浄土真宗のお話は有難い、阿弥陀さまの御苦労が偲ばれて念仏が自然と出てくる、そういうお話

この前R1000さんが築地本願寺に聴聞に行かれた時のことを書いて下さいました。詳しくお書き下さって、ありがとうございました。まずは以下に引用いたします。

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布教使は関西弁を話す70代の女性の先生で、とにかく喜ばれているのが伝わってきました。法話中も度々お念仏され、俺もつられて、ではないですが過去のご法話中で一番お念仏させて頂きました。
ご法話が始まる前に参詣者ひとりひとりを周り歩かれ「ようこそようこそ、有難う。なまんだぶなまんだぶ」と声をかけられ、初参加の俺にまで丁寧にご挨拶下さいました。

ご法話前は「今日はとても嬉しい。皆さんと一緒にお育てにあずかります」と話を始められ、最後に「今日は皆さんのお陰でお育てにあずかりました。有難うございます」と締めくくられました。

実は一昨日、この先生も阿部先生のご縁で聴聞されていたのですが、幼少の頃の病気が原因で片耳は全く聞こえず、片耳は補聴器をつけてようやく少し聞こえるようです。
なので阿部先生のご法話の大半はよく聞こえなかったそうですが、「それが有り難い。聞こえた僅かな言葉が、私の宝になる」と言われていました。
一昨日の、その宝の一つに「阿弥陀さまは功徳を積んで、まとめて与えるのではない。ひとりひとりを背負って、親が背負った子供にみかんをひとつ剝いてはホイ、ひとつ剝いてはホイ、と少しずつ与えるように功徳を我々ひとりひとりの上に積み上げてゆかれた」というお話がありました。
このお話の元は深川倫雄和上のようで、経典の根拠も話されましたが、済みません、失念しました。。。

この布教使の先生はこの話をうけて、「阿弥陀さまは、阿弥陀仏ではないですよ。法蔵菩薩です。少しずつ私たちの上に功徳を積み上げられて、私を仏にしたいという願いを成就された。私がどうこうすることは全くない。三角なら三角のまま、丸なら丸のまま、四角なら四角のまま、ただ『ハイ』と受け取るだけ。その時に、法蔵菩薩さまは私と一緒に阿弥陀仏となる」と話されました。

ここからは俺の味わいなのですが、このお話は本当に有り難かったです。
自分の事で恐縮ですが、今年の正月休みに計らいをとって頂くまで、阿弥陀さまは俺ひとりの為に気の遠くなるような昔からずっと『ハイ』と聞いてくれるのを、常に寄り添って待ち続けて下さっていました。
俺の為に願って誓って下さった法蔵という菩薩さまは、あの時同時に阿弥陀仏と仏の悟りをとって下さいました。
それなのに、疑い続け、背中を向けて逃げ続けた俺なんかよりも一番喜んで下さって、本当に申し訳なく有り難く、涙が出そうになりました(それでも出ないのが俺なのですが)。
目に見える世界の事だけでも、阿弥陀さまのお力は想像も出来ないくらいすごいので、ただ南無阿弥陀仏です。
なぜかというと、うちの愛猫のにゃんた君も、地面を這うアリンコも、木の間に巣を張る蜘蛛も、全ての有情を仏にしたいと願われ、誓われ、その通りに成就されたから、今私たちは「阿弥陀」というお名前を聞いているんです。
木に刻めばお木像。絵にあらわせばご絵像。文字にすれば南無阿弥陀仏。声となってはお念仏。既にこの世界に南無阿弥陀仏となって届いているのが、我々の往生の証拠です。

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素晴らしいお領解だと拝します。

この中でみかんの譬え話があったので少々調べてみましたが、その根拠は『般舟讃』

弥陀因地にして発心の時
たちまちに王位を捨てて菩提を求めたまふ
饒王仏の所にして鬚髪を落し
出家修道するを法蔵と名づく
四十八願これによりて発す
一々の誓願は衆生のためなり


ではないかと思われます。これは『21世紀の浄土真宗を考える会』二種深信(『観経疏散善義講讃』深川倫雄著 より)にも

衆生を摂受してとは第十八願の意である。衆生とは第一深信に示された、無有出離の縁である。摂取の語は『大経』五劫思惟段に、荘厳仏国清浄之行を摂取とあるが、今は『観経』第九観の、念仏衆生摂取不捨の摂取を取っての摂受であろう。第十八願の意を述べるのに四十八願はと出すのは、四十八願の主意は、仏身、仏土、聖聚の三厳を誓うけれども、それはただ一筋に迷いの衆生を来生させる意に基づく。従ってその意を『玄義分』には「一一願言」といい、『般舟讃』には一一誓願為衆生と讃ずる。今は逆に四十八願の語を標して、第十八願の意を述べるのである。

と紹介され、真宗の法言Ⅱ(長明寺HP)では

焼野のきざす夜の鶴、子ゆえに迷う親心、
 親を思わぬ子はあれど、子を思わぬ親はなし。
 ましてわれらの親様は、一々誓願為衆生故、
 一願積んでは衆生のため、一行はげんでも衆生のため、

 衆生故ならこの弥陀は、こおる氷もこおらばこおれ、さかまく浪もたてばたて、
 八寒紅蓮の氷の中も、灼熱無間の焔の中も、衆生一人、弥陀一人、
 実の子じゃもの親じゃもの、八万由旬燃え上がる、焔の中にとびこんで、
 血煙あげて泣くものを、抱いて抱えて摂取して、
 蓮華の御座につれあがり、にっこり微笑う顔見るまでは、
 退くに退かれぬ親じゃぞよ


とあります。元々は、『大無量寿経』上巻 法蔵修行にて以下のように説かれています。

仏、阿難に告げたまはく、「法蔵比丘、この頌を説きをはるに、時に応じてあまねく地、六種に震動す。天より妙華を雨らして、もつてその上に散ず。 自然の音楽、空中に讃めていはく、〈決定してかならず無上正覚を成るべし〉と。ここに法蔵比丘、かくのごときの大願を具足し修満して、誠諦にして虚しからず。世間に超出して深く寂滅を楽ふ。阿難、ときにかの比丘、その仏の所、諸天・魔・梵・竜神八部・大衆のなかにして、この弘誓を発す。この願を建てをはりて、一向に専志して妙土を荘厳す。所修の仏国、恢廓広大にして超勝独妙なり。 建立〔せられし仏国は〕常然にして、衰なく変なし。不可思議の兆載永劫において、菩薩の無量の徳行を積植して、欲覚・瞋覚・害覚を生ぜず。

欲想・瞋想・害想を起さず。色声香味触法に着せず。忍力成就して衆苦を計らず。少欲知足にして染・恚・痴なし。三昧常寂にして智慧無碍なり。虚偽・諂曲の心あることなし。和顔愛語にして、意を先にして承問す。勇猛精進にして志願倦むことなし。もつぱら清白の法を求めて、もつて群生を恵利す。三宝を恭敬し、師長に奉事す。大荘厳をもつて衆行を具足し、もろもろの衆生をして功徳を成就せしむ。


【現代語訳】
釈尊が阿難に仰せになる。
  「 法蔵菩薩が、このように述べおわると、そのとき大地はさまざまに打ち震え、天人は美しい花をその上に降らせた。そしてうるわしい音楽が流れ、空中に声が聞こえ、< 必ずこの上ないさとりを開くであろう > とほめたたえた。ここに法蔵菩薩はこのような大いなる願をすべて身にそなえ、その心はまことにして偽りなく、世に超えすぐれて深くさとりを願い求めたのである。阿難よ、そのとき法蔵菩薩は世自在王仏のおそばにあり、さまざまな天人・魔王・梵天・竜などの八部衆、その他大勢のものの前で、この誓いをたてたのである。そしてこの願をたておわって、国土をうるわしくととのえることにひたすら励んだ。その国土は限りなく広大で、何ものも及ぶことなくすぐれ、永遠の世界であって衰えることも変わることもない。このため、はかり知ることのできない長い年月をかけて、限りない修行に励み菩薩の功徳を積んだのである。

 貪りの心や怒りの心や害を与えようとする心を起こさず、また、そういう想いを持ってさえいなかった。すべてのものに執着せず、どのようなことにも耐え忍ぶ力をそなえて、数多くの苦をものともせず、欲は少なく足ることを知って、貪り・怒り・愚かさを離れていた。そしていつも三昧に心を落ちつけて、何ものにもさまたげられない智慧を持ち、偽りの心やこびへつらう心はまったくなかったのである。表情はやわらかく、言葉はやさしく、相手の心を汲み取ってよく受け入れ、雄々しく努め励んで少しもおこたることがなかった。ひたすら清らかな善いことを求めて、すべての人々に利益を与え、仏・法・僧の三宝を敬い、師や年長のものに仕えたのである。その功徳と智慧のもとにさまざまな修行をして、すべての人々に功徳を与えたのである。


法蔵菩薩が世自在王仏のみもとで四十八願を述べ、更に重誓偈を述べた後で御修行の様子が説かれています。法蔵菩薩がはかり知ることのできない長い年月をかけて、限りない修行に励み菩薩の功徳を積んだのは、これひとえにすべての人々、つまりこの私一人に南無阿弥陀仏の功徳を与えるためであったというのです。

残念ながら深川倫雄和上の具体的な話までは突き止められませんでしたが、ご存じの方がありましたらコメントをお願いします。


私はR1000さんのこのコメントを見て、あぁ、浄土真宗のお話は有難い、阿弥陀さまの御苦労が偲ばれて念仏が自然と出てくる、そういうお話なのだなと思いました。因果の道理だとか、難度海で泳ぎ方がどうだとか、「この世はそらごと、たわごとばかりで真実あることない世界ですよ」という話に終始する親鸞会の話とは大違いで、100%と言っていい位救いの法が説かれています。

このような素晴らしいお話があること、それを説く素晴らしい布教使の方がおられることをご紹介下さったR1000さんに改めて御礼申し上げます。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。
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No title

失礼します。

浄土真宗では、思慮分別という物事に注意深く考えをめぐらし、道理をよく考え、深く思いを凝らして判断することが重要だと思います。

親鸞聖人は、教行信証信巻 菩提心追釈で、

「菩提とは天竺(印度)の語、ここには道と称す。質多とは天竺の音なり、この方には心といふ。心とはすなはち慮知なり」と。

(現代語訳)
菩提とはインドの言葉であり、中国の言葉では道という。質多(しった) とはインドの言葉であり、中国の言葉では心という。心とは思慮分別する心である。

他の宗教とは違い「浄土真宗では、思慮分別する心が菩提心である。」と教えておられますので、感情より物事に注意深く考えをめぐらし、道理をよく考えることが大切だと考えます。

>名無し様

なるほどなるほど。浄土真宗を学問として学んでいくのであれば、名無し様のご意見もご尤もかと思います。

ただ祖師は菩提心釈にて、

横超とは、これすなはち願力回向の信楽、これを願作仏心といふ。願作仏心すなはちこれ横の大菩提心なり。これを横超の金剛心と名づくるなり。

と仰り、「如来の本願力廻向による信心」=「願作仏心(仏になろうと願う心)」=「他力の大菩提心」であると言われています。本願招喚の勅命を私の思慮分別を抜きにそのままお受けする無疑心こそ他力の大菩提心であり、これが横超の金剛心であります。

私としては、「本願力回向」ということを忘れてただ感情的に有難がるのは違うと思いますが、南無阿弥陀仏の六字のこころをよく心得ているのであれば、そのおいわれをお聞きするにあたって、有難さのあまり感情が揺り動かされることもあるかと思います。逆に何の感情の変化もないというのもどうなのかといぶかってしまいます。名無し様は浄土真宗のお話を聞かれて、うれしいとか有難いとか、申し訳ないとかかたじけないとか、そういった感情は起きないのでしょうか? もし起きても、道理をよく考え、深く思いを凝らして判断することが重要だからと押し殺してしまいますか?

私としては、法を聞いて感じたままに喜び、また懺悔するというのでよいと思います。また、法をお聞かせ頂くところに「心多歓喜の益」をわずかながらも知らせて頂きます。名無し様は如何でしょうか? よろしければ教えて下さい。

No title

名無しさん

凡愚を対象の浄土真宗には、「凡情を遮せず」という言葉があります。聖道門の修行は、智慧をきわめて生死をはなれ、浄土門の修行は、愚痴にかへりて極楽にむまる、じゃないかな?

名前欄に記述もせず匿名で書き込んでいるけど、ログにはアクセスの固有の情報が記録されているのだし、HNを記述するようにしましょうよ。

なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ

上から失礼します

お答えいたします。テレビ、新聞を読まれて感じられるように偽りを述べても、そのまま通り過ぎてしまう今の世の中です。「浄土真宗の教えを正しく伝えてます。」と世間に述べてはいても、実は間違いだらけで、間違いに気がついたとしても平気な顔で反省のかけらもありません。浄土真宗では、正しい教えを聞かないと真実の信心を獲ることは難しいと思います。ようするに、今の世は、自分も含め嘘をついても、あまり罪とは思わない汚れた世界ということです。感情に流されず、みんなが有難がっているからといって、その教えが正しいと思ってはならないということです。とかく私たちは、みんなが正しいことだというと、そのことを信じてしまう癖があるように思います。それで、後で違うと知り驚くのです。また、今日、詐欺など人をだます技術が向上しています。うまく感情に入り、だまします。いったん騙されると、正しいことがわからなくなります。逆に正しいことが、間違いのように思ってしまいます。いくら正しいことを分別しようとしても手遅れです。ですから、感情で信じてしまう前に、私たちは、幸い、字も読めますし、インターネットの普及している時代なので、自分で確認する作業をすることもできます。例えば、「阿弥陀さまは功徳を積んで、まとめて与えるのではない。ひとりひとりを背負って、親が背負った子供にみかんをひとつ剝いてはホイ、ひとつ剝いてはホイ、と少しずつ与えるように功徳を我々ひとりひとりの上に積み上げてゆかれた」という内容も、「本当にそうですか。」と言いたいのです。偉い先生が根拠のような文をだされて、「ハイ」間違いないと簡単に思っていいのかということです。少しは、「短命の機の衆生を阿弥陀様はなぜ小出しに救おうとなさされるのか」と疑問を持ち、自分で御聖教で確認することが必要です。今、非難されている団体に入ってしまうようなことを二度と繰り返すことのないようにしていただきたいと思います。
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淳心房&しゃあ

Author:淳心房&しゃあ
(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


(しゃあ)
平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
singikensho@yahoo.co.jp
(スパム防止のため@を大文字にしてあります。メール送信時は小文字に変えて下さい。)

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