末代の我々が救われる阿弥陀仏の第十八願の教法を、この地球上で最初にお説きになられたのはお釈迦様です

今回も、ひろちゃんから頂いたコメントについてお答えします。

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親鸞聖人は「往生浄土のために」善を勧められなかったと教えていただきました。
ということは、「最終的に仏になるために」善を勧められなかった、としても良いでしょうか。
すると、仏になるために善をせよ、というお釈迦様の教えを否定することになりますから、親鸞聖人の教えは仏教とは言えないと思います。それともお釈迦様の教えは、この世を生きていく上で善をせよ、と教えられた単なる倫理道徳の教えだったのでしょうか。そうは思えません。
お釈迦様の説かれた八万四千の法門のほとんどが仏になるために善をせよ、という教えなのに、そのほとんどの教えを否定しておられる親鸞聖人のみ教えは仏教ではなく、どう考えても親鸞教に思えます。お釈迦様の教えのごく一部である阿弥陀仏の本願を親鸞聖人が説かれたから仏教というなら、イスラム教も旧約聖書を使っているからキリスト教だということになってしまいます。ですからごく一部が一致しただけで仏教というのは無理があるのではないでしょうか。
やはり仏教という以上は、お釈迦様の説かれた教えの大部分と一貫していないと無理があるように思います。もし親鸞聖人が善を勧められたのなら仏教と言えますが、親鸞聖人の教えに善の勧めは全くないのですから、とても仏教とは言えないと思います。
お釈迦様は正法の時代の厳しい善が出来る人が相手であり、親鸞聖人の教えは末法の善のできない人を相手にした教えとなれば、時代も相手も仏になる方法も全く違う教えなので、それを同じ宗教と言えるのでしょうか。
お釈迦様の説かれた仏教は、現在の末法の世では役に立たず、親鸞聖人の説かれた教えだけがこの世を照らしています。
私は仏教では救われませんでした。親鸞聖人のみ教えによって初めて救われました。

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要は、聖者や善人に向けて説かれた教えと、悪人に向けて説かれた教えが違うということです。対機説法、応病与薬という言葉はご存じかと思いますが、仏様は優れた医者の如く、それぞれの病に応じて薬を与える如くそれぞれの相手に最もふさわしい法(教え)を説かれた方だったのです。それが、

薬をもつて病を治するに、かろき 病をばかろき薬をもつてつくろひ、おもき病をばおもき薬をもつていやす。病をしりて薬をほどこす、これを良医となづく。如来はすなはち良医のごとし。機をかがみて法を与へたまふ。しかるに上根の機には諸行を授け、下根の機には念仏をすすむ。(持名鈔)

のお言葉で分かるかと思います。聖道門は釈尊在世時および正法の時機相応の教えであって、末法の私達は救われない教えです。釈尊は時の経過と共に説かれた法が衰退していくことを察知され、聖道門の教えとは別に末代の我々が救われる阿弥陀仏の本願をお説きになられたわけです。

親鸞聖人は、「最終的に仏になるために」善を勧められなかった、と理解して構いません。では何を勧められたかと言うと、先のお言葉にもあるように、ひろちゃんが日々称えていらっしゃるであろう念仏です。なぜなら、

そのゆゑは、自余の行もはげみて仏に成るべかりける身が、念仏を申して地獄にもおちて候はばこそ、すかされたてまつりてといふ後悔も候はめ。いづれの行もおよびがたき身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし。 (歎異抄第二条)

とあるように、念仏以外の諸行諸善に励んで仏になれる身ならよいが、いずれの行も修しがたく成仏の道が絶たれてしまっている親鸞であるからだというのです。親鸞聖人は法然聖人の教えを承けて念仏一つ私達にお勧めになりました。

念仏には、本当は私達がやらねばならない往生成仏のための万善万行恒沙の功徳を阿弥陀さまが代わって修められています。私達はこの念仏を回向されて救われるのです。私達が日々何となく称えている念仏には、阿弥陀仏が五劫という間思惟され、兆載永劫の御修行をされた、それひとえにこの私を往生成仏させるためだったという阿弥陀仏の願いと行とが納まっています。それを我々に最初にお説きになられたのはお釈迦様ですから、この第十八願の教法を仏教と言わずして何と言うでしょうか? お釈迦様がこのように明らかにして下さらなかったら、歴代の善知識も明らかにされなかったでしょう。そうであれば、親鸞聖人まで本願念仏の教えが届くことはありませんでした。もし親鸞聖人が明らかにして下さらなかったらこの淳心房も教えを聞いて念仏する身になれなかったでしょうし、ひろちゃんも同様です。元を辿ればお釈迦様がこの地球上で最初にお説きになられた方ですから、ひろちゃんの思いも分からないこともありませんが、やはりお釈迦様の御恩というものを忘れてはなりません。

弥陀の本願まことにおはしまさば、釈尊の説教虚言なるべからず。仏説まことにおはしまさば、善導の御釈虚言したまふべからず。善導の御釈まことならば、法然の仰せそらごとならんや。法然の仰せまことならば、親鸞が申すむね、またもつてむなしかるべからず候ふか。(歎異抄第二条)

のお言葉を、よくよくお味わい下さい。


ところで、以前にひろちゃんはこのようにコメント下さいましたね。

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世間まみれだった私に、信心決定することがいかに大切かを教えてくれましたのは、親鸞会でした。その親鸞会の高森先生にはご恩を感じる必要はないのでしょうか。
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もし高森顕徹会長に恩を感じているようなら、それよりももっともっと大きな御恩をお釈迦様に感じて頂きたいものです。お釈迦様なかりせば知りえなかった阿弥陀仏の本願念仏の教えです。



【お知らせ】
昨日の記事で、高森会長及び親鸞会上層部の人間が廃悪修善をまともに実践しているとは言い難い事例(教義面)に関して、以下の内容を加筆しましたことを、皆様にお知らせいたします。

・過去の法論では頑なに自説を曲げなかったのに、後になってしれっとそれまでの主張を修正してくる。若不生者の「生」の解釈が典型例。㈱チューリップ企画と田中一憲の法論はまさに勝他のための議論。

私は退会直前までこの法論を見たことはありませんでしたが、退会直前にこの法論を見て、親鸞会側のあまりに酷い応対に憤りを感じたことを覚えています。本文だけでなく、長いですがコメント欄も目を通して頂ければ、親鸞会側の誤りがより顕著に分かるかと思います。

親鸞聖人は善を勧められなかったということですから、親鸞聖人の教えは仏教ではないということですね。お釈迦様は自力の善を勧められましたので、親鸞聖人の教えは仏教ではなく、親鸞教というのがふさわしいのではないでしょうか。私は仏教ではなく、親鸞教によって救われたと味わっています。一方、親鸞会は仏教により近いと言えるのでしょうか。(頂いた質問)

今回はひろちゃんのコメントに答えていきたいと思います。質問が2つありますので、まずは

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親鸞聖人は善を勧められなかったということですから、親鸞聖人の教えは仏教ではないということですね。お釈迦様は自力の善を勧められましたので、親鸞聖人の教えは仏教ではなく、親鸞教というのがふさわしいのではないでしょうか。私は仏教ではなく、親鸞教によって救われたと味わっています。
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ということからです。

これは誤解です。正確に言うと、親鸞聖人は「獲信・往生のために」善を勧められなかったということです。

仏教は八万四千の法門と言われるように実に様々な教えがあります。阿弥陀仏の第十八願の教法も釈尊の説かれた教えですから当然仏教です。自力の善を説かないからと言って仏教ではないと否定はできません。
確かに釈尊の説かれた法門の多くは聖道門、自力の善を積み重ね、廃悪修善によって心身を浄化してさとりを開く、最終的には仏陀となるという教えです。しかし、それは勝れた資質を持った者が永劫の修行を経ることでようやくさとりを開くという非常に厳しい教えです。末法の、しかも在家の人間である我々が到底歩める道ではありません。

それに対して、阿弥陀仏の第十八願の教法は、諸仏が匙を投げた最低の悪人を規範として本願が建てられてあります。この本願は、私達を救うにあたって私達に難しい条件を課さず、ただ如来回向の本願力のみで私達を往生成仏させて下さいます。例えば救いの条件が戒律を守ることだとしたら、戒律を守れないものは救いから落ちこぼれてしまいます。しかも世の中には戒律を守れる者は少なく、破戒の者は甚だ多いのです。救いの条件が沢山のお布施をすることだとしたら、布施のできない貧乏人は救いから落ちこぼれてしまいます。しかも世の中には裕福な者は少なく、貧乏な者は甚だ多いのです。

このように、善をする者を助ける本願であるなら、善のできない悪人は救いから落ちこぼれてしまいます。例えば最近述べる機会の多い第19願は、「発菩提心 修諸功徳」とありまして菩提心を発して仏教で説かれる様々な善根功徳を修めるという願です。菩提心を発す、諸々の功徳を修めるということについては、

【ツッコミ】自力から他力へさんのコメント

の記事で林遊@なんまんだぶ様から教えて頂いたことを紹介していますが、行自体は私達が考えている倫理道徳上の善とは比べ物にならない聖道の難行なのです。それで、親鸞聖人はこうした19願の善、定散二善は我々にはできないと教えられ、逆にそれらの善、また善に執着する自力心が、如来回向の真実信心を疑い反発することになりますから、19願や自力心を厳しく誡められているのです。

阿弥陀仏は、あまねく一切衆生を平等に救うために私達に布施や持戒等の厳しい条件を一切課さず、ただ如来回向の念仏一行を称えて救われる本願とされました。そして五劫永劫の思惟と御修行を経て、私達を往生成仏させる功徳の大宝海である南無阿弥陀仏を成就して下さったのです。その名号を、この私目がけて回向して下さり、私はその名号を聞いて念仏すればその時往生成仏が定まるという救いの法を完成なされたわけです。念仏を称えるのはいつでもどこでもどなたにでもできる至って易い行であり、しかも五劫永劫の願行がおさまっている円融無碍不可思議不可称不可説の至徳でありますから、他のどのような善も遥か及ばない最も勝れた選択本願の大行であります。

この阿弥陀仏の本願を説くことが釈尊出世の本懐であったことを、『大無量寿経』には

如来、無蓋の大悲をもつて三界を矜哀したまふ。世に出興するゆゑは、道教を光闡して群萌を拯ひ、恵むに真実の利をもつてせんと欲してなり。

【現代語訳】
如来はこの上ない慈悲の心で迷いの世界をお哀れみになる。世にお出ましになるわけは、仏の教えを説き述べて人々を救い、まことの利益を恵みたいとお考えになるからである。

と説かれ、『教文類』には、

それ真実の教を顕さば、すなはち『大無量寿経』これなり。
この経の大意は、弥陀、誓を超発して、広く法蔵を開きて、凡小を哀れんで選んで功徳の宝を施することを致す。釈迦、世に出興して、道教を光闡して、群萌を拯ひ恵むに真実の利をもつてせんと欲すなり。


【現代語訳】
さて真実の教を顕すならば、それは『無量寿経』である。
この『無量寿経』が明かそうとされている法義を要約すると、まず阿弥陀仏は、万人を平等に救おうという、諸仏に超え勝れた誓願をおこし、わけても愚かな凡夫を哀れんで、仏のみがしろしめすさとりの蔵を開いて、その無量の徳を南無阿弥陀仏という名号におさめて、施されていることが説かれています。この阿弥陀仏のこころを承けて、この世に出現された釈尊は、さまざまな経を説いて未熟なものを導かれましたが、その本意は、一切の衆生に阿弥陀仏の本願のいわれを聞かせて、往生させ、成仏させるという、真実の利益を恵むために、この経を説かれたといわれています。


と教えられています。

親鸞聖人は独自の「親鸞教」を説かれたのではなく、元を辿れば釈尊がお説き下された阿弥陀仏の第十八願の教法をご自身も疑いなく信じ、人にも教えて聞かせるばかりの方だったのです。


以前にもひろちゃんのコメントに返信する形で記事を書きましたが、未信の時は本願に救われるには「どうしたら」「どうすれば」ばかり考え、あるいは少しでも善に励んだらよかろうか、あるいは一回でも多く念仏称えた方がよかろうか、あるいは今の自分の心をもっと清くしていったらよかろうかと、方法論ばかり模索しがちです。既に阿弥陀さまの方で五劫永劫の願行を成就され、それを南無阿弥陀仏としてお受けするのみで往生成仏が定まるというのに、それでは足りぬと煩悩に満ちた我々が浅はかな考えを巡らしてあれこれとやっているのは何と愚かなことでしょうか。どれほど万行諸善に励もうと私達の力は及ばず、往生成仏はかないません。それどころか、諸行諸善ををあて力、たとりとしていますと、その自力心あるゆえに他力回向の信心を受け容れられなくなってしまいます。それで親鸞聖人は「獲信・往生のために」善を勧められなかったのです。

こうした我々の善の要らない阿弥陀仏の第十八願の教法を、得手に法を聞いて誤解した人々が多くいます。確かに本願を信じ念仏すれば、どのような悪を造っても往生の妨げにはなりません。しかし、煩悩の悪い心にまかせて思うがままにふるまってもよいのだという邪義に陥る人が、親鸞聖人時代も多くあったと見えて、聖人はお手紙で幾度も

煩悩具足の身なればとて、こころにまかせて、身にもすまじきことをもゆるし、口にもいふまじきことをもゆるし、こころにもおもふまじきことをもゆるして、いかにもこころのままにてあるべしと申しあうて候ふらんこそ、かへすがへす不便におぼえ候へ。

などと誡められています。煩悩にまかせてやりたい放題やり散らかしてはいけないということです。常識ある人なら当然理解できると思いますが、何しろ煩悩具足の我々ですから、中にはそういった邪義に陥り、周りにもそう言いふらす輩が出てきてもあり得ないことではありません。

「獲信・往生のために」善は要らないが、この世を生きていく上では倫理道徳上の善に心がけることは大事であり当然のことです。



さて、次の質問に答えたいと思います。

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一方、親鸞会は仏教により近いと言えるのでしょうか。
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これもまた誤解です。結論から言いますと、親鸞会は仏教もどき、浄土真宗もどきの新興宗教です。

教義上は善を勧めているように見えますが、実際に勧めているのは、主に

・高森会長の話を聞くこと
・親鸞会主催の行事に一つでも多く参加すること
・親鸞会に献金すること
・親鸞会に人を勧誘すること
・高森会長や上司の指示に無条件服従すること


などの善もどきの善です。親切や親孝行、朝晩のおつとめなども勧められますが、親鸞会で信仰が進むと考えられ、強烈にプッシュされているのは上に列記したようなことです。

親鸞会が真に浄土真宗の教えを正しく説く団体ならばまだしも、当ブログや他の批判ブログを読んで頂ければお分かりのように、親鸞聖人の仰せと高森顕徹会長の主張は全くと言っていいほど異なります。親鸞聖人が「右へ行け」と言っているのを高森会長は「左へ行け」と言っていると言っていいほど違います。高森会長は親鸞聖人の教えを私利私欲を満たすために利用しているに過ぎません。

【考察】親鸞会の「善の勧めの実践」と「自因自果」

にて述べていますが、高森会長及び親鸞会上層部の人間が廃悪修善をまともに実践しているとは言い難い事例が『さよなら親鸞会』には多数取り上げられています。教義に関することだけ挙げても、

・「親鸞会教義の誤り」への反論を依頼した特専部員を除名する。
・反論もしないのに、「これが親鸞聖人の正しい教えだ」と主張し、間違った教えを弘め続ける。「誤りを犯さないことを誇りとするよりも 誤りを直ちに改めることを誇りとしよう」ではなかったのか。
・大沼氏や伊藤氏から盗作しておきながら、あたかも自分が書いたものであるかのように振る舞う。
・意図的な断章をした御文を教学聖典に用い、会員に親鸞会ドグマを浸透させる。
・根拠が存在しなかったり、根拠が間違った御文を教学聖典に掲載し続ける。
・法論すれば相手の主張を歪曲し、相手があきれて論戦放棄すると、勝手に勝利宣言。
・過去の法論では頑なに自説を曲げなかったのに、後になってしれっとそれまでの主張を修正してくる。若不生者の「生」の解釈が典型例。㈱チューリップ企画と田中一憲の法論はまさに勝他のための議論。
・いつでも公開法論に応じると宣言していながら、『飛雲』との公開法論に4年以上も応じていない。


など、高森顕徹会長には教えを説く者としての誠実さはかけらもありません。団体名に「浄土真宗」「親鸞」の文言を使ってほしくないと常々言っているのはそうした理由があるからです。


今回はこれまでと致します。ご感想やご質問があればお寄せ下さい。私が答えられる範囲でお答えします。

19願の実践は他力への不可欠なプロセスなのか?

縦と横の線のマインドコントロール下では、只今の救いを只今の救いと捉えることは難しい

の記事に、阿弥陀仏から他力の信心を頂いた会員(自力から他力へ)さん(以降、「自力から他力へ」さんと呼びます)、三願転入不要さん方からコメントを頂きました。引用するには長いので、皆様方のコメントは上記事のコメント欄をご覧下さい。

自力から他力へさんは他力の信心を頂かれたようで何よりです。親鸞会に在籍していようといまいと、阿弥陀仏の救いに隔てはありませんからね。

ただ彼は親鸞会流三願転入の教えを支持する立場にあるようですので、当ブログとしては看過できません。そこで彼が仰るような、「19願の実践は他力への不可欠なプロセス」なのかどうか見ていきたいと思います。


まず最初に自力から他力へさんが引かれているのは『唯信鈔文意』のお言葉です。

 「具三心者必生彼国」(観経)といふは、三心を具すればかならずかの国に生るとなり。しかれば善導は、「具此三心 必得往生也 若少一心 即不得生」(礼讃 六五四)とのたまへり。「具此三心」といふは、三つの心を具すべしとなり。「必得往生」といふは、「必」はかならずといふ、「得」はうるといふ、うるといふは往生をうるとなり。

「若少一心」といふは、「若」はもしといふ、ごとしといふ、「少」はかくるといふ、すくなしといふ。一心かけぬれば生れずといふなり。一心かくるといふは信心のかくるなり、信心かくといふは、本願真実の三信心のかくるなり。『観経』の三心をえてのちに、『大経』の三信心をうるを一心をうるとは申すなり。このゆゑに『大経』の三信心をえざるをば一心かくると申すなり。この一心かけぬれば真の報土に生れずといふなり。『観経』の三心は定散二機の心なり、定散二善を回して、『大経』の三信をえんとねがふ方便の深心と至誠心としるべし。真実の三信心をえざれば、「即不得生」といふなり。「即」はすなはちといふ、「不得生」といふは、生るることをえずといふなり。三信かけぬるゆゑにすなはち報土に生れずとなり。雑行雑修して定機・散機の人、他力の信心かけたるゆゑに、多生曠劫をへて他力の一心をえてのちに真実報土に生るべきゆゑに、すなはち生れずといふなり。もし胎生辺地に生れても五百歳をへ、あるいは億千万衆のなかに、ときにまれに一人、真の報土にはすすむとみえたり。三信をえんことをよくよくこころえねがふべきなり。
唯信鈔文意

これは正覚法印が『唯信鈔』にて、『観無量寿経』の

具三心者必生彼国

というお言葉、また善導大師の『往生礼讃』にある

具此三心必得往生也 若少一心即不得生

というお言葉を引かれていまして、これらのお言葉についての解説をされている箇所です。

ちなみに、『飛雲』他力の三信をえんことをよくよくこころえねがふべきなりに、

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『観経』の三心をえてのちに、『大経』の三信心をうるを一心をうるとは申すなり。

と表現なされていますが、その結論が

三信かけぬるゆゑにすなはち報土に生れずとなり。雑行雑修して定機・散機の人、他力の信心かけたるゆゑに、多生曠劫をへて他力の一心をえてのちに真実報土に生るべきゆゑに、すなはち生れずといふなり。

と親鸞聖人は化土往生、つまり19願の自力修善を厳しく誡めておられます。

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とあります。自力から他力へさんの文章の一部に、これをコピペして前後を変えたような文章がありますね。『飛雲』の上のエントリーには、

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・19願の方便自力信心では化土往生になり、化土往生後に報土往生するというが、それは極めて稀なことであるから、他力信心をえることをよくよく心得て願いなさい、と仰っているのです。最初から最後まで他力信心を目指すのです。

・どこを読んでも19願を実践してから20願、18願へ進みなさいとは仰っていません。

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とありまして、『唯信鈔文意』のお言葉を始め列記されているお言葉は自力から他力へさんが仰るような、「三心を具すこと(19願の実践)は他力までの不可欠なプロセス(※三心を具すこと≠19願の実践)」を言われている文章ではありません。


その証拠が、『観無量寿経』下三品の往生です。『観無量寿経』には十種類の機が説かれているのですが、『飛雲』雑毒の善ができる下品下生???が分かりやすいのでそこから引用します。

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『観無量寿経』では、善悪の内容で機を十種に分けられています。

定善の機───定善
上品上生─┐
上品中生  ├─行福
上品下生─┘
中品上生─┐
中品中生─┴─戒福
中品下生───世福
下品上生───無善十悪
下品中生───無善破戒
下品下生───無善五逆


(中略)

定善のできる人が定善の機、行福のできる人が上品上生・上品中生・上品下生、戒福のできる人が中品上生・中品中生、世福のできる人が中品下生、善のできない十悪ばかり造っている人が下品上生、善ができず授けられた戒律を破る人が下品中生、善ができず五逆罪を造った人が下品下生なのです。

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上三品、中三品は散善の機であり、下三品は逆悪の機です。釈尊は中品下生の者までには善を教えていますが、下三品には善の勧めはなく、一貫して念仏を勧められています

親鸞会教義によりますと、我々は逆謗の屍だというのですから、『観無量寿経』で言えば間違いなく下品下生です。では、釈尊は下品下生の者に定善や散善を教えられているでしょうか?

仏、阿難および韋提希に告げたまはく、「下品下生といふは、あるいは衆生ありて不善業たる五逆・十悪を作り、もろもろの不善を具せん。かくのごときの愚人、悪業をもつてのゆゑに悪道に堕し、多劫を経歴して苦を受くること窮まりなかるべし。かくのごときの愚人、命終らんとするときに臨みて、善知識の種々に安慰して、ために妙法を説き、教へて念仏せしむるに遇はん。 この人、苦に逼められて念仏するに遑あらず。善友、告げていはく、〈なんぢもし念ずるあたはずは、まさに無量寿仏〔の名〕を称すべし〉と。かくのごとく心を至して、声をして絶えざらしめて、十念を具足して南無阿弥陀仏と称せしむ。仏名を称するがゆゑに、念々のなかにおいて八十億劫の生死の罪を除く。
命終るとき金蓮華を見るに、なほ日輪のごとくしてその人の前に住せん。一念のあひだのごとくにすなはち極楽世界に往生することを得。蓮華のなかにして十二大劫を満てて、蓮華まさに開く。観世音・大勢至、大悲の音声をもつて、それがために広く諸法実相・罪を除滅するの法を説く。聞きをはりて歓喜し、時に応じてすなはち菩提の心を発さん。これを下品下生のものと名づく。これを下輩生想と名づけ、第十六の観と名づく」と。
『観無量寿経』下品下生

【現代語訳】
 続いて釈尊は阿難と韋提希に仰せになった。
  「次に下品下生について説こう。もっとも重い五逆や十悪の罪を犯し、その他さまざまな悪い行いをしているものがいる。このような愚かな人は、その悪い行いの報いとして悪い世界に落ち、はかり知れないほどの長い間、限りなく苦しみを受けなければならない。
 この愚かな人がその命を終えようとするとき、善知識にめぐりあい、その人のためにいろいろといたわり慰め、尊い教えを説いて、仏を念じることを教えるのを聞く。しかしその人は臨終の苦しみに責めさいなまれて、教えられた通りに仏を念じることができない。
 そこで善知識はさらに、< もし心に仏を念じることができないのなら、ただ口に無量寿仏のみ名を称えなさい > と勧める。こうしてその人が、心から声を続けて南無阿弥陀仏と十回口に称えると、仏の名を称えたことによって、一声一声称えるたびに八十億劫という長い間の迷いのもとである罪が除かれる。
 そしていよいよその命を終えるとき、金色の蓮の花がまるで太陽のように輝いて、その人の前に現れるのを見、たちまち極楽世界に生れることができるのである。
 その蓮の花に包まれて十二大劫が過ぎると、はじめてその花が開く。そのとき観世音・大勢至の二菩薩は慈しみにあふれた声で、その人のためにひろくすべてのもののまことのすがたと、罪を除き去る教えをお説きになる。その人はこれを聞いて喜び、ただちにさとりを求める心を起すのである。これを下品下生のものと名づける。
 以上のことを下品のものの往生の想といい、第十六の観と名づける」


平生悪の限りを尽くして善というものをかつてしたこともなく、臨終の苦しみに責めさいなまれて教え通りに仏を念じることもできない極悪人が、やっとやっと10回ほど念仏を称えて往生したと説かれています。下品下生の者は19願、また定善、散善といった行は一切せず、念仏一つで往生しているわけですから、自力から他力へさんの主張は仏説に反していることがお分かり頂けると思います。

また、彼が主張している他力までの不可欠なプロセスを通らずして救われることを示している別の証拠が『涅槃経』に説かれる阿闍世の獲信です。親鸞聖人はこれについて『信文類』に事細かに引文なされています。

『飛雲』親鸞聖人が最重要視されたのに高森会長が全く知らない阿闍世の体験1

から7回に分けて紹介されていますので、まだ読まれていない方は上リンク先からどうぞ。

それから、自力から他力へさんが擁護しようとしている高森顕徹会長も不可欠なプロセスとやらを通らずして獲信しているようです。

『元会員から見た浄土真宗親鸞会』善知識 なぜか記した 体験記

に紹介されていますので、こちらも未読の方は上リンク先からどうぞ。


ところで自力から他力へさんは19願の実践は他力までの不可欠なプロセスと断言し、他力の信心を頂いたと仰っているのですから、当然19願、また定善、散善を実践された方と見受けます。であれば、少なくとも下三品の方ではなく、中品下生以上の善人だということになります。となると高森顕徹会長が主張している、全ての人は「逆謗の屍」という説に反していることにもなります。

我々が第十九の行者、定機、散機であれば、十九願の行や定善・散善を実践することもできますが、無善造悪の凡夫という自覚があるならば念仏以外に助かる手立てはありません。以下、『飛雲』悪人正機も理解できない親鸞会より。

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善導大師の弟子であった懐感禅師は『釈浄土群疑論』で

『観経』の下品上生、下品中生、下品下生の三処の経文には、みなただ弥陀仏を念じて浄土に往生すと陳ぶ。

と言われました。それを承けられて源信僧都は『往生要集』で

『観経』に「極重の悪人は、他の方便なし。ただ仏を称念して、極楽に往生することを得」と。

と言い換えられました。「極重の悪人」には、念仏以外の方便はないのです。逆に言えば、善人には念仏以外の方便があるということです。「定善の機」には定善、「上品上生」から「中品下生」までは三福が説かれていますので、善人には諸善という方便があるということです。

聖道門の学僧達は、『観無量寿経』を解釈して、善のできない悪人には劣行である念仏が説かれてあるが、釈尊の本意は勝行である諸善を勧められているとしました。親鸞会の発想は、聖道門と同じです。

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私は元会員だから分かるのですが、教義について非難された時の親鸞会会員の思考というのは

・高森先生の仰ることに絶対間違いない
・何とか親鸞会の主張を擁護しよう
・何とか相手の説を破ろう


というものです。しかし親鸞会教義というのは元々矛盾だらけであり、会員はお聖教のほんの一部のお言葉を前後の意味も知らずに知っているだけに過ぎませんので、一つ事を主張すると別の箇所で矛盾が生じ、その矛盾を埋めようとするとまた別の箇所で矛盾が生じてしまうという現象が起きてしまいます。

自力から他力へさんが19願の実践は他力までの不可欠なプロセスの根拠として挙げているものは、既に『飛雲』等で破られているものばかりです。この記事を考えて書いている間に既に「三願転入不要」さんがコメントして下さっています。しかし何という早さ(◎_◎)。とにかく私達は、19願や定散二善といった他の方便はなく、ただ念仏一つ(念仏一つという信心一つ)にて往生が定まります。

それと、19願の実践だとか定善散善などと言いますが、私は高森顕徹会長から具体的な19願の実践方法、また定善十三観や散善三観を教わった記憶がありません。定善十三観は退会後、現代語訳を読んで初めて知りました。在籍中やれと言われたのは、高森会長の話を聞くこと、親鸞会に献金すること、親鸞会に人を誘うこと、善知識の仰せに無条件服従すること、それから世俗の善(親切や親孝行等)をすること、などです。私は10年も在籍していませんでしたが、どなたか何十年と在籍していたという方で具体的な19願の実践方法、また定善十三観や散善三観を教わった記憶があるかどうか教えて頂けたらと思います。

最後に自力から他力へさんへ。親鸞聖人が「他力の信心を獲るために19願を実践せよ、定散二善をせよ」と仰った直接的な根拠をご提示下さい。それさえあれば貴方の主張にも正当性が出ますから。他力までの不可欠なプロセスだというのなら至る箇所に教えられていて全くおかしくありませんし、むしろ教えられていなければならないことです。

今回は長くなりましたのでこれまでと致します。

「仰せを聞いて安心するのではなく、仰せのみで安心してしまうのです。」 これはどういうことでしょうか。(頂いた質問)

私は先日、「阿弥陀仏は必ず救いとる」と信じて念仏したら、心がとても軽くなったのですが、これで私は信心決定したと言って良いのでしょうか。(頂いた質問)

の記事に、ベリーさんからコメントを頂きました。

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「仰せを聞いて安心するのではなく、仰せのみで安心してしまうのです。」
これはどういうことでしょうか。

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この言葉は、当ブログで掲載している『親鸞の世界』(加茂仰順師)のお言葉が元です。

正信偈の内容(12)ー凡夫のつまづきより

 先徳は「仰せで安心するのである。仰せを聞いて、わが胸の中へ持ちこんで安心しようとするのではない。仰せだけで安心してしまうのである」と申されていますが、まことに適切であります。仰せをわが胸に持ちこんでとは、仰せをわが胸に持ちかえて、計らい心を差しはさんで「これでよし」と心得ることです。いかにも大丈夫のようですが、そこに凡夫のつまずきがあります。これでよしとすることが、いつしか計らい心におちいっています。真宗は聞こえたまま、仰せのとどいたままこそ、計らいのないすがたであります。


大部言葉を端折っていたので分かりづらかったかも知れませんが、これでお分かりになるのではと思います。

以下、蛇足になるかも知れませんが補足させて頂きます。

普段私達が人から何かを聞く時、一つの事を聞いてもその人その人で受け取り方が違います。それは、各自が各自の知識や経験などを基に聞いたことを思考・整理して理解するからです。

これは日常生活を営む上では当然のことですが、阿弥陀仏の仰せを聞く時にこのような聞き方をするのは間違った自力の聞き方です。仰せを聞いて、我が胸の中へ持ち込んで、思考・整理して、「こういうことだろう」と理解しているのは、既に阿弥陀仏の仰せに対して自分で手を加えているのです。それは聞即信ではありません。

聞即信とは、聞いたままが信心ということです。「たすけるぞ」の仰せを聞く、その聞くままが信心ということです。「聞く→思考・整理→理解」という、一般の物事を聞く道程とは違います。だから仰せを聞いて、聞いたことを思考・整理して、「こういうことだろう」と理解して安心するのではなく、聞いたままの仰せのみで安心してしまうのです。このようなことが言いたくて先日申し上げました。

聞いたことを思考・整理するという凡夫の小賢しい詮索、また自分のそれまでの知識や経験から阿弥陀さまのお助けを判断しようとする先入観、こういったものを取っ払って、素直な気持ちで「助けるぞ」の仰せを「助けるぞ」と聞くのです。「助けるぞ」を「助かるぞ」などと持ち替えるのではなく、聞いたまま受け取るのです。「自分が」それまでの知識や経験を基に聞くのではなく、そういったものを抜きに「如来の方から」聞こえて下さるのです。そのお助けの聞こえたのが信心です。

他力の信心とは、凡夫の小賢しい詮索や先入観の入り混じる隙の無い、それらを差し挟む余地の無い、純度100%阿弥陀仏からの賜りものです。賜るといっても何かものを貰うということではなく、お助けの聞こえたまま、仰せのとどいたままが他力の信心です。


説明が拙くて申し訳ないです。お分かりになったかどうか、コメントお待ちしております。
また、「もっとこう言った方がいいのではないか」というご意見もお待ちしております。



【追記】
あさ川進さんからもコメントを頂いておりました。ありがとうございました。

おかるさん(六連島のおかる同行)の言葉に

「弥陀のお慈悲を聞いてみりゃ 聞くより先のお助けよ 聞くに用事はさらにない 用事なければ聞くばかり」

というものがあると教えて頂きました。

私もうまく説明できる言葉が見当たりませんが、同様の事を言っているのだと拝見します。有難いことです。

私は先日、「阿弥陀仏は必ず救いとる」と信じて念仏したら、心がとても軽くなったのですが、これで私は信心決定したと言って良いのでしょうか。(頂いた質問)

親鸞会の「欺瞞」の一つ、「善のすすめ」について

の記事にコメントを頂き、ありがとうございました。お寄せ頂いた情報では、今年の親鸞会報恩講の演題は

『恩徳讃』

だそうです。講師部員や幹部は「高森先生の御恩に報いるためにも多くの人をお誘いしましょう」なんて言い回しで会員の尻を叩いていそうですね。


さて、今回はこちらがメインですが、「ひろちゃん」さんより頂いた質問に答えたいと思います。

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ところで淳心房様はいつ信心決定なされたのでしょうか。親鸞会在籍のときなのでしょうか。それともお辞めになられてからでしょうか。

私は先日、「阿弥陀仏は必ず救いとる」と信じて念仏したら、心がとても軽くなったのですが、これで私は信心決定したと言って良いのでしょうか。

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まずは前半の質問からですが、私は今からおよそ7年前に信心決定しました。親鸞会を退会してからになります。詳しくは謹賀新年(2010年1月1日の記事)をご覧下さい。

次に後半の質問についてです。「これで私は信心決定したと言って良いのでしょうか。」ということですが、正直に申し上げて私にはひろちゃんの信心が真実信心か否かについては判りかねます。ただ信心決定とは如何なるものかについて再度述べていきますので、それによって判断なされたらよいと思います。以下、信心決定とはより、一部内容を変更して引用します。

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信心決定とは、南無阿弥陀仏、すなわち「我をたのめ、必ず助けるぞ」の本願招喚の勅命を自分の計らいを交えずに、そのまま受け容れたことをいいます。

・「聞其名号」といふは、本願の名号をきくとのたまへるなり。きくといふは、本願をききて疑ふこころなきを「聞」といふなり。またきくといふは、信心をあらはす御のりなり。(一念多念証文)

・「聞名念我」といふは、「聞」はきくといふ、信心をあらはす御のりなり。「名」は御なと申すなり、如来のちかひの名号なり。「念我」と申すは、ちかひの御なを憶念せよとなり、諸仏称名の悲願(第十七願)にあらはせり。憶念は、信心をえたるひとは疑なきゆゑに本願をつねにおもひいづるこころのたえぬをいふなり。(唯信鈔文意)

・信心獲得すといふは第十八の願をこころうるなり。この願をこころうるといふは、南無阿弥陀仏のすがたをこころうるなり。(御文章)


如来の誓いの名号を聞くのが信心ということです。本願の名号、南無阿弥陀仏を聞くことの外に信心はないということです。そして本願の仰せを受け容れているのは何も信一念だけではなく、只今の話なのですから、信心決定とは「極めて鮮やかなハッキリした体験」ということではありません。中には信一念の瞬間がどうだったのかをハッキリ記憶しているという人もあるかも知れませんが、それは問題ではありません。その記憶が本当に信一念の時だったのかという疑惑もあるからです。問題なのは、只今、「助けるぞ」の仰せを仰せのままに聞き受けているかどうかです。

現時点でひろちゃんが親鸞会会員なのか、退会者なのか、あるいは親鸞会とは全く関係がない方なのかは分かりません。次の機会に教えて頂ければと思いますが、親鸞会では「信心決定するとハッキリする」と教えていますので、信一念の瞬間にハッキリした自覚があるかどうかは問題ではないことをまずご理解下さい。


本願の仰せに疑いある間は、念仏を自分の功徳として称え、それを往生に役立てようという心があります。この自力心ある限り、いかなる聖者も善人も報土往生することはできません。

おほよそ大小聖人、一切善人、本願の嘉号をもつておのれが善根とするがゆゑに、信を生ずることあたはず、仏智を了らず。かの因を建立せることを了知することあたはざるゆゑに、報土に入ることなきなり。(化身土文類)
(大乗や小乗の聖者たちも、またすべての善人も、本願の名号を自分の功徳として称えるから、他力の信心を得ることができず、仏の智慧のはたらきを知ることがない。すなわち阿弥陀仏が浄土に往生する因を設けられたことを知ることができないので、真実報土に往生することがないのである。)


自力の心とはどんなものか、分かりやすく図で示しますと、

阿弥陀仏 ← 私

という私から阿弥陀仏へ救いを祈願請求する思いのことです。

「助かりたい」
「安心したい」
「ハッキリしたい」
「何とかなりたい」

という思いは勿論、このような思いが叶わず

「どうして助けて下さらないのか」
「こんなに苦しんでいるのに」

と文句を垂れているのもそうです。これが仰せを受け容れますと、

阿弥陀仏 → 私

という、阿弥陀仏から私への一方的なお救いであり、私の中には報土往生の足しになるようなものは何もないということに疑いなくなります。阿弥陀仏への祈願請求の思いは消え、「助けるぞ」の仰せの通りに救いを受け容れる(許諾する)のです。私が「助かりたい」と思う遥か以前に「助ける」と思い立たれ、五劫永劫の願行を成就して、衆生(私一人)の救いにかかりきりだった、という仏願の生起・本末を聞いて疑心有ること無しです。

「オレが聴聞している」
「オレが念仏している」

という、オレがオレがの思い(我執)が消え失せて、素直に「我汝を救う」の仰せに順う他力信心の行者とならせて頂くのです。これまでは

「助かりたい」
「何とかなりたい」
「こんなに苦しんでるのに何で助けてくれないんだ」

と自分の思いばかりぶつけて相手の話を聞こうともしなかったのが、

よくよくお慈悲を聞いて見りゃ助ける弥陀が手を下げて
まかしてくれとの仰せとはほんに今まで知らなんだ(尾添の数え歌)


と、世を超えた大慈悲心を知らされて慚愧の念が起きてまいります。

不思議なことに、妙好人や救われたという人が言っていた、謎かけか単なる言葉遊びだろと思っていたことが、その通りその通りと受容できてしまいます。上の数え歌もそうですし、例えば、

・私が南無阿弥陀仏と称えて救われるのではない、私の口から称えられる南無阿弥陀仏によって救われるのだ
・聞いたら助かるのではない、「助けるぞ」を聞くのだ


などもです。私も当初は意味がわかりませんでした。それが私から阿弥陀仏へ救いを祈願請求する心が消え、阿弥陀仏から私への一方的なお助けだと知らされて後は、まるで手のひらを返したように「そうだなぁ」と思わされるのですから不思議です。ひろちゃんはどう思われますか?

阿弥陀仏の「助けるぞ」の仰せ通りに後生をおまかせしたのが信心決定です。火に触れれば熱い、氷水を飲めば冷たい、と感じるように、「助けるぞ」の仰せをそのまま「左様にございますか」とお受けするのみです。仰せを聞いて安心するのではなく、仰せのみで安心してしまうのです。
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読んでみて如何でしょうか。自分の中に生死を出離できるようなものはなく、阿弥陀仏の一方的なおはたらきによる救いであることに疑いなければそれが信心決定ということです。私も、南無阿弥陀仏を聞き受けて当初は自分の信心が真実信心なのかどうかよく分からなかったのですが、私の中には信心らしきものは何もなく、強いて言えば南無阿弥陀仏しかないというものでした。それは今も同じです。

今回はこれまでといたします。ぜひ感想を聞かせて下さい。他にご質問ありましたら合わせてどうぞ。また、下に参照資料を載せましたので、お時間あれば目を通して頂ければと思います。


【参照】
『安心問答』「私は信心決定した」といえるなにか証拠のようなものはないのでしょうか。私は阿弥陀仏の本願はそうだなと思っていますが、なんだかもやもやします。(頂いた質問)

信心と念仏について

「唯信独達」と言いながら肝心かなめの「信」とは何かを完全に誤解させている親鸞会

の記事に沢山のコメントを頂いていましたが、中々お返事できずに幾日も過ぎてしまいました。すまぬ・・・

さて、「念仏と信心が別物と考えているのが、異安心」という高森邪義の異安心さんのコメントに対して、会員らしき人物が『御文章』の「聖人一流章」を挙げています。まず原文、現代語訳を『蓮如上人の『御文』を読む』五帖目第十通 聖人一流より引用しておきます。


 聖人(親鸞)一流の御勧化のおもむきは、信心をもつて本とせられ候ふ。そのゆゑは、もろもろの雑行をなげすてて、一心に弥陀に帰命すれば、不可思議の願力として、仏のかたより往生は治定せしめたまふ。その位を「一念発起入正定之聚」(論註・上意)とも釈し、そのうへの称名念仏は、如来わが往生を定めたまひし御恩報尽の念仏とこころうべきなり。あなかしこ、あなかしこ。

【現代語訳】 『蓮如の手紙』(国書刊行会 浅井成海監修)より
 親鸞聖人から伝わっているみ教えは、信心をもって、もっとも大切なこととされています。
 そのわけは、もろもろの雑行を行じる自力の心を投げ捨てて、ふたごころなく阿弥陀さまの仰せに従うならば、人知でははかり知れぬ仏の本願力によって、仏のほうから人びとの往生を決定してくださるからです。
 それによってわたくしどもが入ることのできる位を、曇鸞大師の『往生論註』には、「一念発起入正定之聚(本願を信ずる心が起こったそのとき、往生が定まり、かならず仏となる者たちの位に入る)」とも註釈されています。
 さて、そのうえの称名念仏は、如来がわたくしどもの浄土往生を定めてくださったご恩にお応えするためのお念仏であるーーとお受け入れください。あなかしこ、あなかしこ。



「聖人一流章」には特に信心正因称名報恩の義が強調されていますが、これは蓮如上人在世当時、浄土真宗内で「ただ口に念仏を称えさえすればたすかる」という考え方が流行していたためです。こうした間違った考えに対して、蓮如上人は度々「ただ口に念仏を称えていても、他力の信心の謂れを知らなければ助かりませんよ」と仰って、他力の信心を懇ろに教えられたのです。
では信心正因称名報恩だからとにかく信心が大事で、念仏は信後報謝に限るのかというとそうではありません。親鸞会では信心が一人歩きして念仏軽視の傾向が色濃いですが、高森邪義の異安心さんが示されているように真宗の信心とは「名号をとなへんものをば極楽へ迎へんと誓はせたまひたるを、ふかく信じて」という信心です。

尋ね仰せられ候ふ念仏の不審の事。念仏往生と信ずる人は、辺地の往生とてきらはれ候ふらんこと、おほかたこころえがたく候ふ。そのゆゑは、弥陀の本願と申すは、名号をとなへんものをば極楽へ迎へんと誓はせたまひたるを、ふかく信じてとなふるがめでたきことにて候ふなり。信心ありとも、名号をとなへざらんは詮なく候ふ。また一向名号をとなふとも、信心あさくは往生しがたく候ふ。されば、念仏往生とふかく信じて、しかも名号をとなへんずるは、疑なき報土の往生にてあるべく候ふなり。詮ずるところ、名号をとなふといふとも、他力本願を信ぜざらんは辺地に生るべし。本願他力をふかく信ぜんともがらは、なにごとにかは辺地の往生にて候ふべき。このやうをよくよく御こころえ候うて御念仏候ふべし。
 この身は、いまは、としきはまりて候へば、さだめてさきだちて往生し候はんずれば、浄土にてかならずかならずまちまゐらせ候ふべし。あなかしこ、あなかしこ。
『末灯鈔』

『教学聖典(4)』にある最後の文章のみ知っている会員さんばかりかと思いますが、前半部分はこのようなことが教えられているのです。弥陀の本願は「念仏する者を助ける」という誓いで、その本願の仰せを疑いなく信じて念仏する者は報土往生するというのです。このことから「念仏する者を助ける」の念仏は自ずから他力の念仏であると分かります。ですから、信心といっても念仏といっても、信心を離れた念仏もなければ、念仏を離れた信心もありません。『末灯鈔』の別の箇所では、

信の一念・行の一念ふたつなれども、信をはなれたる行もなし、行の一念をはなれたる信の一念もなし。そのゆゑは、行と申すは、本願の名号をひとこゑとなへて往生すと申すことをききて、ひとこゑをもとなへ、もしは十念をもせんは行なり。この御ちかひをききて、疑ふこころのすこしもなきを信の一念と申せば、信と行とふたつときけども、行をひとこゑするとききて疑はねば、行をはなれたる信はなしとききて候ふ。また、信はなれたる行なしとおぼしめすべし。

とも教えられています。「本願の名号を一声称えて往生する」という誓願を聞いて少しの疑いもないのが信心、そしてその誓願の通り南無阿弥陀仏と一声乃至十声称えるのが念仏です。「念仏を称えよ」というのは阿弥陀仏の仰せですから、真宗では念仏を強調して、念仏が勧められて当然なのです。ただ、その信心ということを抜かして、無信単称、ただ口に念仏を称えればたすかると教義を歪曲する者がいましたので、改めて信心について教えていかれたのが蓮如上人というわけです。決して、念仏は信後のお礼としてのみの無意味なもの、というわけではありません。

ところで親鸞会では強調されて、勧められて当然のはずの念仏が強調されず、蓮如上人が「なげ捨てて」と仰る雑行(もどき)の実践ばかりが強調されています。会員らしき人物が何やらかんやら言っていますが、「念仏を強調するのは浄土他流だ」とか高森会長自身が書いていること、著書にも念仏を勧めた箇所が見当たらないこと、因果の道理・19願・定散二善を根拠に善の勧めが強調されていることなどを踏まえて、数年会員を続けた経験がある方なら、表立った念仏の勧めがなく、善の勧めばかりが強調されているのはよくお分かりかと思います。信心を強調するのは結構ですが、その信心が一人歩きして念仏と分離し、あまつさえ「捨てよ」と言われる雑行を勧めているあたり、親鸞会が「浄土真宗」「親鸞」の看板を背負うに値しない団体であることは言うまでもありません。「(聖人一流章を)正しく読んで下さい」「看板変えろ♪バカちんが~」は高森会長、親鸞会にそっくりそのままお返しします。


ちなみに会員らしき人物が「読解力は自力の信心」とか訳の分からないことを言っているので、

まづ自力と申すことは、行者のおのおのの縁にしたがひて余の仏号を称念し、余の善根を修行してわが身をたのみ、わがはからひのこころをもつて身・口・意のみだれごころをつくろひ、めでたうしなして浄土へ往生せんとおもふを自力と申すなり。また他力と申すことは、弥陀如来の御ちかひのなかに、選択摂取したまへる第十八の念仏往生の本願を信楽するを他力と申すなり。『末灯鈔』

の御文を提示しておきます。本願を疑って本願の名号以外の仏号を称えたり、他の善根功徳を積んで往生しようと思うのが自力ですから、読解力と自力は別段関係ありません。読解力のなさを突かれ、悔し紛れの強がりに過ぎないことが一発でばれてしまいます。自力の信心だろうと読解力がある人はいますし、他力の信心の人でも学ばなければ読解力はつきません。まぁ高森会長の説く「三願転入の教え」が真実だと思い込み、諾々と活動しているだけではつくものもつかないばかりか、衰えていく一方ですが・・・。あ、だから「余の善根を修行して」は自力なのにそれとも気が付かないで、「親鸞聖人の教えには善の勧めがある」なんて邪義を真に受けて善もどきの善に勤しんでるんだ。納得です。早く親鸞会から離れて読解力を取り戻してください。

S会で使われるところの「信相」「機相」とは、真宗本来の語義とは全く掛け離れた、S会独自の用語(コメント欄より)

高森会長は機相で信心を語っている異安心

の記事にRudel様からコメントを頂きました。ありがとうございました。

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http://kondoutomofumi.blog121.fc2.com/blog-entry-291.html

↑このblogにも述べられていますが、S会で使われるところの「信相」「機相」とは、真宗本来の語義とは全く掛け離れた、S会独自の用語であり、当然、説明の内容もS会独自のオリジナル教義なんですよね。

自是他否のためにその場しのぎででっちあげた教義に過ぎませんから、自己矛盾が見え見えなのですが、S会にどっぷり浸かっているとそれにさえ気付けなくなってしまうんですよね。

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上記のURL(『21世紀の浄土真宗を考える会』機受の心相)の記事を引用しますと、「機相」「信相」について

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南無阿弥陀仏(帰命尽十方無碍光如来)の名号を全領した機受の心相が「信心」です。
(口に現れたのが、称名念仏です)

機受の心相を縮めて「機相」と言います。
(法徳に対する言葉です)

信心のすがたを「信相」と言います。
(「信相の一念」という時に使われます)

ですから「信相」と「機相」とは同じことです。

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と書かれています。また、「機相」「信相」に関して浄土真宗における「信相」と「機相」にも書かれていますので参照して下さい。

一方、『浄土真宗親鸞会公式ホームページ』徹底検証 三業安心と十劫安心によりますと、

「機」とは我々の身、口、意の三業である。

とあることから、親鸞会でいう「機相」とは、我々の身、口、意の三業のすがたということです。そして親鸞会でいう「信心を機相で語る」とは、「私はああだった」「こうだった」と三業(体験)で語ること、他人の三業で「あの人は獲信している」「あれはしていない」と言うことを指しています。
また、親鸞会でいう「信相」については明言されていませんが、おそらくそのまま(他力の)信心のすがたということでしょう。そして親鸞会でいう「信心を信相で語る」とは、真実の信心を常に万人共通の普遍的な表現で語ること、信前・信後の違いを、いつの時代でも共通する普遍的な説き方で語ることを言うようです。

以上のように、S会で使われるところの「信相」「機相」とは、真宗本来の語義とは全く掛け離れた、S会独自の用語であり、当然、説明の内容もS会独自のオリジナル教義なわけです。これは「機相」「信相」に限らず、宿善、方便などについても同様のことが言えます。親鸞会とは言葉だけ真宗で、中身は真宗とは全く異なる新興宗教団体だということが分かるよい例です。


なお、親鸞会は過去においては「機相」を、「機受の心相」という意味で使っていました。『清森問答』質疑応答161に書かれていますが、今は該当箇所だけ引用することにします。

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●信の一念の妙味は、あらゆる聖人の著書に記されていますが、中でも有名なのは『教行信証』信巻の御文でありましょう。
「それ、真実の信楽を按ずるに信楽に一念あり。一念とはこれ信楽開発の時尅の極促を顕し、広大難思の慶心をあらわすなり」
と、ズバリ一念の信を明記なされているからです。
(乃至)
 先ず、親鸞聖人が信楽一念の心相を述べられたこの大文章を、「機相ではない、どこまでも法徳談である」という大邪義から正さなければなりません。
 そもそも親鸞聖人は『教行信証』行巻において、
「行に一念あり、亦、信に一念あり」
と仰言って、先ず、行の一念を解釈しておられます。
 それが終って信巻で、次の信の一念に就いて述べられたものが今の文章でありますから、この文章は絶対に信一念の機相でなければなりません。
 これは明らかに、他力の信心を獲る時尅と、その時にある心相とを明示されたものです。
 慶心も慶喜も機受の信心をあらわす異名であることは、
「信心をうるを慶喜という」(唯信鈔文意)
「能発一念喜愛心というは、一念慶喜の真実信よく発すれば、必ず本願の実報土にむまるべし」(銘文)
とも言われていることでも明白な事実です。
 故にこの文章は、法徳の名をもって機受の心相を語られたものであり、いゝかえれば、信心の徳の名をもって機相の安心を示されたものです。

(こんなことが知りたい2 p206~p209)



 このように、「親鸞聖人は、機相を説かれた」とハッキリ書かれています。

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華光会を意識し、会員の流出を防ぐことに躍起になる余り、過去に自分がどのようなことを書いてきたかをお忘れのようですね。元々パクった文章ですから忘れてしまいましたか、高森会長? こうした多くの、過去と現在の矛盾点を知るだけでも退会には十分な要因です。こうしたことを知ってもさしておかしいとも感じず、なお高森会長を擁護しようとする思考の方は、まだまだMCからの脱却に時間がかかることでしょう。あるいは知っていてついていっている確信犯か。後者ならばろくな輩ではありません。そんな輩に騙されている会員さんが可哀想でなりません。

高森会長は機相で信心を語っている異安心

機相・信相のプリントに関する質疑応答

の記事に、山も山様、ヘルプ様からコメントを頂きました。ありがとうございました。その内、ヘルプさんが鋭い指摘をしています。

********************
そういえば「あの人は信心獲得している、していない」と言ってはいけないということなら、高森先生が講師部に対して「君達は十九願の入口にさえ立ってない」と言ったのも言ってはいけないことを言っちゃったということですね。
********************

全く、仰る通りです。機相・信相のプリントが正しいと仮定すると、高森会長は「君達(講師部)は信心獲得していない」と言っているも同然ですから、機相で信心を語っている異安心ということになります。会長自身、機相・信相のプリントの内容をよく把握していないということです。

また、新入生が入ってくるこの時期に先輩がよく受ける質問として、

「○○先輩は信心決定しているんですか?」

という質問があります。これもあのプリントが正しいと仮定するなら、信心決定しているとも、していないとも答えられないことになります。これを回避するには、せいぜい「勿論」とか言って誤魔化すしかないでしょう。まぁ「勿論」と答えるにせよ、「勿論しているよ」か「勿論していないよ」の二択しかありませんから、信心決定している、していないと言っているも同然なのですがね。これが、自分自身が「信心決定している、していない」と答える分にはいいのだとしても、新入生にとっては「○○先輩は信心決定している、していない」という認識を植えつけることになります。新入生は、先輩の三業以外の何で信心を判断するというのでしょう? 当然三業で判断するしかありません。こうして親鸞会では、せっかく誘った新入生を、親鸞会で言う「土蔵秘事とそれに類する者」と同類の思考にしてしまっています。親鸞会では代々このようにして勧誘がなされてきたのですから、講師部から幹部、末端会員まで皆「土蔵秘事とそれに類する者」と同類の思考です。道理で救われている者が皆無と言っていいほどいないわけです。ちなみにこのような質問をしなかった会員でも、「高森先生は信心決定している」と言われ、そのように思い、そして人にも言っているのですから、やはり「土蔵秘事とそれに類する者」と同類の思考に変わりありません。


もう4月になって、学友部の勧誘が活発になっている頃だと思います。新入生の皆さんには、カルトに染まらない大学生活、人生を送って頂きたいものです。そして染まってしまっている人も、その染みを抜いて正意の安心に基づき、本願を信じ念仏して下さることを願うばかりです。

結局体験談で釣るしかない親鸞会

今日もまた 得意に話す 体験談

の記事に、名無し様、ヘルプ様からコメントを頂きました。ありがとうございました。

********************
私が入会した20年くらい前は確かに普通に体験がどうとかは語られてましたねー。
機相がどうの心相がどうのと言われだした頃からもうおかしいなと思い始めてたので
なんか必死に他に逃がさんようにしてるなーと思ってました。確かこの人は頓機?の
人で(頓機?の人はめったにいないが)、親鸞会以外でも救われたんだとかいう説明
を受けたような記憶があります。この本を読めばこの人がケンテツ以外の人の話を聞
いて救われたということは誰もが思い至りますからね。いずれにしても親鸞会と関わ
ったのは不幸な出来事でしたね、といっても真宗についての理解も全くなかったでし
ょうから、3~5年くらいでやめてるのが自分にとって一番よかったのにとか思って
ます。
これだけ皆さんが頑張って親鸞会を非難しているから親鸞会の過疎化も相当激しいん
でしょうね、頑張って下さい。(名無し様より)


善知識方は信心を機相(いつ、どこで、どうやって)では語られていない、常に信相(万人に共通する言い方)で語られている。とかいうプリントだったかと記憶してます。
こういう内容自体がどこから作った話なのかよく分かりませんが、昔は末期癌会員さんの臨終間際での「往生ハッキリスッキリ」ビデオもありましたね。学生の夏合宿で毎回見てましたね。
あのビデオは中々の曲者でした。
会員さんは熱心に欠かさず聞法していて、かつ親鸞会に多く財施活動していた。モルヒネ投与を繰り返しボロボロになった状態での臨終に往生ハッキリスッキリしたと言い出した。周りの親族や伝え聞いた会長は「良かった、良かった」と獲信を認可している。
あれは強烈なインパクトがあって、自分の心の奥に「今獲信できずとも諦めず、聞法、財施などの光に向かっての活動に頑張っていけば臨終には必ず阿弥陀様が助けて下さるんだ、そして高森先生も喜ばれるんだ」という思いが植えつけられました。
数年前にも神奈川の主婦の方が病死する直前に救われたという話がありました。あの時も特選部医師連中や同じ支部の会員が自慢気に機相で語ってました。俺が導いたんだと言わんばかりに。
昭和の顕正新聞見たら「飛び上がった、堕ちきった、泣いた、叫んだ、這いずり回った」体験談がよく掲載されてます。
なぜか記した体験談。
まあ親鸞会は教義上での正しさはすべて崩されたわけだから、今後は体験談重視に切り替えて「お聖教に何と書いていようが、救われた俺の体験が証拠」とハッキリ言えばいいんじゃないかと。すでにそんなことを言い出してる講師や会員さんもいるのかも知れませんが。(ヘルプ様より)

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「個人的な体験談を語ってはいけない」と言い始めた親鸞会が過去も現在も体験談を語っていることは、

時代と共に変わる教え(3)-「高森氏 なぜか記した 体験記」

でも触れています。そもそも体験談を語ることは異安心だというのは、浄土真宗華光会を意識してのことでしょう。ところが、体験談を全く禁止してしまうと「親鸞会では救われている者がいないのではないか?」と会員は不安に思ってしまいます。いくら教えが正しい教えが正しいと言っても、その通りに救われている人、いわゆる生き証人がいなければその教えは所詮絵に描いた餅に過ぎません。そこで、機関紙には高森会長の話を聞いて獲信したという人の体験談を載せて、会員流出を防ぐと共に、組織拡大への意欲を増進させようと目論んでいるのです。

「高森先生から、仏教を聞かせていただいて、救われた話しなら、いいではござらぬか」

と戯言を言っている者もおりますが、親鸞会にとって都合がよければ何でもいいのでしょう。それなら

「増井先生から、仏教を聞かせていただいて、救われた話しなら、いいではござらぬか」

体験談はいけないと言っていても、結局体験談で釣るしかないのです。その先駆けか、『飛雲』信心を偽装しているのがバレバレのお粗末さではW弘宣局長が信心を偽装して不審会員の説得にあたっていると書かれています。教えが正しいと絶対の自信をお持ちなら飛雲さんとの法論に応じられたら如何かと思いますが、まぁ負けると分かっている戦をすることはないでしょうね。「書面で法論を申し込んだら、”検討する”だそうです」からお笑いものです。一人でも多くの会員の皆さんに、親鸞会の主張は一貫性がないということ、また公の場で法論できないのが親鸞会の実態であることを分かって頂きたいと思います。

根拠が示せずに持論を展開するだけならば、その持論は浄土真宗ではないと言っているようなもの

ものさしたる根拠が示せないなら、親鸞学徒ではなく高森学徒

の記事に、雑草さん、 maelstromさんよりコメントを頂きました。ありがとうございました。
確かに雑草さんの仰るように、「会員」さんのコメントには「???」という箇所が多々あります。雑草さんが抜き出した箇所は、以下の3つでした。

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2012/02/24 01:35
そんな名号が@私のものになった@とき、それは「信心」と呼称されるということ

2012/02/27 21:35
一つ例を挙げれば、我々人間は動物の肉を食べますよね。
しかし、それを食すことは立派な殺生です。直接殺さずとも、他殺で同罪である、と@教学聖典@にもありますね。動物の肉体を八つ裂きにしたのですから、それに応じた報いを地獄で受けると考えれば、少しはその恐ろしさを感じるのではないのでしょうか。
ですから地獄の認識が有ろうが無かろうが、そのような世界に堕ちたことは@分かります@。

2012/02/27 22:33
もちろん救われてからも、未来永遠に地獄はすみかの者の自覚がありますから、同時に未来世も分かるのですが、@それ以上に@、本願がまことだったとも同時に知らされますので、未来永遠救われることが知らされることにより、死後の世界(未来世)があると分かるのです。

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まず最初の「そんな名号が私のものになったとき、それは「信心」と呼称されるということ」ですが、「私のものになった」というのは高森会長がよく使う表現です。また昔、「信心をゲットする」などと言っているのを耳にしました。確かに、信心獲得とか、本願力回向の信心とか、如来よりたまはりたる信心と聞くと、私の側からは阿弥陀仏から何かを頂いてそれが私のものになるという印象を受けます。ですが信心とは、

「聞其名号」といふは、本願の名号をきくとのたまへるなり。きくといふは、本願をききて疑ふこころなきを「聞」といふなり。またきくといふは、信心をあらはす御のりなり。「信心歓喜乃至一念」といふは、「信心」は、如来の御ちかひをききて疑ふこころのなきなり。(一念多念証文)

とあるように、本願を聞いて疑う心がないことを言います。それを信心獲得とか、本願力回向の信心とか、如来よりたまはりたる信心と表現されているのです。「私のものになった」とか「信心をゲットする」といった表現は、こちらから求めて行って何かを手に入れたような印象をもろに受けますので、親鸞聖人のお言葉からは適さないように思います。

次の「直接殺さずとも、他殺で同罪である、と教学聖典にもありますね。」についてですが、私も疑問に思いました。「私も会員」さんへの返事とは言え親鸞会発行の『教学聖典』を根拠に自説を展開しているようですが、これは高森会長が造ったものであり、釈尊がどの経典に、あるいは親鸞聖人がどのお聖教にどう教えられているかを示されていなければ根拠にはなりません。しかし『教学聖典(1)』には、

問(31)
仏教で殺生に三通りある、と教えられているが、それを記せ。簡単な説明もせよ。

答(31)
○自殺―――――自分で生き物を殺す。
○他殺―――――他人に命じて殺す。
○随喜同業―――他人が殺生しているのを見て楽しむ心があれば同罪。


とだけあって、どの経典やお聖教を根拠にこのようなことを教えているのか不明です。『清森問答』親鸞会教義の相対化・31には、釈尊はこのような教え方をされていないとあります。「仏教ではこのように言われている」というのは、親鸞会がごまかしに使う常套手段です。『教学聖典』を根拠に出すあたり、「会員」さんは真摯な高森学徒のようです。

更に、「地獄の認識が有ろうが無かろうが、そのような世界に堕ちたことは分かります。」と書いていますが、これも謎ですね。自分自身が生み出す地獄というのがどういう世界なのか、その認識があるからこそ、地獄しか行き場がないとハッキリするというものでしょう。地獄の認識なくして、地獄に堕ちたことが分かるのでしょうか? 単に罪悪を畏れる心から地獄を想像しているだけでは、「分かります」とは言えないでしょう。

最後の「未来永遠に地獄はすみかの者の自覚がありますから、同時に未来世も分かるのですが、それ以上に、本願がまことだったとも同時に知らされますので、未来永遠救われることが知らされることにより、死後の世界(未来世)があると分かるのです。」ですが、未来永遠に地獄はすみかの者の自覚があるから未来世があると分かるが、未来永遠救われることも知らされるから余計に未来世があると分かるということでしょうか? どうも「会員」さんは、救われなかった場合の最悪の未来と、救われた故の最高の未来の2つがハッキリ分かっていらっしゃるようですが、やはり親鸞聖人や覚如上人、蓮如上人の信心とは異なる安心のようです。


獲信したら三世がハッキリわかるか

親鸞聖人 われとして浄土へまゐるべしとも、また地獄へゆくべしとも、定むべからず。(執持鈔)
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会員さん 自己の三世がハッキリする。地獄一定と極楽一定の自己がハッキリ知らされる。



本願の救いにあずかるには根拠がどうとかいった議論は不要ですが、その人の言っていることが親鸞聖人の教え通りなのかということについては、根拠に基づいて議論しなければなりません。根拠が示せずに持論を展開するだけならば、その持論は浄土真宗ではないと言っているようなものです。
プロフィール

淳心房&しゃあ

Author:淳心房&しゃあ
(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


(しゃあ)
平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
singikensho@yahoo.co.jp
(スパム防止のため@を大文字にしてあります。メール送信時は小文字に変えて下さい。)

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