「たれの人もはやく後生の一大事を心にかけて」までの話しかせず、あとは邪義に誘導する高森顕徹会長

先日日曜日は、

アニメ映画『なぜ生きる』の主人公、本光房了顕はなぜ仏法を聞くようになったのか

ということについて、白骨の章を通して話があったそうです。仏法を聞こうという心は、「罪悪」と「無常」が知らされて起こるとのことなんですが、親鸞会では「罪悪」と「無常」の話ばかりで「救いの法」が与えられない、間違って説き与えられているというのがやはり問題です。

それ、人間の浮生なる相をつらつら観ずるに、おほよそはかなきものはこの世の始中終、まぼろしのごとくなる一期なり。さればいまだ万歳の人身を受けたりといふことをきかず、一生過ぎやすし。いまにいたりてたれか百年の形体をたもつべきや。われや先、人や先、今日ともしらず、明日ともしらず、おくれさきだつ人はもとのしづくすゑの露よりもしげしといへり。

されば朝には紅顔ありて、夕には白骨となれる身なり。すでに無常の風きたりぬれば、すなはちふたつのまなこたちまちに閉ぢ、ひとつの息ながくたえぬれば、紅顔むなしく変じて桃李のよそほひを失ひぬるときは、六親眷属あつまりてなげきかなしめども、さらにその甲斐あるべからず。さてしもあるべきことならねばとて、野外におくりて夜半の煙となしはてぬれば、ただ白骨のみぞのこれり。あはれといふもなかなかおろかなり。

されば人間のはかなきことは老少不定のさかひなれば、たれの人もはやく後生の一大事を心にかけて、阿弥陀仏をふかくたのみまゐらせて、念仏申すべきものなり。あなかしこ、あなかしこ。


この「白骨の章」で言えば、高森顕徹会長は「たれの人もはやく後生の一大事を心にかけて」までの話しかせず、あとは邪義に誘導しています。「阿弥陀仏をふかくたのみまゐらせて、念仏申すべきものなり」を正しく説いてくれなければ、救いがないんですよ。それを、やれ因果の道理だとか、廃悪修善だとか、19願だとか別方向に誘導されてしまうために、会員の皆さんは何十年聞いても一向に阿弥陀仏を深くたのみ、念仏できないのです。


この、「阿弥陀仏をたのむ」ということについて、別の御文章ではこう教えられています。

阿弥陀如来をたのみたてまつるについて、自余の万善万行をば、すでに雑行となづけてきらへるそのこころはいかんぞなれば、それ弥陀仏の誓ひましますやうは、一心一向にわれをたのまん衆生をば、いかなる罪ふかき機なりとも、すくひたまはんといへる大願なり。

しかれば一心一向といふは、阿弥陀仏において、二仏をならべざるこころなり。このゆゑに人間においても、まづ主をばひとりならではたのまぬ道理なり。されば外典のことばにいはく、「忠臣は二君につかへず、貞女は二夫をならべず」(史記・意)といへり。阿弥陀如来は三世諸仏のためには本師師匠なれば、その師匠の仏をたのまんには、いかでか弟子の諸仏のこれをよろこびたまはざるべきや。このいはれをもつてよくよくこころうべし。

さて南無阿弥陀仏といへる行体には、一切の諸神・諸仏・菩薩も、そのほか万善万行も、ことごとくみなこもれるがゆゑに、なにの不足ありてか、諸行諸善にこころをとどむべきや。すでに南無阿弥陀仏といへる名号は、万善万行の総体なれば、いよいよたのもしきなり。


念仏以外の万善万行、諸行諸善は雑行と名づけて嫌われ、万善万行の総体である念仏一つを専ら勧められていることがお分かりでしょう。この念仏に何の不足があって、自余の雑行に手出ししようというのでしょうか。「ただ念仏のみぞまこと」です。「ただ三願転入の教えのみぞまこと」ではありません。

なにの不足ありてか、諸行諸善にこころをとどむべきや。

会員の皆さんは、この蓮如上人のお言葉をよく心に留めるべきでしょう。


では、万善万行の総体である念仏を称える信心はと言えば、続けて蓮如上人はこう教えられています。

これによりて、その阿弥陀如来をば、なにとたのみ、なにと信じて、かの極楽往生をとぐべきぞなれば、なにのやうもなく、ただわが身は極悪深重のあさましきものなれば、地獄ならではおもむくべきかたもなき身なるを、かたじけなくも弥陀如来ひとりたすけんといふ誓願をおこしたまへりとふかく信じて、一念帰命の信心をおこせば、まことに宿善の開発にもよほされて、仏智より他力の信心をあたへたまふがゆゑに、仏心と凡心とひとつになるところをさして、信心獲得の行者とはいふなり。

このうへにはただねてもおきてもへだてなく念仏をとなへて、大悲弘誓の御恩をふかく報謝すべきばかりなりとこころうべきものなり。


我が身は罪が極めて重い浅ましい者であり、地獄より他に行き場のない身であるのを、かたじけなくも阿弥陀仏だけが「そなたを助けるぞ」という誓いを発して下さったのだと疑いなく信じて、何の造作も要らずこの誓願におまかせしなさいと教えられています。これは自分で起こす信心ではありませんから「仏智より他力の信心をあたへたまふ」と言われています。このように弥陀をたのみ、凡夫の小賢しい詮索や先入観を交えず阿弥陀仏の仰せにおまかせして念仏する者を「信心獲得の行者」と言われるのです。

これは何も難しいことではありません。私に「あれせい」「これせい」「ああしたら助ける」「こうしたら助ける」と条件をつける阿弥陀さまではありませんもの。ただ「我にまかせよ、必ず救うぞ」という力強い仰せをそのまま聞き受けるのみですから、易いという言葉も要らない易さです。こうした真宗の肝要を教えられず、会員の皆さんはどれだけ無駄で無意味な活動をやらされているかと考えるとやるせなさでいっぱいです。

最近は三願転入の話を全くしなくなったそうですが、会員の皆さんの心は相変わらず「三願転入の教え」、また「宿善を求めよ・厚くせよという教え」に縛られ、直ちに救う本願を聞けないでいると思います。どうか救いのない教えから離れて、早く本願を信じ念仏されるようにと願うばかりです。
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淳心房&しゃあ

Author:淳心房&しゃあ
(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


(しゃあ)
平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
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