親鸞聖人の教えに「善の勧め」があったら起りえないもの、それが「本願ぼこり」「造悪無碍の異義」

親鸞聖人の教えに「善の勧め」があったら起りえないもの、それが「本願ぼこり」「造悪無碍の異義」です。

「本願ぼこり」については歎異抄第十三条にあり、「造悪無碍の異義」については『親鸞聖人御消息(末灯鈔)』にそれを正された聖人のお手紙が多く見られます。

それぞれの意味についてですが、『真宗新辞典』によりますと、

○本願ぼこりとは、「本願にあまえ、つけあがること。どのような悪業も往生のさまたげとはならず、悪人こそ本願の正機である、ということを誤解して、思うままに悪事をしても救われるとする主張。」

○造悪無碍とは、「どんなに悪を造っても往生の障りとならないという主張。」


とのことです。竹中智秀『宗祖親鸞聖人に遇う』によりますと、

********************
やっぱり本願は善人と悪人を選ばないんだ。むしろ悪人をこそ助けてくださるんだ。悪人でいいんだと。こういうふうにして悪人でいいんだと言って居直ってしまうのです。これを本願ぼこりと言うのです。この本願ぼこりの「ほこる」というのは甘えるということです。本願に甘えるわけです。やっぱり悪人を助けてくださるんだと言って、善を行おうと思ったけれども善が行えないので、仕方がないからやっぱり悪人のための本願だといって、自分を慰めるわけです。自分はそれで安心しようとするのを本願ぼこりというのです。本願に甘えているのです。
もっと極端になると造悪無碍です。悪人のための本願だから、悪を造っても碍りにならない。だから本願に助けられるためには、どんな悪でも造っていこうということです。本願に助けられるために、むしろ今まで悪を恐れておった者が、悪を恐れているような者は本願を疑っているんだと。だから積極的に悪を造って、むしろ助けられたことにしておこうといって殊更、わざと悪を造って、それで助けられたんだということを自分でも思い込んで、それで安心しようとするんです。それが造悪無碍の異義です。

********************

と書かれているとのことです。

どんなに悪を造っても往生の障りとならない

これに間違いはないのですが、文面だけに囚われて信心のない人が得手に解釈するところが問題なのです。私達は元より罪体の凡夫ですから、悪を造らずしては生きてゆけません。例えば殺生は悪ですが、生き物を殺さずして生きてゆけるでしょうか? 肉や魚を食べずして私達は暮らしているでしょうか? また蚊が体に止まって血を吸おうとしていたら、普通「ピシャ!」と手で殺しますよね? 正当でない理由で怒られたり、自分に都合の悪いことがあったら怒り憎しみの心が起きませんか? 煩悩がある限り、私達は身口意の三業で良からぬことを思い、言い、やってしまう。そうしなければ生きてゆけないと言っていいでしょう。

仏教ではこうした煩悩が迷い・苦悩の元凶であると言い、煩悩を断じて迷いからの解脱を教えています。これに大きく分けて2つあります。1つは自力修行によって廃悪修善を実践し、身心を浄化してこの世で煩悩を断じて最高のさとりである仏陀を目指す聖道門の教え。もう1つは阿弥陀仏の本願によって来世に浄土往生し、煩悩を寂滅してさとりを得ようという浄土門の教えがあります。
浄土門内でも、定善・散善や世福・戒福・行福の善を修め、三輩・九品のそれぞれの資質に応じて行を修めるという教えもあれば、衆生の力を全く要せず本願力を回向されて救われてゆく教えもあります。親鸞聖人が明らかにされた浄土真宗は、この、衆生の力を全く要せず本願力を回向されて救われてゆく教えであり、阿弥陀仏の本願を信じて自力の心を離れる横超他力の教えです。

先ほど述べたように、私達はこの世に生きてある限りは煩悩によって様々な悪を造り続け、そうしなければ生きてゆけない、しかもそれを自分でどうにもできないという非常に悲しい存在であります。特に末法の世で、世俗の生活をしている我々は、とてもではないが自力修行によって煩悩を断じてさとりを開くなどという所行はできません。世俗の世界には煩悩を掻き立てる縁が至る所に散在しており、迷いを離れ切ることは不可能です。

そのような私達衆生を哀れに思召した阿弥陀仏が、私達に代わって五劫永劫の願行を成就され、万善万行恒沙の功徳である名号を回向してさとりの世界に導こうと起こされたのが阿弥陀仏の本願(第十八願)です。この本願を疑いなく信じ念仏する者を、必ず浄土に迎え取って最高のさとりの領域に誘おうというのです。まことに煩悩に染まり悪から離れ切れない私に相応した法です。こうした本願でなければ、聖者や善人はいざ知らず、淳心房のような者は助かりません。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。

この阿弥陀仏の本願は、私達の善悪とは無関係に、本願を信じるか疑うかで往生するか生死に留まるかが分かれます。そして定善や散善を修める自力心ある限りは本願を疑い、真実報土には往生できないということで、法然聖人・親鸞聖人は往生のための善を徹底的に廃されました。それがやがて「造悪無碍の異義」を生み、承元の法難のきっかけともなったのです。

造悪無碍とは、私達がどのような悪を造ろうと、それは本願の救いとは無関係であり、妨げにはならないということです。極端な話をすれば、人を何人殺そうと、どんな物を盗もうと、どれだけふしだらな男女関係を持とうと、どれだけ人を傷つけ悲しませようと、親鸞聖人の教えを利用して私利私欲を満たそうと、上司への無条件服従を盾に男女関係を迫ろうと、本願に救われることとそれらとは無関係ということです。
ここに大きな落とし穴があります。ともすると、悪人でいいんだと居直って悪の造り通しに慚愧・懺悔することもなく、酷い人になると悪をすればするだけいいんだと悪因が往生の正因のようにとんでもない誤解をし、またそれを人にもそう言いふらすということまでやり出します。親鸞聖人が関東を去られた後、関東の同行に度重なる誡めのお手紙を出された背景には、こうした造悪無碍の意義がはびこっていたことが一因であることは間違いありません。


それで最初に戻りますが、もし親鸞聖人が積極的に賢善廃悪、廃悪修善、善の勧めを教えていたら、果たしてこうした「造悪無碍の異議」は起こり得るでしょうか?

私の狭い知識で恐縮ですが、他の宗教からはこうした異議は見聞きしたことがありません。必ずどこかしらで、勧められる行為が本当に善であるかどうかということは別として、善を勧めています。その善を実践していくことが、その宗教で言うところのさとり、幸福といったことにつながり、逆に善を実践せずに悪に走っていたらさとり、幸福は得られないといいます。「善の勧め」があったら、「造悪無碍の異義」は到底起こり得ないのです。

親鸞聖人の教えは、他の宗教、とくに廃悪修善を勧める仏教界に類を見ない点がありますから、一見「仏教ではないのでは?」「親鸞教ではないか?」と思われる方があるのも尤もです。会員、元会員が最後の最後まで迷うのが善の勧めだという指摘は、まことに的を得ています。
ただ、浄土真宗は往生のための善を廃してはいますが、煩悩のおもむくままにやりたい放題やっていいという教えではないことを重ねて申し上げておかなくてはなりません。また、廃悪修善とは言葉だけで、会長及び上層部はとても因果の道理を信じ廃悪修善を実践しているとは言えない浄土真宗もどきの新興宗教に気を付けて頂きたいということも言い添えておきます。


【参照資料】
『真の知識にあうことは』善鸞の異義についてのお話
『親鸞聖人と宗教あれこれ』消息に聞く : 本願ぼこり ・ 造悪無碍でも往生できるのか?
『三日坊主日記』造悪無碍について
スポンサーサイト

コメントの投稿

非公開コメント

プロフィール

淳心房&しゃあ

Author:淳心房&しゃあ
(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


(しゃあ)
平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
singikensho@yahoo.co.jp
(スパム防止のため@を大文字にしてあります。メール送信時は小文字に変えて下さい。)

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QRコード