「若不生者」の「生」とお聖教中の「生」との結び付け方が無理矢理な高森顕徹会長

信心について知ったかぶりの高森顕徹会長

に既に書かれていますが、22日(日)の講師部講義では本願文の「若不生者」について話があったようです。詳しくはそちらをご覧頂くとして、当ブログでは高森顕徹会長の挙げる根拠をもって「若不生者」の「」は信楽に生まれさせると言えるのかどうか検証します。


とその前に、まず本願文を見てみましょう。

たとひわれ仏を得たらんに、十方の衆生、至心信楽して、わが国に生ぜんと欲ひて、乃至十念せん。もし生ぜずは、正覚を取らじ。ただ五逆と誹謗正法とをば除く。

【現代語訳】
わたしが仏になるとき、すべての人々が心から信じて、わたしの国に生れたいと願い、わずか十回でも念仏して、もし生れることができないようなら、わたしは決してさとりを開きません。ただし、五逆の罪を犯したり、仏の教えを謗るものだけは除かれます。

わが国に生ぜんと欲ひて、乃至十念せん。もし生ぜずは」ですから、当然生まれるのは「わが国」すなわち浄土に生まれるです。聖人の解釈はごく自然ですね。対して高森会長の解釈は無理矢理です。


その無理矢理具合を見ていきましょう。まず講義に出てきたという、アニメ「世界の光親鸞聖人」第二部にある体失・不体失往生の諍論についてですが、これは聖教に基づかない高森会長の妄想上の諍論ですから省きます。詳しくは

本願念仏(18願)の機の不体失往生と、非本願諸行往生(19願)の機の体失往生の諍論

等に書いていますので参照下さい。


次に、『愚禿鈔』上巻のお言葉

本願を信受するは、前念命終なり。[「すなはち正定聚の数に入る」(論註・上意)と。文]
即得往生は、後念即生なり。[「即の時必定に入る」(易行品 一六)と。文
また「必定の菩薩と名づくるなり」(地相品・意)と。文]


についてです。本来「前念命終」「後念即生」とは、善導大師の『往生礼讃』

上一形にありては少苦に似如たれども、前念に命終して後念にすなはちかの国に生じ、長時永劫につねに無為の法楽を受く。

から来ています。念仏の行者は前念に命が終れば、後念にただちに浄土に往生するということです。ですから、「前念命終」の「命終」とは肉体の命が終わること、「後念即生」の「即生」とは「すなはちかの国に生じ」ですから浄土に生まれることです。これが本来の意味です。

それを親鸞聖人は、現世において信心を獲得すると同時に正定聚の位に入る意とされました。本願を信受することが「命終」であって正定聚に入ること、即得往生が「即生」であって必定(正定聚)に入ることというご解釈です。信楽を獲たその時に正定聚に入る、不退転に住するということです。信楽(信心)が因で、正定聚に入るというのが果という関係で、この因果は時を隔てず同時です。これを信益同時と言われます。

ところが、これが信楽を獲たその時に信楽に生まれるではおかしいでしょう。いくら因願の「若不生者 不取正覚」に対応する語が成就文の「即得往生」だからとて、高森会長の主張には無理があります。『愚禿鈔』にこう書かれているから「若不生者」の「生」は信楽に生まれさせることだと言われても「何それ?」となるだけです。


それから、今回挙げられたのかは不明ですが、『外邪鈔』

本願の不思議をもつて生るべからざるものを生れさせたればこそ、超世の願ともなづけ、横超の直道ともきこえはんべれ。(第10条)

のお言葉についてです。ただこれも、このお言葉の直前に「本形としては往生浄土器ものにきらはれたるに似たり。」とあって、「我々人間の本来の姿は浄土に生まれる器ではないと嫌われている」と言われていることから、当然ながらこの文章中の「」は浄土に「」まれさせることだと見るのが妥当です。それにこの御文の前後に「若不生者」と関連するお言葉はありませんので、「若不生者」と結びつけるのは無理があります。


やはり親鸞聖人の解釈としては、「若不生者」の「」は浄土に生まれるという当益以外には書かれていません。逆に以前、教学講義において

本願成就文には死後のことは書かれていないから、本願にも死後の意味は全くない

と当益を否定してしまったのが高森顕徹会長です。それから二転三転して、再び現在は

若不生者」の「」は「信楽に生まれさせる」ということだ

と主張しています。所詮は教学もない、信心も定かではない高森会長が、大沼法竜師から得た知識を自説として披露するために、大沼師の引いた御文をそのまま出しているというだけのことです。親鸞聖人の解釈を否定したり、肯定したり、また自説を頑なに主張したり、高森会長からは「正しい浄土真宗を伝える」という誠意が微塵も感じられません。


今回の検証でも、高森顕徹会長は「若不生者」の「」とお聖教中の「生」との結び付け方が無理矢理であるということがお判り頂けるかと思います。なぜ無理矢理なのかと言うと、答えは簡単、高森顕徹会長の主張が大沼師の味わいをパクったものであり、本来親鸞聖人が解釈されたことと異なるからです。いくら閉鎖された「講師部講義」という場で話をしたとしても、今はすぐさま全世界に発信されてしまうという時代です。秘事法門はそろそろ終わりにして、飛雲さんとの公開法論に乗り出してもらえませんかね?
スポンサーサイト

コメントの投稿

非公開コメント

プロフィール

淳心房&しゃあ

Author:淳心房&しゃあ
(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


(しゃあ)
平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
singikensho@yahoo.co.jp
(スパム防止のため@を大文字にしてあります。メール送信時は小文字に変えて下さい。)

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QRコード