なにとやうにこころをももちて、なにとやうにその信心とやらんと教えられているか?

昔から信心決定して浄土往生するためには宿善を求めよだとか、(二河白道の譬の)白道を進めだとか、現在は三願転入しなければ蟻一匹救われないだとか教えて、会員に善という名の献金・勧誘・無条件服従を勧めている親鸞会ですが、浄土真宗にはそのような教えはありません。

アニメ映画『なぜ生きる』で途中から主役のような扱いになっている蓮如上人は、私達や私達の生きている境界はどのようなものと心得たらいいか、また阿弥陀仏をどのように信じて極楽へ往生するのかについて、『御文章』にて数多く教えられています。煩雑ですが、少々抜き出してみます。


 問うていはく、さてかやうに弥陀如来のわれらごときのものをすくはんと、たびたび願をおこしたまへることのありがたさをこころえわけまゐらせ候ひぬるについて、なにとやうに機をもちて、弥陀をたのみまゐらせ候はんずるやらん、くはしくしめしたまふべきなり。
 答へていはく、信心をとり弥陀をたのまんとおもひたまはば、まづ人間はただ夢幻のあひだのことなり、後生こそまことに永生の楽果なりとおもひとりて、人間は五十年百年のうちのたのしみなり、後生こそ一大事なりとおもひて、もろもろの雑行をこのむこころをすて、あるいはまた、もののいまはしくおもふこころをもすて、一心一向に弥陀をたのみたてまつりて、そのほか余の仏・菩薩・諸神等にもこころをかけずして、ただひとすぢに弥陀に帰して、このたびの往生は治定なるべしとおもはば、そのありがたさのあまり念仏を申して、弥陀如来のわれらをたすけたまふ御恩を報じたてまつるべきなり。これを信心をえたる多屋の坊主達の内方のすがたとは申すべきものなり。
(1帖目10通)


その信心をとらんずるやうはいかんといふに、それ弥陀如来一仏をふかくたのみたてまつりて、自余の諸善・万行にこころをかけず、また諸神・諸菩薩において、今生のいのりをのみなせるこころを失ひ、またわろき自力なんどいふひがおもひをもなげすてて、弥陀を一心一向に信楽してふたごころのなき人を、弥陀はかならず遍照の光明をもつて、その人を摂取して捨てたまはざるものなり。(2帖目2通)


 それ、弥陀如来の超世の本願と申すは、末代濁世の造悪不善のわれらごときの凡夫のためにおこしたまへる無上の誓願なるがゆゑなり。しかればこれをなにとやうに心をももち、なにとやうに弥陀を信じて、かの浄土へは往生すべきやらん、さらにその分別なし。くはしくこれををしへたまふべし。
 答へていはく、末代今の時の衆生は、ただ一すぢに弥陀如来をたのみたてまつりて、余の仏・菩薩等をもならべて信ぜねども、一心一向に弥陀一仏に帰命する衆生をば、いかに罪ふかくとも仏の大慈大悲をもつてすくはんと誓ひたまひて、大光明を放ちて、その光明のうちにをさめとりましますゆゑに、このこころを『経』(観経)には、「光明遍照十方世界 念仏衆生摂取不捨」と説きたまへり。
(2帖目4通)


さればこの信心をとりてかの弥陀の報土にまゐらんとおもふについて、なにとやうにこころをももちて、なにとやうにその信心とやらんをこころうべきや。ねんごろにこれをきかんとおもふなり。
 答へていはく、それ、当流親鸞聖人のをしへたまへるところの他力信心のおもむきといふは、なにのやうもなく、わが身はあさましき罪ふかき身ぞとおもひて、弥陀如来を一心一向にたのみたてまつりて、もろもろの雑行をすてて専修専念なれば、かならず遍照の光明のなかに摂め取られまゐらするなり。これまことにわれらが往生の決定するすがたなり。
(2帖目8通)


阿弥陀如来をたのみたてまつるについて、自余の万善万行をば、すでに雑行となづけてきらへる
(中略)
なにの不足ありてか、諸行諸善にこころをとどむべきや。
(中略)
これによりて、その阿弥陀如来をば、なにとたのみ、なにと信じて、かの極楽往生をとぐべきぞなれば、なにのやうもなく、ただわが身は極悪深重のあさましきものなれば、地獄ならではおもむくべきかたもなき身なるを、かたじけなくも弥陀如来ひとりたすけんといふ誓願をおこしたまへりとふかく信じて、一念帰命の信心をおこせば、まことに宿善の開発にもよほされて、仏智より他力の信心をあたへたまふがゆゑに、仏心と凡心とひとつになるところをさして、信心獲得の行者とはいふなり。
(2帖目9通)


さればその他力の信心のすがたを存知して、真実報土の往生をとげんとおもふについても、いかやうにこころをももち、またいかやうに機をももちて、かの極楽の往生をばとぐべきやらん。そのむねをくはしくしりはんべらず。ねんごろにをしへたまふべし。それを聴聞していよいよ堅固の信心をとらんとおもふなり。
 答へていはく、そもそも、当流の他力信心のおもむきと申すは、あながちにわが身の罪のふかきにもこころをかけず、ただ阿弥陀如来を一心一向にたのみたてまつりて、かかる十悪・五逆の罪人も、五障・三従の女人までも、みなたすけたまへる不思議の誓願力ぞとふかく信じて、さらに一念も本願を疑ふこころなければ、かたじけなくもその心を如来のよくしろしめして、すでに行者のわろきこころを如来のよき御こころとおなじものになしたまふなり。このいはれをもつて仏心と凡心と一体になるといへるはこのこころなり。
(2帖目10通)


これによりて、この仏をばなにとたのみ、なにとこころをももちてかたすけたまふべきぞといふに、それわが身の罪のふかきことをばうちおきて、ただかの阿弥陀仏をふたごころなく一向にたのみまゐらせて、一念も疑ふ心なくは、かならずたすけたまふべし。(3帖目1通)


 そもそも、阿弥陀如来の他力本願をばなにとやうに信じ、またなにとやうに機をもちてかたすかるべきぞなれば、それ弥陀を信じたてまつるといふは、なにのやうもなく、他力の信心といふいはれをよくしりたらんひとは、たとへば十人は十人ながら、みなもつて極楽に往生すべし。さてその他力の信心といふはいかやうなることぞといへば、ただ南無阿弥陀仏なり。この南無阿弥陀仏の六つの字のこころをくはしくしりたるが、すなはち他力信心のすがたなり。
されば、南無阿弥陀仏といふ六字の体をよくよくこころうべし。まづ「南無」といふ二字はいかなるこころぞといへば、やうもなく弥陀を一心一向にたのみたてまつりて、後生たすけたまへとふたごころなく信じまゐらするこころを、すなはち南無とは申すなり。つぎに「阿弥陀仏」といふ四字はいかなるこころぞといへば、いまのごとくに弥陀を一心にたのみまゐらせて、疑のこころのなき衆生をば、かならず弥陀の御身より光明を放ちて照らしましまして、そのひかりのうちに摂めおきたまひて、さて一期のいのち尽きぬれば、かの極楽浄土へおくりたまへるこころを、すなはち阿弥陀仏とは申したてまつるなり。
(3帖目2通)


さればその信心をとるといふは、いかやうなるむつかしきことぞといふに、なにのわづらひもなく、ただひとすぢに阿弥陀如来をふたごころなくたのみたてまつりて、余へこころを散らさざらんひとは、たとへば十人あらば十人ながら、みなほとけになるべし。(3帖目3通)


これによりて、かの阿弥陀仏の本願をば、われらごときのあさましき凡夫は、なにとやうにたのみ、なにとやうに機をもちて、かの弥陀をばたのみまゐらすべきぞや。
(中略)
それ在家止住のやから一生造悪のものも、ただわが身の罪のふかきには目をかけずして、それ弥陀如来の本願と申すはかかるあさましき機を本とすくひまします不思議の願力ぞとふかく信じて、弥陀を一心一向にたのみたてまつりて、他力の信心といふことを一つこころうべし。さて他力の信心といふ体はいかなるこころぞといふに、この南無阿弥陀仏の六字の名号の体は、阿弥陀仏のわれらをたすけたまへるいはれを、この南無阿弥陀仏の名号にあらはしましましたる御すがたぞとくはしくこころえわけたるをもつて、他力の信心をえたる人とはいふなり。この「南無」といふ二字は、衆生の阿弥陀仏を一心一向にたのみたてまつりて、たすけたまへとおもひて、余念なきこころを帰命とはいふなり。
つぎに「阿弥陀仏」といふ四つの字は、南無とたのむ衆生を、阿弥陀仏のもらさずすくひたまふこころなり。このこころをすなはち摂取不捨とは申すなり。「摂取不捨」といふは、念仏の行者を弥陀如来の光明のなかにをさめとりてすてたまはずといへるこころなり。さればこの南無阿弥陀仏の体は、われらを阿弥陀仏のたすけたまへる支証のために、御名をこの南無阿弥陀仏の六字にあらはしたまへるなりときこえたり。
(3帖目5通)


しかるにいまわれら凡夫は、阿弥陀仏をばいかやうに信じ、なにとやうにたのみまゐらせて、かの極楽世界へは往生すべきぞといふに、ただひとすぢに弥陀如来を信じたてまつりて、その余はなにごともうちすてて、一向に弥陀に帰し、一心に本願を信じて、阿弥陀如来においてふたごころなくは、かならず極楽に往生すべし。この道理をもつて、すなはち他力信心をえたるすがたとはいふなり。そもそも信心といふは、阿弥陀仏の本願のいはれをよく分別して、一心に弥陀に帰命するかたをもつて、他力の安心を決定すとは申すなり。されば南無阿弥陀仏の六字のいはれをよくこころえわけたるをもつて、信心決定の体とす。(3帖目7通)


まだまだありますが、この辺で・・・。
さて、蓮如上人からは、「救われるにはこうせよ」ということについて親鸞会で勧められるようなことは見ることができません。この世は50年乃至100年の境界であり、栄耀栄華を極めても死んでゆく時には頼りになるものは無い、ということは親鸞会でも言いますが、じゃあどのように阿弥陀仏を信じて極楽世界へ往生するのかということについては、その教えが全く違います。

親鸞会で勧められる諸善万行については雑行と名づけて嫌われ、往生のためには「捨てて」「投げ捨てて」「ふり捨てて」と厳しいです。そして、阿弥陀仏を一心一向にたのめと教えられています。以前から書いているように、一心一向とは念仏以外の諸善を捨てて、念仏一行を専らにするということですから、意味としては「もろもろの雑行をすてて」と同じことです。

そして、阿弥陀仏を一心一向にたのむということは南無阿弥陀仏の六字のいわれをよく心得たこと、これが信心決定ということですから、蓮如上人は六字釈を重ねて重ねて施されています。信心決定とは驚天動地の摩訶不思議の体験ということではなく、南無阿弥陀仏の六字のすがたを心得たことに他なりません。この南無阿弥陀仏の六字のこころを知るために、宿善を求めよだとか、後生に驚きが立たねばならないとか、煩悩と戦って白道を進めだとか、三願転入せよとか、19願から始めなければならないなどという珍説は一切ありません。「南無(我にまかせよ)阿弥陀仏(必ず救う)」の仰せを計らい無く聞き受けて、仰せのままに後生おまかせするだけです。これが信心決定ということであり、私達が聞かなければならないことはこれだけだと言っても過言ではありません。

このようなことですから、信心を取る、信心決定するということはどれだけ難しいことかと躊躇し身構えてしまう人もあるかも知れませんが、ただ「汝を助けるぞ」の仰せをそのままお受けするだけです。なので、余計な詮索や先入観を捨てて、直ちに如来の仰せに順って往生を願って頂きたいと思います。


ところで、蓮如上人の上に「難度海を度する大船」とか、「大悲の願船」という文言が使われている箇所は今のところ見当たりません。また、

「大悲の願船に乗せられると同時に、私たちの苦しみの人生は、幸せな人生にガラリと変わります。」

だとかいう、この世私達の人生がどう変わるかについてはほとんど教えられていません。御文の方はどうかとしても、蓮如上人とは根本的に教えが異なるため、親鸞会教義は浄土真宗ではありません。アニメ映画『なぜ生きる』も、単なる親鸞会入門映画に過ぎないでしょう。比較するのもおかしな話ですが、あんなアニメを100回観るよりも、『御文章』を一通でも拝読した方が断然良いです。会員の皆さんには、ぜひとも間違った教えから離れて、お聖教に直に向き合い、南無阿弥陀仏の六字のすがたを心得て極楽往生を遂げて頂きたいと思います。
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(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


(しゃあ)
平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
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(スパム防止のため@を大文字にしてあります。メール送信時は小文字に変えて下さい。)

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