「聞く」に「聞いたことを実行する」ことを含めるなら「聞く一つ」ではないし、我々の側に「○○しなければならない」という条件は無いし、「聞く」内容に「因果の道理」「19願」「定散二善」「三願転入」などは無いし、実行するなら念仏一つであって雑行ではない

最近、長い時間、感覚としては8時間以上連続して寝ていると腰が痛くなります。若い頃はどれだけ寝ても痛くならなかったのに、つくづく老いたものです。起きると痛くて随分と不快な気分になりますが、道宗は48本の割り木を並べてその上に眠り、目が覚める度に合掌、念仏されていたというのですからとんでもない方ですね。

さて、『飛雲』レベルが下がり続けて、言っていることが訳判らなくなった高森顕徹会長にも上がっていますが、日曜日は高森顕徹会長の話がありました。本当に、毎回同じことの繰り返しのようで、今回も

映画『なぜ生きる』の中の蓮如上人のお言葉
「『聞く一つで、大船に乗せる』ということは、阿弥陀仏の命を懸けたお約束だからです。」
とはどういうことでしょうか?


という質問に答えるものだったそうです。内容は上のリンク先をご覧頂くとして、当ブログでは別の角度から高森教の邪義を検証していきます。


まずは、高森会長は映画の蓮如上人に

『聞く一つで、大船に乗せる』

と言わせていますが、実際に親鸞会で聞いていきますと聞く一つで大船に乗れるというのは大ウソで、聞いたことを実行しなければ横の道を進んで助かるということは無いようです。「聞く」に「聞いたことを実行する」ことを含めるなら、当然「聞く一つ」ではありません。この二つは、当たり前ですが一つのことではないからです。

「聞く」と「聞いたことを実行する」二つで、大船に乗せる

と訂正すべきでしょう。

教えを聞くのを「教学」、聞いた教えを実行することを「行学」と呼び、「教学」と「行学」は車の両輪で、どちらか一方だけでは前に進まないというのは、特に幹部会員経験者なら耳タコと思います。しかし、本願に救われるに当たって、我々の側に「○○しなければならない」という条件はありません。

蓮如上人は『御文章』に数多く「やうもなく」「なにのやうもなく」と書かれていますが、阿弥陀仏に救われるに当たって、我々の側に「○○しなければならない」という条件は無い、一方的な本願力のはたらきかけによる救いだということです。

なにのやうもなく、一心一向に阿弥陀仏をふかくたのみまゐらせて、後生たすけたまへと申さんひとをば、みなみな御たすけあるべしとおもひとりて、さらに疑のこころゆめゆめあるべからず。(5帖目3通)

何の造作も要らず、阿弥陀仏を一心に二心無く信じ、念仏以外の余善に心を散らさずして、後生をひとえに弥陀におまかせする人を、みなみな御たすけ下さることを説かれています。
元々、阿弥陀仏は普く一切の衆生を平等に救うために、その本願において一切の諸善を選び捨て、ただ念仏一行を選び取って本願の行とされたのでした。この念仏には五劫永劫の願行が成就されていますから、我々が南無阿弥陀仏のいわれを聞き受け念仏すれば自ずから功徳が行者の身に満ちるように仕上がっているのです。

ゆゑに知りぬ、念仏は易きがゆゑに一切に通ず。諸行は難きがゆゑに諸機に通ぜず。しかればすなはち一切衆生をして平等に往生せしめんがために、難を捨て易を取りて、本願となしたまへるか。もしそれ造像起塔をもつて本願となさば、貧窮困乏の類はさだめて往生の望みを絶たん。しかも富貴のものは少なく、貧賤のものははなはだ多し。もし智慧高才をもつて本願となさば、愚鈍下智のものはさだめて往生の望みを絶たん。しかも智慧のものは少なく、愚痴のものははなはだ多し。もし多聞多見をもつて本願となさば、少聞少見の輩はさだめて往生の望みを絶たん。しかも多聞のものは少なく、少聞のものははなはだ多し。もし持戒持律をもつて本願となさば、破戒無戒の人はさだめて往生の望みを絶たん。しかも持戒のものは少なく、破戒のものははなはだ多し。自余の諸行これに准じて知るべし。まさに知るべし、上の諸行等をもつて本願となさば、往生を得るものは少なく、往生せざるものは多からん。しかればすなはち弥陀如来、法蔵比丘の昔平等の慈悲に催されて、あまねく一切を摂せんがために、造像起塔等の諸行をもつて往生の本願となしたまはず。ただ称名念仏一行をもつてその本願となしたまへり。『選択本願念仏集』難易義

造像起塔」「智慧高才」「多聞多見」「持戒持律」といった「自余の諸行」をする者を助ける本願としたなら、大多数の者は救いから落ちこぼれ、往生の望みを絶たねばなりません。同じように、「聞いて、聞いたことを実行」する者を助ける本願としたなら、実行する内容次第ではやはり大多数の者は救いから落ちこぼれ、往生の望みを絶たねばならなくなります。では親鸞会では何を実行せよと教えられるかと言えば、教義上

廃悪修善」「19願」「定散二善」「六度万行

などです。本願において選び捨てられた「自余の諸行」そのものです。これはあくまで教義上であって、実際に勧められるのは

高森会長の話を聞くこと
親鸞会に献金すること
親鸞会に人を誘うこと
会長や上司の指示に無条件で従うこと

が主ですから、善もどきの善です。このような悪行が本願の行に入らないのは言うまでもありません。


また、我々が聞くべき内容は

本願の名号」「即得往生住不退転の道理」「仏願の生起本末」「南無阿弥陀仏の六字のいはれ

ですが、親鸞会ではどうでしょうか? 言葉だけはこのようなことが出てきても、実際は

因果の道理」「19願」「定散二善」「三願転入

といったことで、横の道を進んで縦の線で救われるには「善をせよ」ということばかりではないでしょうか?


そして、敢えて「聞いたことを実行する」というなら往生行として念仏一行を専らにするというのが我々のすべきことですが、親鸞会ではどうでしょうか? 念仏は列記したような善もどきの善の影にすっかり隠れて、お勤めの時、聴聞の前後に辛うじて出てくる位ではないでしょうか? 

一心にもつぱら弥陀の名号を念じて、行住坐臥時節の久近を問はず念々に捨てざるもの、これを正定の業と名づく。かの仏の願に順ずるがゆゑに。(観経疏)

と言われるように、「行住坐臥時節の久近を問はず」「一心にもつぱら」念仏しなさいと教えられています。しかし親鸞会の勧めは教義上でさえ「自余の諸行」、すなわち「雑行」です。これだけ違うのに「浄土真宗」の話だとか言っているんですから、こんな教えを聞いていて正しい信心が獲られる方がおかしいというものです。


「聞く」に「聞いたことを実行する」ことを含めるなら「聞く一つ」ではないし、我々の側に「○○しなければならない」という条件は無いし、「聞く」内容に「因果の道理」「19願」「定散二善」「三願転入」などは無いし、実行するなら念仏一つであって雑行ではありません。会員の皆さんには、このような浄土真宗からかけ離れた高森教とは一刻も早くおさらばし、本物の浄土真宗を聞くことをお勧めします。

「顛倒の妄念はつねにたえ」ないのは、「さらに未来の悪報をばまねかず」となった信後でも同じ事

小林麻央さん死去 がん闘病つづるブログに多くが共感

既に数多くのメディアで報道されていますが、小林麻央さん、闘病も空しく、22日夜についにお亡くなりになったそうです。34歳という若さで、お子さんもまだ幼いというのに、もう後生へと旅立たれてしまいました。

老いも若きも、事故でも病気でも、人の死なない日はありません。そうやって他人が逝くのを見送っている内に、自分も知らず知らずのうちに確実に年を取っています。水面下で密かに病魔が体を蝕んでいるかも知れません。そして自分もやがて必ず死んでいく、逝くのを見送られる立場となるのです。

しかし、紹介したように他人の死を聞いたその時は「自分もやがて死んでいかねばならないんだなぁ」と思っても、その思いは続かないのではないでしょうか? せわしない日常にそんな思いはすぐに消え失せ、今日一日を、明日を、どのように生きてゆくかで心はいっぱいで、自分が死ぬことなど夢にも思わなくなってしまうのではないでしょうか? 特に今日や明日にも死んでいかねばならないなんて、常にそのことを思い続けて生きてゆけますか?

今日や明日にも自分が死んでいくなど毛頭思えないから、会員の皆さんは今日も悠長に「善をして横の道を進んで・・・」などと構えていられるのです。親鸞会の教えは、この先何十年も健康に過ごせて、十分な活動が出来ることが大前提です。この先短い人、十分な活動が出来ない人は往生の望みを絶たねばなりません。教義に疑問を持たず、毎回親鸞会の入口のような話を聞き続けて、横の道を進むだろうとお布施をし、チラシ配りや声かけをし、家族を名前だけ入会し、上司の無理難題にも面従腹背で従っている方々がいると思うと、まだ気づかないかと本当にやるせない気持ちになります。

ちなみに、信心獲得した後も今日や明日死ぬことはあるまいと無常を先送りする心は無くなりません。『白骨の章』に書いてあるような痛切な無常を聞いて、その時はそうだなぁと思えても、その数分後、数時間後はもはや日常に心を奪われて忘れ去っています。

・『白骨の章』に書いてあることが「そうだ!」とハッキリ知らされて初めて大悲の願船に乗せて頂ける
・真実の自己がハッキリ知らされないと、大悲の願船には乗せて頂けない
・(真実の自己が)ハッキリ知らされるところまで、仏法を聞くことが肝要


だとか高森会長は降誕会で説いていたようですが、親鸞会で言う「『白骨の章』に書いてあること」「真実の自己」とは、「まぼろしのごとくなる一期」「一生過ぎやすし」「われや先、人や先」「朝には紅顔ありて、夕には白骨となれる身」等のことでしょう。それが「ハッキリ知らされる」とは、

「私の人生は幻のような一生」「一生はあっという間に過ぎる」「私が先に死んでゆく」「朝は元気でも夕方には死ぬ身」等のことを心にハッキリ思い定めて忘れないこと

だと忖度されますが、要は私の命は「常」だと思っていたのが「無常」だとハッキリ知らされるとかそんなことでしょう。そんな事は煩悩具足で世俗の生活をしている我々には不可能ですし、『白骨の章』に書いてあるような無常が知らされたことが信心決定でもないのです。それを表しているのが

しかれば、三毒の煩悩はしばしばおこれども、まことの信心はかれにもさへられず。顛倒の妄念はつねにたえざれども、さらに未来の悪報をばまねかず。かるがゆゑに、もしは平生、もしは臨終、ただ信心のおこるとき往生は定まるぞとなり。(真要鈔)

です。『教学聖典(2)』に出てきますから、多くの会員さんはご存じだと思います。「顛倒の妄念はつねにたえ」ないのは、「さらに未来の悪報をばまねかず」となった信後でも同じ事なのです。

そして往生の肝腑である「一向専念無量寿仏」を誤って教え、会員の獲信・往生を障碍しているのが親鸞会です。念仏以外の一切の善を廃して、「ただ念仏の一行にむかへ」というのが「一向専念無量寿仏」なのです。

それ一向専修の念仏は、決定往生の肝心なり。これすなはち『大経』(上)のなかに弥陀如来の四十八願を説くなかに、第十八の願に念仏の信心をすすめて諸行を説かず、「乃至十念の行者かならず往生を得べし」と説けるゆゑなり。しかのみならず、おなじき『経』(下)の三輩往生の文に、みな通じて「一向専念無量寿仏」と説きて、「一向にもつぱら無量寿仏を念ぜよ」といへり。「一向」といふはひとつにむかふといふ、ただ念仏の一行にむかへとなり。「専念」といふはもつぱら念ぜよといふ、ひとへに弥陀一仏を念じたてまつるほかに二つをならぶることなかれとなり。

(中略)

すでに南無阿弥陀仏をもつて正定の業と名づく。「正定の業」といふは、まさしく定まるたねといふこころなり。これすなはち往生のまさしく定まるたねは念仏の一行なりとなり。自余の一切の行は往生のために定まれるたねにあらずときこえたり。しかれば、決定往生のこころざしあらんひとは、念仏の一行をもつぱらにして、専修専念・一向一心なるべきこと、祖師の解釈はなはだあきらかなるものをや。


このように親鸞聖人の解釈は甚だ明らかなのですが、この解釈に背き、やれ宿善だ、19願だ、定散二善だと我々の往生に役に立たない「自余の一切の行」ばかり勧めて「往生のまさしく定まるたねは念仏の一行なり」と説かないのが高森顕徹会長です。これで浄土真宗だとか親鸞聖人の本当の教えだとか宣っているんですから、ギャグ以外の何物でもないでしょう。


小林麻央さん他、沢山の方々がその身を賭して「次はお前の番だぞ」と説法されているにも関わらず、相変わらず無常を遠くに眺め、延々と活動して疑問を抱かない会員の皆さんは、私からしたらとても正気とは思えません。これがマインドコントロールの恐ろしさなのでしょうか。どうか深く無常を念じて、いたづらに後悔を貽すことのないようにして頂きたいばかりです。

ただ回心して多く念仏せしむれば、よく瓦礫をして変じて金と成さんがごとくせしむ

空前絶後の~!
超絶怒涛の~!
将棋ブ~~ム!
ジャスティス!


どうも、サン〇ャイン淳心です。・・・嘘です(笑) ちょっと言ってみたかったんです(;'∀')

しかし、将棋の藤井聡太四段(14)がまた勝って、これでデビュー以来負けなしの28連勝となりましたね。凄すぎる(^ω^)・・・藤井四段のグッズや、小さい頃に使っていた将棋道具などが飛ぶように売れていることが報道され、今やテレビで彼の映像が出ない日は無い位です。次が26日、増田康宏四段(19)と対局だそうですから、楽しみです。

ところで、最近どっかで将棋について書いてあったのを見たなぁと思ったら、手品師さんの『将棋の譬え』という記事でした。引用させて頂きますと、以下の通りです。

********************
 おとうさんに会った人の中に山本太朗さんという人があった。この人は仏法はおろか、平素から人間の心とか思想とかに関心のない人で、その夜も「林さんのところへ偉い人が来る」ということで奥さんに引っぱられて仕方なしに顔を出したにすぎなかった。

 私が、この人は将棋が大好きな島一番の指し手であることや、店の仕事をほったらかして将棋に夢中になって奥さんに叱られている人であることを話して紹介したところ、一切勝負事をしないと聞いていたおとうさんが、「やあ、将棋ですか、将棋は素晴らしい!」といわれたのでびっくりした。

 おとうさんのいわれるのには、

 「将棋では桂馬さんでも香車さんでも歩(ふ)さんでも、敵の陣内に入ると〝成る〟といって金と同じはたらきをするんですね」

という話からだんだんと、

 「仏法さんでも、お念仏の世界に入れていただきますと、こんなお恥ずかしい者が、゛瓦礫(がりやく)も金と変じける〟と、仏さんと同じお徳がいただけるんです。将棋はそれと同じことを教えて下さっているので素晴らしい」

と、手を取り肩を叩いて親しく話をすすめていかれたので、はじめは場違いの所へ連れて来られた感じで面喰らっていた太朗さんも一度に打ちとけて話し合いの仲間に入ったのであった。

【北の大地に念仏の華ひらく おとうさんとよばれたひと 林 暁宇 響流書房より】

********************

「行文類」法照『五会法事讃』八文に、このようなお言葉があります。

かの仏の因中に弘誓を立てたまへり。名を聞きてわれを念ぜばすべて迎へ来らしめん。
貧窮と富貴とを簡ばず、下智と高才とを簡ばず、
多聞と浄戒を持てるとを簡ばず、破戒と罪根の深きとを簡ばず。
ただ回心して多く念仏せしむれば、よく瓦礫をして変じて金と成さんがごとくせしむ。


【現代語訳】
阿弥陀仏は因位のとき、弘誓をおたてになった。«名号を聞いて、わたしを念じるものをすべて迎えとろう»と。貧しいものと富めるものをわけへだてることなく、知識や才能の高下によってわけへだてることなく、博学多聞のものも清らかな戒律をたもつものもわけへだてることなく、戒律を破ったものも罪深いものもわけへだてることなく、ただ信を得て念仏すれば、瓦や小石を黄金に変えるようにしてお救いくださるのである。

文中の「おとうさん」はこれを説いていたのですね。いや素晴らしいお話です。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。



話は変わりますが、当ブログにこんなコメントが来ています。

********************
ところで淳心房さんは、念仏を称えているかどうかで信心の有無を判定できると考えてますか?
********************

何でこんな答えが見えている質問をしてきたのか考えていましたが、皆さんはどう思いますか? 予想では、

********************
念仏を称えているかどうかで信心の有無は判定できない。

真実の信心はかならず名号を具す。名号はかならずしも願力の信心を具せざるなり。「信文類」三心結釈

このお言葉の通り。同じように、「苦しみの人生が幸せな人生にガラリと変わる」かどうかで信心の有無は判定できない。高森先生は、「ガラリと変われば、それが信心獲得だ。」とは教えられていない。

********************

とか何とか答えて来そうです。もしそう来たら、

ならどうして「しかしながら、幸せな人生にガラリと変わっても必ずしも大悲の願船に乗ったとは限りません。」と蓮如上人に言わせないのか?

とでも答えましょうか。でも蓮如上人にこうは言わせられないでしょうね。確かに高森会長は

「ガラリと変われば、それが信心獲得だ。」

とは言っていませんが、親鸞会としては信心獲得と同時に苦しみの人生が幸せな人生にガラリと変わるということが売りで、幸せな人生にガラリと変わったのが信心獲得だと思い込ませたいわけです。現世利益を餌に信心獲得すれば全ての苦しみが報われるのだから、今は活動に邁進せよと会員の尻を叩きたいわけです。でも、蓮如上人に

「しかしながら、幸せな人生にガラリと変わっても必ずしも大悲の願船に乗ったとは限りません。」

と言われてしまったら会員の皆さんは混乱するでしょう。じゃあどうなったのが「大悲の願船に乗った」ことなのか、何をもって信心獲得したかを確かめるのか、など様々な疑問質問が出てくると思います。特に現世利益目当てで、浄土往生も結構だが今のこの苦しみを救うてもらいたいというのが本心な会員さんは困りますよね。会としては、これで会員の士気が下がったり、活動の結果が芳しくないものになるのが好ましくないわけです。ただでさえ「ここがゴールだ!」とか何百回言われてもどこがゴールだか分からないのに、ますます分からなくなって活動に消極的になる事態は避けたいと見えます。それよりも何よりも、いつも救いを匂わすだけ匂わして結局は「より一層光に向かって進ませて頂きましょう」で終わる、親鸞会の答えの無い答えに失望し、それを期に会員の皆さんが調べ出したりして、

空前絶後の~!
超絶怒涛の~!
退会ラ~~ッシュ!
ジャスティス!


とかなるのが一番まずいわけです。

会員の皆さんは何だかんだで、今の苦しい人生が信心獲得のタイミングで幸せな人生にガラリと変わることを夢見て、なけなしの金をはたき、時間を作って、気の進まないことでも我慢して活動していることでしょう。しかし、そのように活動することと信心獲得とは無関係ですし、信心獲得したら幸せな人生にガラリと変わるとも言えないのです。講師試験まで合格した程の会員の中には、高森会長の話と『教学聖典』を覚えている程度で本願寺の学者より上だみたく思っている痛々しい方がありますが、あまりに浄土真宗の教義に無知だから、『教行証文類』も浄土三部経もろくに読んだこともない高森顕徹会長に騙されてしまうのです。これからも機会を見つけて、そういった会員の皆さんの誤解を取り上げて記事にしたいと思います。

もしこの世の苦しみを何とかしようというのならこの世での成仏を目指すべきだし、信を獲たとて我々の罪が消えるわけではないので、当然その報いは信前と変わらず苦果として現れてくる

親鸞聖人は「信文類」冒頭にて、言葉を尽くして他力の信心を誉め讃えています。

つつしんで往相の回向を案ずるに、大信あり。大信心はすなはちこれ長生不死の神方、欣浄厭穢の妙術、選択回向の直心、利他深広の信楽、金剛不壊の真心、易往無人の浄信、心光摂護の一心、希有最勝の大信、世間難信の捷径、証大涅槃の真因、極速円融の白道、真如一実の信海なり。この心すなはちこれ念仏往生の願(第十八願)より出でたり。この大願を選択本願と名づく、また本願三心の願と名づく、また至心信楽の願と名づく、また往相信心の願と名づくべきなり。しかるに常没の凡愚、流転の群生、無上妙果の成じがたきにあらず、真実の信楽まことに獲ること難し。なにをもつてのゆゑに、いまし如来の加威力によるがゆゑなり、博く大悲広慧の力によるがゆゑなり。たまたま浄信を獲ば、この心顛倒せず、この心虚偽ならず。ここをもつて極悪深重の衆生、大慶喜心を得、もろもろの聖尊の重愛を獲るなり。

【現代語訳】
つつしんで往相の回向をうかがうと、この中に大信がある。大信心は、生死を超えた命を得る不思議な法であり、浄土を願い娑婆世界を厭うすぐれた道であり、阿弥陀仏が選び取り回向してくださった疑いのない心であり、他力より与えられる深く広い信心であり、金剛のように堅固で破壊されることのない真実の心であり、それを得れば浄土へは往きやすいが自力では得られない浄らかな信であり、如来の巧妙におさめられて護られる一心であり、たぐいまれなすぐれた大信であり、世間一般の考えでは信じがたい近道であり、この上ないさとりを開く真実の因であり、たちどころにあらゆる功徳が満たされる浄らかな道であり、この上ないさとりの徳をおさめた信心の海である。 この信心は念仏往生の願(第十八願)に誓われている。この大いなる願を選択本願と名づけ、また本願三心の願と名づけ、また至心信楽の願と名づける。また往相信心の願とも名づけることができる。 ところで、常に迷いの海に沈んでいる凡夫、迷いの世界を生れ変り死に変りし続ける衆生は、この上もない証を開くことが難しいのではなく、そのさとりに至る真実の信心を得ることが実に難しいのである。なぜなら、信心を得るのは、如来が衆生のために加えられるすぐれた力によるものであり、如来の広大ですぐれた智慧の力によるものだからである。たまたま、清らかな信心を得たなら、この信心は真如にかなったものであり、またいつわりを離れている。そこで、きわめて深く重い罪悪をそなえた衆生も、大きな喜びの心を得て、仏がたはこのものをいとおしみ、お護りくださるのである。

ここでも他力の信心を様々に言い換えられています。前の記事で紹介しましたが、「大慶喜心」も言い換えられた一つです。ここでは「大慶喜心を得」とありますが、私達の心が「大慶喜心」になるのではありません。それは、例えば「長生不死の神方」とあっても、信を獲た者はこの世で誰でも長生きして死なないということではないのと同じです。「大慶喜心を得」ましても、悲しい事に我々は煩悩によって喜ぶべきことを喜ばないのであります。また、「もろもろの聖尊の重愛を獲るなり」と説かれていても、それは私達の身に実感として知らされるのではありません。報仏、化仏が幻想的にでも見えて、私にだけ聞こえる言葉で誉め讃えて頂けたら分かりやすいし、嬉しいだろうになと思いますが、残念ながらそんなイリュージョンはないのであります。

また、親鸞会では故意に省略していますが、「なにをもつてのゆゑに、いまし如来の加威力によるがゆゑなり、博く大悲広慧の力によるがゆゑなり。」の一文が実は非常に重要です。他力の信心は「如来の加威力」「博く大悲広慧の力」によって得られる、すなわち阿弥陀仏からの一方的な下されものというわけです。私達が他力の信心を求めて様々に活動しなければ得られないというものではありません。これが分からず、こちらから向かっていかねばならない、何もせずして信心が獲られるはずがないとしか思えないから「真実の信楽まことに獲ること難し」なのです。「助けるぞ」の大悲招喚の勅命をそのまま頂いたなら、もはや「難し」ではなくなります。それを「難し」のままに据え置いて、会員の皆さんに信心を獲させないように邪魔をしているのが高森顕徹会長の邪説です。表現に賛否両論あるのを承知で言いますが、親鸞会の邪説を捨て去るだけで大分信心が獲やすくなるのではないかと思います。


さて、これが親鸞会会員と思われる方からの最後のコメントです。

コメント7
********************
信心決定しても相対の幸福しか求めない私たちでありますから、相対の幸福が得られれば幸せに感じますし、得られなければ苦しみます。苦しみの人生が幸せな人生にガラリと変わるということは、相対の幸福が崩れない、変わらないということではありません。

絶対の幸福とは、比類なき無上の幸福であり、ずっと続く幸せです。

永久の昔から流転輪廻してきた我らを、阿弥陀仏のひとり働きで、無条件に弘誓の船に乗せてくだされ、往生一定の身にして下されたという、比ぶべきものが一切ない身の幸が、心の内に常に絶えないことを絶対の幸福と言い表されているのです。

********************

この方の言葉で言いますと、

信心決定
=「絶対の幸福
=「苦しみの人生が幸せな人生にガラリと変わる
=「比類なき無上の幸福であり、ずっと続く幸せの身になる」
=「阿弥陀仏のひとり働きで、無条件に弘誓の船に乗せてくだされ、往生一定の身にして下されたという、比ぶべきものが一切ない身の幸が、心の内に常に絶えないこと

ということだそうです。が、まず親鸞聖人は「絶対の幸福」なる言葉は一箇所も使われていませんし、信心決定したら「苦しみの人生が幸せな人生にガラリと変わる」とか、「比類なき無上の幸福であり、ずっと続く幸せの身になる」などとはどこにも言われていません。恐らくこのような現世利益を謳う根拠としては「信文類」

金剛の真心を獲得すれば、横に五趣八難の道を超え、かならず現生に十種の益を獲。

等であろうと思われますが、「現生に十種の益を獲たこと」と、「現生に十種の益を獲たことが実感として知らされる」ことは違うということは

『飛雲』信楽と正定聚との関係も判らない高森顕徹会長の信心

等に既に述べられている通りです。「(浄土往生、往生即成仏を指して)比類なき無上の幸福を得る身となった」とは言えるやも知れませんが、あくまで浄土往生、成仏の果報は死んでからであります。親鸞聖人は「幸福」という言葉は使われておりませんし、「信心=幸福感」でもありませんので、上の等式は成り立ちません。地獄より行き場のないような我らが地獄逃れるだけでなく、報土往生して仏果を得るという無上の果報者となったにも関わらず、激しく燃え盛る煩悩が身に満ち満ちているため、私達はそういった天に踊り地に踊るほど喜ぶべきことをそれほどに喜ばないのであります。

ところで最後の等式は、半分当たりで半分はずれといったところでしょうか。そういう身の幸を常に感じることができればいいですが、やはり然るべき方から法をお聞かせ頂かないと、私達は法の有難みや御恩というものを忘れてしまいますし、喜びも薄れていってしまうように感じます。著書を読むでも、YouTubeやメモリーの動画・音声を聞くでも勿論いいですが、やっぱり生で聞くのがいいですね。半分はずれと言ったのは、高森会長の話では弥陀の救いは「ひとり働き」でも「無条件」でもないし、心の中が常に最高無上で不変の幸福感で満たされるようになるでもないからです。何らかの形で法に触れなければやっぱダメでしょうから、法話にもお参りするように言われるし、念仏相続、勤行、お給仕といったことも勧められるのでしょう。早く助かる方法とか、救いまでの道を進むということではなく、獲信の平生に往生は定まるのだけれども、常に如来の大悲を浴びに浴びながらそれに気づかない私を知らせ、その私が仏に成る不思議、有難さ、喜び、その御恩を知らせて頂くためには、法縁に触れる必要があると感じます。


あと、親鸞会で現世利益を謳う時によく言われるのが、

死んで堕ちる地獄の苦しみを解決して下さる力が阿弥陀さまにあるなら、この世の苦しみくらい簡単に救って下さるはずだ

という理屈です。しかし、これには根拠がありません。現世において成仏得道すればこの世の苦しみは無くなるかも知れませんが、それが無理だから私達は阿弥陀仏の本願力によって次生浄土に往生しようとしているのです。もしこの世の苦しみを何とかしようというのならこの世での成仏を目指すべきでしょう。それと信を獲たとて我々の罪が消えるわけではないので、当然その報いは信前と変わらず苦果として現れてくるのです。先世からの業、また今生の業が悪い人は今生もまた苦しみの連続ですよ。信後だろうと苦しいものは苦しいし、辛いものは辛いのです。変えたかったらこれからの行いを変えるしかありません。こればかりは致し方無いですね。ただ、死ぬ瞬間まで苦しみ喘いでいようと、それが浄土往生の妨げとはならないのだから不思議でしょう。それは

三毒の煩悩はしばしばおこれども、まことの信心はかれにもさえられず。顛倒の妄念はつねにたえざれども、さらに未来の悪報をばまねかず。(浄土真要鈔)

とあるように、信心は煩悩に障碍されないからです。ですから、心に喜びが有ろうと無かろうと、大きかろうと小さかろうと、阿弥陀さまに後生おまかせした信心がまことならば、間違いなく浄土にお連れ下さるとのことですので、それほど喜びが湧き出てこないのはどうしてだろうかなどと心配なさらないで下さい。もし今生の利益が無いようなものであっても、ゆめゆめ往生の大益を疑ってはなりません。

また、仏凡一体を勘違いして、私達の心が「仏心」になるとか、そこまでいかなくても「獲信者は仏心を体現する」と思っているとも考えられます。その証拠に高森顕徹会長は「仏心を体現した医師、出でよ」だとか言っているようです(『親鸞会公式ホームページ』高い技術と円熟の人格で、信頼厚い名医参照)。ただ、「仏凡一体」といっても我々凡夫の心が仏心に転成されるのではありません。これは、衆生の心にいただかれた法の徳(法徳)としていわれるのであって、衆生の現実のすがた(機相)の上でいわれるのではないのです。名号は私の往生成仏の因徳として宿るのですが、それを高森会長は衆生の現実のすがた(機相)の上に現れると誤解しているのでしょう。だから聞いている者も勘違いして、「高森先生は阿弥陀仏の御心が分かる無二の善知識」なんかと思い込んでいるのではと推測されます。


もしこの方の言うように、「比類なき無上の幸福であり、ずっと続く幸せ」が、そんな幸福感が常に私達の心にあるようなら、どんな苦果がやって来てもヘッチャラなはずです。何せ「最悪の死に直面しても変わらぬ安心、満足の境地」だそうですから、怒られたり酷いことを言われたり、怪我や病気になったり、大事な人と死別したり、交通事故で人をひき殺してしまったり、その他どのような事が身に起きても苦しみに感じることなどないのではないでしょうか。変わらぬ安心、満足が心にデンとしてあるんですから、「相対の幸福」が得られない、あるいは崩れた位で苦しみと感じるとは思えません。うつ病などの心の病気も完治し、「人間に生まれて良かった」、「よくぞ人間に生まれたものぞ」という生命の大歓喜で、どんな苦難もたくましく、前向きに、常に喜びを心に充満させて生きていけそうなものです。逆に「相対の幸福」が得られない程度で苦しんだりするなら「絶対の幸福」なんて呼ばれないのではないでしょうか。


長くなりましたが、これでコメントに対する返信は終わりとします。それで今回改めて感じたのが、

「高森顕徹会長(宗教法人浄土真宗親鸞会)がたまにまともな真宗教義をいう問題」の背景について

にあるように、高森会長の話はダブルバインドだからあのようなコメントが来たのかなということです。高森会長は批判に呼応して話をするので、宿善しかり、真剣な聞法・求道しかり、善の勧めしかり、次の回には今まで話していたことと違ったことを平気で言います。それを会員は「高森先生に間違いがあるはずがない」信心をもって受け止めるため、戸惑いつつもうまく脳内変換して両方正しいと信じます。この度は「信心の判定基準」、「絶対の幸福」等についてでしたが、それについて新たに高森会長が話をしたのかも知れません。あるいはただ高森会長を擁護したかっただけかも知れませんが、いずれにせよ「そんなことは聞いていない」と反論に来たのでしょう。

所詮高森顕徹会長は、創価学会の「相対的幸福」「絶対的幸福」という用語をパクって現世利益をちらつかせ、無上の幸福になれると夢見させて、己の夢の実現、欲望の追求、組織拡大のために会員を体よく利用しているに過ぎません。宮田さんもご指摘のように、

高森会長がたまにまともなことをいうのは、たまにまともなことを言って会員に「高森会長の言っていることは真宗である」と信じ込ませるためのポーズに過ぎません。

であります。度重なる募財にうんざり、中身のない話にうんざり、救われる気配も無いという方は、今や手元のスマホで何でも調べられますから、ここらでちょっと教義についても調べてみましょう。




【追記】
今まで、OHEさんのお名前を間違えておりました。大変申し訳ございません。記事の中の誤りはおおよそ訂正しましたが、まだ誤りのまま載っている可能性があります。自分でも探しておりますが、もし直っていない箇所があればどなたかご指摘下さい。残念ながらコメント文に関しては一度消さないと修正できないようなので、そちらの方は手直ししておりません。以上、皆様にご報告致します。

信を獲て後は何があろうと往生することは変わらないが、幸福感は変わる

11日(日)は富山で高森顕徹会長の話があったようです。内容としては

「苦しみの人生が幸せな人生にガラリと変わる」などと説くことは、二種深信以外の要素、つまり三業で信心の有無を判定していことに他ならない

等で扱ったのと同様に、

映画『なぜ生きる』の中の蓮如上人のお言葉
「大悲の願船に乗せられると同時に、私たちの苦しみの人生は、幸せな人生にガラリと変わります」
とはどう変わるのでしょうか?


という質問に答えるものだったそうです。飽きずに「絶対の幸福」を強調した後、今回は非難をかわすためか、

絶対の幸福=往生

と言っていたようです。ですが、高森会長の主張とは所詮、「相対の幸福」に対しての「絶対の幸福」です。

相対の幸福=比べて感じる幸せ

だというなら、

絶対の幸福=比べなくても感じる幸せ

とでもいうのでしょうか。いずれにせよ、特別な境地の幸福感、大安心大満足というような特殊な幸福感、たとえ死が来ても崩れない幸福感ということです。親鸞聖人が教えられたいわゆる不体失往生は、信心獲得の平生に報土往生の業因が決定することを言われたものです。臨終ではなく、平生に定まるから「念仏往生の機は体失せずして往生をとぐ」と仰ったのであって、我々の幸福感をどうこう言われたものではありません。

『飛雲』無碍の一道と絶対の幸福の違い

で言われているように、他力の信心が動乱破壊せられずであり、信心以外の事が動乱破壊せられずではありません。確かに、一度信を獲て後は、たとえどのような事が起ころうと、どのような心の状態になろうとそれらは浄土往生の妨げとはならず、間違いなく往生成仏させて頂けます。それが阿弥陀仏の不可思議の願力です。しかし、この信心は凡夫が自力で起こすものではなく、他力より回向せられる信心ですから動乱破壊せられずなのであって、幸福感とは別物です。なので、

絶対の幸福=往生

とすることには無理があります。幸福感は、我々凡夫の心が今の自分を幸せかどうか感じるものですから、信前信後関係なく、常に変化しています。良い事が起きれば幸福感は増大しますし、悪い事が起きればそれまでの幸福感はどこへやらということはしょっちゅうです。時には自殺したい位苦しいと感じることだってありますよ。それでも、浄土往生することは変わらないということであって、幸福感が崩れない変わらないということではないのです。


ところで今回も、『口伝鈔』一念と多念

如来の大悲、短命の根機を本としたまへり。もし多念をもつて本願とせば、いのち一刹那につづまる無常迅速の機、いかでか本願に乗ずべきや。されば真宗の肝要、一念往生をもつて淵源とす。

のお言葉を出して、「一念往生」を説いていたようですが、会員の皆さんはこのお言葉の前後を読んだことはあるでしょうか? 「真宗の肝要、一念往生をもつて淵源とす」る根拠として、覚如上人はこの後本願成就文を挙げておられます。一方、「多念をもつて本願としたまはば」と、「沢山の念仏を称える者を助ける本願だとしたならば・・・」いう話の中では

されば第十九の願文にも、「現其人前者」(大経・上)のうへに「仮令不与」と等おかれたり

と十九願について触れられています。更には十九願の行人のことを

非本願たる諸行を修して往生を係求する行人

と仰せられ、こうした自力の行者は

本願にそむき仏智に違すべし

と嫌われています。ですから、十九願を勧めるということは、非本願たる諸行を修して往生を係求する行人になれ、本願にそむき仏智に違反せよと勧めることに他なりません。親鸞会では十九願を勧めて本願にそむき仏智に違反しているのですから、「一念往生」とか、「今臨終の人でも救う」と言ったところでそれは言葉だけで、高森会長の話をまともに信じている限り「一念往生」も「即得往生」も分かるわけがないのです。まだ「一念と多念」の一段を読まれていない人は、上リンク先へ飛んで読まれることをお勧めします。


今はまだ救われていないが、死ぬまでには助かるだろう、助かりたいと思って富山詣でしている会員さんがほとんどかと思います。しかし、高森顕徹会長の話は救いを匂わせるものの、別方向に誘導されてしまい、目的の獲信・往生はかないません。『執持鈔』の最後で覚如上人が仰せのように、

本願を信じ名号をとなふれば、その時分にあたりてかならず往生は定まるなりとしるべし

我々は本願を信じ念仏を称えれば、必ず往生すべき身と定まるのです。この他、何も要りません。「我にまかせよ、必ず救う」という本願招喚の勅命をそのまま聞き受け念仏するのみです。特別な幸福感を得たいなら今後も親鸞会で聞いていけばいいですが、親鸞聖人と同じ信心を獲たい、浄土往生して迷いの世界を離れたいと願う人は直ちに親鸞会の教えから離脱し、18願一つ聞くことです。


【参照】
安心論題/即得往生

「浄土真宗 観勢寺」というfacebookのアカウントがあるそうです

浄土真宗 観勢寺

というfacebookのアカウントがあると情報を頂きました。いやいや、「親鸞会」が抜けてますよ~。観勢寺は既に親鸞会に譲渡されたのですから、「親鸞会」と付けないのはどうかと思います。教義内容からして「浄土真宗」でも「親鸞」聖人の教えでもないのですから、「高森教 観勢寺」というのが相応しいのは当然ですが、一応宗教法人「浄土真宗親鸞会」という名前でやっているのですから正式名称位名乗った方がよろしいかと。

浄土真宗親鸞会 観勢寺の紹介

こんな動画まで作っていることも教えて頂きました。英語や中国語などの字幕もあり、「日本より海外会員にアピールしているみたい」と仰っていました。お内陣や荘厳は「the 親鸞会」といった風で私も違和感を感じるところです。

お仏壇の上には「平生業成」、お仏壇に向かって左には「遇獲信心遠慶宿縁」、右には「即得往生住不退転」と書かれた額縁が飾られていますが、教えと全然マッチしていません。「平生業成」どころか一念の救いを求めて死ぬまで求道、ですから信心を獲られるわけもなく遠く宿縁を慶ぶなど夢のまた夢です。名号の謂れは正しく説かれていませんから信心歓喜するわけもなく、即ち往生を得て不退転に住するのはいつのことやら。

北陸道なら最寄りが立山ICと、小杉から近くありませんし、交通の便もあまり良くありません。また駐車場もあまり無さそうな感じです。リフォームしたばかりの現在はそこそこ使われているようですが、使用頻度としては各地にぼこぼこ建てた会館と似たようなものとなってゆくでしょう。豪華絢爛なリフォームをしてもね・・・という印象を受けます。観勢寺の維持費は会持ちなのかその地区の支部持ちなのかは分かりませんが、支部持ちだとしたら大変ですね。

映画を製作したと思ったら、祝賀会参加資格をちらつかせて映画の100枚券を買わせ、次はシネマ学院なる専用映画館まで造るそうですが、そうやって何やかんやと取りますね。その通りだと思った会員さんは、この機会に自分の今後の展望をよく考えてみましょう。このまま親鸞会で求めて後生助かるのかとか、今臨終となったらどうするんだとか。また、自分より熱心だったあの人を最近見ないという現象も各地で起きているかと思いますが、そういった人達は一体どうしているのかとかも、よく思いを巡らせてみたらよいかと思います。いっそ連絡を取ってみたらいいんじゃないでしょうか? 意外なことが分かるかも知れません。その事実を受け入れるのはよほどの地獄かも知れませんが、親鸞会で信心決定して喜ぶ自分の姿を展望できないという方はこの際やれることはやってみた方がよいでしょう。会員の皆さんの勇気ある行動・決断に、期待しています。

蓋(ふた)

私は仕事柄、配達の際にお客さんに印鑑を押してもらいます。ですがこの前、とあるお客さん宅で印鑑を求めたところ、いくら強く押しても印影が出ないということがありました。原因は、

蓋をしたまま印鑑を押していたから

でした。そりゃあそうですよねー(;^ω^) 最近のシャチハタは100均のでもきれいに印影が映るのですが、さすがに蓋をしていたら紙に印は映りません罠・・・


これで思い出されたのが、『信文類』

あきらかに知んぬ、至心は、すなはちこれ真実誠種の心なるがゆゑに、疑蓋雑はることなきなり。
信楽は、すなはちこれ真実誠満の心なり、極成用重の心なり、審験宣忠の心なり、欲願愛悦の心なり、歓喜賀慶の心なるがゆゑに、疑蓋雑はることなきなり。
欲生は、すなはちこれ願楽覚知の心なり、成作為興の心なり。大悲回向の心なるがゆゑに、疑蓋雑はることなきなり。


【現代語訳】
明らかに知ることができる。「至心」とは、虚偽を離れさとりに至る種となる心(真実誠種の心)であるから、疑いのまじることはない。
「信楽」とは、仏の真実の智慧が衆生に入り満ちた心(真実誠満の心)であり、この上ない功徳を成就した本願の名号を信用し重んじる心(極成用重の心)であり、二心なく阿弥陀仏を信じる心(審験宣忠の心)であり、往生が決成してよろこぶ心(欲願愛悦の心)であり、よろこびに満ちあふれた心(歓喜賀慶の心)であるから、疑いがまじることはない。
「欲生」とは、往生は間違いないとわかる心(願楽覚知の心)であり、往生成仏して衆生を救うはたらきをおこそうとする心(成作為興の心)である。これらはすべて如来より回向された心であるから、疑いがまじることはない。


のお言葉です。親鸞聖人は本願を疑う心を疑蓋、うたがいのふたと表現されています。本願力は私達衆生を迷いの世界から出離させ、往生成仏させようと常にはたらきかけているのですが、衆生の方でこれを疑うから生死にとどまるというのです。器にお茶を注ごうとしても蓋がしてあればどれだけ注いでも器にお茶は入らないように、どれだけ本願力がはたらいていても疑いの蓋が邪魔をしていたら往生はかないません。

ただ器の蓋は自分で自由に取れますが、疑いの蓋は自分で取ることはできません。如来の仰せを聞くところに取り去られます。「そなたを往生成仏する手はずは既に整えたから、どうか私にまかせてくれ」と、十劫の昔から喚び続けられている本願招喚の勅命に、そのまま「はい」と順うばかりです。「お前は迷いの世を出られん者だ、そのお前を迷いの世界から出させ、仏にするぞ」という誓いが私にはたらいていることが分かったら、こんな邪魔なものは要らないなと疑いの蓋が取れるのです。

聖者や善人ならいざ知らず、末代不善の凡夫、五障三従の女人である私達には、本願力に乗ずるより他にこの迷いの世界を出る手立てはありません。どうか本願招喚の勅命、なんまんだぶをそのまま聞き受け念仏し、往生を遂げて頂きたいばかりです。「助けすぞよ」を聞くのがすなわち信です。「助けるぞよ」を聞くことの他に信心はありません。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。


【参照】
WikiArc - 疑情

「1億円の融資」から推測される、高森顕徹会長の深い欲望

親鸞会では「難度海を度する大船」「大悲の願船」という言葉を頻繁に使用し、アニメでも実写化して見せています。それはさながら鰹節を削ったようなボートだと揶揄されていることはご存じかと思います。

アニメ映画『なぜ生きる』を見た聴衆(会員?)が

「私も(大船に)乗せてもらえるのかしら?」

と声にしているそうですが、これは阿弥陀仏の本願に対する疑いの声なのだそうです。しかし、初めて見たような人ならともかく、何十年と聞いている人に対しても疑いを除かせないようにしているとは、高森会長の罪の深さが知らされます。本願を信じ念仏すれば仏に成る、煎じ詰めればこれだけの話を、やれ宿善を求めよ、やれ六度万行だ、やれ廃悪修善だ、やれ19願だ、やれ三願転入だとどれだけ真宗と無関係な教義を説いて会員の獲信・往生を妨げているのでしょうか? 本願に対する疑いの例え話として、先日の講師部講義では

ある銀行が「すべての日本人に対して1億円融資します」と広告を出した。「銀行は私に貸してくれるだろうか?」と思うのは、その広告を知らないか、その広告を疑っているから

と説明したそうですが、「融資」というのが面白いですね。実に高森顕徹会長らしい例えです。

融資」とは当然「借金」のことですが、そう言えば入会の際に下付される親鸞会版の携帯用正御本尊は「贈与」ではなく「貸与」です。一時的には与えるが、後で取り返す気まんまんというわけです。親鸞聖人の教えは「本願力回向」、一方的に与える教えなのですが、高森顕徹会長は「回向」「回施」「布施」という言葉の意味すら知らないのでしょう。入会金5万円と引き換えに安物のコラージュ本尊を貸し与え、形だけでも仏凡一体にしてやったんだから有難く思えとでも言いたいのでしょうか。そして私のものになったのではありませんから、家族に引き継がせることもできません。親鸞聖人は

ときに祖師の仰せにいはく、「本尊・聖教は衆生利益の方便なり、わたくしに凡夫自専すべきにあらず。いかでかたやすく世間の財宝なんどのやうにせめかへしたてまつるべきや。釈親鸞といふ自名のりたるを、〈法師にくければ袈裟さへ〉の風情に、いかなる山野にもすぐさぬ聖教をすてたてまつるべきにや。たとひしかりといふとも親鸞まつたくいたむところにあらず、すべからくよろこぶべきにたれり。そのゆゑはかの聖教をすてたてまつるところの有情蠢々の類にいたるまで、かれにすくはれたてまつりて苦海の沈没をまぬかるべし。ゆめゆめこの義あるべからざることなり」と仰せごとありけり。(外邪鈔)

と、離れてゆく弟子に与えた本尊・聖教を取り返そうとしなかったのに、これが

なにごともなにごともしらぬことをも、開山のめされ候ふやうに御沙汰候ふ(御一代記聞書159)

と根拠も出して説いている者の姿なのでしょうか。形だけでも仏凡一体にしてやったんだから(貸与)、その恩を感じて、これから本当の仏凡一体の身になりたければ高森先生への報恩(返済)をしなさいとでも言いたげです。以前に高森会長は「二千畳は無上甚深の功徳の宝を取引をするところ」とか宣ってたらしいですから、無上甚深の功徳の宝と引き換えに金銭、財産、労働力を捧げよということなのでしょう。それでいて無上甚深の功徳の宝は正しく説き与えず、捧げ物だけ頂くという、高森顕徹会長の深い欲望が感じられます。


無上甚深の功徳の宝である南無阿弥陀仏は、そのいわれをよくお聞きすることで私と一つになると教えられます。果てしなく迷いを重ね、しかもそれを自分ではどうすることも出来ない私を哀れに思召して、「我一人助けん」と五劫永劫の願行を成就され、なんまんだぶとなって既に私の元へ届いているその名号を、計らいや先入観を交えたり、我が胸に持ち替えたりせずにそのまま聞き受け念仏のみです。念仏とは私の口で「なんまんだぶ」と称える行為だとしか思えないかもしれませんが、念仏とは阿弥陀仏より回向せられる選択本願の大行でありますから、正しく往生が決定する行業なのであります。阿弥陀仏が「なんまんだぶ」せよと仰っている、その仏願に順ずるから称名を正定業というのです。

弥陀の本願と申すは、名号をとなへんものをば極楽へ迎へんと誓はせたまひたるを、ふかく信じてとなふるがめでたきことにて候ふなり。(末灯鈔12)

「名号を称える者を極楽へ迎える」という本願の誓いを深く信じて念仏するのが、阿弥陀仏のお心にかなうことなのです。救いを匂わせ、現世利益をちらつかせて聞く者を釣り、己の深い欲望の実現に会員を利用するだけして信心を獲させない高森顕徹会長のやり方は実に卑怯で許されるものではありません。

さてさて開山聖人(親鸞)の御流を申しみだすことのあさましさよ、にくさよと仰せられ候ひて、御歯をくひしめられて、さて切りきざみてもあくかよあくかよと仰せられ候ふと[云々]。仏法を申しみだすものをば、一段あさましきぞ(御一代記聞書241)

蓮如上人のこのお言葉は、高森顕徹会長の言動に対して言われているように思えてなりません。会員の皆様には、どうかこのような開山聖人の御流を申しみだすあさましい新興宗教の会長から離れて、本願念仏の教えに帰依して頂きたいと思います。

「信楽」とは信心であって幸福感ではない

日曜日の講師部講義で高森会長が面白いことを話していたことは

『飛雲』「念仏は無碍の一道なり」が判らず否定する高森顕徹会長

にある通りです。相も変わらずアニメ映画『なぜ生きる』の蓮如上人のお言葉

「聞く一つで、大船に乗せる」ということは、阿弥陀仏の命を懸けたお約束だからです

について話をしたらしく、阿弥陀仏は「十方衆生を相手に信楽の身にしてみせる」と、何とかの一つ覚えで18願を話していたようですが、今回は

信楽は「絶対の幸福」

と説明したそうです。『飛雲』”親鸞聖人の教えられた二河白道の譬え”から見る絶対の幸福にある通りで、最近の親鸞会はやたらと絶対の幸福を強調しています。変わらない幸福になれると、幻想的な楽をちらつかせて新規会員を獲得する気なのでしょうが、阿弥陀仏の本願がどのようなものが全く分かっていないところから生じる妄言です

まず「信楽」ということについてですが、本願の三心の一つで、仏願の生起本末を聞いて疑いない心です。これは自分で起こす信心ではなく、阿弥陀仏より回向せられる信心ですから「本願力回向の信心」と言われます。要は他力の信心、真実の信心であって、幸福感ではないことに注意して下さい。『教行証文類』では

信楽は、すなはちこれ真実誠満の心なり、極成用重の心なり、審験宣忠の心なり、欲願愛悦の心なり、歓喜賀慶の心なるがゆゑに、疑蓋雑はることなきなり。(信文類)

「信楽」とは、仏の真実の智慧が衆生に入り満ちた心(真実誠満の心)であり、この上ない功徳を成就した本願の名号を信用し重んじる心(極成用重の心)であり、二心なく阿弥陀仏を信じる心(審験宣忠の心)であり、往生が決成してよろこぶ心(欲願愛悦の心)であり、よろこびに満ちあふれた心(歓喜賀慶の心)であるから、疑いがまじることはない。

とあります。往生が決定した喜びに満ち溢れた心であることは確かですが、あくまで本願力にお遇いできた、遇い難い教えに遇えた、間違いなく仏に成ることが定まったことへの「慶喜」です。親や伴侶、子供と死別しても、また交通事故を起こして人をひき殺してしまっても喜んでいるとかいう「狂喜」ではありません。そして大事なのは「疑蓋無雑」、本願に対して疑いが雑じることがないという点です。ですから『尊号真像銘文』では

「信楽」といふは、如来の本願真実にましますを、ふたごころなくふかく信じて疑はざれば、信楽と申すなり。この「至心信楽」は、すなはち十方の衆生をして、わが真実なる誓願を信楽すべしとすすめたまへる御ちかひの至心信楽なり、凡夫自力のこころにはあらず。

と「疑蓋無雑」の点に絞って教えられています。本願が真実であることを、二心なく深く信じて疑いないことが「信楽」であるというのです。なので、世俗的な幸福を「相対の幸福」と呼び、「相対の幸福」と比較しての「絶対の幸福」「変わらない幸福」というのとは違うのです。おそらく会員の皆さんが「絶対の幸福」「変わらない幸福」と聞いて思い浮かべるのは、今まで味わった最高の幸福感以上の幸福感がずっと続くというようなことだと思われますが、先ほど申し上げたように「信楽」とは信心であって幸福感ではないのです。

生きていれば良い事もあれば悪い事もあります。「生まれてよかった」と喜べる時もあれば「死んだ方がマシだ」と深く沈む時もあります。我々の身口意の三業でやること言うこと思うこと、その全ては煩悩であり、煩悩は信前信後通じて変わらないのですから、幸福感は有ったり無かったり、大きくなったり萎んだり、常に一定ではありません。そんなもの、信前も信後も一緒です。幸福感は我々の心が感じるもの、すなわち煩悩であり、心はコロコロ変わり通しなのですから、一定のままずっと続くわけがないのです。

ただ、幸福感に満ち溢れている時でも、逆に何もかもが辛く嫌になって自殺したい気持ちでいっぱいの時でも、本願を疑う心は無いというのが「信楽」です。凡夫自力の心とは一線を画しています。

このようなことですから、世の無常や自己の罪悪を観じ、迷いを離れて永生の楽果を得たいというのであれば、「絶対の幸福」「変わらない幸福」だとかいう幻想的な楽を追い求めるのはやめることです。「絶対の幸福」「変わらない幸福」などというのは、蓮如上人のお言葉で言えば「五十年百年のうちのたのしみ」「栄耀栄華」の範疇を出ません。

ただふかくねがふべきは後生なり、またたのむべきは弥陀如来なり。信心決定してまゐるべきは安養の浄土なりとおもふべき(1帖目11通)

であります。そして、選択摂取したまへる第十八の念仏往生の本願を信楽することです。

また他力と申すことは、弥陀如来の御ちかひのなかに、選択摂取したまへる第十八の念仏往生の本願を信楽するを他力と申すなり。(中略)
他力は本願を信楽して往生必定なるゆゑに、さらに義なしとなり。 (中略)
本願の念仏を信楽するありさまをあらはせるには、「行住座臥を簡ばず、時処諸縁をきらはず」(意)と仰せられたり。
(親鸞聖人御消息)

19願も20願も、廃悪修善の実践も、宿善を求めることも要りません。ただ本願の念仏、南無阿弥陀仏を信楽するのみです。それは、小賢しい凡夫の計らいを交えずに、ただ願力にまかせることです。

往生はともかくも凡夫のはからひにてすべきことにても候はず。めでたき智者もはからふべきことにも候はず。大小の聖人だにも、ともかくもはからはで、ただ願力にまかせてこそおはしますことにて候へ。ましておのおののやうにおはしますひとびとは、ただこのちかひありときき、南無阿弥陀仏にあひまゐらせたまふこそ、ありがたくめでたく候ふ御果報にては候ふなれ。とかくはからはせたまふこと、ゆめゆめ候ふべからず。(親鸞聖人御消息)

南無(我にまかせよ)阿弥陀仏(必ず救う)の仰せをそのまま聞き受け、仰せの通りにただ願力にまかせて往生を丸投げしてしまうのです。いかにも他人まかせのように聞こえますがその通りです。後生、往生ほどの一大事、自分の力で何とかなりますか? 何とかなれるという人は聖道門に行って自力修行によって迷いを離れるでしょう。しかし、龍樹菩薩や天親菩薩といった像法の時の智人も念仏の法に帰依しているというのですから、我が身の程を思えば尚更念仏の法しかないでしょう。

幻想的な楽、現世利益をちらつかせて、会員から多くのお布施を出させ、新規会員を多く獲得するのが「よき講師部員」。また少しでも多くお布施し、会員獲得に尽力すればその分だけ横の道を進めるだろう、やらないよりはやった方がいいだろうと思っているのが「会員」。そうではないでしょうか? 多少違いはありますが、

これについてちかごろは、この方の念仏者の坊主達、仏法の次第もつてのほか相違す。そのゆゑは、門徒のかたよりものをとるをよき弟子といひ、これを信心のひとといへり。これおほきなるあやまりなり。また弟子は坊主にものをだにもおほくまゐらせば、わがちからかなはずとも、坊主のちからにてたすかるべきやうにおもへり。これもあやまりなり。かくのごとく坊主と門徒のあひだにおいて、さらに当流の信心のこころえの分はひとつもなし。まことにあさましや。師・弟子ともに極楽には往生せずして、むなしく地獄におちんことは疑なし。なげきてもなほあまりあり、かなしみてもなほふかくかなしむべし。(1帖目11通)

の坊主と門徒の関係は、親鸞会と会員の図式と非常によく似ています。要るのかどうかよく分からないハコモノをまた建てることに疑問を持った方は、この際教えの真偽をよく検証してみましょう。

会員の皆さん、「シネマ学院」なる映画館は本当に必要ですか?

『飛雲』「念仏は無碍の一道なり」が判らず否定する高森顕徹会長

にも少し触れられていますが、現在親鸞会では同朋の里に映画館を建設中で、

シネマ学院

とか命名したそうです。今年9月に竣工予定とのことです。


別に映画館なんか建てなくても、正本堂のスクリーンか何かに映して見りゃいいじゃんとか思いますが・・・

アニメ映画『なぜ生きる』は各地の公共施設で上映会が行われ、公共施設の上映がない所は1台4000万円のアニメバスで上映をしているそうで、今更親鸞会内だけの映画館が必要とは私も思えません。去年親鸞会版の吉崎御坊(リフォーム)を建てたと思ったら今度は専用映画館です。これにまた何億円とかかるのでしょう?

会員の皆さん、「シネマ学院」なる映画館は本当に必要ですか?
プロフィール

淳心房&しゃあ

Author:淳心房&しゃあ
(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


(しゃあ)
平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
singikensho@yahoo.co.jp
(スパム防止のため@を大文字にしてあります。メール送信時は小文字に変えて下さい。)

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QRコード