高森会長が無常観と罪悪観を強調する理由

『飛雲』無常観と罪悪観を強調するのは土蔵秘事と同じ信心

を読んでなるほどと思いました。確かに親鸞聖人も蓮如上人も、親鸞会のように無常観や罪悪観を強調されてはいません。蓮如上人は罪悪について、以下のように教えられています。

一 順誓申しあげられ候ふ。一念発起のところにて、罪みな消滅して正定聚不退の位に定まると、御文にあそばされたり。しかるに罪はいのちのあるあひだ、罪もあるべしと仰せ候ふ。御文と別にきこえまうし候ふやと、申しあげ候ふとき、仰せに、一念のところにて罪みな消えてとあるは、一念の信力にて往生定まるときは、罪はさはりともならず、されば無き分なり。命の娑婆にあらんかぎりは、罪は尽きざるなり。順誓は、はや悟りて罪はなきかや。聖教には「一念のところにて罪消えて」とあるなりと仰せられ候ふ。罪のあるなしの沙汰をせんよりは、信心を取りたるか取らざるかの沙汰をいくたびもいくたびもよし。罪消えて御たすけあらんとも、罪消えずして御たすけあるべしとも、弥陀の御はからひなり、われとしてはからふべからず。ただ信心肝要なり と、くれぐれ仰せられ候ふなり。(『御一代記聞書』35)

 順誓が蓮如上人に、「信心がおこったそのとき、罪がすべて消えて往生成仏すべき身に定まると、上人は御文章にお示しになっておられます。けれども、ただいま上人は、命のある限り罪はなくならないと仰せになりました。御文章のお示しとは違うように聞こえますが、どのように受けとめたらよいのでしょうか」と申しあげました。
すると上人は、「信心がおこったそのとき、罪がすべてみな消えるというのは、信心の力によって、往生が定まったときには罪があっても往生のさまたげとならないのであり、だから、罪はないのと同じだという意味である。しかし、この世に命のある限り、罪は尽きない。順誓は、すでにさとりを開いて罪というものはないのか。そんなことはないだろう。こういうわけだから、お聖教には、<信心がおこったそのとき、罪が消える>とあるのである」とお答えになりました。
そして、「罪があるかないかを論じるよりは、信心を得ているか得ていないかを何度でも問題にするがよい。罪が消えてお救いくださるのであろうとも、罪が消えないままでお救いくださのであろうとも、それは弥陀のおはからいであって、わたしたちが思いはからうべきことではない。ただ信心をいただくことこそが大切なのである」と、繰り返し繰り返し仰せになりました。


一部、親鸞会発行『教学聖典』に載っている文章がありますので、会員さんにも馴染みがあると思います。罪が消えて救われるのか、消えないままで救われるのかは阿弥陀さまのお計らいであって、私達が計らうべきことではありません。ですからただ阿弥陀さまのお計らいにまかせること、信心を頂くことこそが大事なのです。このようなことですから、罪悪の有無よりも信心の有無を論じなさいと教えられています。
大事なのは罪が有るか無いかではなく、阿弥陀さまのお計らいにおまかせしたかどうか、すなわち信心が有るか無いかですから、別の箇所では以下のように教えられています。

一 仰せに、一念発起の義、往生は決定なり。罪消して助けたまはんとも、罪消さずしてたすけたまはんとも、弥陀如来の御はからひなり。罪の沙汰無益なり。たのむ衆生を本とたすけたまふことなりと仰せられ候ふなり。 (『御一代記聞書』39)

 「信心がおこるということは、往生がたしかに定まるということである。罪を消してお救いくださるのであろうとも、罪を消さずにお救いくださるのであろうとも、それは弥陀如来のおはからいである。わたくしたちが罪についてあれこれいうことは無意味なことである。弥陀は、信じておまかせする衆生をもとよりめあてとしてお救いくださるのである」と、蓮如上人は仰せになりました。

先に出したお言葉を簡潔にしたようなお言葉ですね。
私達がたとえどのような重い罪悪を抱えていても、阿弥陀さまの願力は無窮ですから本願を信じおまかせして念仏する衆生を決してお捨てになりません。ですから、蓮如上人はひたすら信心獲得を勧められています。私達が身口意の三業で普段どのような悪を造っているかとか、真実の自己は逆謗の屍なんだとか、罪悪を突き詰めるようなことは教えられていません。罪悪の有無を論じるより信心を得たかどうかが大事ですから、こちらでは「罪の沙汰無益なり」とまで仰っています。
対して親鸞会では、蓮如上人とは真逆で、無常と罪悪をやたらと強調してきます。特に私が学生の頃は来る日も来る日も無常と罪悪、地獄の強調。新勧合宿ではまるで煽ってくるかのようでした。一応言葉の上では信心獲得を勧めているかのように見えますが、信心獲得とは南無阿弥陀仏の六字のすがたを心得ることに他なりませんから、これを正しく説かないようでは信心獲得を勧めていないのと同じです。やれ因果の道理だとか、廃悪修善だとか、三願転入せよとか、19願から始めよとか、宿善を求めよだとか、こんなことばっかり説いていても浄土真宗の教えを説いたことにはならないのです。


高森会長が無常観と罪悪観を強調するのは、一つにはやはり出身母体の浄土真宗華光会の影響が大きいと思われます。例えば、『念仏の雄叫び』(増井悟朗師)には、

総じて昔は、生活感情の中に、無常観、罪悪観が自然にそなわっていた。魚を食べるというのは殺生だと教えられ、そしてそう信じられていた。それが今日はどうですか。おれがおれがの自己主張が当然の時代では、無常観も罪悪観も、薬にしたくてもない時代ではありませんか。だから現代では、仏法に入ろうとすれば、無常観と罪悪観から入らねばならないんです。もちろん、昔の人でも、信じなかった人は大勢いたでしょう。しかし、現代は、教育をはじめ、世の中の考え方がまるで違っているのです。それで、人生は、いつまでも続かぬぞ、また自分が善い善いと思っているのはまちがいで、あさましいんだぞ、という無常観・罪悪観からスタートするしかないんだと思いますね。(p.9)

とあります。この増井悟朗師の説を否定するつもりはありませんが、こうした華光会の流れを受けて、親鸞会では無常と罪悪を突き詰める機責めのような話が多いのだと思います。
また、高森会長自身の入信の過程も色濃く影響していると推測されます。同じく『念仏の雄叫び』には、

彼は、私から手渡されていた恩師の入信体験記『仏敵』にかじりついて、無常観、罪悪観をつき進めて、ついに獲信したようでありました。(p.15)

とあります。本文中の「彼」とは、T君と書かれていますが、高森会長のことでしょう。

『さよなら親鸞会』高森顕徹氏の嘘つき信心

にある、高森会長が書いたとされる獲信の記録にも、『仏敵』を借りたなど共通する記述が見られます。実際に高森会長がどのようなことをして、どのような心境の変化を辿って獲信の記録にあるような境地に至ったかは定かではありませんが、増井師の憶測も当たらずとも遠からずといったところでしょう。

そして、無常と罪悪の話は比較的分かりやすく、かつ組織拡大要員を効率よく生産し稼働することができるという点がやはり一番かと思います。私が親鸞会に在籍し求めていた理由も、親鸞会で説かれる人間の実相部分の話が真実であり、この無常と罪悪の問題を解決しなければ本当の幸せにはなれないと思ったからでした。今日明日にも訪れるかもしれない無常と、日々造りに造り続けている罪悪を強調して聞く者を煽り、その解決には善をせよと献金、勧誘、無条件服従を勧めて組織拡大を図っているのです。

親鸞会、高森会長の問題点は、救いの法、南無阿弥陀仏の六字のすがたをを正しく説かないところにあります。浄土真宗の救いとは無関係なことばかり勧めて、阿弥陀さまのお計らいにおまかせさせないようにしているところにあります。平生業成、現生不退、不体失往生と言いながら会員の皆さんがいつまでもその身になれないのは、高森会長が正しい浄土真宗の救いを説いてないからです。初めて仏法を聞かれるような人には無常と罪悪についてもお話する必要があるかも知れませんが、既にそんな話ばかり聞かされて機責め状態にあるような会員の皆さんにはもう十分でしょう。それよりも、早く南無阿弥陀仏の六字のすがたをよく聞いて信心獲得なさって下さい。親鸞会で聞けないならば、他に聞ける方を、書いてある本を、音声や動画を探して下さい。真実が説かれているのは親鸞会だけだなどという先入観は捨てて、早く大いなる慈悲の誓願を信じおまかせして頂きたいと願います。
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無常観と罪悪観

高森親鸞会でいう無常観とか罪悪観は、仏教でいう観法としてではなく、無常感とか罪悪感という感情や気分のことでしょうね。

要するに、無常とか罪悪という言葉でもって人を動かすモチベーション(動機づけ)として使っているだけでしょう。
御開山は、三毒の貪欲・瞋恚・愚痴のそれぞれに対する観法としして『涅槃経』の、

 もろもろの凡夫の病を知るに三種あり。一つには貪欲、二つには瞋恚、三つには愚痴なり。貪欲の病には教へて骨相を観ぜしむ。瞋恚の病には慈悲の相を観ぜしむ。愚痴の病には十二縁相を観ぜしむ。(化巻 P.410)

の文を引文されておられますが、この観を教えるのには。教える相手の気質に応じて説くのであり、間違えてはとんでもないことになるといわれます。たとえば、瞋恚の心の激しいものに骨相観を教えると何をしでかすか判らないようなものです。
ともあれ、高森親鸞会では仏教語らしき語を使い、まったく仏教と違うことを教えているので困ったものですね。

なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ

Re: 林遊@なんまんだぶ様

> 高森親鸞会でいう無常観とか罪悪観は、仏教でいう観法としてではなく、無常感とか罪悪感という感情や気分のことでしょうね。

まったく仰る通りです。無常や罪悪の話をすることで、聞く者に後生、地獄への恐怖心を植え付けます。そして、そこから逃れたい、幸せになりたいという感情を原動力として活動へと誘うわけです。

高森顕徹会長にとっては浄土真宗も親鸞聖人もどうでもよろしく、私利私欲が満たせればいいのでしょう。巻き込まれる人が少しでも少なくなるよう、微力ながら訴え続けていきます。

No title

このブログは親鸞会を非難する者達のマスターベーションの場を化していますな。
それも結構。お互い傷をなめ合う事も大事だもんね。

No title

>このブログは親鸞会を非難する者達のマスターベーションの場を化していますな。

あなたのコメントは、退会者を非難するだけのマスターベーションそのものですな。

>それも結構。お互い傷をなめ合う事も大事だもんね。

教義の反論は、絶対にできないので、自分で自分の傷を舐めることしかできないのですね。
親鸞会の中でも浮いているし、寂しい人生ですね。

コメント返信

名無し様
ONE様

飛雲にあるように、最近は法論に負け続けて程度の低いコメントが増えてきましたね。
それと、質問を繰り返したり、こちらの質問には答えないのは、従来の親鸞会のやり方そのものです。それは法論しても勝ち目がないことの表れですし、親鸞会側の教義的・人間的な程度の低さを露呈するだけです。何より親鸞会は勝他のための議論、負けていないことを装う議論ばかりで、本当の親鸞聖人の教えを伝えて信ぜしめる気持ちがカケラもないことがよく伝わってきます。
ONEさんには下らないコメントに付き合って下さり重ねて感謝いたします。
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淳心房&しゃあ

Author:淳心房&しゃあ
(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


(しゃあ)
平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
singikensho@yahoo.co.jp
(スパム防止のため@を大文字にしてあります。メール送信時は小文字に変えて下さい。)

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