目に見えるものは不真実なもの、目に見えないものこそ真実

人員不足に加えて年度末のため、例年ではあり得ない物量をやっています・・・。単に物量が多いだけではなく、休み明けに出勤すれば、再配達の荷物すら回っていない状況。代わりに謝るのもいい加減イヤになりました。いつまでこんなことが続くのか・・・。

あのYマト様でさえ人員不足等を背景に運賃の値上げに踏み切ろうというのですから、うちも身の丈に合った集配をしてもらいたいものです。荷物を取るだけ取っても、運ぶ人がいないのですから、着かないだの時間通り来ないだのとクレームが増えることは誰の目にも明らかです。その内、バックレる奴や、心身の疲労から事故を起こす人間が更に増加するでしょう。自分はそうなりたくないですが、ならないとも言い切れません。それを見て見ぬふりなのか、全て現場まかせにする上の連中にはほとほと愛想が尽きます。


さて、『歎異抄』後序

煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、よろづのこと、みなもつてそらごとたはごと、まことあることなきに、ただ念仏のみぞまことにておはします

のお言葉についてこの前教えて頂いたので、今回はそれに自分が思ったことも含めて書きたいと思います。


私達は普通、目に見えるものこそ真実であり、目に見えないものなど虚構に過ぎないと否定することがままあると思います。だから死後の世界を否定したり、「仏様なんているの?」「目に見えない仏様をどうやって信じたらいいんだ?」という人もあるでしょう。ですから、この記事のタイトルを見て「は?」と思った方もあるかも知れません。

しかし、私達が見ているもの、人物も風景も物も、全てはやがて変化したり壊れたり、全く別のものになったりします。例えば、私を含めて家族も、同級生も、先生も、近所の方々も、面影はあるものの昔とは姿形が違っています。特に子供は赤ん坊の頃とは別人のようになっています。子供の成長の場合は良い意味ですが、病気を患った方などは悪い意味でその変化に驚いてしまいます。縁起でもありませんが、死人を目の前にすると、「これがこの前まで生きていた人か?」とびっくりするほど変わってしまいます。
また私の実家の方では、最近圏央道が出来まして、昔見ていた風景とは随分異なってしまいました。物では、この前携帯が壊れたと思ったら今度はレンジが壊れて買い直したり、色々なものが時節到来しております(泣) 中には壊れて買い直したばかりのパソコンやスマホでこの文章を読んでいる人もあるかも知れません。

こうして姿形が変化することもそうですが、私達は普段色々な人、モノを信じ、当てにして生きています。「まさか今日自分が死んだり、人を殺したりしないだろう」「今日も一日無事に過ごせるだろう」と信じています。働けば相応の対価を獲られると信じて働いています。自分や家族は世間を騒がすような悪いことはしないと信じて生活しています。荷物の再配達を頼んだ人であれば、指定した日時に荷物が来るだろうと信じているでしょう。他にも各人各様、程度の差こそあれ、何かを信じ、当てにして生きてます。

その信じる対象や、信じる自分の心は正しいでしょうか? 裏切らないでしょうか? 変わらないでしょうか?

今日死ぬつもりのない人が、事件や事故などで亡くなっています。給料や残業代の未払いで苦しんでいる人。事件や事故で人を傷つけたり殺したりして、当事者でなくとも家族や親せきというだけで叩かれている人。素行の悪い生徒ということで顔写真付きの資料がupされて心を痛めている人。荷物が指定通り届かなくて怒っている人。予算委員会なのにM学園追求委員会化して名前を挙げられ、答弁に困惑している人。それを見て落胆やら怒りやら、ため息しか出ない私達。「まさかこんなことになるとは・・・」ということばかりではないでしょうか?

時には、裏切るつもりがなくても結果的に裏切る、裏切られるということもあります。自分が気をつけていても、事件事故を起こしたり、巻き込まれたりする時はあります。また、自分の心が変わってしまって、それまで大切だと思っていたことがどうでもよくなってしまうこともあります。自分が昔収集したものなど、今からしたら無駄遣い以外の何物でもなかったなというものが多いです。あんなに好きだった人・物・事が、そうでもなくなったり、逆に嫌で仕方なくなったり・・・。誰しも経験済みと思います。

もうお気付きのことでしょうが、私達の目に見えるもので確かなもの、変わらないものは一つもありません。今私達が見ているこの眼ですら、やがては死んで焼いていくんですから、親鸞聖人の仰せの通り

よろづのこと、みなもつてそらごとたはごと、まことあることなき

です。変わってしまうんですから、目に見えるもので本当に当てになるものは一つもないということです。


それに対して阿弥陀さまは色も形もありません。ありませんから変わりません。変わらないから真実です。この真実が形を取り、声となって現れて下さったのが南無阿弥陀仏です。私を仏にせずは我も正覚ならじという願が成就して、既に私に届いているのが南無阿弥陀仏の六字の名号です。

果てしなく迷いを重ね、苦しみ続けてそこから離れ出ることが決してできない私を、迷いの世界から出させ、しかも仏にするというんですから、これほどたのもしく、たよりになるものはありません。それで、

ただ念仏のみぞまことにておはします

と仰るわけです。私の中に、迷いを離れてさとりを得るような因は全くありません。そんな者をさとらせる、仏にするというんですから、この世にないことです。世を超えています。ですから、

超世の悲願
超世稀有の正法


などと言われたりします。南無阿弥陀仏のことです。

目に見えるものが真実なのではなく、実は目に見えないものこそが真実であり、無上の宝です。この無上の宝である南無阿弥陀仏を教えているのが浄土真宗です。せっかく浄土真宗のお話を聞いていながら、この私を仏にするというおはたらきを信じられないでいる人は、宝の山に入っていながら何も手にしないで帰るようなものです。今、ここで、私の口から出ておられる「南無阿弥陀仏」こそが、我らが往生の定まりたる証拠。南無阿弥陀仏の他にまことはありません。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。
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「下の連中は、何を考えているのだろうか。」と思っているのでは、ないでしょうか。

>名無し様

恐らくそうでしょう。どうやら上層部、幹部になってしまうと、下の連中の気持ちというのは分からなくなってしまう、あるいは理解しようとしなくなってしまうようです。
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淳心房&しゃあ

Author:淳心房&しゃあ
(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


(しゃあ)
平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
singikensho@yahoo.co.jp
(スパム防止のため@を大文字にしてあります。メール送信時は小文字に変えて下さい。)

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