実際には、親鸞会では「聞く一つで、大船に乗れる」ということはありません。

本日も富山では高森会長が

「『聞く一つで、大船に乗せる』ということは、阿弥陀仏の命を懸けたお約束だからです。」

という、アニメ映画「なぜ生きる」の中の、蓮如上人のセリフについて話をしていたようです。


・還来生死輪転家 決以疑情為所止(正信偈)

・「聞 と言うは、衆生、仏願の生起・本末を聞きて疑心有ること無し。これを「聞」と曰うなり。(信文類)

・如来の大悲、短命の根機を本としたまえり。もし多念をもって本願とせば、いのち一刹那につづまる無常迅速の機、いかでか本願に乗ずべきや。されば真宗の肝要、一念往生をもって淵源とす。(口伝鈔)

等の文を示して話をしていたとのことです。結構根拠を挙げて話をしていたようですね。

まだ大船に乗っていない人に出てくる、「本当に聞く一つで大船に乗せてもらえるのか?」などと疑う心を疑情といい、この疑情一つで大船には乗れない。疑情は聞く一つで晴れる。その聞には時間はかからず、どんな臨終の人でも救われる。

概要としてはこんな話をしていたそうですが、残念ながら実際には、親鸞会では「聞く一つで、大船に乗れる」ということはありません。なぜなら、親鸞会では仏願の生起・本末19願・20願と教えているからです。

19願はいつも解説しているように、臨終業成を誓われた願であり、平生は修諸功徳の善に励み、臨終に阿弥陀仏の来迎を待つものですから、死ぬまで求道です。つまり、19願を聞いている限りは「聞く一つで、大船に乗れる」ことはない、疑情は死ぬまで晴れない、一念往生はあり得ないということです。

なお、19願は上の『口伝鈔』のお言葉で言えば多念をもって本願としています。上のお言葉はごく一部の文章ですが、読み進めていきますと、次のような文があります。

 もし多念をもつて本願としたまはば、多念のきはまり、いづれのときと定むべきぞや。いのちをはるときなるべくんば、凡夫に死の縁まちまちなり。火に焼けても死し、水にながれても死し、乃至、刀剣にあたりても死し、ねぶりのうちにも死せん。これみな先業の所感、さらにのがるべからず。しかるに、もしかかる業ありてをはらん機、多念のをはりぞと期するところ、たぢろかずして、そのときかさねて十念を成じ来迎引接にあづからんこと、機として、たとひかねてあらますといふとも、願としてかならず迎接あらんことおほきに不定なり。
 されば第十九の願文にも、「現其人前者」(大経・上)のうへに「仮令不与」と等おかれたり。「仮令」の二字をばたとひとよむべきなり。たとひといふは、あらましなり。非本願たる諸行を修して往生を係求する行人をも、仏の大慈大悲御覧じはなたずして、修諸功徳のなかの称名を、よ〔り〕どころとして現じつべくは、その人のまへに現ぜんとなり。不定のあひだ、「仮令」の二字をおかる。もしさもありぬべくはといへるこころなり。まづ不定の失のなかに、大段自力のくはだて、本願にそむき仏智に違すべし。自力のくはだてといふは、われとはからふところをきらふなり。


現代語訳
 もし多念を往生の因とするような本願をお立てになったとしますと、往生が決まるという多念の極まりはどの時と定めたらいいのでしょうか。もし「いのち」が終る最後の時とするならば、凡夫にとって死の縁はまちまちであって、火に焼かれて死ぬかも知れませんし、水に流されて死ぬかも知れません。あるいはまた刀剣に突かれ切られて死ぬこともあり、眠っている間に死んでしまうかも知れません。これらはみな過去の業因縁の催しであって、逃れるすべはありません。ところがもしこのような業縁に催されて、死んでいく者が、今が多念の終りの時であるぞと思い、かねてから期待してきた通りに、たじろぐことなく、改めて心を静め、「南無阿弥陀仏」と十遍称えて、如来の来迎引接に預かることは極めてむつかしく、行者としては、たといかねてから思いめぐらせていたことであったとしても、阿弥陀仏の第十九願のはたらきから言って、必ず来迎されるかどうかは大変不確かなことです。
 ですから第十九願の文にも「現其人前者(その人の前に現れる)」の上に「仮令不与」などの言葉が置かれています。「仮令」とは「たとい」と訓読すべき言葉です。「たとい」とは「あらまし」ということで、「大体のところ」「おおよそ」という曖昧さを表しています。阿弥陀仏が、往生の行としては選び捨てられた非本願の諸行を修行して浄土に往生したいと願う行者を、阿弥陀仏の大慈大悲は見放したまわずに、行者が、その諸行の中の一つとして行じていた自力念仏を評価し、それを根拠として、もし来迎に値するならばその人の前に現れてやろうといわれているのです。必ず来迎するとは決まっていませんから「仮令」の二字を置かれたのです。 「もしもそういうこと(来迎に値すること)がありうるならば」という意味を表しているのです。まず多念の行者は来迎が不定であるという結果を招いた過失の大部分は、自力企てによって第十八願に背き、仏智に違反していることです。自力の企てというのは、凡夫が我を立ててはからうことで、それを過ちとして嫌うのです。


このようなことですから、30年聞いても40年聞いても助からない方々ばかりなのは当たり前なのです。死ぬまで求道の教えを聞いていて、どうして平生の一念に助かりますか?

私達が聞くべきなのは19願でも20願でもなく、ただ18願、南無阿弥陀仏の六字のこころです。自力では迷いから離れ切れない私達を哀れに思召して、私達に代わって五劫永劫の願行を南無阿弥陀仏と成就され、私達に回向せられているその名号を、すなわち「助けるぞ」の仰せを、只今、この場で、このままの私が疑いなくお聞きする。小賢しい詮索や先入観を入れずにそのままお聞きする。これを聞と言うのです。そして、そのようにお聞きしたままが信心ですから、聞即信と言われるわけです。信心と言っても別にあるのではなく、この南無阿弥陀仏の六字のこころをそのままお受けしたことに他なりません。

救いを匂わせる話があっても、よくよく聞いてみればやはり救いはないのです。南無阿弥陀仏の六字のこころを説かない、説けない高森会長からいくら聞いていても大船には乗れません。会員の皆さんには、19願が臨終業成の願、死ぬまで求道の願であることを知り、そんな19願を勧める悪知識の手から離れ、南無阿弥陀仏の六字のこころを聞いて信心獲得し、報土往生の一大事を遂げて頂きたいと思います。
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淳心房&しゃあ

Author:淳心房&しゃあ
(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


(しゃあ)
平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
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