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蓮如上人と三願転入にどのような関係が??(11)

 この方河尻性光門徒の面々において、仏法の信心のこころえはいかやうなるらん。まことにもつてこころもとなし。しかりといへども、いま当流一義のこころをくはしく沙汰すべし。おのおの耳をそばだててこれをききて、このおもむきをもつて本とおもひて、今度の極楽の往生を治定すべきものなり。それ、弥陀如来の念仏往生の本願(第十八願)と申すはいかやうなることぞといふに、在家無智のものも、また十悪・五逆のやからにいたるまでも、なにのやうもなく他力の信心といふことをひとつ決定すれば、みなことごとく極楽に往生するなり。

さればその信心をとるといふは、いかやうなるむつかしきことぞといふに、なにのわづらひもなく、ただひとすぢに阿弥陀如来をふたごころなくたのみたてまつりて、余へこころを散らさざらんひとは、たとへば十人あらば十人ながら、みなほとけになるべし。このこころひとつをたもたんはやすきことなり。ただ声に出して念仏ばかりをとなふるひとはおほやうなり、それは極楽には往生せず。この念仏のいはれをよくしりたる人こそほとけにはなるべけれ。なにのやうもなく、弥陀をよく信ずるこころだにもひとつに定まれば、やすく浄土へはまゐるべきなり。このほかには、わづらはしき秘事といひて、ほとけをも拝まぬものはいたづらものなりとおもふべし。これによりて阿弥陀如来の他力本願と申すは、すでに末代今の時の罪ふかき機を本としてすくひたまふがゆゑに、在家止住のわれらごときのためには相応したる他力の本願なり。あら、ありがたの弥陀如来の誓願や、あら、ありがたの釈迦如来の金言や。仰ぐべし、信ずべし。

しかれば、いふところのごとくこころえたらん人々は、これまことに当流の信心を決定したる念仏行者のすがたなるべし。さてこのうへには一期のあひだ申す念仏のこころは、弥陀如来のわれらをやすくたすけたまへるところの雨山の御恩を報じたてまつらんがための念仏なりとおもふべきものなり。あなかしこ、あなかしこ。(御文章3帖目3通)



蓮如上人は常に「当流一義のこころ」を詳しく教えられています。それは「弥陀如来の念仏往生の本願(第十八願)」であります。もし「当流一義のこころ」が親鸞会流「三願転入の教え」であるとするなら、蓮如上人は『御文章』の至るところに定散二善や自力念仏を勧められていなければなりません。ところがそんな勧めはなく、この御文章でもそうであるように18願のみが教え勧められています。最初から最後まで18願のみだと言っても過言ではありません。
対して親鸞会ではどうでしょうか? 過去の法話では、ビデオで聞いた限りでは大体が、なぜ生きるとどう生きる、目的と手段の違い、因果の道理、真実の自己、後生の一大事などの話でした。18願の話もまがりなりにはありましたが、それでも肝心の18願のこころとなると曖昧なまま終わっていました。肝心な聞きたい部分に来ると「仏法は聴聞に極まる」と言われ、続けて聞くことが大事と教えられて終了することが多かったように記憶しています。最近は、少なくとも平成21年では18願の話はほとんどなく、終始19願の説明ばかりで、しかもそれで終わってしまうという法話がかなりありました。
その理由については『安心問答』高森会長の話に救われる法の話がほとんどないたった1つの理由に書かれていますので参照頂きたいのですが、結局「みなみな信心決定あれかし」という讃題は言葉だけなのです。言葉だけではなく、本心からそう思っているなら蓮如上人のように18願のみを終始話さねばなりません。また、「続きは次回話す」と結論を先送りするような説き方はせず、蓮如上人のように18願のこころを懇ろに説き示して終わらねばなりません。こうでなければ短命の根機、いのち一刹那につづまる無常迅速の機を相手にしているとは言えません。「次にお互い命があればお話しします」というのも口だけだというのがお分かりでしょう。本当に次がないと思っていたら、「今回真実を説き切らずしていつ説くのか」ということになるからです。参詣者の信心決定ではなく、参詣者が次に来てもらうことを目当てにしているから、結論をじらすような話になってしまうのです。

さて、蓮如上人は文字通り「真実を説き切って」おられます。聞いてみましょう。

それ、弥陀如来の念仏往生の本願(第十八願)と申すはいかやうなることぞといふに、在家無智のものも、また十悪・五逆のやからにいたるまでも、なにのやうもなく他力の信心といふことをひとつ決定すれば、みなことごとく極楽に往生するなり。さればその信心をとるといふは、いかやうなるむつかしきことぞといふに、なにのわづらひもなく、ただひとすぢに阿弥陀如来をふたごころなくたのみたてまつりて、余へこころを散らさざらんひとは、たとへば十人あらば十人ながら、みなほとけになるべし。このこころひとつをたもたんはやすきことなり。ただ声に出して念仏ばかりをとなふるひとはおほやうなり、それは極楽には往生せず。この念仏のいはれをよくしりたる人こそほとけにはなるべけれ。なにのやうもなく、弥陀をよく信ずるこころだにもひとつに定まれば、やすく浄土へはまゐるべきなり。このほかには、わづらはしき秘事といひて、ほとけをも拝まぬものはいたづらものなりとおもふべし。これによりて阿弥陀如来の他力本願と申すは、すでに末代今の時の罪ふかき機を本としてすくひたまふがゆゑに、在家止住のわれらごときのためには相応したる他力の本願なり。あら、ありがたの弥陀如来の誓願や、あら、ありがたの釈迦如来の金言や。仰ぐべし、信ずべし。

「他力の信心ということを一つ決定すれば、十悪・五逆の輩に至るまでもみなことごとく極楽に往生する」と聞くと、ではその他力の信心をとるとはどれだけ難しいことでしょうか、私にその他力の信心をとることなどできるのでしょうかという疑問が当然湧いてまいります。それに対してまず、

なにのわづらひもなく

と仰って、難しいことではないんだよ、阿弥陀仏は何も難しいことを要求していないんだよと聞く者の不安を取り除いておられます。衆生の造作を要せず本願力の独用で往生させるという救いですから、難しいことではありません。易いことなのです。

じゃあ、「正信偈」や「信文類」のお言葉はどうなるんだと思う人があると思います。特に親鸞会では極難信とばかり強調されていますから、会員さんが「信心決定は難しい」と思っているのは当然です。私も、本願を信じ念仏するまでは「信心をとるといふは、いかやうなるむつかしきことぞ」と思っていました。
それについて、ここでは「信文類」のお言葉を出して説明します。親鸞会では出てきませんが、実は「信文類」のお言葉には省略されている部分があるのです。

しかるに常没の凡愚、流転の群生、無上妙果の成じがたきにあらず、真実の信楽まことに獲ること難し。なにをもつてのゆゑに、いまし如来の加威力によるがゆゑなり、博く大悲広慧の力によるがゆゑなり。たまたま浄信を獲ば、この心顛倒せず、この心虚偽ならず。ここをもつて極悪深重の衆生、大慶喜心を得、もろもろの聖尊の重愛を獲るなり。(信文類)

なぜ真実の信心を獲ることが実に難しいかというと、「如来の加威力によるがゆゑなり」「博く大悲広慧の力によるがゆゑなり」と教えられています。阿弥陀仏による一方的なおはたらきによるから難しいんだということです。これは、「救われるにはどうしたら?」という衆生の計らい(自力)があるため、衆生の造作は要しないということを撥ねつけて本願力を疑っているので難しいのです。特に善悪因果の道理を強く信じている人は、浄土往生という素晴らしい結果を得るには、こちら側からは何も要しないというのはとても受け入れがたいものがあります。しかしそれでは本願を疑い、方便化土へ留まってしまいますから、親鸞聖人は次のように誡めておられます。

・罪福ふかく信じつつ 善本修習するひとは
 疑心の善人なるゆゑに 方便化土にとまるなり
・仏智の不思議を疑惑して 罪福信じ善本を
 修して浄土をねがふをば 胎生といふとときたまふ
・仏智うたがふつみふかし この心おもひしるならば
 くゆるこころをむねとして 仏智の不思議をたのむべし(正像末和讃)


これだけではなく、このような仏智疑惑和讃を23首も詠まれていますが、今回は割愛させて頂きます。親鸞聖人は「仏智の不思議をたのむべし」とこそ仰れ、「罪福ふかく信じつつ善本修習するひと」になりなさいとは仰っておられません。対して高森会長は時にたのむべき仏智の不思議は全く説かずに、因果の道理を一日話して終了し、「罪福ふかく信じつつ善本修習するひと」になりなさいと勧めるような説き方をしています。この点でも親鸞会の教えは親鸞聖人と真逆です。


ただひとすぢに阿弥陀如来をふたごころなくたのみたてまつりて、余へこころを散らさざらんひとは、たとへば十人あらば十人ながら、みなほとけになるべし。このこころひとつをたもたんはやすきことなり。

定散二善等の雑行、諸仏といった「余」へこころを散らさず、ひとすじに阿弥陀如来を二心なくたのめば、みな仏になると仰せです。「南無(我をたのめ)阿弥陀仏(必ず救う)」の仰せを計らいなく聞き受けたのが、弥陀をたのむすがたです。自力の計らいはこの仰せを聞くところに捨たりますから、「どうすれば」「どうしたら」の追求は止めて直ちに本願を聞いて下さい。

このように衆生の造作は要せず、ひとえに本願力による救いですから、実に今のごときの我ら衆生に相応した他力の本願です。何と有難く、かたじけないことでしょうか、この弥陀如来の誓願、この釈迦如来の金言は。対して、高森会長の説く「三願転入の教え」は今のごときの我ら衆生には全く相応しない教えです。他力とはかけ離れ、自力とも違う、私利私欲を満たすだけの外道の教えです。このような教えを「唯一絶対にして真実の宗教」などと思いこまされている会員の皆さんは何とも哀れです。このような私達に相応しない偽の宗教は捨て去って、私達に相応したる弥陀如来の本願(18願)を直ちに信じ、念仏して頂きたいと思います。

蓮如上人と三願転入にどのような関係が??(12)

 それ、つらつら人間のあだなる体を案ずるに、生あるものはかならず死に帰し、盛んなるものはつひに衰ふるならひなり。さればただいたづらに明かし、いたづらに暮して、年月を送るばかりなり。これまことになげきてもなほかなしむべし。このゆゑに、上は大聖世尊(釈尊)よりはじめて、下は悪逆の提婆にいたるまで、のがれがたきは無常なり。しかればまれにも受けがたきは人身、あひがたきは仏法なり。

たまたま仏法にあふことを得たりといふとも、自力修行の門は、末代なれば、今の時は出離生死のみちはかなひがたきあひだ、弥陀如来の本願にあひたてまつらずはいたづらごとなり。しかるにいますでにわれら弘願の一法にあふことを得たり。このゆゑに、ただねがふべきは極楽浄土、ただたのむべきは弥陀如来、これによりて信心決定して念仏申すべきなり。

しかれば世のなかにひとのあまねくこころえおきたるとほりは、ただ声に出して南無阿弥陀仏とばかりとなふれば、極楽に往生すべきやうにおもひはんべり。それはおほきにおぼつかなきことなり。されば南無阿弥陀仏と申す六字の体はいかなるこころぞといふに、阿弥陀如来を一向にたのめば、ほとけその衆生をよくしろしめして、すくひたまへる御すがたを、この南無阿弥陀仏の六字にあらはしたまふなりとおもふべきなり。しかればこの阿弥陀如来をばいかがして信じまゐらせて、後生の一大事をばたすかるべきぞなれば、なにのわづらひもなく、もろもろの雑行雑善をなげすてて、一心一向に弥陀如来をたのみまゐらせて、ふたごころなく信じたてまつれば、そのたのむ衆生を光明を放ちてそのひかりのなかに摂め入れおきたまふなり。これをすなはち弥陀如来の摂取の光益にあづかるとは申すなり。または不捨の誓益ともこれをなづくるなり。

かくのごとく阿弥陀如来の光明のうちに摂めおかれまゐらせてのうへには、一期のいのち尽きなばただちに真実の報土に往生すべきこと、その疑あるべからず。このほかには別の仏をもたのみ、また余の功徳善根を修してもなににかはせん。あら、たふとや、あら、ありがたの阿弥陀如来や。かやうの雨山の御恩をばいかがして報じたてまつるべきぞや。ただ南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏と声にとなへて、その恩徳をふかく報尽申すばかりなりとこころうべきものなり。あなかしこ、あなかしこ。(御文章3帖目4通)


生あるものは必ず死に帰す、盛者必衰は世のならいです。今回の東日本大震災では死者1万人以上、行方不明者と合わせて2万8千人以上という大惨事になりましたが、たとえこのような災害もなく一生を平穏に暮らせたとしても、逃れ難きは無常です。このような無常の世の中、まれにも受けがたきは人身、あいがたきは仏法です。
ところが、せっかく仏法に遇いながらも、自力修行の門は末法の今日では生死出離の道はかないません。弥陀如来の本願に遇わなければ空しく一生が終わってしまいます。ところが私達は幸いにも「弘願の一法」に遇うことができました。これによって、「ただねがふべきは極楽浄土、ただたのむべきは弥陀如来、これによりて信心決定して念仏申すべきなり」と教えられています。
「弘願の一法」とは勿論18願の教法だけのことです。もし弘願への道程として要門、真門の教えが必要ならば「要門、真門、弘願の三法」となければおかしいですし、蓮如上人は要門とその実践方法を詳しくお説きになったはずです。しかし後を読んでも要門の要の字も出てきません。親鸞会流「三願転入の教え」は大ウソであることがますます明らかになってまいります。

さて、南無阿弥陀仏の六字をよく心得わけたのが他力信心のすがたですが、では私達は阿弥陀仏をどのように信じて往生の一大事を遂げるのでしょうか。蓮如上人にお聞きしましょう。

なにのわづらひもなく、もろもろの雑行雑善をなげすてて、一心一向に弥陀如来をたのみまゐらせて、ふたごころなく信じたてまつれば、そのたのむ衆生を光明を放ちてそのひかりのなかに摂め入れおきたまふなり。これをすなはち弥陀如来の摂取の光益にあづかるとは申すなり。または不捨の誓益ともこれをなづくるなり。かくのごとく阿弥陀如来の光明のうちに摂めおかれまゐらせてのうへには、一期のいのち尽きなばただちに真実の報土に往生すべきこと、その疑あるべからず。このほかには別の仏をもたのみ、また余の功徳善根を修してもなににかはせん。

「なにのわづらひもなく」ですから、私の側から「○○しなければならない」ということはありません。
「もろもろの雑行雑善をなげすてて」ですから、弥陀の救いに遇うには定散二善等の雑行は捨てねばなりません。親鸞会は捨てるべき雑行をやれを教えられているのですから、雑行が捨たるはずがないのです。親鸞会は自分がやっていることが雑行だと分からないと捨てられないなどと詭弁を使いますが、私達が定散二善等の諸行が雑行だと分かるのは善知識方がそのように教えられているからです。それにもし親鸞会の言う通りなら、「雑行を雑行と知らされるために雑行を修せよ」といった教えがなければなりませんが、終始「雑行はすてて」とこそ書かれ、「雑行を修せよ」とは一切書かれておりません。蓮如上人がこの後重ねて、

このほかには別の仏をもたのみ、また余の功徳善根を修してもなににかはせん。

と教えられていることからも、弥陀の救いに遇うのに定散二善等の余の功徳善根を修せよという教義は真宗にはありません。親鸞会教義がでたらめであるとここでも知ることができます。

一心一向に弥陀如来をたのみまゐらせて、ふたごころなく信じたてまつれば、そのたのむ衆生を光明を放ちてそのひかりのなかに摂め入れおきたまふなり。これをすなはち弥陀如来の摂取の光益にあづかるとは申すなり。または不捨の誓益ともこれをなづくるなり。かくのごとく阿弥陀如来の光明のうちに摂めおかれまゐらせてのうへには、一期のいのち尽きなばただちに真実の報土に往生すべきこと、その疑あるべからず。

とあるように、南無阿弥陀仏を疑いなく聞き受けて、ひとえに阿弥陀仏に往生をおまかせしたなら、その人は光明の中に摂取され、決して捨てられることはありません。そしてこの世の命が尽きたなら直ちに真実報土へ往生するのです。何と尊い阿弥陀如来のご本願でしょうか。最後に、このように広大な弥陀の恩徳をどのようにして報すべきかと言えば、ただ南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏と称名念仏しなさいと教えられ、終わっています。
やはり、親鸞会流「三願転入の教え」や獲信のための(因縁としての)諸善の勧め、「必ず通らねばならない道程」は全くありませんでした。親鸞会教義とは、所詮でっち上げの寄せ集め創作教義であることをよくよく知って頂きたいと思います。

蓮如上人と三願転入にどのような関係が??(13)

聖道門、要門、真門といった教えは、弘願(18願)を直ちに信じられない機(無宿善の機)を誘引するために暫く仮に設けられた権仮方便の教説です。既に親鸞聖人の教えによって弘願が真実であると知り、弘願による救いを願うようになった人には、もはや聖道門、要門、真門の教えは必要ありません。ところが親鸞会はこうした権仮方便の意味も知らず、また『教行証文類』や『一念多念証文』のお言葉の一部を断章し意味を歪曲して、要門を善もどきの善の勧めに利用しているのです。
浄土真宗に要門の勧めはありません。それは『御文章』を読んでみるのが一番よく分かると思います。教え勧められているのは18願のみであり、本願の救いに遇うには定散二善等の諸善は雑行と嫌われ捨てよとこそ教えられ、勧められてはいません。また、縦と横の線の「横の道」に該当する「必ず通らねばならない道程」も教えられていません。三願転入については触れられてもいません。『御文章』は、様々な親鸞会の誤りを最も分かりやすく指摘しています。今回は3帖目5通から、親鸞会流「三願転入の教え」などないことを見てみましょう。


 そもそも、諸仏の悲願に弥陀の本願のすぐれましましたる、そのいはれをくはしくたづぬるに、すでに十方の諸仏と申すは、いたりて罪ふかき衆生と、五障・三従の女人をばたすけたまはざるなり。このゆゑに諸仏の願に阿弥陀仏の本願はすぐれたりと申すなり。

さて弥陀如来の超世の大願はいかなる機の衆生をすくひましますぞと申せば、十悪・五逆の罪人も五障・三従の女人にいたるまでも、みなことごとくもらさずたすけたまへる大願なり。されば一心一向にわれをたのまん衆生をば、かならず十人あらば十人ながら、極楽へ引接せんとのたまへる他力の大誓願力なり。これによりて、かの阿弥陀仏の本願をば、われらごときのあさましき凡夫は、なにとやうにたのみ、なにとやうに機をもちて、かの弥陀をばたのみまゐらすべきぞや。そのいはれをくはしくしめしたまふべし。そのをしへのごとく信心をとりて、弥陀をも信じ、極楽をもねがひ、念仏をも申すべきなり。

 答へていはく、まづ世間にいま流布してむねとすすむるところの念仏と申すは、ただなにの分別もなく南無阿弥陀仏とばかりとなふれば、みなたすかるべきやうにおもへり。それはおほきにおぼつかなきことなり。京・田舎のあひだにおいて、浄土宗の流義まちまちにわかれたり。しかれどもそれを是非するにはあらず、ただわが開山(親鸞)の一流相伝のおもむきを申しひらくべし。それ、解脱の耳をすまして渇仰のかうべをうなだれてこれをねんごろにききて、信心歓喜のおもひをなすべし。それ在家止住のやから一生造悪のものも、ただわが身の罪のふかきには目をかけずして、それ弥陀如来の本願と申すはかかるあさましき機を本とすくひまします不思議の願力ぞとふかく信じて、弥陀を一心一向にたのみたてまつりて、他力の信心といふことを一つこころうべし。さて他力の信心といふ体はいかなるこころぞといふに、この南無阿弥陀仏の六字の名号の体は、阿弥陀仏のわれらをたすけたまへるいはれを、この南無阿弥陀仏の名号にあらはしましましたる御すがたぞとくはしくこころえわけたるをもつて、他力の信心をえたる人とはいふなり。この「南無」といふ二字は、衆生の阿弥陀仏を一心一向にたのみたてまつりて、たすけたまへとおもひて、余念なきこころを帰命とはいふなり。

つぎに「阿弥陀仏」といふ四つの字は、南無とたのむ衆生を、阿弥陀仏のもらさずすくひたまふこころなり。このこころをすなはち摂取不捨とは申すなり。「摂取不捨」といふは、念仏の行者を弥陀如来の光明のなかにをさめとりてすてたまはずといへるこころなり。さればこの南無阿弥陀仏の体は、われらを阿弥陀仏のたすけたまへる支証のために、御名をこの南無阿弥陀仏の六字にあらはしたまへるなりときこえたり。

かくのごとくこころえわけぬれば、われらが極楽の往生は治定なり。あら、ありがたや、たふとやとおもひて、このうへには、はやひとたび弥陀如来にたすけられまゐらせつるのちなれば、御たすけありつる御うれしさの念仏なれば、この念仏をば仏恩報謝の称名ともいひ、また信のうへの称名とも申しはんべるべきものなり。あなかしこ、あなかしこ。(御文章3帖目5通)


十方諸仏の本願は、いたって罪の深い私達のような者は助けて下さいません。しかし阿弥陀仏の超世の大願は、そのような罪深い我々をも漏らさず助けて下さいます。なので、弥陀の本願は諸仏の悲願より勝れているというのです。阿弥陀仏の仰せには、「一心一向にわれをたのまん衆生をば、かならず十人あらば十人ながら、極楽へ引接せん」とのことですので、私達のようなあさましい凡夫は阿弥陀仏の本願をどのようにたのみ、どのような心持ちで阿弥陀仏をたのむのかということが当然気になります。それに対して蓮如上人は、開山聖人の一流相伝のおもむきを教えられていますので聞いてみましょう。

それ在家止住のやから一生造悪のものも、ただわが身の罪のふかきには目をかけずして、それ弥陀如来の本願と申すはかかるあさましき機を本とすくひまします不思議の願力ぞとふかく信じて、弥陀を一心一向にたのみたてまつりて、他力の信心といふことを一つこころうべし。さて他力の信心といふ体はいかなるこころぞといふに、この南無阿弥陀仏の六字の名号の体は、阿弥陀仏のわれらをたすけたまへるいはれを、この南無阿弥陀仏の名号にあらはしましましたる御すがたぞとくはしくこころえわけたるをもつて、他力の信心をえたる人とはいふなり。この「南無」といふ二字は、衆生の阿弥陀仏を一心一向にたのみたてまつりて、たすけたまへとおもひて、余念なきこころを帰命とはいふなり。つぎに「阿弥陀仏」といふ四つの字は、南無とたのむ衆生を、阿弥陀仏のもらさずすくひたまふこころなり。このこころをすなはち摂取不捨とは申すなり。「摂取不捨」といふは、念仏の行者を弥陀如来の光明のなかにをさめとりてすてたまはずといへるこころなり。さればこの南無阿弥陀仏の体は、われらを阿弥陀仏のたすけたまへる支証のために、御名をこの南無阿弥陀仏の六字にあらはしたまへるなりときこえたり。

この後は称名報恩の義が教えられていますが省略します。これが親鸞聖人の一流相伝のおもむきです。如何でしょうか。親鸞会で教えられることとは随分違いますね。親鸞会で教えられることを箇条書きにしてみますと、

・(親鸞会でいう)後生の一大事に驚きが立たねばならない
・後生の一大事を知らなければ、何十年と聞いていても仏教を聞いたことにはならない
・自分は逆謗の者だと知らされねばならない
・三世因果の道理を知らなければ、仏教は何十年聞いていても分からない
・他力の信心を得るためには、通らなければならない道程がある
・他力の信心を得るためには、19願、20願の道程を通らなければならない
・他力の信心を得るためには、善知識の指示に無条件服従しなければならない
・我々はほとんどが宿善薄いものであり、他力の信心を得るためには善をして宿善を厚くしなければならない
・善をしなければ信仰は進みません
・獲信と修善はよい関係にある
・方便からしか真実には入れない(だから方便の善をやりなさい)


等々ですが、このようなことは一切教えられておりません。今まで取り上げてきた『御文章』にも、これから取り上げようとしている『御文章』にもないことです。

「ただわが身の罪のふかきには目をかけずして」ですから、罪悪を責め立てていたずらに地獄の恐怖を煽るような説き方はされないことが分かります。対して高森会長は、釈尊が45年間何を教えられたかということについて、

『「お前こんなこと思ってるやろ、こんなこと思ってるやろ、それは善か悪か?」と説いているうちに45年経ってしまった』

などとまるで機責め、地獄秘事のようなことをされていたように話していました。勿論そのようなことはなく、親鸞聖人、蓮如上人もそんなことは教えられていません。教えられているのは、「阿弥陀仏の本願は私達のようなあさましい者を目当てに助けて下さいます」という法です。私達は、阿弥陀仏の「必ず助ける」と仰せの不思議の誓願力を仰せのままに聞くのです。仰せのままに聞くのが信です。それが弥陀を一心一向にたのむということ、すなわち「仰せの通り後生助けましませ」と往生を弥陀におまかせするということです。
一心一向とは余善他仏にうつらぬことですから、弥陀を一心一向にたのむのに19願の善の勧めなどあるわけがありません。こう言うと親鸞会では決まって

「それは一念のことで、そこまでは善をしなければ信仰は進まないんだ」

などと言いますが、蓮如上人は獲信と修善を関係づけて教えられていませんし、必ず通らねばならない道程とやらも一切教えらえていませんので、そんな言い訳は通用しません。

さて、弥陀を一心一向にたのむということが他力の信心であるわけですが、その他力の信心の体は南無阿弥陀仏であるということです。「南無」とは、阿弥陀仏の「必ず助けるぞ」の仰せを頂いて自力を離れ、「仰せの通りお助けましませ」と他力に全託するこころです。「阿弥陀仏」とは、そのように弥陀に往生をおまかせした衆生を、阿弥陀仏が漏らさず助けるというこころです。これを「摂取不捨」といい、念仏の行者を阿弥陀仏の光明の中に摂め取って決して捨てないということです。南無阿弥陀仏とは、阿弥陀仏が私達を助ける証拠として顕したものであると教えらえています。

これで以上です。蓮如上人は罪悪を責め立てて聴衆に必堕無間の恐怖を叩きこむことも、聴衆に無条件服従を強いることも、獲信のために(因縁として)修善を勧めることも、一切しておられません。獲信までに通らねばならない道程があるとか、それが三願転入の道だとか、教えらえていません。大体、親鸞会でやかましい因果の道理は説いておられません。『御文章』を素直に拝読すれば、親鸞会で教えられるほぼ全てを蓮如上人は教えておられないことが分かりますね。
罪悪を責め立てても、心は地獄に向くばかりで弥陀には向きません。知識の指示に無条件服従を強いたら、心は知識に向くばかりで弥陀には向きません。獲信のために善をせよと教えたら、心は善に向くばかりで弥陀に向きません。獲信までに通らねばならない道程があると教えたら、救いはその道程を進んだ先にあるとしか思えず、只今救われるとは思えません。因果の道理をやかましく説いたら、弥陀の救いを善悪因果の道理で計らう自力にとらわれるだけで、我々の善悪に関係なく救う本願力であるとはもう分かりません。親鸞会でうるさく説いていることは、その全てと言っていいほどが我々の往生、獲信の障害であり、邪魔にしかならないのです。高森会長のデマに惑わされてはなりません。
親鸞聖人、蓮如上人が一貫して説かれている「一流相伝のおもむき」とは、阿弥陀仏の本願による只今の救い、無条件の救いです。親鸞会教義はこの「一流相伝のおもむき」とは似ても似つかぬ「えせ法門」ですから、速やかにこれを捨てて、一流相伝のおもむきたる18願只今の救い、無条件の救いを聞いて下さい。

蓮如上人と三願転入にどのような関係が??(14)

 それ南無阿弥陀仏と申すはいかなるこころぞなれば、まづ「南無」といふ二字は、帰命と発願回向とのふたつのこころなり。また「南無」といふは願なり、「阿弥陀仏」といふは行なり。されば雑行雑善をなげすてて専修専念に弥陀如来をたのみたてまつりて、たすけたまへとおもふ帰命の一念おこるとき、かたじけなくも遍照の光明を放ちて行者を摂取したまふなり。このこころすなはち「阿弥陀仏」の四つの字のこころなり。また発願回向のこころなり。

これによりて「南無阿弥陀仏」といふ六字は、ひとへにわれらが往生すべき他力信心のいはれをあらはしたまへる御名なりとみえたり。このゆゑに、願成就の文(大経・下)には「聞其名号信心歓喜」と説かれたり。この文のこころは、「その名号をききて信心歓喜す」といへり。「その名号をきく」といふは、ただおほやうにきくにあらず、善知識にあひて、南無阿弥陀仏の六つの字のいはれをよくききひらきぬれば、報土に往生すべき他力信心の道理なりとこころえられたり。かるがゆゑに、「信心歓喜」といふは、すなはち信心定まりぬれば、浄土の往生は疑なくおもうてよろこぶこころなり。このゆゑに弥陀如来の五劫兆載永劫の御苦労を案ずるにも、われらをやすくたすけたまふことのありがたさ、たふとさをおもへばなかなか申すもおろかなり。

されば『和讃』(正像末和讃・五一)にいはく、「南無阿弥陀仏の回向の 恩徳広大不思議にて 往相回向の利益には 還相回向に回入せり」といへるはこのこころなり。また『正信偈』にはすでに「唯能常称如来号 応報大悲弘誓恩」とあれば、いよいよ行住坐臥時処諸縁をきらはず、仏恩報尽のためにただ称名念仏すべきものなり。あなかしこ、あなかしこ。(御文章3帖目6通)



この御文には我らが往生すべき他力信心のおもむき、すなわち南無阿弥陀仏のいわれのみが書かれています。やはりどこにも三願転入の道とか、修諸功徳の善の勧めとか、善をしなければ信仰(?)が進まないといったような珍説は書かれていません。親鸞会教義はどれをとっても文底秘沈の珍説ばかりです。

ここで蓮如上人は、題に「願行具足」とあるように願行具足の六字釈を披露されています。それについて、『WikiArc』安心論題(16)六字釈義より引用します。

 まず善導大師の六字釈でありますが、これは摂論家(無著菩薩の『摂大乗論』を奉ずる一派)の人たちは、『観無量寿経』に下品下生の極悪人が十声の念仏で浄土に往生すると説かれているのは、実は次の生にすぐ往生するのではなくて、往生は別時である。すなわち遠い将来にいつかは浄土に往生できる因になるということである。なぜなれば、臨終に南無阿弥陀仏と称えたのは、「阿弥陀さま、お願いします」という程度で、単なる願いだけであって往生に必要な行がない。すなわち唯願無行だから、すぐに往生できるのではないというのであります。
 この説は、たとえば「家を建てたいと願えば家は建つ」といっても、建てたいという願いだけで、これを建てるだけの資金がなければすぐに家が建つわけはない。しかし願いをおこした以上は、いつか資金もできて家を建てることができる、というような理解であります。
 右のような説がひろまったために、当時念仏を修する人はすっかり少なくなってしまったと伝えられます。
 本願の念仏についてのこのような誤った見解を破って、仏の正意を明らかにされたのが、善導大師の六字釈であります。『玄義分』第六和会門の第五会通別時意の章に(真聖全一―四五七)、

今この『観経』の中の十声の称仏は、すなわち十願十行ありて具足す。いかんが具足する。「南無」というはすなわちこれ帰命なり(即是帰命)、またこれ発願回向の義なり(亦是発願回向之義)。「阿弥陀仏」というはすなわちこれその行なり(即是其行)。この義をもっての故に必ず往生をう(以斯義故、必得往生)。

とお示しくださいました。「南無」は帰命(機)であるが、発願回向の意味もある。「阿弥陀仏」はその行である。したがって『観経』の十声の念仏は唯願無行ではなくて、願と行とを具足しているから、次の生にはまちがいなく浄土に往生できるのである、と明らかにされたのです。
 南無に願の意味があるということはわかるとしても、阿弥陀仏が行であるというのは、どういうことでしょうか。それは念仏を称えるということが一つの行であるというだけではなくて、阿弥陀仏の願力によって往生できるのであるという意味が考えられます。『玄義分』第一序題門には(真聖全一―四四三)、

弘願というは『大経』の説のごとし。一切善悪の凡夫、生を得るものは、みな阿弥陀仏の大願業力に乗じて増上縁とせざるはなし。

と述べられています。これは仏願力によって往生せしめられるということです。『往生礼讃』の前序には(真聖全一―六五一)、

弥陀世尊、もと深長の誓願をおこして、光明名号をもって十方を摂化したもう。ただ信心をして求念せしむれば、上一形を尽くし、下十声一声に至るまで、仏願力をもって往生を得やすし。

等とも述べられています。阿弥陀仏は光明名号をもって衆生をお救いくださる。だから私どもはただこれを信じ称えるだけで―称名の数は問題ではなく―仏願力によって容易に往生させていただけるのであるという意味です。
 このように見てまいりますと、願行具足の南無阿弥陀仏となるがゆえに必ず往生を得る、と仏意を明らかにせられた善導大師のご功績がひとしお尊く味わわれます。



それから蓮如上人は、

されば雑行雑善をなげすてて専修専念に弥陀如来をたのみたてまつりて、たすけたまへとおもふ帰命の一念おこるとき、かたじけなくも遍照の光明を放ちて行者を摂取したまふなり。

と仰っています。専修専念に弥陀如来をたのみたてまつるについて、定散二善等の雑行雑善は「なげすてて」とこそ教えられ、勧められてなどおりません。余仏をたのんでいたら弥陀を専修専念にたのめないのと同様、獲信と定散二善を関係づけて余善を修めていたら、弥陀を専修専念にたのめないからです。親鸞会の教えは、会員が弥陀を専修専念にたのみたてまつることを妨げていることがよくお分かりでしょう。とりやすい安心を、とりにくい安心にしてしまっているわけです。善知識方の教えとは真逆ですから、何十年と聞いている会員、熱心に活動している会員でも救われていないのは当然なのです。

また、「南無阿弥陀仏」の六字全体を指して、「ひとへにわれらが往生すべき他力信心のいはれをあらはしたまへる御名」であるとも仰っています。そして続けて、

このゆゑに、願成就の文(大経・下)には「聞其名号信心歓喜」と説かれたり。この文のこころは、「その名号をききて信心歓喜す」といへり。「その名号をきく」といふは、ただおほやうにきくにあらず、善知識にあひて、南無阿弥陀仏の六つの字のいはれをよくききひらきぬれば、報土に往生すべき他力信心の道理なりとこころえられたり。

と教えられています。このことから、善知識とは、南無阿弥陀仏の六字のいわれを正しく説く人であることが分かります。対して「蓮如上人以来の善知識」と会員に言わせている親鸞会の高森会長は、南無阿弥陀仏の六字のいわれはそっちのけで、相伝もなき「三願転入の教え」を説いて善もどきの善ばかり会員に勧めています。このような人は善知識と言わないことが、蓮如上人のお言葉からお分かりでしょう。
蓮如上人を「親鸞学徒の鑑」だなどと言いながら、親鸞会は少しも蓮如上人の教えられたように教えを説きません。それどころか蓮如上人のお言葉を一部断章して、一切衆生必堕無間と脅し、助かるには宿善を厚くせよと説き、高森会長への無条件服従を強いている始末です。そうして会員に献金と勧誘をやらせ、利用している輩ですから、会員の皆さんの後生など少しも心配していません。会員の皆さんにはいい加減に「会長先生は学徒の皆さん一人一人の後生を案じています」などという妄想から離れて、自分も周囲も救われていない現実、そして活動に励んでも励んでも出口の見えない現実を直視して頂きたいと思います。

蓮如上人と三願転入にどのような関係が??(15)

親鸞会会員時代、よく次のようなことを聞きました。

親鸞聖人、覚如上人、蓮如上人の三方を貫く教えが浄土真宗である。三方を貫かない教えは浄土真宗ではない。例えば、親鸞聖人の書かれたものからはこうも解釈できる、こうも解釈できる、というように幾通りも解釈ができる所がある。親鸞聖人を点Aとすると、点Aを通る直線は何本でも引けるようなものだ。しかし覚如上人の書かれたものと合わせてみると、何通りもの解釈はできない。覚如上人を点Bとすると、点Aと点Bを通る直線は一本しか引けない。さらに蓮如上人を点Cとすると、なおさら三点を通る直線は一本しか引けない。

この理論からすると、覚如上人、蓮如上人は三願転入について仰っていませんから、三願転入を殊更強調するのはおかしなことです。また、お二方は18願の世界へ出る道程として19願・20願を通らねばならないとは教えられていません。そもそも親鸞会で「横の道」に該当するような「必ず通らなければならない道程」とやらは全く教えられておりません。勿論こうしたことは親鸞聖人も教えられていませんから、親鸞会教義は三方のどなたをも貫かない珍らしき法であり、浄土真宗ではありません。
蓮如上人は、末代濁世の在家無智の我らのために、「懇ろに親鸞聖人のすすめたまふところの一義のこころ」を教えられています。その一義の中に、果たして親鸞会流「三願転入の教え」が書かれているのでしょうか? 答えは見えているようなものですが、本日は3帖目7通を通して検証します。


 そもそも、親鸞聖人のすすめたまふところの一義のこころは、ひとへにこれ末代濁世の在家無智の輩において、なにのわづらひもなく、すみやかに疾く浄土に往生すべき他力信心の一途ばかりをもつて本とをしへたまへり。しかれば、それ阿弥陀如来は、すでに十悪・五逆の愚人、五障・三従の女人にいたるまで、ことごとくすくひましますといへることをば、いかなる人もよくしりはんべりぬ。

しかるにいまわれら凡夫は、阿弥陀仏をばいかやうに信じ、なにとやうにたのみまゐらせて、かの極楽世界へは往生すべきぞといふに、ただひとすぢに弥陀如来を信じたてまつりて、その余はなにごともうちすてて、一向に弥陀に帰し、一心に本願を信じて、阿弥陀如来においてふたごころなくは、かならず極楽に往生すべし。この道理をもつて、すなはち他力信心をえたるすがたとはいふなり。そもそも信心といふは、阿弥陀仏の本願のいはれをよく分別して、一心に弥陀に帰命するかたをもつて、他力の安心を決定すとは申すなり。されば南無阿弥陀仏の六字のいはれをよくこころえわけたるをもつて、信心決定の体とす。

しかれば「南無」の二字は、衆生の阿弥陀仏を信ずる機なり。つぎに「阿弥陀仏」といふ四つの字のいはれは、弥陀如来の衆生をたすけたまへる法なり。このゆゑに、機法一体の南無阿弥陀仏といへるはこのこころなり。これによりて衆生の三業と弥陀の三業と一体になるところをさして、善導和尚は「彼此三業不相捨離」(定善義)と釈したまへるも、このこころなり。

されば一念帰命の信心決定せしめたらん人は、かならずみな報土に往生すべきこと、さらにもつてその疑あるべからず。あひかまへて自力執心のわろき機のかたをばふりすてて、ただ不思議の願力ぞとふかく信じて、弥陀を一心にたのまんひとは、たとへば十人は十人ながらみな真実報土の往生をとぐべし。このうへには、ひたすら弥陀如来の御恩のふかきことをのみおもひたてまつりて、つねに報謝の念仏を申すべきものなり。あなかしこ、あなかしこ。(御文章3帖目7通)



最初に書かれているように、「親鸞聖人のすすめたまふところの一義のこころ」とは「なにのわづらひもなく、すみやかに疾く浄土に往生すべき他力信心の一途ばかり」であります。「すみやかに疾く」という言葉は親鸞聖人も使っておられますので見てみましょう。

横超とはすなはち願成就一実円満の真教、真宗これなり。また横出あり、すなはち三輩・九品、定散の教、化土・懈慢、迂回の善なり。大願清浄の報土には品位階次をいはず。一念須臾のあひだに、すみやかに疾く無上正真道を超証す。ゆゑに横超といふなり。(信文類)

このことからも、親鸞聖人の一義とは二双四重の教判では横超にあたる教え、すなわち18願の教法のことです。対して19願、20願に当たる教えは、定善や散善といった自力の善を修めて方便化土へ往生する遠まわりの善の教え、すなわち横出の教えです。「なにのわづらひもなく、すみやかに疾く浄土に往生」しない教えなのです。18願の教法を聞いてすみやかに疾く浄土に往生しようとしている人に、方便化土へ往生する遠まわりの善を勧めるおかしさが、いよいよ鮮明に知らされます。

こう言うと、高森先生信心の強い会員は必ずといっていいほど次のような言い訳をします。

それは縦の線(一念)のことで、それまでは善をしなければ信仰は進まない。合点だけでは通れないんだ。方便からしか真実に入れず。方便の道程(19願、20願)を通らずしては真実(18願)へは入れないんだ。

では蓮如上人はそのようなことを教えられているのでしょうか。続きを読んでみましょう。

しかるにいまわれら凡夫は、阿弥陀仏をばいかやうに信じ、なにとやうにたのみまゐらせて、かの極楽世界へは往生すべきぞといふに、ただひとすぢに弥陀如来を信じたてまつりて、その余はなにごともうちすてて、一向に弥陀に帰し、一心に本願を信じて、阿弥陀如来においてふたごころなくは、かならず極楽に往生すべし。この道理をもつて、すなはち他力信心をえたるすがたとはいふなり。そもそも信心といふは、阿弥陀仏の本願のいはれをよく分別して、一心に弥陀に帰命するかたをもつて、他力の安心を決定すとは申すなり。されば南無阿弥陀仏の六字のいはれをよくこころえわけたるをもつて、信心決定の体とす。

我ら凡夫は、阿弥陀仏をどのように信じ、どのようにたのみまいらせて、極楽へ往生するのかというと、ただひとずじに弥陀如来を信じたてまつるばかりです。「その余はなにごともうちすてて」ですから、阿弥陀仏に救われるのに他仏が不要なのと同様、善は不要ということです。横の道を進むために善が必要などと思ってやっていたら、一向に弥陀に帰すことはできません。一心に本願を信じることはできません。阿弥陀如来において二心なくということにはなりません。蓮如上人はどこにも会員の考えているような横の道、方便の善の必要性は説いておられません。
また、19願、20願の道程の先に信心決定という体験があるように会員は想い描いていますが、「阿弥陀仏の本願のいはれをよく分別して、一心に弥陀に帰命するかたをもつて」、「南無阿弥陀仏の六字のいはれをよくこころえわけたるをもつて」信心決定というのです。阿弥陀仏の本願とは18願であり、19願や20願のことではありません。18願のいわれ、南無阿弥陀仏のいわれをよく分別し、よく心得わけたのが信心決定であって、驚天動地の体験とは違うのです。

南無阿弥陀仏のいわれについて、3帖目7通では機法一体の六字釈をしておられます。機法一体について詳しくは、WikiArc『安心論題』(12)機法一体を参照して下さい。今は以下の部分のみ引用します。

蓮如上人のいわれる機法一体の「機」とは南無帰命の信心であり、「法」とは阿弥陀仏の摂取の願力であります。したがって、衆生の上に発起せしめられる信心と、阿弥陀仏の摂取の願力とは一つの体である、という意味を「機法一体」として明らかにせられます。つまりこれは行信不二の義であります。
 これを仏辺成就の上でいうならば、衆生を南無せしめて摂取したもうのが南無阿弥陀仏であるということになります。またこれを衆生領受の上でいうならば、私どもの南無帰命の信心は阿弥陀仏の摂取の法が届いてくだされたすがたにほかならないということであります。


信心決定というと、心がガラっと日本晴れの明るい心に変わるような体験を想像し、憧れている会員さんも少なくないと思います。ところが、信心といっても南無阿弥陀仏の他には何もなく、「我をたのめ(南無)かならず救う(阿弥陀仏)」の摂取の法を疑いなく聞き受けた以外にありません。ですから、南無阿弥陀仏のいわれを聞かないことには信心決定も何もないのです。19願、20願をいくら実践したところで摂取の法を疑いなく聞くということにはなりません。方便願の実践の先にあるものは方便化土であって、信心決定、往生成仏ではないのです。会員さんは、目的である信心決定とは別の方向へ誘導されていることをどうか知って下さい。

蓮如上人は、こう懇ろに説いてもやはり自力執心にとらわれる者があると見て、重ねてこう諭されます。

あひかまへて自力執心のわろき機のかたをばふりすてて、ただ不思議の願力ぞとふかく信じて、弥陀を一心にたのまんひとは、たとへば十人は十人ながらみな真実報土の往生をとぐべし。

「三願転入の道を進まねば」
「方便を通らねば」
「要門と言われているのだから18願に入るのに実行する必要があるのだ」


などというのは、まさに不思議の願力を疑い、撥ねつけている「自力執心のわろき機のかた」です。このような教えを聞いている限り、信心決定、往生成仏とは無縁な人生となりますから速やかに離れ、南無阿弥陀仏のいわれを聞いて、今度の一大事の往生を遂げて下さい。

蓮如上人と三願転入にどのような関係が??(16)

 そもそも、このごろ当国他国のあひだにおいて、当流安心のおもむき、ことのほか相違して、みな人ごとにわれはよく心得たりと思ひて、さらに法義にそむくとほりをもあながちに人にあひたづねて、真実の信心をとらんとおもふ人すくなし。これまことにあさましき執心なり。すみやかにこの心を改悔懺悔して、当流真実の信心に住して、今度の報土往生を決定せずは、まことに宝の山に入りて手をむなしくしてかへらんにことならんものか。

このゆゑにその信心の相違したる詞にいはく、「それ、弥陀如来はすでに十劫正覚のはじめよりわれらが往生を定めたまへることを、いまにわすれず疑はざるがすなはち信心なり」とばかりこころえて、弥陀に帰して信心決定せしめたる分なくは、報土往生すべからず。さればそばさまなるわろきこころえなり。これによりて、当流安心のそのすがたをあらはさば、すなはち南無阿弥陀仏の体をよくこころうるをもつて、他力信心をえたるとはいふなり。

されば「南無阿弥陀仏」の六字を善導釈していはく、「南無といふは帰命、またこれ発願回向の義なり」(玄義分)といへり。その意いかんぞなれば、阿弥陀如来の因中においてわれら凡夫の往生の行を定めたまふとき、凡夫のなすところの回向は自力なるがゆゑに成就しがたきによりて、阿弥陀如来の凡夫のために御身労ありて、この回向をわれらにあたへんがために回向成就したまひて、一念南無と帰命するところにて、この回向をわれら凡夫にあたへましますなり。かるがゆゑに、凡夫の方よりなさぬ回向なるがゆゑに、これをもつて如来の回向をば行者のかたよりは不回向とは申すなり。このいはれあるがゆゑに、「南無」の二字は帰命のこころなり、また発願回向のこころなり。

このいはれなるがゆゑに、南無と帰命する衆生をかならず摂取して捨てたまはざるがゆゑに、南無阿弥陀仏とは申すなり。これすなはち一念帰命の他力信心を獲得する平生業成の念仏行者といへるはこのことなりとしるべし。

かくのごとくこころえたらん人々は、いよいよ弥陀如来の御恩徳の深遠なることを信知して、行住坐臥に称名念仏すべし。これすなはち「憶念弥陀仏本願 自然即時入必定 唯能常称如来号 応報大悲弘誓恩」(正信偈)といへる文のこころなり。あなかしこ、あなかしこ。(御文章3帖目8通)



3帖目8通では、まず十劫安心についてその過ちを指摘されて、当流安心のすがたとは南無阿弥陀仏の体をよく心得ることであり、それが他力信心を得たということだと教えられています。早速聞いてみましょう。

されば「南無阿弥陀仏」の六字を善導釈していはく、「南無といふは帰命、またこれ発願回向の義なり」(玄義分)といへり。その意いかんぞなれば、阿弥陀如来の因中においてわれら凡夫の往生の行を定めたまふとき、凡夫のなすところの回向は自力なるがゆゑに成就しがたきによりて、阿弥陀如来の凡夫のために御身労ありて、この回向をわれらにあたへんがために回向成就したまひて、一念南無と帰命するところにて、この回向をわれら凡夫にあたへましますなり。かるがゆゑに、凡夫の方よりなさぬ回向なるがゆゑに、これをもつて如来の回向をば行者のかたよりは不回向とは申すなり。このいはれあるがゆゑに、「南無」の二字は帰命のこころなり、また発願回向のこころなり。このいはれなるがゆゑに、南無と帰命する衆生をかならず摂取して捨てたまはざるがゆゑに、南無阿弥陀仏とは申すなり。これすなはち一念帰命の他力信心を獲得する平生業成の念仏行者といへるはこのことなりとしるべし。

善導大師の御釈を引いて、南無というのは帰命であり、また発願回向であると仰っています。これはどういうことかというと、阿弥陀仏が因位の法蔵菩薩であったとき、我ら凡夫の往生の行を定められたのですが、阿弥陀仏は本願にて一切の諸行を選び捨て、称名念仏の一行を選び取られました。なぜ一切の諸行を選び捨てたのかというと、凡夫のなすところの回向は自力であるために成就しがたく、ほとんどの者が救いから漏れてしまうからです。これについては法然聖人が詳しく教えられています。

ゆゑに知りぬ、念仏は易きがゆゑに一切に通ず。諸行は難きがゆゑに諸機に通ぜず。
しかればすなはち一切衆生をして平等に往生せしめんがために、難を捨て易を取りて、本願となしたまへるか。
もしそれ造像起塔をもつて本願となさば、貧窮困乏の類はさだめて往生の望みを絶たん。しかも富貴のものは少なく、貧賤のものははなはだ多し。
もし智慧高才をもつて本願となさば、愚鈍下智のものはさだめて往生の望みを絶たん。しかも智慧のものは少なく、愚痴のものははなはだ多し。
もし多聞多見をもつて本願となさば、少聞少見の輩はさだめて往生の望みを絶たん。しかも多聞のものは少なく、少聞のものははなはだ多し。
もし持戒持律をもつて本願となさば、破戒無戒の人はさだめて往生の望みを絶たん。しかも持戒のものは少なく、破戒のものははなはだ多し。
自余の諸行これに准じて知るべし。 まさに知るべし、上の諸行等をもつて本願となさば、往生を得るものは少なく、往生せざるものは多からん。
しかればすなはち弥陀如来、法蔵比丘の昔平等の慈悲に催されて、あまねく一切を摂せんがために、造像起塔等の諸行をもつて往生の本願となしたまはず。ただ称名念仏一行をもつてその本願となしたまへり。(選択本願念仏集)


このようなわけで、阿弥陀仏は難行であり劣行である一切の諸行を選び捨て、至易最勝の行である念仏一行を本願の行、すなわち往生行として定められたのでした。そして阿弥陀仏が我ら凡夫のために御身労下さって、我々を往生成仏せしめるはたらきのある名号を成就され、その名号を一念南無と帰命するところに我ら凡夫に与えて下さるのです。ですから、凡夫の方からはなさぬ回向であるので、如来の回向を行者の方からは不回向と言うのです。こうしたことから、「南無」の二字は帰命のこころであり、また発願回向のこころであると教えられています。
こうして南無と帰命する衆生を必ず摂取してお捨てになりませんので、南無阿弥陀仏というのです。そしてこのように摂取不捨の利益にあずかった人のことを、一念帰命の他力信心を獲得する平生業成の念仏行者というのだと教えられています。

それから蓮如上人は称名報恩の義を教えられて筆を置かれていますが、やはり3帖目8通にも親鸞会流「三願転入の教え」や信前の人が必ず通らねばならないという道程、分からなければ何十年聞いていても仏教は分からないという因果の道理、他力の信心を得るための廃悪修善の勧めなどは一切教えられていません。我が身の後生に驚き立たねばならないとか、善をしなければ信仰(?)は進みませんとか、要門だから必ず通らなければならないのが19願であるとか、そういうことも一切書かれておりません。教えられているのは、他力信心のおもむきである南無阿弥陀仏のいわれについてです。これ以外書かれていないと言っても過言ではないでしょう。
定散二善等の自力諸善は、阿弥陀仏が本願の行にあらずと選び捨て、善導大師、法然聖人、親鸞聖人、蓮如上人は雑行と名づけて嫌われています。また、蓮如上人も3帖目8通で仰り、親鸞聖人も「行文類」念仏諸善比校対論にて

回不回向対、諸善は衆生が回向しなければ往生行にはならないが、念仏は如来回向の法であるから、衆生は回向する必要がない。

と教えられているように、浄土真宗は衆生が回向しなければならない諸善ではなく、如来回向の法である念仏を勧められているのです。その念仏(南無阿弥陀仏)のすがたをよく心得ることを他力の信心を得るというのですから、説かねばならないのは念仏のいわれであり、18願です。前にも述べたとおり、南無阿弥陀仏のいわれを聞かないことには信心決定も何もないのです。親鸞会ではそんなに大事な南無阿弥陀仏のいわれはそっちのけで、衆生が回向しなければ往生行にはならない諸善、捨てよと嫌われる雑行を勧めてばかりいるのですから、そんな教えを聞いている会員が救われないのは当然の話なのです。もし会員の皆さんが真に信心決定し往生成仏を求めているなら、そのような詮の抜けたえせ真宗の教えは捨てて、直ちに18願のこころ、南無阿弥陀仏のいわれを聞いて下さい。

蓮如上人と三願転入にどのような関係が??(17)

 そもそも、今日は鸞聖人(親鸞)の御命日として、かならず報恩謝徳のこころざしをはこばざる人、これすくなし。しかれどもかの諸人のうへにおいて、あひこころうべきおもむきは、もし本願他力の真実信心を獲得せざらん未安心の輩は、今日にかぎりてあながちに出仕をいたし、この講中の座敷をふさぐをもつて真宗の肝要とばかりおもはん人は、いかでかわが聖人の御意にはあひかなひがたし。しかりといへども、わが在所にありて報謝のいとなみをもはこばざらんひとは、不請にも出仕をいたしてもよろしかるべきか。

されば毎月二十八日ごとにかならず出仕をいたさんとおもはん輩においては、あひかまへて、日ごろの信心のとほり決定せざらん未安心のひとも、すみやかに本願真実の他力信心をとりて、わが身の今度の報土往生を決定せしめんこそ、まことに聖人報恩謝徳の懇志にあひかなふべけれ。また自身の極楽往生の一途も治定しをはりぬべき道理なり。これすなはち、まことに「自信教人信 難中転更難 大悲伝普化 真成報仏恩」(礼讃)といふ釈文のこころにも符合せるものなり。

それ、聖人御入滅はすでに一百余歳を経といへども、かたじけなくも目前において真影を拝したてまつる。また徳音ははるかに無常の風にへだつといへども、まのあたり実語を相承血脈してあきらかに耳の底にのこして、一流の他力真実の信心いまにたえせざるものなり。これによりて、いまこの時節にいたりて、本願真実の信心を獲得せしむる人なくは、まことに宿善のもよほしにあづからぬ身とおもふべし。もし宿善開発の機にてもわれらなくは、むなしく今度の往生は不定なるべきこと、なげきてもなほかなしむべきはただこの一事なり。

しかるにいま本願の一道にあひがたくして、まれに無上の本願にあふことを得たり。まことによろこびのなかのよろこび、なにごとかこれにしかん。たふとむべし、信ずべし。これによりて年月日ごろわがこころのわろき迷心をひるがへして、たちまちに本願一実の他力信心にもとづかんひとは、真実に聖人の御意にあひかなふべし。これしかしながら今日、聖人の報恩謝徳の御こころざしにもあひそなはりつべきものなり。あなかしこ、あなかしこ。(御文章3帖目9通)



このお手紙は文明七年五月二十八日に書かれたもので、二十八日といえば親鸞聖人の御命日です。蓮如上人は、今日に限って出仕をし、説法の講堂の座敷にいることが大事であると思っている人は、聖人の御意にかなわない。未だ信心を決定していない人も、すみやかに本願真実の他力信心を獲得して、わが身の今度の報土往生を決定することこそ、まことに聖人報恩謝徳の懇志にあいかなうことであり、また自身の極楽往生の一途も治定するのだと教えられています。
3帖目9通でも、親鸞会流「三願転入の教え」や信前の人が必ず通らねばならない道程、獲信のための(因縁としての)善の勧め、因果の道理、善知識への無条件服従、地獄の恐怖を煽る説き方などは書かれていません。ただ、注意しなくてはならない点があるのでいくつか申し上げておきます。

まずは宿善についてです。親鸞会では

宿善というのは過去世の仏縁のことであるが、過去に仏縁浅きものは現在において真剣に宿善を求めねばならない。でなければ宿善開発の時節到来ということはあり得ない。されば宿善は待つに非ず、求めるものである。(『白道燃ゆ』203頁)

などと主張し、しきりに宿善を求めよ、宿善を厚くせよと教えています。そして宿善の厚くなる方法として、聴聞、勤行、六度万行の実践などを挙げ、破邪顕正(いわゆる勧誘)は信前の人には最高の宿善だと言っています。それで、特に降誕会や報恩講といった大きな行事の前にはいつもより多くの目標参詣人数を決められ、家族や友人を誘ってくるように勧められました。それが家族や友人のためでもあり、また自分の救いにも連なってゆくと思っていたのです。これは間違いです。
宿善を求めよ、宿善を厚くせよという教えは浄土真宗にはありません。第一、親鸞聖人は「宿善」という言葉を使っておられません。蓮如上人は「宿善」という言葉は随所に使っておられますが、宿善を求めよとか、宿善を厚くせよとはどこにも教えられておりません。聴聞や勤行、財施や法施などが宿善になるからやりなさいとは教えられていないのです。
聴聞と勤行は、共に救いの法をお聞かせ頂くのであって、それが宿善になるとか、宿善になるからしなさいとは教えられていません。また、宿善が厚くなる順に聴聞、勤行、六度万行の実践という親鸞会の主張も根拠がありません。教えられているなら、親鸞会は根拠を示さねばなりません。
六度万行の実践については、弥陀の救いを求めて修する財施や法施等の自力諸行は雑行と名づけて嫌われています。会員さんは

「親鸞聖人の教えを伝えること(実態は親鸞会に多くの人を誘ってくること)が人間にできる最高の善であり、自利利他の実践である。相手を幸せにすると共に、それがそのまま自分の救いに連なってゆく」
「自力の善によって救われたり、救われる足しになったりはしないけれども、助かる縁手がかりのない自分と知らされ自力が捨たるには善をしなければならない」


と理解していることでしょう。こうした理解は、結局「救われるには善が必要」という考えで、救いと善を関係づけています。これを信罪福心といい、自力の計らいともいいます。親鸞聖人は自力の計らいを厳しく誡められていることは御存知の通りです。真宗で財施や法をお伝えすることは報謝であって、救いとは関係ありません。
このように相伝もなきえせ法門を説いているのが親鸞会です。献金や勧誘を勧め、組織拡大に利用できそうな言葉として高森会長が目をつけたのが「宿善」だったのです。その誤りが指摘され、それからは三願転入の御文と19願を利用した修善(主に献金、勧誘)の勧めがメインとなっていますが、真宗にあらざる邪義に変わりはありません。

次に、「本願の一道」ということについてです。縦と横の線により、横の道を通って縦の線にたどり着くという頭の会員には、この言葉が親鸞会流「三願転入の教え」を意味しているように思えるかもしれません。あるいは、必ず通らねばならない道程があるように思えるかもしれません。これは違います。「本願の一道」のすぐ後に「無上の本願」と書かれているように、これは18願のことです。蓮如上人は三願転入については一言も触れていませんし、獲信するためにはこのような道を通るのだということは教えられていません。縦と横の線による視覚的な思考操作によって会員はまんまと騙され、直ちに18願の教法を聞くことができないでいます。縦と横の線も高森会長のオリジナル教義であり、珍しい教えです。真宗で横の道に該当する教えはありません。親鸞会教義は何から何まで珍説ばかりです。

何も知らない素人が徐々に高森先生信心になっていき、その状態で聞くと、さも親鸞会の主張が正しいように思えます。しかし親鸞会教義の根拠は「高森会長の言葉」であって、「親鸞聖人の言葉」「蓮如上人の言葉」ではありません。さよなら親鸞会して、宗祖や蓮師のお言葉に直に触れている今は、そのことがハッキリ分かります。これ以上珍らしき法を弘め続けるならば、親鸞会は「浄土真宗」「親鸞聖人の教え」の看板をいい加減降ろして、高森会とでも名乗った方がよろしいかと思います。

蓮如上人と三願転入にどのような関係が??(18)

 そもそも、当流門徒中において、この六箇条の篇目のむねをよく存知して、仏法を内心にふかく信じて、外相にそのいろをみせぬやうにふるまふべし。しかればこのごろ当流念仏者において、わざと一流のすがたを他宗に対してこれをあらはすこと、もつてのほかのあやまりなり。所詮向後この題目の次第をまもりて、仏法をば修行すべし。もしこのむねをそむかん輩は、ながく門徒中の一列たるべからざるものなり。

一 神社をかろしむることあるべからず。
一 諸仏・菩薩ならびに諸堂をかろしむべからず。
一 諸宗・諸法を誹謗すべからず。
一 守護・地頭を疎略にすべからず。
一 国の仏法の次第非義たるあひだ、正義におもむくべき事。
一 当流にたつるところの他力信心をば内心にふかく決定すべし。
 一つには、一切の神明と申すは、本地は仏・菩薩の変化にてましませども、この界の衆生をみるに、仏・菩薩にはすこしちかづきにくくおもふあひだ、神明の方便に、仮に神とあらはれて、衆生に縁をむすびて、そのちからをもつてたよりとして、つひに仏法にすすめいれんがためなり。これすなはち「和光同塵は結縁のはじめ、八相成道は利物のをはり」(止観)といへるはこのこころなり。されば今の世の衆生、仏法を信じ念仏をも申さん人をば、神明はあながちにわが本意とおぼしめすべし。このゆゑに、弥陀一仏の悲願に帰すれば、とりわけ神明をあがめず信ぜねども、そのうちにおなじく信ずるこころはこもれるゆゑなり。

 二つには、諸仏・菩薩と申すは、神明の本地なれば、今の時の衆生は阿弥陀如来を信じ念仏申せば、一切の諸仏・菩薩は、わが本師阿弥陀如来を信ずるに、そのいはれあるによりて、わが本懐とおぼしめすがゆゑに、別して諸仏をとりわき信ぜねども、阿弥陀仏一仏を信じたてまつるうちに、一切の諸仏も菩薩もみなことごとくこもれるがゆゑに、ただ阿弥陀如来を一心一向に帰命すれば、一切の諸仏の智慧も功徳も弥陀一体に帰せずといふことなきいはれなればなりとしるべし。

 三つには、諸宗・諸法を誹謗することおほきなるあやまりなり。そのいはれすでに浄土の三部経にみえたり。また諸宗の学者も念仏者をばあながちに誹謗すべからず。自宗・他宗ともにそのとがのがれがたきこと道理必然せり。

 四つには、守護・地頭においてはかぎりある年貢所当をねんごろに沙汰し、そのほか仁義をもつて本とすべし。 五つには、国の仏法の次第当流の正義にあらざるあひだ、かつは邪見にみえたり。所詮自今以後においては、当流真実の正義をききて、日ごろの悪心をひるがへして、善心におもむくべきものなり。

 六つには、当流真実の念仏者といふは、開山(親鸞)の定めおきたまへる正義をよく存知して、造悪不善の身ながら極楽の往生をとぐるをもつて宗の本意とすべし。それ一流の安心の正義のおもむきといふは、なにのやうもなく、阿弥陀如来を一心一向にたのみたてまつりて、われはあさましき悪業煩悩の身なれども、かかるいたづらものを本とたすけたまへる弥陀願力の強縁なりと不可思議におもひたてまつりて、一念も疑心なく、おもふこころだにも堅固なれば、かならず弥陀は無碍の光明を放ちてその身を摂取したまふなり。かやうに信心決定したらんひとは、十人は十人ながらみなことごとく報土に往生すべし。このこころすなはち他力の信心を決定したるひとなりといふべし。

このうへになほこころうべきやうは、まことにありがたき阿弥陀如来の広大の御恩なりとおもひて、その仏恩報謝のためには、ねてもおきてもただ南無阿弥陀仏とばかりとなふべきなり。さればこのほかには、また後生のためとては、なにの不足ありてか、相伝もなきしらぬえせ法門をいひて、ひとをもまどはし、あまつさへ法流をもけがさんこと、まことにあさましき次第にあらずや。よくよくおもひはからふべきものなり。あなかしこ、あなかしこ。(御文章3帖目10通)



このお手紙で当流安心のおもむきが書かれているのは六箇条の篇目の中の六番目ですので、そこを見ていきたいと思います。

当流真実の念仏者といふは、開山(親鸞)の定めおきたまへる正義をよく存知して、造悪不善の身ながら極楽の往生をとぐるをもつて宗の本意とすべし。それ一流の安心の正義のおもむきといふは、なにのやうもなく、阿弥陀如来を一心一向にたのみたてまつりて、われはあさましき悪業煩悩の身なれども、かかるいたづらものを本とたすけたまへる弥陀願力の強縁なりと不可思議におもひたてまつりて、一念も疑心なく、おもふこころだにも堅固なれば、かならず弥陀は無碍の光明を放ちてその身を摂取したまふなり。かやうに信心決定したらんひとは、十人は十人ながらみなことごとく報土に往生すべし。このこころすなはち他力の信心を決定したるひとなりといふべし。

「造悪不善の身ながら極楽の往生をとぐる」というのが宗の本意です。弥陀の救いに私達の善悪は関係ありません。一流の安心の正義のおもむきというのは、まず「なにのやうもなく」ですから、私達の方で何かをしなければ助けて頂けないというものではないということです。微塵の善もできない極悪人と知らされなければならないとか、そう知らされるために善を目一杯しなければならないという条件はありません。親鸞会では二種深信の理解が間違っていますのでそのように勘違いをしている人が多数おられると思いますが、そうではないのです。二種深信については後ほど書きます。

「阿弥陀如来を一心一向にたのみたてまつりて」とは、阿弥陀仏の他、余善他仏にうつらないということです。親鸞会では他仏を念じるなとは言っても、余善にうつるなとは言いません。それでは善と称して献金と勧誘を積極的に勧める理由がなくなるからです。獲信と関係づけて善(活動)をしている限りは阿弥陀如来を一心一向にたのみたてまつることはできません。

「われはあさましき悪業煩悩の身なれども、かかるいたづらものを本とたすけたまへる弥陀願力の強縁なりと不可思議におもひたてまつりて」とは、弥陀を一心一向にたのんだ他力の信心を機と法の二種に開いたものです。前半部分が機の深信、後半部分が法の深信を顕しています。
機の深信とは簡単に言えば己の罪深きことということですが、これは我々のどのような善根功徳によっても生死を離れることができないと深信することです。

・一つには、決定して深く、自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、曠劫よりこのかたつねに没し、つねに流転して、出離の縁あることなしと信ず。(「信文類」引文)

機の深信について親鸞会では上の根拠しか出しません。しかも「罪悪生死の凡夫」を強調して、機の深信とは「微塵の善もできない極悪人」「地獄一定」と知らされることとしています。しかし、善導大師が機の深信を仰っている箇所はこの文だけではありません。もう一箇所あります。

・自身はこれ煩悩を具足せる凡夫、善根薄少にして三界に流転して火宅を出でずと信知す。(「信文類」引文)

こちらでは「善根薄少」と言われています。善根薄少なので三界を流転して火宅を出離することができないということで、無善根なのではありません。大事なのは二つの文に共通して「出離の縁あることなし」「三界に流転して火宅を出でず」とあるように、いずれの行にても生死を離れることができないという点です。これは善導大師や親鸞聖人のような方々も、我々のような粗末な凡夫も一緒です。対して、自分の罪深さについてどう思うかは罪悪観の問題なので人それぞれ異なります。善導大師や親鸞聖人のように自己の罪悪を厳しく見つめている方もありますし、そうでない人もあります。蓮如上人は3帖目10通では私達のことを「あさましき悪業煩悩の身」「かかるいたづらもの」と仰っていますが、自分の事をどれ位あさましいと思うか、どれ位悪業煩悩の身と思うか、どれ位いたずらものだと思うかは人によって違います。親鸞会では、救われた人が共通して同じ「地獄一定の自覚」を持つかように説いていますが、そうではないことを知って下さい。

法の深信とは、「阿弥陀仏は私を必ずお救い下さる」ということに疑いないことを言います。善導大師のお言葉では以下の通りです。

・二つには、決定して深く、かの阿弥陀仏の四十八願は衆生を摂受して、疑なく慮りなくかの願力に乗じて、さだめて往生を得と信ず。(「信文類」引文)
・いま弥陀の本弘誓願は、名号を称すること下至十声聞等に及ぶまで、さだめて往生を得しむと信知して、一念に至るに及ぶまで疑心あることなし。(同)


阿弥陀仏は本願にて、至心信楽をえた者を浄土往生させると誓っておられます。本願は「南無(我をたのめ)阿弥陀仏(必ず助ける)」の名号となって既に私の元に至り届いています。私はこれを計らいなく聞き受けるのみです。名号を聞くのが信です。

・「聞其名号」といふは、本願の名号をきくとのたまへるなり。きくといふは、本願をききて疑ふこころなきを「聞」といふなり。またきくといふは、信心をあらはす御のりなり。(一念多念証文)

「必ず往生させる」という本願力に身を委ねるので「さだめて往生を得と信ず」「さだめて往生を得しむと信知」と仰っています。ただ、極楽の様子が分かるようになるわけではありませんので、本願に救われても死後どのような世界へ生まれるかは分かりません。私はただ「必ず往生させる」と誓っておられる本願に身を任せるのみです。往生ほどの一大事は、阿弥陀仏の計らわれるところであって、凡夫の計らうべきことではありません。

・往生ほどの一大事、凡夫のはからふべきことにあらず、ひとすぢに如来にまかせたてまつるべし。すべて凡夫にかぎらず、補処の弥勒菩薩をはじめとして仏智の不思議をはからふべきにあらず、まして凡夫の浅智をや。かへすがへす如来の御ちかひにまかせたてまつるべきなり。これを他力に帰したる信心発得の行者といふなり。さればわれとして浄土へまゐるべしとも、また地獄へゆくべしとも、定むべからず。(執持鈔)

このように言うと、では『領解文』の「往生一定、御たすけ治定」というのはどうなんだ、極楽参り間違いなしとハッキリするのではないのかと質問する人があるかも知れません。これは、本願で「必ず往生させる」と誓われているからその通りに頂いているのであって、「極楽参り間違いなしとハッキリする」のではありません。極楽の様子が見えたりすればそう言えるでしょうが、そうではないため私の方から「極楽へ必ず往ける」とは言えないわけです。再度申し上げますが、必ず助ける本願力に身を任せるのが法の深信です。あとは阿弥陀仏に計らわれるまま、死後は阿弥陀仏が連れていって下さる処に生まれるだけです。たとえそこが地獄であろうと、元々迷いの世界から出られる私ではありませんので文句は言えません。私はひとえに阿弥陀仏におすがりするのみです。

機の深信、法の深信とは以上のようなことですから、別に矛盾したことではないことがお分かりでしょう。私には生死を出離できるようなものがないから、「必ず助ける」本願によって往生を得るのです。親鸞会では変な説明をするから分かりにくく、しかも間違ってしまうのです。

ちなみに親鸞会では上の『執持鈔』のお言葉を「三願転入を計らうな」という意味に改ざんしていますが、とんでもありません。19願は諸行往生を誓われた願ですから、19願の行を勧めるとは諸行往生を勧めることです。

・来迎は諸行往生にあり、自力の行者なるがゆゑに。臨終まつこと来迎たのむことは、諸行往生のひとにいふべし。真実信心の行人は摂取不捨のゆゑに正定聚に住す、正定聚に住するがゆゑに、かならず滅度に至る。かるがゆゑに臨終まつことなし、来迎たのむことなし。これすなはち第十八の願のこころなり。臨終をまち来迎をたのむことは、諸行往生を誓ひまします第十九の願のこころなり。(執持鈔)

十九願の善、定散二善を勧める親鸞会は諸行往生であり、実態は善もどきの善(献金、勧誘等)を勧めている新興宗教団体に過ぎないということがお分かりでしょう。平生業成と言いながら全く平生業成にあらざる教えを聞かされていることに、熱心な会員の皆さんはいつ気がつくのでしょうか。

さて、本文に戻ります。一念も疑心なく、おもふこころだにも堅固なれば、かならず弥陀は無碍の光明を放ちてその身を摂取したまふなり。かやうに信心決定したらんひとは、十人は十人ながらみなことごとく報土に往生すべし。このこころすなはち他力の信心を決定したるひとなりといふべし。と言われ、「必ず助ける」本願を疑いなく聞き受けた人は、弥陀の無碍の光明に摂取され、みなことごとく報土に往生すると教えられています。後は称名報恩の義を述べられ、どこにも親鸞会流「三願転入の教え」や必ず通らねばならない道程、19願や定散二善の勧めなどはありません。このように善知識方が教えられていない教えを「相伝もなきしらぬえせ法門」と言います。

さればこのほかには、また後生のためとては、なにの不足ありてか、相伝もなきしらぬえせ法門をいひて、ひとをもまどはし、あまつさへ法流をもけがさんこと、まことにあさましき次第にあらずや。よくよくおもひはからふべきものなり。

蓮如上人は、このように忠告なされています。親鸞会の皆さんは、今自分が聞いている教えは本当に正しいのか、その教えで本当に自分は救われるのか、真剣に問いかけて頂きたいと思います。何度聞いても自分は横の軌道にも乗っていないと感じるようであれば、今宵の後生には間に合いません。まだまだ善をして信仰を進めなければと感じているようであれば、今日命が終わってしまえば助かりません。人の命は実にはかないことを、今回の東日本大震災で身に染みて感じた人も多いはずです。どうか、よくよく思い計って頂きたいと思います。

蓮如上人と三願転入にどのような関係が??(19)

 そもそも、今月二十八日は開山聖人(親鸞)御正忌として、毎年不闕にかの知恩報徳の御仏事においては、あらゆる国郡そのほかいかなる卑劣の輩までも、その御恩をしらざるものはまことに木石にことならんものか。これについて愚老、この四五箇年のあひだは、なにとなく北陸の山海のかたほとりに居住すといへども、はからざるにいまに存命せしめ、この当国にこえ、はじめて今年、聖人御正忌の報恩講にあひたてまつる条、まことにもつて不可思議の宿縁、よろこびてもなほよろこぶべきものか。しかれば自国他国より来集の諸人において、まづ開山聖人の定めおかれし御掟のむねをよく存知すべし。

その御ことばにいはく、「たとひ牛盗人とはよばるとも、仏法者・後世者とみゆるやうに振舞ふべからず。また外には仁・義・礼・智・信をまもりて王法をもつて先とし、内心にはふかく本願他力の信心を本とすべき」よしを、ねんごろに仰せ定めおかれしところに、近代このごろの人の仏法知り顔の体たらくをみおよぶに、外相には仏法を信ずるよしをひとにみえて、内心にはさらにもつて当流安心の一途を決定せしめたる分なくして、あまつさへ相伝もせざる聖教をわが身の字ちからをもつてこれをよみて、しらぬえせ法門をいひて、自他の門徒中を経回して虚言をかまへ、結句本寺よりの成敗と号して人をたぶろかし、物をとりて当流の一義をけがす条、真実真実あさましき次第にあらずや。

これによりて、今月二十八日の御正忌七日の報恩講中において、わろき心中のとほりを改悔懺悔して、おのおの正義におもむかずは、たとひこの七日の報恩講中において、足手をはこび、人まねばかりに報恩謝徳のためと号すとも、さらにもつてなにの所詮もあるべからざるものなり。されば弥陀願力の信心を獲得せしめたらん人のうへにおいてこそ、仏恩報尽とも、また師徳報謝なんどとも申すことはあるべけれ。この道理をよくよくこころえて足手をもはこび、聖人をもおもんじたてまつらん人こそ、真実に冥慮にもあひかなひ、また別しては、当月御正忌の報恩謝徳の懇志にもふかくあひそなはりつべきものなり。あなかしこ、あなかしこ。(御文章3帖目11通)



このお手紙は親鸞聖人報恩講を前に書かれたものです。ここには、当時の人の仏法知り顔の様子と、蓮如上人が門徒の皆さんに弥陀願力の信心を獲得するようにお勧めになっていることが書かれています。「開山聖人の定めおかれし御掟」ということで、

外には仁・義・礼・智・信をまもりて王法をもつて先とし、内心にはふかく本願他力の信心を本とすべき

と教えられています。「仁・義・礼・智・信」とは、WikiArc『仁義礼智信』によれば

儒教に説く五種の倫理徳目。 五常のこと。
仁 他人に対する思いやり、従順、仁愛、愛情。また惻隠(そくいん)の情。
義 正義、平等、公正、清廉、義理、不善を恥じにくむこと。
礼 尊敬、礼儀、礼儀正しさ、権威に服従すること。
智 善悪を弁別する是非分別。
信 信義、誠、誠信、人間の交際における信義と誠実。


ということです。要は世間の倫理道徳を守って暮らしていきなさい、そして心には本願他力の信心をふかくたくわえなさいということです。倫理道徳を守ることは一見当たり前のようですが、なぜこのようなことをわざわざ仰るのでしょうか。これは、真宗はどのような悪人をも必ず救い摂る阿弥陀仏の本願他力という素晴らしい法を説いているのですが、その法を得手に聞いて、「どんな悪も往生の障りにならないのだから、やりたい放題悪を犯してもかまわない」というような邪義があったからです。この類の邪義は法然聖人の時代から既に存在していました。親鸞聖人もお手紙の中で繰り返し注意をされています。
その人がどういう教えを聞いているか、その教えは素晴らしいのかどうなのかということを、他人はその人の言動で判断します。その人が立派な言動をしていれば、それを見た人はその人が聞いている教えを聞いてみたいと思うか、そこまではいかなくてもその教えを悪く言うことはないでしょう。しかし、その人の言動がひどい場合、それを見た人はその人が聞いている教えを聞かないばかりか、とんでもない教えだと非難しかねません。そして後者の場合の影響力はとても大きいため、

たとひ牛盗人とはよばるとも、仏法者・後世者とみゆるやうに振舞ふべからず

とまで言われているのです。例えば、親鸞会は大学では偽装勧誘を繰り返し、きちんとした会計報告をしません。活動が忙しく、学生は学業が疎かになりがちです。就職もせずに活動している卒業生も少なくありません。また、『週刊ダイヤモンド』(2010/11/13特大号)で取り上げたように、会の職員に不当な契約を結ばせています。このような団体が浄土真宗とか、親鸞聖人の教えなどと名乗っていたら、浄土真宗、親鸞聖人の教えを遠ざける縁になりはしないでしょうか。親鸞会は浄土真宗とは関係ない団体だと分かっている人はいいですが、子供が会員である親御さんなどは、新興宗教を嫌って辞めさせるか、言っても無駄だと傍観するかして、一般の人よりも浄土真宗をよく思わない可能性が高いと思います。

外相には仏法を信ずるよしをひとにみえて、内心にはさらにもつて当流安心の一途を決定せしめたる分なくして、あまつさへ相伝もせざる聖教をわが身の字ちからをもつてこれをよみて、しらぬえせ法門をいひて、自他の門徒中を経回して虚言をかまへ、結句本寺よりの成敗と号して人をたぶろかし、物をとりて当流の一義をけがす条、真実真実あさましき次第にあらずや。

これも親鸞会の体たらくがよく当てはまります。表向きは、因果の道理、善の勧め、親のこころ、なぜ生きる、人生の目的などと言って、仏教を信じている様子を見せています。ところが、実態は善と言っても推進されるのは主に献金と勧誘、そして高森会長や上司の指示に無条件に従うロボットになることです。親を親鸞会に誘い、熱心な会員にすることが最高の親孝行だと勘違いし、心配する親のこころを無視しています。人生の目的が現在完成するなどと言って、皆無と言っていいほど誰も現在完成していません。「内心にはさらにもつて当流安心の一途を決定せしめたる分なくして」と蓮如上人が仰っている通りです。
親鸞聖人の教えには、親鸞会流「三願転入の教え」、信前の人が必ず通らねばならない道程、獲信のための(因縁としての)修善の勧め、一切衆生必堕無間説、善知識の指示への無条件服従など、親鸞会で教えているほとんどは存在しません。つくづく「あまつさへ相伝もせざる聖教をわが身の字ちからをもつてこれをよみて、しらぬえせ法門をいひて、自他の門徒中を経回して虚言をかまへ」というお言葉がよく当てはまる団体です。
そして、講師部員は「尊い宿善になる」「後生の一大事の解決のために」「高森先生の御恩にお応えしましょう」などと言って会員をたぶらかし(たぶらかしている自覚のない人がほとんどですが)、目標顕正人数、目標財施額達成のために勧誘を勧めたり、何度も何度も財施を募り直したりしています。親鸞会は本寺ではありませんが、「結句本寺よりの成敗と号して人をたぶろかし、物をとりて当流の一義をけがす条、真実真実あさましき次第にあらずや」と蓮如上人が言われているのはまさに親鸞会のことではないかと思えます。

たとえ毎回欠かさず富山へ行き、報恩講には皆が1日1万円のお布施を出すからと1日1万円を出し、人真似ばかりに活動していても、弥陀願力の信心を獲得しなかったら何の所詮もありません。しかし、18願のこころ、南無阿弥陀仏のいわれを聞けと教えられているのに、現在の親鸞会ではそれは説かれず、19願諸行往生の勧め一辺倒です。このような「しらぬえせ法門」をいくら聞いて従っていても今度の一大事の往生は遂げられません。会員の皆さんは早くえせ法門をえせ法門と正見して、直ちに救う本願の仰せを聞いて頂きたいと思います。そして本当の仏恩報尽、師徳報謝をして下さい。

蓮如上人と三願転入にどのような関係が??(20)

 そもそも、いにしへ近年このごろのあひだに、諸国在々所々において、随分、仏法者と号して法門を讃嘆し勧化をいたす輩のなかにおいて、さらに真実にわがこころ当流の正義にもとづかずとおぼゆるなり。そのゆゑをいかんといふに、まづかの心中におもふやうは、われは仏法の根源をよく知り顔の体にて、しかもたれに相伝したる分もなくして、あるいは縁の端、障子の外にて、ただ自然とききとり法門の分斉をもつて、真実に仏法にそのこころざしはあさくして、われよりほかは仏法の次第を存知したるものなきやうにおもひはんべり。これによりて、たまたまも当流の正義をかたのごとく讃嘆せしむるひとをみては、あながちにこれを偏執す。すなはちわれひとりよく知り顔の風情は、第一に驕慢のこころにあらずや。

かくのごときの心中をもつて、諸方の門徒中を経回して聖教をよみ、あまつさへわたくしの義をもつて本寺よりのつかひと号して、人をへつらひ虚言をかまへ、ものをとるばかりなり。これらのひとをば、なにとしてよき仏法者、また聖教よみとはいふべきをや。あさまし、あさまし。なげきてもなほなげくべきはただこの一事なり。これによりて、まづ当流の義をたて、ひとを勧化せんとおもはん輩においては、その勧化の次第をよく存知すべきものなり。

 それ、当流の他力信心のひととほりをすすめんとおもはんには、まづ宿善・無宿善の機を沙汰すべし。さればいかに昔より当門徒にその名をかけたるひとなりとも、無宿善の機は信心をとりがたし。まことに宿善開発の機はおのづから信を決定すべし。されば無宿善の機のまへにおいては、正雑二行の沙汰をするときは、かへりて誹謗のもとゐとなるべきなり。この宿善・無宿善の道理を分別せずして、手びろに世間のひとをもはばからず勧化をいたすこと、もつてのほかの当流の掟にあひそむけり。

されば『大経』(下)にのたまはく、「若人無善本不得聞此経」ともいひ、「若聞此経 信楽受持 難中之難 無過斯難」ともいへり。また善導は「過去已曾 修習此法 今得重聞 則生歓喜」(定善義)とも釈せり。いづれの経釈によるとも、すでに宿善にかぎれりとみえたり。しかれば宿善の機をまもりて、当流の法をばあたふべしときこえたり。

このおもむきをくはしく存知して、ひとをば勧化すべし。ことにまづ王法をもつて本とし、仁義を先として、世間通途の義に順じて、当流安心をば内心にふかくたくはへて、外相に法流のすがたを他宗・他家にみえぬやうにふるまふべし。このこころをもつて当流真実の正義をよく存知せしめたるひととはなづくべきものなり。あなかしこ、あなかしこ。(御文章3帖目12通)



このお手紙は親鸞会では高森会長によってねじ曲げられ、献金や勧誘を勧める材料にされてしまっています。

「無宿善の機は信心をとりがたし」
「いづれの経釈によるとも、すでに宿善にかぎれりとみえたり」
とあるから、信心獲得するのに如何に宿善が大事であるかが分かる。宿善というのは過去世の仏縁のことであるが、過去に仏縁浅きものは現在において真剣に宿善を求めねばならない。でなければ宿善開発の時節到来ということはあり得ない。されば宿善は待つに非ず、求めるものである。


というような調子で、会員は宿善として聴聞やおつとめ、財施(献金)、破邪顕正(勧誘)等を修せよと教えられているのです。これは甚だしい間違いです。蓮如上人は、信心獲得するために宿善を厚くせよとか、求めよとは一切教えられておりません。では、このお手紙で「宿善」という言葉を用いて、蓮如上人はどういうことを仰っているでしょうか? これから見ていきたいと思います。

これによりて、まづ当流の義をたて、ひとを勧化せんとおもはん輩においては、その勧化の次第をよく存知すべきものなり。それ、当流の他力信心のひととほりをすすめんとおもはんには、まづ宿善・無宿善の機を沙汰すべし。

蓮如上人は当流親鸞聖人の教えを伝えようとする人に、その心得として「宿善・無宿善の機を沙汰せよ」と仰っていることが分かります。人に教えを伝える時の心得であって、他力の信心を獲るためにどうせよと仰っているところではないのです。ではどうしてこのようなことを仰っているのか、続きを見てみます。

さればいかに昔より当門徒にその名をかけたるひとなりとも、無宿善の機は信心をとりがたし。まことに宿善開発の機はおのづから信を決定すべし。されば無宿善の機のまへにおいては、正雑二行の沙汰をするときは、かへりて誹謗のもとゐとなるべきなり。この宿善・無宿善の道理を分別せずして、手びろに世間のひとをもはばからず勧化をいたすこと、もつてのほかの当流の掟にあひそむけり。

当流の教えは正雑二行の沙汰をします。いわゆる、往生行としては念仏一行を立て、六度万行や定散二善等の諸行諸善は雑行と名づけてこれを嫌うというものです。これは阿弥陀仏が18願において一切の諸行を選び捨て、念仏一行を選び取られたことによるからです。この18願の教えを受け入れられない人(無宿善の機)には、当流の教えを説いてもかえって誹謗するもといとなります。例えば、聖道門の人は善悪因果の道理に従い、自力諸行を修めてさとりの完成を目指しています。そのような人に、その自力諸行は阿弥陀仏が選び捨てられた雑行だから捨てよ、そして選び取られた妙行である念仏一行を専らにせよという当流の教えを説いても、とても理解しがたいでしょう。また、「どんな悪人も漏らさず救う」「救いに我々の善悪は関係ない」と聞けば、「どんな悪を造ってもよいのか」「悪にほこっていてよいのか」などと親鸞会みたいなことを言う人もあるかも知れません。このように教えを受け入れられない人もありますし、それだけではなく誹謗する人も出てきますから、誰にでもむやみやたらに当流の教えを説いてはならないということです。

されば『大経』(下)にのたまはく、「若人無善本不得聞此経」ともいひ、「若聞此経 信楽受持 難中之難 無過斯難」ともいへり。また善導は「過去已曾 修習此法 今得重聞 則生歓喜」(定善義)とも釈せり。いづれの経釈によるとも、すでに宿善にかぎれりとみえたり。しかれば宿善の機をまもりて、当流の法をばあたふべしときこえたり。このおもむきをくはしく存知して、ひとをば勧化すべし。

それから経、釈のお言葉を引かれて、18願の教えを受け入れられる人、すなわち宿善の機に当流の法を与えなさいと教えられています。あくまで人に教えを説く時の心得であって、宿善を求めよとか、厚くせよという教えはどこにも見当たりません。この後は、

ことにまづ王法をもつて本とし、仁義を先として、世間通途の義に順じて、当流安心をば内心にふかくたくはへて、外相に法流のすがたを他宗・他家にみえぬやうにふるまふべし。このこころをもつて当流真実の正義をよく存知せしめたるひととはなづくべきものなり。

で終了していますから、親鸞会教義は断章主義の創作教義だということが分かります。文章の前後を読めば、如何に高森会長が一部を切り取って教義を創作し、真宗教義をねじ曲げているかということが分かりますね。

3帖目12通にも宿善を厚くせよという教義は勿論、親鸞会流「三願転入」の教え、獲信までに必ず通らねばならない道程、一切衆生必堕無間という教義、善知識に無条件服従せよという教義、獲信のために因果の道理を説いて廃悪修善を勧めるという教義はことごとく存在しません。親鸞会は相伝もなきえせ法門を説いて人を騙し、会員に献金と勧誘をやらせてものをとるばかりです。そして親鸞会の説く所が正しくそれ以外は全て間違いのように会員に吹き込んでいます。これはまさに「われひとりよく知り顔の風情」であります。

随分、仏法者と号して法門を讃嘆し勧化をいたす輩のなかにおいて、さらに真実にわがこころ当流の正義にもとづかずとおぼゆるなり。そのゆゑをいかんといふに、まづかの心中におもふやうは、われは仏法の根源をよく知り顔の体にて、しかもたれに相伝したる分もなくして、あるいは縁の端、障子の外にて、ただ自然とききとり法門の分斉をもつて、真実に仏法にそのこころざしはあさくして、われよりほかは仏法の次第を存知したるものなきやうにおもひはんべり。これによりて、たまたまも当流の正義をかたのごとく讃嘆せしむるひとをみては、あながちにこれを偏執す。すなはちわれひとりよく知り顔の風情は、第一に驕慢のこころにあらずや。かくのごときの心中をもつて、諸方の門徒中を経回して聖教をよみ、あまつさへわたくしの義をもつて本寺よりのつかひと号して、人をへつらひ虚言をかまへ、ものをとるばかりなり。これらのひとをば、なにとしてよき仏法者、また聖教よみとはいふべきをや。あさまし、あさまし。なげきてもなほなげくべきはただこの一事なり。

と蓮如上人が言っているのは、高森会長に対してではないかと私には思えてなりません。まったく真宗にあらざる教えを正しいと信じ込まされ、善と称して献金と勧誘をやらされ、聴聞と言っても善の話ばかりで聴聞になっていない現実を、会員の皆さんは今こそ受け止めるべきだと思います。
プロフィール

淳心房&しゃあ

Author:淳心房&しゃあ
(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


(しゃあ)
平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
singikensho@yahoo.co.jp
(スパム防止のため@を大文字にしてあります。メール送信時は小文字に変えて下さい。)

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