がおられるようですから、この形か、あるいはメールでが良いと思います。

私はただの一般会員でした。ただ、教義を重視するタイプの人間でしたので、退会直前から現在まで少しずつ聖典の御文に触れて真宗教義を追求しています。とは言え仕事と家事の片手間なので、他の教義に詳しい退会者の方々に比べたらまだまだ。また専門の学者には足元にも及びません・・・。

仰りたいことは伝わってきました。

1つ誤解を解くとすれば、高森会長が華光会の名前を出さないのは、かつての出身団体であり、それを会員に知られたくないからです。親鸞会在籍時に貴方も聞きませんでしたか? 高森先生の善知識は教行信証だと。まるで教行信証を自分の力で読み解いて獲信したかのように言われていたことは記憶にありませんか?

私はそう聞いて、たった一人で獲信したように思っていましたが、実は過去に師事していた人、団体があって、伊藤康善師や増井悟朗師に導かれて入信したことを知って大変驚くと共にデタラメなことを聞かされてきたとショックを受けたものです。

それと、高森会長は「土蔵秘事とそれに類するもの」として華光会を暗に非難していますが、話を聞きに華光会館に行ってみれば全くそんなことはありませんでした。本願を聞き、念仏を喜び称える方が多かったです。

親鸞聖人が聖道門の学僧を非難しているのと、高森会長が華光会を非難しているのは、根本的に異なるのです。

親鸞聖人の場合は、聖道門の僧侶が権力者と手を組んで承元の法難を起こし、恩師法然聖人や多くの法友が無実の罪で死刑になったり流刑になったりしました。聖人も流刑となったお一人です。それで権力者や聖道門の僧侶に対しては

ひそかにおもんみれば、聖道の諸教は行証久しく廃れ、浄土の真宗は証道いま盛んなり。しかるに諸寺の釈門、教に昏くして真仮の門戸を知らず、洛都の儒林、行に迷ひて邪正の道路を弁ふることなし。ここをもつて興福寺の学徒、太上天皇[後鳥羽院と号す、諱尊成]今上[土御門院と号す、諱為仁]聖暦、承元丁卯の歳、仲春上旬の候に奏達す。主上臣下、法に背き義に違し、忿りを成し怨みを結ぶ。これによりて、真宗興隆の大祖源空法師ならびに門徒数輩、罪科を考へず、猥りがはしく死罪に坐す。あるいは僧儀を改めて姓名を賜うて遠流に処す。予はその一つなり。

わたしなりに考えてみると、聖道門のそれぞれの教えは、行を修めさとりを開くことがすたれて久しく、浄土真実の教えは、さとりを開く道として今盛んである。しかし、諸寺の僧侶たちは、教えに暗く、何が真実で何が方便であるかを知らない。朝廷に仕えている学者たちも、行の見分けがつかず、よこしまな教えと正しい教えの区別をわきまえない。このようなわけで、興福寺の学僧たちは、後鳥羽上皇・土御門天皇の時代、承元元年二月上旬、朝廷に専修念仏の禁止を訴えたのである。天皇も臣下のものも、法に背き道理に外れ、怒りと怨みの心をいだいた。そこで浄土真実の一宗を興された祖師源空上人をはじめ、その門下の数人について、罪の内容を問うことなく、不当にも死罪に処し、あるいは僧侶の身分を奪って俗名を与え、遠く離れた土地に流罪に処した。わたしもその一人である。だから、もはや僧侶でもなく俗人でもない。このようなわけで、禿の字をもって自らの姓としたのである。源空上人とその門弟たちは、遠く離れたさまざまな土地へ流罪となって五年の歳月を経た。

と痛烈に批判されているのです。親鸞聖人が聖道門の僧侶を徹底的に批判しているこの裏事情は押さえておいて下さい。

それに対して高森会長の場合は、せっかく華光会のおかげで入信できたにも拘わらず、自分の内にある欲望を抑えきれず、伊藤康善師らの制止を振り切って華光会と袂を分かったようです。その後も高森会長に会いに富山まで行った伊藤康善師とは面会せず、会を立ち上げ、大沼法竜師の著作を剽窃し、創価学会の組織拡大法を真似て会を大きくしてきました。お世話になった恩義があるなら、このような行為はしないと思います。自分の過去を知られること、自分のところから会員が流出することを恐れてかつての出身団体を暗に非難しているわけです。

このような高森会長の裏事情を知っている退会者は少なくなく、騙されたとの思いが非常に強い方もいます。教義は華光会と大沼師の寄せ集めに独自の創作を加えたものであり、経歴は隠蔽・詐称していたとなれば、もう高森会長の何もかもが信用できなくなります。このようなことを知らなければ、そこまで親鸞会や高森会長に対して悪い印象を持たないかも知れませんが、組織や人物について知ってしまうと失望・落胆・憤りを禁じ得ないということをご理解頂ければと思います。
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淳心房&しゃあ

Author:淳心房&しゃあ
(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


(しゃあ)
平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
singikensho@yahoo.co.jp
(スパム防止のため@を大文字にしてあります。メール送信時は小文字に変えて下さい。)

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