そんなに善をするのが嫌なら、親鸞会にとどまって推進される活動をしたらよいでしょう

・高森顕徹会長の話を聞くこと
・高森顕徹会長の書いた本を読んだり制作物を視聴したりすること
・親鸞会に献金すること
・親鸞会に勧誘すること
・高森会長や上司の指示に無条件服従すること


これらの行為は、浄土真宗の看板とは裏腹の、デタラメ創作寄せ集め教義を自分自身も深く信じ、またその宣伝をするという行為ですから、そんな行為が善なのか悪なのかは言うまでもありません。

よく親鸞会側は、浄土真宗の祖師方のお言葉通りに教える親鸞会批判者に向かって、

そんなに善をしたくないなら・・・
そんなに善をするのが嫌なら・・・


などと負け犬の遠吠えがましいことを言いますが、

そんなに善をするのが嫌なら、親鸞会にとどまって推進される活動をしたらよいでしょう

とでも返しておきましょうか。幹部や講師部員、会員の皆さんが親鸞会の活動に割かれている時間を自由に使える我々は、その時間で彼らよりずっと倫理道徳上の良いことを実践できます。しかも往生・獲信とは無関係とわきまえて。それに『さよなら親鸞会』などを見る限り、一般の会員はどうかとして高森顕徹会長始め一部の幹部や講師部員は、とても廃悪修善を実践しているとは言い難いものがあります。教義面に絞っても、

・「親鸞会教義の誤り」への反論を依頼した特専部員を除名する。
・反論もしないのに、「これが親鸞聖人の正しい教えだ」と主張し、間違った教えを弘め続ける。「誤りを犯さないことを誇りとするよりも 誤りを直ちに改めることを誇りとしよう」ではなかったのか。
・大沼氏や伊藤氏から盗作しておきながら、あたかも自分が書いたものであるかのように振る舞う。
・意図的な断章をした御文を教学聖典に用い、会員に親鸞会ドグマを浸透させる。
・根拠が存在しなかったり、根拠が間違った御文を教学聖典に掲載し続ける。
・法論すれば相手の主張を歪曲し、相手があきれて論戦放棄すると、勝手に勝利宣言。
・過去の法論では頑なに自説を曲げなかったのに、後になってしれっとそれまでの主張を修正してくる。若不生者の「生」の解釈が典型例。㈱チューリップ企画と田中一憲の法論はまさに勝他のための議論。
・いつでも公開法論に応じると宣言していながら、『飛雲』との公開法論に4年以上も応じていない。


等々、教えを説く者としての誠実さはカケラもありません。とにかく善がしたくない、善をするのが嫌なようです。

善もどきの善をいくら励んだところで往生は定まりませんし、少しも獲信に近づくことはできません。往生の因も果も、全て阿弥陀仏の方から恵み与えて下さるものだからです。この本願力回向の教えを真っ向から否定することが善なのか、悪なのか、そんな親鸞聖人の教えを否定する邪義を自分自身も深く信じ、それを宣伝する行為が良いことなのか悪いことなのか、会員の皆さんには一度立ち止まってよく考えてみて頂きたいと思います。
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特定の団体や個人に対する個人的な恨みから、
腹いせとして特定の団体に対しての誹謗中傷をこのようにブログに書いてる行為が、
善なのか悪なのかは言うまでもありません。

No title

親鸞会を辞めてその後本当に信心決定して往生一定の無上の幸せ者になったなら、
親鸞会を強く怨むことはないと思います。
このブログの管理人も子供を持つ1人の大人なら、「親鸞会憎い」で執拗に感情的に攻撃し続けること自体恥ずかしいと思いませんか?いつまで過去にこだわっているのですか?
親鸞会の悪口を書いても悪因悪果であなた、にとって何も良いことはありません。

No title

高森会長は、出身の華光会を土蔵秘事に類するものとして誹謗中傷しています。

それが善なのか悪なのか言うまでもありません。

華光会を辞めてその後本当に信心決定して往生一定の無上の幸せ者になったなら、
華光会を強く怨むことはないと思います。

華光会の悪口を書いても悪因悪果であなた、にとって何も良いことはありません。

以上を高森会長によーく、言って聞かせてくださいね。

よくお読み下さい。

【浄土真宗 親鸞会に対する非難】

最近特に「ヘイトスピーチ」が問題になっています。
ヘイトとは「憎む,ひどく嫌う,嫌悪する」という意味で、
ヘイトスピーチは、「憎悪と敵意に満ちた言論」「憎悪にもとづく発言」のことです。
これはインターネットの発言も含まれます。
『知恵蔵mini』(朝日新聞出版)には、ヘイトスピーチについて、こう書かれてあります。

「匿名化され、インターネットなどの世界で発信されることが多い。定義は固まっていないが、主に人種、国籍、思想、性別、障害、職業、外見など、個人や集団が抱える欠点と思われるものを誹謗・中傷、貶す、差別するなどし、さらには他人をそのように扇動する発言(書き込み)のこと」
(『知恵蔵mini』朝日新聞出版コトバンク、2013年2月21日、2013年5月13日更新。ヘイトスピーチより)

このようにヘイトスピーチは、ネット上での発言も含まれますが、特に憎悪むき出しのサイト(ホームページ)を「ヘイトサイト」と呼び、大変問題になっています。
ネット上のいじめのうようなものですね。
「悪くいわれるからには、問題があるのだろう」と、安易には言えません。それは、「いじめられるほうにも問題がある」と言うのと同じです。

実際、親鸞聖人も大変な非難攻撃を受けられ、なんと流刑にまであわれました。当時、流刑は死刑の次に重い刑です。
なぜ、今日、多くの人から尊敬される親鸞聖人が、流刑にあわれたのでしょう。

信じられないでしょうが、本当の仏教を明らかにされたからなのです。

親鸞聖人といえば、肉食妻帯(僧侶が肉を食べ、結婚すること)が有名です。
当時は堅く禁じられていた肉食妻帯を世界で初めて公然となされたのが親鸞聖人でした。
それは、すべての人がありのままで救われるのが真実の仏教であることを明らかにされるためでした。
当時は、大変な修行をしなければ救われないと仏教各宗派は教えていました。
仏の教えは、一般庶民や女性には開かれていなかったのです。
しかし、仏の慈悲は平等です。特別な人だけを救うというものではありません。
そこで親鸞聖人は身をもって、どんな人でも仏教によって救われることを明らかにされたのです。
本当の仏の慈悲を知った人たちが、次々と本当の仏教を聞くようになりました。

面白くないのが名ばかりの伝統仏教の人たちです。
彼らは「我こそ伝統を受け継いだ仏教者」と名乗り、世間でもそう思われていましたが、実態は違いました。そして、仏の慈悲をねじまげていた誤りを指摘され、それが白日のもとにさらされると、それまで信者だった人たちが自分のもとから離れていきました。それで彼らは、腹の虫がおさまらなかったのです。
彼らは教えでは負けてしまいます。そこで、権力者にとりいって親鸞聖人を流刑にしてしまったのです。親鸞聖人はいわゆる無実の罪で越後へ流刑になったのです。

しかし親鸞聖人は、これまた越後のみなさんに本当の仏教をお伝えするご縁と喜ばれ、ますます多くの人たちに本当の仏教を伝えていかれたのでした。

ちなみに、明治5年の太政官布告によって「自今僧侶の肉食妻帯勝手たるべきこと」と、僧侶の妻帯が公式に認められ、今はほとんどの宗派で僧侶の結婚が認められ、親鸞聖人に「右にならえ」となっています。

ひるがえって現代。またも仏の御心を捻じ曲げる僧侶が多く出ています。
これは、各メディアでも報じられているのでご存じの方も多いでしょう。

法外な戒名料をとられた
葬式、法事ばかりで、教えを説かない
などの苦情が噴出し、
NHKの『クローズアップ現代』で、
「仏教」「寺」「僧侶」に「どれだけ良いイメージを持っていますか」というアンケートをとったところ、
その結果はこうでした。

・仏教  90%
・寺   25%
・僧侶  10%

仏教のイメージは非常によいといっていいでしょう。9割もの人が、よいイメージと答えています。
ところが、僧侶に対しては、全く逆で9割の人が、よいイメージではない、と答えているのです。
書店には『葬式は、いらない』『寺院崩壊』などという本までが並び、話題になっています。

それに対して、浄土真宗親鸞会は、「葬式、法事ばかりでなく、親鸞聖人の教えを誠意をもって伝えなければなりませんよ」と訴え続けてきたのですが、悲しいかぎりです。

何事も逆境を縁に反省し、向上の糧とせねばならないと思うのですが、「葬式、法事ばかりでは駄目ですよ」という親鸞会を疎ましく思い、彼らはヘイトスピーチを始め、ヘイトサイトまで立ち上げました。ヘイト(憎悪)を感じないページが1ページもないほど、極端なヘイトサイトです。

このように、信じがたいことであり、信じたくないことですが、本当の仏教を説き続けた親鸞聖人が非難されたように、ひたすら親鸞聖人の教えを伝えている親鸞会もまた非難の対象となるのです。

あまりにも事実無根の非難がひどかったので、親鸞会の弁護士が、批判の責任者に内容証明 郵便を送ったそうですが、3回も「あて所に尋ねあたりません」と返ってきました。

それでも連絡をとろうとしたところ、その非難者は、振り込め詐欺やインターネットオークション詐欺で多く使われている「私設私書箱」を使用していたことが分かり、明るいところでは非難できない人なのだなと分かりました。

「この法を信じる衆生もあるべし、謗る衆生もあるべし」

と親鸞聖人が、お釈迦さまの『法句経』のお言葉を根拠におっしゃったお言葉が懐かしく感じられます。
私たち親鸞学徒は、毀誉褒貶はお任せし、粛々と親鸞聖人の教えを伝えていきたいと思います。

事実です

>あまりにも事実無根の非難がひどかったので、親鸞会の弁護士が、批判の責任者に内容証明 郵便を送ったそうですが、3回も「あて所に尋ねあたりません」と返ってきました。

親鸞会の教義を徹底的に糾弾しているブログはたくさんありますが、そのブログの管理人には、親鸞会からも親鸞会の弁護士からも一切連絡がありません。

なぜでしょうか?

答えは簡単です。事実だからです。

飛雲氏は法論を、親鸞会に申し込みましたが、拒否されています。

なぜでしょうか?

答えは簡単です。
勝ち目がないからです。

法然上人・親鸞聖人を非難攻撃する親鸞会

興福寺奏状 第七
 第七に念仏を誤る失の一節

ここに専修、此のごときの難を蒙らんの時、万事を顧みず、ただ一言に答へん、「是れ弥陀の本願に四十八あり、念仏往生は第十八の願なり」と。何ぞ爾許の大願を隠して、ただ一種を以て本願と号せんや。

本願は48あるのに、18願だけを本願といい、大事な大事な大顔(19願)を隠しているとは何事か!!

と怒ったのが、聖道門。

18願だけでいいという法然上人に対して、19願が不要とはとんでもないことと非難攻撃し、権力者によって法然上人と親鸞聖人を流罪にさせた聖道門の主張は、親鸞会と瓜二つ。

本願寺と退会者は「18願だけでいい、19願は不要」

親鸞会は「18願だけでいいとは何事か、19願は絶対に必要」

親鸞会が法然上人・親鸞聖人の教えを真っ向から否定しているのですが、お分かりですか?

飛雲のブログを読む限り、彼は攻撃性が高く慈悲心も誠意も感じられません。
強い怨みの対象である親鸞会が言ったことに対して、
ああ言えばこう言うで根拠を自己流に解釈して自分の主張を押し通して自己満足したいだけです。腹いせの法論に付き合うのは時間の無駄です。
放っておけば彼も信楽房の様に、臨終には自分の大罪に気付くでしょう。

「19願を実践してはいけません。善を実践してはいけません。」と法然上人、親鸞聖人が直接的に仰ったお言葉を1つでも出してみてはいかがでしょうか。

No title

『選択集』

諸行を廃して念仏に帰せしめんがためにしかも諸行を説くといふは、善導の『観経疏』(散善義)のなかに、「上よりこのかた定散両門の益を説くといへども、仏の本願に望むるに、意、衆生をして一向にもつぱら弥陀仏の名を称せしむるにあり」といふ釈の意に准じて、しばらくこれを解せば、上輩のなかに菩提心等の余行を説くといへども、上の本願(第十八願)に望むるに、意ただ衆生をしてもつぱら弥陀仏の名を称せしむるにあり。
しかるに本願のなかにさらに余行なし。三輩ともに上の本願によるがゆゑに、「一向専念無量寿仏」(大経・下)といふ。
「一向」は二向・三向等に対する言なり。例するにかの五竺(印度)に三寺あるがごとし。一は一向大乗寺、この寺のなかには小乗を学することなし。二は一向小乗寺、この寺のなかには大乗を学することなし。三は大小兼行寺、この寺のなかには大小兼ね学す。ゆゑに兼行寺といふ。まさに知るべし、大小の両寺には一向の言あり。兼行の寺には一向の言なし。いまこの『経』(同・下)のなかの一向もまたしかなり。もし念仏のほかにまた余行を加へば、すなはち一向にあらず。もし寺に准ぜば兼行といふべし。
すでに一向といふ、余を兼ねざること明らけし。すでに先に余行を説くといへども、後に「一向専念」といふ。あきらかに知りぬ、諸行を廃してただ念仏を用ゐるがゆゑに一向といふ。

 

「諸行を廃して念仏に帰せしめんがためにしかも諸行を説く」
「もし念仏のほかにまた余行を加へば、すなはち一向にあらず」
「あきらかに知りぬ、諸行を廃してただ念仏を用ゐるがゆゑに一向といふ」


19願と善は廃するもの、加えてはいけないものです。

他の根拠が必要ならまだ出しますよ、妄想の高森信者さん。

コメント返信

名無し様

当ブログでは、親鸞会の悪口ではなく、事実を書いています。親鸞聖人の教えはこう、対して親鸞会の教義はこう、親鸞会はこのように間違っている、高森顕徹会長はこのように間違った教えを説いている、という風にね。別に、誰が誰と不倫したとか、その結果妊娠した女性部下に中絶をさせたとか、誰がどこで万引きしたとか、誰が車のメーターを細工して高く売ったとか、マスコミのようにスキャンダルを暴き立てるようなことはしておりません。

あくまでも教義について批判をしています。それを悪口としか受け取れないのなら、貴方は恋の病に陥っています。

>腹いせの法論に付き合うのは時間の無駄です。

「親鸞会は公約しています。親鸞会の主張に対して異議、反論のある方は遠慮なく申し出てください。相手が集団であれ、個人であれ、公開であれ、非公開であれ、討論であれ、文書討論であれ、相手の希望される方法で、時と場所を問わず、本当の親鸞聖人のみ教えを開顕するために、喜んで対決に応じます。」

高森顕徹会長はかつてこう言っていたんですよ。知りませんか? なのになぜ応じないと思いますか? 時間の無駄だから法論に応じないのではなく、負けると分かっているから応じられないだけなんです。

こんな約束の一つも守れない人物が善の勧めなんてちゃんちゃらおかしいでしょう? 早く親鸞会、高森会長の実態に気づいて下さい。まぁ恋に落ちているんでしょうからしばらくは無理ですかね。逆質問などせずに、さっさと

親鸞聖人が「他力の信心を獲るために19願を実践せよ、定散二善をせよ」と仰った直接的な根拠

を提示して下さい。それで済む話です。




破親鸞会様

こちらの質問には応じず、逆質問を繰り返して議論をかく乱させようとしているとんだやんちゃ坊主のお遊びに付き合って下さりありがとうございます。彼があれこれ書いたところで、いや、書けば書くほど、記事の内容が正しいという証明にしかなりませんね。

No title

高森会長や講師部員、幹部会員を論破することなど、赤子の手を捻るくらい容易いことです。

自説の正しさを証明する根拠はないのに、正しいという自惚れだけがあるのが親鸞会です。
そんな状態ですから、相手の主張にも根拠がない筈だと錯覚しているから、自信満々に、一つでも根拠を出してみろと上から目線で言ってくるのですわ。

そんな勘違いお山の大将には、格の違いを見せつけてあげるのが一番です。

相手の質問に全て根拠を出して答えきれば、怯え始めます。高森会長がその典型です。
一会員レベルでは、幼稚過ぎて、怯える知恵のない人もいますけど。

>「諸行を廃して念仏に帰せしめんがためにしかも諸行を説く」
「もし念仏のほかにまた余行を加へば、すなはち一向にあらず」
「あきらかに知りぬ、諸行を廃してただ念仏を用ゐるがゆゑに一向といふ」


信後は念仏一行になるということですが、
このお言葉のどこに「信前に19願をしてはいけない、善をしてはいけない」と書いてありますか?
それどころか親鸞聖人は一念多念証文に釈迦の教えを「みなこれ浄土の方便の善なり」と仰り、
弥陀の19願を「至心発願欲生と 十方衆生を方便し」と仰り、
親鸞聖人は仏教をそのまま伝えているのですから、
善の実践はあまりにもあまりにも当たり前なのですが。

Re: 名無し様

それすみやかに生死を離れんと欲はば、二種の勝法のなかに、しばらく聖道門を閣きて選びて浄土門に入るべし。浄土門に入らんと欲はば、正雑二行のなかに、しばらくもろもろの雑行を抛てて選びて正行に帰すべし。正行を修せんと欲はば、正助二業のなかに、なほ助業を傍らにして選びて正定をもつぱらにすべし。正定の業とは、すなはちこれ仏名を称するなり。名を称すれば、かならず生ずることを得。仏の本願によるがゆゑなり。(三選の文)


貴方の言っていることは雑行の勧めです。親鸞聖人の教えに雑行の勧めはありません。すみやかに迷いを離れようと思ったら、「しばらくもろもろの雑行を抛てて」です。すみやかに迷いを離れようと思わないなら雑行に手出ししていても構いませんが、そんなのは浄土真宗ではありません。当たり前の当たり前のことです。

>親鸞聖人が「他力の信心を獲るために19願を実践せよ、定散二善をせよ」と仰った直接的な根拠

を提示して下さい。それで済む話です。


一念多念証文で釈迦の教えを「みなこれ浄土の方便の善なり」
浄土和讃で弥陀の19願を「至心発願欲生と 十方衆生を方便し」
親鸞聖人は仏教をそのままお伝えしているので、信前信後問わず善が勧められているのは当然です。

Re: 名無し様

また引くところの文(定善義)のなかに、「自余衆善雖名是善若比念仏者全非比校也」といふは、意のいはく、これ浄土門の諸行に約して比論するところなり。念仏はこれすでに二百一十億のなかに選取するところの妙行なり。諸行はこれすでに二百一十億のなかに選捨するところの粗行なり。ゆゑに「全非比校也」といふ。また念仏はこれ本願の行なり。諸行はこれ本願にあらず。ゆゑに「全非比校也」といふ。(摂取章)

諸善は本願において選び捨てられた粗行であると教えられています。善が勧められているのは自力で善を積んで成仏を目指す聖道門や、浄土門内の自力の教えであり、他力の中の他力、本願力回向を教えられた親鸞聖人の教えに善が勧められていないのは当然です。このように諸善を徹底的に廃されたから聖道諸宗から非難を受け、ついに承元の法難が起きたことを少しは学習して下さい。

>一念多念証文で釈迦の教えを「みなこれ浄土の方便の善なり」
>浄土和讃で弥陀の19願を「至心発願欲生と 十方衆生を方便し」
>親鸞聖人は仏教をそのままお伝えしているので、信前信後問わず善が勧められているのは当然です。

これでは親鸞聖人が「他力の信心を獲るために19願を実践せよ、定散二善をせよ」と仰った直接的な根拠にはなりません。浄土の方便の善だからやれとか書いてありますか?
親鸞会の方便についての理解がそもそも間違っています。方便だからやらねばならないなら聖道門からやって来て下さい。
19願は方便化土への往生を誓われた願です。修諸功徳の善と至心発願欲生の心の結果は総樹林下往生、化土往生です。親鸞聖人の教えに化土往生の勧めはありません。各願の行・信・証くらい弁えて話さないと恥をかきますよ。

No title

私は教学についてはあまり口出し出来る段階にないのですが一言。
「(別の所でも言ったのですが)そんなに善を強調するなら、何故最も優れた善である筈の念仏を勧めないのでしょうか?」阿弥陀仏に心をかけて念仏する事が悪である訳もないですし…。

あと、こんなところで「ヘイトスピーチ」云々、と言われるとは思いませんでした。
高森会長の間違いを指摘する事がどうしてヘイトスピーチ、すなわち「差別扇動表現(ウィキペディアより)」になるのか、頭の回転の遅い私にはどうにも理解出来かねますが…それと、会長が昔本願寺や華光会に浴びせた攻撃の数々、何より脱会者の事を「シロアリ」だの「聞法の敗残者」だのと罵倒しまくっているというのはどうなんでしょう。それこそ脱会者に対する「差別扇動表現」ではないのですか?

揚げ足取りばかりかもしれませんが(しかもここにコメントするのは初めてでしたが)、少し言わせてもらいました。

>貴方の言っていることは雑行の勧めです。親鸞聖人の教えに雑行の勧めはありません。すみやかに迷いを離れようと思ったら、「しばらくもろもろの雑行を抛てて」です。すみやかに迷いを離れようと思わないなら雑行に手出ししていても構いませんが、そんなのは浄土真宗ではありません。当たり前の当たり前のことです。


雑行(自力の心)が廃るのは信の一念の時です。
雑行・雑修・自力の心を捨てよとは、
早く19願、20願(自力)から18願(他力)へ進みなさいということです。
信の一念までの雑行(諸善万行)は、
浄土和讃に「往生浄土の方便の 善とならぬはなかりけり」ですべて宿善になるので信の一念までは雑行(諸善万行)をすることで救いに近づきます。
捨てるのは信の一念の時です。
つまり、淳心房さんは(頭の中では他力のつもりですが)まだ自力です。

>「(別の所でも言ったのですが)そんなに善を強調するなら、何故最も優れた善である筈の念仏を勧めないのでしょうか?」阿弥陀仏に心をかけて念仏する事が悪である訳もないですし…。


仏教徒と言いながら「善をするな、19願をするな」と釈迦一代の教えを否定する人が多いからです。
親鸞会で念仏は信前でもしっかり勧められています。お勤めでも勧められています。

> 雑行(自力の心)が廃るのは信の一念の時です。
> 雑行・雑修・自力の心を捨てよとは、
> 早く19願、20願(自力)から18願(他力)へ進みなさいということです。
> 信の一念までの雑行(諸善万行)は、
> 浄土和讃に「往生浄土の方便の 善とならぬはなかりけり」ですべて宿善になるので信の一念までは雑行(諸善万行)をすることで救いに近づきます。
> 捨てるのは信の一念の時です。
> つまり、淳心房さんは(頭の中では他力のつもりですが)まだ自力です。

雑行とは五正行以外の諸善を全て雑行というので、心のことではありません。
早く迷いを離れようと思ったら諸善を捨てて念仏一つです。19願・20願は化土往生しかできないから捨てて、18願一つ聞いて報土往生を願え、です。19願・20願を勧めるということは化土往生を勧めることに他なりません。当然ながら親鸞聖人の教えに化土往生の勧めはありません。
貴方には縦と横の線のマインドコントロールがすっかり定着していますが、横の線に該当する教えはないのでその論法は通用しません。救いに近づくも何も、救いは現在只今ですから、回向されている本願力を現在只今、そのまま信受するだけです。善(雑行)の入り込む隙間もありません。逆に雑行を入り込ませようとしているから「雑行を捨てよ」と教えられるのです。雑行は最初から最後まで「捨てよ」です。雑行をやってそれから捨てよではありません。やらねばならないなら雑行をせよと教えられた根拠を示して下さい。さっきからヘンテコな理屈ばかり振りかざして根拠は全く示していません。

雑行をすることで救いに近づくとか、ありもしない珍説を振りかざして、自分は唯一絶対にして真実の宗教を信じているんだという妄想はその程度にして、真宗の基礎から学習してきてください。

No title

名無し様へ

>雑行(自力の心)が廃るのは信の一念の時です。
>雑行・雑修・自力の心を捨てよとは、
>早く19願、20願(自力)から18願(他力)へ進みなさいということです。

親鸞聖人の教えは「平生業成」と聞いていることでしょう。
平たく言えば、現在ただ今、救われる教えです。

早く進むも進まないもなく、今救われるか、否かです。

浄土真宗とは名ばかりの誤った教えを聞いていることに気がついてください。

>信の一念までの雑行(諸善万行)は、
>浄土和讃に「往生浄土の方便の 善とならぬはなかりけり」ですべて宿善にな>るので信の一念までは雑行(諸善万行)をすることで救いに近づきます。

浄土和讃の「往生浄土の方便の善」=「雑行」です。

雑の言は、人・天・菩薩等の解行、雑せるがゆゑに雑といへり。もとより往生の因種にあらず、回心回向の善なり。ゆゑに浄土の雑行といふなり。(化土巻)

もともと往生の行ではない諸善万行を、浄土に往生しようという心をおこし回向するから、諸善万行は往生の行(=浄土の雑行)になるのです。

「諸善万行ことごとく 至心発願せるゆゑに
 往生浄土の方便の 善とならぬはなかりけり」
の御和讃もこのことを言われたもので、(もともと往生の行でない)諸善万行も浄土に往生しようと願いを発して修めるから、往生浄土の方便の善(=回心回向の善=浄土の雑行)になるのだという意味です。

宿善になるとか、救いに近づくという意味は全くありません。

No title

>仏教徒と言いながら「善をするな、19願をするな」と釈迦一代の教えを否定する人が多いからです。

それは称名念仏を勧めずに善を勧める理由にはならないのでは?だって「もし念仏のほかにまた余行を加へば、すなはち一向にあらず。」では?「一向専念無量寿仏」にならないでしょう。諸仏や諸神を拝まなければいいというのではなく、「一向に専ら無量寿仏を念ずべし」、念仏に専念せよ、ということでは?


>親鸞会で念仏は信前でもしっかり勧められています。お勤めでも勧められています。

お勤めでの念仏は当然としても、少なくとも私は会在籍中に、講師や先輩から称名念仏を勧められた記憶がないのですが。こんな話もありますし…。

台湾布教をした自称親鸞会ナンバー2が、台湾で行った念仏誹謗と信心詐称について(台湾のサイトより)

http://shinrankaidakkai.hatenablog.com/entry/2014/06/25/171710

No title

>信後は念仏一行になるということですが、
>このお言葉のどこに「信前に19願をしてはいけない、善をしてはいけない」と書いてありますか?

遅い時間にまた根拠のないことを。
親鸞会の言ってくることはワンパターンですから、楽ですね。

信後はではなく、信前に念仏一行になります。高森会長も言っていますが、20願は一心不乱に念仏を称える、これは20願は念仏一行になっていることです。

>雑行(自力の心)が廃るのは信の一念の時です。
>雑行・雑修・自力の心を捨てよとは、
>早く19願、20願(自力)から18願(他力)へ進みなさいということです。

雑行を捨てるのは19願から20願になったときにできます。
20願から18願に入る時には、雑行はすでにありません。自力の心を捨てるのです。

親鸞会は三願転入といいながら20願がないのです。
19願から18願へ入る二願転入になっているのがお分かりですかね。

三願転入、一念多念証文の御文は、

聖道門→19願→20願→18願

という聖道門から18願に入るプロセスを示したものです。
聖道門を信じる人は善人です。
聖道門の善と19願の善は同じです。
聖道門の善と19願の善の違いは、自らの力で覚りを獲ようとするか浄土を願っうかの違いです。

雑行とは19願の善のことですが、雑行は元々聖道門の善であったのを浄土を願って修すると雑行になる。

これが

諸善万行ことごとく
 至心発願せるゆゑに
 往生浄土の方便の
 善とならぬはなかりけり

ということ。

聖道門は方便の善、雑行は往生浄土の方便の善

これだけのこと。
聖道門に関係ない人には19願は関係ない訳です。
悪人には聖道門が関係ないと同様に19願も悪人には関係ない。

もちろん、20願は雑行がないという根拠はいくつもありますし、19願は聖道門の人のためのものという根拠も必要なら出しますよ、無根拠の高森信者と違いますからね。

No title

一応教えてあげます。

それすみやかに生死を離れんと欲はば、二種の勝法のなかに、しばらく聖道門を閣きて選びて浄土門に入るべし。浄土門に入らんと欲はば、正雑二行のなかに、しばらくもろもろの雑行を抛てて選びて正行に帰すべし。正行を修せんと欲はば、正助二業のなかに、なほ助業を傍らにして選びて正定をもつぱらにすべし。正定の業とは、すなはちこれ仏名を称するなり。名を称すれば、かならず生ずることを得。仏の本願によるがゆゑなり。(三選の文)

これは

第一段階として

聖道門を捨てる
浄土門に入る

第二段階として

雑行を捨てる
正行に帰す

第三段階として

助業を捨てて
正定業一行になる

法然上人は信前にここまでできると仰っています。

この正定業一行つまり念仏一行について自力の念仏一行と他力の念仏一行があることを明確に教えられたのが、親鸞聖人。

簡単にいうと

聖道門→19願→20願→18願

という図式になりますが、誰もが聖道門から始めるという理屈はありませんよね、同じことで19願から始めるという理屈も成り立ちません。
聖道門も方便、19願も方便。方便が絶対に必要なら聖道門も絶対に必要ということですわ。

No title

>「19願を実践してはいけません。善を実践してはいけません。」と法然上人、親鸞聖人が直接的に仰ったお言葉を1つでも出してみてはいかがでしょうか。

20願の人は、19願を捨ててますよ。善を捨ててますよ。
つまり、20願の人は、19願を実践してはいけませんし、善を実践してはいけません。
結論は、
信前に、「19願を実践してはいけません。善を実践してはいけません。」とならなければ18願に入れないってことです。
だから、「19願を実践してはいけません。善を実践してはいけません。」と法然上人、親鸞聖人がおっしゃるのは、当たり前。

No title

もう終わりだね。

常識がないようだから教えますが、法然上人が信前の念仏一行を勧められていることは疑いようのない事実。

信前の念仏一行とは、

「19願を実践してはいけません。善を実践してはいけません。」と法然上人が直接的に仰ったお言葉になるわけですわ。

親鸞聖人は20願について、念仏一行になった行者と仰っていますし、高森会長が本願寺を非難する時によく言う「善はする必要がない、念仏さえ称えていれば極楽参り間違いなし」というのは信前に雑行を捨てている状態です。

だから言ったでしょ、親鸞会を論破することなど、赤子の手を捻るくらい容易いと。

※結論※

簡単にまとめるとこういうこと。

法然上人:18願だけでいい、善は不要で念仏一行
聖道門:大事な19願を隠して18願だけでいいとは何事か!念仏は方便で善が真実だ!18願は方便の願だ!
親鸞聖人:18願が真実の願。19願は貴方達のような聖道門の人を浄土門に導くための方便の願。
聖道門:釈迦一代の善の勧めが無駄であったというのか!
親鸞聖人:定散二善は、聖道門の善を至心発願と浄土を願ったものだから、聖道門の人が浄土門に入る方便ですよ。でも、報土往生したいなら念仏一行になりなさい。


聖道門に対して19願と定散二善は方便と仰ったのであって、聖道門とは無関係の悪人には最初から19願も定散二善も無関係。
聖道門の人に対してさえ、親鸞聖人は念仏一行しか勧められていない。


※結論※
法然上人も親鸞聖人も19願や善を勧められたお言葉は存在しない。
勧められているのは念仏一行。

コメントを頂いた皆様へ

皆さんのやり取りを通じて、信前に19願や善を捨てて念仏一行になるということ、19願や善を勧められたお言葉は存在せず、信前も信後も往生のためには念仏一行を勧められていることがいよいよ明らかになりました。この度はお忙しい中、邪義を破るために様々なコメントを下さりありがとうございました。

親鸞会側には、重ねて

・親鸞聖人が「他力の信心を獲るために19願を実践せよ、定散二善をせよ」と仰った直接的な根拠
・約束の一つもまともに果たせない高森会長に『飛雲』との法論に応じるよう促すこと

を求めたいと思います。説く者は「約束を守る」という倫理道徳上の善も実践できないのに、遥かに高次元の19願や定散二善をやれなんてちゃんちゃらおかしいですから、せめてまず説く者がきちんと善を実践してから善を勧めてもらいたいものです。
プロフィール

淳心房&しゃあ

Author:淳心房&しゃあ
(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


(しゃあ)
平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
singikensho@yahoo.co.jp
(スパム防止のため@を大文字にしてあります。メール送信時は小文字に変えて下さい。)

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