「三願転入は法の必然」なのかも知れないが、親鸞会流「三願転入の教え」は邪義

そういえば20願についての記述は?

の記事に、名無し様からコメントを頂いています。内容は「三願転入は法の必然」なのかどうかについてです。その中で、梯実円著「顕浄土方便化身土文類講讃」の中の一文が紹介されています。

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「単なる聖人(親鸞聖人のこと)個人の宗教経験に止まらず、自力を捨てて他力に帰するという廃立の信心の性格として、自ずから三願転入が為されると考える。同時に、権仮方便の教法を設定して、未熟の機を誘引される如来の摂機の次第からいっても三願転入は法の必然であると考えている。」

「自力のはからいを離れて選択の願海に転入したものには、何らかの形で三願転入で表せるような宗教体験があったと考えられる。」

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と書かれているとのことです。今回は、この文章と親鸞会流「三願転入の教え」について考察します。

諸行無常、罪悪深重、無常迅速と知らされるにつけ、この問題を何とかしなければならない、何とかしたいという思いになります。それで、我々は過去世において仏道修行に励んでいたのかも知れません。親鸞聖人も、

三恒河沙の諸仏の
 出世のみもとにありしとき
 大菩提心おこせども
 自力かなはで流転せり
(正像末和讃)

と仰っています。そんな過去がなければ、今生において仏教を聞けなかったのかも知れません。ところが、

自力聖道の菩提心
 こころもことばもおよばれず
 常没流転の凡愚は
 いかでか発起せしむべき
(同)

で、親鸞聖人のような方でさえ自力でどうにかなる問題ではないと仰せです。そして、

像末五濁の世となりて
 釈迦の遺教かくれしむ
 弥陀の悲願ひろまりて
 念仏往生さかりなり
(同)

と仰せられ、ご自身も念仏往生の教えに帰依なされています。これがいわゆる、

ここをもつて愚禿釈の鸞、論主の解義を仰ぎ、宗師の勧化によりて、久しく万行諸善の仮門を出でて、永く双樹林下の往生を離る。(化身土文類)

なのかなと思います。断定的な言い方をしないのは、「万行諸善の仮門」とは普通第十九願の教法を指すのであり、親鸞聖人が今生において19願を実践されたのかどうか不明だからです。聖道門を含めて「万行諸善の仮門」ということなのかも知れませんが、こればかりは聖人にお聞きしなければ分かりません。

あと、これは私の想像ですが、ただ法然聖人から教えを受けられるようになってからもしばらくは、念仏を自分の善根としてとらえ、念仏を称えて往生しようという自力心が離れず、泣かれていたのかもしれません。その時に、図らずも第二十願に入っておられたことを、

善本徳本の真門に回入して、ひとへに難思往生の心を発しき。(同)

と述懐なされているのかも知れません。それが、如来大悲の恩を知り、如来二種の回向を頂かれて選択の願海に転入された後に方便の教えであったと知らされ、

しかるに、いまことに方便の真門を出でて、選択の願海に転入せり。すみやかに難思往生の心を離れて、難思議往生を遂げんと欲す。果遂の誓(第二十願)、まことに由あるかな。ここに久しく願海に入りて、深く仏恩を知れり。至徳を報謝せんがために、真宗の簡要を摭うて、恒常に不可思議の徳海を称念す。いよいよこれを喜愛し、ことにこれを頂戴するなり。(同)

とお慶びになったのかもしれません。

このように考察しますと、梯師の考え方もなるほどと思えます。遠い過去世から獲信の現在までを振り返ると、誰しも三願転入で表せるような宗教体験をしているのかも知れません。ただこれは考え方の一つであって断定はできませんので、梯師も断定的な言い方は避けています。「三願転入は法の必然」なのかどうか、どちらの説を取ろうとそれは各々自由であろうと思います。


ただし、親鸞会が言うような「三願転入の教え」は邪義です。善知識方は、「今生においてまず19願から始めなければならない」と言って19願を勧めるようなことはしておられないからです。

いつも申しているように、善知識方のお勧めはもっぱら18願のみです。20願すら厳しく誡められているというのに、まして19願はです。19願の実践を勧められた箇所が至る所に見られるなら分かりますが、20願すら「化身土文類」に唯一ヶ所、19願の実践の勧めは皆無です。その20願すら先ほど申し上げた通りです。

梯師の仰る説と、親鸞会流「三願転入の教え」は全く指している部分が違いますので、梯師の文章を通して親鸞会流「三願転入の教え」がどうこうとは言えないと思います。それに梯師ももしまだご存命であれば、親鸞会流「三願転入の教え」は否定するでしょう。梯師が19願を勧められているかどうか、著書を見れば明らかです。

以上、梯師の文章と親鸞会流「三願転入の教え」についての考察を終了します。
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No title

引用の梯實圓和上の『顕浄土方便化身土文類講讃』を見るに、親鸞会関係者は切文(きりもん)が趣味なのかな、病膏肓に入るだな(笑
切文とは、全体の文章の一部を自分にとって都合の良いように切り出して、まるで文章全体の結論であるように偽装することである。いわゆる高森親鸞会の教祖である高森顕徹氏が得意の悪しき断章取義によって説を論じる技法である。
そもそも、仏教(宗教)とは主体的(主観的ではない)に自己と法の関係を論ずるのであり、他者に教えるという客観的視点を要求されるものでは無い。
私が、選択本願の行信にどのように向き合う(機法一体という言葉があるように向き合うという言葉は正確ではないのだがあえて使った)かというところから、いわゆる三願転入論を論じなければ空疎な議論になると思ふ。
ともあれ御開山の著された『教行証文類』は、行信を得る為のプロセスを説いた教科書ではない。御開山が到達された視点から全仏教を俯瞰した書物であることを忘れて、まるで信心へのハウツー書のように読めば、高森顕徹氏が説くあほみたいな行信へのプロセスとしての三願転入になるのであった。
ようするに、「宿善を求めよ」という金集め人集め作戦が本願寺によって論破されたために編み出したのが要門→真門→弘願門という三願転入であった。あほである。
浄土真宗のご法義は、御開山が、

 つつしんで浄土真宗を案ずるに、二種の回向あり。一つには往相、二つには還相なり。往相の回向について真実の教行信証あり。

と示されるように本願力回向のご法義である。「ご信心に入るカリキュラムはない」のであるが、これがあると説いて己の利養を謀ったのが高森顕徹氏であった。高森顕徹氏は、地方の変わった布教使であったのだが、これを持ち上げ増長させたのはひとえに高森親鸞会の信者であった。そのような意味においては脱会者といえども共犯者であるといえる。まして高森親鸞会に於いて指導的立場にいた輩が、自己批判もなく伝統教団にすりよって坊主になるなどというは言語道断だと思ふ。

そんなこんなで、暇があったら断章ではない『顕浄土方便化身土文類講讃』の該当部分をUPするかもです。

なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ
http://blog.wikidharma.org/blogs/blog/2011/08/18/%e7%9c%9f%e4%bb%ae%e3%82%92%e7%9f%a5%e3%82%89%e3%81%96%e3%82%8b%e3%81%ab%e3%82%88%e3%82%8a%e3%81%a6/


No title

>梯師の考え方もなるほどと思えます。遠い過去世から獲信の現在までを振り返ると、誰しも三願転入で表せるような宗教体験をしているのかも知れません。

三願転入はすべての人が必ず通る(法の必然)ということは、適当ではないとか、三願転入は必然という解釈は成り立たないと言っていたのに・・・。

Re: 林遊@なんまんだぶ様

いつもながら鋭く的確なツッコミでございます。

親鸞会関係者は切文(きりもん)が趣味というか、教える側が切文しかしないので信者も切文しかできないのかなと。親鸞会以外の価値観は全て否定、拒否して、親鸞会の説のみが唯一正しいと信じているので、他からの文章も、前後を弁えず都合の良い部分だけ引用するというのは彼らの常套手段です。

>そのような意味においては脱会者といえども共犯者であるといえる。

耳が痛いです(/_;) しかし過去は変えられないので、これから未来に亘って一人でも多くの会員が誤りに気付くよう、また巻き込まれる人が一人でも減るようにと願い行動するしかないというのが現在の私の思いです。

該当部分のUP、ぜひお願いしたいです。宜しくお願い致します。

Re: 名無し様

私は、貴方が引用した文章のすぐ後で

>ただこれは考え方の一つであって断定はできませんので、梯師も断定的な言い方は避けています。「三願転入は法の必然」なのかどうか、どちらの説を取ろうとそれは各々自由であろうと思います。

と書いています。結局は考え方の一つであり、実際はどうなのか分からない問題なので、どちらの説を取っても各々の自由ですよというのが私の立場です。

ただし、引用された梯師の文章をもって親鸞会流「三願転入の教え」を論じた時、「三願転入はすべての人が必ず通る(法の必然)ということは、適当ではない」「三願転入は必然という解釈は成り立たない」です。今生においてまず19願から始めなければならないとする親鸞会流「三願転入の教え」は真宗にない珍しい法ですから、そこを否定しているのです。名無し様にはここをご理解頂ければと思います。

No title

梯実円著「顕浄土方便化身土文類講讃」より
「大きく分けると三願転入を義説と見る説と、行者の普遍的な事実と見る説とに分かれる。そして行者の普遍的な事実と見る中で、親鸞聖人が実際に体験されたと見る説と、実際の体験ではないが宿善としてあったという説に分かれるようである。私は三願転入は親鸞聖人の事実であったということ、同時に単なる聖人個人の宗教経験に止まらず、自力を捨てて他力に帰するという廃立の信心の性格として、自ずから三願転入が為されると考える。同時に、権仮方便の教法を設定して、未熟の機を誘引される如来の摂機の次第からいっても三願転入は法の必然であると考えている。」

梯師は親鸞聖人だけでなく、三願転入は行者の普遍的な事実と見る説を採っておられるようです。

講讃を拝読すると、先哲の見解をかなり細かく挙げておられた上で、細かく分析され、上記の見解を述べておられます。

だから学説の一つではありますが、梯師の説はかなり説得力もある、有力な説の一つとしてあげて良いのではないかと思います。

廃立

ハンドルネームも記さない輩は相手にしなくてもよいのだが、「廃立」という言葉の意味を考えなさいまし。
宗教とは決断であるとも言われますが、ぐちゃぐちゃと文に拘っているより、あなたさまが決断(廃立)すべき事柄じゃないのかな?
ともあれ、御開山のいわゆる三願転入の文(御開山自身は三願転入という言葉を使われていないし、三願転入とは後世の造語であることに留意)は、願海真仮を知らしめるために要門釈と真門釈の後に著されたのでした。
『教行証文類』は、教・行・信・証・真仏土の五巻で論述は尽きているのですが追釈として「化身土文類」を著されたのでした。
『教行証文類』は、法然聖人の『選択本願念仏集』の注釈書だともいわれますが、浄土教えの根本は『無量寿経』第十八願である、なんまんだぶを称える三信即一のご法義なのでした。
梯實圓和上に、親鸞会のあほみたいな種々の教義を述べてお聞ききしたことがありますが、悲しいことですねと仰ってましたですよ。
親鸞会の悪い癖ですが、他者が検証することが困難な文章をUPして、自分も解っていない文章をUPするのは止めなさい。権威に従属するあほとしか思えませんよ(笑

なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ
http://blog.wikidharma.org/blogs/blog/2011/08/24/%e5%b8%b8%e3%81%ab%e8%99%8e%e3%81%ae%e8%aa%ac%e6%b3%95/

プロフィール

淳心房&しゃあ

Author:淳心房&しゃあ
(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


(しゃあ)
平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
singikensho@yahoo.co.jp
(スパム防止のため@を大文字にしてあります。メール送信時は小文字に変えて下さい。)

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