仏願の生起・本末は、真実が説かれている、信後のことが書かれている、18願について教えられている『信巻』に説かれています

【お知らせ】平成29年、親鸞会の降誕会について

にて、仏願の生起・本末について触れたところ質問を頂いたのでお答えします。

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「仏願の本」が「阿弥陀仏(法蔵菩薩)が発願し修行されたこと」であるという事を仰っている聖教上の根拠と
「仏願の末」が「五劫思惟、永劫の修行を経て十劫のいにしえに本願が成就し、私にはたらいているということ」であるという事を仰っている聖教上の根拠を教えて頂けないでしょうか?

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親鸞聖人が仏願の生起・本末について教えられている箇所は何箇所かあり、親鸞会でも用いられる根拠では『信文類』至心釈

一切の群生海、無始よりこのかた乃至今日今時に至るまで、穢悪汚染にして清浄の心なし、虚仮諂偽にして真実の心なし。ここをもつて如来、一切苦悩の衆生海を悲憫して、不可思議兆載永劫において、菩薩の行を行じたまひしとき、三業の所修、一念一刹那も清浄ならざることなし、真心ならざることなし。如来、清浄の真心をもつて、円融無碍不可思議不可称不可説の至徳を成就したまへり。如来の至心をもつて、諸有の一切煩悩悪業邪智の群生海に回施したまへり。

すべての衆生は、はかり知れない昔から今日この時にいたるまで、煩悩に汚れて清らかな心がなく、いつわりへつらうばかりでまことの心がない。そこで、阿弥陀仏は、苦しみ悩むすべての衆生を哀れんで、はかり知ることができない長い間菩薩の行を修められたときに、その身・口・意の三業に修められた行はみな、ほんの一瞬の間も清らかでなかったことがなく、まことの心でなかったことがない。如来は、この清らかなまことの心をもって、すべての功徳が一つに融けあっていて、思いはかることも、たたえ尽すことも、説き尽すこともできない、この上ない智慧の徳を成就された。如来の成就されたこの至心、すなわちまことの心を、煩悩にまみれ悪い行いや誤ったはからいしかないすべての衆生に施し与えられたのである。

です。過去の記憶によりますと、親鸞会の講師試験において、

親鸞聖人が仏願の生起について教えられたお言葉と根拠を示せ。

というような問題があって、その答えが上に挙げたお言葉の内、

一切の群生海、無始よりこのかた乃至今日今時に至るまで、穢悪汚染にして清浄の心なし、虚仮諂偽にして真実の心なし。(教行信証信巻)

だったかと思います。

至心釈のこのお言葉は、灘本愛慈師によりますと

一切の群生海、無始よりこのかた乃至今日今時に至るまで、穢悪汚染にして清浄の心なし、虚仮諂偽にして真実の心なし。

というのが仏願の「生起」、

ここをもつて如来、一切苦悩の衆生海を悲憫して、不可思議兆載永劫において、菩薩の行を行じたまひしとき、三業の所修、一念一刹那も清浄ならざることなし、真心ならざることなし。

というのが仏願の「本」、

如来、清浄の真心をもつて、円融無碍不可思議不可称不可説の至徳を成就したまへり。

等というのが仏願の「末」であるとお示しです。


同様に『信文類』信楽釈

しかるに無始よりこのかた、一切群生海、無明海に流転し、諸有輪に沈迷し、衆苦輪に繋縛せられて、清浄の信楽なし、法爾として真実の信楽なし。ここをもつて無上の功徳値遇しがたく、最勝の浄信獲得しがたし。一切凡小、一切時のうちに、貪愛の心つねによく善心を汚し、瞋憎の心つねによく法財を焼く。急作急修して頭燃を灸ふがごとくすれども、すべて雑毒雑修の善と名づく。また虚仮諂偽の行と名づく。真実の業と名づけざるなり。この虚仮雑毒の善をもつて無量光明土に生ぜんと欲する、これかならず不可なり。なにをもつてのゆゑに、まさしく如来、菩薩の行を行じたまひしとき、三業の所修、乃至一念一刹那も疑蓋雑はることなきによりてなり。この心はすなはち如来の大悲心なるがゆゑに、かならず報土の正定の因となる。如来、苦悩の群生海を悲憐して、無碍広大の浄信をもつて諸有海に回施したまへり。

『信文類』欲生釈

しかるに微塵界の有情、煩悩海に流転し、生死海に漂没して、真実の回向心なし、清浄の回向心なし。このゆゑに如来、一切苦悩の群生海を矜哀して、菩薩の行を行じたまひしとき、三業の所修、乃至一念一刹那も、回向心を首として大悲心を成就することを得たまへるがゆゑに、利他真実の欲生心をもつて諸有海に回施したまへり。

も、仏願の生起・本末について教えられています。いずれもいずれも、迷界を出ることのできない私どものために(生起)、大悲の誓願を起こして永劫に修行せられ(本)、遂に十劫のいにしえに果成の阿弥陀仏となって、現に私どもを救いつつある(末)、ということです。


ちなみに大江山さんが仰っているように、

仏願の生起・本末」=「其名号」=「十七願の名号」

です。無量寿仏の威神功徳の不可思議なるを聞く、すなわち南無阿弥陀仏のいわれを聞くのであって、19願や20願のことを聞くのではありません。親鸞会でも

・『教行信証』前五巻には真実が、化土巻には方便が説かれている
・『教行信証』前五巻は信後のことが、化土巻は信前のことが書かれている


などと言うでしょう。では

仏願の生起・本末が説かれているのは何巻ですか?

と質問してみては如何でしょうか? そうです、真実が説かれている、信後のことが書かれている、18願について教えられている『信巻』です。方便であり、信前である19願や20願は関係ないでしょう? また、逆に

高森会長以外で、『仏願の生起・本末の「」が19願20願のことだ』なんてどの真宗学者が言っているんですか?

と聞いてみるのもいいかも知れません。それにしても、『教行証文類』すらまともに読んでいない高森会長や会員に、「一切経全てを読んだこともないのになぜ断言できるのか?」なんて言われたくないですけどね。

親鸞会会員にとっては「高森会長の言葉」が絶対であり、それ以外は忌み嫌う傾向にありますので対話は難しいかとは思いますが、その難しいことに挑戦されていることに感服いたします。分かって頂けたらいいですね。

最後に、コメントを下さったはるばるさん、大江山さん、ありがとうございました。


【参照】
『安心論題』(1)聞信義相
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前エントリーで質問した名無しです。
ご回答、有難うございました。

やっぱり、機無・円成・回施 で話するしかないんですね。
会員相手では、内容で判断できるものであっても、直接「仏願の本末」とはかかれてないので、受け付けない可能性がたかいです。
「なんでこれが仏願の本末の根拠になるの?、誰がそんな事言ってるの?」みたいに逆質問してきて話が全く前に進みません。

「高森会長以外で、『仏願の生起・本末の「末」が19願20願のことだ』なんてどの真宗学者が言っているんですか?」と言っても、誰も言っていなくても、高森会長が言う事が正しい、と言うでしょうね。

他の真宗学者のほとんどが上記の様に説明
していると言っても、「どうしてそれが正しいと言えるのか?」って言われます。
じゃあ、なぜ高森会長の言う事が正しいと言えるのか?なんですけど、そう言っても全く響かず受け付けないんですよね。

淳信房さんが仰るように、「高森会長の言葉」が絶対で、それ以外は忌み嫌う傾向にありますので対話は本当に難しいです。

でも、家族の為なんで、なんとか頑張ります!



No title

「仏願」ですから、17願・18願のことを指すのは、普通に考えると納得できる筈です。19願や20願のことを含めてという理屈自体が、どこに根拠があるのかという話です。
17願・18願の名号の本末なら、何も疑問がでないです。捻くれ解釈を無理やり考え出さないと19願・20願がでてきようがないです。

至心釈・信楽釈・欲生我国釈共に、「疑蓋雑はることなし」となり、「疑心あることなし」と同じです。

これ以上の説明は不要です。

文法もへったくれもあるか、不可称不可説不可思議だ、と誤魔化すのが会長・講師・会員の精一杯でしょう。
プロフィール

淳心房&しゃあ

Author:淳心房&しゃあ
(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


(しゃあ)
平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
singikensho@yahoo.co.jp
(スパム防止のため@を大文字にしてあります。メール送信時は小文字に変えて下さい。)

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