「19願を捨てて18願一つ聞きなさい」。これが次第相承の善知識のあさからざる御勧化です

法然聖人、親鸞聖人、覚如上人、存覚上人と来たら、次は蓮如上人です。

 そもそも、親鸞聖人の一流においては、平生業成の義にして、来迎をも執せられ候はぬよし、承りおよび候ふは、いかがはんべるべきや。その平生業成と申すことも、不来迎なんどの義をも、さらに存知せず。くはしく聴聞つかまつりたく候ふ。

 答へていはく、まことにこの不審もつとももつて一流の肝要とおぼえ候ふ。 おほよそ当家には、一念発起平生業成と談じて、平生に弥陀如来の本願のわれらをたすけたまふことわりをききひらくことは、宿善の開発によるがゆゑなりとこころえてのちは、わがちからにてはなかりけり、仏智他力のさづけによりて、本願の由来を存知するものなりとこころうるが、すなはち平生業成の義なり。されば平生業成といふは、いまのことわりをききひらきて、往生治定とおもひ定むる位を、一念発起住正定聚とも、平生業成とも、即得往生住不退転ともいふなり。

 問うていはく、一念往生発起の義、くはしくこころえられたり。しかれども不来迎の義いまだ分別せず候ふ。ねんごろにしめしうけたまはるべく候ふ。

 答へていはく、不来迎のことも、一念発起住正定聚と沙汰せられ候ふときは、さらに来迎を期し候ふべきこともなきなり。そのゆゑは、来迎を期するなんど申すことは、諸行の機にとりてのことなり。真実信心の行者は、一念発起するところにて、やがて摂取不捨の光益にあづかるときは、来迎までもなきなりとしらるるなり。されば聖人の仰せには、「来迎は諸行往生にあり、真実信心の行人は摂取不捨のゆゑに正定聚に住す、正定聚に住するがゆゑにかならず滅度に至る、かるがゆゑに臨終まつことなし、来迎たのむことなし」(御消息・一意)といへり。この御ことばをもつてこころうべきものなり。
『御文章』1帖目4通

蓮如上人は具体的に19願と仰ってはいませんが、

・来迎を期するするなんど申すことは、諸行の機にとりてのことなり
・来迎は諸行往生にあり


これらが19願を指すことは、書かれている内容から明白です。これまでの法然聖人、親鸞聖人、覚如上人、存覚上人方の教えを承け、蓮如上人も19願と18願を対比して述べておられることは間違いありません。そして、

19願の勧め、18願の救いを求めて19願の善をやれ

という説示はないことがお分かり頂けると思います。なぜなら、

19願の勧め
=来迎を期することの勧め
=諸行の機になることの勧め
=諸行往生の勧め


だからです。不来迎、一念発起住正定聚、平生業成、即得往生住不退転が親鸞聖人の教えですから、19願を実践していたら平生業成の身にはなれません。

そして、19願の行は雑行・雑修です。ということは、

19願の勧め
=雑行・雑修の勧め


でもあります。諸善、雑行・雑修について蓮如上人はどう教えられているでしょうか。

・もろもろの雑行をこのむこころをすて、(中略)一心一向に弥陀をたのみたてまつりて(1帖目10通)

・まづもろもろの雑行をさしおきて、一向に弥陀如来をたのみたてまつりて、(中略)一心にもつぱら弥陀に帰命せば(1帖目13通)

・されば自余の浄土宗はもろもろの雑行をゆるす、わが聖人(親鸞)は雑行をえらびたまふ。このゆゑに真実報土の往生をとぐるなり。このいはれあるがゆゑに、別して真の字を入れたまふなり。(1帖目15通)

・もろもろの雑行を修する心をすて、(中略)ふかく如来に帰入する心をもつべし。 (2帖目1通)

・自余の諸善・万行にこころをかけず、(中略)弥陀を一心一向に信楽してふたごころのなき人を、弥陀はかならず遍照の光明をもつて、その人を摂取して捨てたまはざるものなり。(2帖目2通)

・もろもろの雑行をすてて専修専念一向一心に弥陀に帰命するをもつて、本願を信楽する体とす。(2帖目3通)

・ただもろもろの雑行をすてて、正行に帰するをもつて本意とす。 その正行に帰するといふは、なにのやうもなく弥陀如来を一心一向にたのみたてまつる理ばかりなり。(2帖目7通)

・弥陀如来を一心一向にたのみたてまつりて、もろもろの雑行をすてて専修専念なれば、かならず遍照の光明のなかに摂め取られまゐらするなり。(2帖目8通)

・阿弥陀如来をたのみたてまつるについて、自余の万善万行をば、すでに雑行となづけてきらへるそのこころはいかんぞなれば、(中略)なにの不足ありてか、諸行諸善にこころをとどむべきや。(2帖目9通)

・もろもろの雑行雑善をなげすてて、一心一向に弥陀如来をたのみまゐらせて、ふたごころなく信じたてまつれば、そのたのむ衆生を光明を放ちてそのひかりのなかに摂め入れおきたまふなり。(中略)このほかには別の仏をもたのみ、また余の功徳善根を修してもなににかはせん。(3帖目4通)

・されば雑行雑善をなげすてて専修専念に弥陀如来をたのみたてまつりて、たすけたまへとおもふ帰命の一念おこるとき、かたじけなくも遍照の光明を放ちて行者を摂取したまふなり。(3帖目6通)

・後生のためには内心に阿弥陀如来を一心一向にたのみたてまつりて、自余の雑行・雑善にこころをばとどめずして、一念も疑心なく信じまゐらせば、かならず真実の極楽浄土に往生すべし。(3帖目13通)

・ただもろもろの雑行のこころをやめて、一心に阿弥陀如来に帰命して、今度の一大事の後生たすけたまへとふかくたのまん衆生をば、ことごとくたすけたまふべきこと、さらに疑あるべからず。(4帖目12通)

・もろもろの雑行をすてて、一向一心に後生たすけたまへと弥陀をたのめば、決定極楽に往生すべきこと、さらにその疑あるべからず。(4帖目14通)

・もろもろの雑行をすてて、一念に弥陀如来今度の後生たすけたまへとふかくたのみまうさん人は、十人も百人もみなともに弥陀の報土に往生すべきこと、さらさら疑あるべからざるものなり。(5帖目2通)

・もろもろの雑行をすてて、一向一心に弥陀をたのまん衆生をたすけずんば、われ正覚取らじ(5帖目8通)

・「帰命」といふは、衆生の、もろもろの雑行をすてて、阿弥陀仏後生たすけたまへと一向にたのみたてまつるこころなるべし。(5帖目9通)

・もろもろの雑行をなげすてて、一心に弥陀に帰命すれば、不可思議の願力として、仏のかたより往生は治定せしめたまふ。(5帖目10通)

・「南無」といふ二字のこころは、もろもろの雑行をすてて、疑なく一心一向に阿弥陀仏をたのみたてまつるこころなり。(5帖目11通)

・それ、信心をとるといふは、やうもなく、ただもろもろの雑行雑修自力なんどいふわろき心をふりすてて、一心にふかく弥陀に帰するこころの疑なきを真実信心とは申すなり。(5帖目15通)

・もろもろの雑行をふりすてて、一心に後生を御たすけ候へ(5帖目17通)

・もろもろの雑行雑修のこころをさしおきて、一心に阿弥陀如来後生たすけたまへ(5帖目18通)

・もろもろの雑行雑修のこころをすてて、わが身はいかなる罪業ふかくとも、それをば仏にまかせまゐらせて、ただ一心に阿弥陀如来を一念にふかくたのみまゐらせて、御たすけ候へと申さん衆生をば、十人は十人百人は百人ながらことごとくたすけたまふべし。(5帖目21通)

・もろもろの雑行雑修自力のこころをふりすてて、一心に阿弥陀如来、われらが今度の一大事の後生、御たすけ候へとたのみまうして候ふ。たのむ一念のとき、往生一定御たすけ治定と存じ、このうへの称名は、御恩報謝と存じよろこびまうし候ふ。この御ことわり聴聞申しわけ候ふこと、御開山聖人(親鸞)御出世の御恩、次第相承の善知識のあさからざる御勧化の御恩と、ありがたく存じ候ふ。(領解文)


全文は、お手持ちの『御文章』、あるいはこちらをご覧下さい。

さすが凡夫往生の手鏡と称賛されるだけあって、他力信心のおもむき、ここに極まれりといった感じです。声を大にして「御文章サイコー!!」と言いたいです。・・・失礼しました。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。

どこを読んでも、「雑行を捨てて、一心一向に弥陀をたのめ」としか書いてないです。

「まず雑行をやって、できないことを十分に知らされて、そして捨てなさい」

ではありません。

まず、ただもろもろの雑行を捨てなさい

です。雑行を勧める親鸞会が、浄土真宗もどきの新興宗教であることが「いまこそあきらかにしられたり」であります。

かつて会員だった頃、おつとめの際に御文章を繰り読みしていたこともありましたが、全然読めていませんでしたね。声に出していた、字面を追っていただけで、蓮如上人のお心が全く分かっておりませんでした。今思えば情けない限りですが、こうして本願他力のおもむきを知らせて頂いた今となってはそれも懐かしいです。

「19願を捨てて18願一つ聞きなさい」。これが次第相承の善知識のあさからざる御勧化です。

4.獲信のために善は必要か

親鸞聖人 念仏1つ、獲信に善は不要
- - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -
高森会長 善をしなければ絶対に獲信できない

6.定散二善について

親鸞聖人 定散二善を捨てよ
- - - - - - - - - - - - - -
高森会長 定散二善をせよ

7.19願について

親鸞聖人 19願を捨てよ
- - - - - - - - - - - - - -
高森会長 19願を実践せよ


もしこれに文句があれば、18願の救いを求めて19願の善をやれと仰っている根拠を求めます。言っておきますが、高森説法や高森本から引っ張ってきてもダメですよ。浄土真宗の祖師方のお言葉で挙げて下さい。
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No title

高森顕徹氏の提唱する、いわゆる三願転入は仮である要門、真門を決釈したあとで説かれている文なのでした。求法のプロセスとしてではなく三願を考察して、要門、真門、弘願門という法義を差を表現する論理的な次第を顕す御開山の筆致ですね。
原文では、
 久出万行諸善之仮門 永離双樹林下之往生。
 (久しく万行諸善の仮門を出でて、永く双樹林下の往生を離る)
と、「久出」、「永離」とありますから、この道を行くのではないですよという御開山のお勧めであることは明白です。
このことは、「玄義分」の要弘二門釈p.300で
 しかも娑婆の化主(釈尊)はその請によるがゆゑにすなはち広く浄土の要門を開き、安楽の能人(阿弥陀仏)は別意の弘願を顕彰したまふ。
以下の文から解るのでした。釈尊は要門という法義を開き、阿弥陀仏は弘願という法義を顕したというのが観経の二尊一教の教説なのでした。
しこうして、『観経』の結論としての流通分では、
 汝好持是語 持是語者 即是持無量寿仏名
  (なんぢ、よくこの語を持て。この語を持てといふは、すなはちこれ無量寿仏の名を持てとなり)
と、釈尊は定善散善を説いてきましたが、流通分において阿弥陀仏の意に望めて、なんまんだぶの称名を阿難に付属したのでした。
善導大師が、
 上来定散両門の益を説くといへども、仏の本願に望むるに、意、衆生をして一向にもつぱら弥陀仏の名を称せしむるにあり。
と、された所以でした。古来から『観経』は、釈尊と阿弥陀仏の二尊一経であるといわれますが、流通分(教えを末代に伝えること)に至って釈尊は定善散善を廃して、なんまんだぶという一行を阿難に付属したのでした。

なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ
http://wikidharma.org/580f4e9251c36

Re: 林遊@なんまんだぶ様

詳しいご解説をありがとうございます。

>高森顕徹氏の提唱する、いわゆる三願転入は仮である要門、真門を決釈したあとで説かれている文なのでした。求法のプロセスとしてではなく三願を考察して、要門、真門、弘願門という法義を差を表現する論理的な次第を顕す御開山の筆致ですね。

これが会員は判らないんですよね。方便だの、仮よりしか真に入れずだの、善の勧めだのと、高森流解釈を真に受けて、19願が必要な教え、重要な教え、必ず通らねばならないかなめの教えだと誤解しています。
せっかく宗祖が、雑行(19願の善)を修める者は臨終来迎があっても化土へしか往けないぞ、阿弥陀仏の光明はそういった自力の行者を照らし摂めることはないぞ、とお示しであるにも関わらずです。しかし教行証文類ではなく高森本が根本聖典ですから、そういうお示しさえ知らない者がほとんどだと思われます。教行証文類は難解なので、一読さえもしないでしょう。

示して頂いた善導大師の御文、そして偏依善導と仰った法然聖人のお言葉を知った上で宗祖の教えを仰げば、19願の実践が不可欠なプロセスだとかいう戯言などあり得ないことは明白ですね。それと前に教えて頂いた発菩提心、修諸功徳とは如何なることか、これを未だ騙されている会員の皆さんには知ってもらいたいです。そうすれば、林遊様が仰るように19願の実践が我々に不可能なことはサルでも分かります。

念仏諸善比較対論の、

付嘱不嘱対、念仏は釈迦・弥陀二尊の本意にかなった法であるから付属されたが、諸善は付属されなかった。

なども分かってもらいたいです。

いつもありがとうございます。なんまんだぶつ、なんまんだぶつ。
プロフィール

淳心房&しゃあ

Author:淳心房&しゃあ
(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


(しゃあ)
平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
singikensho@yahoo.co.jp
(スパム防止のため@を大文字にしてあります。メール送信時は小文字に変えて下さい。)

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