親鸞会会員の誤解―方便だからやらなければならない(4)

定善の行、中でも第九真身観の観仏三昧行が成就したら、すなわち阿弥陀仏及び諸仏を見たてまつることができ、行者は勝れた利益を得ることができます。ところが『観経』流通分に至って釈尊は、観仏の法を嫌って阿難に授けず、念仏の法を選んで阿難に授けられています。

しかるをいま『観経』の流通分に至りて、釈迦如来、阿難に告命して往生の要法を付属流通せしむるちなみに、観仏の法を嫌ひてなほ阿難に付属せず、念仏の法を選びてすなはちもつて阿難に付属したまふ。観仏三昧の法、なほもつて付属したまはず。いかにいはんや日想・水想等の観においてをや。しかればすなはち十三定観は、みなもつて付属せざるところの行なり。しかるに世の人、もし観仏等を楽ひて念仏を修せざるは、これ遠く弥陀の本願を乖くのみにもあらず、またこれ近くは釈尊の付属に違ふ。行者よろしく商量すべし。念仏付属章

定善十三観は全て付属されなかった行であるから、もし観仏を行じて念仏しない者は遠く弥陀の本願に背くだけでなく、近くは釈尊の念仏一行を付属された本意にもたがうというのです。であるから、行を修める者はよく考えをめぐらすべきであると教えられています。
このことからも、定散二善を根拠に善を勧める親鸞会が、釈迦弥陀二尊の勧めに反することを教えていることは明白です。尤も、『観経』に忠実に定散二善を説いて勧めるならまだしも、言葉のみを利用し実際に主立って勧めていることは会への献金・勧誘、会長や上司への無条件服従ですから、親鸞会は浄土真宗どころか、浄土他流でもなく、単なる新興宗教であり外道なんですけどね。

次に、散善についても、これを修める行者はすなわち往生すると教えられています。ところが、定善に同じく散善十一行も付属流通されていません。釈尊はただ念仏一行を阿難に授けて後世に弘めようとされています。

つらつら経の意を尋ぬれば、この諸行をもつて付属流通せず。ただ念仏の一行をもつて、すなはち後世に付属流通せしむ。

この理由が、直後の以下のお言葉です。

知るべし、釈尊の諸行を付属したまはざる所以は、すなはちこれ弥陀の本願にあらざるゆゑなり。また念仏を付属する所以は、すなはちこれ弥陀の本願のゆゑなり。いままた善導和尚、諸行を廃して念仏に帰する所以は、すなはち弥陀の本願たる上、またこれ釈尊の付属の行なり。

釈尊が定善・散善の諸行を付属されなかったのは弥陀の本願ではないから、また念仏を付属されたのは弥陀の本願だからだというのです。善導大師が諸行を廃して念仏に帰依されたのも、それが弥陀の本願であり、釈尊付属の行だからだと知りなさいと教えられています。法然聖人が弥陀の本願ではないと断言されている定散二善を独自の善の勧めに利用しているのですから、親鸞会は浄土宗でも浄土真宗でもありません。団体名から「浄土真宗」「親鸞」を外し、高森教とでも名乗るのが相応しいと思います。

ゆゑに知りぬ、諸行は機にあらず時を失す。念仏往生は機に当り、時を得たり。感応あに唐捐せんや。まさに知るべし、随他の前にはしばらく定散の門を開くといへども、随自の後には還りて定散の門を閉づ。一たび開きて以後永く閉ぢざるは、ただこれ念仏の一門なり。弥陀の本願、釈尊の付属、意これにあり。行者知るべし。

「この故に知られる。念仏以外の諸善は根機に適せず、末法の今の時に合わない。 対して念仏往生は根機に適し今の時にかなって、 その承ける利益は決して空しくない。 そこでよく知るべきである、 他に随って説く場合には、 しばらく定散諸行の門を開かれるけれども、 仏自らの本意を説かれた上は、 かえって定散諸行の門は閉じられるのである。 一たび開かれて後、 永遠に閉じられないのは、 ただ念仏の一門のみである。 弥陀の本願や釈尊の付属の思し召しはここにある。 行者はまさに知るべきである」と仰っています。

この「随他」、「随自」というのが親鸞会会員の誤解―方便だからやらなければならない(1)で示したように

随他」=随他意の法門権仮方便
随自」=随自意の法門善巧方便

です。未熟な機を導くために暫く仮に開かれたが、ひとたび機が真実の法門に入ったならば不要となり還りて廃せられるのが定散諸行の法門です。私達は弥陀の本願が真実であると教えられ、弥陀の本願によって救われよう、救われたいと既に願っているわけですから、今さら定散諸善の法門からやらなければならない道理がないのです。『観経』十九願の教えを「浄土の要門」と言われ、これを親鸞会では重要な教え、必要な教え、必ず通らなければならないかなめの教え等と説明して邪義を吹き込んでいますが、

浄土の要門」=「浄土の雑行

ということですから、定散諸善を勧めることは雑行を勧めることに他なりません。私達は弥陀の本願にあらず、付属されなかった定散二善ではなく、弥陀の本願であり、ただ一行付属された念仏を往生の行として立てるべきなのです。これが遠くは弥陀の本願のお心に合いかない、近くは釈尊が念仏一行を付属された本意に沿うことにあり、また法然聖人・親鸞聖人方のお勧めに順うことになるのです。もしも修善が我々の獲信・往生に必要不可欠なら、釈尊が定散諸善を付属されないわけがないではありませんか。『選択本願念仏集』を読んで少し考えを巡らせばすぐに分かることです。であるから、高森会長が講師部員などに七祖聖教を読むことを禁じたのも至極当然なことです。騙しの手口が分かってしまいますからね。

言葉だけ見れば「善の勧め」とは良い事のように思えますが、それは釈迦・弥陀・善知識の善巧方便に背くことであり、実態は現世利益をちらつかせて組織拡大に都合の良いことを勧めているだけだということに、会員の皆さんは早く気が付いて下さい。



【参照】
選択集(現代語版)

親鸞会会員の誤解―方便だからやらなければならない(5)

法然聖人は『選択集』において様々に諸善と念仏を比較し、諸善を捨てて念仏一行に帰依して往生を願えとそればかり教えられています。尤も諸行による利益を否定されてはいませんが、末法の今の世においては如説に修行する者がなく、さとり得る者がいないため、その利益は空しいのです。一方で念仏による利益は末法、法滅に至っても決して空しくなく、いずれの時にも通じる法門であります。

またこのなかに「遐代」とは、『双巻経』(大経)の意によらば、遠く末法万年の後の百歳の時を指す。これすなはち遐きを挙げて邇きを摂するなり。しかれば、法滅の後なほもつてしかなり。いかにいはんや末法をや。末法すでにしかり。いかにいはんや正法・像法をや。ゆゑに知りぬ、念仏往生の道は正像末の三時、および法滅百歳の時に通ず。随自随他

正法・像法の時機ならともかく、また我々が如実に定善・散善の行を修めることができる善人や聖者ならともかく、末法の今の世において、我ら末代不善の凡夫が迷いを離れて往生する道はただ一つ、念仏往生の道以外にありません。その念仏往生の道、すなわち18願の世界に入るために定散二善などの諸行諸善を勧められた箇所など浄土真宗には存在しないのです。獲信・往生に諸善が絶対必要なら、念仏と諸善はセットで付属されていなければおかしいですし、「定散は廃せんがために説き」「釈尊の諸行を付属したまはざる所以は、すなはちこれ弥陀の本願にあらざるゆゑなり」などと教えられるわけがありません。

さて『選択集』では、釈尊が定散の諸行を付属せず、ただ念仏一行を阿難に授けられた文を挙げた後、

「念仏をもって多善根とし、 雑善をもって少善根とせられる文」
「六方恒沙の諸仏は余行を証誠せず、 ただ念仏だけを証誠せられる文」
「六方の諸仏が、(諸善の行者ではなく)念仏の行者を護念される文」

と次々挙げられていきます。獲信・往生のためには諸善を廃して念仏一行に依れと、これでもかこれでもかと示されます。在りもしない横の道をでっち上げ、これでもかこれでもかと廃された諸善を勧める高森教とは真逆です。そして、

釈迦如来、弥陀の名号をもつて慇懃に舎利弗等に付属したまふ文

へと続きます。『阿弥陀経』及び善導大師の文を挙げ、それから浄土三部経は諸行の中に念仏を選択して念仏を根幹とするとの私釈を展開されます。まず『大無量寿経』において諸行の中に念仏を選択されていることを明かされ、次に『観無量寿経』でも念仏一つを選択されたことを教えられています。

次に『観経』のなかにまた三の選択あり。一には選択摂取、二には選択化讃、三には選択付属なり。
一に選択摂取といふは、『観経』のなかに定散の諸行を説くといへども、弥陀の光明ただ念仏の衆生を照らして、摂取して捨てたまはず。ゆゑに選択摂取といふ。
二に選択化讃といふは、下品上生の人、聞経・称仏の二行ありといへども、弥陀の化仏、念仏を選択して、「汝称仏名故諸罪消滅我来迎汝」(観経)とのたまふ。ゆゑに選択化讃といふ。
三に選択付属といふは、また定散の諸行を明かすといへども、ただ独り念仏の一行を付属す。ゆゑに選択付属といふ。
結勧流通

選択摂取とは、弥陀の光明はただ念仏の衆生を照らし、摂取してお捨てにならないということです。ということは、弥陀の光明は定散の諸行を修める者、余の雑業の行者を照らし摂めないということです。
選択化讃とは、いろいろな経の題名を聞くことと仏名を称えること(念仏)では、弥陀の化仏は念仏を選択して 「汝は仏名を称えたから、 もろもろの罪が消滅し、 われは来て汝を迎える」といわれてあるということです。
選択付属とは、定散の諸行が説かれてあるけれども、 ただ念仏の一行だけを付属されていることです。

また『阿弥陀経』では、念仏往生を説くに至って六方恒沙の諸仏がこれを証誠されていることを教えられています。沢山の経典の中に多く往生の諸行を説かれるけれども、諸仏はこれを証誠されていないというのです。


しかればすなはち釈迦・弥陀および十方のおのおのの恒沙等の諸仏、同心に念仏の一行を選択したまふ。余行はしからず。ゆゑに知りぬ、三経ともに念仏を選びてもつて宗致となすのみ。

阿弥陀仏、釈尊、十方恒沙の諸仏は「念仏の一行を選択」されています。「余行はしからず」です。『大無量寿経』『阿弥陀経』『観無量寿経』の三経ともに諸善ではなく、念仏を選んでその要点とされているのです。

方便だからやらなければならない

として親鸞会が勧めているのは教義上でも「しからず」と三仏の勧めがない「余行」すなわち「諸善」であり、実態は親鸞会への献金・勧誘、会長及び上司への無条件服従などの「善もどきの善」を主とする活動であります。敢えて「やらなければならない」というならそれは三仏が勧められる「念仏の一行」です。ですから、次の有名な三選の文にはこのようにあります。

はかりみれば、それすみやかに生死を離れんと欲はば、二種の勝法のなかに、しばらく聖道門を閣きて選びて浄土門に入るべし。浄土門に入らんと欲はば、正雑二行のなかに、しばらくもろもろの雑行を抛てて選びて正行に帰すべし。正行を修せんと欲はば、正助二業のなかに、なほ助業を傍らにして選びて正定をもつぱらにすべし。正定の業とは、すなはちこれ仏名を称するなり。名を称すれば、かならず生ずることを得。仏の本願によるがゆゑなり。

【現代語訳】
「そもそも、速やかに迷いの世界を離れようと思うなら、二種のすぐれた法門のうちで、聖道門をさしおき、浄土門に入れ。浄土門に入ろうと思うなら、正行と雑行の中で、雑行を捨てて正行に帰せ。正行を修めようと思うなら、正定業と助業の中で、助業を傍らにおいておきもっぱら正定業を修めよ。正定業とは、すなわち仏の名号を称えることである。称名するものは必ず往生を得る。阿弥陀仏の本願によるからである。

親鸞聖人はこの三選の文を「行文類」に引文し、浄土真実の行はただ念仏の一行であり、南無阿弥陀仏とは「我にまかせよ、必ず救う」という本願招喚の勅命であること、これをそのまま信じ受け容れ念仏する者は必ず往生を得ることを明かされています。このように、親鸞聖人が法然聖人から承けられた教えは、念仏の教え、南無阿弥陀仏以外にはなかったのです。


ところが、親鸞会ではどうでしょうか? 本尊こそ「南無阿弥陀仏」ですが、会員の誰が南無阿弥陀仏の六字のいわれを心得て念仏しているでしょうか? 念仏ほど尊いものはない、念仏のみぞまことと信じて念仏しているでしょうか? 念仏より信心が大事だと念仏を軽視して、ありもしないスーパー信心を追い求めることに必死になっていませんか? 信心は大事なことに違いありませんが、その信心とは

自分の修した善程度では出離できず、「名号を称すること下至十声聞等」によって往生できると信知したこと
「名号をとなへんものをば極楽へ迎へんと誓はせたまひたるを、ふかく信じ」たこと
念仏を称えて往生できると深く信じたこと


であり、要は「往生には南無阿弥陀仏しかない」という信心です。念仏とは切り離せない、一つであって二つ、二つであって一つのものなのです。だから、「ただ念仏さえ称えていれば死んだら極楽、死んだら仏」なんですよ。「仏の本願によるがゆゑなり」これが阿弥陀仏の本願なんですから。これ自体は間違っていないんです。これに疑い無いのが「信心」であり、この「信心」を抜きにただ口に称名さえすれば助かると思って念仏しているのを「おぼつかなきことなり」と言われているだけです。

これを高森会長は称名正因の異安心だと非難し、

信心が大事だ。信心は二種深信だ。二種深信とは地獄一定と極楽一定が同時にハッキリすること。
信心を獲たら絶対の幸福になる。無碍の一道に出る。「人間に生まれてよかった」「よくぞ人間に生まれたものぞ」と生命の歓喜が起きる。これが人生の目的だ。そこまで光に向かって進め。


と説いているでしょう? 念仏はどこへ行ったんですか? 念仏は信心のオマケ、信前の念仏は信心獲得するのに無意味、との異安心から、とにかく信心獲得が大事、それには聴聞、破邪顕正と会で推進される活動に勤しんで、念仏は聴聞の前後かお勤めの時に辛うじて称える程度、完全に置き去りにされているというのが実態ではありませんか? 「信仰が進めば念仏称えずにおれなくなってくるのです」とか言いますが、それはいつの話ですか? 私が会員だった時は、ついにそういう人には会えなかったです。

深いマインドコントロール下にある会員さんは到底理解不能でしょうが、念仏の教えこそが浄土真宗です。念仏をおろそかにし、ありもしない信心を求めて狂奔し、念仏を称える人を「あれは称名正因だ」としか思えないなら、もはや浄土真宗の人とは言えないでしょう。「高森教信者」と名乗るのが相応しいかと思います。



【参照】
『飛雲』”親鸞聖人の教えの根基”の話をしない高森顕徹会長

親鸞会会員の誤解―方便だからやらなければならない(6)

親鸞聖人が法然聖人から承けられた教えは、念仏の教え、南無阿弥陀仏以外にはありませんでした。そのことを聖人は「後序」にて、

しかるに愚禿釈の鸞、建仁辛酉の暦、雑行を棄てて本願に帰す。元久乙丑の歳、恩恕を蒙りて『選択』を書しき。同じき年の初夏中旬第四日に、「選択本願念仏集」の内題の字、ならびに「南無阿弥陀仏 往生之業 念仏為本」と「釈綽空」の字と、空の真筆をもつて、これを書かしめたまひき。同じき日、空の真影申し預かりて、図画したてまつる。同じき二年閏七月下旬第九日、真影の銘は、真筆をもつて「南無阿弥陀仏」と「若我成仏 十方衆生 称我名号 下至十声 若不生者 不取正覚 彼仏今現在成仏 当知本誓重願不虚 衆生称念必得往生」(往生礼讃 七一一)の真文とを書かしめたまふ。
(中略)
『選択本願念仏集』は、禅定博陸[月輪殿兼実、法名円照]の教命によりて撰集せしめるところなり。真宗の簡要、念仏の奥義、これに摂在せり。見るもの諭り易し。まことにこれ希有最勝の華文、無上甚深の宝典なり。年を渉り日を渉りて、その教誨を蒙るの人、千万なりといへども、親といひ疎といひ、この見写を獲るの徒、はなはだもつて難し。しかるにすでに製作を書写し、真影を図画せり。これ専念正業の徳なり、これ決定往生の徴なり。よりて悲喜の涙を抑へて由来の縁を註す。


【現代語訳】
ところでこの愚禿釈の親鸞は、建仁元年に自力の行を捨てて本願に帰依し、元久二年、源空上人のお許しをいただいて『選択集』を書き写した。同年四月十四日には、「選択本願念仏集」という内題の文字と、「南無阿弥陀仏 浄土往生の正しい行は、この念仏にほかならない」というご文、並びに「釈綽空」というわたしの名を、源空上人が自ら書いてくださった。また同じ日に、源空上人の絵像をお借りしてそれを写させていただいた。同じ元久二年の閏七月二十九日、その写した絵像に銘として、「南無阿弥陀仏」の六字の名号と、「本願には、<わたしが仏になったとき、あらゆる世界の衆生がわたしの名号を称え、わずか十回ほどの念仏しかできないものまでもみな浄土に往生するであろう。もしそうでなければわたしは仏になるまい>と誓われている。その阿弥陀仏は今現に仏となっておられるから、重ねて誓われたその本願はむなしいものではなく、衆生が念仏すれば、必ず浄土に往生できると知るべきである」と述べられている『往生礼讃』の真実の文を、源空上人が自ら書いてくださった。
(中略)
『選択集』は、関白九条兼実公の求めによって著されたものである。浄土真実の教えのかなめ、他力念仏の深い思召しがこの中におさめられていて、拝読するものは容易にその道理に達することができる。まことに、たぐいまれなすぐれたご文であり、この上なく奥深い教えが説かれた尊い書物である。長い年月のうちに、源空上人の教えを受けた人は数多くいるが、親疎を問わず、これを書き写すことを許されたものはごくわずかしかいない。それにもかかわらず、わたしは、すでにその書物を書き写させていただき、その絵像も写させていただいた。これは念仏の道を歩んできたことによる恵みであり、往生が定まっていることのしるしである。よって、喜びの涙を押えて、その次第を書き記すのである。


と仰せになっています。法然聖人が自ら親鸞聖人に書き与えられた言葉は、

「選択本願念仏集」
「南無阿弥陀仏 往生之業 念仏為本」
「釈綽空」
「南無阿弥陀仏」
「若我成仏 十方衆生 称我名号 下至十声 若不生者 不取正覚 彼仏今現在成仏 当知本誓重願不虚 衆生称念必得往生」(往生礼讃)


であったというのです。「釈綽空」は別として、承けた真筆は念仏の本願、南無阿弥陀仏しかないと言っていいでしょう。それほどに念仏、南無阿弥陀仏というのは大切なものなのです。ですから、上の御真筆の内、『選択本願念仏集』の標宗でもある「南無阿弥陀仏 往生之業 念仏為本」というお言葉について親鸞聖人は、

「南無阿弥陀仏往生之業念仏為本」といふは、安養浄土の往生の正因は念仏を本とすと申す御ことなりとしるべし。正因といふは、浄土に生れて仏にかならず成るたねと申すなり。(尊号真像銘文【15】)

【現代語訳】
「南無阿弥陀仏 往生之業 念仏為本」 というのは、 安養浄土に往生する正因は本願の念仏を根本とするというお言葉であると知らなければならない。 「正因」 というのは、 浄土に生れて間違いなく仏になる因ということである。

と教えられています。これは「信心為本」「信心正因 称名報恩」を強調され、念仏を軽視しありもしない信心を追い求める会員には理解不能でしょう。
まず気を付けなければならない点は、これは念仏以外の諸行(諸善)に対して「念仏を本とす」であって、信心に対して「念仏を本とす」といわれたのではないということです。阿弥陀仏の浄土に往生する業因としては、称名念仏以外の行は「本」ではなく、南無阿弥陀仏と仏名をとなえる念仏が「本」であるというのです。
次に、「念仏為本」とは、自分の称えたことに功を認めて、これを正因と考える「称名正因」とは全く異なることにも注意が必要です。「念仏する」という自分の行為によって助かるのではなく、名号願力によって助けられるのです。本願の名号を心に頂いたのが信心、それが口に出れば称名ということで、信心も称名も共に如来の名号が私の上に届いたすがたに他ならないのです。


廃悪修善や三願転入といった文言で念仏以外の諸善(善もどきの善)を勧め、「本」である称名念仏行を疎かにしている親鸞会。それは、「念仏一つで助かる」という信心も疎かにしているのです。

大安心大満足
どんな事態が起きても壊れない安心、満足、喜び
『人間に生まれてよかった』『よくぞ人間に生まれたものぞ』と生命の大歓喜が起きる
『人命は地球より重い』ということがハッキリ知らされる
地獄一定と極楽一定が同時にハッキリする
曠劫流転して来た自己も明らかになるし、未来永劫の後生の一大事も知らされる

会員の皆さんはこんなものを他力の信心だと思い、それを求めて日夜活動してはいませんか?

方便だからやらなければならない

としてやっているのは念仏以外の善(もどきの善)、親鸞会の組織拡大のための活動であり、追い求めている信心は「念仏一つで助かる」とはおよそ縁遠い、幻想的幸福感ともいうべき境地です。こうして行に迷い信に惑い、何が浄土真実の行か、何が浄土真実の信かさえ分からないようでは、浄土真宗の人とは言えません。

阿弥陀仏は「念仏を称える者を極楽へ迎える」と仰せですから、称名念仏一行が浄土真実の行であり、阿弥陀仏の仰せを深く信じて念仏するのがまこと本願のお心にかなった念仏の行者です。

弥陀の本願と申すは、名号をとなへんものをば極楽へ迎へんと誓はせたまひたるを、ふかく信じてとなふるがめでたきことにて候ふなり。(末灯鈔十二通、御消息第二十六通)

他の御消息を読めば分かりますが、親鸞聖人が仰るのは「念仏」ばかりです。「諸善」の勧めはありません。『教行証文類』は『選択本願念仏集』を種々に非難する聖道諸宗への反論として書かれたという面もあり、精密な理論と膨大な文類で埋め尽くされており相当に難解です。対して御消息は同行へ向けて書かれた手紙ですから、聖人が何を勧められているかが容易に分かります。それは、「念仏」という行と「念仏一つで助かる」という信心であります。ただ、念仏と信心は別々の2つのものではなく、先ほど申し上げた通り共になんまんだぶの法が私に届いたすがたに他なりません。

信の一念・行の一念ふたつなれども、信をはなれたる行もなし、行の一念をはなれたる信の一念もなし。そのゆゑは、行と申すは、本願の名号をひとこゑとなへて往生すと申すことをききて、ひとこゑをもとなへ、もしは十念をもせんは行なり。この御ちかひをききて、疑ふこころのすこしもなきを信の一念と申せば、信と行とふたつときけども、行をひとこゑするとききて疑はねば、行をはなれたる信はなしとききて候ふ。また、信はなれたる行なしとおぼしめすべし。

このような浄土真実の行信を正しく教えられず、またもハコモノを建てるために『善の勧め』という名の献金を求められている会員の皆さんは実にお気の毒です。今日は親鸞会館ではまた『白骨の章』の話らしいですが、いくら無常を取り詰めてもなんまんだぶの法が聞けなければわざわざ富山まで行く意味はないでしょう。どうか『必ず助ける』の仰せをそのままお受けし念仏して頂きたいものです。最後に、念仏を称えるというのはこういうことだと教えられたお言葉を『尊号真像銘文』よりお聞かせ頂いて終わりたいと思います。

智栄と申すは、震旦(中国)の聖人なり。善導の別徳をほめたまうていはく、「善導は阿弥陀仏の化身なり」とのたまへり。「称仏六字」といふは、南無阿弥陀仏の六字をとなふるとなり。「即嘆仏」といふは、すなはち南無阿弥陀仏をとなふるは仏をほめたてまつるになるとなり。また「即懺悔」といふは、南無阿弥陀仏をとなふるは、すなはち無始よりこのかたの罪業を懺悔するになると申すなり。「即発願回向」といふは、南無阿弥陀仏をとなふるは、すなはち安楽浄土に往生せんとおもふになるなり、また一切衆生にこの功徳をあたふるになるとなり。「一切善根荘厳浄土」といふは、阿弥陀の三字に一切善根ををさめたまへるゆゑに、名号をとなふるはすなはち浄土を荘厳するになるとしるべしとなりと。智栄禅師、善導をほめたまへるなり。(尊号真像銘文【8】)


【参照】
『飛雲』「往生の正因は念仏を本とす」という親鸞聖人のお言葉を全否定する高森顕徹会長
『同』念仏一行を勧めるのが善知識、念仏一行を否定するのが悪知識高森顕徹会長
安心論題/念仏為本

親鸞会会員の誤解―「聴」を重ね、「聴」の先に「聞」がある(1)

会員の皆さんの多くは、「聴」を重ね、「聴」の先に「聞」があると思っていることと思います。そして、「聞」に至るまでは容易ではなく、真剣必死に高森顕徹会長の話を「聴」き続け、また活動し続けることによってようやく到達できるように考えているのではないでしょうか。これ、完全な間違いです。そもそも、

・「聴」という聞き方と、「聞」という聞き方がある
・「聴」とはこのような聞き方である
・「聴」を重ね、「聴」の先に「聞」がある


親鸞会ではこのようなことを教えられますが、では親鸞聖人や蓮如上人はどこにこんなことを教えられていますか? そうです。これらは聖教上に全く根拠の無い、高森顕徹会長の創作教義なんです。


親鸞聖人や蓮如上人は、本願成就文にある「聞其名号」の「」についてはこのように教えられています。

しかるに『経』(大経・下)に「聞」といふは、衆生、仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし、これを聞といふなり。(「信文類」経釈文自釈)

「聞其名号」といふは、本願の名号をきくとのたまへるなり。きくといふは、本願をききて疑ふこころなきを「聞」といふなり。またきくといふは、信心をあらはす御のりなり。(『一念多念証文』)

されば『経』(大経・下)には、「聞其名号信心歓喜」と説けり。「その名号を聞く」といへるは、南無阿弥陀仏の六字の名号を無名無実にきくにあらず、善知識にあひてそのをしへをうけて、この南無阿弥陀仏の名号を南無とたのめば、かならず阿弥陀仏のたすけたまふといふ道理なり。これを『経』に「信心歓喜」と説かれたり。これによりて、南無阿弥陀仏の体は、われらをたすけたまへるすがたぞとこころうべきなり。(『御文章』1帖目15通)

ところが、「聴聞」ということを「聴」と「聞」とに分け、「聴」とはこのような聞き方、「聞」とはこのような聞き方だと教えられているかと言えば、祖師、蓮師の上には1箇所もありません。


一応、真宗でも

『真宗の味わい』聴 と 聞
『手品師』おはたらき

などにあるように、「聴聞」の「聴」とはこのような聞き方、「聞」とはこのような聞き方だと説明している人は無くはありません。ただそれは漢和辞典に書かれている意味を元に、真宗の本願力回向の教えに基づいての解釈であります。読まれればお分かりかと思いますが、浄土真宗の重要な教義を見事に表現されています。

ところが、真宗に無知な高森顕徹会長は、漢和辞典の意味もわきまえず、また本願力回向の教えも知らずに、どこからパクってきたのか知りませんが自身の著書にてこのようなことを堂々と書いています。

 先ず、聴というきき方は、ただ耳からきいて頭で合点しているようなきき方を言います。2+2は4、4+4は8、というように、きいて納得している状態をいいます。
 庄松同行が「合点ゆかずば合点ゆくまでききなされ、きけば合点のゆく教え、合点したのは信ではないぞ、それは知ったの覚えたの」と言っていますが、このようなきき方を聴といいます。

(中略)

 では、聞というのはどんなきき方かと申しますと、心のドン底へ阿弥陀仏のジカの呼び声が響き亘るきき方をいいます。
(『こんなことが知りたい②』p.154~p.155)

これと同様のことが『親鸞会公式ホームページ』聞即信とは、どういうことかにも載っています。「聴」についての説明はほぼ同じですが、さすがにこの説明ではマズいと思ったのか、公式ホームページ版では「聞」についての説明が『こんなことが知りたい②』とは異なっています。

 この驚天動地の一念の体験を聞即信というのですから、この阿弥陀仏の御声をジカに聞くまで、聞きぬきましょう。(『こんなことが知りたい②』p.157)

であったのが、公式ホームページ版では「「聞」と言うは・・・」と信文類のお言葉を挙げ、

絶対動かぬ逆謗の屍そのままが、不可称不可説不可思議の願力に動かされた一刹那、娑婆往来八千遍、種々の善巧方便は、私ひとりのためでありましたと、弥陀の本願の生起・本末に疑心が晴れ(信)、大安心大満足になったのを、聞即信といわれるのです。
 聞即信まで聞き抜きましょう。
(公式ホームページ版)

と説明しています。どちらにしろ、とにかく高森顕徹会長の話を真剣に何十回、何百回、何千回と「聴」き続け、その最果てに「聞」と、阿弥陀仏の御声が心のドン底へ、ジカに聞こえる聞き方をするかのように説かれています。何十年「聴」き続けても一向に「聞」と聞けないでいる現実と、

 聴聞ということは、なにと意得られて候やらん。ただ耳にききたるばかりは、聴聞にてはなく候。そのゆえは、千万の事を耳にきき候とも、信得候わぬはきかぬにてあるべく候。信をえ候わずは、報土往生はかなうまじく候なり(一宗意得之事)

“聴聞ということを、どう思っていられるだろうか。ただ、耳できいて理解し合点しているだけでは、それは聴聞とはいえないのである。たとえ千座万座きいても、信心を獲得しなければ聞いたことにはならない。信を獲なければ、弥陀の浄土へは往けないのである”


の言葉がそれを助長しています。なお、親鸞会が根拠としている『一宗意得之事』ですが、

各学僧の評価の 揺れが大きい談義本が、親鸞撰『南無之釈』・ 覚如撰『真宗意得鈔』・ 存覚撰『持信記』・ 蓮如撰『一宗意得之事』・ 蓮如撰『真宗教要鈔』の五つであり、今日ではいずれも各宗主や存覚の撰述ではなく後の創作であることが判明しているものである。【『宗教研究』87巻別冊(2014年)】真宗談義本における教学理解の特徴について

とのことです。後の創作なのかどうか、いずれにしましても、親鸞会の説明は根拠に基づかない「珍らしき法」です。独自の創作教義をもって浄土真宗とか、親鸞聖人の教えなどと言わないでもらいたいものです。

親鸞会会員の誤解―「聴」を重ね、「聴」の先に「聞」がある(2)

会員の皆さんは、何年何十年と「聴」き続けても一向に「聞」と聞くことができない現実と、

弥陀仏の本願念仏は、邪見・驕慢の悪衆生、信楽受持することはなはだもつて難し。難のなかの難これに過ぎたるはなし。(正信偈)

しかるに常没の凡愚、流転の群生、無上妙果の成じがたきにあらず、真実の信楽まことに獲ること難し。(信文類)

善知識にあふことも
 をしふることもまたかたし
 よくきくこともかたければ
 信ずることもなほかたし

一代諸教の信よりも
 弘願の信楽なほかたし
 難中之難とときたまひ
 無過此難とのべたまふ
(浄土和讃)

等のお言葉、また高森顕徹会長の、雑行は30年40年聞いて分かるものではないとか、お釈迦様は全ての人をあの軌道(縦と横の線でいう横の道)に乗せるのに45年かかった等の話から、

信心獲得することは大変難しい
その前段階の、よく聞く、正しく聞くということも難しい
真剣に、一座でも多く「聴」を重ねていかねば「聞」と聞くことはできない

としか考えられなくなっていることと思われます。そうした高森教の色眼鏡をかけた状態で、

一 「至りてかたきは石なり、至りてやはらかなるは水なり、水よく石を穿つ、心源もし徹しなば菩提の覚道なにごとか成ぜざらん」といへる古き詞あり。いかに不信なりとも、聴聞を心に入れまうさば、御慈悲にて候ふあひだ、信をうべきなり。ただ仏法は聴聞にきはまることなりと[云々]。 (『御一代記聞書』193)

【現代語訳】
「<きわめて堅いものは石である。きわめてやわらかいものは水である。そのやわらかい水が堅い石に穴をあけるのである。心の奥底まで徹すれば、どうして仏のさとりを成就しないことがあろうか>という古い言葉がある。信心を得ていないものであっても、真剣にみ教えを聴聞すれば、仏のお慈悲によって、信心を得ることができるのである。ただ仏法は聴聞するということにつきるのである」と、蓮如上人は仰せになりました。

のお言葉を聞けば、何年何十年と聞かなければ助からないとしか思えないでしょう。石に水で穴を開けるのは一滴二滴では到底不可能です。何十年と同じところに水が落ち続けてようやく穴が開きます。その理屈で考えたら、私のぬるい聞法心、求道心の水で後生の一大事という大石に穴を開けるなどということは絶対不可能です。一般人が100m10秒切るより不可能です。その絶対不可能なことに挑戦しているんですから、一生聞き続けて解決できるかどうかという考えに至るのは至極当然なことです。


ここで会員の皆さんは、親鸞聖人が「真実の信楽まことに獲ること難し」と仰るその理由を知らねばなりません。信文類には、このお言葉に続いてこう教えられています。

なにをもつてのゆゑに、いまし如来の加威力によるがゆゑなり、博く大悲広慧の力によるがゆゑなり。

【現代語訳】
なぜなら、信心を得るのは、如来が衆生のために加えられるすぐれた力によるものであり、如来の広大ですぐれた智慧の力によるものだからである。

全て阿弥陀仏のお力によって得られる、本願力回向の信心であるから難しいというのです。一見「ん?」と思うかも知れませんが、これは一般的には勿論、仏教界(聖道門)からしても常識外れなことなので、これを聞いて素直に信じられる人は少なく、多くの人は逆に疑って信じないのです。

因果の道理は仏教の根幹というのは親鸞会では耳タコと思いますが、これについては確かにそうで、釈尊も十二因縁を順観し逆観することによってさとりを得られたそうです。その十二因縁の内、苦悩の根本である無明、煩悩を滅すれば、一切の苦悩は滅し無為涅槃のさとりの境地に出られるというのです。そのために菩薩が行う修行を六波羅蜜とか、六度万行というのですが、当然さとりの境地に至るには、「私が」行を修めなければなりません。「他人が」行を修めたその功徳によって私がさとりを開くというのは因果に反しますわね。他人が働いて得たお金がまんま私のものになるようなもので、因果を深く信じていればいるほどそんな理屈は受け入れられないでしょう。

「私が」行を修めなければならないというのは、仏教以外の他宗教でもそうでしょう。どのような宗教でも、教えがあって、その教えに従って実践する行があって、そして行に応じた利益が得られるとかどうとか言います。宗教に限らず私達の生きている世界はみんなそうです。受験合格も、お金や財産を築くことも、地位や名声を得ることも、恋愛成就だって健康だって一家和楽だってそうです。自分の理想を実現する、果報を得るためには、その因果を学び、心得て、その因行を積むべく努力する。勿論、望む結果を得たくても何をやったらいいのか分からないとか、いくら努力しても果報を得られない、他人と同じようなことをやっても自分は上手くいかないなどといったことは当然あります。ただいずれにしても、何かの教えに従って行を実践するのは果報を得ようとしている「私」であって他人ではありませんね。

ところが真宗の場合、浄土に往生し、同時に成仏するという果報を得るのに、全く私の力を要せず、ということは行を要せず、ただ弥陀の名号願力によってそのようになさしめられるというのです。全く南無阿弥陀仏の独用(ひとりばたらき)で、行を回向され、信を回向され、如来の行信によって証果を得るのです。これが、私の行に阿弥陀仏のお力をプラスしてさとるというのならまだ話は分かるのですが、他なる阿弥陀仏のお力のみで私が往生成仏の果報を得るのですから、これは親鸞会で言うところの「他因自果」です。これでは一般的な考えを持つ人、自業自得の因果論を信じる人は簡単に信じられなくて当然でしょう。特に聖道門の学僧は、深く因果を信じ、廃悪修善を行じてさとりを得ようとされている方々です。自業自得の修道の因果論に立脚し、自業自得の因果論の延長線上に浄土教の救済を見るのが彼らの立場ですから、ただ本願を信じ念仏するだけで浄土に往生するなどというのは悪人を導く方便の教えであると捉えていたのでした。

しかし、このような因果を超越した、ただ如来の本願力によって往生成仏せしめられるこの第十八願の法門こそが、一切衆生の救われるただ一つの乗り物なのだと明らかにしていかれたのが親鸞聖人であります。そして、本願の名号であるなんまんだぶによって私が往生成仏せしめられると疑いなく聞き受けたのを「」といい、それがそのまま「信心」であると明らかにされたのでした。私は何の力も要らず、智慧も才覚も要らず、ただ名号願力におまかせするのみで、それが「信心」ですから、信心を獲ることは難しいどころか、逆にこんなに簡単なこと、易いことはないのです。

この一念の安心一つにて浄土に往生することの、あら、やうもいらぬとりやすの安心や。されば安心といふ二字をば、「やすきこころ」とよめるはこのこころなり。さらになにの造作もなく一心一向に如来をたのみまゐらする信心ひとつにて、極楽に往生すべし。あら、こころえやすの安心や。また、あら、往きやすの浄土や。(御文章2帖目7通)

何の造作も要らず、本願の仰せ、なんまんだぶを疑いなく聞き受けるのみです。それで、私達のような末代不善の凡夫が極楽に往生することが定まったのです。こうした本願力にすっかりゆだねてしまえばよいものを、

「そんなのは観念の遊戯であって、後生の一大事はそんな簡単に済む話ではない」
「自己の上に『救われたぞー』『助けられたぞー』というハッキリした自覚がなければならない」
「大安心大満足の身にならねば助かったとは言えない」
「一つの善もできないと地獄一定の自己が知らされなければ阿弥陀仏の絶対の救済にあずかれない」
「それまでは高森先生から教えを真剣に聞いて、聞いたこと(廃悪修善)を実行しなければならない」
「真剣必死な『聴』を重ね、『聴』の先に阿弥陀仏の呼び声がジカに聞こえる『聞』がある」


このように自らの上での自覚を重視し、救済にあずかるまでの道程があると思ってそこまで求めよう、求まるんだと、如来の諸智を疑惑して信ぜず、それでいて自業自得の因果論に基づいて本願の救いを捉え、自らの求道によって救いをつかもう、救いにあずかろう、救いに近づこうとしているのですから、これほど難しいことはないとなってしまうのです。

信心を獲ることは大変難しい、だからそれまでは地に足をつけた求道で真剣に「聴」を重ね、求道に精も根も尽き果てた絶壁に行き詰まり、地獄一定の自己を如来の御前に投げ出す体験をしなければ「聞」と聞くことはできない。

こんなのがおおよその会員の理解だと思いますが、まさに自力そのものです。そんな誤解や先入観、高森流因果の道理をもって本願の救いを捉えているのですから、「難のなかの難これに過ぎたるはなし」となるのは当然です。しかし、今はそのような状態でも、もっている誤解や先入観を捨てて素直に本願を聞いたなら、もはや「真実の信楽まことに獲ること難し」ではなくなります。信心を獲るといっても、何かものを貰うとか、確固たる信念のようなものが心に定まるのではなく、「助けるぞよ」の仰せ、なんまんだぶをそのまま聞き受け後生をおまかせするのを「信心を獲る」と言い表しています。ですから、信心を獲ようとか貰おうとか考えるのではなく、ただ本願の仰せを仰せの通りに聞いて下さい。それがそのまま「信心」です。南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏


【参照】
『用管窺天記』自業自得の救済論

親鸞会会員の誤解―「聴」を重ね、「聴」の先に「聞」がある(3)

親鸞会では一秒の何憶分の一よりももっと短い「一念」で救われるとか、人生の目的が現在に完成するだとか説いてはいますが、聞いても聞いても、求めても求めても「一念の救い」とやらに到達する兆しはありません。それは、全て阿弥陀仏のお力のみで往生成仏せしめられるという本願力回向の法をそのまま受け容れ信ずるのみであるのに、受け容れるどころか逆らい、撥ね付けて見当違いのことをやっているからです。

「聴」を重ね、「聴」の先に「聞」がある

こんな誤解を、いつもの縦と横の線の図で視覚的にも強く植え付けられていますから、素直に聞けるわけがありません。まずは正しく聞こうと、高森会長の話をいかに正確に覚えているかをもって本とし、それを重ねて「聞」まで進もうというのですから自力そのもの、自力のおしまかせです。更には高森流因果の道理も手伝って、

 因果は厳しく、結果を招く。
自己の善根を往生の助太刀にするから雑毒の善、虚仮の行と嫌われるのだが、善根そのものに変りはない。
 実行しなければ、善果の現れぬは、当然である。
『親鸞会批判の真実』修善を実行さすのが、十九願より)

こんな理論を獲信・往生に関してまで適応しようというのですから、そんな頭で他力回向の法が受け容れられる方がおかしいというものです。お布施を募る時なんかは決まってこんなことを講師部員や先輩から言われたり、こんな文章が『顕正新聞』に載ったりします。もうじきシネマ学院がお披露目されるでしょうが、

『親鸞会を脱会した人(したい人)へ』「捨てものは「自力の心」ただ一つ」の論説(顕正新聞平成29年8月1日号)を読んで思ったこと

にある通り、今回も漏れなく「善の勧め」が論説に掲載されました。それで多くの会員が「諸善に努めねば善い果報は来ない」というところを「諸善に努めねば宿善開発の時節到来は来ない」等と脳内変換して捉え、「少しでも横の道を進めるなら」「信心獲得に近づくなら」という思いで今回も財施に参加したことと思います。高森教では聴聞に関しても「聞法善」だとか言いますので、「聞法善に努めねば宿善開発の時節到来は来ない」等とも脳内変換して捉えている節はあります。聞法までも自分の善根として捉えているのですから、「聴」を重ね、「聴」の先に「聞」があると考える、としか考えられないのは道理です。

しかし、どうでしたか? 毎回毎回、阿弥陀仏の善巧方便だとか、善の勧めだとか都合の良いことを言われ続け、その都度聴聞し財施をして、今回は少しでも横の道を進めましたか? 信心獲得に近づきましたか?

私は、どれだけ富山へ聴聞に出かけても、どれだけ献金や勧誘に努力しても、少しも横の道を進んだとか、信心獲得に近づいたという感覚はありませんでした。それもそのはずです。我々が救われるにはただ五劫思惟の本願を仰いで仏智を信受する以外なく、親鸞会の活動が如実の善だとしても、それは報土往生のためにプラスにもマイナスにもならないからです。

かかるあさましき三毒具足の悪機として、われと出離にみちたえたる機を摂取したまはんための五劫思惟の本願なるがゆゑに、ただ仰ぎて仏智を信受するにしかず。
(中略)
機に生れつきたる善悪のふたつ、報土往生の得ともならず失ともならざる条勿論なり。さればこの善悪の機のうへにたもつところの弥陀の仏智をつのりとせんよりほかは、凡夫いかでか往生の得分あるべきや。
(中略)
ただ善悪のふたつをば過去の因にまかせ、往生の大益をば如来の他力にまかせて、かつて機のよきあしきに目をかけて往生の得否を定むべからずとなり。
(『口伝鈔』4、善悪二業の事)

会員の皆さんは、きっと阿弥陀仏の本願力によらねば助からないということまでは分かっていると思います。ところが、本願力のみでは助からない思い、そこに私が「聴」いた力、教えを実践した力をプラスして、救われるべき地点へ到達してようやく救いにあずかるかのように思ってはいないでしょうか? そうした行為は、全て

報土往生の得ともならず失ともならざる条勿論なり

と切り捨てられ、ただ弥陀の仏智をたのむ、如来の他力にまかせる他に我々凡夫が往生する方法はないと、

・さればこの善悪の機のうへにたもつところの弥陀の仏智をつのりとせんよりほかは、凡夫いかでか往生の得分あるべきや
・往生の大益をば如来の他力にまかせて、かつて機のよきあしきに目をかけて往生の得否を定むべからず


と教えられています。このような教えを知らず、弥陀の仏智をつのりとするのではなく、高森顕徹会長という「人」をつのりとし、高森教という新興宗教をつのりとし、高森教の活動をつのりとしているのでは、いつまでも往生の大益をば如来の他力にまかせることができないのは当たり前の当たり前のことです。

更に覚如上人は、親鸞会の邪義を完膚なきまでに次のように叩きのめしています。

たとひ万行諸善の法財を修し、たくはふといふとも、進道の資糧となるべからず。ゆゑは六賊知聞して侵奪するがゆゑに。念仏においては、「すでに行者の善にあらず、行者の行にあらず」と等釈せらるれば、凡夫自力の善にあらず。まつたう弥陀の仏智なるがゆゑに、諸仏護念の益によりて六賊これを犯すにあたはざるがゆゑに、出離の資糧となり、報土の正因となるなり。しるべし。(『口伝鈔』5、自力の修善はたくはへがたく、他力の仏智は護念の益をもつてたくはへらるる事)

たとえ諸善を修し、善根をたくわえるといっても、往生のもといとはならないのです。ということは、獲信のもといとならないということです。善をしなければ信仰は進みませんと言われ、会員の皆さんは善をして横の道を進もうとか、善をして信心獲得に近づこうと活動に励んでいると思われます。その一番の方法が熱心な聞法すなわち真剣な聴聞だと言われ、聞法善なる言葉まで出して、全ては「」の名の下に様々な活動が勧められています。聴聞にしても、「」という聞法善を重ね、その先にと聞こえる時があるからそこまで進め、みたいな。ところが、そういった親鸞会の活動が諸善の中に入るとしても、それらは獲信・往生のもといとはならないのだと覚如上人はバッサリ切り捨てられています。

聞法を自分の善根として捉え、聞法を始めとする様々な親鸞会の活動に取り組んでも、それでは他力の信心は獲られません。生死の大問題に手も足も出ない、生死苦悩から離れられない私を出離させ、往生成仏せしめる本願力をお聞きかせ頂くのを聴聞とか聞法というので、これを自分の善根と捉えるのは誤りです。これでは、念仏を自分の善根として捉え、念仏を称えて救われようというのと構造は変わりません。親鸞会は

念仏を一生懸命称えて助かろう

というのが、

聴聞を一生懸命して助かろう

に変化しただけです。尤も念仏の場合は阿弥陀仏が本願に誓われたことなので行は正しいですが、間違った教えを聞き、念仏を軽視して、本願に選び捨てられた念仏以外の諸善(善もどきの善)に励んでいる点、親鸞会は浄土真宗にもなりません。


私はただ本願の仰せをお聞きし信受するだけであって、そういった真宗の聞法に自力的要素はありません。あるとすれば、信受しようとしている機の側にあります。救いを遠くに見据えて、

「聴」を重ね、「聴」の先に「聞」がある

と思って聞法しているのはまさに自力そのものです。只今、この場で、この私一人を助ける本願と聞き受けるのみですので、このような間違った考えは捨てて、直ちに本願を聞き受け念仏して下さい。


【参照】
『飛雲』都合の悪い根拠を隠し、断章取義を繰り返す確信犯

親鸞会会員の誤解―活動しなければ救われない(1)

親鸞会会員の皆さんは高森顕徹会長から間違った教えを聞かされ、それを本当の親鸞聖人の教えだと誤解しています。当ブログではこれまで、

・高森会長は51段目の位にいる
・親鸞会でしか真実は説かれていない
・方便だからやらなければならない
・「聴」を重ね、「聴」の先に「聞」がある


といったことに関して、会員がどのように誤解しているかを述べてきましたが、今回からは、

・活動しなければ救われない

ということに触れたいと思います。


親鸞会会員の目的は、『親鸞学徒聖則』

一、親鸞学徒は信心獲得することを本と致します。

にあるように信心決定、信心獲得以外にはありません。そのためには

活動しなければ救われない

と思う、そうとしか思えない、そのように教えられるからこそ、推進される様々な活動に勤しんでいます。もし会の活動と無関係に信心が獲られるなら、誰もそんな一生懸命に勧誘活動をしたり、生活をトコトン切り詰めて財施したりする者はいないでしょう。私も活動が信心獲得に必要不可欠、「活動しなければ救われない」と固く信じていたからこそ、毎回の富山詣で、朝晩の勤行、地元行事の参加、声かけやチラシ配り、家族友人の勧誘、うんざりするほどやってくる募財への参加等、それなりに活動していました。その

活動しなければ救われない

と思わせるキーワードが、一昔前は「宿善」でした。

親鸞会では、設立当初はどうだったか知りませんが、少なくとも『会報第三集』が発行された昭和43年には既に『厚い宿善になる』として、破邪顕正という名の人集め、六度万行第一の布施と称した金集めが勧められていたことが伺えます。宿善についてはその後発行された『こんなことが知りたい①』(昭和44年)、『白道燃ゆ』(昭和49年)等にも出てきます。中でも有名なのは、『白道燃ゆ』

 宿善と言うのは、過去世の仏縁のことであるが、過去世に仏縁浅き者は、現在に於いて真剣に宿善を求められねばならない。
 でなければ、宿善開発の時節到来ということはあり得ない。
 されば宿善は待つに非ず、求むるものである。
(p.203)

の文章でしょう。昔は「宿善」の名の下に破邪顕正と称して様々な勧誘活動、時には本願寺へ座り込みなどといった事まで行っていたようです。また「真実のために財施することは、尊い宿善になる」だとか言われて、中には家一軒建つ位親鸞会へ財施したという人も少なくないと思います。そうやって活動していくことで横の道を進み、信心獲得に近づく、やがて宿善開発の時節が到来するんだと信じていたに違いありません。


ところが、浄土真宗には高森顕徹会長の説くような「宿善を求めよ」「宿善を厚くせよといった教えもなければ、宿善になると言って信心を獲るために聴聞、勤行、破邪顕正、財施、六度万行をせよといった教えもありません。逆にそういった自力修善は徹底的に廃して、念仏一行を勧められたのが親鸞聖人であります。前回も挙げましたが、覚如上人は祖師の教えを

一 自力の修善はたくはへがたく、他力の仏智は護念の益をもつてたくはへらるる事。

 たとひ万行諸善の法財を修し、たくはふといふとも、進道の資糧となるべからず。ゆゑは六賊知聞して侵奪するがゆゑに。念仏においては、「すでに行者の善にあらず、行者の行にあらず」と等釈せらるれば、凡夫自力の善にあらず。まつたう弥陀の仏智なるがゆゑに、諸仏護念の益によりて六賊これを犯すにあたはざるがゆゑに、出離の資糧となり、報土の正因となるなり。しるべし。
(口伝鈔)

と表されています。まぁ親鸞会の活動はそのほとんどが「善もどきの善」、組織拡大に都合の良い行いなわけですが、どれほど推進される活動(聴聞、勤行、破邪顕正、財施、六度万行等)に取り組んでも、それがもとで信心獲得し、往生するわけではないのです。修めた行いが宿善となり、段々と厚くなって、やがて開発して救われるように考えている方も多いと思いますが、行いが如実の善だとしても「たとひ万行諸善の法財を修し、たくはふといふとも、進道の資糧となるべからず」でありますから、我々の獲信・往生と修善とは無関係です。ただ弥陀の仏智である念仏によってのみ往生を得るので、活動することで宿善が厚くなるとか、横の道を進むとか、信心獲得に近づくといった考えは大間違いも大間違いなのです。


宿善については長くなりそうなので、今回はこれで終わります。なお親鸞会の宿善に関した邪義については、

『親鸞会教義の誤り』宿善とは
『飛雲』2012年5月の、5月1日~5月16日のエントリー
現代における異議の研究 伝道院紀要24号

等に既に詳しく書かれていますので、参照して下さい。


【追記】
林遊@なんまんだぶ様、宿善様からコメントを頂きました。ありがとうございました。お二人が挙げて下されたリンク先を以下に貼っておきますので参照してください。なお、宿善様の最後のリンク先は上の『飛雲』のエントリーを順に辿っていけばありますので貼り付けてはいません。

『用管窺天記』自業自得の救済論
『WikiArc』宿善
『親鸞会の邪義を正す』宿善の意味

親鸞会会員の誤解―活動しなければ救われない(2)

この記事で紹介した容疑者は、その後の調べで過去の余罪が明るみになっています。事件が起こる前にも、同様の行為を繰り返していたというのです。私も過去の文献を調べて高森顕徹会長の「デタラメ教義の捏造」、「真宗の宗教ビジネスへの悪用」、「放火未遂、復讐、脅迫、欺瞞、詐欺、保身、詭弁、法要妨害、扇動、搾取、剽窃、隠蔽、偽装勧誘、偽装ベストセラー」等の余罪を追及したいと思います。


親鸞会では、私達は死ねば必ず無間地獄に堕ちると言い、それを後生の一大事と呼んで、この後生の一大事を解決するには親鸞聖人の教えを真剣に聞いて信心決定しなければならないというのです。ではどうしたら信心決定して後生の一大事を解決できるかというと、『御文章』2帖目11通にある五重の義

これによりて五重の義をたてたり。一つには宿善、二つには善知識、三つには光明、四つには信心、五つには名号。この五重の義、成就せずは往生はかなふべからずとみえたり。

を持ち出して、一番初めに挙げられている『宿善』に着目させるのです。そして、宿善薄い者は今生において真剣に宿善を求めねば信心決定は有り得ない、信心決定を目指して「宿善を求めよ」「宿善を厚くせよ」と修善を勧めています。この教えは現在なお健在で、先日の報恩講でも「「宿善」を厚くする行いについて、一番は聞法」云々と未だに言っていました。ただ、昔はもっとハッキリ「宿善を積め」と言って善根功徳を積むように活動を促していたことが、『顕正新聞』

まず自身の信心決定をめざせ、そのためには宿善をつめ(イ、聴聞、ロ、破邪顕正)(第93号、昭和45・2・15)

等から分かります。また本文は分かりませんが、『顕正新聞』第69号には、2面の社説(現在の論説)見出しに「宿善を積もう 会員倍増運動を達成せよ」とあり、また『同』第74号には、2面の社説見出しに「真宗に多い 我利々々亡者  真 実 倍 増  宿善倍増に努力しよう」とあったようです。なお私の記憶では、会員が手紙の中で「真実倍増、宿善倍増が叫ばれ・・・」などと書いていたのをどこかで見た覚えがあります。「宿善倍増」とか、すごい表現ですね。高森流「長者窮子の譬え」で、

長者が窮子に「給料を倍にしてやる」と言ったが、「給料」とは宿善のことだ

と解説していたというのをかつて講師部員から聞きましたが、これでつながりました。

さすがに「宿善を積め」とは自力的要素が強いからなのか言わなくなりましたが、昔から親鸞会で聞いてきた人はそれが耳に残っていたのでしょう。以前に華光会である女性が体験発表で、

親鸞会では「宿善を積め」と教えられました

と話していたのを覚えています。もしこれをこの女性の聞き誤りと言うなら、「時代と共に変わる教え」ということで取り上げなければいけません。

では何をすれば宿善が厚くなるのかと言えば、『教学聖典(5)』に

問(28)
「宿善」とはどんなことか、二通りの読み方を示せ。
また宿善が厚くなる順から三つあげよ。

答(28)
○「宿世の善根」とか、「善が宿る」とも読む。
   (1)熱心な聞法
   (2)五正行の実践
   (3)六度万行の実践


という問答まで設けて教え、高森会長の話を真剣に聞くこと、朝晩のお勤めを欠かさずすること、法施(破邪顕正)や財施を勧めます。無常と罪悪でせめ立てて、背後には必堕無間の一大事。退路を断ち、背水の陣の状態で前進の一手に追い込む。「進めば極楽、退けば地獄」の如く、助かる道は信心決定しかないと徹底すれば、聞く者は救いを求めてこれらの活動に飛び付くでしょう。こうして会員を組織拡大要員として育成し、利用・搾取することこそが高森顕徹会長の目的であったのです。「会員倍増運動」等の文言からもそれはお分かりでしょう。会員一人一人の後生を案じてなど真っ赤な噓、会長の深いミココロは「打倒本願寺」「組織拡大」「会員倍増」「献金額倍増」の我執、我慢だったのです。会員の皆さんはいい加減気付きましょう、認めましょう。

かくして高森会長の目的通りに会員は動き、組織の規模も人数もそれなりに増大しました。特に学生は世間知らずな上、真面目で一直線なタイプが多く見受けられますから、こうした浄土真宗を騙った高森教に騙されて人生を捧げ、他人の人生すら巻き込んでしまう人が多いのです。主に大学生の会員が所属する「学友部」では、

7年前(学生時代)のあさ川の目で見た学友部

に書かれているような感じで親鸞会的人間にさせられてしまうのでした。


ところが、親鸞聖人や蓮如上人は「宿善が厚くなり、やがて開発して信心決定に至る行為」として聴聞やお勤めをせよとは教えられていません。まして六度万行の実践などと称して教えを弘め財施をせよなどとは一言も仰ってはいないのです。

「聞其名号」といふは、本願の名号をきくとのたまへるなり。きくといふは、本願をききて疑ふこころなきを「聞」といふなり。またきくといふは、信心をあらはす御のりなり。「信心歓喜乃至一念」といふは、「信心」は、如来の御ちかひをききて疑ふこころのなきなり。(一念多念証文)

これによりて「南無阿弥陀仏」といふ六字は、ひとへにわれらが往生すべき他力信心のいはれをあらはしたまへる御名なりとみえたり。このゆゑに、願成就の文(大経・下)には「聞其名号信心歓喜」と説かれたり。この文のこころは、「その名号をききて信心歓喜す」といへり。「その名号をきく」といふは、ただおほやうにきくにあらず、善知識にあひて、南無阿弥陀仏の六つの字のいはれをよくききひらきぬれば、報土に往生すべき他力信心の道理なりとこころえられたり。(『御文章』3帖目6通)

等に教えられるように、本願の名号、南無阿弥陀仏のいわれを疑いなくくこと、それがそのまま「信心」です。お勤めにしても、南無阿弥陀仏のいわれが書かれているものを拝読し、南無阿弥陀仏を称讃し称名する行為ですから聴聞と同じことです。これらを「宿善が厚くなる行為」と自力的に捉えて、やって宿善を厚くしよう、信心決定に近づこうとするのがそもそも誤りなのです。もし親鸞会の主張が正しければ、万善万行の総体である名号を一生懸命称えて宿善を厚くしよう、信心決定に近づこうと説くのが筋でしょうが、それは絶対にしません。本願寺攻撃の謳い文句を失う上、目的の組織拡大、「会員倍増」が果たせないからです。そして、目的の実現に直結する破邪顕正(高森教を布教する)、財施(高森教に献金する)、無条件服従(強固なトップダウン組織を形成する)等が厚い宿善、尊い宿善になるとして勧められるのです。

高森顕徹会長の目的は、このように会員の皆さんの獲信・往生の他にあることを知って、一刻も早く邪義を邪義と正見し、直ちに本願を信じ念仏して頂きたいと思います。


【参照】
現代における異議の研究 伝道院紀要24号
浄土真宗親鸞会 顕正新聞 索引 061号~075号
『あなたの白道』第6章①

親鸞会会員の誤解―活動しなければ救われない(3)

今週19日は大阪会館落慶の座談会が富山であるそうです。大阪の会員が財施して建てた大阪の会館なのになぜ富山で座談会なのかというと、会長の体調が思わしくなく、大阪に行けないからだというのです。ならば、回復してから改めて大阪へ行って話をすればよいのにとか、高齢で不調の会長に代わって、布教局長(?)である息子なり何なりが出向けばよいのにとか思いますが(いや、息子では話にならんか・・・。それに迎える側の支部長や会員も迷惑だろうな・・・)、とにかく高森顕徹会長あっての仏法、親鸞会という思考が会員にあるため、富山での座談会に変更になっても疑問にも思わないのかも知れません。


さて、Abc様から「宿縁」の捉え方について「すこし異なっているのではないか」ということでコメントを頂きました。そこで今回は、そもそもの「宿善」という言葉の意味について見ていきたいと思います。この「宿善」という言葉は文脈によって様々に意味が別れるところです。そして、使う人や時代によって段々と意味が変わってくるというところが厄介です。

①宿世の善根
能臨終遇善知識十念成就者、皆是宿善業強、始得遇善知識十念成就。(浄土十疑論)

『浄土十疑論』という書物は天台大師智顗が著したようです。過去現在善をやったこともなく、五逆・十悪を造っている悪人が、平生に仏法をきくこともなく、臨終になって初めて仏法を聞きたいと言う気持ちになり、善知識から勧められたのは念仏1つで、勧められるまま念仏を十回称えて往生する、という信じられない『観無量寿経』下品下生の教説について、天台大師はこのように解釈しています。「臨終に善知識に遇って十回の念仏で往生を遂げる五逆罪を犯した者は、宿世に善を行ってきた宿善業の強い人であったので、往生できるのだ」というのです。

この解釈が聖覚法印のおられた当時は一般的だったのか、『唯信鈔』には以下の問答があります。

 つぎにまた人のいはく、「五逆の罪人、十念によりて往生すといふは、宿善によるなり。われら宿善をそなへたらんことかたし。いかでか往生することを得んや」と。
 これまた痴闇にまどへるゆゑに、いたづらにこの疑をなす。そのゆゑは、宿善のあつきものは今生にも善根を修し悪業をおそる、宿善すくなきものは今生に悪業をこのみ善根をつくらず。宿業の善悪は今生のありさまにてあきらかにしりぬべし。しかるに善心なし、はかりしりぬ、宿善すくなしといふことを。われら罪業おもしといふとも五逆をばつくらず、宿善すくなしといへどもふかく本願を信ぜり。逆者の十念すら宿善によるなり、いはんや尽形の称念むしろ宿善によらざらんや。なにのゆゑにか逆者の十念をば宿善とおもひ、われらが一生の称念をば宿善あさしとおもふべきや。小智は菩提のさまたげといへる、まことにこのたぐひか。


この段ではさかんに「宿善」の語が使われております。
ちなみに、この問い自体が「痴闇にまどへるゆゑ」のものだと言われています。つまり、聖道門的発想の宿善論で我々の往生の得否を考えることが間違いであるというのです。更に言えば、宿善の厚薄を問題にすることが間違いであるということです。となると、盗人である耳四郎や、大勢の者を殺した熊谷次郎直実などが早く救われたのは、(宿世に善を行ってきた)宿善の厚い人だったからだ、という親鸞会の説はどうなのでしょうか? とにかく分かるのは、親鸞会の説は聖道門的発想そのものだということです。


②前世に浄土を欣い求めて、阿弥陀仏を念じていたこと
かの一生に悪業を作りて、臨終に善友に遇ひて、わづかに十たび仏を念じて、すなはち往生することを得。かくのごとき等の類は、多くこれ前世に、浄土を欣求してかの仏を念ぜるものの、宿善うちに熟していま開発するのみ。 ゆゑに『十疑』にいはく、「臨終に善知識に遇ひて十念成就するものは、ならびにこれ宿善強くして、善知識を得て十念成就するなり」と。(往生要集)

【現代語訳】
かの一生涯の悪業を作ったものでも、臨終に善知識に遇い、わずかに十たび念仏して、ただちに往生することができる。このような人たちは、多くは前世に浄土を欣い求めて、かの阿弥陀仏を念じていた者で、その宿善が内に熟して、いま開発したのに外ならぬ。それ故に《十疑論》にいわれている。臨終に、善知識に遇うて、十念が成就する者は、みな宿善が強いので、始めて善知識に遇うことができて、十念が成就するのである。

源信僧都は、『浄土十疑論』を引用しながら意味を変えられ、「宿善」を

前世に、浄土を欣求してかの仏を念ぜる

と定義されています。これは『大無量寿経』に

もし人、善本なければ、この経を聞くことを得ず。

とあることや、『定善義』

この人は過去にすでにかつてこの法を修習して、いまかさねて聞くことを得てすなはち歓喜を生じ、正念に修行してかならず生ずることを得

と説かれているのも同様のことです。


③善知識に遇う因縁、18願の法を信じる因縁
覚如上人に至って「宿善」の意味合いが随分と変わってきています。①や②の意味で使われている箇所もありますが、覚如上人、蓮如上人が言われる「宿善」は大体この意味です。

十方衆生のなかに、浄土教を信受する機あり、信受せざる機あり。いかんとならば、『大経』のなかに説くがごとく、過去の宿善あつきものは今生にこの教にあうてまさに信楽す。宿福なきものはこの教にあふといへども念持せざればまたあはざるがごとし。「欲知過去因」の文のごとく、今生のありさまにて宿善の有無あきらかにしりぬべし。
しかるに宿善開発する機のしるしには、善知識にあうて開悟せらるるとき、一念〔も〕疑惑を生ぜざるなり。
(口伝鈔)

かつはまた宿善のある機は正法をのぶる善知識に親しむべきによりて、まねかざれどもひとを迷はすまじき法灯にはかならずむつぶべきいはれなり。宿善なき機は、まねかざれどもおのづから悪知識にちかづきて善知識にはとほざかるべきいはれなれば、むつびらるるもとほざかるも、かつは知識の瑕瑾もあらはれしられぬべし。所化の運否、宿善の有無も、もつとも能・所ともに恥づべきものをや。(改邪鈔)

宿善あつきもの」「宿善のある機」は善知識に遇って18願の法を聞くことができますが、「宿福なきもの」「宿善なき機」は善知識から遠ざかって悪知識に近付いて18願の法を聞くことができないと教えられています。こうした覚如上人の宿善観を承けて、蓮如上人はしばしば『御文章』に「宿善・無宿善の機を沙汰すべし」と教えられています。

それ、当流の他力信心のひととほりをすすめんとおもはんには、まづ宿善・無宿善の機を沙汰すべし。さればいかに昔より当門徒にその名をかけたるひとなりとも、無宿善の機は信心をとりがたし。まことに宿善開発の機はおのづから信を決定すべし。されば無宿善の機のまへにおいては、正雑二行の沙汰をするときは、かへりて誹謗のもとゐとなるべきなり。この宿善・無宿善の道理を分別せずして、手びろに世間のひとをもはばからず勧化をいたすこと、もつてのほかの当流の掟にあひそむけり。
されば『大経』(下)にのたまはく、「若人無善本不得聞此経」ともいひ、「若聞此経 信楽受持 難中之難 無過斯難」ともいへり。また善導は「過去已曾 修習此法 今得重聞 則生歓喜」(定善義)とも釈せり。いづれの経釈によるとも、すでに宿善にかぎれりとみえたり。しかれば宿善の機をまもりて、当流の法をばあたふべしときこえたり。このおもむきをくはしく存知して、ひとをば勧化すべし。
(『御文章』3帖目12通)

正雑二行の沙汰をするときは」、「宿善・無宿善の道理を分別」して、「宿善の機」に「当流の法をばあたふべし」と仰っています。「往生には諸善を捨てて、念仏一行を専らにせよ」という18願の法を話す時は、それを聞いて信じる人か、疑い謗る人かをよく見定めて、信じる人に法を説きなさいというのです。法然聖人や親鸞聖人もこうした「専修念仏」の教えを説いたために、権力者の横暴によって流刑に遭われています。蓮如上人も幾度となく法難に遭われました。当時は今と違って信教の自由も保証されておらず、また治安も悪く、他宗の者からの寺の焼き討ちや門徒への暴力も平気でまかり通っていたようです。それで、蓮如上人は門徒の方々の生活を守りつつ、教えを伝え弘めるためにこのような掟を作られたのでしょう。


④信心獲得すること、如来のお育てのはたらき
一 他宗には法にあひたるを宿縁といふ。当流には信をとることを宿善といふ。信心をうること肝要なり。さればこの御をしへには群機をもらさぬゆゑに、弥陀の教をば弘教ともいふなり。(『御一代記聞書』234)
他宗では、仏法にあうことを宿縁によるという。浄土真宗では、信心を得ることを宿善が開けたという。信心を得ることが何より大切なのである。阿弥陀仏の教えは、あらゆる人々をもらさず救うので、弘教すなわち広大な教えともいうのである。

ここでは信心獲得することを「宿善」と言われています。あるいは、このお言葉と合わせて、直前の

一 蓮如上人仰せられ候ふ。宿善めでたしといふはわろし。御一流には宿善ありがたしと申すがよく候ふよし仰せられ候ふ。(『御一代記聞書』233)

のお言葉から、「宿善」を「如来のお育てのはたらき」であると釈する方もあります。梯實円和上はこれを、

「宿善めでたし」というのは、自分が善根を積んだからこそ、こうして法に逢うことが出来たと、宿善を自分の功績として誇っているから自力の宿善観になります。しかし「宿善ありがたし」というのは、自力の修行をしたことも含めて、すべては阿弥陀如来のお育てのたまものであったと味わう表現ですから、浄土真宗の宿善観として最もふさわしいといわれたものです。
 ともあれ宿善とは、自分がいま思いがけなく尊いみ教えに逢い、救われた慶びと感動を、遠い過去に遡って表現している言葉であって、宿善を積み重ねることによって教えに逢おうとするような次元の教説では決してなかったのです。


と解説されています。


このように、同じ「宿善」という言葉でも文脈によって意味を判断しなければなりません。一概に「宿世の善根」とは言えないことがお分かりでしょう。そして大事なのは、

宿善とは、自分がいま思いがけなく尊いみ教えに逢い、救われた慶びと感動を、遠い過去に遡って表現している言葉

であるということです。信心獲得の現在から過去を振り返って、阿弥陀仏のお育てのはたらきを慶ぶのであって、これから信心獲得しようとする者が、未来の救いに遇うために修めていく善根功徳ではないことに注意すべきです。この点、高森流の「宿善」の意味は、①、②に加えて

⑤これから信心獲得しようとする者が、未来の救いに遇うために修めていく善根功徳

だと言えましょう。

法然聖人までは、おおよそ①あるいは②の意味で「宿善」の語を用いられております。宗祖親鸞聖人は、引文以外では「宿善」の語を用いられておりません。そこから覚如上人が③のように大幅に意味を変えられて、それが蓮如上人へと引き継がれていった形となっています。ただ、どなたとして、

⑤これから信心獲得しようとする者が、未来の救いに遇うために修めていく善根功徳

の意味で教えられた方はおりません。ですから、高森顕徹会長が

同会の質問に対して、逆に私の方から「破邪顕正や財施を修することが獲信のための宿善となる」という文証があれば示してもらいたいと求めたのが、一昨年(昭和五十五年)の六月二十一日(57頁)であるから、もう八百日以上が経過していることになるが、これについては何の返答もないままである。(『派外からの異説について』)

とあるように紅楳英顕師の質問に答えられないのは当たり前なのです。無いのですから。


このように「宿善」について新たな定義を設け、

宿善を求めよ、宿善を厚くせよ、獲信の因縁として善を修せよ

という「珍らしき法」を弘めているのが高森顕徹会長であり親鸞会会員です。こんな教えを「唯一絶対にして真実の宗教」であるなどと盲信している愚かさに、会員の皆さんは早く気付いて頂きたいと思います。



【参考文献】
『飛雲』聖道門と同じ発想で宿善論を叫ぶ無恥な高森顕徹会長
『同』ちょっと話がややこしくなるだけで理解不能に陥る高森顕徹会長
『21世紀の浄土真宗を考える会』宿善といふこと
『WikiArc』トーク:口伝鈔
プロフィール

淳心房&しゃあ

Author:淳心房&しゃあ
(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


(しゃあ)
平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
singikensho@yahoo.co.jp
(スパム防止のため@を大文字にしてあります。メール送信時は小文字に変えて下さい。)

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