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もし(親鸞会流の)三願転入をもって本願とせば、いのち一刹那につづまる無常迅速の機、いかでか本願に乗ずべきや。されば真宗の肝要、一念往生をもつて淵源とす。

先日日曜の高森会長の話の中で出てきた「口伝鈔」のお言葉

如来の大悲、短命の根機を本としたまへり。もし多念をもつて本願とせば、いのち一刹那につづまる無常迅速の機、いかでか本願に乗ずべきや。されば真宗の肝要、一念往生をもつて淵源とす。

が出てくる一段は、元々題名にもあるように

一念にてたりぬとしりて、多念をはげむべしといふ事。
往生は一念で十分であると知った上で、一生涯にわたって多念の称名を励むべきである

ということを言われています。「一念」とは一念の信あるいは称名の一声を表し、「多念」とは「多念の称名」ということで、多くの念仏、一生涯の念仏ということを表しています。なお最初に注意しておきますが、この一段は「念仏」及び本願の名号を信ずる「信心」について教えられているのであり、親鸞会の大好きな「諸善」は教えられておりません。「諸善」は「非本願」であるとして選び捨てられた難行・劣行であるからです。

なぜ覚如上人が「一念」、「多念」ということについて仰っているかというと、実は法然門下の中で、法然聖人の念仏往生の真実義を誤り、一念義の立場・多念義の立場という邪義が生じていたからです。一念義とは、一声の称名または一念の信で往生の業事は成就すると偏執して、多念の称名を嫌い否定する立場のことをいいます。それに対して多念義とは、平生に多念の称名を積むことによって、臨終に往生の業事が成弁すると偏執して、一念業成を否定する立場をいいます。それらの邪義に対し、法然聖人の教えられた専修念仏は一念・多念のいずれにも偏執しない念仏往生の義であることを親鸞聖人は明らかにされ、その親鸞聖人の教えを覚如上人もここで教えておられるのです。

いわゆる、往生が決定するのは信一念においてであり、その後の称名は仏恩報謝として命のある限り一生涯相続すべきであると教えられています。それを多念の称名により往生が決定するととらえるのは、弥陀の本願に違反し、釈尊の教えに背くものであるというのです。なぜなら、ということで先に挙げた一文が出てきます。如来の大悲は「短命の根機」を本とし、もし多念の称名により往生が決定するという本願だとすると、「いのち一刹那につづまる無常迅速の機」は多念の称名を行ずる間もなく命が終わり、本願では助からないからです。ですから、真宗の肝要は一念往生であるというのです。

ここで会員の皆さんに考えて頂きたいのが、「もし(親鸞会流の)三願転入をもって本願とせば」という問題です。親鸞会流の三願転入の教えとは、

まず19願の自力諸善を精一杯励み、信仰が進んで善のできない自分が知らされて20願へ進む。
次に20願の自力念仏を精一杯励み、更に信仰が進んで心からの念仏も称えられない自分が知らされる。
微塵の善もできないと地獄の釜底に叩き落された時、ただで救うと誓われた18願の世界に転入する。


といった類のものです。要は

まず19願の自力諸善、次に20願の自力念仏を精一杯励んで、微塵の善もできないと知らされること

が往生が決定する因であると言うのと変わりません。そうしなければ18願の世界に転入できないというのですから。これを「口伝鈔」のお言葉に照らし合わせて考えますと、こう言えます。

如来の大悲、短命の根機を本としたまへり。もし(親鸞会流の)三願転入をもつて本願とせば、いのち一刹那につづまる無常迅速の機、いかでか本願に乗ずべきや。されば真宗の肝要、一念往生をもつて淵源とす。

如来の大悲は、極めて短命な者を障りなく救うことを根本とされているからです。もし「まず19願の自力諸善、次に20願の自力念仏を精一杯励んで、微塵の善もできないと知らされること」を往生の因とするというような本願をお立てになったならば、一瞬の後に死が迫っているような迅速な無常にさらされている者は、どうして本願のお救いに遇うことができましょうか。そういうわけですから、浄土真宗の肝要は、本願を信ずる一念(時)に往生が定まるという宗義を根源としております。

お分かり頂けたでしょうか? 親鸞会流「三願転入の教え」は、「短命の根機」「いのち一刹那につづまる無常迅速の機」は本願のお救いに遇うことができない、本願のお救いから漏れてしまう、そういう教えなのです。


最近、東北地方で津波を観測する大きな地震があったことは既にご存じかと思います。5年前の東日本大震災を想起させるような出来事でしたが、当時このブログでは

「短命の根機」「いのち一刹那につづまる無常迅速の機」とは誰の事だと思っていますか?

という記事を書いています。親鸞会流「三願転入の教え」は、この先何十年も健康で活動できることを前提として説かれているため、今日や明日にも命が終わってしまう人には不相応な教えなのです。5年以上前からこうしたことを訴え続けているのですが、会員の皆さんはまだ気づかれないでしょうか? 今臨終となって気づいても遅いのです。早く気づかないか、早く気づかないかとやきもきしているのは私だけでしょうか?


ところで、もし「まず19願の自力諸善、次に20願の自力念仏を精一杯励んで、微塵の善もできないと知らされること」を往生の因とするような本願をお立てになったとすると、往生が決まるという18願の世界に転入する時はどの時と定めたらいいのでしょうか。もし「いのち」が終る最後の時とするならば、凡夫にとって死の縁はまちまちであって、火に焼かれて死ぬかも知れませんし、水に流されて死ぬかも知れません。あるいはまた刀剣に突かれ切られて死ぬこともあり、眠っている間に死んでしまうかも知れません。これらはみな過去の業因縁の催しであって、逃れるすべはありません。ところがもしこのような業縁に催されて、死んでいく者が、今が18願の世界に転入する時であるぞと思い、かねてから期待してきた通りに、たじろぐことなく、改めて心を静め、「南無阿弥陀仏」と十遍称えて、如来の来迎引接に預かることは極めてむつかしく、会員としては、たといかねてから思いめぐらせていたことであったとしても、阿弥陀仏の第十九願のはたらきから言って、必ず来迎されるかどうかは大変不確かなことです。

ですから第十九願の文にも「現其人前者(その人の前に現れる)」の上に「仮令不与」などの言葉が置かれています。「仮令」とは「たとい」と訓読すべき言葉です。「たとい」とは「あらまし」ということで、「大体のところ」「おおよそ」という曖昧さを表しています。阿弥陀仏が、往生の行としては選び捨てられた非本願の諸行を修行して浄土に往生したいと願う行者を、阿弥陀仏の大慈大悲は見放したまわずに、行者が、その諸行の中の一つとして行じていた自力念仏を評価し、それを根拠として、もし来迎に値するならばその人の前に現れてやろうといわれているのです。必ず来迎するとは決まっていませんから「仮令」の二字を置かれたのです。 「もしもそういうこと(来迎に値すること)がありうるならば」という意味を表しているのです。

親鸞会の会員は来迎が不定であるという結果を招いた過失の大部分は、自力の企てによって第十八願に背き、仏智に違反していることです。自力の企てというのは、凡夫が我を立ててはからうことで、それを過ちとして嫌うのです。「18願の世界に転入するには、19願・20願の道程を経なければならない」とする親鸞会流「三願転入の教え」が、第十八願に背き、仏智に違反している邪義だということは、もうお気づきでしょう。

今、「口伝鈔」の言葉になぞらえて書いてきましたが、多念の行者と親鸞会会員とで違う点がいくつかあります。重大な違いは、やはり本願の行である念仏一行を往生の行としているのと、本願において選び捨てられた諸善を自力の企てにより拾ってやろうとしている点でしょう。それに、往生を願うか、絶対の幸福だとかいう幻想的な楽を追い求めているかという、行を修める動機という点も違うと思います。あとは、親鸞会教義の観点・高森会長の言葉から、多念の行者は20願の行者、親鸞会会員は19願の入口にも入っていない者ということが言えるでしょう。往生という点においては、親鸞会会員は多念の行者よりはるかに遠い存在であることが判ると思います。こんな体たらくで、ある時は「今助かる」だとか言っているのですから、おめでたいという他ないでしょう。「今助かる」わけがありません。「今助かる」教えではないんですもの。「今助からない」教えを信じていて、どうして「今助かる」というのでしょうか?


「平生業成」「現生不退」「不体失往生」とは言葉だけで、親鸞会では「臨終業成」「現生活動」「体失往生」の教えになってしまっています。否、臨終に救いにあずかれるならまだいい方で、平生邪義を聞かされ続け、邪義を弘め伝える善もどきの善を懸命に積み、自力念仏の者は必堕無間などと念仏を誹謗する罪を重ね続けていますから、必堕無間はあながち間違いではないかもしれません。ただそういう人であっても、今までの悪心をひるがえし、改悔懺悔して一心に本願のこころ、南無阿弥陀仏の六字のこころを頂けば、本願を信じたその時往生定まる身とさせて頂けます。もう邪義に惑わされて後生は勿論、今生でも多くの犠牲を伴わないようにと、会員の皆さんにはそう願うばかりです。


【参照】
『口伝鈔』(21)一念と多念
『口伝鈔』現代語訳
「短命の根機」「いのち一刹那につづまる無常迅速の機」とは誰の事だと思っていますか?
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(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


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平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
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