そういえば20願についての記述は?

「三願転入の教え」だとかいう邪義によって、会員の皆さんは直ちに18願を聞信できないばかりか、19願を根拠に善もどきの善をさも獲信に近づく行であるかのように吹き込まれ、組織拡大要員として利用・搾取されています。このままではこの世も苦しみ、そして念仏誹謗の罪によって未来も苦しみです。現当二益とは言葉だけで、高森会長は会員の皆さんに現当二益を得させようという気は全くなく、ただ私利私欲を満たすためにそういう文言で釣っているだけです。

さて、この邪義を破るべく色々とお聖教を読んでいく内に、以下のようなことに気づきました。

①19願と18願は対比する形で教えられ、18願のみを勧められている
②19願の先にあるという20願については、親鸞聖人は厳しく誡められている
③親鸞聖人以外で具体的に20願を出して説明されているお言葉はほとんど無い


①については、

本願念仏(18願)の機の不体失往生と、非本願諸行往生(19願)の機の体失往生の諍論
第十八の願のこころと第十九の願のこころ ― 自力の行者・諸行往生のひとになること、臨終をまち来迎をたのむこと、辺地・胎生・懈慢界の往生を勧めている高森顕徹会長
「諸行の行人、自力不真実の行人になること」、「十九の願をたのみて来迎にあづかること」、「報土の往生をとげず、胎生辺地の往生」、「臨終正念ならずしては辺地胎生の往生もなほ不定な救い」を勧める高森顕徹会長
「19願を捨てて18願一つ聞きなさい」。これが次第相承の善知識のあさからざる御勧化です

等の記事で、法然聖人、親鸞聖人、覚如上人、存覚上人、蓮如上人のお言葉を見てきました。まだご覧になっていない方はリンク先をお読み下さい。

②については、『正像末和讃』誡疑讃を23首も詠まれ、

以上二十三首、仏不思議の弥陀の御ちかひをうたがふつみとがをしらせんとあらはせなり。

と厳しく自力念仏往生(20願往生)を誡め、他力念仏往生(18願往生)を勧められています。また、『信文類』三心決釈

真実の信心はかならず名号を具す。名号はかならずしも願力の信心を具せざるなり。

【現代語訳】
この真実の信心には、必ず名号を称えるというはたらきがそなわっている。しかしながら、名号を称えていても必ずしも他力回向の信心がそなわっているとは限らない。

や、『化身土文類』真文決釈

まことに知んぬ、専修にして雑心なるものは大慶喜心を獲ず。
(中略)
おほよそ大小聖人、一切善人、本願の嘉号をもつておのれが善根とするがゆゑに、信を生ずることあたはず、仏智を了らず。かの因を建立せることを了知することあたはざるゆゑに、報土に入ることなきなり。


【現代語訳】
いま、まことに知ることができた。もっぱら念仏しても、自力の心で励むものは大きな喜びの心を得ることができない。
(中略)
大乗や小乗の聖者たちも、またすべての善人も、本願の名号を自分の功徳として称えるから、他力の信心を得ることができず、仏の智慧のはたらきを知ることがない。すなわち阿弥陀仏が浄土に往生する因を設けられたことを知ることができないので、真実報土に往生することがないのである。


『末灯鈔』(12)

弥陀の本願と申すは、名号をとなへんものをば極楽へ迎へんと誓はせたまひたるを、ふかく信じてとなふるがめでたきことにて候ふなり。信心ありとも、名号をとなへざらんは詮なく候ふ。また一向名号をとなふとも、信心あさくは往生しがたく候ふ。されば、念仏往生とふかく信じて、しかも名号をとなへんずるは、疑なき報土の往生にてあるべく候ふなり。詮ずるところ、名号をとなふといふとも、他力本願を信ぜざらんは辺地に生るべし。

などなど、自力念仏(20願)を誡め本願を信じ念仏する他力念仏(18願)のみを専らお勧めになっています。このように自力念仏さえ誡められてしかいないのですから、少善根であり、諸仏の勧めがなく、付属もされず、仏と疎遠であり、往生への遠回りであり、化土の業因であり、本願において選び捨てられた行である自力諸善が勧められているわけがないのです。


そして③についてですが、三願転入は万人の獲信までのプロセスだとか言っているものの、20願についての高僧知識方の記述は19願に増して少なく、中々見当たらないことに気づきました。「20願」という言葉は出さないまでも、南無阿弥陀仏の六字のいわれをよく知らずに念仏称えていても極楽には往生できないとか、自力念仏と他力念仏を対比して他力念仏を勧められている箇所は『御文章』、『御一代記聞書』にも見られます。しかし、やはり20願も19願と同様、18願と対比する形で教えられ、20願は誡められてしかいない、18願しか勧められていないのでした。

それで、本当に全くと言っていいほど親鸞聖人以外で20願文に触れている記述がなかったので、飛雲様、林遊様に伺ってみたところ、ようやく2箇所ほど見つかりました。1つは善導大師の『観念法門』摂生縁

また四十八願(大経・上意)のなかに説きてのたまふがごとし。「たとひ われ仏を得たらんに、十方の衆生、菩提心を発し、もろもろの功徳を修し、心を至して発願してわが国に生ぜんと欲せん。命終の時に臨みて、われ大衆とその前に現ぜずは、正覚を取らじ」(第十九願)と。これまたこれ摂生増上縁なり。
また下の願(大経・上意)にのたまふがごとし。「たとひわれ仏を得たらんに、 十方の衆生、わが名号を聞きて、念をわが国に計け、心を至して回向してわが国に生ぜんと願ぜん。果遂せずは、正覚を取らじ」(第二十願)と。これまたこれ摂生増上縁なり。
また下の願(同・上意)にのたまふがごとし。「たとひわれ仏を得たらんに、十方世界に、それ女人ありて、わが名字を聞きて、歓喜信楽し、菩提心を発して、女身を厭悪せん。命終の後に、また女身とならば、正覚を取らじ」(第三十五願)と。義にいはく、すなはち弥陀の本願力によるがゆゑに、女人、仏の名号を称すれば、まさしく命終の時すなはち女身を転じて男子となることを得。弥陀手を接し、菩薩身を扶けて宝華の上に坐せしむ。仏に随ひて往生し、仏の大会に入りて無生を証悟す。また一切の女人もし弥陀の名願力によらずは、千劫・万劫・恒河沙等の劫にも、つひに女身を転ずることを得べからず、知るべし。いまあるいは道俗ありて、女人浄土に生ずることを得ずといはば、これはこれ妄説なり、信ずべからず。またこの経をもつて証す。またこれ摂生増上縁なり。


もう1つは法然聖人の『西方指南抄』十七条御法語

或人念仏之不審を、故聖人に奉問曰、第二十の願は、大綱の願なり。係念といふは、三生の内にかならず果遂すべし。仮令通計するに、百年の内に往生すべき也。 云云
これ九品往生の義意釈なり。極大遅者をもて、三生に出(いで)ざるこころ、かくのごとく釈せり。又『阿弥陀経』の已発願等は、これ三生之証也と。


です。これは知らなんだよ~( ̄д ̄) 流石のお二人です。『西方指南抄』のお言葉は既に林遊@なんまんだぶさんが『用管窺天記』三生果遂の願にてご紹介下さっています。

ただ、前者は往生を誓われた願の1つとして紹介されているだけ、後者は三生果遂を誓われた願として教えられているだけであり、親鸞会で教えられるような

「19願を実践していくと、善のカケラもできない自己が知らされて、20願へ進む」
「20願を実践していくと念仏も称え切れない自己が知らされて、18願に転入する」
「18願の救いを求めて20願を実践せよ、精一杯自力念仏に励め」


というような意味はこれらのお言葉から伺うことはできません。18願の世界に入るには、19願の善、20願の念仏を実践しなければならないという邪義は、親鸞聖人は勿論、経典上にも聖教上にもどこにも見られない珍らしき法です。


ところで、『西方指南抄』十七条御法語を読み進めていくとこのような御文もあります。

又云、『玄義』に云く、「釈迦の要門は定散二善なり。定者(は)息慮凝心なり、散者(は)廃悪修善なりと。弘願者如大経説、一切善悪凡夫得生」といへり。予(よが)ごときは、さきの要門にたえず、よてひとへに弘願を憑也と云り。

又云、善導は第十八の願、一向に仏号を称念して往生すと云り。恵心のこころ、観念・称念等みな、これを摂すと云り。もし『要集』のこころによらば、行者においては、この名をあやまてらむ歟と。
又云、第十九の願は、諸行之人を引入して、念仏之願に帰せしめむと也。


19願は諸行の人、すなわち聖道門の人を念仏の願(18願)に帰依させるための願であると教えられています。そして、法然さま自身も要門の修行に堪えられない身であるからひとえに弘願をたのむのだと仰っています。にもかかわらず要門を実践しようとしているのは、どれだけ我が身知らずで自惚れ強いのでしょうか。


このように聖教を伺っていきますと、いよいよ親鸞会の邪義が明らかになり、いよいよ18願に依るしか我々が往生し成仏する道はないのだと知らされます。そして

○19願を実践していくとどうなるか

親鸞聖人 (臨終に来迎があれば)辺地・胎生・懈慢界の往生。20願へ進むという説示は無い
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――
高森会長 善のカケラもできない自己が知らされて、20願へ進む



○20願について

親鸞聖人 20願を捨てよ
―――――――――――
高森会長 20願を実践せよ

       ※実態は19願の勧めばかりで20願は無視状態

という教義の差別があることも分かりました。19願を実践していく先は、死ぬまで求道、臨終来迎、化土往生です。平生業成、報土往生をし、法然聖人や親鸞聖人と同じ果報を得ようというなら、19願は捨てて18願一つ聞いて下さい。仏願の生起・本末、つまり「たすけるぞ」を聞き、念仏するのみです。
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No title

初見です。一つ質問お願いします。

私のこれまでの理解としては、三願転入については難しい問題だから、色々と解釈があるのかなぁ、でも親鸞聖人だけでなく18願に入った人には何らかの形で三願転入で表されているような体験があるという解釈もあるのかなぁと思っていたんですが、

「三願転入の教え」は邪義とあったので、そういう解釈というのは、やっぱり絶対にありえないということになるんでしょうか。

解釈の一つとしてでも三願転入は必然という解釈があったら、親鸞会はあながち邪義を教えていると断定できないなぁと思ったもので

Re: 名無し様

親鸞聖人は自らの入信の過程を従仮入真論で説かれています。これが三願転入の御文と言われる文章です。名無しさんの、

>18願に入った人には何らかの形で三願転入で表されているような体験があるという解釈もあるのかなぁ

という思いもあながち間違いではないと思います。ただこれは、獲信の現在から過去を振り返ってそのように阿弥陀仏のお導き・御恩徳を喜ぶというものであります。

ところが、親鸞会流「三願転入の教え」となると話は別です。これは、これから獲信・往生しようという人に、勧められてもいない19願の善・定散二善をやれと教えているもので、完全に邪義です。これまでの当ブログの記事や、他の親鸞会批判ブログをご覧になればお分かりになると思いますが、19願と18願は対比する形で教えられ、18願のみを勧めているのが親鸞聖人であります。19願を勧められた箇所は皆無です。しかも19願の善とは名ばかりで、実態は献金・勧誘・無条件服従がメインですから話にならないのです。

また、三願転入は親鸞聖人だけが仰ったことであり、七高僧方も、覚如上人・蓮如上人も仰ってはいません。ですから、「三願転入は必然」という解釈は適当ではありません。

No title

コメントありがとうございますm(_ _)m

読解力が足りないせいか、ちょっとわからなかったところがあったので、教えてください!

18願に入った人には三願転入の体験があるという解釈もあながち間違いではない。
でも三願転入は必然という解釈は適当ではない、という内容だったと思うのですが・・

18願に入った人には三願転入の体験があるという解釈だったら、三願転入は必然という解釈になると思ったのですが(ちなみに私は同じつもりで質問いたしました。)、三願転入はすべての人が必ず通る(法の必然)という解釈は、結局、間違いなのでしょうか?それともあながち間違いとも言えないのでしょうか?

ブログの履歴を見れば書いてあるよ(怒)と思われたらすみません。ブログを見たのが最近なもので・・・


ちなみに淳心房さんとしゃあさんは、三願転入して18願に入れたんですか?

No title

三願転入については、学者の間で様々な議論がなされています。
まず、親鸞聖人は三願転入されたのか?

されたに決まっているではないかと思われるかもしれませんが、親鸞聖人は19願の実践をされた形跡がないのです。少なくとも法然上人のお弟子になってからはされていません。比叡山での御修行の中でひょっとしたらされたのかもしれませんが、そのようには考えにくいです。そうなりますと、親鸞聖人は19願を実践されていないのではないかということになり、親鸞聖人は実体験ではなく概念で仰った可能性も指摘されています。
19願は元々聖道門からの非難に応じる形で親鸞聖人が初めて、詳しく説明されたようなものです。七高僧方は、19願についてほとんど無関心です。

仮に親鸞聖人が19願の実践をされたとしても、それが他の人にも当てはまるかはまた違う話です。

過去世からのことをふり返ってみると、過去には聖道門の修行をしてきたこともあったかもしれませんし、19願を信じてきたかもしれませんが、それは想像でしかないことです。

親鸞聖人以外で、三願転入のことを仰った善知識方はおられませんので、普通に考えれば三願転入は必然とは言えないでしょう。

Re: 名無し様

横さんがお答え下さっていることに私も賛成です。三願転入はすべての人が必ず通るという解釈は、適当ではないでしょう。あいまいな表現をしているのは、過去世まで遡って考えると分からないからです。

しゃあはどうか知りませんが、淳心房は19願を実践していませんので、今生だけ見れば三願転入したとは言えないでしょう。

親鸞聖人以外に三願転入を仰った善知識方はおられませんし、聖人とて化身土文類の唯一ヶ所のみ記されているだけなので、三願転入はさほど重要ではありません。親鸞さまは18願、仏願の生起・本末、南無阿弥陀仏のいわれを疑いなく聞いて念仏することを専ら勧められていますから、私も祖師のなされた通り、そればかり皆様に勧めていくだけです。

Re: 名無し様

三願転入は必然という解釈は成り立たないのではないでしょうか。
正信偈の内容からいって、
龍樹菩薩は、聖道門から十八願、
(証歓喜地生安楽)
曇鸞大師は、道教から十八願
(焚焼仙経帰楽邦)
です。

そもそも三願転入が必然ならば、七高僧、親鸞聖人、蓮如上人のような善知識方は、十九願を勧められるはずですが、十九願の勧めは一箇所もありません。

また、祖師方の勧めは十八願一つです。三願転入が必然ならばそのような教えられ方はされないはずです。

私も十九願の実践はしておりませんので、三願転入したとはいえません。

No title

コメントありがとうございますm(_ _)m

横さん、淳心房さんのコメントでは、過去世まで遡って考えると分からないけれども、親鸞聖人以外言われていないので、三願転入はすべての人が必ず通る(必然)ということは普通に考えれば言えないし、適当ではないだろうと。

しゃあさんは、三願転入は必然という解釈は成り立たないということですね!


最近、本願寺派の勧学だった梯実円氏の「顕浄土方便化身土文類講讃」という本を拝読したのですが、先哲の説を色々とあげた上で、梯氏の解釈としては、

「単なる聖人(親鸞聖人のこと)個人の宗教経験に止まらず、自力を捨てて他力に帰するという廃立の信心の性格として、自ずから三願転入が為されると考える。同時に、権仮方便の教法を設定して、未熟の機を誘引される如来の摂機の次第からいっても三願転入は法の必然であると考えている。」
「自力のはからいを離れて選択の願海に転入したものには、何らかの形で三願転入で表せるような宗教体験があったと考えられる。」

とありましたが、

梯氏の解釈は、適当ではないし、成り立たないと言うことが分かりました!

本願寺派の勧学ですし、本願寺派系の出版社でもたくさんの本も執筆していたから、私としては信頼していたのですが・・・。

大変勉強になりました。また分からないことがあれば顔を出すかもしれませんので、その時はまた色々と教えてくださいm(_ _)m

No title

梯師の味わい、考え方であって、それが正しいと頭から信じるべきではないと思います。
学者には、様々な説があり、その中の一つの説と受けていけば良いと考えています。

Re: 名無し様

梯師も断定的な言い方はせず、「考えている」等の表現を使われています。三願転入が法の必然かどうかは見解が分かれるということです。名無し様がどちらの説を信じようと構わないと思います。

ただし、今生において19願から始めなければならないとする親鸞会流「三願転入の教え」に関しては、梯師も否定するでしょう。19願を勧められた根拠がないからです。19願、20願の権仮方便の教説は未熟な機を導く暫用還廃の法門であって直ちに廃し、ただ18願のみに依れというのが浄土真宗の教えです。
プロフィール

淳心房&しゃあ

Author:淳心房&しゃあ
(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


(しゃあ)
平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
singikensho@yahoo.co.jp
(スパム防止のため@を大文字にしてあります。メール送信時は小文字に変えて下さい。)

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