S会で使われるところの「信相」「機相」とは、真宗本来の語義とは全く掛け離れた、S会独自の用語(コメント欄より)

高森会長は機相で信心を語っている異安心

の記事にRudel様からコメントを頂きました。ありがとうございました。

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http://kondoutomofumi.blog121.fc2.com/blog-entry-291.html

↑このblogにも述べられていますが、S会で使われるところの「信相」「機相」とは、真宗本来の語義とは全く掛け離れた、S会独自の用語であり、当然、説明の内容もS会独自のオリジナル教義なんですよね。

自是他否のためにその場しのぎででっちあげた教義に過ぎませんから、自己矛盾が見え見えなのですが、S会にどっぷり浸かっているとそれにさえ気付けなくなってしまうんですよね。

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上記のURL(『21世紀の浄土真宗を考える会』機受の心相)の記事を引用しますと、「機相」「信相」について

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南無阿弥陀仏(帰命尽十方無碍光如来)の名号を全領した機受の心相が「信心」です。
(口に現れたのが、称名念仏です)

機受の心相を縮めて「機相」と言います。
(法徳に対する言葉です)

信心のすがたを「信相」と言います。
(「信相の一念」という時に使われます)

ですから「信相」と「機相」とは同じことです。

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と書かれています。また、「機相」「信相」に関して浄土真宗における「信相」と「機相」にも書かれていますので参照して下さい。

一方、『浄土真宗親鸞会公式ホームページ』徹底検証 三業安心と十劫安心によりますと、

「機」とは我々の身、口、意の三業である。

とあることから、親鸞会でいう「機相」とは、我々の身、口、意の三業のすがたということです。そして親鸞会でいう「信心を機相で語る」とは、「私はああだった」「こうだった」と三業(体験)で語ること、他人の三業で「あの人は獲信している」「あれはしていない」と言うことを指しています。
また、親鸞会でいう「信相」については明言されていませんが、おそらくそのまま(他力の)信心のすがたということでしょう。そして親鸞会でいう「信心を信相で語る」とは、真実の信心を常に万人共通の普遍的な表現で語ること、信前・信後の違いを、いつの時代でも共通する普遍的な説き方で語ることを言うようです。

以上のように、S会で使われるところの「信相」「機相」とは、真宗本来の語義とは全く掛け離れた、S会独自の用語であり、当然、説明の内容もS会独自のオリジナル教義なわけです。これは「機相」「信相」に限らず、宿善、方便などについても同様のことが言えます。親鸞会とは言葉だけ真宗で、中身は真宗とは全く異なる新興宗教団体だということが分かるよい例です。


なお、親鸞会は過去においては「機相」を、「機受の心相」という意味で使っていました。『清森問答』質疑応答161に書かれていますが、今は該当箇所だけ引用することにします。

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●信の一念の妙味は、あらゆる聖人の著書に記されていますが、中でも有名なのは『教行信証』信巻の御文でありましょう。
「それ、真実の信楽を按ずるに信楽に一念あり。一念とはこれ信楽開発の時尅の極促を顕し、広大難思の慶心をあらわすなり」
と、ズバリ一念の信を明記なされているからです。
(乃至)
 先ず、親鸞聖人が信楽一念の心相を述べられたこの大文章を、「機相ではない、どこまでも法徳談である」という大邪義から正さなければなりません。
 そもそも親鸞聖人は『教行信証』行巻において、
「行に一念あり、亦、信に一念あり」
と仰言って、先ず、行の一念を解釈しておられます。
 それが終って信巻で、次の信の一念に就いて述べられたものが今の文章でありますから、この文章は絶対に信一念の機相でなければなりません。
 これは明らかに、他力の信心を獲る時尅と、その時にある心相とを明示されたものです。
 慶心も慶喜も機受の信心をあらわす異名であることは、
「信心をうるを慶喜という」(唯信鈔文意)
「能発一念喜愛心というは、一念慶喜の真実信よく発すれば、必ず本願の実報土にむまるべし」(銘文)
とも言われていることでも明白な事実です。
 故にこの文章は、法徳の名をもって機受の心相を語られたものであり、いゝかえれば、信心の徳の名をもって機相の安心を示されたものです。

(こんなことが知りたい2 p206~p209)



 このように、「親鸞聖人は、機相を説かれた」とハッキリ書かれています。

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華光会を意識し、会員の流出を防ぐことに躍起になる余り、過去に自分がどのようなことを書いてきたかをお忘れのようですね。元々パクった文章ですから忘れてしまいましたか、高森会長? こうした多くの、過去と現在の矛盾点を知るだけでも退会には十分な要因です。こうしたことを知ってもさしておかしいとも感じず、なお高森会長を擁護しようとする思考の方は、まだまだMCからの脱却に時間がかかることでしょう。あるいは知っていてついていっている確信犯か。後者ならばろくな輩ではありません。そんな輩に騙されている会員さんが可哀想でなりません。

高森会長は機相で信心を語っている異安心

機相・信相のプリントに関する質疑応答

の記事に、山も山様、ヘルプ様からコメントを頂きました。ありがとうございました。その内、ヘルプさんが鋭い指摘をしています。

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そういえば「あの人は信心獲得している、していない」と言ってはいけないということなら、高森先生が講師部に対して「君達は十九願の入口にさえ立ってない」と言ったのも言ってはいけないことを言っちゃったということですね。
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全く、仰る通りです。機相・信相のプリントが正しいと仮定すると、高森会長は「君達(講師部)は信心獲得していない」と言っているも同然ですから、機相で信心を語っている異安心ということになります。会長自身、機相・信相のプリントの内容をよく把握していないということです。

また、新入生が入ってくるこの時期に先輩がよく受ける質問として、

「○○先輩は信心決定しているんですか?」

という質問があります。これもあのプリントが正しいと仮定するなら、信心決定しているとも、していないとも答えられないことになります。これを回避するには、せいぜい「勿論」とか言って誤魔化すしかないでしょう。まぁ「勿論」と答えるにせよ、「勿論しているよ」か「勿論していないよ」の二択しかありませんから、信心決定している、していないと言っているも同然なのですがね。これが、自分自身が「信心決定している、していない」と答える分にはいいのだとしても、新入生にとっては「○○先輩は信心決定している、していない」という認識を植えつけることになります。新入生は、先輩の三業以外の何で信心を判断するというのでしょう? 当然三業で判断するしかありません。こうして親鸞会では、せっかく誘った新入生を、親鸞会で言う「土蔵秘事とそれに類する者」と同類の思考にしてしまっています。親鸞会では代々このようにして勧誘がなされてきたのですから、講師部から幹部、末端会員まで皆「土蔵秘事とそれに類する者」と同類の思考です。道理で救われている者が皆無と言っていいほどいないわけです。ちなみにこのような質問をしなかった会員でも、「高森先生は信心決定している」と言われ、そのように思い、そして人にも言っているのですから、やはり「土蔵秘事とそれに類する者」と同類の思考に変わりありません。


もう4月になって、学友部の勧誘が活発になっている頃だと思います。新入生の皆さんには、カルトに染まらない大学生活、人生を送って頂きたいものです。そして染まってしまっている人も、その染みを抜いて正意の安心に基づき、本願を信じ念仏して下さることを願うばかりです。

結局体験談で釣るしかない親鸞会

今日もまた 得意に話す 体験談

の記事に、名無し様、ヘルプ様からコメントを頂きました。ありがとうございました。

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私が入会した20年くらい前は確かに普通に体験がどうとかは語られてましたねー。
機相がどうの心相がどうのと言われだした頃からもうおかしいなと思い始めてたので
なんか必死に他に逃がさんようにしてるなーと思ってました。確かこの人は頓機?の
人で(頓機?の人はめったにいないが)、親鸞会以外でも救われたんだとかいう説明
を受けたような記憶があります。この本を読めばこの人がケンテツ以外の人の話を聞
いて救われたということは誰もが思い至りますからね。いずれにしても親鸞会と関わ
ったのは不幸な出来事でしたね、といっても真宗についての理解も全くなかったでし
ょうから、3~5年くらいでやめてるのが自分にとって一番よかったのにとか思って
ます。
これだけ皆さんが頑張って親鸞会を非難しているから親鸞会の過疎化も相当激しいん
でしょうね、頑張って下さい。(名無し様より)


善知識方は信心を機相(いつ、どこで、どうやって)では語られていない、常に信相(万人に共通する言い方)で語られている。とかいうプリントだったかと記憶してます。
こういう内容自体がどこから作った話なのかよく分かりませんが、昔は末期癌会員さんの臨終間際での「往生ハッキリスッキリ」ビデオもありましたね。学生の夏合宿で毎回見てましたね。
あのビデオは中々の曲者でした。
会員さんは熱心に欠かさず聞法していて、かつ親鸞会に多く財施活動していた。モルヒネ投与を繰り返しボロボロになった状態での臨終に往生ハッキリスッキリしたと言い出した。周りの親族や伝え聞いた会長は「良かった、良かった」と獲信を認可している。
あれは強烈なインパクトがあって、自分の心の奥に「今獲信できずとも諦めず、聞法、財施などの光に向かっての活動に頑張っていけば臨終には必ず阿弥陀様が助けて下さるんだ、そして高森先生も喜ばれるんだ」という思いが植えつけられました。
数年前にも神奈川の主婦の方が病死する直前に救われたという話がありました。あの時も特選部医師連中や同じ支部の会員が自慢気に機相で語ってました。俺が導いたんだと言わんばかりに。
昭和の顕正新聞見たら「飛び上がった、堕ちきった、泣いた、叫んだ、這いずり回った」体験談がよく掲載されてます。
なぜか記した体験談。
まあ親鸞会は教義上での正しさはすべて崩されたわけだから、今後は体験談重視に切り替えて「お聖教に何と書いていようが、救われた俺の体験が証拠」とハッキリ言えばいいんじゃないかと。すでにそんなことを言い出してる講師や会員さんもいるのかも知れませんが。(ヘルプ様より)

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「個人的な体験談を語ってはいけない」と言い始めた親鸞会が過去も現在も体験談を語っていることは、

時代と共に変わる教え(3)-「高森氏 なぜか記した 体験記」

でも触れています。そもそも体験談を語ることは異安心だというのは、浄土真宗華光会を意識してのことでしょう。ところが、体験談を全く禁止してしまうと「親鸞会では救われている者がいないのではないか?」と会員は不安に思ってしまいます。いくら教えが正しい教えが正しいと言っても、その通りに救われている人、いわゆる生き証人がいなければその教えは所詮絵に描いた餅に過ぎません。そこで、機関紙には高森会長の話を聞いて獲信したという人の体験談を載せて、会員流出を防ぐと共に、組織拡大への意欲を増進させようと目論んでいるのです。

「高森先生から、仏教を聞かせていただいて、救われた話しなら、いいではござらぬか」

と戯言を言っている者もおりますが、親鸞会にとって都合がよければ何でもいいのでしょう。それなら

「増井先生から、仏教を聞かせていただいて、救われた話しなら、いいではござらぬか」

体験談はいけないと言っていても、結局体験談で釣るしかないのです。その先駆けか、『飛雲』信心を偽装しているのがバレバレのお粗末さではW弘宣局長が信心を偽装して不審会員の説得にあたっていると書かれています。教えが正しいと絶対の自信をお持ちなら飛雲さんとの法論に応じられたら如何かと思いますが、まぁ負けると分かっている戦をすることはないでしょうね。「書面で法論を申し込んだら、”検討する”だそうです」からお笑いものです。一人でも多くの会員の皆さんに、親鸞会の主張は一貫性がないということ、また公の場で法論できないのが親鸞会の実態であることを分かって頂きたいと思います。

根拠が示せずに持論を展開するだけならば、その持論は浄土真宗ではないと言っているようなもの

ものさしたる根拠が示せないなら、親鸞学徒ではなく高森学徒

の記事に、雑草さん、 maelstromさんよりコメントを頂きました。ありがとうございました。
確かに雑草さんの仰るように、「会員」さんのコメントには「???」という箇所が多々あります。雑草さんが抜き出した箇所は、以下の3つでした。

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2012/02/24 01:35
そんな名号が@私のものになった@とき、それは「信心」と呼称されるということ

2012/02/27 21:35
一つ例を挙げれば、我々人間は動物の肉を食べますよね。
しかし、それを食すことは立派な殺生です。直接殺さずとも、他殺で同罪である、と@教学聖典@にもありますね。動物の肉体を八つ裂きにしたのですから、それに応じた報いを地獄で受けると考えれば、少しはその恐ろしさを感じるのではないのでしょうか。
ですから地獄の認識が有ろうが無かろうが、そのような世界に堕ちたことは@分かります@。

2012/02/27 22:33
もちろん救われてからも、未来永遠に地獄はすみかの者の自覚がありますから、同時に未来世も分かるのですが、@それ以上に@、本願がまことだったとも同時に知らされますので、未来永遠救われることが知らされることにより、死後の世界(未来世)があると分かるのです。

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まず最初の「そんな名号が私のものになったとき、それは「信心」と呼称されるということ」ですが、「私のものになった」というのは高森会長がよく使う表現です。また昔、「信心をゲットする」などと言っているのを耳にしました。確かに、信心獲得とか、本願力回向の信心とか、如来よりたまはりたる信心と聞くと、私の側からは阿弥陀仏から何かを頂いてそれが私のものになるという印象を受けます。ですが信心とは、

「聞其名号」といふは、本願の名号をきくとのたまへるなり。きくといふは、本願をききて疑ふこころなきを「聞」といふなり。またきくといふは、信心をあらはす御のりなり。「信心歓喜乃至一念」といふは、「信心」は、如来の御ちかひをききて疑ふこころのなきなり。(一念多念証文)

とあるように、本願を聞いて疑う心がないことを言います。それを信心獲得とか、本願力回向の信心とか、如来よりたまはりたる信心と表現されているのです。「私のものになった」とか「信心をゲットする」といった表現は、こちらから求めて行って何かを手に入れたような印象をもろに受けますので、親鸞聖人のお言葉からは適さないように思います。

次の「直接殺さずとも、他殺で同罪である、と教学聖典にもありますね。」についてですが、私も疑問に思いました。「私も会員」さんへの返事とは言え親鸞会発行の『教学聖典』を根拠に自説を展開しているようですが、これは高森会長が造ったものであり、釈尊がどの経典に、あるいは親鸞聖人がどのお聖教にどう教えられているかを示されていなければ根拠にはなりません。しかし『教学聖典(1)』には、

問(31)
仏教で殺生に三通りある、と教えられているが、それを記せ。簡単な説明もせよ。

答(31)
○自殺―――――自分で生き物を殺す。
○他殺―――――他人に命じて殺す。
○随喜同業―――他人が殺生しているのを見て楽しむ心があれば同罪。


とだけあって、どの経典やお聖教を根拠にこのようなことを教えているのか不明です。『清森問答』親鸞会教義の相対化・31には、釈尊はこのような教え方をされていないとあります。「仏教ではこのように言われている」というのは、親鸞会がごまかしに使う常套手段です。『教学聖典』を根拠に出すあたり、「会員」さんは真摯な高森学徒のようです。

更に、「地獄の認識が有ろうが無かろうが、そのような世界に堕ちたことは分かります。」と書いていますが、これも謎ですね。自分自身が生み出す地獄というのがどういう世界なのか、その認識があるからこそ、地獄しか行き場がないとハッキリするというものでしょう。地獄の認識なくして、地獄に堕ちたことが分かるのでしょうか? 単に罪悪を畏れる心から地獄を想像しているだけでは、「分かります」とは言えないでしょう。

最後の「未来永遠に地獄はすみかの者の自覚がありますから、同時に未来世も分かるのですが、それ以上に、本願がまことだったとも同時に知らされますので、未来永遠救われることが知らされることにより、死後の世界(未来世)があると分かるのです。」ですが、未来永遠に地獄はすみかの者の自覚があるから未来世があると分かるが、未来永遠救われることも知らされるから余計に未来世があると分かるということでしょうか? どうも「会員」さんは、救われなかった場合の最悪の未来と、救われた故の最高の未来の2つがハッキリ分かっていらっしゃるようですが、やはり親鸞聖人や覚如上人、蓮如上人の信心とは異なる安心のようです。


獲信したら三世がハッキリわかるか

親鸞聖人 われとして浄土へまゐるべしとも、また地獄へゆくべしとも、定むべからず。(執持鈔)
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会員さん 自己の三世がハッキリする。地獄一定と極楽一定の自己がハッキリ知らされる。



本願の救いにあずかるには根拠がどうとかいった議論は不要ですが、その人の言っていることが親鸞聖人の教え通りなのかということについては、根拠に基づいて議論しなければなりません。根拠が示せずに持論を展開するだけならば、その持論は浄土真宗ではないと言っているようなものです。

「幸福なのでも不幸なのでもありません。おそらく多忙なのでしょう」の言葉が実にピッタリ

行けども行けどもゴールの見えない、光に向かって進む道の記事にコメントを頂きました。ありがとうございました。今回はその一つを紹介します。

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これは講師や親友部などにも言えることでしょうね。
世間ごとにまみれず、仏法一筋の人生を送りたい、そうすれば自分のような気持ちの弱い者でも光に向かって進み、早く横の道を進んでいくことができるはず、という志から講師部や親友部(学顕クラブや安心弁当、農場スタッフも含む)に飛び込む人が多いかと思います。
ところが実際に職員になると、自分の担当任務、雑務、連絡・報告・把握の事務ばかりで、ほとんどパソコンに向かい合っている生活になります。
なぜ生きるの言葉を借りれば彼らは「幸福なのでも不幸なのでもありません。おそらく多忙なのでしょう」。忙しいという字は心を亡くしている状態、とよく学生部会で聞きましたが、最も人間らしい精神を失っているのが親鸞会会員さん達ではないかと思います。なぜ生きるに依存症の話が出てきますが、親鸞会の活動にのめり込んでいなければじっとしてはいられないのです。仏法に関係ないことでも、とにかく親鸞会の活動という名のもとに動き回っていれば、何か未来に明るい兆しが見えてくる、と信じているのです。そして息を切らせながら走るのです。
講師の方で、仮に休みの日があっても何か気持ち悪くて結局活動するだろうね、と語って下さった方がありましたが、まさに活動依存症です。
そういう講師が仏法のことに関する話といっても、基本新規入会者獲得、法話お誘いなどの顕正活動、高森先生のご教導の徹底というものばかりで、「わが信心は如何あるらん」「自身の往生極楽の信心獲得のため」の信心の沙汰はありません。
講師は会員の求道姿勢についてアドバイスはしても、自身の信心を吐露することはできませんし、しません。
会員さんからしたら親鸞会では後ろ向き発言は禁止ですし、疑問をあまり前面に出すと指摘されますから、誰も本音は語らないでしょう。「心底をありのままに語れ」と言う蓮如上人のお言葉通りの信心の沙汰など考えられないことです。だからあれだけ頑張っていた人がなぜ突然…という形での退会が後を絶たないのです。みんな誰にも疑問をぶつけられず去っていくしかないのです。
何事もいかに破邪するかということが先行する親鸞会では、相手の真摯な疑問や悩みもすべて否定し、より光に向かって進みなさいという回答しか持ち合わせていないのです。
何といっても会長自身が信心の沙汰を嫌っているのですから。あなたの(会長の)信心は如何あるらん、などと誰かに聞かれたら困るでしょう。だから信心の沙汰はまずしません。
富山に行ったらできる、行ったからできない、講師になったらできる、講師になったからできないという話ではなく、親鸞会にいる限り信心の沙汰はできないのです。
努めて信心の沙汰をやろうと話しあってみると、実際は会長の話の記憶力復習か、活動の沙汰しか出来ません。お互いの活動姿勢を確認しあって、もっと光に向かって頑張らないと…ということで終わりです。
会員時代信心の沙汰をある講師とよくしてましたが、最終的には「高森先生がお答えくださる」という回答でいつも終わっていました(もちろん会長は何も答えない)。情けないがこれが親鸞会での信心の沙汰らしきことの限界なんです。
まあ私個人は答えられないながらも、一生懸命私の悩みに心を寄せてくださったことは有難いと今でも深く感謝していますが。
親鸞聖人の花びら藤の巻に「阿弥陀仏の救いに諸善万行が間に合うのか、合わないのか、本当に力を尽くしてやってみて、初めてハッキリ知らされるのです」とあるように、とにかく活動に励め、励むために発破をかける手段として信心の沙汰らしきことをやっているにすぎません。

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私も、仕事をしながらではほとんど仏法(親鸞会の活動)のために時間を使えず、このままではまずいと何度思ったかわかりません。しかし気持ちの折れやすい自分には講師部はとても無理。親友部は同期の会員がなったが、学友部に所属して学顕クラブのような活動をしている。自分には毎日ATをやり続ける自信もない。安心弁当ができた時、そのスタッフになれたらいいなと思ったりもしましたが、そうこうしている内に教義の誤りを知って退会しまいました。
確かに言われる通り、講師部や親友部は、仏法と関係あるのかと思える活動(雑務、連絡・報告・把握の事務)が見ていて多かったです。それらに疲れてか、自分の担当講師はビデオ法話の際によく居眠りをしていました。当時は疲れているのだなと同情するだけでしたが、そんなことでは本末転倒ですね。
結局親鸞会の職員は、薄給で長時間、会にいいようにこき使われているだけです。本人は仏法のためだと思ったり、そう言い聞かせたりしているのかも知れませんが、どれだけ活動しようとも本願力回向の救いとは何の関係もありません。それを高森会長は「阿弥陀仏の救いに諸善万行が間に合うのか、合わないのか、本当に力を尽くしてやってみて、初めてハッキリ知らされるのです」と関係づけ(親鸞会の活動は諸善万行もどきですが)、自分に無条件服従させてお山の大将を気取っているのです。蓮如上人が切り刻んでも飽き足らないとは、彼のような仏法をねじ曲げて多くの人を巻き込み、それでいて平気な人のことを言うのでしょう。

「本当の親鸞聖人の教え」という看板を掲げながら、主要教義のほとんどが誤り。「光に向かって幸せな道を」と言いながら、実態は名無しさんが指摘されている通り。会員、職員の皆さんは本当に幸せなのでしょうか? 彼らには「幸福なのでも不幸なのでもありません。おそらく多忙なのでしょう」の言葉が実にピッタリきます。未だにこのような羊頭狗肉の教えを聞き、活動依存症になり、信心の沙汰もまともにできないような環境に身を置く方々は本当に哀れです。存命の内に誤りに気づいて脱会し、真実信心に基づいて頂きたいと願います。

行けども行けどもゴールの見えない、光に向かって進む道

親鸞会で本当の意味での信心の沙汰が行われない理由の記事に名無し様からコメントを頂きました。ありがとうございました。

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ある会員が、小杉にゆけば真剣に求めている会員が多くいて、信心の沙汰も深く出来るんだろうと思って転居したら、全然違うと言ってた。信心の沙汰では、会の法話や教学講義などで聞いたこと、会出版の本や顕真、新聞に書いてあることで関連しそうなところを記憶の中から引っ張り出して話す。記憶力の良し悪しの競争になっている。肝心の自分が救われるか否かがまったく問題になってない。特に、射水市太閤山あたりは会の職員が多いから、会の教義から逸脱するようなことは言わない。会員の模範として振る舞う。だから、求道に悩んでいるなどと、自分の心中は絶対言わない。また、会の任務で忙しいようで、そそくさと退散する。救われるには、まず小杉を離れ、会を離れないと。
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私もそう思っていましたが、やはり現実は自分の理想とはかけ離れているものです。
親鸞会で長く活動に頑張っている人が求道上の悩みなどを打ち明けたりしたら、心配されたり、後ろ向き発言と捉えられてしまったりしますね。今宵の後生を思えば真っ暗であるのに、今のままで本当に大丈夫なのか、自分は解決ができるのか、その不安を表に出せないのです。
また、こうして本音が言えないことに加え、本音をぶつけたとしても親鸞会には救いの法がないのです。救いの法を心得ている人がいないのです。結局は「もっと光に向かって進まなければ…」「もっと真剣に聞かせて頂きましょう」で終わってしまう。このように言われるのが関の山なので、少しでも頭が働く人は段々本音をぶつけることをしなくなってゆくのです。
行けども行けどもゴールの見えない、光に向かって進む道。私にはそう思えてなりませんでした。「いや、それは貴方の求道姿勢が甘いんだ、そんなことでは光に向かって進んでいるとは言えない」と言われればそうかも知れませんが、今日にも臨終が迫っているかもしれないのにそれではどう頑張っても間に合いません。縁あって、私はそんな道など真宗には存在しないと知ることができましたが、会員の皆さんが知るのはいつになることでしょうか?

親鸞会の教義が正しいと思い込んでいる限りは自力を捨てて他力に帰することはできません。

「もっと光に向かって進まなければ」
「もっと真剣に聴聞しなければ」
「もっと善をして信仰が進まなければ」
「もっと宿善厚くならなければ」


こういう思いこそ自力の計らいです。本当に弥陀の救いを求めるなら、自力の計らいを助長するような教えから離れて、今の救い、本願力回向の救いを説く人から聞いて頂きたいと思います。

Re:名無し様

「善(雑行)をせよ」と言うのなら、「五雑行」は心も行為も間違いどころか、大いに奨励されるべき行ですの記事に、名無し様からコメントを頂きました。有難うございました。

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往生行として、お金を出したり、親鸞会に勧誘したり、掃除したり、節約したりってのが自分にも理解できないですね。
お金を出す行為、勧誘をする行為単体は、弥陀の浄土への往生を願うことと直結してないですし、達成の明確な線引き、どのような善果が期待できるかの具体性もないです。
自然注意が散漫になって、弥陀一仏に向くことができなくなると思います。
これでは、いま善根が貯まってっているんだろうなという満足感の足しにはなっても、
この一座で、あるいはこの一行でって思いがおこらないのではないでしょうか?

自分は善をすることに反対はしないですが、
それで生死の問題を解決しようと設定しているなら、自分でこれなら解決できるという
たしかな手ごたえがあるものをしていくべきだと思います。
そういう努力をしている方こそ、自分の救われ難さが身に染みるのだと思います。
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>往生行として、お金を出したり、親鸞会に勧誘したり、掃除したり、節約したりってのが自分にも理解できないですね。

会員にとっては、無間地獄から逃れるため種々の活動・行為をしていることでしょう。あるいは、善のできない自分と知らされるためにしているという方もあるでしょう。しかし、往生・成仏を願っているという人はどれだけいるかと怪しく思います。高森信心に支配され、往生・成仏を願っていないから、このような活動を一大事の解決のためだと思ってやれるのかも知れません。まず彼らの頭で考えている目的が、仏教の目的と違っているという点から正見していってもらいたいです。


>お金を出す行為、勧誘をする行為単体は、弥陀の浄土への往生を願うことと直結してないですし、達成の明確な線引き、どのような善果が期待できるかの具体性もないです。自然注意が散漫になって、弥陀一仏に向くことができなくなると思います。

同感です。自分も会員であった時、「弥陀の救いを求めているのになぜ弥陀と疎遠な行をやるのかな?」と疑問に思っていました。献金、勧誘、掃除、節約などをしている時、目の前のことに頭がいっぱいで弥陀のことは忘れていました。


>これでは、いま善根が貯まってっているんだろうなという満足感の足しにはなっても、 この一座で、あるいはこの一行でって思いがおこらないのではないでしょうか?

その通りだと思います。いくら活動していっても解決の糸口さえ掴めませんから、「この一座で」という思いは消えていき、どんどん先延ばしになってしまいます。死ぬまでに解決できたら、あるいは遠生の結縁にでもなればいいと思っている会員も少なからずいるでしょう。
また、「この一行で」という思いは毛頭起こりようがありません。沢山の事を勧められますから。親鸞会で勧められる事は置いておいて、念仏一行を一心に称えて頂きたいものです。


>自分は善をすることに反対はしないですが、 それで生死の問題を解決しようと設定しているなら、自分でこれなら解決できるという たしかな手ごたえがあるものをしていくべきだと思います。 そういう努力をしている方こそ、自分の救われ難さが身に染みるのだと思います。

日常生活レベルの善(掃除、挨拶、親切、言行一致等)と、六度万行や定散二善などの仏教で言う善を同列に扱うのがそもそも間違いですよね。『飛雲』兆載永劫の御修行を、金集め・人集めにまで貶める高森会長にあるように、六度万行は法蔵菩薩のなされた行です。定散二善も、例えば散善は「なんぢいま、知れりやいなや。この三種の業は、過去・未来・現在、三世の諸仏の浄業の正因なり」(観無量寿経)とあるように行自体は聖道行です。同じ善という名前でも、中身が全く違うことを分かっている会員さんはどれだけあるでしょうか?
また、彼らが善をする目的の一つが「善のできない自分と知らされるため」ですから、最初からそんなことでは到底自分の救われ難さが身に染みることはないでしょう。

親鸞会の法話は19願に始まり19願に終わる(コメントより)

広島の名無し様よりコメントを頂きました。ありがとうございました。

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親鸞会においては、高森会長が主役となり、阿弥陀仏を脇役に据えてしまっている感がある。また、親鸞会の法話は19願に始まり19願に終わる。18願が小さく霞んでしまっている。
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まさにその通りです。

これは高森光晴布教局長に対する会員の態度ですが、会員は阿弥陀仏に挨拶する以上に気合いを入れて、真剣に挨拶をしていると感じます。私が会員だった頃は、法話や教学講義の休み時間に、布教局長へ挨拶するために長蛇の列ができていました。私は親鸞会の学階では大講師だったので、教学講義の時などは布教局長の少し後ろまで行くことができましたが、そこから会員の挨拶を眺めていると実に奇妙でした。復習もせずに我先にと、あるいは後に続けと挨拶に押し掛け、法話が始まるギリギリまで並んで、そんなに布教局長に自分や自分の地区のアピールをしたいのかと不思議でなりませんでした。挨拶を締めくくる際に頭を絨毯にすりつけて土下座状態の人も少なくありませんでした。おそらく今もそうなのでしょうが、布教局長に対してさえそうだということは、高森会長に面した時の会員の態度はおおよそ見当がつくと思います。親鸞会は本尊こそ南無阿弥陀仏ですが、会員の心は明らかに南無阿弥陀仏ではなく高森会長に向いています。会員にとってのナンバーワンは阿弥陀仏ではなく高森会長なのです。

また、これも私が会員だった平成21年当時は、会長の話がいつも19願で終わっていました。まさに「19願に始まり19願に終わる」というのがピッタリの内容でした。縦と横の線であればいつも右端の方の話ばかりで、肝心の18願のこころ、他力信心のおもむき、一念発起平生業成の義については聞いた記憶がありません。これでは、只今の救いを久しく求道していった先の、未来の救いだと聞く側が思ってしまっても仕方ないことです。―「救いは一念だが、そこまでは長い道程がある」―というのがほぼ全ての会員の理解でしょう。これでは一念の救いではなく、多念の救いであることに会員の皆さんは一刻も早く気がつくべきです。

釈迦一代の教えは何かと言うと、昔は「唯説弥陀本願海(正信偈)」を出して弥陀の本願一つ説かれたと話していましたが、最近では「浄土方便の善なり(一念多念証文)」を出して善の勧めを説かれているという話に切り替わっています。18願が小さく霞んでしまっている、というよりも、18願が消えてしまった、と言った方が適切かも知れないと思えるくらいです。

元々高森会長は18願のこころを正しく説いていませんが、近頃は乱れに乱れて19願を最重要視し、18願を説かなくなっております。18願を説けないというのもありますが、18願を説くことによる自分への利益がない、というのもあります。18願はただの救い、善は関係ない救いですから、説いても親鸞会に何の利益ももたらさないわけです。18願を説かないものですから、獲信者が0といっていい程いないのは当然なのです。いや、敢えて獲信者を出さないようにしているのかも知れません。獲信することによって、他力の信心を獲るために我々の善は関係なく、ひとえに本願力によるということが明らかになりますので、獲信者が出ると「獲信の因縁」として善を勧めている今の親鸞会には非常に都合が悪いのです。
親鸞会は高森会長の都合でどんどん教えが変わる単なる新興宗教であることに、会員の皆さんには何とか気がついてもらいたいものです。

私が苦労するのではありません。如来のご苦労を聞かせて頂くのです

クレジットカードの更新ハガキの記事に名無し様からコメントを頂きました。本日はそれを紹介し、読んで感じたことを書きます。


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流した涙の一滴一滴が、真珠の玉となって戻ってくる


最近これは嘘で人を騙すためのタームとして使ったのだろうと思っています。
涙はそんな見返りを期待させるために流させるものじゃないと思います。
その後で涙が流れるのでしょうが・・・・。

世の中にはいろんな涙があると思います。

皆で獲信していたらそれはそれは歓喜の涙だったかもしれません。
頑張った甲斐があった、涙を忍んでよかった云々。
法雨を忘れると自分の涙ばかり見そうですね。
これも信前の私には分かりませんが・・・。

退会して涙が流れる都度に過去が洗い流されていきます。
一皮剥けていくように感じます。
思い出として振り返る涙ならば真珠ではなく泥の玉のようです。
その泥の玉も涙で溶かして捨てていきたく思います。

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「嘘で人を騙すためのターム」というのは全く同感です。

「流した涙の一滴一滴が、真珠の玉となって戻ってくる」というと、私の努力、苦労が報われるかのような印象を受けます。「苦労が報われる」というならば、私の苦労が報われるのではありません。阿弥陀仏の五劫思惟のご苦労、兆載永劫のご苦労、十劫以来お立ちづくめのご苦労が報われるのです。阿弥陀仏が私一人を助けるために五劫思惟され、私一人を助けようと兆載永劫のご修行をされて南無阿弥陀仏の名号を成就され、十劫以来私一人目がけて喚び続けて下されていたご苦労が報われるのです。
ここを勘違いして「私の苦労が報われる」と思っているから、珍しい教えを聞いて「光に向かって進ませて頂きます」「善をしなければ信仰は進みません」と言っておれるのです。阿弥陀仏の救いにあずかるに、私の努力、苦労というものは無関係です。往生行としての諸善万行(「阿弥陀仏に救われようとしてやる諸善」と理解したらよいです)は雑行であり、親鸞会は捨てよと言われる雑行をやらせているのです。会員は雑行をやりまくり、そうやって苦労を重ねる度に「信心獲得した時に一切の苦労が報われるんだ」などという思いを強くします。自力の計らいの典型例ですね。こんな思いを後生大事に持っているから「只今救うぞ」の大悲招喚の勅命を聞き受けることができないのです。
かと言って勘違いしてほしくないのですが、「じゃあそういう思いを捨てたら聞けるのか?」というとそうではありません。「私が何かしたら聞ける」というのは自力の計らいであり、それは本願を聞くところに廃るのであって、自分で捨てようとして捨てられるものではありません。自力の計らいは常に救われる方法論を模索し続ける厄介者ですが、私の側に救われる方法論などありません。方法論が無いから「只今救うぞ」の仰せを聞くのです。如来の方から聞こえて下さいます。私が弥陀の救いについて何か特定の概念(「こうしたら救われる」「救われたらこうなる」「救われる瞬間はこうだろう」などという思い)を抱いて聞こうとすると、その思いを優先して如来の本願を撥ねつけます。そんな概念は「こうあってほしい」という私の「欲」です。本願は私の欲を満たすためにあるものではありません。計らいがむくむくと出てきたら「これは自力の計らいだな」と整理をつけて、ひたすら如来の仰せを聞いて下さい。仰せをそのまま聞く以外に何もありません。

人生の目的(弥陀の救い)と人生の目標(趣味・生きがい)は全く別物だと言いながら、人生の目的達成は自分の努力の延長線上にあるかのように説く親鸞会は、明らかに矛盾しています。往生のためには私が善をするとかしないとかは全く関係ないのに、関係づけて善もどきの善(献金、勧誘等)を勧めているのです。最近の親鸞会は善もどきの善の勧めがなりふり構わず、『飛雲』19願で阿弥陀仏が勧められている善は雑毒の善だ?????で紹介されているようにとんでもない邪義を唱え出している始末で、呆れて物が言えません。19願のどこに「雑毒の善でもいいからやりなさい」と仰っていますか? 「発菩提心」「至心発願」ですよ。本願どころか19願もねじ曲げる誹謗正法の団体です。
善をするのがよいことなのは当然ですが、別にそれは親鸞会にいようといまいと関係ありません。それどころか親鸞会で勧める善の大半は「親鸞会にとって都合がよいこと」であり、それを実践するためには「偽装勧誘」「嘘」等の悪を犯しても平気な者達ですから、そんな外道から離れて実践した方がよほどよいでしょう。会員の皆さん、これ以上親鸞会で活動して貴方に何の得がありますか? 長年苦労してこられたでしょうが、肝心の信は獲得できましたか? 今から死ぬまでに親鸞会についていって助かる見込みはありますか? 今死なねばならないとなったら後生大丈夫ですか? 他力回向に反して自力回向的な教えをさんざん聞かされているのですから、それをまともに実践していても助からないのは当然の話です。こちらが苦労(活動、努力)しなければならないのではありません。如来のご苦労を聞かせて頂くのです。今、ここで、私一人のためのご苦労を。

過去を思い出してつらいのは私もよく分かります。覚えた善知識方の直のお言葉以外は捨ててしまって構わないと思います。名無し様はご自身のことを信前と仰っていますが、ぜひとも如来の仰せ、如来のご苦労を聞いて下さい。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。

片や、罪に大小なし こなた、罪の重い この矛盾、ただしくは?

ふと疑問に思ったことの記事に絶倫棒様から質問を頂きました。今回はそれについてお答えしたいと思います。

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片や、罪に大小なし
こなた、罪の重い

この矛盾、ただしくは?

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この質問はため息様のコメントをご覧になっての質問だと思われます。

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教学聖典(1)

問28 仏教で教える1番重い罪から順序よく三つあげよ。
答   (1)謗法罪(2)五逆罪(3)十悪

教学聖典(2)

問33 罪に大小なし と教えられたお言葉と、その根拠を示せ。
答   もとより罪体の凡夫、大小を論ぜず、三業みな罪にあらずということなし。

この問いと答えの是非は置いといて、矛盾していますよね。
方や 罪に重い軽いがあると言い 方や罪に大小が無い と言う。

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確かにこの二つの設問は矛盾しています。
これは、後者の文章の解釈が間違っているのです。この『口伝鈔』のお言葉は、「罪に大小なし」と教えられたお言葉ではないのですが、高森会長が「一切衆生必堕無間」の珍説を裏付ける根拠として、前後の意味を弁えずに断章したのでしょう。このお言葉は、『飛雲』会員との問答(五逆罪、謗法罪について)に現代語訳もついて載せられていますので、そこから引用します。

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一 罪は五逆・謗法生るとしりて、しかも小罪もつくるべからずといふ事。

 おなじき聖人(親鸞)の仰せとて、先師信上人(如信)の仰せにいはく、世の人つねにおもへらく、小罪なりとも罪をおそれおもひて、とどめばやとおもはば、こころにまかせてとどめられ、善根は修し行ぜんとおもはば、たくはへられて、これをもつて大益をも得、出離の方法ともなりぬべしと。この条、真宗の肝要にそむき、先哲の口授に違せり。まづ逆罪等をつくること、まつたく諸宗の掟、仏法の本意にあらず。しかれども悪業の凡夫、過去の業因にひかれてこれらの重罪を犯す、これとどめがたく伏しがたし。また小罪なりとも犯すべからずといへば、凡夫こころにまかせて、罪をばとどめえつべしときこゆ。しかれども、もとより罪体の凡夫、大小を論ぜず、三業みな罪にあらずといふことなし。しかるに小罪も犯すべからずといへば、あやまつても犯さば、往生すべからざるなりと落居するか、この条、もつとも思択すべし。これもし抑止門のこころか。抑止は釈尊の方便なり、真宗の落居は弥陀の本願にきはまる。しかれば小罪も大罪も、罪の沙汰をしたたば、とどめてこそその詮はあれ、とどめえつべくもなき凡慮をもちながら、かくのごとくいへば、弥陀の本願に帰託する機、いかでかあらん。謗法罪はまた仏法を信ずるこころのなきよりおこるものなれば、もとよりそのうつはものにあらず。もし改悔せば、生るべきものなり。しかれば、「謗法闡提回心皆往」(法事讃・上)と釈せらるる、このゆゑなり。


(現代語訳 石田瑞磨著『親鸞聖人全集 別冊』より)

一、罪は五逆・謗法を犯しても、浄土に生れることができると思って、しかもどんな小さな罪もつくってはならない、ということ。

同じ聖人の仰せであるといって、なくなられた師、如信上人が仰せられた。

世間のひとはつねに「どんな小さな罪でも、罪を恐ろしく思って、止めようと思えば心のままに止めることができ、善のたねは修め行おうと思えば蓄えることができて、これによって、阿弥陀仏の大きな恵みをうることもでき、またこれが迷いの世界を逃れる方法ともなるだろう」と思っている。しかしこの考えは、真宗の教えの根本にそむき、また先哲の口ずからお説きになったこととも違っている。まず、五逆罪などを造ることは、まったく諸宗の掟にふれるもので、仏法の本意ではない。しかしながら、悪を犯した愚かなひとは、その過去の宿業の原因にひかれて、これらの重罪をおかすのであって、これを止めることもおさえることも困難である。
また、「小さな罪であっても犯してはならない」と言うときは、愚かなひとでも思い通りに罪を犯さないでいることができる、とも受け取られる。しかしながら、もともと罪そのものを本性とする愚かものである以上、大・小の差別なく、身に行うこと、口に言うこと、心に思うこと、すべてが罪でないものはない。ところが、「小さな罪も犯してはならない」と言うときは、過って犯しても浄土に生れることはできない、と結着するものか。この点、よくよく考えをめぐらさなければならない。これは、仮に抑止する意味であろうか。抑止は釈尊の方便である。
しかし真宗の落ち着くところは阿弥陀仏の本願以外にはない。だから、小罪も大罪も、罪の詮索がしたいならば、どんな罪も犯さないでこそそのかいがあるので、犯さないでいることもできないあさはかな智慧を持ちながら、このように言うときは、阿弥陀仏の本願に帰して、身を託するものがはたしているだろうか。謗法の罪はまた仏法を信ずる心がないことからおこるものであるから、もともと浄土に生れる素質のあるものではない。しかし悔い改めるならば、生れることができるものである。だから、「謗法や闡提も回心すれば、みな浄土に生れる」と解釈されるのはこのためである。

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前後の文章を見れば分かるように、「罪に大小なし」と教えられたお言葉ではなく、「私達の三業で為すことは、大・小の差別なく罪でないものはない」と教えられたお言葉です。
罪にも五逆や謗法という無間地獄に堕ちる大きい罪もあれば、それらに比べると小さい罪もあります。ですから、「罪に大小なし」というのは珍説だということがお分かり頂けるでしょう。こんなことを説いている団体ですから、「嘘をついてでも真実が伝わればいい」とでも思って親鸞会だと言わずにキャンパスで偽装勧誘をしているのです。

なお、「私達の三業で為すことは、大・小の差別なく罪でないものはない」と言うと、「心で親をそしるのも五逆罪では?」と会員さんは思うでしょうから、改めて『飛雲』会員との問答(五逆罪、謗法罪について)をご覧頂ければと思います。
プロフィール

淳心房&しゃあ

Author:淳心房&しゃあ
(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


(しゃあ)
平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
singikensho@yahoo.co.jp
(スパム防止のため@を大文字にしてあります。メール送信時は小文字に変えて下さい。)

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