「苦しみの人生が幸せな人生にガラリと変わる」などと説くことは、二種深信以外の要素、つまり三業で信心の有無を判定していことに他ならない

昨日も高森顕徹会長の話があったようで、内容としては

映画『なぜ生きる』の中の蓮如上人のお言葉
「大悲の願船に乗せられると同時に、私たちの苦しみの人生は、幸せな人生にガラリと変わります」
とはどう変わるのでしょうか?


という質問に答えるものだったそうです。この問答は

身も心も喜びに満ち溢れた「歓喜」ではなく、二心なき本願力回向の「信心」が清浄報土の真因
本願に疑い晴れても、何もかもハッキリするわけではない

等で書いたように1月2月にもありました。今回は『愚禿鈔』のお言葉

本願を信受するは、前念命終なり。[「すなはち正定聚の数に入る」(論註・上意)と。文]
即得往生は、後念即生なり。[「即の時必定に入る」(易行品 一六)と。文
また「必定の菩薩と名づくるなり」(地相品・意)と。文]


を出し、「(浄土真宗の)信心は、信(まこと)の心、仏心を阿弥陀仏から受けること。それは今までの命の臨終になる。肉体の臨終より心の臨終を急げ」ということで、

「某[親鸞]閉眼せば、賀茂河にいれて魚にあたふべし」と[云々]。これすなはちこの肉身を軽んじて仏法の信心を本とすべきよしをあらはしましますゆゑなり。これをもつておもふに、いよいよ喪葬を一大事とすべきにあらず。もつとも停止すべし。(『外邪鈔』)

を引いて話をしたそうです。


確かに本願を信受する前と後とでは変わるところはあります。ただし、

幸せな人生にガラリと変わったのが信心獲得なのか?

といったらそれは違います。あくまでも本願の仰せをそのまま聞き受けた、本願力回向の救いをそのまま受け容れたのが信心獲得であり、人生がどう変わったかとは無関係です。

信心獲得すると、苦しみの人生が幸せな人生にガラリと変わる

などというのは、逆に言えば

苦しみの人生が幸せな人生にガラリと変わらなければ信心獲得ではない

ということです。これは二種深信以外の要素、つまり三業で信心の有無を判定していることに他なりません。苦しみの人生が幸せな人生にガラリと変わったとか変わらないとかというのは、我々の心境、意業の変化だからです。最近ちょくちょくコメントをされる名無しさんと同じ主張です。高森会長も言うことがその場その場でコロコロ変わるので当てにならないことがよく分かります。

ところで、

信心を獲得したその時に正定聚の数に入る

とは教えられますが、「正定聚の数に入った」という自覚が起こるわけではありません。「正定聚の数に入った」という明らかな自覚があれば、七高僧のどなたも仰っていないというのはあり得ないのですが、これは親鸞聖人において初めてなされた解釈です。ですから、

現生で十種の利益を獲る

と教えられていますが、「現生で十種の利益を獲たことが実感として知らされる」ということではないということです。勿論救いの法をお聞かせ頂いて「あぁ、有難いな」と喜ぶ心はあっても、我々の心は変わり通しのため、何か面白くないこと、嫌なことがあったりすればそんな心はどこへやら・・・。逆に、悲しいことにまことの心、変わらない心はちっとも無いと知らされます。仏心を阿弥陀仏から受けるとあっても、我々の心が仏心になるのではありませんし、少しは清らかな心になるとかもありません。あくまで南無(我にまかせよ)阿弥陀仏(必ず救う)の勅命を疑い無くお聞きしたのであって、

「大悲の願船に乗せられると同時に、私たちの苦しみの人生は、幸せな人生にガラリと変わります」

といったような、信心を獲得したその時から我々の心が、幸せな状態にガラリと変化するというものではないことを知るべきです。そして、そんな悲しいあさましい心しか持たない身の上でも、本願を信じ念仏する者を決して見捨てず、間違いなく浄土に往生させると固く誓われた本願の仰せをそのままお受けするだけだということを知って頂きたいと思います。


私たちの人生が苦しみならば、それは私たちが蒔いた種です。ここに因果の道理を持って来なければなりません。お金が無いならば、仕事や人間関係に恵まれないならば、怪我や病気に苦しんでいるならば、その他苦境の原因は全て過去のいずれかに私が蒔いた種が現在苦果として現れているのです。そうやって苦しんでいる現状も、苦しむ心も、信心を獲得したその時に全て解決するかと言ったら全くそんなことはありません。お金が無い現状も、お金が欲しい心もそのままです。物事に恵まれない現状も、恵まれたいと求める心もそのままです。怪我や病気の状態も、それにより苦しむ心もそのままです。こんなものは死ぬまで変わりません。

このような浅ましい者を、このように浅ましい身の上のままで、往生成仏させるというのが大いなる慈悲の心によって起こされた阿弥陀仏の本願です。この本願に救われるにあたって因果の道理を持って来てはいけません。この本願は因果の道理を超えています。本願の救いにあたって、

・因果の道理を深信しなければならない
・廃悪修善に努めなければならない
・19願の善を精一杯やらなければならない


などといったことは一切ありません。苦しみの人生が幸せな人生にガラリと変化するなどと現世利益をちらつかせて聞く者を釣り、本願の救いに因果の道理を絡めて救いとは別方向に誘導し、組織拡大に利用し搾取するのが親鸞会のやり方で、こんな親鸞聖人の名を語った偽装浄土真宗、偽装親鸞聖人の教えは本当に許せません。「幸せな人生にガラリと変わった」などということは他宗教の信仰体験でもしばしば語られることなので、もしこんな体験を求めるなら別に親鸞会でなくともよいのです。


親鸞聖人や覚如上人のお言葉を用いていても、本とすべき「仏法の信心」が親鸞会では正しく説かれていません。それでは何十年聞いていてもその信心を獲得できないのは当たり前のことです。会員の皆さんには、ガラリと変わるというような心境の変化や、絶対の幸福だとかいう幻想的な楽を求めるのではなく、南無阿弥陀仏の六字のすがたをよく聞いて信心獲得し、往生を願って頂きたいと思います。

偽装勧誘、偽装ベストセラー、偽装建築、情報偽装、偽装大ヒット・・・とにかく偽装ばかりの親鸞会

会員宛てにこのようなメールが流れているようです。


富山の二千畳から、ほど近くにある高岡イオンの映画館で『なぜ生きる』の再上映が決まりました^ ^

↓お知らせです。
====
【高岡イオンの映画館で、『なぜ生きる』の再上映が決定しました。

5月27日(土)からの一週間。
1日に2回上映の予定です。

昨年5月21日に高岡イオンでの上映が始まり、29週連続上映の記録的大ヒットとなりました。

公開から1年経過した映画が、最大手のトーホーシネマで再上映することは考えられないことです。
それだけ『なぜ生きる』は凄いインパクトを与えたのでしょう。
皆さんに案内して下さい。
====



29週連続上映の記録的大ヒットうんぬんという話は今年の親鸞会発行『顕正新聞』年頭所感でも書いてあったと記憶しています。どうせ会員を総動員しての偽装大ヒットでしょ・・・ほぼ会員と会員が誘った人しか見ていない映画を、さも大ヒットしたかのように印象操作する親鸞会には、呆れて物が言えません。そうした親鸞会の大本営発表を真受けにしている会員の皆さんは本当に哀れです。

考えてみれば、親鸞会は偽装ばかりです。大学では正体を隠した勧誘、つまり偽装勧誘を繰り返していました。現在は昔ほどではないと思いますが、相変わらず偽装勧誘を続けているのでしょう。たまに当ブログを見て親鸞会だと気付いたという新入生の方からコメントを頂くことがあります。

一万年堂出版の発行部数も、講師部員や会員を動員して書店で買わせていたというのですから偽装ベストセラーです。降誕会や報恩講の時に御報謝に応じて『光に向かって100の花束』『なぜ生きる』などを貰っていましたが、あのようにして買った本を捌いていたと知った時はショックでしたね。

少し前に建てられたF館は、会員には5階建てと案内しながら、実際は6階部分に会長専用御殿を造っていました。案内と実際の建物が違う、偽装建築です。詳しくは嘘つき親鸞会、F館の巻等を参照して下さい。

『歎異抄をひらく』以降、歎異抄の解説書が出ていないというのも親鸞会の情報偽装です。アマゾンや他の通販サイトで、「歎異抄」と入れて検索すれば、『歎異抄をひらく』より後に出版された歎異抄の解説本など沢山見つかります。それを、未だに『顕正新聞』の情報を真に受けているとしたら情報遅れも甚だしいです。その遅れ度合は隣国もびっくりだ、と言ったら失礼でしょうか。

そして今回のアニメ映画『なぜ生きる』の偽装大ヒットです。映画を100回観たら祝賀会参加資格が得られるなどと言って前売り券を買わせ、組織ぐるみで映画館へ通わせていたんですから、そんなもの本当のヒットではありません。偽装です。

まぁ、元々が浄土真宗、親鸞聖人の名を語った偽装浄土真宗、偽装親鸞聖人の教えなのですから、これだけの偽装は起こるべくして起こっているのですが・・・。その内、経営難から弁当事業での食品偽装や産地偽装などしないか心配なのは私だけでしょうか?

さて、ではどれだけ親鸞聖人の仰せと高森顕徹会長の主張が違うか、今は『飛雲』より引用しておきます。


親鸞聖人の仰せと高森顕徹会長の主張との相違点

1.獲信していない人の死後はどうなるか

親鸞聖人 六道輪廻(19願・20願の同行は化土往生)
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高森会長 必堕無間

2.五逆罪・謗法罪について

親鸞聖人 造っている人と造っていない人がいる
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高森会長 造っていない人はいない、全ての人は生まれながらに造っている

3.善人と悪人について

親鸞聖人 善人と悪人とがいる
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高森会長 善人はいない、すべての人は悪人である

4.獲信のために善は必要か

親鸞聖人 念仏1つ、獲信に善は不要
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高森会長 善をしなければ絶対に獲信できない

5.白道とは

親鸞聖人 自力の心にあらず
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高森会長 自力

6.定散二善について

親鸞聖人 定散二善を捨てよ
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高森会長 定散二善をせよ

7.19願について

親鸞聖人 19願を捨てよ
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高森会長 19願を実践せよ

8.宿善について

親鸞聖人 過去世の善根の厚薄と、往生・獲信とは関係ない
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高森会長 過去世の善根の薄い者が、そのままで往生・獲信することはありえない

9.機の深信について

親鸞聖人 自力では出離できない
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高森会長 逆謗の屍と必ず知らされる

10.法の深信について

親鸞聖人 往生ほどの一大事、凡夫のはからふべきことにあらず
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高森会長 浄土往生が火に触ったよりも明らかに知らされる

11.善知識に無条件服従しなければならないか

親鸞聖人 法に従うのであって、人に従うのではない
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高森会長 善知識に無条件服従せよ

12.因果の道理について

親鸞聖人 罪福の因果を信じることは自力・仏智不思議を疑う心
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高森会長 因果の道理を深信しなければならない

13.三願転入について

親鸞聖人 聖道門の人を浄土門に導く方便が19願であり、19願の勧めはない
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高森会長 全人類は19願から始めなければならない

14.「一向専念無量寿仏」について

親鸞聖人 諸善を廃して念仏1つになること
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高森会長 阿弥陀仏1仏に向かって諸善をすることも含む



主要教義でもこれだけ親鸞聖人の教えと高森顕徹会長の主張は異なります。ですから細かい所を指摘していったらキリがありません。そして、会員を無常と罪悪でせめ立てて組織拡大要員として利用・搾取しているのですから、こんな宗教団体を偽装浄土真宗、偽装親鸞聖人の教えと言わずして何と言うのでしょうか。会員の皆さんには、親鸞聖人の教えを宗教ビジネスとして利用する悪知識の元から一刻も早く離れ、本当の浄土真宗を聞いて信心決定し、報土往生を遂げる身となって頂きたいと思います。

二種深信に照らして高森会長の信心を判定すると、高森会長は異安心

最近は『飛雲』でも書かれているように、程度の低いコメントが増えています。ネットでの非難をかつては(現在も?)「便所の落書きのようなもの」と表現していたのを、今では親鸞会の人間が批判サイトに「便所の落書きのようなもの」を書き込んでいる有り様です。
そんなものしか書き込んでこないということは、親鸞会側が批判者側に反論できないことの表れですし、親鸞会の教義以前の人間的なレベルの低さを露呈するだけなので、当ブログとしては嬉しいことです。ただ、コメント欄が荒れるので手放しでは喜べませんが。

さて、日を置いて親鸞会会員と思しき名無しさんがコメントをしています。ヤオさんの返信を一部切り取って「ヤオさんの主張はこうだ」と一方的に決めつけそれを非難するという、親鸞会らしいと言えばらしい内容です。

ヤオさんのコメント
********************
>高森先生の書かれた内容をさしているのですか?
>
>だとしたらそれは三業か三業でないかを尋ねているのです。

三業だとしたら、二種深信も三業なので、
信心は三業では判断できず、二種深信で判断するという高森会長は間違いだ。

三業でないとしたら、
信心は三業では判断できず、二種深信で判断するという高森会長の主張に関しては正しい。

********************

名無しさんのコメント
********************
ヤオさんへ。

>三業だとしたら、二種深信も三業なので、

書物が三業なら、書物に書かれている二種深信が三業と早合点して論点をぞらす作戦ですな。
それでは、他力の信心について書いたならば他力の信心は三業ということになりますよ。

********************

元々の、名無しさんが飛雲さんや淳心房の信心を二種深信以外の要素、つまりは三業で判断した書き込みはこちら。
↓↓↓
「他力廻向」といっても、それまでのプロセスが思いっきり自力ではね・・・


やり取りの中で、複数の方とのコメントの中で生じた現時点での結論がこちら。

↓↓↓

(1)真実信心か否かの判定基準

高森会長  二種深信のみ
――――――――――――
名無しさん 二種深信以外の三業を含む


(2)高森会長の信心を二種深信に照らして見てみると・・・

親鸞会批判者  異安心
――――――――――――
名無しさん    正信心



名無しさんは、擁護する高森会長の説を自ら否定し、しかも高森会長の二種深信についての理解が邪義であるということにまるで気づいていない様子です。

(1)に関してはコメントをご覧下さい。(2)に関しては、簡単に言いますと

・十方衆生の中には五逆、謗法、闡提の者もいるということで、十方衆生全てが逆謗ではない。
・一つの善もできないのではなく、我々の修める善根が薄少で迷いの世界を出離できない。
・地獄行き間違いなしと自分の中でハッキリするのではなく、自力では迷界を出離できないと深く信じたのが機の深信。
・浄土往生が自分の中でハッキリするのではなく、死後どのような処に生まれるかを含めて全て阿弥陀仏におまかせしたのが法の深信。


というのが親鸞聖人の仰せです。高森会長はこれと全く異なったことを主張していますので、二種深信に照らして高森会長の信心を判定すると異安心となります。

名無しさんは一体何をしたいのかサッパリ分かりませんが、論戦するならもう少しまともに議論してもらいたいものです。

高森会長が無常観と罪悪観を強調する理由

『飛雲』無常観と罪悪観を強調するのは土蔵秘事と同じ信心

を読んでなるほどと思いました。確かに親鸞聖人も蓮如上人も、親鸞会のように無常観や罪悪観を強調されてはいません。蓮如上人は罪悪について、以下のように教えられています。

一 順誓申しあげられ候ふ。一念発起のところにて、罪みな消滅して正定聚不退の位に定まると、御文にあそばされたり。しかるに罪はいのちのあるあひだ、罪もあるべしと仰せ候ふ。御文と別にきこえまうし候ふやと、申しあげ候ふとき、仰せに、一念のところにて罪みな消えてとあるは、一念の信力にて往生定まるときは、罪はさはりともならず、されば無き分なり。命の娑婆にあらんかぎりは、罪は尽きざるなり。順誓は、はや悟りて罪はなきかや。聖教には「一念のところにて罪消えて」とあるなりと仰せられ候ふ。罪のあるなしの沙汰をせんよりは、信心を取りたるか取らざるかの沙汰をいくたびもいくたびもよし。罪消えて御たすけあらんとも、罪消えずして御たすけあるべしとも、弥陀の御はからひなり、われとしてはからふべからず。ただ信心肝要なり と、くれぐれ仰せられ候ふなり。(『御一代記聞書』35)

 順誓が蓮如上人に、「信心がおこったそのとき、罪がすべて消えて往生成仏すべき身に定まると、上人は御文章にお示しになっておられます。けれども、ただいま上人は、命のある限り罪はなくならないと仰せになりました。御文章のお示しとは違うように聞こえますが、どのように受けとめたらよいのでしょうか」と申しあげました。
すると上人は、「信心がおこったそのとき、罪がすべてみな消えるというのは、信心の力によって、往生が定まったときには罪があっても往生のさまたげとならないのであり、だから、罪はないのと同じだという意味である。しかし、この世に命のある限り、罪は尽きない。順誓は、すでにさとりを開いて罪というものはないのか。そんなことはないだろう。こういうわけだから、お聖教には、<信心がおこったそのとき、罪が消える>とあるのである」とお答えになりました。
そして、「罪があるかないかを論じるよりは、信心を得ているか得ていないかを何度でも問題にするがよい。罪が消えてお救いくださるのであろうとも、罪が消えないままでお救いくださのであろうとも、それは弥陀のおはからいであって、わたしたちが思いはからうべきことではない。ただ信心をいただくことこそが大切なのである」と、繰り返し繰り返し仰せになりました。


一部、親鸞会発行『教学聖典』に載っている文章がありますので、会員さんにも馴染みがあると思います。罪が消えて救われるのか、消えないままで救われるのかは阿弥陀さまのお計らいであって、私達が計らうべきことではありません。ですからただ阿弥陀さまのお計らいにまかせること、信心を頂くことこそが大事なのです。このようなことですから、罪悪の有無よりも信心の有無を論じなさいと教えられています。
大事なのは罪が有るか無いかではなく、阿弥陀さまのお計らいにおまかせしたかどうか、すなわち信心が有るか無いかですから、別の箇所では以下のように教えられています。

一 仰せに、一念発起の義、往生は決定なり。罪消して助けたまはんとも、罪消さずしてたすけたまはんとも、弥陀如来の御はからひなり。罪の沙汰無益なり。たのむ衆生を本とたすけたまふことなりと仰せられ候ふなり。 (『御一代記聞書』39)

 「信心がおこるということは、往生がたしかに定まるということである。罪を消してお救いくださるのであろうとも、罪を消さずにお救いくださるのであろうとも、それは弥陀如来のおはからいである。わたくしたちが罪についてあれこれいうことは無意味なことである。弥陀は、信じておまかせする衆生をもとよりめあてとしてお救いくださるのである」と、蓮如上人は仰せになりました。

先に出したお言葉を簡潔にしたようなお言葉ですね。
私達がたとえどのような重い罪悪を抱えていても、阿弥陀さまの願力は無窮ですから本願を信じおまかせして念仏する衆生を決してお捨てになりません。ですから、蓮如上人はひたすら信心獲得を勧められています。私達が身口意の三業で普段どのような悪を造っているかとか、真実の自己は逆謗の屍なんだとか、罪悪を突き詰めるようなことは教えられていません。罪悪の有無を論じるより信心を得たかどうかが大事ですから、こちらでは「罪の沙汰無益なり」とまで仰っています。
対して親鸞会では、蓮如上人とは真逆で、無常と罪悪をやたらと強調してきます。特に私が学生の頃は来る日も来る日も無常と罪悪、地獄の強調。新勧合宿ではまるで煽ってくるかのようでした。一応言葉の上では信心獲得を勧めているかのように見えますが、信心獲得とは南無阿弥陀仏の六字のすがたを心得ることに他なりませんから、これを正しく説かないようでは信心獲得を勧めていないのと同じです。やれ因果の道理だとか、廃悪修善だとか、三願転入せよとか、19願から始めよとか、宿善を求めよだとか、こんなことばっかり説いていても浄土真宗の教えを説いたことにはならないのです。


高森会長が無常観と罪悪観を強調するのは、一つにはやはり出身母体の浄土真宗華光会の影響が大きいと思われます。例えば、『念仏の雄叫び』(増井悟朗師)には、

総じて昔は、生活感情の中に、無常観、罪悪観が自然にそなわっていた。魚を食べるというのは殺生だと教えられ、そしてそう信じられていた。それが今日はどうですか。おれがおれがの自己主張が当然の時代では、無常観も罪悪観も、薬にしたくてもない時代ではありませんか。だから現代では、仏法に入ろうとすれば、無常観と罪悪観から入らねばならないんです。もちろん、昔の人でも、信じなかった人は大勢いたでしょう。しかし、現代は、教育をはじめ、世の中の考え方がまるで違っているのです。それで、人生は、いつまでも続かぬぞ、また自分が善い善いと思っているのはまちがいで、あさましいんだぞ、という無常観・罪悪観からスタートするしかないんだと思いますね。(p.9)

とあります。この増井悟朗師の説を否定するつもりはありませんが、こうした華光会の流れを受けて、親鸞会では無常と罪悪を突き詰める機責めのような話が多いのだと思います。
また、高森会長自身の入信の過程も色濃く影響していると推測されます。同じく『念仏の雄叫び』には、

彼は、私から手渡されていた恩師の入信体験記『仏敵』にかじりついて、無常観、罪悪観をつき進めて、ついに獲信したようでありました。(p.15)

とあります。本文中の「彼」とは、T君と書かれていますが、高森会長のことでしょう。

『さよなら親鸞会』高森顕徹氏の嘘つき信心

にある、高森会長が書いたとされる獲信の記録にも、『仏敵』を借りたなど共通する記述が見られます。実際に高森会長がどのようなことをして、どのような心境の変化を辿って獲信の記録にあるような境地に至ったかは定かではありませんが、増井師の憶測も当たらずとも遠からずといったところでしょう。

そして、無常と罪悪の話は比較的分かりやすく、かつ組織拡大要員を効率よく生産し稼働することができるという点がやはり一番かと思います。私が親鸞会に在籍し求めていた理由も、親鸞会で説かれる人間の実相部分の話が真実であり、この無常と罪悪の問題を解決しなければ本当の幸せにはなれないと思ったからでした。今日明日にも訪れるかもしれない無常と、日々造りに造り続けている罪悪を強調して聞く者を煽り、その解決には善をせよと献金、勧誘、無条件服従を勧めて組織拡大を図っているのです。

親鸞会、高森会長の問題点は、救いの法、南無阿弥陀仏の六字のすがたをを正しく説かないところにあります。浄土真宗の救いとは無関係なことばかり勧めて、阿弥陀さまのお計らいにおまかせさせないようにしているところにあります。平生業成、現生不退、不体失往生と言いながら会員の皆さんがいつまでもその身になれないのは、高森会長が正しい浄土真宗の救いを説いてないからです。初めて仏法を聞かれるような人には無常と罪悪についてもお話する必要があるかも知れませんが、既にそんな話ばかり聞かされて機責め状態にあるような会員の皆さんにはもう十分でしょう。それよりも、早く南無阿弥陀仏の六字のすがたをよく聞いて信心獲得なさって下さい。親鸞会で聞けないならば、他に聞ける方を、書いてある本を、音声や動画を探して下さい。真実が説かれているのは親鸞会だけだなどという先入観は捨てて、早く大いなる慈悲の誓願を信じおまかせして頂きたいと願います。

法論以前の、日本語の問題でつまづいている親鸞会

「他力廻向」といっても、それまでのプロセスが思いっきり自力ではね・・・

のコメント欄でのやり取りが続いています。ONEさんのコメントに対し、親鸞会会員と思しき名無しさんが

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>あなたの考えでは、
真実の信心かどうかを二種深信で判断するとした高森会長も間違いだと否定することになりますね。

そんなこと言ってまでせんよ。日本語をよく理解するべきです。

高森先生の信心が間違っているということをあなたは何によって判断したのかを聞いているのです。
ニホンゴワカリマスカ

********************

と書き込んでいます。確かにONEさんが仰ったようなことは書いていませんが、私や飛雲さんの信心を二種深信以外の要素(ブログの閲覧者数の増減、ブログの一時休止等)で勝手に自力信心と決めつけているのですから、

真実の信心かどうかを二種深信で判断するとした高森会長も間違いだと否定

したのと同じことです。日本語が分かっていないのはどちらでしょうか?


それと高森会長の信心は本当のところはどうか知りませんが、言っていることはまるで邪義です。二種深信についての理解が親鸞聖人の仰せと異なるので、二種深信を判定基準とすると高森顕徹会長は異安心です。高森会長は二種深信をどう説明しているか、ヤオさんがコメントされていますのでお借りします。

********************
『なぜ生きる』の機の深信の説明

・無明の闇が晴れると、自己の姿がハッキリ見える。これを「機の深信」といわれる。(14章)

・聖人が自己のすべてを「雑毒虚仮」(他人ダマシのうそっぱち)と嘆かれたのは、無明の闇が晴れて知らされた、真実の自己の姿である。(17章)

・どうしようもないこの、極悪最下の自己を見きわめさせられた聖人には、
「いずれの行も及び難き身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし」(『歎異鈔』)
 ドン底の絶望しかなかったのだ。(18章)

・「本来、人間には邪悪の心しかなく、まことの心もなければ、清らかな心も、まったくない」
 地獄一定の門を通らねば、決して知らされることのない、私達の実相であろう。(18章)

・自身は、現に、これ罪悪生死の凡夫、曠劫よりこのかた、つねに没し、つねに流転して、出離の縁あることなし、と深信す     (機の深信)
「現在、私は極悪最下の者、果てしない過去から苦しみつづけ、未来永遠、救われることのないことがハッキリした」(19章)

これは、善導大師、親鸞聖人の仰っている機の深信ではないから、高森会長は二種深信が立っていない、つまり真実の信心ではないと判定できる。

********************

二種深信については、詳しくは『飛雲』や、

浄土真宗親鸞会は、親鸞聖人のみ教えと同じか? :⑨機の深信について
浄土真宗親鸞会は、親鸞聖人のみ教えと同じか? :⑩法の深信について

等をご覧下さい。簡単に言えば、

私は煩悩具足で罪悪にまみれ、自力では決して迷いの世界を出られない者だ

と深く信じたのが機の深信、

全く阿弥陀仏の本願力によってのみ往生する

と深く信じたのが法の深信です。この機法二種深信を、善導大師や親鸞聖人のなされなかった解釈をし、摩訶不思議の神秘的体験と位置付け説明しているのが高森顕徹会長です。ですから、二種深信に照らして高森会長の信心を判定するならば、異安心ということになります。


相変わらずの論点ずらしで煙に巻こう、負けていない体を装おうと書き込みをしているのがひしひしと感じられる名無しさんのコメントです。ONEさん、ヤオさんにはこんな下らないやり取りに付き合って下さり感謝します。

法論ができるだけの力をつけてください?? それって、親鸞会のことですよ

「他力廻向」といっても、それまでのプロセスが思いっきり自力ではね・・・

のコメント欄で、親鸞会の会員と思しき名無しさんと、私を含め数名の方とのやり取りが続いています。元々は名無しさんの以下のコメントから始まりました。

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月別アーカイブ件数を見ると、昨年10月をピークに減ってきてますね。やはり自力信心では勢いは続かないのですね。いくら口先でもっともらしいことをいっても、現実をみれば自力信心であることは明白ですね。他力に救われた恩徳讃の心がないから当然でしょう。
本当に恩徳讃の気持ちがあるなら、親鸞会の批判なんかで無駄な労力を使うより、仏とも法とも知らない衆生に仏教を伝えることに命をかけるでしょう。恩徳讃の気持ちがないことは明らかで、自力信心だから親鸞会批判の名誉欲という原動力しかなく、だから続かないのです。
勢いがなくなったり、休むことは、どんなに言い訳しても自力信心である証拠。
飛雲なんかも、F館の設計図を外部にもらしたために特専部を除名になった恨みが原動力だから 、仏とも法とも知らない純粋な人に教えを伝えることは全然してませんよね。
この事実にいくら反論や言い訳をならべても、事実を変えることはできないですから、自力信心であることが証明されます。

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コメントを見る限り、当ブログの閲覧者数や、ブログを休むこと等をもって私淳心房の信心を自力信心と決めつけています。そんなことで自力信心かどうか証明されるというなら、三業で信心を判断できるということです。これは、コメント欄でONEさんがご指摘のように、真実の信心かどうかを二種深信で判断するとした高森会長も間違いだと否定することになりますね。


それと、名無しさんは私に対して以下のコメントを返しています。

********************
>こんなコメント欄で小競り合いをしていても埒があきません。法論実現で全て解決します。

そうです。法論ができるだけの力をつけてください。

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おかしなことを言いますね。法論ができるだけの力をつけてください?? それって、親鸞会のことですよ。

法論云々とは、2012年3月18日に『飛雲』より高森顕徹会長へ

書面で法論を申し込んだら、”検討する”だそうです

という法論の申し込みがあり、高森顕徹会長が一向に飛雲さんとの公開法論に応じないことに対して私がコメントしたものです。全くもって名無しさんの言っていることが意味不明なのは私だけでしょうか?


それと私が指摘している、

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おかしな教義と仰いますが、どこがどのようにおかしくて、正しい教義はどうなのか、聖教に基づいて示して頂けますか?
********************

ということに関しては、この記事を書いている現在で一切コメントがありません。対して『飛雲』では、十数項目に亘って親鸞聖人の仰せと高森顕徹会長の主張との相違点を、聖教に基づいて示しています。


組織からのネット対策なのか個人的なコメントなのかは知りませんが、コメントを挙げ連ねたところで親鸞会側が法論に応じる気がない事実と、自分が言っていることと親鸞会教義との矛盾をさらけ出すだけです。

当ブログからは、まず実現はしないでしょうが、高森顕徹会長が飛雲さんとの公開法論に応じて、どちらが正しい親鸞聖人の教えかをハッキリ決着をつけることを求めます。

親鸞会の歴史は法戦の歴史であり、法戦の歴史はそのまま真実開顕の歴史
(親鸞会発行『法戦①』はしがき より)

とか何とか言っていた頃が懐かしいですね。もうその歴史に終止符が打たれていますが。

お天道様を見たら傘は要らない

浄土真宗の信心は自分で起こす信心ではありません。ではどうやって起きる信心かと言えば、阿弥陀さまより恵み与えられる信心、阿弥陀さまより起こされる信心です。阿弥陀さまより賜るので、信心獲得とか、信心を頂くと言われます。

ここで私達につまづきが生じます。信心獲得、信心を頂くという言葉の響きから、ついつい、何か物を貰うように確固たる信念のようなものが心に出来上がるように思ってしまいます。そして、信心を頂こう頂こう、どうしたら頂けるのかと、貰う事ばかり考えてしまいがちです。

しかし、そういうものが真宗の信心ではありません。南無阿弥陀仏の六字のこころ、すなわち「そなたを助けるぞ」の仰せを計らい無くそのまま聞き受け、阿弥陀さまの仰せの通りに後生をおまかせしたのが信心です。ですから、私の中には別段確固たる信念のようなもの、信心らしい信心というものはありません。信心といってもただ南無阿弥陀仏。南無阿弥陀仏の六字のすがたを心得る他に信心は無いのです。


こうして、阿弥陀仏の願いを聞き受け、願いの通り往生することが間違いなく定まったことを、『領解文』では

もろもろの雑行雑修自力のこころをふりすてて、一心に阿弥陀如来、われらが今度の一大事の後生、御たすけ候へとたのみまうして候ふ。 たのむ一念のとき、往生一定御たすけ治定と存じ

と言われています。

阿弥陀さまの「助けるぞ」の仰せを聞いて、仰せの通りに往生をおまかせした時が、もろもろの雑行雑修自力のこころが廃った時です。ここでもつまづきが生じがちですが、「ふりすてて」と書いてあるからとて、自分で捨てられるものではありません。あくまで如来の仰せを聞くところに自力が廃るのです。

このことについて、阿部信機先生は、「お天道様を見たら傘は要らない」と度々お話しされています。今日の天気は晴れだろうか、雨だろうか、念の為傘を持って出ようかと玄関をガラガラと開けると、空は雲一つない青天。その青空を見て、こんな邪魔なものは要らないなと傘を置いて出るように、「お前はこの迷いの世界を出られん者だ、そのお前をそのまま救い摂るぞ」という阿弥陀仏の願いが既に成就して私に働いていることが分かったら、こんな邪魔なものは要らないなと自力の計らいが廃るというのです。

これが逆に傘を置いたら空が晴れるかといったらそうではありません。青空を見て傘を置くわけです。本願を聞いて自力が廃るのです。自力を捨てようというのも自力、その自力を捨てようというのも自力です。そんなもの、自分が座っている座布団を持ち上げようとしているようなもので、いつまでたっても自分の力ではどうしようもありません。

決して迷いの世界を出られない者を必ず迷いの世から出離させ、仏にするぞという願は既に成就して、南無阿弥陀仏となって私に届いています。この真実なる誓願を疑い無く信楽したのが自力の廃った時、それが信心決定、信心獲得、他力信心です。ですから『御文章』には、

さてその他力の信心といふはいかやうなることぞといへば、ただ南無阿弥陀仏なり。この南無阿弥陀仏の六つの字のこころをくはしくしりたるが、すなはち他力信心のすがたなり。 (3帖目2通)

そもそも信心といふは、阿弥陀仏の本願のいはれをよく分別して、一心に弥陀に帰命するかたをもつて、他力の安心を決定すとは申すなり。されば南無阿弥陀仏の六字のいはれをよくこころえわけたるをもつて、信心決定の体とす。(3帖目7通)

等とありまして、南無阿弥陀仏の六字のこころをよく知りなさいと繰り返し繰り返し教えられるのです。

・因果の道理を執拗に説く
・往生のために廃悪修善を実践せよ
・真実の自己が知らされなければならない
・地獄必定の自己に驚き立たねばならない
・善のできない自分と知らされなければならない
・そのために精一杯善をせよ


などなど、このような教えは親鸞聖人、蓮如上人の上に見ることはできません。

前にも書いたように、浄土真宗に秘密の教えはありません。親鸞聖人の教えを一器の水を一器に移すように教えられたのが蓮如上人というなら、『御文章』に明記されている教えが親鸞聖人の教えです。

私達が聞かなければならないのは、南無阿弥陀仏の六字のこころです。この私を仏にせずば、我も正覚ならじと固く誓われた願が成就して常に私に働きかけていることが分かったなら、「どうしたら」「どうすれば」なんて心配や力みは無用。素直に後生は阿弥陀さまにおまかせです。この念仏の教えに遇うことができて本当に良かったです。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。

これって事業仏教でしょ・・・

会員宛てに以下のメールが来ているようです(一部伏字にしています)。


下記、サンキューからお知らせを頂きました。
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商品は陳列しております。18日(土)15時~○○、△△が会館にいますので、購入できます。
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※メールは過去のもので、既に販売は終了していると思われます。


こんなの、仏法と何か関係がありますかね?

会員の皆さんはこういうのに慣れっこになってしまっているのかも知れませんが、事業仏教化して中身がカスカスの実態にどうか気づいてもらいたいものです。

「他力廻向」といっても、それまでのプロセスが思いっきり自力ではね・・・

昨日の高森顕徹会長の話は、

「絶対の幸福」だとかいう幻想的な楽を獲たいというのは、「ご利益が欲しいという欲望から作った信心」に他ならない

で紹介した話の一部繰り返しと、その続きという内容だったようです。


相変わらず「若不生者」の「」について自説を展開した後、

自力の迷信しか持たない自分が「信楽」の身になるには、阿弥陀仏から仏心を頂くしかない

として、今回は『正像末和讃』

如来の作願をたづぬれば
 苦悩の有情をすてずして
 回向を首としたまひて
 大悲心をば成就せり


の和讃を出して「他力廻向」の話をしたそうです。

「信楽の身になる」という表現が引っ掛かりますが、とにかく私達が浄土に生まれるには、信楽を獲得しなければなりません。それは自分で起こすものでも、自分から取りに行けるものでもありません。阿弥陀仏から一方的に与えられるものです。「阿弥陀仏から仏心を頂くしかない」というのはその通りです。ただそれは、時々法友通信等で取り上げられ、会員の大多数が思っている、

・一念の決勝点まで光に向かって進ませて頂きます

というような、私が未来の救いに向かってある程度自力で求めてゆくものではありません。これでは、阿弥陀仏の救いは「名号を成就したから、助かりたければ私の元まで取りに来なさい。そうすれば授けてやるぞ」というようなものです。これは間違いです。

只今、ここにいる、この私一人目がけて喚び続けられている本願招喚の勅命、すなわち「我汝を助けるぞ」の仰せを、今私がこの場で計らい無く聞き受けるだけです。私を往生成仏させるはたらき、南無阿弥陀仏は既に成就して、いつでもどこでも私にはたらきかけていますから、善知識から教えを聞いてそれが分かったなら、もはや凡夫の小賢しい詮索は要りません。計らいは廃り、素直に本願力に身を任せたのです。如来のお助けに、助けられたのです。これが「信心を頂く」「仏心と凡心と一つになる」ということです。

これが本願力回向、他力廻向ということですが、親鸞会ではこうした浄土真宗の教えを「無力」として否定しています。じゃあどうなったのが「他力」かと言えば、大雑把に言いますとまずは「自力」で求めていって、「もうダメだ」「自力間に合わなかった」と精根尽き果てた時に「タダで救うぞ」と摂取される、これが「他力」だと教えています。おそらく会員の皆さんはこのように考えているからこそ、うんざりするほどの募財や活動にも参加し、上司への無条件服従にも我慢しているのでしょう。これが、このような活動とは無関係に阿弥陀さまから回向せられるのだとしたら、あれほど熱心に活動したりしないと思います。

「他力廻向」といっても、それまでのプロセスが思いっきり自力ではね・・・残念ながら信楽を獲得することも浄土往生もおぼつきません。会員の皆さんには、我らの往生の因も果も、全て阿弥陀さまから賜り、自力の混じる隙は一部もないことを知って、直ちに本願招喚の勅命に順って頂きたいと思います。

目に見えるものは不真実なもの、目に見えないものこそ真実

人員不足に加えて年度末のため、例年ではあり得ない物量をやっています・・・。単に物量が多いだけではなく、休み明けに出勤すれば、再配達の荷物すら回っていない状況。代わりに謝るのもいい加減イヤになりました。いつまでこんなことが続くのか・・・。

あのYマト様でさえ人員不足等を背景に運賃の値上げに踏み切ろうというのですから、うちも身の丈に合った集配をしてもらいたいものです。荷物を取るだけ取っても、運ぶ人がいないのですから、着かないだの時間通り来ないだのとクレームが増えることは誰の目にも明らかです。その内、バックレる奴や、心身の疲労から事故を起こす人間が更に増加するでしょう。自分はそうなりたくないですが、ならないとも言い切れません。それを見て見ぬふりなのか、全て現場まかせにする上の連中にはほとほと愛想が尽きます。


さて、『歎異抄』後序

煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、よろづのこと、みなもつてそらごとたはごと、まことあることなきに、ただ念仏のみぞまことにておはします

のお言葉についてこの前教えて頂いたので、今回はそれに自分が思ったことも含めて書きたいと思います。


私達は普通、目に見えるものこそ真実であり、目に見えないものなど虚構に過ぎないと否定することがままあると思います。だから死後の世界を否定したり、「仏様なんているの?」「目に見えない仏様をどうやって信じたらいいんだ?」という人もあるでしょう。ですから、この記事のタイトルを見て「は?」と思った方もあるかも知れません。

しかし、私達が見ているもの、人物も風景も物も、全てはやがて変化したり壊れたり、全く別のものになったりします。例えば、私を含めて家族も、同級生も、先生も、近所の方々も、面影はあるものの昔とは姿形が違っています。特に子供は赤ん坊の頃とは別人のようになっています。子供の成長の場合は良い意味ですが、病気を患った方などは悪い意味でその変化に驚いてしまいます。縁起でもありませんが、死人を目の前にすると、「これがこの前まで生きていた人か?」とびっくりするほど変わってしまいます。
また私の実家の方では、最近圏央道が出来まして、昔見ていた風景とは随分異なってしまいました。物では、この前携帯が壊れたと思ったら今度はレンジが壊れて買い直したり、色々なものが時節到来しております(泣) 中には壊れて買い直したばかりのパソコンやスマホでこの文章を読んでいる人もあるかも知れません。

こうして姿形が変化することもそうですが、私達は普段色々な人、モノを信じ、当てにして生きています。「まさか今日自分が死んだり、人を殺したりしないだろう」「今日も一日無事に過ごせるだろう」と信じています。働けば相応の対価を獲られると信じて働いています。自分や家族は世間を騒がすような悪いことはしないと信じて生活しています。荷物の再配達を頼んだ人であれば、指定した日時に荷物が来るだろうと信じているでしょう。他にも各人各様、程度の差こそあれ、何かを信じ、当てにして生きてます。

その信じる対象や、信じる自分の心は正しいでしょうか? 裏切らないでしょうか? 変わらないでしょうか?

今日死ぬつもりのない人が、事件や事故などで亡くなっています。給料や残業代の未払いで苦しんでいる人。事件や事故で人を傷つけたり殺したりして、当事者でなくとも家族や親せきというだけで叩かれている人。素行の悪い生徒ということで顔写真付きの資料がupされて心を痛めている人。荷物が指定通り届かなくて怒っている人。予算委員会なのにM学園追求委員会化して名前を挙げられ、答弁に困惑している人。それを見て落胆やら怒りやら、ため息しか出ない私達。「まさかこんなことになるとは・・・」ということばかりではないでしょうか?

時には、裏切るつもりがなくても結果的に裏切る、裏切られるということもあります。自分が気をつけていても、事件事故を起こしたり、巻き込まれたりする時はあります。また、自分の心が変わってしまって、それまで大切だと思っていたことがどうでもよくなってしまうこともあります。自分が昔収集したものなど、今からしたら無駄遣い以外の何物でもなかったなというものが多いです。あんなに好きだった人・物・事が、そうでもなくなったり、逆に嫌で仕方なくなったり・・・。誰しも経験済みと思います。

もうお気付きのことでしょうが、私達の目に見えるもので確かなもの、変わらないものは一つもありません。今私達が見ているこの眼ですら、やがては死んで焼いていくんですから、親鸞聖人の仰せの通り

よろづのこと、みなもつてそらごとたはごと、まことあることなき

です。変わってしまうんですから、目に見えるもので本当に当てになるものは一つもないということです。


それに対して阿弥陀さまは色も形もありません。ありませんから変わりません。変わらないから真実です。この真実が形を取り、声となって現れて下さったのが南無阿弥陀仏です。私を仏にせずは我も正覚ならじという願が成就して、既に私に届いているのが南無阿弥陀仏の六字の名号です。

果てしなく迷いを重ね、苦しみ続けてそこから離れ出ることが決してできない私を、迷いの世界から出させ、しかも仏にするというんですから、これほどたのもしく、たよりになるものはありません。それで、

ただ念仏のみぞまことにておはします

と仰るわけです。私の中に、迷いを離れてさとりを得るような因は全くありません。そんな者をさとらせる、仏にするというんですから、この世にないことです。世を超えています。ですから、

超世の悲願
超世稀有の正法


などと言われたりします。南無阿弥陀仏のことです。

目に見えるものが真実なのではなく、実は目に見えないものこそが真実であり、無上の宝です。この無上の宝である南無阿弥陀仏を教えているのが浄土真宗です。せっかく浄土真宗のお話を聞いていながら、この私を仏にするというおはたらきを信じられないでいる人は、宝の山に入っていながら何も手にしないで帰るようなものです。今、ここで、私の口から出ておられる「南無阿弥陀仏」こそが、我らが往生の定まりたる証拠。南無阿弥陀仏の他にまことはありません。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。
プロフィール

淳心房&しゃあ

Author:淳心房&しゃあ
(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


(しゃあ)
平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
singikensho@yahoo.co.jp
(スパム防止のため@を大文字にしてあります。メール送信時は小文字に変えて下さい。)

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