「高森顕徹会長の意に迎合するだけのオベッカ者にすぎない」のが親鸞会の会員

テストとかメンタルテストと聞いて思い出されるのが、『光に向かって123のこころのタネ』第101話

正直を試される

という話です。文中に「甲斐守も阿波守も、主君の意に迎合するだけのオベッカ者にすぎない」とありますが、

高森顕徹会長の意に迎合するだけのオベッカ者にすぎない

のが親鸞会の会員です。そうすることが出世の肝要といち早く気づいて会長や息子に取り入り迎合した者達の一握りが幹部となり、支配する側になります。逆に迎合できない者、意見する者は責められ、叩かれ、果ては除名されます。「ものを言え」と言いながら、実際にものを言うとその正直さが仇となる、酷い団体です。

清森義行氏の除名の真相(1)
投稿:ある特専部員の除名の真相(前編)

などを読めば、自分達の意に迎合しない者達をどうするのが親鸞会なのかお判りでしょう。

会の中では、高森会長が「これは黒豆だ」と言えば、たとえ這っていても「這っても黒豆なんだ」と言わねばなりません。そしてそれを聞いている者も、疑問を持ちながらも「這う黒豆なんだ」と思い込む、思うようにする。これが親鸞会の会員です。そのようにマインドコントロールされている、しかもそれがマインドコントロールされているとは思わない、実に哀れな方々です。どうしてそうなってしまうのか。無常と罪悪にせめ立てられて、正常な思考能力を失い、見捨てられたら助かる術が無いと思い込んでいるからです。無常と罪悪をやたらと強調してくるのは、正常な思考判断能力を奪い、組織拡大要員として効率よく利用・搾取するためでしょう。間違っても「私達一人一人の後生を案じて・・・」などと夢見ていないことです。


何事も高森顕徹会長の言葉を鵜呑みにし、正しいと信じ込んでしまうのが親鸞会の会員ですが、信心決定を体験としか思えないのも間違った教えのせいです。信心決定とは、本願の名号のいわれを聞いて疑い無いこと、南無阿弥陀仏のすがたを心得ることであって、地獄に堕ちてそこから救われるといったような摩訶不思議な神秘的体験のことではありません。

・「聞其名号」といふは、本願の名号をきくとのたまへるなり。きくといふは、本願をききて疑ふこころなきを「聞」といふなり。またきくといふは、信心をあらはす御のりなり。(一念多念証文)
・「聞名念我」といふは、「聞」はきくといふ、信心をあらはす御のりなり。「名」は御なと申すなり、如来のちかひの名号なり。「念我」と申すは、ちかひの御なを憶念せよとなり、諸仏称名の悲願(第十七願)にあらはせり。憶念は、信心をえたるひとは疑なきゆゑに本願をつねにおもひいづるこころのたえぬをいふなり。(唯信鈔文意)
・信心獲得すといふは第十八の願をこころうるなり。この願をこころうるといふは、南無阿弥陀仏のすがたをこころうるなり。(御文章)


私から阿弥陀仏へ、「助けて下さい」という祈願請求する思い、すなわち自力の心が廃り、「まかせてくれよ」というお言葉通りに往生をおまかせしたこと、本願のお言葉をそのまま受け容れたことを信心決定とか、信心獲得というのです。それは過去、何月何日の何時頃の体験ということではなく、また本願を聞き受けた信一念に限定されるものでもありません。現在只今のことです。

入信までの過程は一人一人異なります。どんな話が自分に刺さったか。どのように心境が変化していったか。いつ、何をしている時に獲信したか。自分が何歳の時か。聴聞している時か。おつとめの最中か。仕事をしている時か。寝て起きた時か。一人の時か。大勢の人がいる時か。獲信の瞬間にどんな体験をしたか。信一念をハッキリ覚えているか・・・。こういったことは、その表現方法も含めて人それぞれです。

「お坊さまの一言一言が、私の腹にピシッピシッとこたえました」
「もうこれ以上堕ちるところがないというところまで堕ちてゆきました」
「その地獄の底で生きた阿弥陀仏とお値いすることができました」

とか、こんなのは個人の体験であって万人に通ずるものではありません。一人一人業が違いますから、同じになりっこないのです。この人にこたえたという説教が私にこたえるかは分かりません。堕ちるとか地獄といっても、私が想像している地獄と、皆さんが想像している地獄はきっと違うでしょう。冷たく昏い世界なのか、紅蓮の炎に包まれたような世界なのか、恐ろしい怪物や毒虫等がうじゃうじゃいる世界なのか。はたまた全く別の世界なのか。一人一人異なるでしょうし、そしていずれも、きっと私が死んで実際に堕ちる地獄とは違うのです。阿弥陀仏とお値いするといっても、それはその人が思い描いた阿弥陀さまです。本物の阿弥陀さまは色も形もありません。音もにおいもありません。仏像や絵像のような姿をしておられるのかは分かりません。こういった体験談は、阿弥陀仏に救われるということがあるという励みにはなっても、それ以上参考にはなりません。詳細に聞いて真似たから獲信できるとか、そういったものではないのです。

それと、信心決定を信一念に限定するのでは過去の体験、心境をたのむことになってしまいます。一念の覚、不覚も必ず問題になります。一念の時を覚えていなければ救われていないという邪義も出てくるでしょう。こんなのは問題ではありません。過去にどんな体験をしたかとか、一念の時を覚えているかどうかが問題なのではなく、現在「助けるぞ」の仰せを仰せのままに受け容れているかどうかが問題なのです。

ところが高森顕徹会長は信心決定ということについてどう教えているでしょうか?

現在只今、苦悩渦巻く人生を光明輝く生活の出来るようにしてやろう、というお約束です。
(『こんなことが知りたい①』p.32)

とか現世利益をちらつかせてカモを釣り、

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 では、どうしたら自力が廃るのか。これは説明を聞いて判るものでもなければ、自ら捨てようと思って廃るものでもありません。先ず、自ら善知識を求めて真剣に聞法しなければなりません。そして、払っても払っても、後から後から現われ、奪えるだけ奪っても、なお心の底にこびりつく自力の心に悲泣悶絶、求道聞法の絶壁に行きづまり、曠劫流転の逆謗の屍を如来の前に投げ出す体験を通らなければ廃りません。(『こんなことが知りたい①』p.110~p.111)

 信じたのも知ったのも、学問も修養もすべて間に合わず、堕ちるも助かるも判らぬ心一つが業に引かされて、地獄は一定すみかぞかしと、無間のドン底に叩き堕とされた時(機の深信)、
自力無功と他力不思議とは同時に働き、信心歓喜、歓喜踊躍とおどり上がり、阿弥陀さまこうまでして下さらなければ聞かない、しぶとい私でございました。(法の深信)
 どうしてこの御恩に報いようかと泣くより外にないのです。
(『こんなことが知りたい③』p.128~p.129)
********************

などと、一度は地獄のずんどこに突き堕とされて、そこからこの上ない喜びの身に救われるような体験を信心決定と思わせ、アニメにまでして「一念の体験」とやらを強調しています。こうした高森会長の教え、アニメを真実だと思っている間は、そういった体験をしなければ信心決定ではないと思う他ないでしょう。ところが七高僧方も、親鸞聖人、覚如上人、蓮如上人も、こんな体験が信心決定だとか、捨自帰他の際には必ずこのような体験をするなどとは一言も仰ってはいないのです。

「笑わば笑え、そしらば謗れ。真実の信心は三業で判断できないのだから」と自分が救われている体験があるがゆえに悠然と構え・・・

こんなことを言っているのは、邪義を真に受けて、正しい親鸞聖人の教えを知らない証拠です。コメントも頂いていますが、まさに体験至上主義です。会員の皆様には、マインドコントロールから解き放たれ、信心決定を摩訶不思議な体験という観念は捨てて、南無阿弥陀仏のおこころを素直に頂いてもらいたいと願うばかりです。



ちなみに一万年堂出版発行の書物については大沼法竜師からの盗用が数多く散見されます。まだ確認できてはいませんが、当エントリーで紹介した話も大沼師からの盗用である可能性が高いです。

【参照】
大沼法龍師の言葉
信心決定とは
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淳心房&しゃあ

Author:淳心房&しゃあ
(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


(しゃあ)
平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
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(スパム防止のため@を大文字にしてあります。メール送信時は小文字に変えて下さい。)

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