阿弥陀仏を「人」扱いする、浄土真宗・親鸞聖人の教えに無知な高森顕徹会長

日曜日の講師部講義では、またも高森顕徹会長の数少ないレパートリーの中、

映画『なぜ生きる』の中の蓮如上人のお言葉
「『聞く一つで、大船に乗せる』ということは、阿弥陀仏の命を懸けたお約束だからです。」


というセリフを通しての話があったようです。今回頂いた情報からは、相対の幸福や無常について長々と話すということはなく、正信偈や信文類、本願成就文等を出して話をしていたようですが、相変わらず

正信偈に「凡聖逆謗斉廻入 如衆水入海一味」と説かれ、全ての人が「絶対の幸福」という一つの味となる。絶対の幸福を「大船に乗せる」と仰っている。

などと話をし、「絶対の幸福」というワードは外しませんでした。繰り返しになりますが、阿弥陀仏の本願は、あくまで「念仏を称える者を浄土往生させる」という本願であって、「親鸞会の活動をする者を絶対の幸福にする」という本願ではありません。

弥陀の本願と申すは、名号をとなへんものをば極楽へ迎へんと誓はせたまひたる(末灯鈔12通)

この世を絶対の幸福だとかいう幸せに生きたいと現世利益を願って本願を聞いても、そのような本願ではありませんから望みはかないません。浄土真宗は往生浄土、成仏を目的とするものであって、訳の分からない幻想的な楽が目的ではないのです。もしこの世での変わらない安心、満足、喜びの境地とやらを求めるなら、この世での成仏を目指すべきでしょう。

ところで、高森会長が出した「正信偈」のお言葉を、親鸞聖人はこのように解説されています。

「凡聖逆謗斉回入」といふは、小聖・凡夫・五逆・謗法・無戒・闡提、みな回心して真実信心海に帰入しぬれば、衆水の海に入りてひとつ味はひとなるがごとしとたとへたるなり。これを「如衆水入海一味」といふなり。(尊号真像銘文)

【現代語訳】
「凡聖逆謗斉廻入」 というのは、小聖・凡夫・五逆・謗法・無戒・一闡提などのさまざまなものが、自力の心をあらためて真実信心の海に入れば、みな等しく救われることを、どの川の水も海に入ると一つの味になるようなものであるとたとえているのであります。そして、このことを 「如衆水入海一味」 というのであります。

十方衆生には無限の階層があり、ここでは聖人は小聖・凡夫・五逆・謗法・無戒・一闡提と六種類に分類されています。詳しい意味については

『お坊さんのつぶやき部屋』凡聖逆謗斉回入 如衆水入海一味

等を参照頂くとして、ここから

・すべての人は、五逆罪、謗法罪を造っている
・十方衆生は逆謗の一機


という高森教のような思想は浄土真宗にはないことが分かります。私は逆謗の屍だと反省することは結構ですが、それよりもどんな罪を犯している者をも救う本願を聞いてお救いにあずかるのが大事です。必堕無間の恐怖で聞く者を縛り付け、そこから逃れようという方向性で法を語るようなことは親鸞聖人のお言葉からは見られません。


ところで、今回高森顕徹会長は

阿弥陀仏によって救われるのではない、阿弥陀仏の本願によって救われる。他の宗教と根本的に異なる点がここにある。だから「本願寺」であり、「阿弥陀寺」ではない。仏や菩薩(人)によって救われるのではなく、教え(法)によって救われる

などと話していたようですが、阿弥陀仏を「」扱いするという信じられない発言をしています。実に浄土真宗に無知な高森会長らしい話です。阿弥陀仏は人ではなく、色も形もない真如を理解できない我らに、認識できるように表現された「方便法身」の仏様です。真理そのままでは私達の認識に乗らないため、すがた・かたちを現して私達に知らしめるために説かれたのが法蔵菩薩であり無碍のちかひすなわち本願であり阿弥陀仏です。

この一如宝海よりかたちをあらはして、法蔵菩薩となのりたまひて、無碍のちかひをおこしたまふをたねとして、阿弥陀仏となりたまふがゆゑに、報身如来と申すなり。これを尽十方無碍光仏となづけたてまつれるなり。この如来を南無不可思議光仏とも申すなり。この如来を方便法身とは申すなり。方便と申すは、かたちをあらはし、御なをしめして、衆生にしらしめたまふを申すなり。すなはち阿弥陀仏なり。(一念多念証文)

【現代語訳】
この一実真如の大宝海からすがたをあらわし、 法蔵菩薩と名乗られて、 何ものにもさまたげられることなく衆生を救う尊い誓願をおこされた。 その誓願を因として阿弥陀仏となられたのであるから、 阿弥陀仏のことを報身如来というのである。 この如来を、 世親菩薩は尽十方無礙光仏とお名づけ申しあげられたのである。 この如来を南無不可思議光仏ともいう。 そして、 この如来を方便法身というのである。 方便というのは、 すがたをあらわし、 み名を示して、 衆生にお知らせくださることをいうのである。 すなわちそれが阿弥陀仏なのである。

ですので、「阿弥陀仏によって救われる」と申しても、「阿弥陀仏の本願によって救われる」と申しても差し支えありません。まぁ正確には、本願が成就して仕上がった「南無阿弥陀仏の名号願力によって救われる」のですがね。それで、本願はどのように仕上がったかと言えば、序盤でも申し上げたように

弥陀の本願と申すは、名号をとなへんものをば極楽へ迎へんと誓はせたまひたる(末灯鈔12通)

であり、こうした本願を二心なく受け容れて念仏するのが本願のお心にかなった行為なのです。それに対して、阿弥陀仏の善巧方便だとかいい、それが「絶対の幸福」とやらに近づく手段なんかと思って要りもしないハコモノ建設のためにお布施に尽力しているのは、本願のお心に背く行為です。

絶対の幸福」とかいう現世利益を目的とするなら他の宗教・多くの新興宗教と変わりませんし、阿弥陀仏を「」扱いするようでは真理をないがしろにしていると言われても仕方がないでしょう。このような外道の悪知識からは一刻も早く離れることをお勧めします。


【参照】
『飛雲』教えを徹底的に捻じ曲げて、会員を騙すこと以外考えていない外道の親玉高森顕徹会長

謗法罪の定義をよく知りましょう

昨日の甲子園大会決勝戦では、埼玉の花咲徳栄が広島の広陵を14-4で下し、夏の大会で埼玉県勢初優勝を果たしました。詳しくは

『毎日新聞』花咲徳栄が優勝 埼玉県勢として初

等を参照下さい。私は生まれも育ちも埼玉ではありませんが、Nack5ばかり聞いているのでつい埼玉を応援してしまいます。プロ野球でも、野球中継がラジオで報道されると、なぜか顔も知らない埼玉西武ライオンズの浅村選手を応援している自分がいます。ラジオの影響力おそろしい・・・。

花咲徳栄のエース清水選手は、大会前に広陵の中村選手相手に「逃げないでいきたい」と真っ向勝負を宣言していました。結果としては中村選手には3安打されてしまいましたが、堂々とした戦いぶりだったと思います。


それに対して親鸞会・高森顕徹会長からは、度重なる教義批判に堂々とした姿勢を見ることはできません。

飛雲 ~親鸞会の邪義を通して~

からの公開法論申し込みから5年以上経過しているにも関わらず、一向に応じる気配がありません。また、

さよなら親鸞会

のコメント欄は随分荒らされています。こんな場所で小競り合いを繰り返しても何の解決にもなりません。ネット対策員による書き込みなのかと思われますが、少しは清水選手の堂々さを見習ってもらいたいものです。


当ブログにも謗法罪について、別段取り上げなくてもよい問題をしつこく答えよとのコメントが度々来ています。

ある行為が謗法罪に該当するかどうかは、謗法罪の定義を踏まえた上で各自で判断すればよいことです。何も仏教で言われる罪に限らず、法律で罰せられる罪でも、どういうことをしたら法律に抵触するかは、その法律をよく読んで各自で判断するしかないでしょう。そして、抵触するか分からないグレーゾーンは専門家に聞くか、あるいは抵触するかも知れないと思って行為を自重するでしょう。

ある行為が罪と言われるのには、罪を罪だと認識させて、その行為をさせないようにするのが目的です。私達は、釈尊や親鸞聖人が教えられた謗法罪の定義を受けて、そのような恐ろしい罪を犯さないようにすればよいだけです。ただそれだけのことを、これだけしつこく聞いてくるということは、

・全人類は逆謗の屍である
・五逆罪、謗法罪を造っていない者は一人もいない


という高森教の主張を通さんがためだと推測されますが、読者の皆さんはどうお考えでしょうか?

今一度、謗法罪の定義を示します。

問うていはく、なんらの相か、これ誹謗正法なるやと。
 答へていはく、もし無仏・無仏法・無菩薩・無菩薩法といはん。かくのごときらの見をもつて、もしは心にみづから解り、もしは他に従ひてその心を受けて決定するを、みな誹謗正法と名づくと。


(現代語訳)
 問うていう。正しい法を謗るとは、どのようなことをいうのか。
 答えていう。仏もなく仏の教えもなく、菩薩もなく菩薩の教えもないというような考えを、自分自身でおこしたり、他の人に教えられて、その通りと心に定めることを、みな正しい法を謗るというのである。


もしは心にみづから解り、もしは他に従ひてその心を受けて決定する」ですから、一瞬の気の迷いがこの中に入るのかどうか、ご自身で考えてみられたらよいでしょう。だから、謗法罪の定義をよく学びましょうと何度も言い、その根拠まで示しているのです。それが分からずに、

法謗罪についての定義では議論していません。OHE様の定義が間違っているとも、正しいとも問題にしていないのです。

などと宣っているのですから、正直話になりません。コメント欄にあるように、これでは「日本語の能力が小学生並みなので」と言われても致し方ないのかなと思います。純粋に浄土真宗、親鸞聖人の教えを知りたいという気があるなら、まずは言葉の定義をよく知って、相手の主張を理解できる国語力を身につけて頂きたいと思います。

明日ありと 思うが故の 活動か 献金勧誘 服従の日々

親鸞会の教えは、いつもの縦と横の線の図



が象徴しているように、進んでいるだかどうかも分からない横の道を進んで行って、有るだか無いだか分からない、今生で辿り着けるかどうかも分からない縦の線を目指すという教えです。

時に横の道をオリジナル「二河白道の譬え」の「白道」に、縦の線を「三定死」からの獲信に当てはめたりしています。横の道を進むのを「信仰が進む」と表現したりもします。縦の線に近づくにつれて薄かった宿善が厚くなって、縦の線で宿善開発と教えられたりもします。最近では宿善に代わって「三願転入の教え」が強調され、横の道を19願・20願で表現しています。横の道を進む方法として、聴聞や勤行、六度万行を勧められますが、ここで言う聴聞とは高森顕徹会長や講師部員の話を聞くことであり、ここで言う六度万行とは主に親鸞会に布施したり、親鸞会に人を誘ったり、会長や上司の指示に無条件服従することなどです。親切や親孝行なども言われますが、これら世俗的な善はあくまでサブ的要素です。

簡単には横の道を進めず、また縦の線には到達できないようで、会員は来る日も来る日も活動の日々です。聞き始めた頃は「この一座で聞き抜かねば・・・」と思っていたのが、いくら聞いても因果の道理もまともに理解・実践できていない、真実の自己も相変わらずハッキリしない、後生の一大事に驚いて夜も眠れないということもないものですから、聴聞を重ね活動を重ねて死ぬまでに間に合えば本望だ位に捉えざるを得ない状態に陥っているのではないかと推測されます。

親鸞会の、横の道を進んで行く教え。これは、明日ありと思う心がなければ到底できません。よく話をすることですが、もう自分には今日一日しか人生無いとしましょう。ではその24時間の中で、一体どれだけの善をどのような気持ちでやれば「信仰」とやらが進んで縦の線まで進み、獲信できるというのでしょうか。何年、人によっては何十年と求めてダメだったことが、たった一日で何とかなるものでしょうか。もし何とかなるなら、今までにとっくに何とかしていたはずです。

これでお分かりのように、親鸞会で求めてゆくには、死ぬまでに十分時間があることが大前提です。また十分活動できる健康な体、次々やってくる募財に十分献金できるほどの金銭、日々の苦難や朝令暮改の無理難題、上司の執拗な指摘などにめげないメンタル、気力等々、そういったものが充実していることも大前提です。それらが十分に無い人は獲信・往生の望みを絶たねばなりません。

明日ありと 思うが故の 活動か 献金勧誘 服従の日々

教えに疑問を抱かず、救われない現状に焦りも不安も覚えず、誰が何と言おうと高森先生が正しいと信じている会員が活動している大前提と、活動の内容を歌ってみました。深く高森教にのめり込んでいる人は今はどうしようもありませんが、教義や組織のやり方に疑問を持った方は今からでも決して遅くありません、よく教えの真偽を検証してみて下さい。

弥陀の本願は「念仏を称える者を浄土往生させる」という本願であって、「親鸞会の活動をする者を絶対の幸福にする」という本願ではありません

前回、高森会長が「自力」についてトンデモ発言をしたことについての追記です。高森会長は

自力とは絶対の幸福が分からない心。その他は自力と言わない。

と話したそうですが、阿弥陀仏の本願は私達を「絶対の幸福にする」という本願ではないので、これは高森教に浄土真宗を当てはめんとする「珍らしき法」です。親鸞会は「本願寺、本願を知らず」と非難していますが、

浄土真宗親鸞会こそ本願を知らず、浄土真宗に非ず、親鸞聖人の教えを知らず

であります。更には、前回は出しませんでしたが

絶対の幸福のわからない心が無くなるその根拠をあげよう

と言って高森会長が挙げた根拠が『改邪鈔』19段

この娑婆生死の五蘊所成の肉身いまだやぶれずといへども、生死流転の本源をつなぐ自力の迷情、共発金剛心の一念にやぶれて、知識伝持の仏語に帰属するをこそ、「自力をすてて他力に帰する」ともなづけ、また「即得往生」ともならひはんべれ。

だったそうです。「えっ?」と思う人も多いでしょう。なぜこれが「絶対の幸福のわからない心が無くなる根拠」なのか全くもって分かりませんよね? このお言葉にあるように、

生死流転の本源をつなぐ自力の迷情

すなわち生死流転を際限なく重ねて迷いの世界から出られない迷いの心を「自力」というのです。それは、阿弥陀仏が本願をお建て下さり、五劫永劫の願行が既に成就して私にはたらいているのにこれを疑って信じない、おまかせしない心ですから、「本願を疑う心」です。その本願とは、

弥陀の本願と申すは、名号をとなへんものをば極楽へ迎へんと誓はせたまひたる(『末灯鈔』12通)

とあるように「念仏を称える者を浄土往生させる」という本願であって、「親鸞会の活動をする者を絶対の幸福にする」という本願ではありませんから、自力が廃って他力に帰したとしても「絶対の幸福が分からない心」などは無くなりません。

ところでどんなのを自力と言うのか具体例を挙げますと、念仏を自分の善根だと思って称え、称えた功徳によって助かろうというのを自力と言います。また、念仏以外の諸善にも手出しして、これこれこういう良い事をしていますからどうか阿弥陀様お助け下さいとやっているのも自力です。当然ですが、地元会館やシネマ学院建立にお布施をしたり、名前だけ会員を獲得したり、その他諸々の推進される活動に参加して獲信に近づこう、横の道を縦の線まで進もうと努力することをみんな自力というのです。まぁ、求めるものが浄土往生ではなく絶対の幸福という現世利益、努力するものがらが如説の善行ではなく善もどきの善では自力にもならないのですが、細かなことは目をつぶりましょう。

真宗の門においてはいくたびも廃立をさきとせり。「廃」といふは、捨なりと釈す。聖道門の此土の入聖得果・己身の弥陀・唯心の浄土等の凡夫不堪の自力の修道を捨てよとなり。
「立」といふは、すなはち、弥陀他力の信をもつて凡夫の信とし、弥陀他力の行をもつて凡夫の行とし、弥陀他力の作業をもつて凡夫報土に往生する正業として、この穢界を捨ててかの浄刹に往生せよとしつらひたまふをもつて真宗とす。
(『改邪鈔』18段)

とあるように弥陀他力の信、すなわち本願力回向の信心をもって凡夫の信とし、弥陀他力の行、すなわち念仏一行をもって凡夫の行とし、弥陀他力の作業、すなわち本願の独用(ひとりばたらき)で凡夫が報土に往生するのです。浄土往生の因も果も、全て阿弥陀仏が恵み与えて下さるもので、私達凡夫としては、そうした本願を計らいなく受け容れて念仏し、ひとえに往生を阿弥陀様におまかせするのみです。

しかれば、もしは行、もしは信、一事として阿弥陀如来の清浄願心の回向成就したまふところにあらざることあることなし。因なくして他の因のあるにはあらざるなりと、知るべし。(信文類)

【現代語訳】
このようなわけであるから、往生の行も信も、すべて阿弥陀仏の清らかな願心より与えてくださったものである。如来より与えられた行信が往生成仏の因であって、それ以外に因があるのではない。よく知るがよい。

覚如上人は親鸞聖人のこのお言葉を先のように言い換えられているといえましょう。

なお高森顕徹会長は、聖典には触れずに「この娑婆生死の~」の御文が書かれた模造紙を持ってきて説明したとのことです。聖典には先ほど挙げた御文しかり高森会長にとって都合の悪い御文が数多くあるので、映画やシナリオブックを聖典化してごまかすしかないのでしょう。『改邪鈔』19段には最後の方に

なにをもつてかほしいままに自由の妄説をのべて、みだりに祖師一流の口伝と称するや。自失誤他のとが、仏祖の知見にそむくものか。おそるべし、あやぶむべし。

とありますが、この言葉は、高森顕徹会長に対して言われているように聞こえてなりません。

生き死にの問題は如来の問題であって、如来が解決される問題(『なもあみだぶのつぶやき部屋』3-12.明信仏智 より)

『なもあみだぶのつぶやき部屋』3-12.明信仏智

を読んでいて「その通りだなぁ」と思ったことがあるので紹介します。全文は上リンク先を参照頂くとして、当ブログでは該当箇所を抜き出します。


1.信前に間違った他力の信心のイメージを強く持っていると、如来の願心を聞き受けたとしても「これが他力の信心なのだろうか」と混乱する
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A君 つまりね、実際に信を頂く、という経験は、信を頂くまでに思い浮かべていたイメージとはまったく違うものなんだ。予想外も予想外。だから、信前に抱いていた誤ったイメージが強ければ強いほど、実際の経験とそのイメージとのギャップは大きくなる。そうすると、人は、これが他力の信なのだろうかと混乱するんだね。

B君 あぁ、分かった。つまり、人の認識のありかたに関わる問題なんだ。

A君 そうなんだね。人は言葉の概念をもって物などを認識しているが、人はそのような認識のあり方をしている。机という概念をもってるから、いま見ている物が机か、それ以外かを判断している。ところが、既存の概念をもたないものに遭遇すると、それが何であるのか理解できないんだね。例えば、こんな記事を読んだことがある。大都会のビル群を空中から撮影した写真をビルという物を知らないアフリカ奥地の原住民に見て貰ったところ、そもそも写真だということが理解できなかった。そして、写っている物がビルだと理解することができず、四角い形のものが整然と並んでいるので、きれいな花壇だと認識したという話しだった。他力の信というものに関しては、信前において、概念化して信をとらえていたとしても、それは大間違いだ。つまり、信前においては誤った理解をし、誤ったイメージしか持つことができない。そうした人が如来のまことの願心を聞いて聞き受けたとしても、それが他力信だと直ちに判断することはできないんだ。信について誤ったイメージを強く持っている人ほど心の中でのギャップは大きくなる。だから、これが他力の信なのだろうかと混乱するんだ。因みに、信後においても信を言葉で表現し、概念化することができたとしても、その概念化された信は実際の信とは違ったものになってしまう。

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親鸞会では、他力の信心についてとにかく誤ったイメージを会員に植え付けています。例えば、

・信の一念はハッキリと自覚できる。ハッキリした自覚がないのは他力の信心ではない。
・他人に確かめずとも他力の信心を獲たことが火に触れたよりもハッキリ分かる。
・51段高とびして弥勒と肩を並べる身になったということが実感として知らされる。
・現生十種の利益を獲たことが実感として知らされる。
・地獄しか行き場のない自己の姿(逆謗の屍)が知らされる。
・曠劫流転してきた過去も明らかになり、未来永劫の後生の一大事も知らされる。
・自力無功、必堕無間の苦しい体験をし、同時に如来の喚び声が五臓六腑を貫いて救われる。
・いつ死んでも極楽参り間違いなし、極楽へ必ず往けると疑い晴れる。
・「人間に生まれてよかった」「よくぞ人間に生まれたものぞ」という生命の大歓喜が起きる。
・誰の命も平等に尊い、「人命は地球より重い」ということが実感として知らされる。
・親鸞聖人のように、どんな苦難をも生き抜く強く逞しい人生が開かれる。
・最高無上の、最悪の死に直面しても変わらない安心、満足、喜びの境地に出る。
・苦しみがやって来ても煩悩即菩提ですぐさま喜びに転じ変わる。
・経典やお聖教がすらすら読めるようになる。意味が理解できるようになる。
・親鸞聖人や高森先生のように、伝えずにおれない叫ばずにおれない身になる。
・深信因果させられ、阿頼耶識に納まっている業がどんなものか分かるようになる。


とまぁ挙げればキリがありませんが、私は高森会長の話しぶりや著書などから「このようになったのが他力の信心だ」というイメージを抱いて、そういう身になりたいと思って聞いていました。しかし実際に本願の仰せを聞き受けてみても思い描いていたような事は実現せず、当時はA君が言うように随分と混乱したものです。その後、お聖教やその解説を学んでいく内に、浄土真宗の教義についても信心についても念仏についても、ものすごい間違ったイメージを持っていたことが知らされていきました。


2.信心を獲ても、「この信が間違っていたらどうしようか」などと思うこともある
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A君 もう少し、先のことをいうよ。信を得た人は、この信が間違っていたらどうしょうか、などとは思わないと思うかい?

Cさん いいえ。そう思うことはあると思うわ。私は、そう思ったもの。

B君 じゃ、どうして、今は、間違っていないと思うようになったの。

Cさん 間違っていないと思ったわけじゃないのよ。間違っているかどうか、そんなことを詮索する必要はないと分かったのよ。

A君 そうだね。ここが大事な所なんだ。Cさん、説明してよ。

Cさん つまりね、信心が間違っていたとしても、自分ではどうしようもないってことに気づいたのね。信心が間違っていて、また何かを得ようとして聞いてゆくとしても、私の生き死にの問題は私が解決できる問題じゃないってことが分かったの。生き死にの問題は如来の問題であって、如来が解決される問題なの。浄土往生は決定されていると聞いたので、私は、それでもういいのって分かったの。だから、今さら、どうしようもないのね。

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本当にCさんの言う通りで、生死の問題は私の力が及ぶものではありません。何もかも阿弥陀仏におまかせしたのを他力の信心というのであって、何もかもハッキリするというものではないのです。極楽の様相を見たわけではありませんから、信後も相変わらず死ねばどのような世界に行くのか、私の側からは分かりません。もしかしたら地獄へ堕ちるかも知れません。でも、地獄だとしても元々の自分の罪業からしたら地獄なのですから仕方がないです。ただかたじけなくも、そのような私を阿弥陀様は哀れに思召して、「我を一心にたのまん衆生を必ず救うべし」とお誓い下さっているので、そのお言葉をそのまま受け容れて念仏致しているのみです。今更私がジタバタしたって、どうにかなる問題じゃないんです。だから阿弥陀様におまかせなんです。

往生ほどの一大事、凡夫のはからふべきことにあらず、ひとすぢに如来にまかせたてまつるべし。すべて凡夫にかぎらず、補処の弥勒菩薩をはじめとして仏智の不思議をはからふべきにあらず、まして凡夫の浅智をや。かへすがへす如来の御ちかひにまかせたてまつるべきなり。これを他力に帰したる信心発得の行者といふなり。さればわれとして浄土へまゐるべしとも、また地獄へゆくべしとも、定むべからず。(執持鈔)

往生の一大事は自分が何とかできるレベルの問題ではないと自らの手を離れ、我が行く先を阿弥陀様におまかせしたのを自力を捨てて他力に帰した信心発得の行者というのです。韋提希のように極楽世界を見たのなら「そのような世界へ往くのだな」とハッキリするのかも知れませんが、そうではないのですから「極楽参り間違いなし」とハッキリなどしません。そうしたハッキリしないことをハッキリすると説く高森会長は、浄土真宗に非ざる異安心なのです。

「ジタバタしたって、どうにかなるお前じゃないぞ」「お前は決して迷いを離れられん者だぞ」と見抜かれて本願を発され、「まかせておくれ。お前を必ず浄土に連れて行って仏に成すぞ」と真実の言葉で仰せられるその勅命を聞いたなら、もはや私の「どうしたら」「こうしたら」なんて思いは邪魔者だと自力が廃るのです。そして、後は如来の仰せをひたすら仰いで念仏申すのみです。「生き死にの問題は如来の問題であって、如来が解決される問題」ですから、私の手出しは無用です。口出し無用です。その手出し、口出し無用のものに手を出し、口を挟むのを自力の計らいというのです。手を出し、口を挟んで生死の問題が解決できるならば大いにやればいいですが、それが邪魔で如来の仰せを素直に聞けませんから「捨てよ」と言われるのです。


浄土真宗とはこうした教えだということを知らず、まんまと会長が説くスーパー信心を本物だと誤解して、それを獲たいと利用されていた自分は本当に愚か者でした。幸いにも途中で間違った教えを間違った教えと受け止め、正しい教えを求め、そして出遇うことができて本当に良かったです。自分の言葉に耳を貸す者などほとんどいなかったかつての仲間達を思うと、よく自分は今まで正しいと信じ求めてきたものを間違った教えと受け止めることができたなと不思議に思います。まことに「たまたま行信を獲ば、遠く宿縁を慶べ」であります。

自分が正しいという判断を下し、何年何十年と求めてきたものを間違いであったと認めるということは実に苦しいことです。それは、何年何十年という時間だけでなく、それに費やしたお金や労力が全て無駄だったって認めることです。また活動に割くために切り捨てたいくつもの輝きはもはや取り戻せないものばかりですから、本当にこれ以上の地獄はないですよ。そして、今いる場所、共に求めてきた仲間から離れて新たに正しい教えを探そうとするのは、随分と勇気の要ることです。大概は不安に負けてしまうでしょう。ですから、中々離れようとしない会員が少なくないというのも分からなくはありません。

しかし、それで今死ぬとなって満足して死んでいけますか? 今の救いを求め続けた苦しみの人生で終わり、死ねば自らの業に報いた世界にゆくのですよ? 満足だという人はどうしようもありませんが、一向に救われない現状や組織のやり方に疑問を持っている方は、ぜひとも一度立ち止まって徹底的に調べて頂きたいものです。1、2ヵ月かかったって、何十年という時間からすればたかだか数%です。モヤモヤしながら求めるよりも、よほど良いと思います。「このまま皆と活動していけば、たとえ今生ダメだとしても遠生の結縁にはなるだろう」などと既にあきらめムードの方もあるかも知れませんが、阿弥陀様は決して諦めていません。どうか親鸞会だけが全てだと思わずに、もっと広く探し求める気持ちを持って頂きたいと思います。

私達の姿ばかりを聞くのが聴聞でもなければ、このような私達の姿がハッキリ知らされたことが救いでもありません

先日の親鸞会追悼法要では、高森顕徹会長の片手に余るレパートリーの中、かねてから案内されていた通り『白骨の章』について話がありました。まぁいつも通りといえばいつも通り、相対の幸福の話や無常を取り詰める話が大半で、阿弥陀様に関しては「『絶対の幸福』にするとお約束されている」とかいう話位だったようです。初めての人もOKの追悼法要だけあって、まさに親鸞会導入部分の話ですね。

ところで今回、今まで私が聞いたことがなかったこととして、

浮生なる相」に二面あり、その二面とも自分の本当の姿だとハッキリと知らされるところまで聞き抜きなさい

という話がありました。その一面とは、「相対の幸福」(比べて初めて感じる幸せ)という浮いた物を日々求めて生きているということ、もう一面は、無常の身であり「煩悩具足の凡夫」である人間がいつどうなるかも分からない「火宅無常の世界」に生きておりながら、自分は全くそうと分かっていない、ということのようです。内容としてはいつも聞く話ですが、その説明の仕方が若干異なっていました。

しかし、このような私達の姿ばかりを聞くのが聴聞でもなければ、このような私達の姿がハッキリ知らされたことが救いでもありません。第一、親鸞会ではハッキリハッキリうるさいですが、ではどの程度知らされることを「ハッキリ知らされる」というのでしょうか? 全くもって曖昧です。相変わらず栓の抜けた風呂のような話を、会員の皆さんはいつまで有難がって聞いているのでしょうか? 

「聞其名号」といふは、本願の名号をきくとのたまへるなり。きくといふは、本願をききて疑ふこころなきを「聞」といふなり。またきくといふは、信心をあらはす御のりなり。「信心歓喜乃至一念」といふは、「信心」は、如来の御ちかひをききて疑ふこころのなきなり。(一念多念証文)

浄土真宗は本願の名号、すなわち「南無(我をたのめ)阿弥陀仏(必ず救う)」を聞くのです。本願を聞いて疑い無いのを「」といい、それをまた「信心」というのです。その本願とは、

弥陀の本願と申すは、名号をとなへんものをば極楽へ迎へんと誓はせたまひたるを、ふかく信じてとなふるがめでたきことにて候ふなり。(末灯鈔12通)

とあるように「念仏を称える者を極楽へ迎えよう」というお誓いであり、その誓いのお言葉をそのまま受け容れて念仏しなさいと仰せです。ですから、高森会長が話しているような私達の姿がどのようにハッキリ知らされたところで、本願を聞き、本願を深く信じて念仏しなければ徒事なのです。速やかに浄土往生させ、成仏させるという崇高な本願を「絶対の幸福」だとかいう幻想的な楽を獲させる本願に貶め、浄土真宗と関係ない教えを説いて多くの人を騙している親鸞会は本当に許せません。



さて、親鸞会では相変わらずアニメ映画『なぜ生きる』を強烈に推し進めているようで、今後お盆の週に各地で上映を予定しています。入手した情報によると、石川県、栃木県、大阪府、島根県、愛知県、北海道、富山県、福岡県、そして埼玉県で、文化会館や小ホール等で上映予定とのことです。

29週連続上映のロングラン記録を樹立した人気の映画

だとか言って案内しておりますが、これは会員を総動員しての偽装ロングラン記録です。会員が毎週毎週せっせと足を運んで料金を払って見ていたのでロングランとなっただけのことです。この時期、各道府県の方々の中で、会員にこの映画を見に行こうと誘われる方があるかも知れませんが、ただの親鸞会導入映画ですのでご注意下さい。まぁ別に一度見たからといってどうということはありませんが、今後勧誘対象として見られ、様々な親鸞会の行事に誘われる可能性が高くなります。怪しいと感じたら早めに調べた方がよいです。

それと、これはシネマ学院の財施を募るのが最大の目的かも知れません。各地で上映した上で、「シネマ学院なら、もっと素晴らしい映像と音響設備で見せて頂けますよ」などと講師が説明して募財を推進するのではないかと推測されます。親鸞会としては、家族友人を誘えてもおいしい、誘えなくてもおいしい、という二段構えかと予想されます。会員の皆さんはこれ以上多くの時間や労力、財産を捧げる前に今一度教えの真偽を検証してもらいたいと思います。

一方的に質問して相手の質問には答えず、相手の主張を決めつけ捻じ曲げる、親鸞会のお家芸継承者

この記事この記事のコメント欄を、相変わらず親鸞会のお家芸継承者が荒らしに来ています。親鸞会のやり方はいつもワンパターンで、一方的に質問して相手の質問には答えず、相手の主張を決めつけ捻じ曲げます。例えば、

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親鸞会の高森顕徹氏を、退会者が非難攻撃することは、謗法罪になりません。
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というOHEさんのコメントに対して、「ふじた」さんは

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しかし、OHE様のお答えで、高森会長が伊藤氏を非難することは法謗罪ではないとお教えいただきました。
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と答えています。OHEさんのそれまでのコメントからは、こんな主張は出てきません。こんなことさえ聞き間違っている、読み間違っているのですから、そりゃあ正しい法が入らんわね。

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「(18願を信じていない人は、)三業で信心の有無を判定できる」
「謗法罪を造っている者は真実信心でないと断定できる」
「以前所属していたところの師匠(偽真宗の高森会長)を非難することは謗法罪にならない」

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がOHEさんの主張ですから、ふじたさんはまず相手の主張を正しく理解するところから始めて下さい。

次に、ふじたさんは相手からの質問に答えて下さい。相手からの質問にきちんと答えて、質問があればする。これが議論というものです。あなたは高森教に冒されてこんな基本的な事が全く出来ていません。

1、謗法罪の定義を経典や聖教に基づいて書きなさい。

ふじたさんはまずこれにきちんと回答して下さい。OHEさんや私に何度言わせるつもりですか?
そしてその上で、次の質問にも回答して下さい。

2、ふじたさんは高森顕徹会長は真実信心を獲ていると思っていますか? 「はい」「いいえ」「分からない」でお答え下さい。

3、2の答えが「はい」の場合、何を根拠に高森顕徹会長の信心を真実信心だと思ったのか答えなさい。



なお、ふじたさんの質問
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淳心房様はOHE様と一緒に、「三業で法謗罪を造っている者は真実信心を得ていない」と断言できるとおっしゃっておられたのに、今度は「三業では真実信心を得ているか分からない」という立場ですか。どちらが本当の立場なのでしょうか。その時その時で変わるのでしょうか。
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について答えたいと思います。私は(18願を信じている、念仏を称えていると言っても)三業では真実信心を得ているか分からないという立場です。
浄土仏教に無関係な人が阿弥陀仏に救われているということはあり得ません。高森会長でさえ、「最初から他力の人はいない」と言っているはずです。ですから、仏や仏の教えを否定する謗法の者、念仏誹謗の者は真実信心を獲ているかどうかなど最初から問題外だと申し上げました。当然、「三業で謗法罪を造っている者は真実信心を得ていない」です。何も矛盾しません。人の言葉を聞けないようなら質問などしないことです。

これで質問には答えました。次は、ふじたさん、あなたの番です。誠意ある回答を期待しています。もしこんな簡単な質問にも答えられないというなら、中央仏教学院通信教育等を受講してよく真宗を学んでから出直して下さい。

親鸞会会員の大前提ー「高森先生は真実信心を獲ている」

高森顕徹会長はかつて自身のことを「毎日毎夜、念仏は楽しい時に苦しい時に、無造作に口より出づる蓄音機にさせていただいて」と言っていましたが、現在ではすっかり「絶対の幸福」だとかいう幻想的な楽を訴え続ける蓄音機と化したようで、何とも浅ましい限りです。先日の講師部講義でも

信楽」=「絶対の幸福

と強調していましたが、では絶対の幸福とはどんな幸福かというと

ただこれ、不可思議・不可称・不可説の信楽なり

とぼかしてその説明をほとんどしません。相対の幸福の説明に時間をかけ、絶対の幸福はこのお言葉を

ただこれ、不可思議・不可称・不可説の絶対の幸福なり

だとか言い換えて「言葉で説明できない幸福」だと逃げています。所詮は絶対の幸福になれば分かるんだからつべこべ言わずにそこまで求めろということなんでしょう。しかし、

信楽といふは、すなはちこれ如来の満足大悲円融無碍の信心海なり。このゆゑに疑蓋間雑あることなし。ゆゑに信楽と名づく。すなはち利他回向の至心をもつて信楽の体とするなり。(信文類)

【現代語訳】
信楽というのは、阿弥陀仏の慈悲と智慧とが完全に成就し、すべての功徳が一つに融けあっている信心である。このようなわけであるから、疑いは少しもまじることがない。それで、これを信楽というのである。すなわち他力回向の至心を信楽の体とするのである。

「信楽」といふは、如来の本願真実にましますを、ふたごころなくふかく信じて疑はざれば、信楽と申すなり。この「至心信楽」は、すなはち十方の衆生をして、わが真実なる誓願を信楽すべしとすすめたまへる御ちかひの至心信楽なり、凡夫自力のこころにはあらず。(尊号真像銘文)

ということで阿弥陀仏の本願が真実であることに疑いが無いことを「信楽」というのです。つまり「助けるぞよ」の仰せが凡夫の妄想ではなく、如来より喚びかけられている真実の御言葉であると疑い無く聞き受けているのを「信楽」というのです。更に言い換えると、「念仏を称える者を助ける」という本願であることに疑いが無いことを「信楽」というのです。これは凡夫自力の心ではなく、阿弥陀仏より回向せられるものですから、「本願力回向の信心」と言われます。こうした他力回向の「信楽」と、自力求道、自力修善の先にあるという「絶対の幸福」なるものと、何の関係がありますか? いい加減、独自の「高森教」という外道の教えに「浄土真宗」を利用するのは止めてもらいたいものです。


さて、最近コメント欄で「三業で真実信心の有無」云々という話題がよく挙がっていますが、ここで会員の皆さんに質問です。会員の皆さんは、

「高森先生は真実信心を獲ている」

と金剛の如く信じて疑っていないと思いますが、ではどうしてそのように信じたのですか? 何を根拠に高森会長の信心を真実信心と断定しているのですか? 多くは、先輩や講師部員から

高森先生は信心決定の体験と深い教学とを兼ね備えた方

と説明を受け、それをそのまま信じているのだと思います。では、その先輩や講師部員はどうしてそのように信じているのでしょうか? 元を辿っていきますと、高森会長の話の内容や活動といったいわゆる三業で信心を判定しているのではないでしょうか? だって、信心を獲たかどうかは阿弥陀如来とその人にしか分からない、他人の窺い知れない世界だというのですから、他人である高森顕徹会長の信心が真実信心か否かなどというのは、彼の三業によって判定するしかないでしょう。そうして、高森会長の三業によって「高森先生は真実信心の方だ」と思った、判定した一部の人間が、親鸞会へ勧誘する際に高森会長を紹介する言い回しとして

高森先生は信心決定の体験と深い教学とを兼ね備えた方

等の言葉を使った、そしてそれが会の中で広まったと考えられます。


「高森先生は真実信心を獲ている」

これは親鸞会会員の大前提であります。これが崩れたら大変です。「真実信心かどうか疑わしい」となったらマインドコントロールも随分解けやすくなるでしょう。では何をもってそう信じているか、判定しているかというと、

高森会長の三業によって

です。三業で真実信心の有無を判定できないとか言っている割には、しっかり三業で真実信心の有無を判定しているのが親鸞会会員です。この最たる矛盾に、皆さんはいい加減に気付きましょう。

親鸞会の教え、また親鸞会の指導者(師匠)である高森顕徹会長を退会者が非難することは「謗法罪にならない」

この記事のコメント欄で、いまだ「ふじた」さんと数名の方の書き込みが続いています。

ふじたさんの質問
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浄土真宗と自称する宗派がいくつかあり、それをA,B,C,D,Eなどとします。
Aに属するXという人が、Bの宗派の教えを非難することは謗法罪になるのでしょうか、という質問です。
具体的に言いますと、Xさんは最初Bという宗派に入り、そこでBの指導者(師匠)によって仏縁を結び仏縁にあえたことを喜びました。しかしその後、Bの教えに疑問を感じ、Aという宗派に入りました。
この場合、仏縁をいただいたBの指導者(師匠)をXが非難することは謗法罪になるのでしょうか

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ただでさえ皆さん呆れているでしょうに、これに答えろとしつこいので困ったものです。しかし、これは随分と具体性に欠ける質問で、これだけの情報ではお答えできません。「横から」さんのコメントにもあるように、Bの教えとはどんな教えで、XはBの教えのどんなところに疑問を感じたのか、これが具体的に示されないことには答えようがないのです。それでいて「だれもそれに答えてくれず、無関係なことばかり書いています」とか駄々をこねられても困るんですよ。

あまりに具体性がないので、具体例を2つほど紹介したいと思います。


例1
A → 浄土真宗親鸞会
B → 浄土真宗華光会
X → 高森顕徹会長


とします。この場合、「Aに属するXという人が、Bの宗派の教えを非難することは謗法罪になるのでしょうか」「仏縁をいただいたBの指導者(師匠)をXが非難することは謗法罪になるのでしょうか」という問いについては「謗法罪になる」です。理由は、華光会で説かれる教えが浄土真宗だからです。

確かに華光会は、何かと問題な部分があります。座談においては無常と罪悪で執拗に責め立てられたり、会で縁の浅い人は信心が徹到していないと見做されたり、主張が嚙み合わなかったりして居心地が悪いと感じる方もあると思います。体験談を重視する方も少なからず見受けられ、自分で聖教に向き合わない方も多いです。他にも私が知らない様々な問題があるでしょう。ただ、どの団体にも大なり小なり問題はつきものですし、一部の過激な会員が原因かとも考えられます。それに、親鸞会の問題に比べたらこの程度はちょろいちょろい(笑)

一方教義としては、法話・華光誌(機関紙)や、前代表の増井悟朗師の著書を読んだりする限り、時折「うん?」と首を傾げる独特の言い回しもあるものの、仏願の生起本末、南無阿弥陀仏の六字のいわれを正しく説いていると言えると思います。このように教え自体は浄土真宗でありますから、私の白道を書かれた嶋田元講師は華光会で教えを聞いて信心獲得なされたようですし、親鸞会を離れて華光会へ行き、そこで教えを聞いて信心獲得したと体験談を語る方が何人もいることを知っています。当の本人である高森顕徹会長も、華光会で教えを受け、そして獲信したと思われる体験談を書いています。

↓↓↓

『元会員から見た浄土真宗親鸞会』善知識 なぜか記した 体験記
『なぜ私は親鸞会をやめたのか』高森顕徹氏の獲信体験

ところがやがて高森会長は華光会と袂を分かちます。体験談にてあんなに喜んでいたのにです。そして現在では「これが獲信か」というパンフレットを作り、華光会を暗に非難しています。確かにちょっと癖の強い団体ですが、教義は浄土真宗ですから、その華光会の教え、また華光会の指導者(師匠)である伊藤康善師や増井悟朗師を高森顕徹会長が非難することは「謗法罪になる」です。まぁこの場合はAという団体を立ち上げたのがXなのですが、細かい設定は目をつぶって下さい。


例2
A → 浄土真宗(無所属含む)
B → 浄土真宗親鸞会
X → 親鸞会退会者


とします。この場合、「Aに属するXという人が、Bの宗派の教えを非難することは謗法罪になるのでしょうか」「仏縁をいただいたBの指導者(師匠)をXが非難することは謗法罪になるのでしょうか」という問いについては「謗法罪にならない」です。理由は、親鸞会の教義が浄土真宗ではないからです。

高森顕徹会長の主張は、浄土真宗の根本的な教義である本願力回向、他力回向を真っ向から否定するものです。一念の救いを求めて「光に向かって進む教え」であり、その方向性は聖道門や他の様々な宗教と同じです。今一度教義の比較を『飛雲』より引用させて頂きますと以下の通りです。


親鸞聖人の仰せと高森顕徹会長の主張との相違点

1.獲信していない人の死後はどうなるか

親鸞聖人 六道輪廻(19願・20願の同行は化土往生)
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高森会長 必堕無間

2.五逆罪・謗法罪について

親鸞聖人 造っている人と造っていない人がいる
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高森会長 造っていない人はいない、全ての人は生まれながらに造っている

3.善人と悪人について

親鸞聖人 善人と悪人とがいる
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高森会長 善人はいない、すべての人は悪人である

4.獲信のために善は必要か

親鸞聖人 念仏1つ、獲信に善は不要
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高森会長 善をしなければ絶対に獲信できない

5.白道とは

親鸞聖人 自力の心にあらず
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高森会長 自力

6.定散二善について

親鸞聖人 定散二善を捨てよ
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高森会長 定散二善をせよ

7.19願について

親鸞聖人 19願を捨てよ
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高森会長 19願を実践せよ

8.宿善について

親鸞聖人 過去世の善根の厚薄と、往生・獲信とは関係ない
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高森会長 過去世の善根の薄い者が、そのままで往生・獲信することはありえない

9.機の深信について

親鸞聖人 自力では出離できない
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高森会長 逆謗の屍と必ず知らされる

10.法の深信について

親鸞聖人 往生ほどの一大事、凡夫のはからふべきことにあらず
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高森会長 浄土往生が火に触ったよりも明らかに知らされる

11.善知識に無条件服従しなければならないか

親鸞聖人 法に従うのであって、人に従うのではない
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高森会長 善知識に無条件服従せよ

12.因果の道理について

親鸞聖人 罪福の因果を信じることは自力・仏智不思議を疑う心
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高森会長 因果の道理を深信しなければならない

13.三願転入について

親鸞聖人 聖道門の人を浄土門に導く方便が19願であり、19願の勧めはない
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高森会長 全人類は19願から始めなければならない

14.「一向専念無量寿仏」について

親鸞聖人 諸善を廃して念仏1つになること
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高森会長 阿弥陀仏1仏に向かって諸善をすることも含む



主要教義でもこれだけ親鸞聖人の教えと高森顕徹会長の主張は異なります。これに細かな点を挙げていったらキリがないほど、浄土真宗と親鸞会教義は異なるのです。その上、教義上は廃悪修善だとか六度万行だとか善の勧めだとか聞こえのいいことを説いておりますが、実際に勧めているのは主として親鸞会の話のみを聞くこと、親鸞会への献金・勧誘、会長や上司への無条件服従です。このように浄土真宗ではない、「高森教」とでも言うべき外道の教えを非難しても、謗法罪には該当しません。いくら本尊が南無阿弥陀仏であり、親鸞聖人や蓮如上人のお言葉を一部使って話をしていても、教義が浄土真宗とは似ても似つかぬエセ真宗、高森教ですから、親鸞会の教え、また親鸞会の指導者(師匠)である高森顕徹会長を退会者が非難することは「謗法罪にならない」です。


以上、2つの例を挙げて説明しましたが、先のような質問にはこれ位具体的に表現してもらわないと答えようがないのです。ふじたさんには謗法罪についての定義をきちんと理解した上で、もっと実りのある質問をして頂きたいものです。

戯論に走り、物事の本質を見失っている親鸞会会員

もしこの世の苦しみを何とかしようというのならこの世での成仏を目指すべきだし、信を獲たとて我々の罪が消えるわけではないので、当然その報いは信前と変わらず苦果として現れてくる

のコメント欄で、依然議論がなされています。元々は私がアニメ映画『なぜ生きる』の蓮如上人のセリフに対し、

「苦しみの人生が幸せな人生にガラリと変わる」などと説くことは、二種深信以外の要素、つまり三業で信心の有無を判定していことに他ならない

等と繰り返し批判していることに始まっています。親鸞会会員と思しき「ふじた」さんが質問を重ね、それに私を含め複数の方がコメントしているという状況です。それが最近では大分方向性が逸れてしまい、

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・「真実信心の人は念仏誹謗、謗法はしない」というのも真ですね。
では「さるべき業縁の催せば、親鸞いかなる振る舞いもすべし」とおっしゃっておられますが、この「いかなる振る舞い」の中には「仏法を知らず知らず謗ってしまった」、ということは入らないのでしょうか。

・要するに、法謗罪を造っているかどうかという三業で、真実信心の有無を判定できるということですね。

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というような質問やコメントをしてきているという有り様です。情けない限りです。

大体、仏法を信じている者を謗法の者と言いますか? 仏や仏の教えを否定する人を謗法の者と言うのです。要は異教徒のことです。また念仏誹謗の人も謗法罪を造っている者ですが、そういった異教徒や念仏誹謗の人が真実信心を獲ているかどうかなど問題にもしないでしょう? OHEさんのコメントにありますが、

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異教徒や、念仏誹謗の他宗の人に対して
「三業で真実信心の有無を判定できる」
なんて愚かな質問自体が全くの無意味なんですよ。

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ということです。私からもふじたさんには、高森会長に対して「異教徒や、念仏誹謗の他宗の人は三業で真実信心ではないと判定できますか?」と聞いてみてもらいたいと思います。

真実信心か否か、その判定は三業でできるのかといった議論は、大体は浄土真宗でしかなされないことなので、異教徒や念仏誹謗の他宗の人は最初から問題外なのです。ふじたさんはその問題外のことを問題にし、物事の本質を見失っていると言えましょう。それで高森会長の説を擁護しているつもりが、実は高森会長を全面的に信用しているわけではないことが明るみに出てしまってもいます。

親鸞会では言葉の定義がおかしく、高森会長の中身の無い話を居眠り聴聞しただけで謗法罪だとか言われます。また真実信心の人が「仏法を知らず知らず謗ってしまった」ということがあり得るらしいです。過去はどうか知りませんが、親鸞聖人の教えを聞いて信じている方は謗法の者ではありませんし、教義を誤解していたというのはあっても、真実信心の人が「仏法を知らず知らず謗ってしまった」ということは通常ではあり得ません。

往生の金剛心のおこることは、仏の御はからひよりおこりて候へば、金剛心をとりて候はんひとは、よも師をそしり善知識をあなづりなんどすることは候はじとこそおぼえ候へ。(御消息第二通、末灯鈔(20))

「真実信心の人は念仏誹謗、謗法はしない」というのは親鸞聖人の仰せです。ふじたさんのような、こうした親鸞聖人のお言葉に素直に順わずにあれこれ詮索して「こういうのはどうなんだ」と立てついている人はどうか知りませんが、私達は罪業重しといえども五逆、謗法の徒ではありません。

善知識をおろかにおもひ、師をそしるものをば謗法のものと申すなり。おやをそしるものをば五逆のものと申すなり、同座せざれと候ふなり。されば北の郡に候ひし善証房は、おやをのり、善信(親鸞)をやうやうにそしり候ひしかば、ちかづきむつまじくおもひ候はで、ちかづけず候ひき。(御消息第五通、末灯鈔(19))

親をののしり、親鸞聖人を様々に謗る善証房のような者を五逆、謗法の者といい、こういう者に近づいてはならないと仰せです。では、私利私欲のために教えを捻じ曲げ、阿弥陀仏を誹謗する高森顕徹会長のような者には近づくべきか、即刻離れるべきか。「親鸞学徒」であるというなら親鸞聖人の仰せに順いましょう。


【参照】
『飛雲』謗法罪の定義さえ知らない高森顕徹会長
プロフィール

淳心房&しゃあ

Author:淳心房&しゃあ
(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


(しゃあ)
平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
singikensho@yahoo.co.jp
(スパム防止のため@を大文字にしてあります。メール送信時は小文字に変えて下さい。)

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