「三願転入は法の必然」なのかも知れないが、親鸞会流「三願転入の教え」は邪義(2)

今回は、私の入信までの過程を振り返ってみたいと思います。

大学1年の時、偽装勧誘に遇って話を聞くようになった私は、諸行無常、無常迅速、罪悪深重と教えられ、確かに(必堕無間の意味で)後生は一大事だと思うようになりました。この後生の一大事を解決するには、善知識から真剣に聴聞して信心決定するしかないと、先輩の勧めもあって親鸞会に入会しました。それから教義の誤りを知らされて退会するまでは、停滞期もあったものの、自分が聴聞して、自分がおつとめをして、自分が勧められる活動に参加して、自分が少しでも身口意の三業を立派にしてと、縦と横の線で言うところの縦の線を目指して、横の道を進もうとしていました。救って下さるのは阿弥陀仏だが、その阿弥陀仏の救いに遇うところまでは自分から積極的にアクションを起こして進まなければならない、要は自力で進まなければならない、そうしなければ阿弥陀さまは救って下さらないと思っていたのです。

退会して後は、往生にはただ18願、ただ念仏一つに依らねばならないと教えて頂き、18願一つ聞き、念仏一行を称えるようになりました。この時、自力で聴聞や勤行や善行など、様々な行に励んで助かろうというところから離れましたので、三願転入の御文になぞらえますと、

ここをもつて淳心房、論主の解義を仰ぎ、宗師の勧化によりて、久しく万行諸善の仮門を出でて、永く双樹林下の往生を離る。

と言えるのかなと感じます。実感としては万行諸善の仮門の前をうろうろしていただけで、19願如実の実践はしておらず、臨終来迎による化土往生も願ってはおりませんのでそこは違いますが。このようなわけで淳心房は、知識同行方のお導きによって、久しく親鸞会の邪道を出て、永く高森信心を離れたと言った方がより適当です。

ところが、ただ18願、ただ念仏一つと教えて頂いても、本願力回向のお心が分からず、念仏を自分の善根として称えて助かろうという自力心はしばらく私を煩わせていました。いや、阿弥陀仏のお手を煩わせていたといった方が適切でしょうか。その時、直ちに本願力回向を受け容れない未熟な機をも見捨て給わぬ阿弥陀仏の大悲から発して下さった第二十願に不本意ながら留まっていたのかなと推察されます。それが後に心を翻され、阿弥陀仏による一方的な救いを受け容れて、一心一向に念仏して報土往生を願う身とさせて頂きました。このような心境の変化を、再び三願転入の御文になぞらえますと、

善本徳本の真門に回入して、ひとへに難思往生の心を発しき。しかるに、いまことに方便の真門を出でて、選択の願海に転入せり。すみやかに難思往生の心を離れて、難思議往生を遂げんと欲す。

と言えるのかなと感じます。ただし、難思往生の心を発したわけではなく、あくまで本願の実報土に往生したいと願っていたのでその点でも違いがあります。ですから、淳心房の入信の過程としては

親鸞会(真宗もどき)→(20願)→18願

といった感じです。三願転入の御文通りというのは適当ではありませんが、何らかの形で三願転入で表せるような宗教体験はありました。


このように振り返りますと、自力のはからいを離れて選択の願海に転入したものには、何らかの形で三願転入で表せるような宗教体験があったと考えられるとする梯師の考えは確かにそうかも知れません。獲信者全員に尋ねたわけではないのでアレですが、往生に関して私は

雑行・雑修(自力心)→専修念仏(自力心)→専修念仏(他力心)
(※19願・20願如実の行の実践はしていませんので、あくまで個人的な感覚です。)

という過程を経ましたので、三願転入は必然とまでは断定できないが個人的に何らかの形で三願転入で表せるような宗教体験はあるのではないかと思います。ただしこれも一つの考え方なので、読者の皆さん、どうぞ選択はご自由に。


ところが、こうした梯師の説をもって親鸞会流「三願転入の教え」がどうこう言えないことは先日述べた通りです。三願転入の御文を始め『教行証文類』は、林遊@なんまんだぶ様が仰るように信心へのハウツー書ではありません。

御開山の著された『教行証文類』は、行信を得る為のプロセスを説いた教科書ではない。御開山が到達された視点から全仏教を俯瞰した書物であることを忘れて、まるで信心へのハウツー書のように読めば、高森顕徹氏が説くあほみたいな行信へのプロセスとしての三願転入になるのであった。
ようするに、「宿善を求めよ」という金集め人集め作戦が本願寺によって論破されたために編み出したのが要門→真門→弘願門という三願転入であった。あほである。


この通りです。あくまで獲信の現在から過去を振り返って「このようなお導きによって本願を信じ念仏して報土往生を遂げる身とさせて頂いた」ということであって、これから獲信・往生しようという人に「19願→20願→18願と進んで助かるのですよ」と獲信へのハウツーを教えたのが三願転入の御文ではないことをよく知らなければなりません。

祖師がお示し下されたように、我々が聞くべきは、説くべきは、あくまで18願、仏願の生起・本末、南無阿弥陀仏の六字のこころであって別にはありません。19願を説き与えるなど、猫でもないネズミの絵を与えて「虎を描け」と言っているようなもので、一生虎を描くことはできないことは度々述べている通りです。親鸞会の邪義に未だ迷っている方々は、一刻も早く利用・搾取されている現状に気づき、邪道を出でて本願他力の直道に赴いて頂きたいと思います。


【参照】
『用管窺天記』真仮を知らざるによりて
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No title

論点を整理すると、①三願転入はすべての人が通る(法の必然)という解釈はあり得るのか、ということと、②親鸞会で教える三願転入が邪義かどうかということですよね。

①については、梯師がそういう解釈をしているので、三願転入はすべての人が通る(法の必然)という解釈はあり得る。だから三願転入はすべての人が必ず通ると言う点については、親鸞会の主張は邪義とは言えない。

しかし②親鸞会は「今生においてまず19願から始めなければならない」と言って19願を勧めており、それは善知識方がそのように説かれていないので、それは邪義である。

こういう整理になるでしょうか。

No title

理解してもらえるかと思いましたが、そうではなかったようですね。
ハッキリ申し上げておきますと、三願転入を必然とみる説は、あくまで学者の説に過ぎず、それは間違いであると考えています。
18願は、無善の悪人を救う願です。19願を必ず通るとなれば、無善の悪人は救われません。無善なのですから、19願を実践しようとも思わないです。19願を実践しないのですから、19願を通ることもありません。三願転入が必然なら18願には永久に到達しません。
したがいまして、無善の悪人を救うはずの18願は、形骸化されてしまいます。
19願を通らなければ18願に至れないという意味が、だいたいわかりません。

歴代の善知識は、無善の悪人が18願によって救われることを強調されていますので、19願通過が必然なら、歴代の善知識は、間違ったことを教えられたことになります。

以上より、三願転入必然説は、学問上の戯れと考えるべきでしょう、

梯師は、優秀な学者ですが、優秀故に机上で物事を考えているなと思われる箇所は、他にもあります。

梯師ら学者は、過去世において19願の実践をしてきたと言えるかも知れません。それまで否定はしませんが、全ての衆生においても同様だと考えるのは、間違いと考えます。

Re: 名無し様

そもそも親鸞会の主張は、

「十八願に誓われた絶対の幸福、無碍の一道に出るには、十九、二十願の道程を通らなければならない」(『こんなことが知りたい④』p.110)

とあり、19願・20願の実践をしなければ18願の世界に転入できないというものです。祖師方は19願の実践をせよと勧めていませんから邪義です。加えて、「三願転入は必然か」という命題に決着がついていませんので、それを基に親鸞会の主張を検証したとて答えが出る問題ではありません。

何度も言いますが、梯師の文章をもって親鸞会流「三願転入の教え」がどうこうとは言えないのです。

No title

横さん。
う~ん、梯實圓和上に対する意見には、ちょっと腹立つな(笑
まるで、高森顕徹が宗学上の議論に負けそうなときに発する「所詮は学者の浅智慧、観念の遊戯」という言説と何がちがうのだろう。
あなたが記していることは、いわゆる学者の書いた解説本を読んだ上での立論じゃないのですか?
自分が理解できないことを排斥するのは、決して正しい〈なんまんだぶ〉のご法義ではないと思ふのだが如何。

なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ

No title

林遊さん

多分そう言われると思っていました。それで最初は遠慮気味にかいたのです。

>自分が理解できないことを排斥するのは

親鸞会会員が、高森会長を擁護する時に使うセリフと同じです。
こういう擁護をしながら、親鸞会会員を非難するのは、矛盾ではないですか?

梯師のことを尊敬はしていますが、林遊さんのような擁護をしようとはおもいません。どう読んでも解釈がおかしいと思いながら、それに反対意見を言わないのも、如何なものでしょうか。

このままの流れだと、親鸞会は梯師のこの文章を利用して、三願転入論の正当性を主張するでしょう。過去に何度もそうしてきています。親鸞会に利用された後、

>自分が理解できないことを排斥するのは

といくら言ってみたところで、会員には何の説得力もありません。

林遊さんの気持ちもわかりますが、ここは堪えておいてくださいますか。

う~ん

横さん。

高森顕徹の主張の間違いは、淳心房さんの、

>あくまで獲信の現在から過去を振り返って「このようなお導きによって本願を信じ念仏して報土往生を遂げる身とさせて頂いた」ということであって、これから獲信・往生しようという人に「19願→20願→18願と進んで助かるのですよ」と獲信へのハウツーを教えたのが三願転入の御文ではないことをよく知らなければなりません。

の語から明らかじゃないのかな。
「善の勧め」という高森顕徹の宿善論も、浄土真宗に於ける宿善とは、獲信の現在から過去をふり返る言葉を求道のプロセスとした誤謬なのでした。
ところで梯實圓和上は常に凡夫の立場に立脚してご法義を顕彰なさっておられたのですが、貴兄の、

>梯師は、優秀な学者ですが、優秀故に机上で物事を考えているなと思われる箇所は、他にもあります。

と言われる、「他にもあ」るという、机上という箇所を示していただければ幸いです。ひょっとして御開山の著された『教行証文類』を、「机上で物事を考えている」学者の戯言だと思っていらっしゃるのかな。

なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ
http://labo.wikidharma.org/index.php/%E6%95%99

No title

林遊さん

私のコメントの意図をご理解いただけないようで、残念です。

他の箇所をここで披露して、親鸞会を喜ばせるようなことは致しません。
また、何処かでご縁があれば、お教えします。

いずれにしましても、学説は諸説あるわけで、梯師の説が絶対に正しいという親鸞会会員と同じ思考は危険ですので、親鸞会会員を見下す前に自己を省みられることも大切かと存じます。

以下、コメントは控えますので。
プロフィール

淳心房&しゃあ

Author:淳心房&しゃあ
(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


(しゃあ)
平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
singikensho@yahoo.co.jp
(スパム防止のため@を大文字にしてあります。メール送信時は小文字に変えて下さい。)

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