「方便仮門」を捨てるのは、白道に踏み出す前、東岸の水火二河の直前で白道を進もうと決心した只今のことです

親鸞会の「二河白道の譬え」は、とにかく邪義だらけです。最近は善導大師の「二河白道の譬え」|阿弥陀仏に救われるまでの心の道のりという動画まで作っていますが、まず

阿弥陀仏に救われるまでの心の道のり

というのが邪義そのものです。二河白道の譬えは、

また一切往生人等にまうさく、いまさらに行者のために一つの譬喩(喩の字、さとす)を説きて、信心を守護して、もつて外邪異見の難を防がん。なにものかこれや。(信文類)

【現代語訳】
また、往生を願うすべての人々に告げる。念仏を行じる人のために、今重ねて一つの譬えを説き、信心を護り、考えの異なる人々の非難を防ごう。その譬えは次のようである。

とあるように、他力の信心を守護する譬えであり、真実の他力信心を譬えられたものです。他力信心、真実信心を明かされた『信文類』に引文されているのですから、信前の

阿弥陀仏に救われるまでの心の道のり
信心獲得するまでの求道の道程を示すため

なわけがないこと位当然なのですが、親鸞会の邪義に毒されている人は、かつての私がそうだったように高森会長の話を受け入れてしまうのです。中には、実際の譬え話と高森会長の話が違うことを知りながら、「譬え話をより分かりやすくするために話を変えられている」という詭弁に納得してしまう人もあります。


さて、上リンク先では内容の詳しい邪義までは判りませんので、『安心問答』「親鸞会・高森顕徹会長の二河白道の喩えはおかしいと思います。どこがおかしいのでしょうか?」(頂いた質問)を基に譬え話から紹介します。

親鸞会の二河白道の喩え
 1.旅人が無人の荒野を旅していました。
 2.尊い人が現れて、西へ行けと教えます。
 3.西に向かうと、水の河、火の河が突如として現れます。
 4.再び尊い人が、二つの河の間にある幅四五寸の白道を往けと勧めます。
 5.それで旅人は、中間の白道を少しずつですが進みます。
 6.白道を進む旅人に、群賊・悪獣・悪知識が現れて「帰ってこい」と誘惑、妨害してきます。
 7.白道を真ん中ほどまで進むと、往くも死、帰るも死、とどまるも死の三定死の状態になります。
 8.その時に、西岸から「直ちに来たれ」という喚び声が聞こえます。
 9.声が聞こえると同時に幅四五寸の白道は無碍の大道に、水火二河は光明の広海に変わります。
 10.旅人は白道を進んで、西の岸に着きました。


善導大師の二河白道の喩え
 1.旅人が無人の荒野を旅していました。
 2.群賊悪獣に追われて、死を畏れて西に向かいました。
 3.西に向かうと、水の河、火の河が突如として現れます。
 4.群賊悪獣に追われて、帰るも死、とどまるも死、先にゆけばまた水火の二河に落ちて死んでしまう。
 5.旅人はそこで、どのみち行き場がないのなら、むしろ前に進んで行こうと決心をします。
 6.こう考えた時、旅人は東の岸に「この道を尋ねて行け」と人の勧める声と、同時に西の岸の上に人がいて
  「直ちに来たれ」と喚ぶ声とをたちまちに聞きます。
 7.その声を聞いた旅人は、疑いや恐れる心がなくなり、白道を進んでいきます。
 8.その後も白道は幅四五寸と狭いまま、水の河、火の河も変化はありません。
 9.白道を進み始めると、群賊悪獣が「帰ってこい」と誘惑します。
 10.それらの声に惑わされることなく、旅人は白道を進み、西の岸に着きました。


まず時系列で話の流れがそもそも違います。高森会長の話では、旅人は東岸にいる時から白道を進む過程において東岸の人の勧める声を聞き、白道を真ん中ほどまで進んでどうにもならなくなった時に西岸上の人の喚び声を聞きます。これは誤りです。本物の話では東岸で群賊・悪獣に追い詰められて、白道を進む決意をした時に、東岸の人の勧める声と西岸上の人の喚ぶ声を同時に聞きます。そして西岸上の人の喚ぶ声とは、

〈汝一心に正念にして直ちに来れ、我能く汝を護らん。すべて水火の難に堕せんことを畏れざれ〉

というものですが、これについては親鸞聖人が

「また、西の岸の上に、人ありて喚ばうていはく、〈汝一心正念にして直ちに来れ、我能く護らん〉」といふは、
「西の岸の上に、人ありて喚ばうていはく」といふは、阿弥陀如来の誓願なり。
「汝」の言は行者なり、これすなはち必定の菩薩と名づく。
(中略)
「一心」の言は、真実の信心なり。
「正念」の言は、選択摂取の本願なり、また第一希有の行なり、金剛不壊の心なり。
「直」の言は、回に対し迂に対するなり。また「直」の言は、方便仮門を捨てて如来大願の他力に帰するなり、諸仏出世の直説を顕さしめんと欲してなり。
(愚禿鈔)

と解説されています。注目すべきは「」です。「捨てて」と言われる「方便仮門」とは、この前にて既に

上よりこのかた一切の定散の諸善ことごとく雑行と名づく、六種の正に対して六種の雑あるべし。雑行の言は人・天・菩薩等の解行雑するがゆゑに雑といふなり。もとよりこのかた浄土の業因にあらず、これを発願の行と名づく、また回心の行と名づく、ゆゑに浄土の雑行と名づく、これを浄土の方便仮門と名づく、また浄土の要門と名づくるなり。おほよそ聖道・浄土、正雑、定散、みなこれ回心の行なりと、知るべし。(同)

と解説されているように「一切の定散の諸善」であり、「雑行」「発願の行」「回心の行」「浄土の雑行」「浄土の要門」です。高森会長の話では、白道の半分ほどまで進んでから「直ちに来れ」と聞くのですから、それまでは「方便仮門である一切の定散の諸善を信前の求道としてやれという話と辻褄が合います。

しかし、本物の話では白道へ一歩踏み出す前に「直ちに来れ」と聞くのですから、当然「方便仮門を捨てるのは、白道に踏み出す前です。東岸の水火二河の直前で白道を進もうと決心した只今のことです。「阿弥陀如来の誓願」の前には「方便仮門」である「一切の定散の諸善」「雑行」「発願の行」「回心の行」「浄土の雑行」「浄土の要門」は捨てものでしかないのです。方便仮門」である一切の定散の諸善を信前の求道としてやれという高森会長の話とは辻褄が合いません。

ところで、「「直」の言は、回に対し迂に対するなり。」と書かれていますが、これは

横超断四流(玄義分 二九七)といふは、横超とは、横は竪超・竪出に対す、超は迂に対し回に対するの言なり。竪超とは大乗真実の教なり。竪出とは大乗権方便の教、二乗・三乗迂回の教なり。横超とはすなはち願成就一実円満の真教、真宗これなり。また横出あり、すなはち三輩・九品、定散の教、化土・懈慢、迂回の善なり。大願清浄の報土には品位階次をいはず。一念須臾のあひだに、すみやかに疾く無上正真道を超証す。ゆゑに横超といふなり。(信文類)

とあるように横超他力を顕されたものです。対する「」「」とは浄土門内の自力の教えである横出の教えを指しています。それは「すなはち三輩・九品、定散の教、化土・懈慢、迂回の善」ということですから、「方便仮門」である「一切の定散の諸善」「雑行」「発願の行」「回心の行」「浄土の雑行」「浄土の要門」と同じことです。

やはりお聖教のどこを読んでも、「如来大願の他力」すなわち18願と、「方便仮門」すなわち19願とは対比する形で教えられ、しかも「方便仮門(19願)を捨てて如来大願の他力(18願)に帰すること以外勧められていません。方便仮門である19願の勧めは皆無です。

18願の救いを求めて19願の善をやれ

だとかいう珍説は、親鸞聖人の教えからは出てきようはずもないのです。高森会長が譬え話を変えた目的は、「譬え話をより分かりやすくするため」ではなく「親鸞会の邪義を正当化し会員に刷り込むため」でしょう。


私はお聖教に書かれていることを正見して親鸞聖人のお勧めに順おうと決意し、親鸞聖人とは真逆のことを勧める高森会長・親鸞会とは決別しました。退会した当初は不安もありましたが、そういう経緯からついに本願を信じ念仏する身となれました。親鸞会が教える絶対の幸福だとかいう幻想的な楽は得られませんでしたが、阿弥陀さまに往生をおまかせし、後生をくつろがせて頂いた安心というのは何にも代えがたいものです。

他にも記すべき邪義が満載な親鸞会流「二河白道の譬え」ですが、長いのでこの記事では割愛します。

『親鸞会教義の誤り』宿善とは7
『同』宿善とは8
『親鸞会邪義を破る』▼二河白道の譬喩(1)
『同』▼二河白道の譬喩(2)

等をご覧下さい。また、動画では二河白道譬喩が正しい聖教に基づいた譬え話です。

会員の皆さんが高森会長の珍説を捨てて、親鸞聖人の教えに帰されるよう願っています。只今、ここにいる、このままの私が方便仮門を捨てて、如来大願の他力に帰するのです。「直ちに来たれ」すなわち「助けるぞよ」の仰せを、自分の計らいを交えずにそのままお聞きするだけです。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。
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No title

こんばんは。すっかり記事の更新が滞っているあさ川です(爆)

私のブログのコメント欄でも二河白道のたとえ話が少し話題になっていたので、昔話を書こうと思ったのですが、ここに書きます。

大学三年の頃、私は後輩に「二河白道のたとえ話」を説明しようとして、真宗聖典を読みながら説明していました。しかしながら、どうもいつも聞いている話と、書いている内容が違うので、結局うやむやにしてしまったという思い出がありました。

このことについて誰かと話をしたような気がしますが、もやっとした記憶があります。講師部員に聞いてもたぶんまともな答えは返ってこないだろうと思っていたので、しばらくそのままにしてました。

大学院二年の頃に本尊論ブログを書いた時、ふとこのことを思い出して記事にしましたが、このときの文章は手元に残っていません。まあ、違うねということは書きましたが、この記事のように詳しいことは書いてなかったです。


余談ですが、親鸞会の二河白道の絵は、彼岸がぼやけてて見えませんけれども、「二つの岸、あい去ること近しといえども」と書いてあるので、彼岸まではそんなに遠くないはずですよね。画像検索しても、彼岸がはっきり見えるのが多いようです。

親鸞会のあの絵は、何が元になっているのかなあと、そんなことを思いました。

親鸞会制作の動画を妙に懐かしい気持ちで見ました。
会員時代の俺がこの記事を拝見したら、これだけ根拠を挙げて説明されているのだから反論の余地はなく、「ぐぬぬ」と思いながらも淳心房さんを群賊認定し、「騙されないぞ」とk手2氏の妄想に人生と後生を預けてしまっていたかも知れません。

そういえば「この道、東の岸より西の岸に至るに、また長さ百歩」のところを、親鸞会では聞いた事がなかったなぁと思ったのですが、俺が忘れただけかも知れません。

会員さんもまだ仏教を聞いた事のない方も、早く阿弥陀さまに出会われて皆で喜べる日が来てほしいなと思います。
自分の事でいっぱいいっぱいな俺ですが、せっかく全ての有情が無条件で救われる教えがあるのに、苦しむものが尽きないこの世界はやっぱ嫌です。
南無阿弥陀仏
南無阿弥陀仏

Re: あさ川進様

12月は仕方ないですよ(笑) 自分は食べてすぐ寝るのも良くないと思って、たまたま思ったことを記事にしていただけです。お互いぼちぼちやっていきましょう(^ω^) って新しい記事更新してるでないですか!?


私は原文を確かめもせずに親鸞会流「二河白道の譬」を鵜呑みにしてしまった口です。経典や聖教の根拠を挙げて話をしているので、正しいだろうと信じてしまいました。

この道、東の岸より西の岸に至るに、また長さ百歩

ですから、長江のように対岸が見えない距離ではないのですよね。親鸞会オリジナルなのか、華光会かどこかで使われている絵なのか、私も親鸞会の絵は出元がよく分からないです。

Re: R1000様

高森信心が篤い内は最初から批判者側の主張を否定してかかるので、そういう人は今は理解できないと思います。ただ、度重なる募財や訳の分からない無理難題に疑問を抱く方があるでしょうから、そんな方を目当てとしてこれからも綴っていきたいと思います。

挙げたお言葉は私も聞いたことがなかったです。

おのおの深くして底なし、南北辺なし。

は確か話があったと思います。

俺もこの世界は嫌ですね。しかし、煩悩具足の凡夫が火宅無常の世界に生きているからこそ、この濁世を厭い、浄土に生まれたいという気持ちが起きる、起こさせられるのかも知れません。この世の縁尽きたら浄土往生し、成仏せしめられ、還相の回向を賜るとは不思議の中の不思議です。有難いことです。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。
プロフィール

淳心房&しゃあ

Author:淳心房&しゃあ
(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


(しゃあ)
平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
singikensho@yahoo.co.jp
(スパム防止のため@を大文字にしてあります。メール送信時は小文字に変えて下さい。)

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