「信楽」とは信心であって幸福感ではない

日曜日の講師部講義で高森会長が面白いことを話していたことは

『飛雲』「念仏は無碍の一道なり」が判らず否定する高森顕徹会長

にある通りです。相も変わらずアニメ映画『なぜ生きる』の蓮如上人のお言葉

「聞く一つで、大船に乗せる」ということは、阿弥陀仏の命を懸けたお約束だからです

について話をしたらしく、阿弥陀仏は「十方衆生を相手に信楽の身にしてみせる」と、何とかの一つ覚えで18願を話していたようですが、今回は

信楽は「絶対の幸福」

と説明したそうです。『飛雲』”親鸞聖人の教えられた二河白道の譬え”から見る絶対の幸福にある通りで、最近の親鸞会はやたらと絶対の幸福を強調しています。変わらない幸福になれると、幻想的な楽をちらつかせて新規会員を獲得する気なのでしょうが、阿弥陀仏の本願がどのようなものが全く分かっていないところから生じる妄言です

まず「信楽」ということについてですが、本願の三心の一つで、仏願の生起本末を聞いて疑いない心です。これは自分で起こす信心ではなく、阿弥陀仏より回向せられる信心ですから「本願力回向の信心」と言われます。要は他力の信心、真実の信心であって、幸福感ではないことに注意して下さい。『教行証文類』では

信楽は、すなはちこれ真実誠満の心なり、極成用重の心なり、審験宣忠の心なり、欲願愛悦の心なり、歓喜賀慶の心なるがゆゑに、疑蓋雑はることなきなり。(信文類)

「信楽」とは、仏の真実の智慧が衆生に入り満ちた心(真実誠満の心)であり、この上ない功徳を成就した本願の名号を信用し重んじる心(極成用重の心)であり、二心なく阿弥陀仏を信じる心(審験宣忠の心)であり、往生が決成してよろこぶ心(欲願愛悦の心)であり、よろこびに満ちあふれた心(歓喜賀慶の心)であるから、疑いがまじることはない。

とあります。往生が決定した喜びに満ち溢れた心であることは確かですが、あくまで本願力にお遇いできた、遇い難い教えに遇えた、間違いなく仏に成ることが定まったことへの「慶喜」です。親や伴侶、子供と死別しても、また交通事故を起こして人をひき殺してしまっても喜んでいるとかいう「狂喜」ではありません。そして大事なのは「疑蓋無雑」、本願に対して疑いが雑じることがないという点です。ですから『尊号真像銘文』では

「信楽」といふは、如来の本願真実にましますを、ふたごころなくふかく信じて疑はざれば、信楽と申すなり。この「至心信楽」は、すなはち十方の衆生をして、わが真実なる誓願を信楽すべしとすすめたまへる御ちかひの至心信楽なり、凡夫自力のこころにはあらず。

と「疑蓋無雑」の点に絞って教えられています。本願が真実であることを、二心なく深く信じて疑いないことが「信楽」であるというのです。なので、世俗的な幸福を「相対の幸福」と呼び、「相対の幸福」と比較しての「絶対の幸福」「変わらない幸福」というのとは違うのです。おそらく会員の皆さんが「絶対の幸福」「変わらない幸福」と聞いて思い浮かべるのは、今まで味わった最高の幸福感以上の幸福感がずっと続くというようなことだと思われますが、先ほど申し上げたように「信楽」とは信心であって幸福感ではないのです。

生きていれば良い事もあれば悪い事もあります。「生まれてよかった」と喜べる時もあれば「死んだ方がマシだ」と深く沈む時もあります。我々の身口意の三業でやること言うこと思うこと、その全ては煩悩であり、煩悩は信前信後通じて変わらないのですから、幸福感は有ったり無かったり、大きくなったり萎んだり、常に一定ではありません。そんなもの、信前も信後も一緒です。幸福感は我々の心が感じるもの、すなわち煩悩であり、心はコロコロ変わり通しなのですから、一定のままずっと続くわけがないのです。

ただ、幸福感に満ち溢れている時でも、逆に何もかもが辛く嫌になって自殺したい気持ちでいっぱいの時でも、本願を疑う心は無いというのが「信楽」です。凡夫自力の心とは一線を画しています。

このようなことですから、世の無常や自己の罪悪を観じ、迷いを離れて永生の楽果を得たいというのであれば、「絶対の幸福」「変わらない幸福」だとかいう幻想的な楽を追い求めるのはやめることです。「絶対の幸福」「変わらない幸福」などというのは、蓮如上人のお言葉で言えば「五十年百年のうちのたのしみ」「栄耀栄華」の範疇を出ません。

ただふかくねがふべきは後生なり、またたのむべきは弥陀如来なり。信心決定してまゐるべきは安養の浄土なりとおもふべき(1帖目11通)

であります。そして、選択摂取したまへる第十八の念仏往生の本願を信楽することです。

また他力と申すことは、弥陀如来の御ちかひのなかに、選択摂取したまへる第十八の念仏往生の本願を信楽するを他力と申すなり。(中略)
他力は本願を信楽して往生必定なるゆゑに、さらに義なしとなり。 (中略)
本願の念仏を信楽するありさまをあらはせるには、「行住座臥を簡ばず、時処諸縁をきらはず」(意)と仰せられたり。
(親鸞聖人御消息)

19願も20願も、廃悪修善の実践も、宿善を求めることも要りません。ただ本願の念仏、南無阿弥陀仏を信楽するのみです。それは、小賢しい凡夫の計らいを交えずに、ただ願力にまかせることです。

往生はともかくも凡夫のはからひにてすべきことにても候はず。めでたき智者もはからふべきことにも候はず。大小の聖人だにも、ともかくもはからはで、ただ願力にまかせてこそおはしますことにて候へ。ましておのおののやうにおはしますひとびとは、ただこのちかひありときき、南無阿弥陀仏にあひまゐらせたまふこそ、ありがたくめでたく候ふ御果報にては候ふなれ。とかくはからはせたまふこと、ゆめゆめ候ふべからず。(親鸞聖人御消息)

南無(我にまかせよ)阿弥陀仏(必ず救う)の仰せをそのまま聞き受け、仰せの通りにただ願力にまかせて往生を丸投げしてしまうのです。いかにも他人まかせのように聞こえますがその通りです。後生、往生ほどの一大事、自分の力で何とかなりますか? 何とかなれるという人は聖道門に行って自力修行によって迷いを離れるでしょう。しかし、龍樹菩薩や天親菩薩といった像法の時の智人も念仏の法に帰依しているというのですから、我が身の程を思えば尚更念仏の法しかないでしょう。

幻想的な楽、現世利益をちらつかせて、会員から多くのお布施を出させ、新規会員を多く獲得するのが「よき講師部員」。また少しでも多くお布施し、会員獲得に尽力すればその分だけ横の道を進めるだろう、やらないよりはやった方がいいだろうと思っているのが「会員」。そうではないでしょうか? 多少違いはありますが、

これについてちかごろは、この方の念仏者の坊主達、仏法の次第もつてのほか相違す。そのゆゑは、門徒のかたよりものをとるをよき弟子といひ、これを信心のひとといへり。これおほきなるあやまりなり。また弟子は坊主にものをだにもおほくまゐらせば、わがちからかなはずとも、坊主のちからにてたすかるべきやうにおもへり。これもあやまりなり。かくのごとく坊主と門徒のあひだにおいて、さらに当流の信心のこころえの分はひとつもなし。まことにあさましや。師・弟子ともに極楽には往生せずして、むなしく地獄におちんことは疑なし。なげきてもなほあまりあり、かなしみてもなほふかくかなしむべし。(1帖目11通)

の坊主と門徒の関係は、親鸞会と会員の図式と非常によく似ています。要るのかどうかよく分からないハコモノをまた建てることに疑問を持った方は、この際教えの真偽をよく検証してみましょう。
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淳心房&しゃあ

Author:淳心房&しゃあ
(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


(しゃあ)
平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
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