親鸞会会員の誤解―方便だからやらなければならない(5)

法然聖人は『選択集』において様々に諸善と念仏を比較し、諸善を捨てて念仏一行に帰依して往生を願えとそればかり教えられています。尤も諸行による利益を否定されてはいませんが、末法の今の世においては如説に修行する者がなく、さとり得る者がいないため、その利益は空しいのです。一方で念仏による利益は末法、法滅に至っても決して空しくなく、いずれの時にも通じる法門であります。

またこのなかに「遐代」とは、『双巻経』(大経)の意によらば、遠く末法万年の後の百歳の時を指す。これすなはち遐きを挙げて邇きを摂するなり。しかれば、法滅の後なほもつてしかなり。いかにいはんや末法をや。末法すでにしかり。いかにいはんや正法・像法をや。ゆゑに知りぬ、念仏往生の道は正像末の三時、および法滅百歳の時に通ず。随自随他

正法・像法の時機ならともかく、また我々が如実に定善・散善の行を修めることができる善人や聖者ならともかく、末法の今の世において、我ら末代不善の凡夫が迷いを離れて往生する道はただ一つ、念仏往生の道以外にありません。その念仏往生の道、すなわち18願の世界に入るために定散二善などの諸行諸善を勧められた箇所など浄土真宗には存在しないのです。獲信・往生に諸善が絶対必要なら、念仏と諸善はセットで付属されていなければおかしいですし、「定散は廃せんがために説き」「釈尊の諸行を付属したまはざる所以は、すなはちこれ弥陀の本願にあらざるゆゑなり」などと教えられるわけがありません。

さて『選択集』では、釈尊が定散の諸行を付属せず、ただ念仏一行を阿難に授けられた文を挙げた後、

「念仏をもって多善根とし、 雑善をもって少善根とせられる文」
「六方恒沙の諸仏は余行を証誠せず、 ただ念仏だけを証誠せられる文」
「六方の諸仏が、(諸善の行者ではなく)念仏の行者を護念される文」

と次々挙げられていきます。獲信・往生のためには諸善を廃して念仏一行に依れと、これでもかこれでもかと示されます。在りもしない横の道をでっち上げ、これでもかこれでもかと廃された諸善を勧める高森教とは真逆です。そして、

釈迦如来、弥陀の名号をもつて慇懃に舎利弗等に付属したまふ文

へと続きます。『阿弥陀経』及び善導大師の文を挙げ、それから浄土三部経は諸行の中に念仏を選択して念仏を根幹とするとの私釈を展開されます。まず『大無量寿経』において諸行の中に念仏を選択されていることを明かされ、次に『観無量寿経』でも念仏一つを選択されたことを教えられています。

次に『観経』のなかにまた三の選択あり。一には選択摂取、二には選択化讃、三には選択付属なり。
一に選択摂取といふは、『観経』のなかに定散の諸行を説くといへども、弥陀の光明ただ念仏の衆生を照らして、摂取して捨てたまはず。ゆゑに選択摂取といふ。
二に選択化讃といふは、下品上生の人、聞経・称仏の二行ありといへども、弥陀の化仏、念仏を選択して、「汝称仏名故諸罪消滅我来迎汝」(観経)とのたまふ。ゆゑに選択化讃といふ。
三に選択付属といふは、また定散の諸行を明かすといへども、ただ独り念仏の一行を付属す。ゆゑに選択付属といふ。
結勧流通

選択摂取とは、弥陀の光明はただ念仏の衆生を照らし、摂取してお捨てにならないということです。ということは、弥陀の光明は定散の諸行を修める者、余の雑業の行者を照らし摂めないということです。
選択化讃とは、いろいろな経の題名を聞くことと仏名を称えること(念仏)では、弥陀の化仏は念仏を選択して 「汝は仏名を称えたから、 もろもろの罪が消滅し、 われは来て汝を迎える」といわれてあるということです。
選択付属とは、定散の諸行が説かれてあるけれども、 ただ念仏の一行だけを付属されていることです。

また『阿弥陀経』では、念仏往生を説くに至って六方恒沙の諸仏がこれを証誠されていることを教えられています。沢山の経典の中に多く往生の諸行を説かれるけれども、諸仏はこれを証誠されていないというのです。


しかればすなはち釈迦・弥陀および十方のおのおのの恒沙等の諸仏、同心に念仏の一行を選択したまふ。余行はしからず。ゆゑに知りぬ、三経ともに念仏を選びてもつて宗致となすのみ。

阿弥陀仏、釈尊、十方恒沙の諸仏は「念仏の一行を選択」されています。「余行はしからず」です。『大無量寿経』『阿弥陀経』『観無量寿経』の三経ともに諸善ではなく、念仏を選んでその要点とされているのです。

方便だからやらなければならない

として親鸞会が勧めているのは教義上でも「しからず」と三仏の勧めがない「余行」すなわち「諸善」であり、実態は親鸞会への献金・勧誘、会長及び上司への無条件服従などの「善もどきの善」を主とする活動であります。敢えて「やらなければならない」というならそれは三仏が勧められる「念仏の一行」です。ですから、次の有名な三選の文にはこのようにあります。

はかりみれば、それすみやかに生死を離れんと欲はば、二種の勝法のなかに、しばらく聖道門を閣きて選びて浄土門に入るべし。浄土門に入らんと欲はば、正雑二行のなかに、しばらくもろもろの雑行を抛てて選びて正行に帰すべし。正行を修せんと欲はば、正助二業のなかに、なほ助業を傍らにして選びて正定をもつぱらにすべし。正定の業とは、すなはちこれ仏名を称するなり。名を称すれば、かならず生ずることを得。仏の本願によるがゆゑなり。

【現代語訳】
「そもそも、速やかに迷いの世界を離れようと思うなら、二種のすぐれた法門のうちで、聖道門をさしおき、浄土門に入れ。浄土門に入ろうと思うなら、正行と雑行の中で、雑行を捨てて正行に帰せ。正行を修めようと思うなら、正定業と助業の中で、助業を傍らにおいておきもっぱら正定業を修めよ。正定業とは、すなわち仏の名号を称えることである。称名するものは必ず往生を得る。阿弥陀仏の本願によるからである。

親鸞聖人はこの三選の文を「行文類」に引文し、浄土真実の行はただ念仏の一行であり、南無阿弥陀仏とは「我にまかせよ、必ず救う」という本願招喚の勅命であること、これをそのまま信じ受け容れ念仏する者は必ず往生を得ることを明かされています。このように、親鸞聖人が法然聖人から承けられた教えは、念仏の教え、南無阿弥陀仏以外にはなかったのです。


ところが、親鸞会ではどうでしょうか? 本尊こそ「南無阿弥陀仏」ですが、会員の誰が南無阿弥陀仏の六字のいわれを心得て念仏しているでしょうか? 念仏ほど尊いものはない、念仏のみぞまことと信じて念仏しているでしょうか? 念仏より信心が大事だと念仏を軽視して、ありもしないスーパー信心を追い求めることに必死になっていませんか? 信心は大事なことに違いありませんが、その信心とは

自分の修した善程度では出離できず、「名号を称すること下至十声聞等」によって往生できると信知したこと
「名号をとなへんものをば極楽へ迎へんと誓はせたまひたるを、ふかく信じ」たこと
念仏を称えて往生できると深く信じたこと


であり、要は「往生には南無阿弥陀仏しかない」という信心です。念仏とは切り離せない、一つであって二つ、二つであって一つのものなのです。だから、「ただ念仏さえ称えていれば死んだら極楽、死んだら仏」なんですよ。「仏の本願によるがゆゑなり」これが阿弥陀仏の本願なんですから。これ自体は間違っていないんです。これに疑い無いのが「信心」であり、この「信心」を抜きにただ口に称名さえすれば助かると思って念仏しているのを「おぼつかなきことなり」と言われているだけです。

これを高森会長は称名正因の異安心だと非難し、

信心が大事だ。信心は二種深信だ。二種深信とは地獄一定と極楽一定が同時にハッキリすること。
信心を獲たら絶対の幸福になる。無碍の一道に出る。「人間に生まれてよかった」「よくぞ人間に生まれたものぞ」と生命の歓喜が起きる。これが人生の目的だ。そこまで光に向かって進め。


と説いているでしょう? 念仏はどこへ行ったんですか? 念仏は信心のオマケ、信前の念仏は信心獲得するのに無意味、との異安心から、とにかく信心獲得が大事、それには聴聞、破邪顕正と会で推進される活動に勤しんで、念仏は聴聞の前後かお勤めの時に辛うじて称える程度、完全に置き去りにされているというのが実態ではありませんか? 「信仰が進めば念仏称えずにおれなくなってくるのです」とか言いますが、それはいつの話ですか? 私が会員だった時は、ついにそういう人には会えなかったです。

深いマインドコントロール下にある会員さんは到底理解不能でしょうが、念仏の教えこそが浄土真宗です。念仏をおろそかにし、ありもしない信心を求めて狂奔し、念仏を称える人を「あれは称名正因だ」としか思えないなら、もはや浄土真宗の人とは言えないでしょう。「高森教信者」と名乗るのが相応しいかと思います。



【参照】
『飛雲』”親鸞聖人の教えの根基”の話をしない高森顕徹会長
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二尊一経

『選択本願念仏集』は、ありがたいですね。
この、選択本願念仏という語は法然教学のキーワードであると聞いたことがありました。

高森親鸞会の人は、高森顕徹氏の「解釈に依る真宗」を聞くだけで、自分でお聖教を読もうとしないのですね。
例えば『教行証文類』の総序、

 穢を捨て浄を欣ひ、行に迷ひ信に惑ひ、心昏く識寡く、悪重く障多きもの、ことに如来(釈尊)の発遣を仰ぎ、かならず最勝の直道に帰して、もつぱらこの行に奉へ、ただこの信を崇めよ。

の、「もつぱらこの行に奉へ、ただこの信を崇めよ」は、法然聖人からお聞きした序論であり、御開山の結論なのでした。これを読んでおけば高森親鸞会のおかしな教えに嵌ることもなかっただろうに……

昔は、親鸞会の会員でも、法然聖人や善導大師は「行々相対」の説相であり、御開山は「唯心独達」の明信仏智の立場である、とか教義の体系を論じた者もいたりして少しく議論になったものです。
ところが、高森親鸞会の統制が厳しくなって、七祖や本典を読んだり説いたりすることが等閑視されるに従って、重箱の隅を突くしかない意味不明の論議をする者が増えてきたように思ひます。いわゆる認知バイアスによって、少ない情報に基づいた思考しか出来なくなっているのでしょう。これが執拗な高森親鸞会の会員による愚聞の連発かもです(笑

ともあれ『観経』は古来から、釈尊と阿弥陀仏の「二尊一経」といわれていました。このことは「玄義分」の要弘二門判で、

 しかも娑婆の化主(釈尊)はその請によるがゆゑにすなはち広く浄土の要門を開き、安楽の能人(阿弥陀仏)は別意の弘願を顕彰したまふ。

と、要門と弘願によって明示されていました。
そして、釈尊の教である要門とは、

 その要門とはすなはちこの『観経』の定散二門これなり。 「定」はすなはち慮りを息めてもつて心を凝らす。「散」はすなはち悪を廃してもつて善を修す。この二行を回して往生を求願す。

という、廃悪修善(悪を廃して善を修す)の釈尊の教であり、

 弘願といふは『大経』に説きたまふがごとし。「一切善悪の凡夫生ずることを得るものは、みな阿弥陀仏の大願業力に乗じて増上縁となさざるはなし。

と、いう「みな阿弥陀仏の大願業力に乗じ」るという、阿弥陀仏の弘願の教の二種が『観経』に説かれている、というのが要門と弘願の「二尊一経」ということです。

法然聖人は、『西方指南抄』所収の「十七条御法語」で

 又云、『玄義』に云く、「釈迦の要門は定散二善なり。定者(は)息慮凝心なり、散者(は)廃悪修善なりと。「弘願者如大経説、一切善悪凡夫得生(弘願といふは『大経』に説きたまふがごとし。一切善悪の凡夫生ずることを得る)」といへり。予(よが)ごときは、さきの要門にたえず、よてひとへに弘願を憑也と云り。

と、「ひとへに弘願を憑む」といわれています。
この法然聖人の示された意を承けられて、その真意を継承発展されたのが御開山聖人でした。
そもそも「選択本願念仏」の選択とは、阿弥陀仏の本願に依って選択されたのであり、御開山は、この阿弥陀仏の選択を、本願力回向の「行信」として顕して下さったのでした。
このように『観経』に「二尊一経」の意をみられたのは「観経」の流通分を示す「散善義」で、

 上来定散両門の益を説くといへども、仏の本願に望むるに、意、衆生をして一向にもつぱら弥陀仏の名を称せしむるにあり。

とある文に依って、釈尊は、はじめは韋提希の請いによって定散両門を説いたけれども、最後には、阿弥陀仏の本願の立場に依って、なんまんだぶを阿難に付属されたという教説によるのでした。『観経』の、

 汝好持是語 持是語者 即是 持 無量寿仏名。
 (なんぢ、よくこの語を持て。この語を持てといふは、すなはちこれ無量寿仏の名を持てとなり。)

なのでした。林遊のようなあほが行ずることの出来る仏法でした。ありがたいこちゃな。

なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ
http://blog.wikidharma.org/blogs/blog/2012/09/25/%e5%94%af%e8%ab%8b%e5%ae%9a%e5%96%84%e3%80%81%e8%87%aa%e9%96%8b%e6%95%a3%e5%96%84/

Re: 林遊@なんまんだぶ様

仰る通りで、親鸞会会員は高森顕徹会長の解釈が絶対であり、また自分勝手に解釈すると読み誤ると徹底されているため、中々自分から進んでお聖教を読もうとしません。

知っているのは高森会長の話や著書、『教学聖典』に出てくる御文だけで、挙げられていた総序のお言葉は会員時代一度も聞いたことはありませんでした。結局高森教に都合の良い、悪影響のない御文を部分的に切り貼りして利用していただけなのでした。

> 昔は、親鸞会の会員でも、法然聖人や善導大師は「行々相対」の説相であり、御開山は「唯心独達」の明信仏智の立場である、とか教義の体系を論じた者もいたりして少しく議論になったものです。
> ところが、高森親鸞会の統制が厳しくなって、七祖や本典を読んだり説いたりすることが等閑視されるに従って、重箱の隅を突くしかない意味不明の論議をする者が増えてきたように思ひます。いわゆる認知バイアスによって、少ない情報に基づいた思考しか出来なくなっているのでしょう。これが執拗な高森親鸞会の会員による愚聞の連発かもです(笑

行々相対、唯信独達等については『こんなことが知りたい』などにも少し書いてありますね。伊藤師か大沼師のパクりでしょうが、以前はもう少しまともな議論がなされていたことと思います。それが最近では法論以前の下らない議論になっており、つまらぬ小競り合いが続いております・・・ご推察は私も賛同するところです。


> 法然聖人は、『西方指南抄』所収の「十七条御法語」で
>
>  又云、『玄義』に云く、「釈迦の要門は定散二善なり。定者(は)息慮凝心なり、散者(は)廃悪修善なりと。「弘願者如大経説、一切善悪凡夫得生(弘願といふは『大経』に説きたまふがごとし。一切善悪の凡夫生ずることを得る)」といへり。予(よが)ごときは、さきの要門にたえず、よてひとへに弘願を憑也と云り。
>
> と、「ひとへに弘願を憑む」といわれています。

法然様でさえ要門にたえず、ひとへに弘願を憑むと仰っているのに、その要門を末代の我らに勧めるとはどれだけ愚かなことかと知らされます。真宗を学ぶほどに親鸞会教義が如何にいい加減で間違った、会長の独断と偏見に満ちた邪義であるかが浮き彫りになります。ご解説ありがとうございます。
プロフィール

淳心房&しゃあ

Author:淳心房&しゃあ
(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


(しゃあ)
平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
singikensho@yahoo.co.jp
(スパム防止のため@を大文字にしてあります。メール送信時は小文字に変えて下さい。)

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