蓋(ふた)

私は仕事柄、配達の際にお客さんに印鑑を押してもらいます。ですがこの前、とあるお客さん宅で印鑑を求めたところ、いくら強く押しても印影が出ないということがありました。原因は、

蓋をしたまま印鑑を押していたから

でした。そりゃあそうですよねー(;^ω^) 最近のシャチハタは100均のでもきれいに印影が映るのですが、さすがに蓋をしていたら紙に印は映りません罠・・・


これで思い出されたのが、『信文類』

あきらかに知んぬ、至心は、すなはちこれ真実誠種の心なるがゆゑに、疑蓋雑はることなきなり。
信楽は、すなはちこれ真実誠満の心なり、極成用重の心なり、審験宣忠の心なり、欲願愛悦の心なり、歓喜賀慶の心なるがゆゑに、疑蓋雑はることなきなり。
欲生は、すなはちこれ願楽覚知の心なり、成作為興の心なり。大悲回向の心なるがゆゑに、疑蓋雑はることなきなり。


【現代語訳】
明らかに知ることができる。「至心」とは、虚偽を離れさとりに至る種となる心(真実誠種の心)であるから、疑いのまじることはない。
「信楽」とは、仏の真実の智慧が衆生に入り満ちた心(真実誠満の心)であり、この上ない功徳を成就した本願の名号を信用し重んじる心(極成用重の心)であり、二心なく阿弥陀仏を信じる心(審験宣忠の心)であり、往生が決成してよろこぶ心(欲願愛悦の心)であり、よろこびに満ちあふれた心(歓喜賀慶の心)であるから、疑いがまじることはない。
「欲生」とは、往生は間違いないとわかる心(願楽覚知の心)であり、往生成仏して衆生を救うはたらきをおこそうとする心(成作為興の心)である。これらはすべて如来より回向された心であるから、疑いがまじることはない。


のお言葉です。親鸞聖人は本願を疑う心を疑蓋、うたがいのふたと表現されています。本願力は私達衆生を迷いの世界から出離させ、往生成仏させようと常にはたらきかけているのですが、衆生の方でこれを疑うから生死にとどまるというのです。器にお茶を注ごうとしても蓋がしてあればどれだけ注いでも器にお茶は入らないように、どれだけ本願力がはたらいていても疑いの蓋が邪魔をしていたら往生はかないません。

ただ器の蓋は自分で自由に取れますが、疑いの蓋は自分で取ることはできません。如来の仰せを聞くところに取り去られます。「そなたを往生成仏する手はずは既に整えたから、どうか私にまかせてくれ」と、十劫の昔から喚び続けられている本願招喚の勅命に、そのまま「はい」と順うばかりです。「お前は迷いの世を出られん者だ、そのお前を迷いの世界から出させ、仏にするぞ」という誓いが私にはたらいていることが分かったら、こんな邪魔なものは要らないなと疑いの蓋が取れるのです。

聖者や善人ならいざ知らず、末代不善の凡夫、五障三従の女人である私達には、本願力に乗ずるより他にこの迷いの世界を出る手立てはありません。どうか本願招喚の勅命、なんまんだぶをそのまま聞き受け念仏し、往生を遂げて頂きたいばかりです。「助けすぞよ」を聞くのがすなわち信です。「助けるぞよ」を聞くことの他に信心はありません。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。


【参照】
WikiArc - 疑情
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淳心房&しゃあ

Author:淳心房&しゃあ
(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


(しゃあ)
平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
singikensho@yahoo.co.jp
(スパム防止のため@を大文字にしてあります。メール送信時は小文字に変えて下さい。)

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