所詮は、組織からしたら私は歯車の一つでしかなく、代わりなどいくらでもいる

12月の最繫忙期に、突然何人かのベテランの同僚が来なくなり、残された我々には更なる負担がのしかかって本当に辛かったです。どうせ辞めるなら辞表を出して正当な手段で辞めてほしかったですが、彼らにはもはや四の五の言ってられない辛さ、やり切れなさ、不満うっぷんが溜まっていたのでしょう。悪いことをしたのは間違いないが、その気持ちだけは十二分に分かります。自分もこの前、前日分の未配達の荷物がゴロゴロある状態で、しかも隣のエリアを一部くっつけられるということをやらされました。1月だというのに年末に戻ったようです。上司や同僚に恵まれない職場環境は本当に辛いです。

さて、突然開いた穴を埋めるのは実に大変でした(現在も欠員状態で回している状態で大変です)が、それも日が経つにつれて会社は順応していきます。別にその人でなければダメというわけではなく、代わりなどいくらでもいることを改めて知らされました。

Mr.Children「くるみ」Music Video

に出てくる歌詞が思い出されます。

良かったことだけ思い出して
やけに年老いた気持ちになる
とは言え暮らしの中で
今 動き出そうとしている
歯車の一つにならなくてはなぁ


所詮は、組織からしたら私は歯車の一つでしかないのです。どれだけ会社、組織に尽くしてきた人でも、「その人でなければダメ」という人は極々わずか。一般社員の一人や二人、その人の抜けた穴を埋める手段はいくらでもあります。会社や組織、仕事に生きがいを見出す人もありますが、入れ込みも程々にしないと痛い目を見ることになるかも知れません。


親鸞会でも同じ事です。組織からしたら、別に自分じゃなくても、自分と同程度か、それより多くのお布施を出し、多くの人を勧誘する人がいれば、自分は居ても居なくてもどっちでもいいのです。上司にしても、不満や愚痴をぶつけてきて大した働きをしない人よりも、何も言わず黙々と成果を上げてくる人の方が好き(好都合)に決まっています。

高森先生は皆さん一人一人の後生を案じておられます。

などとよく言われますが、間違ったことばかり説いて真に会員に獲信・往生させようという気がないのですから、そんなのは口先だけだと見抜けます。因果の道理や廃悪修善、19願ばかり教えて肝心かなめの南無阿弥陀仏の六字のこころを正しく説かないようでは、会員はいつまでも自力疑惑の範疇を出ません。否、やっていることがまこと仏説にそぐう行ならまだしも、会への献金・勧誘、会長や上司への無条件服従といった善もどきの善では仏教にもなりません。

組織からしたら、自分は単なる構成員の一人、組織拡大要員の一人であることに気づいたら、高森信心のマインドコントロールからはほぼ脱したも同然です。後は教義の誤りと正しい親鸞聖人の教えを知れば、心身共にエセ真宗から解放されるでしょう。後生を人質に取られ、必堕無間の呪縛に怯える生活に、会員の皆さんはそろそろ終止符を打ちませんか?

届くのは決して当たり前ではない

こんなニュース

が最近世間を騒がせているようです。配達員はどんな心理状態だったのか分かりません。荷物を投げつける、蹴るのは勿論悪いことですが、気持ちは分からないでもありません。捌き切れない荷物に加えて、集荷、未着対応、クレーム対応、客のすっぽかし、その他諸々のアクシデントが降りかかって来たら、イライラは天にも昇る勢いです。所詮はこの仕事をやった者でなければ分からない苦しみ悩み怒り腹立ちでしょうが、荷物を頼む側はもう少し事情を理解して、最繫忙期の状況を察してもらいたいものです。

昨日も自分の持ち分だけで200はあり、隣の女の子の分は20ほど持つのが限界でした。昼飯の10分以外はノンストップでやり続けて、最後の配達が21時少し前。恐らく読者の皆様の大半は俺の動きに一日ついてこれないと思います。実にきつく、損な役回りです。せっかく人が定着したと思ってもすぐに辞めてしまいます。自分が今の会社に入った頃よりも確実に人は減り、一人一人の仕事量は確実に増えていると実感しています。それで給料は増えるかと言えばそんな事は無く、逆に会社は残業代を削減するために出勤時間を遅らせ、早くタイムカードを切るように指示をしてきます。これじゃ誰もやる気が出ないでしょう。給料が同等の仕事が他に見つかれば俺だってとっくに辞めてますよ。近年ようやく保育や介護の仕事に大分目が向けられるようになってきましたが、物流・宅配の仕事にも目が向けられるようになって欲しいものです。

さて、一般の人が欲しいものをポチしてから自分の元に届くまではおおよそ以下の手順を踏みます。

出荷人が依頼を受けた商品を確保

集荷依頼し、物流会社が荷物を集荷

荷物を事業所へ持ち帰る

荷物を仕分けて、発送先の車両に積み込む

中継センター等を経由して発送先の事業所へ到着

荷物を配達地域毎に仕分ける

受け人の地域の担当ドライバーが持ち出し・配達

これが通常の時期は正常に稼働し、荷物はほぼ指定日通りに届けることができます。しかし、最繫忙期である12月はそうはいきません。荷物の集荷が遅れ、仕分け・発送も遅れ、中継センターはパンク状態で大型トラックがそこへ到着しても荷物をすぐに降ろすことができません。更にそこから捌けた順に発送していくので、直近の事業所へ届くのは通常の1~2日遅れになってしまいます。そこからまた仕分けて、持ち出しし、配達に向かいます。道が混んでいるとか、そういった事情ではないのです。

中には、バーコードを読み取って機械が自動的に仕分けるハイテクセンターを持つ物流会社もありますが、そんな会社でもそのようなハイテクセンターはまだまだごく一部であり、ほとんどのセンターは手作業で一つ一つ仕分けています。仕分け一つでも実に沢山の人の手が加わっています。この手順の内、どこかが行き詰まれば荷物は自分の元まで来ません。12月はこのほぼ全ての行程が行き詰まっていると言っていいでしょう。日本人の多くは荷物が指定日に、時間通りに来るのが当たり前みたいに思っている節がありますが、決して当たり前のことではないのです。荷物一つ届くのも、実に多くの人の手、苦労があってのことだというのを知ってほしいと思います。


このようなことが知らされますと、この私に阿弥陀仏の本願、南無阿弥陀仏の六字のこころが届いたことにも実に多くの人の手、苦労があってのことなのだなというのがしみじみと感じられてきます。決して当たり前のことではなかった。釈尊はじめ七高僧方、親鸞聖人、覚如上人、蓮如上人、その他有名無名の知識方や同行方、誰一人欠けてもこの私まで届かなかったかも知れない。あくまでも私個人の事ですが、高森顕徹会長や声をかけてくれた先輩がいなければ、今私は本願の仰せを聞き受けていなかったかも知れない。邪義だらけの親鸞会ですが、私に本願を伝えてくれたというただ一点においては感謝しています。だからこそ邪義を邪義と認め、今までの悪行を改悔懺悔して、正しい親鸞聖人の教えを説いてくれたらと思うのですが、残念ながらそうはならないでしょうから今まで通りこれからも批判してゆくしかありません。

拙いブログですが、今年も当ブログをきっかけに親鸞会教義の誤りに気づき、本願を信じ念仏するようになった方があったかも知れません。そういう方がたった一人でも構わないから現れてくれれば幸いと思い、綴っています。きっかけが何であれ、一人でも多くの方が南無阿弥陀仏に遇って頂きたい、そう願っています。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。

念仏は道理を尽くして説かれた完全な法であり、諸善は理を尽くさない不完全な説

隣のエリアを回っている女の子がまた泣いていました。どうやら、前日・前々日にそこを回っていた奴が力量のないドライバーで、そいつが未配をやらかした荷物を持って行ったところ、客が激怒してきたとのことです。彼女は悪くないのに、実にかわいそうなことです。自分も空いた時間を使ってヘルプに入っているのですが、またしても彼女の涙を見てしまいました。悪いのは未配こいたドライバーであり、このくそ忙しい時にお構いなしに注文しては指定日に荷物が来ないとブチ切れる客なのですが、何とも後味が悪いです。隣を回っている女の子一人助けられないとは、人間の慈悲は実に不完全であることをつくづく思い知らされます。


この不完全ということで思い出されたのが、「行文類」

埋尽非理尽対、念仏は道理を尽くして説かれた完全な法であり、諸善は理を尽くさない不完全な説にすぎない。

です。普通は、諸善の説の方が道理にかなった法であるかのように思えます。釈尊も廃悪修善の道理に従って悪を廃し、善を修めて仏のさとりまで到達された方でありましょう。そして経典の大部分ではそれぞれの機に応じて善を勧められています。であるのに、その善は理を尽くさない不完全な法であると退け、念仏こそ道理を尽くして説かれた完全な法であるとは、聖道門の方々は勿論、一般の人々には到底理解し難いものがあるでしょう。

念仏の法は、阿弥陀仏がかつて法蔵菩薩であった時、普く一切衆生を平等に救おうと発願し、五劫の間思惟し、兆載永劫に亘って御修行を重ねられて完成なされた法門です。阿弥陀仏の五劫永劫の願行は、南無阿弥陀仏となって十方世界に響き渡り、届かない処はありません。私としては、只今、この場で、南無阿弥陀仏の六字のいわれ、すなわち「我にまかせよ、必ず助けるぞ」の仰せを、自分の計らいや詮索を交えずに、そのまま、素直にお聞きし、お受けするのみです。それで、私の往生の業事は成弁し、間違いなく仏に成る身と定まるのですから、まことに我が根機にかなった、何ともたのもしい、完全な法であると言わざるを得ません。

対して諸善の法は、自業自得の道理に従って、悪を廃し、仏に成るだけの善行を積んでいかなければなりません。言葉だけなら廃悪修善と簡単ですが、煩悩具足の人間が、世俗の世界に生きてある限り行を発し道を修することは極めて困難です。加えて仏に成るには三祇百大劫と言って気の遠くなる長期間の修行が必要なのですから、極めて優れた素質をもった者でなければ到達することはできない、非常に厳しい難行道です。龍樹菩薩や天親菩薩といった方々でさえ念仏の法に帰依されたというのに、末代不善の我々は誰一人助かりはしないでしょう。道理としてはよくても、行を修める我々の根機という点から見て、諸善の法は不完全であります。

このように思われた時、前も挙げましたが『歎異抄』第四条

一 慈悲に聖道・浄土のかはりめあり。聖道の慈悲といふは、ものをあはれみ、かなしみ、はぐくむなり。しかれども、おもふがごとくたすけとぐること、きはめてありがたし。浄土の慈悲といふは、念仏して、いそぎ仏に成りて、大慈大悲心をもつて、おもふがごとく衆生を利益するをいふべきなり。今生に、いかにいとほし不便とおもふとも、存知のごとくたすけがたければ、この慈悲始終なし。 しかれば、念仏申すのみぞ、すゑとほりたる大慈悲心にて候ふべきと[云々]。

慈悲について、聖道門と浄土門とでは違いがあります。聖道門の慈悲とは、すべてのものをあわれみ、いとおしみ、はぐくむことですが、しかし思いのままに救いとげることは、きわめて難しいことです。一方、浄土門の慈悲とは、念仏して速やかに仏となり、その大いなる慈悲の心で、思いのままにすべてのものを救うことをいうのです。この世に生きている間は、どれほどかわいそうだ、気の毒だと思っても、思いのままに救うことはできないのだから、このような慈悲は完全なものではありません。ですから、ただ念仏することだけが本当に徹底した大いなる慈悲の心なのです。このように聖人は仰せになりました。

がその通りその通りと思われたのでした。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。

とは言え、この世の慈悲、人間の慈悲もやはり必要です。今日も何とか彼女の助けになるべく駆けつけてやりたいです。本当に頑張っている真面目な子なのでこんな所で潰すわけにはいきません。今日も界王拳で行くぞー!!

引いて開けるドアを押していても、いつまでもドアの先へは行けません

クリスマスなんて大嫌いですが、クリスマスソングは好きです。

🎄Hurry Xmas 🎄 ~L'arc~en~ciel~

とか。熱唱するとテンションが上がります。カラオケ行きてぇ(笑)


さて、阿弥陀仏の救いは、南無阿弥陀仏の一方的はおはたらきによるものです。こちらの方で何かを加えたりすることはありません。私としては、一方的なお救いであることを聞き受けるのみです。「助けるぞ」の仰せに対し、「こうすれば」「こうしたら」とか余計な計らいを加えずに、その仰せのままに素直に後生おまかせするのです。「助けるぞ」を「助けるぞ」とそのまま聞くのが即ち信です。

これは如何にも簡単そうであり、既に本願招喚の勅命を疑いなく聞き受けた身としては簡単という言葉も要らぬほどのことです。しかし、今から信心決定しよう、信心獲得したい、阿弥陀仏に救われたいと求めておられる方にとっては、「それが難しい」と悩む方が多数なのではと思います。私も例に漏れず最後まで阿弥陀さまを苦しませた系ですから、その苦悩は十二分に経験しています。

未信の方は、聴聞という行や、念仏称えるという行、お勤めを欠かさずするという行、あるいは親切やよい心がけに努めるという行、その他人それぞれ思いつく行為や心がけを熱心に重ねることで、こちらから阿弥陀さまの救いをつかもう、救いに近づこうと方法論を模索しがちです。図にすると、

阿弥陀仏 ← 私

という形で、阿弥陀仏の一方的なはたらきかけを受け容れられず、逆にこちらからはたらきかけなければ阿弥陀さまは応じて下さらない、救いには遇えないと信じて方法論に走りがちです。特に親鸞会の会員は、本来浄土真宗に存在しない「横の線に該当する教え」「光に向かう教え」を叩き込まれていますから尚更こうした信心は強いでしょう。

・宿善の薄い私は、このままで助かるわけがない
・他力と無力を混同している信仰の幼稚園児ではいけない
・最初から他力の人はいないんだから、みんな自力で求めていくんだ
・他力になるまで他力を求め抜くんだ
・「ただじゃった~!」となるまで「ただ」を聞くんだ
・群賊・悪獣・悪知識の非難の中を煩悩と闘って進んでいくんだ


このように信じて高森会長や上司の朝令暮改の無理難題を必死にこなそうと頑張っている会員さんも少なくないと思いますが、残念ながら大変な思い違いであるため、どれだけ会で勧められる活動に励もうとそれによって阿弥陀仏に救われるということはありません。

『飛雲』真実の信心を教えられた親鸞聖人、他教の信心を教える高森顕徹会長より引用しますと、

報土往生の因は、100%阿弥陀仏が用意して下されたものなので、われらの方で何かすることは不要なのです。もっと言えば、報土往生のために何かしてはいけないのです。

ということです。尤も、会員は報土往生という死んでからの証果よりは、現世における絶対の幸福だとかいう幻想的な楽を追い求めている場合が多いので話にもならないんですけどね・・・

さて、このような思い違いを示す分かりやすい例えとしては、「引いて開けるドアを押しているようなもの」というのが適切でしょうか。引いて開けるドアをいくら押しても、いつまでもドアの先へは行けませんし、ドアを押している行為もそれに費やす時間も全くの無駄です。
それと似たようなもので、阿弥陀さまが私の心のドアを開けて浄土へと導こうとされているのを、「ドア位は私が開けねば」と頑張って押しているのが実は裏目に出ているという感じです。私はドアを開けようとするのをやめて、ただ阿弥陀さまの救いの御名をお聞きし念仏すればよいのです。そうすれば自然とドアは開いて、阿弥陀さまが私を浄土へお連れ下さるものを、私は阿弥陀さまの仰せを素直に聞こうとしません。自分の浅はかな考えで、何とかしてドアの外へ出たいとの思いが勝ってガチャガチャやっているのです。『もののけ姫』のアシタカのような者なら「押し通る!」の言葉通り押し通れるのかも知れません(笑)が、それは私には無理です。
このままの私をそのまま救おうとする阿弥陀さまと、このままの私で助かるわけがないと方法論に走る私。私は私で真剣にやっているのですが、私の行為が阿弥陀さまの救いを撥ね付ける方向にはたらいているので、これではいつまで経っても両者の溝は埋まりません。

こうした思い違いを思い違いと知らせて頂き、本願の仰せをそのままお受けするのが聴聞です。ただ、聴をひたすら重ねて、いつか聞と聞こえる時が来る、今生で来たらラッキーなんていうのは、「聴聞という行をしていかなければならない」という考え方で間違いです。勿論獲信の現在から「ひたすら聴聞を重ねてきたな」と振り返ることはあるでしょう。しかし、未信の人が「これからひたすら聴聞を重ねなければ助からない」と救いを先延ばしにするのは間違った心がけです。一体いつ助かるつもりでしょうか。只今、ここにいる、このままの私が救われるのです。この世は無常であり、今、この場のこの聴聞が最後になるかも知れないのに、にもかかわらず救いを先延ばしにするとは随分とのんきなものです。

阿弥陀仏の救いというのはてのひらを返すように容易いので、あれこれ計らうのをやめて「助けるぞ」をそのままお聞きした只今、この場で救われます。ただあまりに容易いため、逆に浅はかな私達は余計な詮索や先入観でもって「そんなわけあるかい」と疑って中々素直に聞き受けられません。だから「難信」であり「易往而無人」と言われるのですが、といって何十年も求道しなければ救われないというものではありません。親鸞会ではなぜ「難信」なのか間違って教えられているため、会員は法を聞くにしても長い求道を要してようやく救われるかのように余計な詮索や先入観をもって身構えてしまうのです。このような凡夫の浅はかな智慧を交えずに、そのまま助ける本願をそのままお聞きすれば、難信ではなくなります。心得やすの安心、取りやすの安心だと分かり、今まであれこれ計らっていた私は愚かだった、よく阿弥陀さまはこんな私を見放さず諦めずにいて下さったなとお念仏せずにいられなくなります。

そもそも、その信心をとらんずるには、さらに智慧もいらず才学もいらず、富貴も貧窮もいらず、善人も悪人もいらず、男子も女人もいらず、ただもろもろの雑行をすてて正行に帰するをもって本意とす。その正行に帰するというは、なにのようもなく、弥陀如来を一心一向にたのみたてまつることわりばかりなり。かように信ずる衆生を、あまねく光明のなかに摂取してすてたまわずして、一期のいのちつきぬれば、かならず浄土におくりたまうなり。この一念の安心ひとつにて浄土に往生することの、あら、ようもいらぬとりやすの安心や。されば安心という二字をばやすきこころとよめるは、このこころなり。さらになにの造作もなく、一心一向に如来をたのみまいらする信心ひとつにて、極楽に往生すべし。あら、こころえやすの安心や。また、あら、ゆきやすの浄土や。これによりて『大経』には、「易往而無人」とこれをとかれたり。この文のこころは、安心をとりて弥陀を一向にたのめば、浄土へはまいりやすけれども、信心をとるひとまれなれば、浄土へはゆきやすくしてひとなしといえるは、この経文のこころなり。かくのごとくこころうるうえには、昼夜朝暮にとなうるところの名号は、大悲弘誓の御恩を報じたてまつるべきばかりなり。かえすがえす仏法にこころをとどめて、とりやすき信心のおもむきを存知して、かならず今度の一大事の報土の往生をとぐべきものなり。あなかしこ、あなかしこ。(『御文章』2帖目7通)

この取りやすの安心、心得やすの安心を自力でつかもうとしているから、これ以上難しいことはないとなってしまうのです。何の造作も要らず、念仏以外の諸善を捨てて、「阿弥陀仏が唯一選び択られた念仏一つで助かる」と信ずる一つにて往生は定まります。そうなれば、昔はとんだ心得違いだったな、回り道だったな、そんな自分をよくもお救い下されたものだと過去の迷いも御恩喜ぶタネとなり、あながち無駄ではなかったと思えます。要は、

阿弥陀仏 → 私

という一方的なはたらきを何の造作も要らず受け容れられるかどうかです。本日只今にもそういう身になれる、いや、本願を信じさせ念仏称えさせると阿弥陀さまが仰せですから、逆らわず計らわず、阿弥陀さまの仰せを素直に受けて下さい。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。

クリスマスなんて大嫌い!! いやマジで

どこもかしこもクリスマスムードで、ラジオでもクリスマスソングがよく流れてきます。

クリスマスなんて大嫌い!!なんちゃって クレイジーケンバンド

とか。この歌の場合は「なんちゃって」ですが、私は「いやマジで」です。それは私が仏教徒だからという理由ではありません。指定日通りに荷物が届かないとか、時間帯が守られないとかいう未着、クレームの嵐が一年の中で一番酷い時期だからです。運悪くクレイジーな客に当たってしまうと実に面倒です。クリスマスプレゼント関係が特にヤバいです。

でも、この時期は正直言って無理なんです。普段とは物量が全く違うため、営業所も中継センターもパンクしてしまい、荷物は延着延着で自分の元へやってきます。指定日の1日遅れ位だったらいい方ですよ。昨日(23日)も22日指定の荷物を何個配達しに行ったことか。それで切れられても困るんですよね。朝からちゃんと自分の元へ届いていて、自分の見落としで指定日通り、時間通り配達できなかったら俺に非がありますが、元々遅れてきたものをどうせいっちゅうの(-_-;) 昨日も、200個以上の荷物をやっとやっと終わらせて帰ってきましたが、事業所には23日指定の荷物がゴロゴロ転がっていました。もう知らねぇと思って帰ってきましたが(苦笑)

中にはパソコンやスマホで荷物の状況をチェックしている人もいるようですが、持ち出したものの捌き切れずに持ち帰ることなんてザラで、そうなったら「何で来ないんだ!」なんてイライラするだけですから、あんなの見ない方がいいですよ。この時期に、たかだか数百円の送料・手数料で間に合わそうとするのがそもそも浅はかだと思います。本当に必要なものは、もっと事前に自分で手配しなきゃ。これを俺らの怠慢だと思う人は、一偏俺の横に乗って俺の代わりに仕事してみたらいいです。特に今年は酷くて、何年も勤続のベテランが「やってられん」ということでしょうか、一人二人と欠勤しています。もうどうしようもないやと、俺も絶望しています。


さて、話を後生の一大事、往生の一大事に変えますが、荷物の山積よりももっともっとどうしようもない罪悪の山積を抱えている我々が、たまたま修めた善や、称えた念仏をあて力にし、それで助かろうとするのがそもそも浅はかです。特に親鸞会の会員の中には、善もどきの善をやった位で19願を行じたつもりになっているおめでたい人が少なからずいまして、つくづく我が身知らずだなと呆れ返ってしまいます。法蔵菩薩と同じ行が、我々にできるかっての。何百人でかかっても捌き切れない事業所中の荷物を一人で何とかするよりも難しいことだと思いますよ。

後生の一大事助かるには、自分の行為など何の役にも立ちません。そんなもの捨ててしまいなさい。そして、こんな自分の代わりに五劫永劫の願行を成就し、回向して下さっているところの南無阿弥陀仏におまかせしなさい。それより他に後生助かる道はないです。方法論を考えているなんて、我が身知らずもいいところです。まだ手をつけてない荷物が出てくる出てくる、どころの騒ぎではありません。普段は気にしていないが、よくよく振り返れば、自分でも気付かない罪悪がどんどん出てくるでしょう。とても抱え切れない、罪悪の山積が。

修めた善よりも、犯した悪業の方が何十倍、何百倍多いだろうということは自分でも自覚があります。しかし、自分でも気付かずに造っている悪業・罪悪が、きっと、もっともっとあるのです。そんな日々を積み重ねている、積み重ねなくては生きていけない私達が、普通に考えて後生をどうにかできるわけがないのです。阿弥陀さまに、なんまんだぶにおまかせし、後生を委ねるしかないのです。

今年もあと一週間です。今年が来年になるように、今生が後生になるのも、きっとあっという間でしょう。そのあっという間の人生、阿弥陀さまに後生おまかせせずに終わるようなことがないようにと思うばかりです。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。

自分が本当に欲しいもの

せっかく頼んだはいいものの、何回行っても不在にして連絡もよこさない客。再配達の依頼をかけといて指定の時間帯に待ってない客。後で帰って来て「もう1回来て下さい」と平気で電話してくる客。冗談抜きで殺意を覚えます。本当にこの時期に欲しいものなのか。ポチって満足しているだけではないのか。なら心の中だけに留めておけないのか。一体何のために荷物を注文しているのか。あくまで自分の都合中心でしか物事を考えず、業者は何でも言うことを聞くとでも思っているのか・・・様々な考えを巡らしてしまいます。

確かに人それぞれ、欲しいもの、手に入れたいものは沢山あると思います。今やパソコンやスマホの画面で簡単に自分の欲しいものを検索して注文できる時代ですから、それが安くて在庫があればついついポチっとしてしまう気持ちもよく分かります。しかし、受け取ることまで考えて注文しなければ浅はかだと言わざるを得ません。ポチして、荷物が届いて、開けて使ってようやく買った甲斐があるというものでしょう。それをせっかく届けに回っているのに、不在票を何度入れても反応して来ない、何日も過ぎてからようやく連絡してくる、指定の時間帯に待ってない、これでは荷物は要らないと取られても仕方ないと思います。

さて、この事を期に「自分が本当に欲しいもの」というのを改めて考えてみましたが、やはりそれは「さとり」です。金、好きな食べ物、健康、時間、若さ、体力、忍耐力、明晰な頭脳、身長、ルックスの良さ・・・その他欲しいものは沢山ありますが、やはりどれもこの世50年乃至100年の内のことです。たとえ手に入れたとしても、もうこれで満足ということはなく、限りない欲望は死ぬまで求め続けるでしょう。そういった世俗的な幸福ではなく、本当の安心・満足の境地、すなわち仏のさとりこそ私が本当に欲しいものです。

ところが、簡単に「さとり」と言っても、仏のさとりに至るまでは三祇百大劫もの間修行しなければなりません。荷物の山積は1ヶ月も頑張れば何とかなっていきますが、そんな気の遠くなる長期間厳しい修行に打ち込まねばならないというだけで既に戦意喪失してしまいます。加えて、罪悪の山積は聖者や善人ならいざ知らず、煩悩具足の悪人が世俗の世界に生きている限りはどうにもなりません。罪悪を善行で相殺できるとしても、修めた善行をはるかに凌駕する罪悪を積み重ねているのですから、相殺はおろかマイナスです。しかも、今日や明日にも無常が迫っているとしたら? 大宇宙に置き場のないほどの罪悪を前に、こんな私に一体何ができるというのでしょうか?

このように思いを巡らしますと、罪が深く極めて重い私は、この世でのさとりはあきらめて、死後に阿弥陀仏の浄土に往生してさとりの完成を目指すよりないと知らされます。かと言って、平生に修諸功徳の善に努め、臨終に阿弥陀仏の来迎を待つという19願の救いにはとてもあずかれそうもありません。また、称えた念仏の功徳によって往生しようという20願の救いすら同じくあずかれそうもありません。やはり、私の力は要らず、ただ如来の願力のみで往生成仏させる18願の救いでなければ、到底自分のようなものがさとりを完成することなどあり得ないでしょう。

「そんなうまい話があるかい」と思われる方もあるでしょうが、我が身の無常と罪悪を考えたならば、これ(18願の救い)でなければ自分には無理です。こんな者を見捨てずに助けるために、果てしない長期間に亘って願行を成就し回向して下さったのかと聞くにつけ、念仏申すしかありません。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。本来地獄の他に行き場のない私ですが、「お前の後生はこの弥陀が引き受けた」と仰って下さいますので、もはや後生を案ずる必要はありません。案じたところでどうにかなる問題ではありませんし、私としては阿弥陀さまの仰せに対して心から信じおまかせするのみです。

こうした本願の救いがなければ、本当にこの人生、苦しむ為に生まれてきたようなものです。そして後生も苦しみでは、人間に生まれてきた甲斐がありません。この弥陀の本願がもっと多くの人に広まって、みんなが念仏を喜ぶ世界になったらいいなぁと思います。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。

荷物の山積以上にどうしようもないのが、我々人間の罪悪の山積

朝から、とても捌き切れない荷物の山を見て絶望しながら仕事をしています。遅配を怒られようがクレームをもらおうが、とにかく事故だけは起こすまいと出勤途中に誓っているのですが、現場に出ると仕事に追われて忘れがちになってしまいます。何とか一日無事で終われたらいいと祈る毎日です。

会社も会社で、こんな捌き切れない量の荷物をどうして集荷してくるのか、毎年毎年意味不明です。それで遅れに遅れて大量のクレームをもらう位なら、初めから身の丈に合った物量を引き受ければいいものを、これでは社会の信用を失うだけです。本当に学ばない、ドブラックな会社です。

さて、荷物の山積もいかんともし難いものがありますが、それ以上にどうしようもないのが我々人間の罪悪の山積なのだろうなと思います。例年通りなら年内いっぱいはどうしようもありませんが、年が明けると一気に荷物は減って、そこで集中して片せば山積も元に戻ります。しかし、我々の罪悪の山積は積もる一方です。たまたま一つの善行を成しても、その何十倍何百倍の罪悪を日々造っているのではないでしょうか? 心で何を思い、口で何を言い、体で何をやっているか、それを逐一反省していきますと、事業所の荷物の山積どころではありません。そして罪悪の山積は今生に始まったことではなく、遠い遠い過去からの山積もと考えると、大宇宙に置き場もないというのも決してオーバーな表現ではないと思われます。

この罪悪の山積を相手に、煩悩具足の私がいくら善行を成そうと努力しても、努力している側から悪がこぼれ出てしまう有り様ですからこんなの無理です。貯金しようとしている側から無駄遣いしまくって赤字赤字みたいなもんで、この世でのさとりは勿論、要門の修行に堪えて臨終来迎にあずかることも夢のまた夢です。もはや念仏しか私が救われる道はありません。よくぞ念仏して成仏する法門を成就して下さったものだと、阿弥陀さまには本当に頭が上がりません。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。念仏の法に遇えて良かった。ホント良かった。

聖人(親鸞)のつねの仰せには、「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとへに親鸞一人がためなりけり。されば、それほどの業をもちける身にてありけるを、たすけんとおぼしめしたちける本願のかたじけなさよ」と御述懐候ひしことを、いままた案ずるに、善導の「自身はこれ現に罪悪生死の凡夫、曠劫よりこのかた、つねにしづみ、つねに流転して、出離の縁あることなき身としれ」(散善義)といふ金言に、すこしもたがはせおはしまさず。 さればかたじけなく、わが御身にひきかけて、われらが身の罪悪のふかきほどをもしらず、如来の御恩のたかきことをもしらずして迷へるを、おもひしらせんがためにて候ひけり。まことに如来の御恩といふことをば沙汰なくして、われもひとも、よしあしといふことをのみ申しあへり。

聖人の仰せには、「善悪のふたつ、総じてもつて存知せざるなり。そのゆゑは、如来の御こころに善しとおぼしめすほどにしりとほしたらばこそ、善きをしりたるにてもあらめ、如来の悪しとおぼしめすほどにしりとほしたらばこそ、悪しさをしりたるにてもあらめど、煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、よろづのこと、みなもつてそらごとたはごと、まことあることなきに、ただ念仏のみぞまことにておはします」とこそ仰せは候ひしか。
(『歎異抄』後序)

念仏申すのみぞ、すゑとほりたる大慈悲心にて候ふ

12月は師走と言われるように、1年の中で一番忙しいです。物流に携わる仕事をしている私としては、毎年嫌だなぁと思いながらこの時期を迎えています。近年はネット通販が異常なまでに普及しているおかげで、お歳暮に加えてとんでもない数の荷物がやってきます。機会があればいっぺん、事業所の荷物の山をクレーム入れてくる人達に見せてやりたい位です。これを1つ1つ捌いていくのかと思うと絶望感が漂いますよ。しかも随分と遅れてやってくるため、配達はどうしたって後手後手に回ってしまいます。

配る側のこちらとしたって、謝罪しながら怒られながら回るなんてまっぴらですから、できるなら納期・時間帯に間に合わせたいと思ってやってるんです。でも物量は多いわ、遅れてくるわ、問い合わせはあるわ、急かしてくるわ、やっとやっと希望の時間帯に行ってもすっぽかされるわで、とてもじゃないけどそうもいかないのが現状です。そして、一昔前は給料も良くて人もそこそこいたのが、今は給料が減って人も減っているので、一人一人にかかる負担がパネェんですよ。ところがたのむ側はそんなこと知らないでしょうから、「どうなってんだ」「何日も配達に来ない」「再配達依頼したのに来ない」「何回かけても電話に出ない」と物凄い剣幕で迫ってくるわけです。こんなんですから働く側はイヤになって辞めていきますよ。で、ますます対応ができなくなる。クレームが増える。イヤになって辞める。ひどい悪循環です。

どんなにできる人でも神じゃないんだから、一日に取り扱える量には限界があります。それに加えて電話対応だクレーム対応だ何だと降りかかってきたら、更にできることが限られてくるのは当たり前です。それを遅いだ対応が悪いだなんだかんだと善人様は怒ってるんですが、その怒りは元々は「あれが欲しい」「これがこんなに安く売ってる」という己の欲望が因となって表れているのです。本当にそれがこの時期に必要なものなのかどうか、どうしても通販で買わなければならないものなのかどうか、よく考えて、遅れるのは覚悟で注文してもらいたいです。できるなら、たのむから頼んでくれるなと言いたいです。


さて、前置きが長くなりましたが、そんなこんなで自分も辛く大変ですが、自分の隣のエリアを回っている女の子が自分に輪をかけて大変です。まだ20歳だというのに、朝早くから夜遅くまで一生懸命やっている姿を見ると、心を動かされます。仕事を終えて、事業所で彼女の疲れ切った顔を見るのは正直辛いです。何とか助けてやりたいと思うのですが、てめぇのエリアが満足に回れてないのに他人のヘルプどころじゃないので、助けるにしても僅かな量しか持ってやれないのが現状です。頑張り屋の彼女の泣いている顔は見たくない、何とか助けになりたいとは思っても、思うままに助けてやれない人間の慈悲は不完全なものであることが知らされます。

これで思い起こされるのが、『歎異抄』第4条です。

一 慈悲に聖道・浄土のかはりめあり。聖道の慈悲といふは、ものをあはれみ、かなしみ、はぐくむなり。しかれども、おもふがごとくたすけとぐること、きはめてありがたし。浄土の慈悲といふは、念仏して、いそぎ仏に成りて、大慈大悲心をもつて、おもふがごとく衆生を利益するをいふべきなり。今生に、いかにいとほし不便とおもふとも、存知のごとくたすけがたければ、この慈悲始終なし。 しかれば、念仏申すのみぞ、すゑとほりたる大慈悲心にて候ふべきと[云々]。

慈悲について、聖道門と浄土門とでは違いがあります。聖道門の慈悲とは、すべてのものをあわれみ、いとおしみ、はぐくむことですが、しかし思いのままに救いとげることは、きわめて難しいことです。一方、浄土門の慈悲とは、念仏して速やかに仏となり、その大いなる慈悲の心で、思いのままにすべてのものを救うことをいうのです。この世に生きている間は、どれほどかわいそうだ、気の毒だと思っても、思いのままに救うことはできないのだから、このような慈悲は完全なものではありません。ですから、ただ念仏することだけが本当に徹底した大いなる慈悲の心なのです。このように聖人は仰せになりました。

人間の慈悲の限界を知らされるにつけ、念仏申すのみぞ、末通る大慈悲心であると言われた聖人のお心が分かる気がします。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。あまりまとまっていませんが、今回はこの辺で。

親鸞聖人の教えは「歓喜正因」でも「ハッキリ正因」でもなく「信心正因」であり、その信心とは南無阿弥陀仏のいわれを聞いて疑いないこと

親鸞会教義を真に受けていると、救いの前後で物凄い心境の変化が起きると考えがちです。

・三定死の苦しい体験をし、「地獄は一定すみかぞかし」と無間のどん底に叩き落されるのだろう。
・そして間髪入れずに「ただで救うぞ」の弥陀の呼び声が五臓六腑を貫くのだろう。
・救われたその瞬間に雷に打たれる如きピカドン的な体験をするのだろう。
・無明の闇が破られて、暗い闇に閉ざされた心に光が充満し、明る~い心になるのだろう。
・体験したことのない驚きと喜びが心の底から湧き上がってきて、とんでもない幸せな心になれるのだろう。
・日本晴れの大安心大満足、よくぞ人間に生まれたものぞの生命の大歓喜が湧き上がるのだろう。
・「人命は地球より重い」「生命の尊厳」の意味が心の底から分かるのだろう。
・例え苦しみ悩みがやってきても、煩悩即菩提ですぐに喜びに転じ変わる素晴らしい人生になれるのだろう。
・人生の醍醐味を心ゆくまで味わえるようになるのだろう。
・誰に何を言われても微動だにしない金剛心になるのだろう。
・阿頼耶識の中の、過去に自分が造ってきた業が分かって必堕無間の自己がハッキリするのだろう。
・自分だけでなく、全人類が逆謗の屍だと分かるのだろう。
・いつ死んでも極楽参り間違いなしとハッキリするのだろう。
・今まで読んでもよく分からなかった経典やお聖教の意味がすらすら分かるようになるのだろう。
・高森先生のように伝えずにおれない、叫ばずにおれない常行大悲の身になるのだろう。


自分は会員だった頃、会でなされる話からこのような劇的ビフォーアフターが起きると思っていました。特に、苦しみ悩みの人生が、明るく楽しい大安心大満足の人生にガラリと変わると信じていました。これらの他にどんな劇的ビフォーアフターが起きると思っていたか、よろしければ読者の皆様の意見をお聞きしたいと思います。

親鸞会の場合、このような劇的ビフォーアフターの体験を信心決定といい、そのようなハッキリした体験がないのはまだ信心決定していない証拠だというのです。ですから、会員の皆さんは何とかしてこのハッキリした体験をしたいと、そのためには聴聞だ、破邪顕正だ、朝晩のお勤めだ、お布施だ御報謝だ、会長先生や上司や本会の指示に無条件服従だとやっていることと思います。全ては縦の線の一念で決まる、今までの苦労も全て真珠の玉となって戻ってくるのだからと、並々ならぬ情熱を傾けて親鸞会に身も心も財産も捧げる人は少なくないのではないかと思います。

ですが、以上挙げたような想像上の変化、摩訶不思議な体験をもって信心決定とは言わないことを知らなければなりません。なぜなら、浄土真宗の信心は、仏願の生起・仏願の本末を聞いて疑いないことであり、本願力回向の信心であり、南無阿弥陀仏のすがたを心得たことだからです。

しかるに『経』に「聞」と言うは、衆生、仏願の生起・本末を聞きて疑心あることなし。これを「聞」と曰うなり。「信心」と言うは、すなわち本願力回向の信心なり。(信文類)

「聞其名号」というは、本願の名号をきくとのたまえるなり。きくというは、本願をききてうたがうこころなきを「聞」というなり。また、きくというは信心をあらわす御のりなり。(一念多念証文)

信心獲得すというは、第十八の願をこころうるなり。この願をこころうるというは、南無阿弥陀仏のすがたをこころうるなり。(御文章五帖目五通)

信心決定された方の中には、もしかしたら上に列記したような変化や、似たような変化を一部でも感じている方があるかも知れません。しかし、例えば「尽きせぬ喜びが噴き上がってきた」「歓喜の心が日々絶えない」ということをもって浄土往生の証拠とはならないのです。これでは「信心正因」ではなく「歓喜正因」でしょう。あくまで浄土往生の証拠は南無阿弥陀仏、「助けるぞ」の仰せを計らいなく聞き受けた信心です。

阿弥陀仏の、むかし法蔵比丘たりしとき、「衆生仏に成らずはわれも正覚ならじ」と誓ひましますとき、その正覚すでに成じたまひしすがたこそ、いまの南無阿弥陀仏なりとこころうべし。これすなはちわれらが往生の定まりたる証拠なり。されば他力の信心獲得すといふも、ただこの六字のこころなりと落居すべきものなり。(『御文章』4帖目8通)

他力の信心を獲得するといっても、ただ南無阿弥陀仏の六字のこころです。喜べるとか喜べないとか、自分の感情や幸福感などと、浄土往生とは無関係です。これらは全て煩悩です。煩悩はどれだけあっても浄土往生の妨げとはならないことは

「ガラリと変わる」というような物凄い心境の変化、絶対の幸福だとかいう幻想的な楽を追い求めている人は救われない

などで述べてきました。これは逆に関係あったら大変です。極端な話、殺人者に出くわして自分が殺されなければならないとなったら、目の前の殺人者に恐怖・憎悪の感情こそあれ、喜びなどないでしょう。猛スピードで突っ込んできた車に撥ねられねばならないとなったら、そんな状況でのんきに喜んでいられますか? 喜びといっても感情の一つ、感情は煩悩ですから、喜べるから浄土往生とか、喜べないから浄土往生できないということではないのです。


「じゃあ阿弥陀仏に救われても何も変わらないの?」「喜びはないの?」と疑問に思う方があるかも知れませんが、勿論変わる点はあります。阿弥陀仏に救われる前後で何が変わるかというと、顕著なのが

阿弥陀仏 ← 私

私が聴聞して、私が念仏をして、という具合に私が何かして阿弥陀仏の救いにあずかろうとしていたのが、

阿弥陀仏 → 私

阿弥陀仏が、私が往生する因も果も全て用意して恵み与えて下されるものだった、私はただそれをお聞きしお受けするのみであったと気付かされ、阿弥陀仏の一方的な救済に疑い無くなる点です。ここは親鸞会でも言っているようにガラリと変わるところです。手のひらを返したように変わります。劇的ビフォーアフターです。そうしますと、不思議と後生を阿弥陀さまにおまかせした安心感というか、後生への不安がなくなるのです。
かと言って、浄土の様相が見えるとか、心に映るとかそんなことはありませんので、後生はどのような処に生まれるのか私の方からは分かりません。私としては、本願力に身をまかせ、阿弥陀さまのお連れ下さる処に生まれてゆくだけです。たとえそれが地獄であろうと、私の業からしたら元々地獄なので仕方ありません。実際地獄に堕ちたとしても、「だまされた」という後悔は起きようはずもありません。

自余の行もはげみて、仏になるべかりける身が、念仏をもうして、地獄にもおちてそうらわばこそ、すかされたてまつりて、という後悔もそうらわめ。(歎異抄)

とあるように、私が自力の修行に励んで仏になれるような者であれば「だまされた」という後悔もあるでしょうが、大体聖道門の修行はおろか親鸞会の活動でさえも音を上げてしまうような私ですから。こんな落ちこぼれの私をよくも見捨てず腐らず諦めず、追いかけ続けて本願の網にひっ捕らえて下さったものです。阿弥陀さまには本当に頭が上がりません。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。有難い、というより申し訳ない、かたじけない、と言った方が私にはしっくりきます。かたじけなくも、阿弥陀さまが「浄土に連れて往く」と仰せですから、私はその仰せに対して何の計らいもなく「浄土に往くのだな」と受け止めているだけです。過去に「往生ハッキリ」「往生スッキリ」などと言っていた人を親鸞会製作ビデオで観ましたが、私とは感じ方が違うのだなと思うだけです。

こうした阿弥陀仏の大慈悲を法話などで聞いたり、その聞いたことを日々の生活の中でふと思い出したりすると有難さ、申し訳なさ、かたじけなさから喜びの心が起きてまいります。よくもこんな俺が本願を聞かせて頂けたな、この淳心房一人助けるために阿弥陀さまはご苦労されていたんだな、思惟だけで五劫もされたとはどれだけ自分の罪業が深いのだろう、摂取不捨の真言は誠であったな・・・縁に触れ折に触れ思い出すと泣きそうになり、念仏申したくなります。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。
ただ、24時間365日、毎日毎時間喜んでばかりいられるかと言ったらそんなことはありません。相変わらず日々の生活は忙しく、仏法から離れ、仏法を忘れている時の方が私は長いです。特に苦しみ悩みがやってきた時はやはり苦悩に苛まれます。気に入らない相手に対しては怒り憎しみの心を覚えます。苦しくてどうしようもない時、むしゃくしゃしてどうしようもない時、当然あります。とくよしみねさんのブログにある、「いいことばかりはありゃしない!」というのは本願を信じ念仏するようになっても変わりません。阿弥陀さまは、私の生活の面倒まで看て下さるわけではないので、眠くても起きて、仕事をして、家事をして、育児をして、掃除をして・・・と、色々面倒なことでもやらなければなりません。そしてついつい阿弥陀さまの事は忘れて、自分中心の生活となってしまいます。ですから、やはり信後も法は聞き続けて阿弥陀さまが中心であることに気づかせて頂かねばならないのだと思います。信心決定後一切法を聞かなくても浄土往生取り消しとはなりませんが、やはり何らかの形で法に触れなければ法の喜びはなく、一般の人々と同じような喜びしか感じることはできないでしょう。

要は、どんな苦しみ悩み、それまでの喜びがすっ飛んでしまうような災難悪果がやって来ても、どんなに煩悩が吹き荒れても、またその後どんな罪を犯してしまったとしても、それが浄土往生の妨げとはならないと知ってもらえればいいです。信一念の瞬間がハッキリするとかしないとか、喜びの心があるとかないとか、逆謗の屍だと知らされたとか知らされないとか、そのようなことをもって浄土往生の証拠とはならないということです。親鸞会教義に染まっているとハッキリした体験、噴き上がる喜び、後生ハッキリするなど、とにかくハッキリしたこと、とてつもない喜びの身になったことが信心決定だと思いがちですが、それは一旦横に置いて、「助けるぞ」の仰せを聞いて只今救われて往生一定の身となるのが大事です。親鸞聖人の教えは「歓喜正因」でも「ハッキリ正因」でもなく「信心正因」であり、その信心とは南無阿弥陀仏のいわれを聞いて疑いないことですから、ハッキリした体験や絶対の幸福なる幻想的な楽を追い求めるのではなく、南無阿弥陀仏のいわれを聞くことです。

100万回の御名

もうすぐ年末です。1年経つのは実に早い。こうやって月日はあっという間に過ぎ、人生もあっという間に終わってしまうのでしょうね。
しかし、朝仕事に向かう時は「今日も早く終わりそうにねぇな・・・」と思いながら通勤しています。そして実際仕事に費やす時間は長く、夜9時10時まで仕事をしています。決して楽じゃない暮らしです。

「決して楽じゃない暮らし」で思い出したのが、ロックバンド「GLAY」の『100万回のKISS』という歌です。この歌には次のような詩があります。

決して 楽じゃない 暮らしの 終わりに
彩りのような 優しいKISSをしよう


いつからか夢は現実にハジかれて、都会の海で家族を食わすため企業戦士として働く私のような者にはけっこう沁みる歌詞です。TAKUROの歌詞は個人的に共感するところが多いです。

さて、『100万回のKISS』の歌詞を思い付きで一部変えてみました。

この御名は 後生助けるだけじゃなく
あなたの喜び あなたの悲しみ 全て 寄り添い 歩んでくれるよ
時々 あなたは 傷ついて しまうけれど
届いてるかな 確かなこの誓いが uh

永遠の救いなら ここにあるよ
uh 僕らは 100万回の御名を数えて 生きてゆこう

この御名は 浄土に迎えるだけじゃなく
あなたの切なさ あなたの淋しさ 全て 寄り添い 包んでくれるよ
決して 楽じゃない 暮らしの 終わりに
まことの御法 南無阿弥陀仏称えよう
南無阿弥陀仏称えよう


メロディーに合わせるとこのような感じでしょうか。賛否両論あると思いますが、まぁ後に見ん人謗りをなさざれ。

今日の仕事も楽ではありませんでしたし、もう12月は目前ですからますます忙しくなるのは間違いありません。世間事に煩わされ、仏様を忘れて生活している自分に、せめて念仏しなさいと阿弥陀さまから降りてきたようです。

南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。

【参照】
GLAY / 100万回のKISS - YouTube
GLAY 100万回のKISS 歌詞
プロフィール

淳心房&しゃあ

Author:淳心房&しゃあ
(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


(しゃあ)
平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
singikensho@yahoo.co.jp
(スパム防止のため@を大文字にしてあります。メール送信時は小文字に変えて下さい。)

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