お天道様を見たら傘は要らない

浄土真宗の信心は自分で起こす信心ではありません。ではどうやって起きる信心かと言えば、阿弥陀さまより恵み与えられる信心、阿弥陀さまより起こされる信心です。阿弥陀さまより賜るので、信心獲得とか、信心を頂くと言われます。

ここで私達につまづきが生じます。信心獲得、信心を頂くという言葉の響きから、ついつい、何か物を貰うように確固たる信念のようなものが心に出来上がるように思ってしまいます。そして、信心を頂こう頂こう、どうしたら頂けるのかと、貰う事ばかり考えてしまいがちです。

しかし、そういうものが真宗の信心ではありません。南無阿弥陀仏の六字のこころ、すなわち「そなたを助けるぞ」の仰せを計らい無くそのまま聞き受け、阿弥陀さまの仰せの通りに後生をおまかせしたのが信心です。ですから、私の中には別段確固たる信念のようなもの、信心らしい信心というものはありません。信心といってもただ南無阿弥陀仏。南無阿弥陀仏の六字のすがたを心得る他に信心は無いのです。


こうして、阿弥陀仏の願いを聞き受け、願いの通り往生することが間違いなく定まったことを、『領解文』では

もろもろの雑行雑修自力のこころをふりすてて、一心に阿弥陀如来、われらが今度の一大事の後生、御たすけ候へとたのみまうして候ふ。 たのむ一念のとき、往生一定御たすけ治定と存じ

と言われています。

阿弥陀さまの「助けるぞ」の仰せを聞いて、仰せの通りに往生をおまかせした時が、もろもろの雑行雑修自力のこころが廃った時です。ここでもつまづきが生じがちですが、「ふりすてて」と書いてあるからとて、自分で捨てられるものではありません。あくまで如来の仰せを聞くところに自力が廃るのです。

このことについて、阿部信機先生は、「お天道様を見たら傘は要らない」と度々お話しされています。今日の天気は晴れだろうか、雨だろうか、念の為傘を持って出ようかと玄関をガラガラと開けると、空は雲一つない青天。その青空を見て、こんな邪魔なものは要らないなと傘を置いて出るように、「お前はこの迷いの世界を出られん者だ、そのお前をそのまま救い摂るぞ」という阿弥陀仏の願いが既に成就して私に働いていることが分かったら、こんな邪魔なものは要らないなと自力の計らいが廃るというのです。

これが逆に傘を置いたら空が晴れるかといったらそうではありません。青空を見て傘を置くわけです。本願を聞いて自力が廃るのです。自力を捨てようというのも自力、その自力を捨てようというのも自力です。そんなもの、自分が座っている座布団を持ち上げようとしているようなもので、いつまでたっても自分の力ではどうしようもありません。

決して迷いの世界を出られない者を必ず迷いの世から出離させ、仏にするぞという願は既に成就して、南無阿弥陀仏となって私に届いています。この真実なる誓願を疑い無く信楽したのが自力の廃った時、それが信心決定、信心獲得、他力信心です。ですから『御文章』には、

さてその他力の信心といふはいかやうなることぞといへば、ただ南無阿弥陀仏なり。この南無阿弥陀仏の六つの字のこころをくはしくしりたるが、すなはち他力信心のすがたなり。 (3帖目2通)

そもそも信心といふは、阿弥陀仏の本願のいはれをよく分別して、一心に弥陀に帰命するかたをもつて、他力の安心を決定すとは申すなり。されば南無阿弥陀仏の六字のいはれをよくこころえわけたるをもつて、信心決定の体とす。(3帖目7通)

等とありまして、南無阿弥陀仏の六字のこころをよく知りなさいと繰り返し繰り返し教えられるのです。

・因果の道理を執拗に説く
・往生のために廃悪修善を実践せよ
・真実の自己が知らされなければならない
・地獄必定の自己に驚き立たねばならない
・善のできない自分と知らされなければならない
・そのために精一杯善をせよ


などなど、このような教えは親鸞聖人、蓮如上人の上に見ることはできません。

前にも書いたように、浄土真宗に秘密の教えはありません。親鸞聖人の教えを一器の水を一器に移すように教えられたのが蓮如上人というなら、『御文章』に明記されている教えが親鸞聖人の教えです。

私達が聞かなければならないのは、南無阿弥陀仏の六字のこころです。この私を仏にせずば、我も正覚ならじと固く誓われた願が成就して常に私に働きかけていることが分かったなら、「どうしたら」「どうすれば」なんて心配や力みは無用。素直に後生は阿弥陀さまにおまかせです。この念仏の教えに遇うことができて本当に良かったです。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。
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おっしゃる通り٩(๑❛ᴗ❛๑)۶

いつも いつも 真実を明らかにしてくださって、ありがとうございます。
早く 親鸞会の会員さんが、条件付きのニセモノの教えから離れて、「お天道様」を見てくださるようにって 願います。
私も、「お天道様が出てるよ!」っていうことを ご縁のある方に お伝えしたいです。

南無阿弥陀仏

Re: RC様

コメントありがとうございます。

傘の置き方ばかり気にしてお天道様を見ない方が多いです。私もRCさんと同じ願いです。
南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。

初めてコメントさせていただきます。
更新されるたび、勉強させていただいています。ありがとうございます。
名号六字が完成している、ときいて「頂こう頂こう」とか「どうしたら頂けるのか」とばかり考えて、(というよりは、そうとしか考えられず)、その心理を経巡り続けていた少し前の頃の自分が思い返されてきました。
ほんとうにそうだったよなあ、と思います。解説ありがとうございます。
晴れていると知らせて下さったら傘は要らない。
阿弥陀様から見たら、わたしの往生は、微塵も間違いがない。
天気は、全くの晴れ、です。
ところが「晴れてますよ」と聞きながら、聞いているこっちは、全然晴れてない。「どこが一体、晴れてるんですか」「どうやったら晴れるんですか?」という聞き方になっていたなあ、と思います。(しまいには「晴れてるって、どこがじゃあ!」とか「どうやったら晴れるんじゃあ!」とか、思ってました。)
自分のほうから、晴れにしようとかかっても、なるもんじゃない。(だいたいが、これまで散々六道を巡ってきたであろう自分の業とか、順次生の後生とか、自分がどんだけの者かって…。わたしが私の身を案じるっていっても、どんだけの大事かとどんだけ分かっているやら。)
法蔵菩薩は、そのわたしを、五劫もの間、考えて下さっていた。そして、兆載永劫ご修行下さって、南無阿弥陀仏となって下さった。
計らいのレベルが、ケタ違いですね。
お慈悲は広くて深かった、と、知らせていただき、傘は要らなくなりました。
晴れていると聞いても、晴れているとはそうそう素直には思えない。だから晴れていないのはまずいと思って、何とかしなければ、と、あれこれやろうと、しかかる。そうしている間は、永久に晴れはやって来ない。
(そんなふうに思いますが、いかがでしょうか。間違っていたらすみません。)
晴れた身になりたい(というか、そうならなければマズい)と願いながら、そうなれない。今なにか足りないものがあって、それがあったら晴れた身になる=今は救われた身ではないけれど、いつかはそうなる、と微かな希望にすがりながらいたけれど、それも違う。晴れよう晴れようと、いくら励んでも、永遠にたどり着けない。晴れた天気に、晴れていない私が晴れようと立ち向かっても「晴れ」とは永遠に断絶している。
晴れたお慈悲がある、そこへこちらからたどり着こうとしても、永久にたどり着けない。これが私だ。 こうして求めているかぎり、永久に晴れはやって来ない。そこに何とか届きたい、届きたいともがいても、永遠にたどり着けない、ある種の絶望。もう自分は一生、これだ。なろうとしてもなれないのが自分だ。もう、あかん。こう思い至った時、「そのまま来い」の南無のお心が届きました。お前の往生、仕事は全部成し遂げてあるぞ、の「阿弥陀仏」。ようやく六字の心、分からせてもらいました。
他力が届いて自力が廃る、のではあるのでしょうが、自力にほとほと愛想が尽きて、尽き切ったところに他力が届いた、という感覚も、あります。(そう表現してもあながち間違い、ではなく、自分の心境変化として)。(この点についても、いかがでしょうか。信前の過程は、最大公約数的なものは仮にあるとしても、一人一人違う、のかもしれません。)
わたくしも、わたくし自身の検証の一環として、もっと勉強しようと思います。)
長文失礼致しました。

わいるどひっぷ

Re: わいるどひっぷ様

コメントありがとうございます。わいるどひっぷさんの投稿文、あさ川さんのブログで読ませて頂きました。本願力にお遇いできたようで何よりです。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。

さて、

> 他力が届いて自力が廃る、のではあるのでしょうが、自力にほとほと愛想が尽きて、尽き切ったところに他力が届いた、という感覚も、あります。(そう表現してもあながち間違い、ではなく、自分の心境変化として)。(この点についても、いかがでしょうか。信前の過程は、最大公約数的なものは仮にあるとしても、一人一人違う、のかもしれません。)

というお尋ねの件についてですが、あくまで感覚の話なので、わいるどひっぷさんの感覚が正しいとか間違いとかということは私には申し上げることはできません。恐らく順番の問題かと・・・。機法二種の深信は一具なので、一つには、二つにはとあっても時間的な順番はありません。他力が届いて無有出離之縁と自力が廃った、無有出離の縁と自力が廃って他力に乗じた、表現は違っても同じ事です。ただ間違ってはならないのは、自力が廃ったのは自分の力ではなくあくまで他力によってだということです。ここさえ心得違いしなければよいと思います。


>南無阿弥陀仏。
だから、言ってたでしょう。最初から、わたしが全部用意してあるのだから、任せなさいよ。
阿弥陀仏のお呼び声、とは、このことだったか。
南無阿弥陀仏。
お任せします。
南無阿弥陀仏。
わたしで何か作るものではありませんでした。
南無阿弥陀仏。
任せなさい、とおっしゃるから、お任せします。来い、とおっしゃるから、「はい」と言うだけです。
南無阿弥陀仏。

http://blog.livedoor.jp/skai_as/archives/49231043.html
【投稿文】わいるどひっぷの投稿文:埼玉慧日会に寄せて③  より引用

と御自身で仰っているように、南無阿弥陀仏がはたらいていることが分かって、五劫兆載永劫の願行が届いて摂取されたのです。自力が廃ったのです。如来が先手で、私は如来の先手の一手で救いの網にひっ捕らえられてしまったのです。

今までは私が何か手を打たねばと如来の御手を邪魔していたのです。だから本願力が届いていながらそれを撥ね付けていたのです。ところが如来のお慈悲をよくよく聞いてみれば、「まかせてくれよ」と仰せであった。私は何もせずただおまかせするだけであったと知らされて「こんな邪魔なものは要らないな」と計らいが廃ったのです。

こうした「本願力回向」さえ間違えなければ、ぶっちゃけ細かいところはどうでもよろしいでしょう(^-^;
本願を疑い無く信じ念仏して、往生を願うだけです。

Re:

早速のご返信ありがとうございます。
南無阿弥陀仏が「たのめ任せよ、必ず助ける」の仰せである、そうと聞くからには、わたしはただ、お任せするだけ、
如来が先手、晴れのお慈悲を聞いて晴れる。
本願力回向、言葉の上からの理解が、体をもってと言いますか、より深まったように思いました。
ご教示ありがとうございます。
南無阿弥陀仏

わいるどひっぷ
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淳心房&しゃあ

Author:淳心房&しゃあ
(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


(しゃあ)
平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
singikensho@yahoo.co.jp
(スパム防止のため@を大文字にしてあります。メール送信時は小文字に変えて下さい。)

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