表の顔と裏の顔

豊田真由子エリート議員の暴行!暴言!音声が凄すぎる!外基地!裏どりで検証!
【ミヤネ屋】 宮根誠司 豊田真由子衆院議員の暴言音声に「こんな怖いチンピラいてない」(後編)

数日前にこのようなニュースが流れてきて驚きました。

「このハゲ――――――!」
「これ以上私の評判を下げるな!」
「お前が私の心を叩いている!」

表での上品で爽やかなイメージとは全く違う、裏の顔、本性を覗き見た、そんな印象です。

「壁に耳あり障子に目あり」で、どこで誰が見たり聞いたりしているかは分かりません。特に現代は、防犯カメラにスマホあり、ドライブレコーダーに小型音声録音機ありといった感じで、言動には本当に気を遣います。渦中の議員は、これまで100人以上の秘書が辞めたなんて情報もありましたから、今回こうした言動が明るみに出るまでにも同様の言動を繰り返していたと考えられます。よく今まで表面に現れなかったなと思います。

でも私達も、内相と外相、本音と建前、内面と外面を使い分けて生きているという点では同じです。これが世を渡る秘訣と言っていいでしょう。逆にこうしなければ生きていけないというのが現状ではないでしょうか。正直に、自分の心を偽らずに生きていけたらいいなと思う事もありますが、まぁそうなったら人類滅亡ですね。

内面と外相を使い分けて生きている私達ですが、仏教では外面よりも内面を重視されます。いくら表面をきれいに着飾り、立派な振る舞いをしていても、普段は見せることのない裏の顔、本性はどうでしょうか? 心の内に秘めている思いを、包み隠さずに人に言えるでしょうか? 恐ろしくてとてもそんな事はできませんね。よくブラック企業という言葉が使われますが、私の心はどんなブラック企業よりもブラックです。何とかしようと思っても「思わない」ということだけは不可能です。煩悩具足の凡夫が世俗の世界に生きている限り、この「黒い心」は何ともなりません。

こうした私を、今の私のままでお救い下さるのが南無阿弥陀仏です。まことに我が機に相応した、世に無い、世を超えた本願力です。よくこのような本願力にお遇いできたものです。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。




以前はたまに、親鸞会の音声データがWeb上に出ては消され、出ては消されしていましたが、親鸞会も漏れなく内面と外相を使い分けています。ホームページなどの爽やかで誠実な印象、喜びの声とは裏腹に、

『ニコニコ動画』親鸞会が夜中に脱会者の家に押しかける

とか、表面下では言動がまるで異なります。きっと講師部員や幹部会員の中には、冒頭紹介した、暴行を受けて告発した秘書のような扱いを受けた方もいるのではないかと思います。

清森義行氏の除名の真相(3)

清森元講師などは氷山の一角でしょう。明るみに出ていないだけで、機責めのような叱責を受けたり、謗法罪だ必堕無間だと脅されたり、苦しい思いをされた方は沢山あると思われます。「仏教では心を重視する」とよく親鸞会では言っていますが、本当に心を重視し、仏様相手の求道をしているのかと疑問に思う事ばかりです。


教義内容にしても、表の顔と裏の顔があります。表では「平生業成」「現生不退」「不体失往生」「一念の救い」等の文言を並べ、現在只今救われる教えだと強調しておりますが、実際中で聞いてみると現在只今救われるなどということはなく、「善の勧め」なる教えに従って延々と活動していかなければなりません。「善」の中には世俗的な善もありますが、主として高森会長の話を聞くこと、献金、勧誘、会長及び上司への無条件服従などですから、これらが果たして「善」と呼べるのかどうか・・・。「絶対の幸福」だとかいう幻想的な楽をちらつかせて、会に都合の良い行動をさせているだけですから、こんな教えは高森教であって浄土真宗ではありません。いくら信じて従っていても、親鸞聖人の教えられた信心を獲得できないのはそのためです。

浄土真宗は救われる一念とそこまで至っていない現在を分けるでもなく、こちらから救いに向かって進んで行くでもなく、現在、只今、ここにいる私に既に届いている救いの御名を、只今この場で聞き受ける教えです。親鸞会の教えでは、私はいつまでも黒板の右端です。信心決定して安養の浄土へ参りたいと思うなら、高森教は捨て去って、浄土真宗を聞いて下さい。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。

すがる

末っ子の三女がよく私にすがりついてきます。まだ伝い歩きができる程度で、一人での歩行はできないため、ハイハイでこちらに近づいてきては手を伸ばして私にすがりつき、抱っこを要求しているような感じです。トイレで用を足している時もやってくるため、「このタイミングで抱っこは厳しいよ~(´;ω;`)」ということも・・・

赤ちゃんのこうしたすがりつくという行為、しかし力が足りないため、赤ちゃんの手の力だけでは自分の体重を支え切れずに落ちてしまいます。また、にぎる箇所によっては赤ちゃんの力が邪魔をしてこちらも楽な姿勢で抱っこができないということもあります。自分にすがってくるのは嬉しいのですが、やはり親としては、赤ちゃんに力を抜いてもらって、素直にそのまま親にまかせてもらった方が楽に抱っこできます。それと、おむつ交換や着替え、食事など、子供が嫌がって勝手に動き回られると遅々として進みません。無理矢理やるとますます嫌がって、親が思う通りにできません。特に大の方は放っておきますと肌がかぶれてしまいますし、汚れたり濡れたりしたら着替えもマメにしないと体調を崩す原因にもなります。きちんと食事を摂るのも健康・成長のために必要なことなのですが、子供には智慧がないため分からないのでしょう。まぁ自我の表れとして成長を喜ぶ半面、これらもやはり、素直にそのまま親にまかせてもらった方が煩わしくなくて助かります。


この「すがる」ということで思い出されるのが、「御袖」「御袖すがり」の御文章です。

『蓮如上人の『御文』を読む』五帖目第十二通 御袖すがり

には現代語訳付きで載っていますのでご覧下さい。

いまのごときの諸仏にすてられたる末代不善の凡夫、五障・三従の女人をば、弥陀にかぎりてわれひとりたすけんといふ超世の大願をおこして(2帖目8通)
阿弥陀如来こそひとり無上殊勝の願をおこして、悪逆の凡夫、五障の女質をば、われたすくべきといふ大願をばおこしたまひけり。(4帖目3通)

ですから、諸神諸仏に心をかけず、自余の万善万行を差し置いて、専ら阿弥陀仏一仏のみに、念仏一行に依らねば我々が後生助かる道は他に二つも三つもありません。しかしながら、

ひとすぢにこの阿弥陀ほとけの御袖にひしとすがりまゐらするおもひをなして

とあるからとて「助けて下さい」とすがりかかっても、その両の手では自己の罪悪の重さを支え切れずに沈むのみです。また、念仏を自分の善根として捉え、これを称えた功徳によって後生助かろうとするのも悪い自力の企てであり、これでは報土往生はかないません。自力の心ですがっていても、我々には浮かぶ力は無いのであります。ではどうするのかというと、それが次の

後生をたすけたまへとたのみまうせば

です。これも甚だ誤解が生じやすいところですが、要は

われひとりたすけん
われたすくべき

という超世の大願を、小賢しい凡夫の浅知恵を差し挟まずにそのままお聞きし、仰せの通りにおまかせしてしまえばよいのです。阿弥陀仏の八万四千の光明の中に抱き取られて、身も心もすっかりゆだねてしまえばよいのです。これが、「後生たすけたまへと弥陀をたのむ」ということです。念仏は阿弥陀仏が五劫の間思惟し、永劫の間修行して成就された選択本願の大行ですから、念仏一行を往生行にするということは正しく阿弥陀仏のお心にかなった行業なのです。彼の仏願に順ずるから称名を正定業というのです。これを凡夫の方で持ち替えて、念仏を称えるという自分の行為、称えた行為による功徳で助かろうとするのであればそれは悪い自力の心であって助かりません。あくまで名号願力によって助けられるのであり、そのお力を疑い無く受け容れたのが信心、それが口に出たのが称名念仏であって、我々の力が加わる隙は微塵もないのであります。

阿弥陀仏は「助けるぞ」「我にまかせよ」と真実の言葉で仰せなのですから、こちらの下らない詮索や先入観は捨てて、お言葉の通りに助けられたらいいのです。おまかせしてしまえばよいのです。阿弥陀さまがお連れ下さるその先がたとえ地獄であろうと、我々の業からして元々地獄なのですから文句の言い様がないでしょう?

我々の往く先? そんなことは阿弥陀さまに聞いたら早う分かります。兎にも角にも、我々は本願におまかせするばかりです。これが自力を捨てて他力に帰するすがたであります。

かへすがへす如来の御ちかひにまかせたてまつるべきなり。これを他力に帰したる信心発得の行者といふなり。
(中略)
さればただ地獄なりといふとも、故聖人のわたらせたまふところへまゐらんとおもひかためたれば、善悪の生所、わたくしの定むるところにあらずといふなりと。これ自力をすてて他力に帰するすがたなり。
(執持鈔)

なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ。



【参照】
安心論題/正定業義

なんか締めが林遊さんみたいになっちゃいましたが、まぁいいでしょう(;^ω^)

この前、長女(7)が針の穴に糸を通そうと苦戦していました。

「パパやって~」

と渡されたので仕方なくやるものの、私も中々できません。その時、

「すぐ目の前の針の穴に糸を通すのですら簡単にはいかないというのに、ヒマラヤ山の頂上から垂らした糸が、ふもとの針の穴に通るわけがないんだ」

と思いました。しかしヒマラヤ山と言っても子供にはピンと来ませんので、私は

「阿弥陀さまの教えに遇えるのは、屋根の上から垂らした糸が下の針の穴に通るよりも難しいんだって」

と話しました。遇い難い法に遇えて本当に良かったです。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。




ところで余談ですが、この「ヒマラヤ山の頂上から垂らした糸が、ふもとの針の穴に通る」のような譬え話、これは天台宗を開いた伝教大師の『願文』という著作に出てくる話だそうです。しかもその譬えの内容は、人間に生まれることの有難さを譬えたものとのことです。以下、『天台宗』優曇華(うどんげ)より。

伝教大師もまた『願文』で、「得難くして移り易きはそれ人身なり。・・・ここを以って、法皇牟尼は大海の針、妙高の線(いと)を仮(か)りて、人身の得難きを喩況し」と言い、人間として生をうけることの得難いことを、大海の中の一本の針を探すことや、須弥山(しゅみせん)の山頂から垂らした糸を山麓の針の穴に通すことに喩えています。

譬えの内容に仏法に出遇うことの有難さまで含めてもよいと思いますが、何にせよ親鸞会では出拠元の説明がありません。この譬え話もまた伊藤康善師や大沼法竜師からのパクリなのでしょう。

さて、盲亀浮木の譬えの出典は『雑阿含経』で間違いないようですが、『涅槃経』にも同様の譬えがあるそうです。以下、『「盲亀浮木の喩」と定家の恋歌』より引用。該当箇所は中ほど、(23)とある頁です。

 『望月仏教大辞典5』には『雑阿含経』第十五の用例と共に、以下のように記されている。
「盲亀浮木」盲亀の浮木に値遇し難きの意。雑阿含経第十五に「譬へば大地悉く大海と成るに、一盲亀あり、寿無量劫なり、百年に一たび其の頭を出す。海中に浮木あり、止だ一孔のみあり、海浪に漂流し風に随つて東西するが如き、盲亀百年に一たび其の頭を出し、当に此の孔に遇ふを得べきや不や。(中略)盲亀浮木復た差違すと雖も或は復た相得ん。愚痴の凡夫五趣に漂流し、暫く復た人身あらんこと甚だ彼よりも難し」と云へる是れなり。(4864 頁)


また以下、臨済宗妙心寺派・龍門寺・ご法話より引用。

また『涅槃経』にも「世に生まれて人となること難し、仏世に遇うことまた難し、尚大海の中にて、盲亀の浮木に遇うが如し」とあり、ご存知の有名な比喩であります。目の見えない亀が、大海に漂う丸太ん棒の穴に出くわすことが難しいように、人と生まれ、仏法に出会うことは得難いのだと。

「ヒマラヤ山の頂上から・・・」のような譬え話は「妙高の糸」と呼ばれるらしいですが、何経のどこに根拠があるかは現時点では割り出せていません。「法皇牟尼は・・・を喩況し」とありますから、お釈迦様が説かれたようではありますが・・・。ところで『WikiArc』トーク:愚禿に『願文』が載ってますね。林遊さんやっぱすげ~(゚д゚)!

と同時に、やはり高森顕徹会長の根本聖典は『仏敵』(伊藤康善師)、また大沼法竜師の著作が拠り所であり、教義内容から察するに『教行証文類』すらまともに読んだことがなさそうですから、出拠元に関しては実にいい加減な事が分かります。今は調べたいことはすぐに検索できますから、教義や組織のやり方に疑問を持った方は色々調べてみた方がいいですよ。勿論ネットの情報は玉石混淆ですから、内容を吟味する必要はありますが、このまま活動だけして信を獲られずに死んでゆく位なら絶対調べるべきです。以上、余談でした。

親の願い通りに子供が笑うと、その笑顔を見て親は喜ぶ

秋去り春去り、末っ子の三女もじきに1歳になります。早い・・・

相変わらず母親や子供達には敵いませんが、三女もずいぶんとなついてくれるようになりました。眠いとか、腹減ったとか、不機嫌でない限りは抱っこしてあやせばたいてい喜んで笑います。親が一方的に子供に与え、子供から与えられるものは何もないように思いきや、その無邪気な笑顔を見るととても嬉しくなります。苦労が吹っ飛ぶというのはちと言い過ぎですが、ちゃんと子供の方も、知ってか知らずか親に幸せを返してくれているのだなと感じます。

当流の安心のおもむきをくはしくしらんとおもはんひとは、あながちに智慧・才学もいらず、男女・貴賤もいらず、ただわが身は罪ふかきあさましきものなりとおもひとりて、かかる機までもたすけたまへるほとけは阿弥陀如来ばかりなりとしりて、なにのやうもなく、ひとすぢにこの阿弥陀ほとけの御袖にひしとすがりまゐらするおもひをなして、後生をたすけたまへとたのみまうせば、この阿弥陀如来はふかくよろこびましまして、その御身より八万四千のおほきなる光明を放ちて、その光明のなかにそのひとを摂め入れておきたまふべし。
(2帖目13通)

ちょうど親が「笑っておくれ」と子供に微笑みかけ、その願い通りに子供が笑うと、その笑顔をみて親が喜ぶように、「我をたのめ」という御親の願い通りに私達が弥陀をたのめば、阿弥陀仏は深く喜びましまして、たのむ衆生を八万四千の光明の内に摂取して決してお捨てになりません。弥陀をたのむとは、我々の小賢しい計らいや先入観を交えずに、「我にまかせよ、必ず救う」という阿弥陀仏の大悲招喚の勅命をそのまま聞き受け、仰せの通りに後生をおまかせすることです。また、阿弥陀仏は「名号を称える者を極楽へ迎える」と誓われているので、その誓いを計らいなく信じて念仏することです。

弥陀の本願と申すは、名号をとなへんものをば極楽へ迎へんと誓はせたまひたるを、ふかく信じてとなふるがめでたきことにて候ふなり。(末灯鈔12)

「なんまんだぶせい」という願い通りに私達が「なんまんだぶ」すると、「よう称えてくれた」と阿弥陀仏は深く喜ばれるのです。仏恩報尽の念仏とはよく言われたものです。

なんまんだぶすると、親様は大層喜んで下さるのですから、なるべくお念仏するようにしたいですね。
なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ

親様の運転にまかせておけばよいのです

先日子供と夕食にラーメンを食べに行った帰り、よく行く日帰り温泉に行こうという事になって向かっている途中でした。すっかり暗くなり、周囲の様子がよく分からなかったため不安だったのか、子供(7)がこう言いました。

「お父さん、ホントにこの道で合ってるのかなぁ?」

私は言いました。

「大丈夫だから」

「本当にこっちで合ってるの?」そんな心配は無用。親は外が暗がりでも、ちゃんと目的地までの道順を覚えています。子供は道中の事はよく分からなくても、ただ車に乗って親の運転にまかせているだけで、目的地まで着いたというわけです。たとえ分かっていたって、慣れない夜道を七つの子供の足で数キロ離れた先まで進むのは困難でしょう。ここは素直に親の運転にまかせておけばよいのです。


私達が浄土に往くということもこれに似ています。本願に疑い晴れても、浄土の様相、浄土までの道順といったことは分かりません。私の子供のように不安に思うこともあるでしょう。しかし親様はちゃんと分かって、間違いなく私達を浄土までお連れ下さいます。道中の事はよく分からなくても、大悲の願船に乗じて親様の舵取りにまかせているだけで、浄土まで渡して下さるというわけです。たとえ分かっていたって、私の歩める道ではありません。私としてはただ親様の運転にまかせておけばよいのです。なんまんだぶ、なんまんだぶ。

私が本願をお聞きするに当たって、「私のターン」というものはありません

私事ですが、自分は子供の頃から「ファイアーエムブレム」というゲームが大好きです。思春期から現在に至るまでその熱は冷めず、大の大人が3DSまで買って、バーチャルコンソールで昔のゲームを購入してまでプレイするという入れ込み様です。とは言ってもゲームボーイアドバンス以降のシリーズには手出しできておらず、「暗黒竜と光の剣」「外伝」「紋章の謎」「聖戦の系譜」「トラキア776」しか実際にプレイしたことはありませんが・・・。いつか3DSの「覚醒」「if」もやってみたいとは思いますが、物語も登場キャラも全く違いますし、子供と違ってドはまりしたら大変なので自重しています。

ファイアーエムブレム 新・紋章の謎 ~光と影の英雄~

は特にお気に入りで、もう最難関のルナティック´で5回はクリアしました。始めれば吟味地獄に陥ることは重々分かっていながら、ついつい何周もやってしまうという阿保な自分がいます。

さて、このゲームの特徴の一つに、自軍のターンと敵軍(同盟軍、中立軍)のターンがあることが挙げられます。ドラゴンクエストやファイナルファンタジーでも、コマンド入力して各キャラの行動を決定するというのは同じですが、自分と敵の行動はお互い入り混じっています。対してファイアーエムブレムは、自軍のターンに各キャラを動かし、終了したらターンエンドして相手ターンに譲るというシステムです。自軍のターンにいきなり敵軍が動き出すことはありません(攻撃を仕掛ければ反撃はしてきます)。自軍のターン→敵軍のターン→自軍のターン・・・と繰り返す点は囲碁や将棋と似ていますが、同一ターン内に複数のキャラを動かせる点は異なります。基本的に一度動かしたキャラは次のターンまで動かせず、同じマスに重ねてキャラを配置できないため、順番や配置等で長考することもしばしば。難易度が上がるほど高い戦略性が求められます。


前置きが長くなりましたが、タイトルでも示した通り、私が本願をお聞きするに当たって、「私のターン」というものはありません。どういう事かというと、普通は「教・行・証」と言われるように教えがあって、教えの通り実行して、証(さとり)を得るというのが一般的な仏教です。世の中でも全てと言っていい位そうで、まず「このような結果が得られますよ」という教えがあって、実際にその結果を得るための方法を実践実行し、望みの結果を得る(得ない)という構図です。サプリメントなんかは実に巧い商品で、それが実際効果があるかは分かりませんが、体験談を前面に押し出し、科学的な理屈を連ねて巧みに消費者の購買意欲をそそっています。

つまりは、望む結果(証)を得るには、教えを行ずるという「私のターン」というものが必ずあるということです。「このようになりたい」という願いだけで、具体的な行動に出なければその願いは果たせないということです。時には「棚から牡丹餅」的な感じで、願ったり叶ったりということもあるでしょうが、それは今までの自分の業が花開いたということであって、何もなく結果が現れたということではありません。

これがいわゆる自業自得の道理というもので、私達が生きてゆくにはこの道理に従って善業を修め、悪業を造らないようにしていくのが大事なことです。何が善で何が悪かということは国や時代、価値観や求めるものなどによって異なりますが、行動無くして成果は無い、「私のターン」無くして望みの結果は得られないということです。当然ながら聖道門や浄土門内の自力の教えでもそうで、さとりや往生という証を得るには、教えに従って行を修めていくということが必要不可欠です。


ただこれを親鸞聖人の教え、第十八願の教法に適応しようとすることは「自力」と言われ、この自力ある限り十八願によって救われるということはありません。第十八願の教法は、阿弥陀さまが衆生を漏らさず救い摂りたいという願いの元、五劫の思惟、不可思議兆載永劫の御修行を経て南無阿弥陀仏の大功徳を成就され、それを与えて救おうというものです。「浄土往生したい」というのは私の願いではなく、「浄土往生させたい」という阿弥陀さまの願いです。そのための行も私が加わる隙は微塵もなく、私に代わって全て阿弥陀さまが修められました。その願行を与えられ、私が往生成仏するという証も、阿弥陀さまが願われ行ぜられた結果です。

私としては、その本願をただ仰せの通り聞き受ける(信じる)のみにて往生成仏が決定するという、何とも有難くたのもしく、かたじけないご本願です。その信すら私が起こすのではなく、向こう様が恵み与えて下さるのですから、私が報土往生することは易いという言葉も要らぬ易さです。既に私を救おうという願行は成就され、その行信も与えられ、証を得るだけなのですから、私が特別何かを行じなければならないということはないのです。強いて言えば本願の言葉、南無阿弥陀仏の六字のこころを聞き、そのまま信じ受け容れるのみです。

こうした第十八願の教法に自力を混ぜ込み、求道のプロセスなどと称して会員を利用・搾取しているのが親鸞会です。因果の道理や19願、宿善、三願転入といった概念を巧みに利用し、絶対の幸福だとかいう幻想的な楽で聞く者を釣って、組織拡大要員として利用しているのです。私が薄い宿善を厚くし、私が19願・20願の行を実践して18願の世界まで到達するのだと、「私のターン」を設けて、献金・勧誘・無条件服従に都合よく従事させようというのが狙いです。私が本願に救われるに当たって「私のターン」というものはなく、先手の「阿弥陀さまのターン」で往生の一大事の勝負は決してしまうというのに、「私のターン」に執着させて本願を聞かせなくしています。獲信・往生とは無関係なことばかりやらせ、阿弥陀さまと私の仲を取り持つどころか、私を往生成仏させようという阿弥陀さまの願いを阻害しています。

親鸞会教義は親鸞聖人の教えとは向きが真逆ですから、それを正しいと信じている限りは本願に背き、本願の言葉を受け容れずにひたすら利用・搾取されるしかありません。「私が救いに向かって進んでいく」のではなく、「既に回向せられている本願の救いを受け容れる」のです。往生の問題は私がどうこうできるレベルの話ではないのです。それをどうにかしようとしている時点で既に自惚れの極みです。会員の皆さんには、早くそのような邪義は捨て去って、南無阿弥陀仏の六字のこころ、「我にまかせよ、必ず助けるぞ」の力強い本願の仰せに身も心もまかせて頂きたいと思うばかりです。

所詮は、組織からしたら私は歯車の一つでしかなく、代わりなどいくらでもいる

12月の最繫忙期に、突然何人かのベテランの同僚が来なくなり、残された我々には更なる負担がのしかかって本当に辛かったです。どうせ辞めるなら辞表を出して正当な手段で辞めてほしかったですが、彼らにはもはや四の五の言ってられない辛さ、やり切れなさ、不満うっぷんが溜まっていたのでしょう。悪いことをしたのは間違いないが、その気持ちだけは十二分に分かります。自分もこの前、前日分の未配達の荷物がゴロゴロある状態で、しかも隣のエリアを一部くっつけられるということをやらされました。1月だというのに年末に戻ったようです。上司や同僚に恵まれない職場環境は本当に辛いです。

さて、突然開いた穴を埋めるのは実に大変でした(現在も欠員状態で回している状態で大変です)が、それも日が経つにつれて会社は順応していきます。別にその人でなければダメというわけではなく、代わりなどいくらでもいることを改めて知らされました。

Mr.Children「くるみ」Music Video

に出てくる歌詞が思い出されます。

良かったことだけ思い出して
やけに年老いた気持ちになる
とは言え暮らしの中で
今 動き出そうとしている
歯車の一つにならなくてはなぁ


所詮は、組織からしたら私は歯車の一つでしかないのです。どれだけ会社、組織に尽くしてきた人でも、「その人でなければダメ」という人は極々わずか。一般社員の一人や二人、その人の抜けた穴を埋める手段はいくらでもあります。会社や組織、仕事に生きがいを見出す人もありますが、入れ込みも程々にしないと痛い目を見ることになるかも知れません。


親鸞会でも同じ事です。組織からしたら、別に自分じゃなくても、自分と同程度か、それより多くのお布施を出し、多くの人を勧誘する人がいれば、自分は居ても居なくてもどっちでもいいのです。上司にしても、不満や愚痴をぶつけてきて大した働きをしない人よりも、何も言わず黙々と成果を上げてくる人の方が好き(好都合)に決まっています。

高森先生は皆さん一人一人の後生を案じておられます。

などとよく言われますが、間違ったことばかり説いて真に会員に獲信・往生させようという気がないのですから、そんなのは口先だけだと見抜けます。因果の道理や廃悪修善、19願ばかり教えて肝心かなめの南無阿弥陀仏の六字のこころを正しく説かないようでは、会員はいつまでも自力疑惑の範疇を出ません。否、やっていることがまこと仏説にそぐう行ならまだしも、会への献金・勧誘、会長や上司への無条件服従といった善もどきの善では仏教にもなりません。

組織からしたら、自分は単なる構成員の一人、組織拡大要員の一人であることに気づいたら、高森信心のマインドコントロールからはほぼ脱したも同然です。後は教義の誤りと正しい親鸞聖人の教えを知れば、心身共にエセ真宗から解放されるでしょう。後生を人質に取られ、必堕無間の呪縛に怯える生活に、会員の皆さんはそろそろ終止符を打ちませんか?

届くのは決して当たり前ではない

こんなニュース

が最近世間を騒がせているようです。配達員はどんな心理状態だったのか分かりません。荷物を投げつける、蹴るのは勿論悪いことですが、気持ちは分からないでもありません。捌き切れない荷物に加えて、集荷、未着対応、クレーム対応、客のすっぽかし、その他諸々のアクシデントが降りかかって来たら、イライラは天にも昇る勢いです。所詮はこの仕事をやった者でなければ分からない苦しみ悩み怒り腹立ちでしょうが、荷物を頼む側はもう少し事情を理解して、最繫忙期の状況を察してもらいたいものです。

昨日も自分の持ち分だけで200はあり、隣の女の子の分は20ほど持つのが限界でした。昼飯の10分以外はノンストップでやり続けて、最後の配達が21時少し前。恐らく読者の皆様の大半は俺の動きに一日ついてこれないと思います。実にきつく、損な役回りです。せっかく人が定着したと思ってもすぐに辞めてしまいます。自分が今の会社に入った頃よりも確実に人は減り、一人一人の仕事量は確実に増えていると実感しています。それで給料は増えるかと言えばそんな事は無く、逆に会社は残業代を削減するために出勤時間を遅らせ、早くタイムカードを切るように指示をしてきます。これじゃ誰もやる気が出ないでしょう。給料が同等の仕事が他に見つかれば俺だってとっくに辞めてますよ。近年ようやく保育や介護の仕事に大分目が向けられるようになってきましたが、物流・宅配の仕事にも目が向けられるようになって欲しいものです。

さて、一般の人が欲しいものをポチしてから自分の元に届くまではおおよそ以下の手順を踏みます。

出荷人が依頼を受けた商品を確保

集荷依頼し、物流会社が荷物を集荷

荷物を事業所へ持ち帰る

荷物を仕分けて、発送先の車両に積み込む

中継センター等を経由して発送先の事業所へ到着

荷物を配達地域毎に仕分ける

受け人の地域の担当ドライバーが持ち出し・配達

これが通常の時期は正常に稼働し、荷物はほぼ指定日通りに届けることができます。しかし、最繫忙期である12月はそうはいきません。荷物の集荷が遅れ、仕分け・発送も遅れ、中継センターはパンク状態で大型トラックがそこへ到着しても荷物をすぐに降ろすことができません。更にそこから捌けた順に発送していくので、直近の事業所へ届くのは通常の1~2日遅れになってしまいます。そこからまた仕分けて、持ち出しし、配達に向かいます。道が混んでいるとか、そういった事情ではないのです。

中には、バーコードを読み取って機械が自動的に仕分けるハイテクセンターを持つ物流会社もありますが、そんな会社でもそのようなハイテクセンターはまだまだごく一部であり、ほとんどのセンターは手作業で一つ一つ仕分けています。仕分け一つでも実に沢山の人の手が加わっています。この手順の内、どこかが行き詰まれば荷物は自分の元まで来ません。12月はこのほぼ全ての行程が行き詰まっていると言っていいでしょう。日本人の多くは荷物が指定日に、時間通りに来るのが当たり前みたいに思っている節がありますが、決して当たり前のことではないのです。荷物一つ届くのも、実に多くの人の手、苦労があってのことだというのを知ってほしいと思います。


このようなことが知らされますと、この私に阿弥陀仏の本願、南無阿弥陀仏の六字のこころが届いたことにも実に多くの人の手、苦労があってのことなのだなというのがしみじみと感じられてきます。決して当たり前のことではなかった。釈尊はじめ七高僧方、親鸞聖人、覚如上人、蓮如上人、その他有名無名の知識方や同行方、誰一人欠けてもこの私まで届かなかったかも知れない。あくまでも私個人の事ですが、高森顕徹会長や声をかけてくれた先輩がいなければ、今私は本願の仰せを聞き受けていなかったかも知れない。邪義だらけの親鸞会ですが、私に本願を伝えてくれたというただ一点においては感謝しています。だからこそ邪義を邪義と認め、今までの悪行を改悔懺悔して、正しい親鸞聖人の教えを説いてくれたらと思うのですが、残念ながらそうはならないでしょうから今まで通りこれからも批判してゆくしかありません。

拙いブログですが、今年も当ブログをきっかけに親鸞会教義の誤りに気づき、本願を信じ念仏するようになった方があったかも知れません。そういう方がたった一人でも構わないから現れてくれれば幸いと思い、綴っています。きっかけが何であれ、一人でも多くの方が南無阿弥陀仏に遇って頂きたい、そう願っています。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。

念仏は道理を尽くして説かれた完全な法であり、諸善は理を尽くさない不完全な説

隣のエリアを回っている女の子がまた泣いていました。どうやら、前日・前々日にそこを回っていた奴が力量のないドライバーで、そいつが未配をやらかした荷物を持って行ったところ、客が激怒してきたとのことです。彼女は悪くないのに、実にかわいそうなことです。自分も空いた時間を使ってヘルプに入っているのですが、またしても彼女の涙を見てしまいました。悪いのは未配こいたドライバーであり、このくそ忙しい時にお構いなしに注文しては指定日に荷物が来ないとブチ切れる客なのですが、何とも後味が悪いです。隣を回っている女の子一人助けられないとは、人間の慈悲は実に不完全であることをつくづく思い知らされます。


この不完全ということで思い出されたのが、「行文類」

埋尽非理尽対、念仏は道理を尽くして説かれた完全な法であり、諸善は理を尽くさない不完全な説にすぎない。

です。普通は、諸善の説の方が道理にかなった法であるかのように思えます。釈尊も廃悪修善の道理に従って悪を廃し、善を修めて仏のさとりまで到達された方でありましょう。そして経典の大部分ではそれぞれの機に応じて善を勧められています。であるのに、その善は理を尽くさない不完全な法であると退け、念仏こそ道理を尽くして説かれた完全な法であるとは、聖道門の方々は勿論、一般の人々には到底理解し難いものがあるでしょう。

念仏の法は、阿弥陀仏がかつて法蔵菩薩であった時、普く一切衆生を平等に救おうと発願し、五劫の間思惟し、兆載永劫に亘って御修行を重ねられて完成なされた法門です。阿弥陀仏の五劫永劫の願行は、南無阿弥陀仏となって十方世界に響き渡り、届かない処はありません。私としては、只今、この場で、南無阿弥陀仏の六字のいわれ、すなわち「我にまかせよ、必ず助けるぞ」の仰せを、自分の計らいや詮索を交えずに、そのまま、素直にお聞きし、お受けするのみです。それで、私の往生の業事は成弁し、間違いなく仏に成る身と定まるのですから、まことに我が根機にかなった、何ともたのもしい、完全な法であると言わざるを得ません。

対して諸善の法は、自業自得の道理に従って、悪を廃し、仏に成るだけの善行を積んでいかなければなりません。言葉だけなら廃悪修善と簡単ですが、煩悩具足の人間が、世俗の世界に生きてある限り行を発し道を修することは極めて困難です。加えて仏に成るには三祇百大劫と言って気の遠くなる長期間の修行が必要なのですから、極めて優れた素質をもった者でなければ到達することはできない、非常に厳しい難行道です。龍樹菩薩や天親菩薩といった方々でさえ念仏の法に帰依されたというのに、末代不善の我々は誰一人助かりはしないでしょう。道理としてはよくても、行を修める我々の根機という点から見て、諸善の法は不完全であります。

このように思われた時、前も挙げましたが『歎異抄』第四条

一 慈悲に聖道・浄土のかはりめあり。聖道の慈悲といふは、ものをあはれみ、かなしみ、はぐくむなり。しかれども、おもふがごとくたすけとぐること、きはめてありがたし。浄土の慈悲といふは、念仏して、いそぎ仏に成りて、大慈大悲心をもつて、おもふがごとく衆生を利益するをいふべきなり。今生に、いかにいとほし不便とおもふとも、存知のごとくたすけがたければ、この慈悲始終なし。 しかれば、念仏申すのみぞ、すゑとほりたる大慈悲心にて候ふべきと[云々]。

慈悲について、聖道門と浄土門とでは違いがあります。聖道門の慈悲とは、すべてのものをあわれみ、いとおしみ、はぐくむことですが、しかし思いのままに救いとげることは、きわめて難しいことです。一方、浄土門の慈悲とは、念仏して速やかに仏となり、その大いなる慈悲の心で、思いのままにすべてのものを救うことをいうのです。この世に生きている間は、どれほどかわいそうだ、気の毒だと思っても、思いのままに救うことはできないのだから、このような慈悲は完全なものではありません。ですから、ただ念仏することだけが本当に徹底した大いなる慈悲の心なのです。このように聖人は仰せになりました。

がその通りその通りと思われたのでした。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。

とは言え、この世の慈悲、人間の慈悲もやはり必要です。今日も何とか彼女の助けになるべく駆けつけてやりたいです。本当に頑張っている真面目な子なのでこんな所で潰すわけにはいきません。今日も界王拳で行くぞー!!

引いて開けるドアを押していても、いつまでもドアの先へは行けません

クリスマスなんて大嫌いですが、クリスマスソングは好きです。

🎄Hurry Xmas 🎄 ~L'arc~en~ciel~

とか。熱唱するとテンションが上がります。カラオケ行きてぇ(笑)


さて、阿弥陀仏の救いは、南無阿弥陀仏の一方的はおはたらきによるものです。こちらの方で何かを加えたりすることはありません。私としては、一方的なお救いであることを聞き受けるのみです。「助けるぞ」の仰せに対し、「こうすれば」「こうしたら」とか余計な計らいを加えずに、その仰せのままに素直に後生おまかせするのです。「助けるぞ」を「助けるぞ」とそのまま聞くのが即ち信です。

これは如何にも簡単そうであり、既に本願招喚の勅命を疑いなく聞き受けた身としては簡単という言葉も要らぬほどのことです。しかし、今から信心決定しよう、信心獲得したい、阿弥陀仏に救われたいと求めておられる方にとっては、「それが難しい」と悩む方が多数なのではと思います。私も例に漏れず最後まで阿弥陀さまを苦しませた系ですから、その苦悩は十二分に経験しています。

未信の方は、聴聞という行や、念仏称えるという行、お勤めを欠かさずするという行、あるいは親切やよい心がけに努めるという行、その他人それぞれ思いつく行為や心がけを熱心に重ねることで、こちらから阿弥陀さまの救いをつかもう、救いに近づこうと方法論を模索しがちです。図にすると、

阿弥陀仏 ← 私

という形で、阿弥陀仏の一方的なはたらきかけを受け容れられず、逆にこちらからはたらきかけなければ阿弥陀さまは応じて下さらない、救いには遇えないと信じて方法論に走りがちです。特に親鸞会の会員は、本来浄土真宗に存在しない「横の線に該当する教え」「光に向かう教え」を叩き込まれていますから尚更こうした信心は強いでしょう。

・宿善の薄い私は、このままで助かるわけがない
・他力と無力を混同している信仰の幼稚園児ではいけない
・最初から他力の人はいないんだから、みんな自力で求めていくんだ
・他力になるまで他力を求め抜くんだ
・「ただじゃった~!」となるまで「ただ」を聞くんだ
・群賊・悪獣・悪知識の非難の中を煩悩と闘って進んでいくんだ


このように信じて高森会長や上司の朝令暮改の無理難題を必死にこなそうと頑張っている会員さんも少なくないと思いますが、残念ながら大変な思い違いであるため、どれだけ会で勧められる活動に励もうとそれによって阿弥陀仏に救われるということはありません。

『飛雲』真実の信心を教えられた親鸞聖人、他教の信心を教える高森顕徹会長より引用しますと、

報土往生の因は、100%阿弥陀仏が用意して下されたものなので、われらの方で何かすることは不要なのです。もっと言えば、報土往生のために何かしてはいけないのです。

ということです。尤も、会員は報土往生という死んでからの証果よりは、現世における絶対の幸福だとかいう幻想的な楽を追い求めている場合が多いので話にもならないんですけどね・・・

さて、このような思い違いを示す分かりやすい例えとしては、「引いて開けるドアを押しているようなもの」というのが適切でしょうか。引いて開けるドアをいくら押しても、いつまでもドアの先へは行けませんし、ドアを押している行為もそれに費やす時間も全くの無駄です。
それと似たようなもので、阿弥陀さまが私の心のドアを開けて浄土へと導こうとされているのを、「ドア位は私が開けねば」と頑張って押しているのが実は裏目に出ているという感じです。私はドアを開けようとするのをやめて、ただ阿弥陀さまの救いの御名をお聞きし念仏すればよいのです。そうすれば自然とドアは開いて、阿弥陀さまが私を浄土へお連れ下さるものを、私は阿弥陀さまの仰せを素直に聞こうとしません。自分の浅はかな考えで、何とかしてドアの外へ出たいとの思いが勝ってガチャガチャやっているのです。『もののけ姫』のアシタカのような者なら「押し通る!」の言葉通り押し通れるのかも知れません(笑)が、それは私には無理です。
このままの私をそのまま救おうとする阿弥陀さまと、このままの私で助かるわけがないと方法論に走る私。私は私で真剣にやっているのですが、私の行為が阿弥陀さまの救いを撥ね付ける方向にはたらいているので、これではいつまで経っても両者の溝は埋まりません。

こうした思い違いを思い違いと知らせて頂き、本願の仰せをそのままお受けするのが聴聞です。ただ、聴をひたすら重ねて、いつか聞と聞こえる時が来る、今生で来たらラッキーなんていうのは、「聴聞という行をしていかなければならない」という考え方で間違いです。勿論獲信の現在から「ひたすら聴聞を重ねてきたな」と振り返ることはあるでしょう。しかし、未信の人が「これからひたすら聴聞を重ねなければ助からない」と救いを先延ばしにするのは間違った心がけです。一体いつ助かるつもりでしょうか。只今、ここにいる、このままの私が救われるのです。この世は無常であり、今、この場のこの聴聞が最後になるかも知れないのに、にもかかわらず救いを先延ばしにするとは随分とのんきなものです。

阿弥陀仏の救いというのはてのひらを返すように容易いので、あれこれ計らうのをやめて「助けるぞ」をそのままお聞きした只今、この場で救われます。ただあまりに容易いため、逆に浅はかな私達は余計な詮索や先入観でもって「そんなわけあるかい」と疑って中々素直に聞き受けられません。だから「難信」であり「易往而無人」と言われるのですが、といって何十年も求道しなければ救われないというものではありません。親鸞会ではなぜ「難信」なのか間違って教えられているため、会員は法を聞くにしても長い求道を要してようやく救われるかのように余計な詮索や先入観をもって身構えてしまうのです。このような凡夫の浅はかな智慧を交えずに、そのまま助ける本願をそのままお聞きすれば、難信ではなくなります。心得やすの安心、取りやすの安心だと分かり、今まであれこれ計らっていた私は愚かだった、よく阿弥陀さまはこんな私を見放さず諦めずにいて下さったなとお念仏せずにいられなくなります。

そもそも、その信心をとらんずるには、さらに智慧もいらず才学もいらず、富貴も貧窮もいらず、善人も悪人もいらず、男子も女人もいらず、ただもろもろの雑行をすてて正行に帰するをもって本意とす。その正行に帰するというは、なにのようもなく、弥陀如来を一心一向にたのみたてまつることわりばかりなり。かように信ずる衆生を、あまねく光明のなかに摂取してすてたまわずして、一期のいのちつきぬれば、かならず浄土におくりたまうなり。この一念の安心ひとつにて浄土に往生することの、あら、ようもいらぬとりやすの安心や。されば安心という二字をばやすきこころとよめるは、このこころなり。さらになにの造作もなく、一心一向に如来をたのみまいらする信心ひとつにて、極楽に往生すべし。あら、こころえやすの安心や。また、あら、ゆきやすの浄土や。これによりて『大経』には、「易往而無人」とこれをとかれたり。この文のこころは、安心をとりて弥陀を一向にたのめば、浄土へはまいりやすけれども、信心をとるひとまれなれば、浄土へはゆきやすくしてひとなしといえるは、この経文のこころなり。かくのごとくこころうるうえには、昼夜朝暮にとなうるところの名号は、大悲弘誓の御恩を報じたてまつるべきばかりなり。かえすがえす仏法にこころをとどめて、とりやすき信心のおもむきを存知して、かならず今度の一大事の報土の往生をとぐべきものなり。あなかしこ、あなかしこ。(『御文章』2帖目7通)

この取りやすの安心、心得やすの安心を自力でつかもうとしているから、これ以上難しいことはないとなってしまうのです。何の造作も要らず、念仏以外の諸善を捨てて、「阿弥陀仏が唯一選び択られた念仏一つで助かる」と信ずる一つにて往生は定まります。そうなれば、昔はとんだ心得違いだったな、回り道だったな、そんな自分をよくもお救い下されたものだと過去の迷いも御恩喜ぶタネとなり、あながち無駄ではなかったと思えます。要は、

阿弥陀仏 → 私

という一方的なはたらきを何の造作も要らず受け容れられるかどうかです。本日只今にもそういう身になれる、いや、本願を信じさせ念仏称えさせると阿弥陀さまが仰せですから、逆らわず計らわず、阿弥陀さまの仰せを素直に受けて下さい。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。
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淳心房&しゃあ

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(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


(しゃあ)
平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
singikensho@yahoo.co.jp
(スパム防止のため@を大文字にしてあります。メール送信時は小文字に変えて下さい。)

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