「仏法は聴聞に極まる」「聞く一つで助かる」と説きながら、「聞いているだけでは助からない」「活動しなければ助からない」親鸞会

親鸞会ではよく、

「仏法は聴聞に極まる」
「聞く一つで助かる」


と説きます。しかし、

「聞いているだけでは助からない」
「教学(教えを聞くこと)と行学(教えを実践すること)は車の両輪のようなもの」
「教えを聞いているだけで実践(行学)をしなければ前に進めない(=助からない)」


とも説きます。そして教えを実践することとは何かと言えば、

・親鸞会に人を誘い入会させること(勧誘)
・親鸞会にお布施をすること(献金)
・高森会長や上司の指示に無条件服従すること


などです。朝晩のおつとめや、親切、親孝行といった世俗の善の勧めもなくはないですが、三願転入の道を進み、宿善を厚くするとして強烈に勧められるのは上記のような行為です。

とすると、最初に挙げたことと矛盾するのですが、親鸞会の言い訳としては

聞いてよく分かったら、必ず実行する
「聞く」に行学を含めて「聞く一つで助かる」ということ


だというのです。


しかし、これは間違いです。親鸞会では「聞く」と言われているその内容が間違っているので、こんな珍説に納得してしまうのです。

しかるに『経』(大経・下)に「聞」といふは、衆生、仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし、これを聞といふなり。(信文類)

親鸞会でもよく出てくるお言葉ですが、聞くのは「仏願の生起本末」です。

『飛雲』昔は言葉だけは正しかったもののずれていた解釈、今では解釈以前に言葉もずれまくりの高森顕徹会長

では信文類のお言葉を引いて機無円成回施と教えられています。『飛雲』を参考に説明しますと、

衆生には、仏に成れるような因である清浄心、真実心がないことを「機無」と言います。善が一切できないではなく、仏に成れるような善ができないです。
この「機無」を本として法蔵菩薩が衆生のために本願を建てて下され、清浄心、真実心をもって行を行じられ、名号を成就なされたことを仰ったのを「円成」と言います。
その「円成」された不可思議功徳の名号を阿弥陀仏が衆生に向って等しく与えて下されることを「回施」と言われます。
この他力回向の真実心を衆生は賜わるので、自力の一切混じるものではありません。


ということです。これが「仏願の生起本末」です。これを疑いなく聞き受けたのを「」というのですが、この中のどこに、親鸞会で勧められるような活動や、世俗の善の実践が含まれているでしょうか? 逆に我々の自力の行、自力の心を一切廃した、他力回向の真実行、他力回向の真実心によって我々が往生成仏せしめられることが教えられています。

この「仏願の生起本末」の内容に、因果の道理や19願を混ぜ込んでいるのが親鸞会教義です。当然ながら、「仏願の生起・本末」=「其の名号」=「南無阿弥陀仏の六字のいわれ」であり、世俗の因果の道理や19願の内容は入らないことは言うまでもありません。ところが、

『親鸞会公式ホームページ』「聴聞」とは何をどう聞くのか

には、「仏願の生起本末」の「」が18願、「」が19願・20願などと教えられています。巧みに「三願転入の教え」と連結させて、とりわけ19願の「善の勧め」を利用して会で勧められる活動の正当化を謀っていることがお判りでしょう。当たり前ですが

」が18願、「」が19願・20願

などというのは聖教上のどこにも見られない珍説であり珍らしき法であり、

仏願の生起本末」とは18願のこと

であります。自力諸善、自力念仏による往生を誓われている19願、20願の入り混じる隙はありません。阿弥陀仏が、到底迷いの世界を離れることのできない私のために五劫永劫の願行を成就され、南無阿弥陀仏となって回向せられている名号を疑いなく信受する、これが仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし、これを聞といふなりであります。我々の自力の行信に代わって如来回向の行信を用いよと教えられているのです。我々に「ああせい」「こうせい」「これをしなきゃ助けない」と無理難題をふっかける無慈悲な親様ではないということです。


そして、実践するというなら念仏一行です。念仏を称えるというのは、私の口を通して顕現せられている本願の仰せを聞いていることに他なりません。

われ称えわれ聞くなれど南無阿弥陀
つれてゆくぞの親のよびごえ
(原口針水師)

という歌は度々紹介していますが、念仏を称えるとは、念仏を自分の善根として称えて助かろうというのではなく、「浄土に連れてゆくぞ」の大悲招喚の勅命を聞くことであるというのです。

『浄土真宗本願寺派 光明寺』2015年1月 称えるままが つねに御本願の みこころを 聞くことになる 法語カレンダー解説

に上の歌のことが詳しく載っていますので参照して下さい。


「仏願の生起・本末」に因果の道理や19願を混ぜ込んだ教えをいくら聞いていても「聞」とはなりません。会員の皆さんが本当に後生助かろう、本願に救われようというなら、正しい「仏願の生起・本末」を聞いて頂きたいと思います。尤も、「絶対の幸福」だとかいう幻想的な楽を追い求めているなら別ですが。
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いつも読ませていただいています。私は南無阿弥陀仏のおいわれを聞かせていただいています。が、理解が出来ないというより、邪魔している私の自力心なのかわかりませんが、おまかせができません。このままだと思うと少し不安があります。

Re: さんぽ様

南無阿弥陀仏のおいわれを我が胸に持ち込んで、「こういうことか」と理解できたらおまかせできるように思ってはいませんか? おいわれを要約すれば、「さんぽさんを助けるぞ」ということです。この阿弥陀仏の仰せを、私の手垢を着けたり、私の方で持ち替えたりせずに、聞こえたままを受け容れるだけです。「助けるぞ」を聞くのが即ち信です。大丈夫です、必ず助かります。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。

疑問に思っていることを、言える範囲でもよいのでまたコメントしてもらえたらと思います。私も答えられるものは答えます。

お返事ありがとうございます。
おっしゃる通りだと思います。まず、自分があって自分の頭で納得しようとしています。もう何年間も同じような感じです。いい加減疲れてしまっています。疑うまいと思っているのですが、疑っているのが本音のところです。ご法話もいろいろ聞かせていただきました。
布教師の方のご著書も読ませていただきました。積み上げて差し向けるなど毛頭ありませんが、どうすればいいかなあが本音です。
大丈夫とおっしゃて下さいますが、どうしてそう言われるのが不思議です。
失礼なこといい申し訳ありません。皆さん同じようにおっしゃていただきましたが、どうにもならない私がいるのがもう嫌になったのです。

Re: さんぽ様

失礼と思う事でもよいのです。それが蓮如上人の仰る

(86)
一 蓮如上人仰せられ候ふ。物をいへいへと仰せられ候ふ。物を申さぬものはおそろしきと仰せられ候ふ。信不信ともに、ただ物をいへと仰せられ候ふ。物を申せば心底もきこえ、また人にも直さるるなり。ただ物を申せと仰せられ候ふ。

【現代語訳】
蓮如上人は,「仏法について語りあう場では、すすんでものをいいなさい。
黙りこんで一言もいわないものは何を考えているかわからず恐ろしい。
信心を得たものも得ていないものも、ともかくものをいいなさい。
そうすれば、心の奥で思っていることもよくわかるし、また、間違って受けとめたことも人に直してもらえる。
だから、すすんでものをいいなさい」と仰せになりました。

ということです。言う相手は選ぶ必要がありますが、一人悶々と抱え込んでいても悩みは尽きないものです。私も一人では本願の仰せを聞けなかったと思います。同行知識方あればこそ今の自分があると思っています。

私の不真実な言葉は何のあてにもならないのでダメなのですが、阿弥陀さまが「助けるぞ」と真実の御言葉で仰っておられるので大丈夫なのです。私はその取り次ぎをしているに過ぎません。

本願の救いに遇うのに、何かを「自分の仕事」と思っておられるのかも知れません。「聞いて信ずるくらいは」とか、「念仏くらいは称えないと」とか、人それぞれに阿弥陀さまの仕事を我が仕事の如く考えて、阿弥陀さまに全託せずにいらっしゃる方が見受けられます。後生、往生に関して煩悩具足の我々が出来ることなど何もありません。なればこそ、すなおに、そのまま、阿弥陀さまの仰せを受け容れ念仏するしかないのです。

必ずお助け下さいます。たとえさんぽさんがあきらめても、見捨てない阿弥陀さまがおられます。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。

お返事ありがとうございます。
南無阿弥陀仏におまかせがどうなのかがわからないのです。
今まで物事を理解しようとする姿勢で阿弥陀仏の本願を聞いていたように思います。
私のために本願がたてられたとは思えないです。

Re: さんぽ様

後生・往生の問題を阿弥陀さまに丸投げし、これは自分の力の及ぶものではないと自力を離れたのが浄土真宗の信心です。おまかせとは別に難しいことではなく、そのままの意味で、ゆだねるとか投げるとかいうことと同じです。ただこれは自分でまかせるのではなく、本願の仰せ、仏願の生起・本末、南無阿弥陀仏の六字のこころを聞くところにおまかせとなります。ですから、「助けるぞ」の仰せをそのまま聞くのが、すなわちおまかせということです。

聞いて全てを理解・納得したら信心が得られるというものではないので、聴聞や読書の際は、どうぞ肩の力を抜いて、南無阿弥陀仏に込められた阿弥陀仏の大慈悲心を頂いて下さい。

十方衆生と誓われたと聞くと、私は数限りない衆生の一人で、阿弥陀さまは他の方々の救済にかかりきりで私まで手が回らないのかなと思われるかもしれませんが、そうではありません。阿弥陀さまは「お前は私の独り子だ」と仰って下さいます。さんぽさん一人の救済に付きっ切りなのです。「沢山の中の一人であるそなたを救う」のではなく、「そなた一人が目当てだぞ」とお聞きして下さい。

「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとへに淳心房一人がためなりけり。されば、それほどの業をもちける身にてありけるを、たすけんとおぼしめしたちける本願のかたじけなさよ」

さんぽさんも、

「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとへにさんぽ一人がためなりけり。されば、それほどの業をもちける身にてありけるを、たすけんとおぼしめしたちける本願のかたじけなさよ」

とお聞きして頂きたいと思います。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。

No title

聴聞に極まるとは、親鸞会以外でも聞かれることですが、あなたは聞き誤り続けることでかわいそうですね。
聞かなくていいです。

No title

かわいそうさんは、かわいそうですね。

どこが聞き誤っているのか言うこともできず、負け犬の遠吠えのみです。
かわいそうという気持ちが本当なら、具体的にどこがどのように聞き誤っているのか、お聖教上の根拠を出してから言いましょう。

Re: かわいそう様

では、何をどのように聞き誤っているのか、何をどのように聞いたのが正しい聞き方なのか教えて頂きたいと思います。それも示さずにただ「聞き誤り続ける」と仰るのは無慈悲だと感じますよ。
プロフィール

淳心房&しゃあ

Author:淳心房&しゃあ
(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


(しゃあ)
平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
singikensho@yahoo.co.jp
(スパム防止のため@を大文字にしてあります。メール送信時は小文字に変えて下さい。)

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