親鸞会会員の誤解―高森会長は51段目の位にいる(3)

親鸞会では度々、

もし自分の考え、思いが正しいのなら、仏法なんか聞く必要はない。自分の思う通りにやっていけばいい。それで幸せになれる。ところが実際思い通りに生きているような人でも、「私ほどの幸せ者はありません」と喜んでいる人はいない。それどころか、「四方八方眺むれど、ただ愁嘆の声のみを聞く」と言われるように苦しみ、憂い、嘆きの声ばかりが聞こえてくる。その原因と解決の道、全人類が本当の幸せになれるたった一本の道を仏法は教えている。だから聞かなければならない。
仏法には真実が説かれている。真実は、私達が納得できるできない、正しいと思える思えないは関係ない。納得できるからやる、納得できないからやらない、というのは世間の考え。それでは仏法は聞かれない。善知識方は、私達が人生の目的を果たし絶対の幸福になるために選び抜かれた最短の道を教えられている。たとえ分からないこと、納得がいかないことでも、親鸞聖人のなされたようにされた蓮如上人のように、我々もさせて頂かねばならない。


というようなことを聞かされます。会員の皆さんはこれがすんなり受け入れられると思いますが、それはマインドコントロールされているからです。私達が従うべきはお釈迦様が説かれた「」、親鸞聖人が教えられた「」であって、教えを説く「」ではありません。勿論、教えを説く先生を尊敬し、信頼することは大切です。しかし、教え以外の行動、言動、指示、命令にまで無条件に従うのではありません。

法に依りて人に依らざれ

とはそういう事です。これが過去の顕正新聞や講師部聖則には、

********************
我々も又、善知識の仰せに対し本会の指示に対し、何事も何事も仰せのままに指示通りに無条件で服従するように努めていかねばならない。これが求道であり、 この過程があってこそ、親鸞聖人の「よき人の仰せをこうむりて信ずるほかに別の仔細なきなり」という真の無条件服従が体験できるのである。

ただひたすら、善知識を弥陀の化身と仰ぎ、善知識のお言葉を弥陀の直説と頂いていく事にのみ、私達が無碍の大道に雄飛できる道のある事を再自覚し、会長先生の御下にぬかずかねばならない。

この絶対の体験をするまで、聴聞によって無条件服従の心を培い、本会の指示に無条件に従うことによってその形を整え、心身ともに無条件服従へ仕向けていく努力が自己の信心決定を早め、強固な組織作りとなり、真宗の流れをより早く可能たらしめるのである。

会長先生のご指示に無条件で従い、信心獲得を本と致します。
上司の指示は会長先生の命と心得ます。(親鸞会講師部聖則)

********************

等とあり、「高森先生や上司の言うことに無条件に従え」ということにすり替えられています。


最初の内は「合点ゆかずば合点ゆくまで聞きなされ」と妙好人の言葉を出して、質問大歓迎、納得・合点のゆく教えだからと言われますが、会員となり、段々とマインドコントロールが進むにつれて、求道上の悩みや教義の矛盾点、指示の意義については質問しづらい雰囲気になっていきます。

元々矛盾の上に成り立つ教義であり、講師部員も先輩方も信心の本質的な部分については何も知りませんから、いくら質問しても歯切れの悪い答えしか返ってきません。結局、「もっと真剣に聴聞しよう」「より一層光に向かって進ませて頂こう」で終わりです。指示に「なぜ?」と口答えしようものなら、特に幹部以上はやり玉に挙げられてしまうでしょうし、仏法がどのようなものか分かっていない信仰の幼稚園児だとみなされてしまいます。そして、やがて教義の矛盾点は「まだ信を獲ていないから矛盾としか思えないんだ」「高森先生の深いミココロなのだろう」と片付け、何もかも上司の指示に従うような、親鸞会的人間になってしまうのです。

『親鸞会公式ホームページ』三願転入は弥陀のお計らい

には、こんなことが書かれています。

********************
阿弥陀仏の十九の誓いは、「修諸功徳(しゅしょくどく)の願」と言われている。「諸(もろもろ)の功徳を修し」とは、諸善万行、善と教えられるものなら何でもしなさい。知っただけでは観念の遊戯、論語読みの論語知らず、になってしまう。実行しなければ、結果は分からない。「力一杯、功徳(善)を修めなさい」と、阿弥陀仏が十方衆生に勧められているのが十九の願である。

「では、信仰が進めば、救われるのか」と、聞きたい人がいるに違いない。

 それは、凡夫の計ろうべきことではない。ひとえに弥陀のお計らいである。阿弥陀仏の絶対の救済を、どうして我々が計らえようか。

 不可称・不可説・不可思議の弥陀の本願を計らうことの愚かさを、親鸞聖人は、こうたしなめられている。

「補処の弥勒菩薩をはじめとして、仏智の不思議を計らうべき人は候わず」(末灯鈔)

“最も仏に近い、弥勒菩薩でさえ、弥陀の本願力不思議は想像も思慮もできないのに、阿弥陀如来の仏智を計らえる人がいるはずないではないか”

********************

これで納得してしまう人は、完全に思考停止しています。「信仰が進めば救われるのかどうかなど我々が計らうべきことではない」と、求道上の疑問や悩みを持つことさえ許されず、ひたすら財施に顕正に励め、上司の指示は会長先生の指示と心得て無条件に従え、そうしなければ信心決定できずに必堕無間だとせめたてられて、正常な思考判断ができない状態に陥っているのです。こうなってしまうのも、

・高森先生はさとりの52位の内、あと1段で仏という51段目の位にいる
・高森先生は阿弥陀仏の御心が分かり、自分達に正しく説いて下さる唯一の御方


だと思っていることが原因の一つに挙げられると思います。51段目という、常人の智慧も才覚も及ばない境地にいると思うからこそ、「会長先生の深いミココロ」で納得してしまうのでしょう。

しかし、たとえ信心決定しても智慧や徳、人格までが弥勒菩薩に等しくなるのではありませんし、獲信したと言っている高森会長の言動は菩薩とか仏法者以前の、一般人と比べてもどうかと疑問なレベルであることは既に述べてきました。もうすぐ降誕会で、会員の皆さん(特に幹部以上)は目標達成に追われて必死な状況とは思いますが、毎年毎年そんな事を繰り返してきて信心獲得できていますか? そんなものは、獲信・往生とは何の関係もないのです。それを獲信・往生と関係あるかのように思い、「やればこの道進むだろう」などと考えているのを「自力」というのです。会員の皆さんには、早く仏法者以前の悪知識から離れて、弥勒菩薩と等しく必ず仏と成ることが決定している念仏の衆生になって頂きたいと思います。


【参照】
『元会員から見た浄土真宗親鸞会』「三願転入を計らうな」なのか?、「18願を計らうな」なのか?
カルト宗教の特徴で最初に挙げられるのが、「指導者に対する崇拝・絶対的なリーダー(教祖)がいる」という点
スポンサーサイト

コメントの投稿

非公開コメント

同一念仏 無別道故

『御文章』二帖目第十一通の「五重の義」は、
いわゆる「善知識だのみ」をただすものですが、何故か高森親鸞会に於いては善知識帰命を示す文になってしまっているのでしょうね。
ともあれ、wikiarcの善知識の項をリンクしておきますが、リンク先末尾の「法を見るものはわれを見る」という趣旨は面白いです。
ある意味では、高森顕徹氏を創価学会風の現世利益である「絶対の幸福」というタームに陥れたのは、高森親鸞会会員の確信という「信心獲得」という欲望に応じた面もあり、キリスト教風の「信心」という自己実現風の語に騙されたのが、高森親鸞会の会員でした。
ともあれ、御開山が「かの安楽国土は、阿弥陀如来の正覚浄華の化生するところにあらざることなし。同一に念仏して別の道なきがゆゑに(彼安楽国土 莫非阿弥陀如来 正覚浄華之所化生。同一念仏 無別道故」と、『論註』の文をされた安楽国土に往生する業因は〔なんまんだぶ〕なのでした。本願に選択された行だからです。

なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ
http://labo.wikidharma.org/index.php/%E5%96%84%E7%9F%A5%E8%AD%98


>林遊@なんまんだぶ様

2帖目11通と、『御一代記聞書』の文章の悪用によって、会員は知らず知らずのうちに知識帰命へと導かれてしまっています。

確かに一部聞く側にも非がありますが、一番は本願寺を倒して自分が上に立ちたいという高森会長の深い欲望が原因でしょう。

会員の方々は、念仏とは別の、とにかくハッキリスッキリした、大いなる喜びが湧き上がるスーパー信心を追い求めている節があります。念仏が選択本願の行だと思えず、称名正因の異安心だとしか考えられないのでしょう。何とか念仏の法を分かってもらいたいと思っています。

真実信心 必具名号

九条武子さんは、その著『無憂華』の「背くもの」で、

 信仰を特異の存在であるかのやうに思ってゐる人たちは、信仰の門にさえ佇めば、容易になやみの絆は断ち切れて、みづからの欲するまゝに、慰安の光がかゞやくかのごとく思ふ。
 しかしながら、信仰は一の奇跡ではない。宗教はまた気やすめのための、力なき慰めでもない。信仰は荷せられた悩みを逃避するのではなく、悩みの肯定のうちに、救ひの光にみちびかれるのである。
 多くの人たちは、宗教の本質について、かなしき錯覚のもとに、法をもとめようとしてゐる。そして一様に、自らの想像する驚異の世界を発見することが出来ずして、却ってをしへの常凡なるに失望してゐる。

と、記述されてましたが、高森親鸞会の「とにかくハッキリスッキリした、大いなる喜びが湧き上がるスーパー信心」を求める求道とは、奇跡を求め「自らの想像する驚異の世界を発見」しようという妄想の営みかもですね。
なお、「称名正因の異安心」云々は、御開山は『尊号真像銘文』p.665で、

 『選択本願念仏集』といふは、聖人(源空)の御製作なり。「南無阿弥陀仏 往生之業 念仏為本」といふは、安養浄土の往生の正因は念仏を本とすと申す御ことなりとしるべし。正因といふは、浄土に生れて仏にかならず成るたねと申すなり。

と、されておられますから、文句は御開山に言えですね(笑
要するに、念仏は「教」であり「法」ですから、その、なんまんだぶの教法を受け入れた衆生の信が正因となるのでした。
ですから「真実の信心はかならず名号を具す(真実信心 必具名号)」なのでした。

なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ
http://labo.wikidharma.org/index.php/%E5%AE%89%E5%BF%83%E8%AB%96%E9%A1%8C/%E5%BF%85%E5%85%B7%E5%90%8D%E5%8F%B7

>林遊@なんまんだぶ様

ありがとうございます。

>高森親鸞会の「とにかくハッキリスッキリした、大いなる喜びが湧き上がるスーパー信心」を求める求道とは、奇跡を求め「自らの想像する驚異の世界を発見」しようという妄想の営み

本当に仰る通りです。ですから信心も安心も分かるわけがありません。

念仏は私の行業ではなく、阿弥陀仏より回向せられる大悲招喚のお勅命ですからね。何の分別もなく、何かの呪文と同じように念仏していても浄土往生はおぼつきませんが、願行具足の南無阿弥陀仏ですから、まさしく「安養浄土の往生の正因は念仏を本とす」。私としては何の計らいも無く、ただ本願力に身を任せてお念仏申すのみです。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。

下らないコメントの質問にも答えて下さった形で恐縮です。ありがとうございます。
プロフィール

淳心房&しゃあ

Author:淳心房&しゃあ
(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


(しゃあ)
平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
singikensho@yahoo.co.jp
(スパム防止のため@を大文字にしてあります。メール送信時は小文字に変えて下さい。)

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QRコード