親鸞会会員の誤解―方便だからやらなければならない(2)

親鸞会では「方便だからやらなければならない」として善という名の献金、勧誘、会長及び上司への無条件服従を会員に課しています。その例として高森顕徹会長は『王舎城の悲劇』の韋提希を出して、

韋提希はお釈迦様の言われる通りに定善をやった

と教えていますが、これは真っ赤なウソです。『観無量寿経』を読んでみますと、釈尊が定善をお説きになる直前に、韋提希は釈尊にこのように申し上げています。

仏、韋提希に告げたまはく、「なんぢはこれ凡夫なり。心想羸劣にして、いまだ天眼を得ざれば、遠く観ることあたはず。諸仏如来に異の方便ましまして、なんぢをして見ることを得しむ」と。ときに韋提希、仏にまうしてまうさく、「世尊、わがごときは、いま仏力をもつてのゆゑにかの国土を見る。もし仏滅後のもろもろの衆生等、濁悪不善にして五苦に逼められん。いかんしてか、まさに阿弥陀仏の極楽世界を見たてまつるべき」

さらに釈尊は韋提希に仰せになった。
「そなたは愚かな人間で、力が劣っており、まだ天眼通を得ていないから、はるか遠くを見とおすことができない。しかし仏には特別な手だてがあって、そなたにも極楽世界を見させることができるのである」
そのとき韋提希が釈尊に申しあげた。
「世尊、わたしは今、仏のお力によってその世界を見ることができます。でも、世尊が世を去られた後の世の人々は、さまざまな悪い行いをして善い行いをすることがなく、多く苦しみに責められることでしょう。そういう人たちは、いったいどうすれば阿弥陀仏の極楽世界を見ることができるでしょうか」


こうした韋提希の、釈尊が世を去られた後の未来の人々を案じた要請によって釈尊は定善を説かれたのです。韋提希は既に釈尊の仏力によって極楽世界を拝見したので、定善をやる必要はありません。当然定善をしていませんし、やろうともしていません。

『なぜ生きる』やアニメ『親鸞聖人と王舎城の悲劇』では、韋提希が定善を試みて出来ずに苦悶に堕ちてゆく姿が書かれていますが、とんでもないデタラメ創作教義です。定善を説く合間合間に釈尊は

・この想成じをはりて(水想観)
・この想成ずるとき(地想観)
・地想成じをはりなば、次に宝樹を観ぜよ。(宝樹観)


等と仰り、水想観が出来たら次は地想観、地想観が出来たら次は宝樹観を成せと教えられます。親鸞会のように、水想観が出来なかったら次は地想観、地想観が出来なかったら次は宝樹観ではありません。また当然ですが、定善のできない自分を知らせるために説いた観法ではありません。『無量寿仏観経』ですからあくまで釈尊は無量寿仏を観る方法を教えられたのです。親鸞会の話通りなら、観が進む度に易しくなっていかねばなりませんが、逆です。むしろ日想観、水想観、地想観辺りは無量寿仏を観ずる前段階の、まず極楽世界を思い描く観法なので、ここで躓いていたら話になりませんし、ここから徐々に難しく高度になっていくのです。

釈尊はこうして定善十三観をお説きになりましたが、この観を成就できるのは極めて優れた資質の持ち主のみで、大部分の人々は成就できずに落ちこぼれることを予見され、続けて散善をお説きになられます。上三品には行福を、中三品には世福、戒福を与え、善の出来ない下三品には念仏を施されています。ところが、流通分に至って釈尊は、それまで広く説いてきた定散二善ではなく、下三品にわずかに説かれた念仏を阿難に付属されるのです。

もし念仏するものは、まさに知るべし、この人はこれ人中の分陀利華なり。観世音菩薩・大勢至菩薩、その勝友となる。まさに道場に坐し諸仏の家に生ずべし」と。
仏、阿難に告げたまはく、「なんぢ、よくこの語を持て。この語を持てといふは、すなはちこれ無量寿仏の名を持てとなり」と。仏、この語を説きたまふとき、尊者目犍連・阿難および韋提希等、仏の所説を聞きてみな大きに歓喜す。


もし念仏するものがいるなら、まことにその人は白く清らかな蓮の花とたたえられる尊い人であると知るがよい。このような人は、観世音・大勢至の二菩薩がすぐれた友となリ、さとりの場に座り、仏がたの家である無量寿仏の国に生れるのである」
釈尊は阿難に仰せになった。「そなたはこのことをしっかりと心にとどめるがよい。このことを心にとどめよというのは、すなわち無量寿仏の名を心にとどめよということである」。釈尊がこのようにお説きになったとき、目連や阿難および韋提希たちは釈尊のこの教えを聞いて、みな大いに喜んだのである。


このことを法然聖人は『選択本願念仏集』念仏付属章において、懇ろに釈尊の本意を説き明かされていますが、長くなりそうなので続きは次回にしたいと思います。


ところで、今回少し触れたことからもお分かりのように、『観無量寿経』に説かれている事と高森顕徹会長の主張は随分違います。主な相違点については、以前

『観無量寿経』に説かれている事と、親鸞会教義との相違点

等の記事に書きましたので参照して下さい。
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No title

Abcです。

>韋提希はお釈迦様の言われる通りに定善をやった
>
>と教えていますが、これは真っ赤なウソです。『観無量寿経』を読んでみますと、釈尊>が定善をお説きになる直前に、韋提希は釈尊にこのように申し上げています。

はい、このことは淳心房さんの仰っしゃるとおり、ウソであることは明白です。

善についての伝統教団(真宗教団連合に属している教団及びそれに准ずる教団)の見解は「善をせずとも助かる」「逆に善をすると自余のはからいに依って仏のはからい(本願力廻向、大願業力、他力廻向)が受け取れなくなる」ともおっしゃられたりします。

定散ニ善について調べていたら、過去の淳心房さんの記事に当たりましたので、抜粋しておきます。

>>【4.獲信のために善は必要か】について(1)にて既に示しましたが、法然聖人は「定散二善を捨てて念仏一行を専ら修せよ」とばかり教えられています。
>>
>>・定散の諸行は本願にあらず。ゆゑにこれを付属せず。またそのなかにおいて、観仏三昧は殊勝の行といへども、仏の本願にあらず。ゆゑに付属せず。 念仏三昧はこれ仏の本願なるがゆゑに、もつてこれを付属す。

真偽検証 【6.定散二善について】について より抜粋

また、善信上人は「浄土高僧和讃 道綽禅師抄」にて
 本師道綽禅師は
 聖道万行さしおきて
 唯有浄土一門を
 通入すべきみちととく

と説かれ、彼らが勧行で読まれている「正信念仏偈(正信偈)」にも、
「道綽決聖道難証 唯明浄土可通入
万善自力貶勤修 円満徳号勧専称」とあります。
 (「万善自力...」は、「全て(一切)の善行は自力の勤めだ、と貶し 一実円満の徳号(弥陀の名号) を専ら称ず可きことを勧められた」 の訳になります。

つまり、「末法五濁 われら如きの凡夫」には善は無理だということです。それであるため弥陀以外の仏さまは、私たちのことを御見捨てになられました。

Abc

Re: Abc様

高森顕徹邪義を信じることを自力の心、疑情という
http://hiun.cocolog-nifty.com/blog/2017/07/post-61e7.html

にあるように、

『阿弥陀仏のお力、18願とは、善が不要、私たちが何かをすることを全く必要としないで浄土に往生させることができることです。

つまりは、往生・獲信のために、善をしなければならないとか、過去にどれだけ善をしてきたかとか、19願・20願を必ず通るか通らなければならないとか、因果の道理を信じなければならない、などと信じていることを、自力の心、疑情というのです。』

ということですね。ですから、本願寺等の伝統教団は

> 善についての伝統教団(真宗教団連合に属している教団及びそれに准ずる教団)の見解は「善をせずとも助かる」「逆に善をすると自余のはからいに依って仏のはからい(本願力廻向、大願業力、他力廻向)が受け取れなくなる」ともおっしゃられたりします。

と言っているわけです。それを親鸞会では会員や勧誘対象者に向けて、「本願寺は善をやる必要はない」「善をやるな」と説いていると、まるで倫理道徳的な善まで否定しているかのように印象操作しています。極めて悪質です。

往生のためには善や念仏、聴聞によって助かろうという自力の計らいを捨てて、生活のためには世間通途の義に順って日常生活を送っていくべきです。これをごちゃ混ぜにして教える親鸞会では、いつまでも自力、疑心は無くならず、逆にますます囚われるようになってしまうでしょう。
プロフィール

淳心房&しゃあ

Author:淳心房&しゃあ
(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


(しゃあ)
平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
singikensho@yahoo.co.jp
(スパム防止のため@を大文字にしてあります。メール送信時は小文字に変えて下さい。)

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