すがる

末っ子の三女がよく私にすがりついてきます。まだ伝い歩きができる程度で、一人での歩行はできないため、ハイハイでこちらに近づいてきては手を伸ばして私にすがりつき、抱っこを要求しているような感じです。トイレで用を足している時もやってくるため、「このタイミングで抱っこは厳しいよ~(´;ω;`)」ということも・・・

赤ちゃんのこうしたすがりつくという行為、しかし力が足りないため、赤ちゃんの手の力だけでは自分の体重を支え切れずに落ちてしまいます。また、にぎる箇所によっては赤ちゃんの力が邪魔をしてこちらも楽な姿勢で抱っこができないということもあります。自分にすがってくるのは嬉しいのですが、やはり親としては、赤ちゃんに力を抜いてもらって、素直にそのまま親にまかせてもらった方が楽に抱っこできます。それと、おむつ交換や着替え、食事など、子供が嫌がって勝手に動き回られると遅々として進みません。無理矢理やるとますます嫌がって、親が思う通りにできません。特に大の方は放っておきますと肌がかぶれてしまいますし、汚れたり濡れたりしたら着替えもマメにしないと体調を崩す原因にもなります。きちんと食事を摂るのも健康・成長のために必要なことなのですが、子供には智慧がないため分からないのでしょう。まぁ自我の表れとして成長を喜ぶ半面、これらもやはり、素直にそのまま親にまかせてもらった方が煩わしくなくて助かります。


この「すがる」ということで思い出されるのが、「御袖」「御袖すがり」の御文章です。

『蓮如上人の『御文』を読む』五帖目第十二通 御袖すがり

には現代語訳付きで載っていますのでご覧下さい。

いまのごときの諸仏にすてられたる末代不善の凡夫、五障・三従の女人をば、弥陀にかぎりてわれひとりたすけんといふ超世の大願をおこして(2帖目8通)
阿弥陀如来こそひとり無上殊勝の願をおこして、悪逆の凡夫、五障の女質をば、われたすくべきといふ大願をばおこしたまひけり。(4帖目3通)

ですから、諸神諸仏に心をかけず、自余の万善万行を差し置いて、専ら阿弥陀仏一仏のみに、念仏一行に依らねば我々が後生助かる道は他に二つも三つもありません。しかしながら、

ひとすぢにこの阿弥陀ほとけの御袖にひしとすがりまゐらするおもひをなして

とあるからとて「助けて下さい」とすがりかかっても、その両の手では自己の罪悪の重さを支え切れずに沈むのみです。また、念仏を自分の善根として捉え、これを称えた功徳によって後生助かろうとするのも悪い自力の企てであり、これでは報土往生はかないません。自力の心ですがっていても、我々には浮かぶ力は無いのであります。ではどうするのかというと、それが次の

後生をたすけたまへとたのみまうせば

です。これも甚だ誤解が生じやすいところですが、要は

われひとりたすけん
われたすくべき

という超世の大願を、小賢しい凡夫の浅知恵を差し挟まずにそのままお聞きし、仰せの通りにおまかせしてしまえばよいのです。阿弥陀仏の八万四千の光明の中に抱き取られて、身も心もすっかりゆだねてしまえばよいのです。これが、「後生たすけたまへと弥陀をたのむ」ということです。念仏は阿弥陀仏が五劫の間思惟し、永劫の間修行して成就された選択本願の大行ですから、念仏一行を往生行にするということは正しく阿弥陀仏のお心にかなった行業なのです。彼の仏願に順ずるから称名を正定業というのです。これを凡夫の方で持ち替えて、念仏を称えるという自分の行為、称えた行為による功徳で助かろうとするのであればそれは悪い自力の心であって助かりません。あくまで名号願力によって助けられるのであり、そのお力を疑い無く受け容れたのが信心、それが口に出たのが称名念仏であって、我々の力が加わる隙は微塵もないのであります。

阿弥陀仏は「助けるぞ」「我にまかせよ」と真実の言葉で仰せなのですから、こちらの下らない詮索や先入観は捨てて、お言葉の通りに助けられたらいいのです。おまかせしてしまえばよいのです。阿弥陀さまがお連れ下さるその先がたとえ地獄であろうと、我々の業からして元々地獄なのですから文句の言い様がないでしょう?

我々の往く先? そんなことは阿弥陀さまに聞いたら早う分かります。兎にも角にも、我々は本願におまかせするばかりです。これが自力を捨てて他力に帰するすがたであります。

かへすがへす如来の御ちかひにまかせたてまつるべきなり。これを他力に帰したる信心発得の行者といふなり。
(中略)
さればただ地獄なりといふとも、故聖人のわたらせたまふところへまゐらんとおもひかためたれば、善悪の生所、わたくしの定むるところにあらずといふなりと。これ自力をすてて他力に帰するすがたなり。
(執持鈔)

なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ。



【参照】
安心論題/正定業義

なんか締めが林遊さんみたいになっちゃいましたが、まぁいいでしょう(;^ω^)

「浄土真宗 観勢寺」というfacebookのアカウントがあるそうです

浄土真宗 観勢寺

というfacebookのアカウントがあると情報を頂きました。いやいや、「親鸞会」が抜けてますよ~。観勢寺は既に親鸞会に譲渡されたのですから、「親鸞会」と付けないのはどうかと思います。教義内容からして「浄土真宗」でも「親鸞」聖人の教えでもないのですから、「高森教 観勢寺」というのが相応しいのは当然ですが、一応宗教法人「浄土真宗親鸞会」という名前でやっているのですから正式名称位名乗った方がよろしいかと。

浄土真宗親鸞会 観勢寺の紹介

こんな動画まで作っていることも教えて頂きました。英語や中国語などの字幕もあり、「日本より海外会員にアピールしているみたい」と仰っていました。お内陣や荘厳は「the 親鸞会」といった風で私も違和感を感じるところです。

お仏壇の上には「平生業成」、お仏壇に向かって左には「遇獲信心遠慶宿縁」、右には「即得往生住不退転」と書かれた額縁が飾られていますが、教えと全然マッチしていません。「平生業成」どころか一念の救いを求めて死ぬまで求道、ですから信心を獲られるわけもなく遠く宿縁を慶ぶなど夢のまた夢です。名号の謂れは正しく説かれていませんから信心歓喜するわけもなく、即ち往生を得て不退転に住するのはいつのことやら。

北陸道なら最寄りが立山ICと、小杉から近くありませんし、交通の便もあまり良くありません。また駐車場もあまり無さそうな感じです。リフォームしたばかりの現在はそこそこ使われているようですが、使用頻度としては各地にぼこぼこ建てた会館と似たようなものとなってゆくでしょう。豪華絢爛なリフォームをしてもね・・・という印象を受けます。観勢寺の維持費は会持ちなのかその地区の支部持ちなのかは分かりませんが、支部持ちだとしたら大変ですね。

映画を製作したと思ったら、祝賀会参加資格をちらつかせて映画の100枚券を買わせ、次はシネマ学院なる専用映画館まで造るそうですが、そうやって何やかんやと取りますね。その通りだと思った会員さんは、この機会に自分の今後の展望をよく考えてみましょう。このまま親鸞会で求めて後生助かるのかとか、今臨終となったらどうするんだとか。また、自分より熱心だったあの人を最近見ないという現象も各地で起きているかと思いますが、そういった人達は一体どうしているのかとかも、よく思いを巡らせてみたらよいかと思います。いっそ連絡を取ってみたらいいんじゃないでしょうか? 意外なことが分かるかも知れません。その事実を受け入れるのはよほどの地獄かも知れませんが、親鸞会で信心決定して喜ぶ自分の姿を展望できないという方はこの際やれることはやってみた方がよいでしょう。会員の皆さんの勇気ある行動・決断に、期待しています。

この前、長女(7)が針の穴に糸を通そうと苦戦していました。

「パパやって~」

と渡されたので仕方なくやるものの、私も中々できません。その時、

「すぐ目の前の針の穴に糸を通すのですら簡単にはいかないというのに、ヒマラヤ山の頂上から垂らした糸が、ふもとの針の穴に通るわけがないんだ」

と思いました。しかしヒマラヤ山と言っても子供にはピンと来ませんので、私は

「阿弥陀さまの教えに遇えるのは、屋根の上から垂らした糸が下の針の穴に通るよりも難しいんだって」

と話しました。遇い難い法に遇えて本当に良かったです。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。




ところで余談ですが、この「ヒマラヤ山の頂上から垂らした糸が、ふもとの針の穴に通る」のような譬え話、これは天台宗を開いた伝教大師の『願文』という著作に出てくる話だそうです。しかもその譬えの内容は、人間に生まれることの有難さを譬えたものとのことです。以下、『天台宗』優曇華(うどんげ)より。

伝教大師もまた『願文』で、「得難くして移り易きはそれ人身なり。・・・ここを以って、法皇牟尼は大海の針、妙高の線(いと)を仮(か)りて、人身の得難きを喩況し」と言い、人間として生をうけることの得難いことを、大海の中の一本の針を探すことや、須弥山(しゅみせん)の山頂から垂らした糸を山麓の針の穴に通すことに喩えています。

譬えの内容に仏法に出遇うことの有難さまで含めてもよいと思いますが、何にせよ親鸞会では出拠元の説明がありません。この譬え話もまた伊藤康善師や大沼法竜師からのパクリなのでしょう。

さて、盲亀浮木の譬えの出典は『雑阿含経』で間違いないようですが、『涅槃経』にも同様の譬えがあるそうです。以下、『「盲亀浮木の喩」と定家の恋歌』より引用。該当箇所は中ほど、(23)とある頁です。

 『望月仏教大辞典5』には『雑阿含経』第十五の用例と共に、以下のように記されている。
「盲亀浮木」盲亀の浮木に値遇し難きの意。雑阿含経第十五に「譬へば大地悉く大海と成るに、一盲亀あり、寿無量劫なり、百年に一たび其の頭を出す。海中に浮木あり、止だ一孔のみあり、海浪に漂流し風に随つて東西するが如き、盲亀百年に一たび其の頭を出し、当に此の孔に遇ふを得べきや不や。(中略)盲亀浮木復た差違すと雖も或は復た相得ん。愚痴の凡夫五趣に漂流し、暫く復た人身あらんこと甚だ彼よりも難し」と云へる是れなり。(4864 頁)


また以下、臨済宗妙心寺派・龍門寺・ご法話より引用。

また『涅槃経』にも「世に生まれて人となること難し、仏世に遇うことまた難し、尚大海の中にて、盲亀の浮木に遇うが如し」とあり、ご存知の有名な比喩であります。目の見えない亀が、大海に漂う丸太ん棒の穴に出くわすことが難しいように、人と生まれ、仏法に出会うことは得難いのだと。

「ヒマラヤ山の頂上から・・・」のような譬え話は「妙高の糸」と呼ばれるらしいですが、何経のどこに根拠があるかは現時点では割り出せていません。「法皇牟尼は・・・を喩況し」とありますから、お釈迦様が説かれたようではありますが・・・。ところで『WikiArc』トーク:愚禿に『願文』が載ってますね。林遊さんやっぱすげ~(゚д゚)!

と同時に、やはり高森顕徹会長の根本聖典は『仏敵』(伊藤康善師)、また大沼法竜師の著作が拠り所であり、教義内容から察するに『教行証文類』すらまともに読んだことがなさそうですから、出拠元に関しては実にいい加減な事が分かります。今は調べたいことはすぐに検索できますから、教義や組織のやり方に疑問を持った方は色々調べてみた方がいいですよ。勿論ネットの情報は玉石混淆ですから、内容を吟味する必要はありますが、このまま活動だけして信を獲られずに死んでゆく位なら絶対調べるべきです。以上、余談でした。

蓋(ふた)

私は仕事柄、配達の際にお客さんに印鑑を押してもらいます。ですがこの前、とあるお客さん宅で印鑑を求めたところ、いくら強く押しても印影が出ないということがありました。原因は、

蓋をしたまま印鑑を押していたから

でした。そりゃあそうですよねー(;^ω^) 最近のシャチハタは100均のでもきれいに印影が映るのですが、さすがに蓋をしていたら紙に印は映りません罠・・・


これで思い出されたのが、『信文類』

あきらかに知んぬ、至心は、すなはちこれ真実誠種の心なるがゆゑに、疑蓋雑はることなきなり。
信楽は、すなはちこれ真実誠満の心なり、極成用重の心なり、審験宣忠の心なり、欲願愛悦の心なり、歓喜賀慶の心なるがゆゑに、疑蓋雑はることなきなり。
欲生は、すなはちこれ願楽覚知の心なり、成作為興の心なり。大悲回向の心なるがゆゑに、疑蓋雑はることなきなり。


【現代語訳】
明らかに知ることができる。「至心」とは、虚偽を離れさとりに至る種となる心(真実誠種の心)であるから、疑いのまじることはない。
「信楽」とは、仏の真実の智慧が衆生に入り満ちた心(真実誠満の心)であり、この上ない功徳を成就した本願の名号を信用し重んじる心(極成用重の心)であり、二心なく阿弥陀仏を信じる心(審験宣忠の心)であり、往生が決成してよろこぶ心(欲願愛悦の心)であり、よろこびに満ちあふれた心(歓喜賀慶の心)であるから、疑いがまじることはない。
「欲生」とは、往生は間違いないとわかる心(願楽覚知の心)であり、往生成仏して衆生を救うはたらきをおこそうとする心(成作為興の心)である。これらはすべて如来より回向された心であるから、疑いがまじることはない。


のお言葉です。親鸞聖人は本願を疑う心を疑蓋、うたがいのふたと表現されています。本願力は私達衆生を迷いの世界から出離させ、往生成仏させようと常にはたらきかけているのですが、衆生の方でこれを疑うから生死にとどまるというのです。器にお茶を注ごうとしても蓋がしてあればどれだけ注いでも器にお茶は入らないように、どれだけ本願力がはたらいていても疑いの蓋が邪魔をしていたら往生はかないません。

ただ器の蓋は自分で自由に取れますが、疑いの蓋は自分で取ることはできません。如来の仰せを聞くところに取り去られます。「そなたを往生成仏する手はずは既に整えたから、どうか私にまかせてくれ」と、十劫の昔から喚び続けられている本願招喚の勅命に、そのまま「はい」と順うばかりです。「お前は迷いの世を出られん者だ、そのお前を迷いの世界から出させ、仏にするぞ」という誓いが私にはたらいていることが分かったら、こんな邪魔なものは要らないなと疑いの蓋が取れるのです。

聖者や善人ならいざ知らず、末代不善の凡夫、五障三従の女人である私達には、本願力に乗ずるより他にこの迷いの世界を出る手立てはありません。どうか本願招喚の勅命、なんまんだぶをそのまま聞き受け念仏し、往生を遂げて頂きたいばかりです。「助けすぞよ」を聞くのがすなわち信です。「助けるぞよ」を聞くことの他に信心はありません。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。


【参照】
WikiArc - 疑情

親の願い通りに子供が笑うと、その笑顔を見て親は喜ぶ

秋去り春去り、末っ子の三女もじきに1歳になります。早い・・・

相変わらず母親や子供達には敵いませんが、三女もずいぶんとなついてくれるようになりました。眠いとか、腹減ったとか、不機嫌でない限りは抱っこしてあやせばたいてい喜んで笑います。親が一方的に子供に与え、子供から与えられるものは何もないように思いきや、その無邪気な笑顔を見るととても嬉しくなります。苦労が吹っ飛ぶというのはちと言い過ぎですが、ちゃんと子供の方も、知ってか知らずか親に幸せを返してくれているのだなと感じます。

当流の安心のおもむきをくはしくしらんとおもはんひとは、あながちに智慧・才学もいらず、男女・貴賤もいらず、ただわが身は罪ふかきあさましきものなりとおもひとりて、かかる機までもたすけたまへるほとけは阿弥陀如来ばかりなりとしりて、なにのやうもなく、ひとすぢにこの阿弥陀ほとけの御袖にひしとすがりまゐらするおもひをなして、後生をたすけたまへとたのみまうせば、この阿弥陀如来はふかくよろこびましまして、その御身より八万四千のおほきなる光明を放ちて、その光明のなかにそのひとを摂め入れておきたまふべし。
(2帖目13通)

ちょうど親が「笑っておくれ」と子供に微笑みかけ、その願い通りに子供が笑うと、その笑顔をみて親が喜ぶように、「我をたのめ」という御親の願い通りに私達が弥陀をたのめば、阿弥陀仏は深く喜びましまして、たのむ衆生を八万四千の光明の内に摂取して決してお捨てになりません。弥陀をたのむとは、我々の小賢しい計らいや先入観を交えずに、「我にまかせよ、必ず救う」という阿弥陀仏の大悲招喚の勅命をそのまま聞き受け、仰せの通りに後生をおまかせすることです。また、阿弥陀仏は「名号を称える者を極楽へ迎える」と誓われているので、その誓いを計らいなく信じて念仏することです。

弥陀の本願と申すは、名号をとなへんものをば極楽へ迎へんと誓はせたまひたるを、ふかく信じてとなふるがめでたきことにて候ふなり。(末灯鈔12)

「なんまんだぶせい」という願い通りに私達が「なんまんだぶ」すると、「よう称えてくれた」と阿弥陀仏は深く喜ばれるのです。仏恩報尽の念仏とはよく言われたものです。

なんまんだぶすると、親様は大層喜んで下さるのですから、なるべくお念仏するようにしたいですね。
なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ

相変わらず都合の悪い質問には答える気がない親鸞会会員

久しぶりに親鸞会会員と思しき名無しさんがコメントしてきましたが、内容がこれです。

********************
「淳心房」様
このサイトに久しぶりに来てみましたが相変わらず、サイバー空間で遠吠えしているのですね。

>2.三大諍論で高森会長は信心を判定しているが、それは三業で判定していることではないのか言いなさい。

三大諍論は高森先生がされたのではないのですよ。親鸞聖人がされたのをご存じないようですね。浄土真宗の「イロハからやり直したら?
浄土真宗のイロハも知らない者の質問には答えようがないではありませんか。

精神科のA先生がそんな先生なら、なおさらあなたにふさわしいのでは?

********************

Web上のブログのことを「サイバー空間」とか言っている時点でこの方のお年の程が知られるというものです。私の記事内容が「サイバー空間で遠吠え」というなら、この人の書き込みも「サイバー空間で遠吠え」以外の何者でもありません。相手の事はよく見えるが、自分の事となるとサッパリ分からなくなってしまうようですね。

・真実の自己がハッキリ知らされないと、大悲の願船には乗せて頂けない
・(真実の自己が)ハッキリ知らされるところまで、仏法を聞くことが肝要


高森顕徹会長によればこういうことらしいですから、名無しさんが真実の自己をハッキリ知らされて大悲の願船に乗せて頂くのはまだまだまだまだ、甚だ未来の話でしょう。

それにホームページやブログで書くのが悪いというなら、

浄土真宗親鸞会 公式サイト

で色々書くのも悪いということです。またこんなのとか、こんなのはどうなんだという話です。


さて、都合の悪い質問には答えない親鸞会会員の特性がここにも出ています。一々「法然門下においてなされた三大諍論」と言わねばならないのかと呆れてしまいます。そして3番目の質問は完全無視です。現在、親鸞会に勧誘されて聞き始めたという方もあるかと思いますが、入れ込み様によっては、ひどい例だとこのコメント主のようになってしまいますのでどうか気づいて脱して頂きたいものです。

では、一部ONEさんが答えていますが、名無しさんには言葉を改めて質問を致します。

2.「法然門下においてなされた三大諍論」で高森会長は信心を判定しているが、それは三業で判定していることではないのか言いなさい。
3.淳心房が書いていることを「おかしな教義」と言っているが、具体的にどこがどのようにおかしくて、正しい教義はどうなのか、聖教に基づいて示しなさい。


ロクな返答は期待していませんが、お待ちしています。

「1億円の融資」から推測される、高森顕徹会長の深い欲望

親鸞会では「難度海を度する大船」「大悲の願船」という言葉を頻繁に使用し、アニメでも実写化して見せています。それはさながら鰹節を削ったようなボートだと揶揄されていることはご存じかと思います。

アニメ映画『なぜ生きる』を見た聴衆(会員?)が

「私も(大船に)乗せてもらえるのかしら?」

と声にしているそうですが、これは阿弥陀仏の本願に対する疑いの声なのだそうです。しかし、初めて見たような人ならともかく、何十年と聞いている人に対しても疑いを除かせないようにしているとは、高森会長の罪の深さが知らされます。本願を信じ念仏すれば仏に成る、煎じ詰めればこれだけの話を、やれ宿善を求めよ、やれ六度万行だ、やれ廃悪修善だ、やれ19願だ、やれ三願転入だとどれだけ真宗と無関係な教義を説いて会員の獲信・往生を妨げているのでしょうか? 本願に対する疑いの例え話として、先日の講師部講義では

ある銀行が「すべての日本人に対して1億円融資します」と広告を出した。「銀行は私に貸してくれるだろうか?」と思うのは、その広告を知らないか、その広告を疑っているから

と説明したそうですが、「融資」というのが面白いですね。実に高森顕徹会長らしい例えです。

融資」とは当然「借金」のことですが、そう言えば入会の際に下付される親鸞会版の携帯用正御本尊は「贈与」ではなく「貸与」です。一時的には与えるが、後で取り返す気まんまんというわけです。親鸞聖人の教えは「本願力回向」、一方的に与える教えなのですが、高森顕徹会長は「回向」「回施」「布施」という言葉の意味すら知らないのでしょう。入会金5万円と引き換えに安物のコラージュ本尊を貸し与え、形だけでも仏凡一体にしてやったんだから有難く思えとでも言いたいのでしょうか。そして私のものになったのではありませんから、家族に引き継がせることもできません。親鸞聖人は

ときに祖師の仰せにいはく、「本尊・聖教は衆生利益の方便なり、わたくしに凡夫自専すべきにあらず。いかでかたやすく世間の財宝なんどのやうにせめかへしたてまつるべきや。釈親鸞といふ自名のりたるを、〈法師にくければ袈裟さへ〉の風情に、いかなる山野にもすぐさぬ聖教をすてたてまつるべきにや。たとひしかりといふとも親鸞まつたくいたむところにあらず、すべからくよろこぶべきにたれり。そのゆゑはかの聖教をすてたてまつるところの有情蠢々の類にいたるまで、かれにすくはれたてまつりて苦海の沈没をまぬかるべし。ゆめゆめこの義あるべからざることなり」と仰せごとありけり。(外邪鈔)

と、離れてゆく弟子に与えた本尊・聖教を取り返そうとしなかったのに、これが

なにごともなにごともしらぬことをも、開山のめされ候ふやうに御沙汰候ふ(御一代記聞書159)

と根拠も出して説いている者の姿なのでしょうか。形だけでも仏凡一体にしてやったんだから(貸与)、その恩を感じて、これから本当の仏凡一体の身になりたければ高森先生への報恩(返済)をしなさいとでも言いたげです。以前に高森会長は「二千畳は無上甚深の功徳の宝を取引をするところ」とか宣ってたらしいですから、無上甚深の功徳の宝と引き換えに金銭、財産、労働力を捧げよということなのでしょう。それでいて無上甚深の功徳の宝は正しく説き与えず、捧げ物だけ頂くという、高森顕徹会長の深い欲望が感じられます。


無上甚深の功徳の宝である南無阿弥陀仏は、そのいわれをよくお聞きすることで私と一つになると教えられます。果てしなく迷いを重ね、しかもそれを自分ではどうすることも出来ない私を哀れに思召して、「我一人助けん」と五劫永劫の願行を成就され、なんまんだぶとなって既に私の元へ届いているその名号を、計らいや先入観を交えたり、我が胸に持ち替えたりせずにそのまま聞き受け念仏のみです。念仏とは私の口で「なんまんだぶ」と称える行為だとしか思えないかもしれませんが、念仏とは阿弥陀仏より回向せられる選択本願の大行でありますから、正しく往生が決定する行業なのであります。阿弥陀仏が「なんまんだぶ」せよと仰っている、その仏願に順ずるから称名を正定業というのです。

弥陀の本願と申すは、名号をとなへんものをば極楽へ迎へんと誓はせたまひたるを、ふかく信じてとなふるがめでたきことにて候ふなり。(末灯鈔12)

「名号を称える者を極楽へ迎える」という本願の誓いを深く信じて念仏するのが、阿弥陀仏のお心にかなうことなのです。救いを匂わせ、現世利益をちらつかせて聞く者を釣り、己の深い欲望の実現に会員を利用するだけして信心を獲させない高森顕徹会長のやり方は実に卑怯で許されるものではありません。

さてさて開山聖人(親鸞)の御流を申しみだすことのあさましさよ、にくさよと仰せられ候ひて、御歯をくひしめられて、さて切りきざみてもあくかよあくかよと仰せられ候ふと[云々]。仏法を申しみだすものをば、一段あさましきぞ(御一代記聞書241)

蓮如上人のこのお言葉は、高森顕徹会長の言動に対して言われているように思えてなりません。会員の皆様には、どうかこのような開山聖人の御流を申しみだすあさましい新興宗教の会長から離れて、本願念仏の教えに帰依して頂きたいと思います。

「信楽」とは信心であって幸福感ではない

日曜日の講師部講義で高森会長が面白いことを話していたことは

『飛雲』「念仏は無碍の一道なり」が判らず否定する高森顕徹会長

にある通りです。相も変わらずアニメ映画『なぜ生きる』の蓮如上人のお言葉

「聞く一つで、大船に乗せる」ということは、阿弥陀仏の命を懸けたお約束だからです

について話をしたらしく、阿弥陀仏は「十方衆生を相手に信楽の身にしてみせる」と、何とかの一つ覚えで18願を話していたようですが、今回は

信楽は「絶対の幸福」

と説明したそうです。『飛雲』”親鸞聖人の教えられた二河白道の譬え”から見る絶対の幸福にある通りで、最近の親鸞会はやたらと絶対の幸福を強調しています。変わらない幸福になれると、幻想的な楽をちらつかせて新規会員を獲得する気なのでしょうが、阿弥陀仏の本願がどのようなものが全く分かっていないところから生じる妄言です

まず「信楽」ということについてですが、本願の三心の一つで、仏願の生起本末を聞いて疑いない心です。これは自分で起こす信心ではなく、阿弥陀仏より回向せられる信心ですから「本願力回向の信心」と言われます。要は他力の信心、真実の信心であって、幸福感ではないことに注意して下さい。『教行証文類』では

信楽は、すなはちこれ真実誠満の心なり、極成用重の心なり、審験宣忠の心なり、欲願愛悦の心なり、歓喜賀慶の心なるがゆゑに、疑蓋雑はることなきなり。(信文類)

「信楽」とは、仏の真実の智慧が衆生に入り満ちた心(真実誠満の心)であり、この上ない功徳を成就した本願の名号を信用し重んじる心(極成用重の心)であり、二心なく阿弥陀仏を信じる心(審験宣忠の心)であり、往生が決成してよろこぶ心(欲願愛悦の心)であり、よろこびに満ちあふれた心(歓喜賀慶の心)であるから、疑いがまじることはない。

とあります。往生が決定した喜びに満ち溢れた心であることは確かですが、あくまで本願力にお遇いできた、遇い難い教えに遇えた、間違いなく仏に成ることが定まったことへの「慶喜」です。親や伴侶、子供と死別しても、また交通事故を起こして人をひき殺してしまっても喜んでいるとかいう「狂喜」ではありません。そして大事なのは「疑蓋無雑」、本願に対して疑いが雑じることがないという点です。ですから『尊号真像銘文』では

「信楽」といふは、如来の本願真実にましますを、ふたごころなくふかく信じて疑はざれば、信楽と申すなり。この「至心信楽」は、すなはち十方の衆生をして、わが真実なる誓願を信楽すべしとすすめたまへる御ちかひの至心信楽なり、凡夫自力のこころにはあらず。

と「疑蓋無雑」の点に絞って教えられています。本願が真実であることを、二心なく深く信じて疑いないことが「信楽」であるというのです。なので、世俗的な幸福を「相対の幸福」と呼び、「相対の幸福」と比較しての「絶対の幸福」「変わらない幸福」というのとは違うのです。おそらく会員の皆さんが「絶対の幸福」「変わらない幸福」と聞いて思い浮かべるのは、今まで味わった最高の幸福感以上の幸福感がずっと続くというようなことだと思われますが、先ほど申し上げたように「信楽」とは信心であって幸福感ではないのです。

生きていれば良い事もあれば悪い事もあります。「生まれてよかった」と喜べる時もあれば「死んだ方がマシだ」と深く沈む時もあります。我々の身口意の三業でやること言うこと思うこと、その全ては煩悩であり、煩悩は信前信後通じて変わらないのですから、幸福感は有ったり無かったり、大きくなったり萎んだり、常に一定ではありません。そんなもの、信前も信後も一緒です。幸福感は我々の心が感じるもの、すなわち煩悩であり、心はコロコロ変わり通しなのですから、一定のままずっと続くわけがないのです。

ただ、幸福感に満ち溢れている時でも、逆に何もかもが辛く嫌になって自殺したい気持ちでいっぱいの時でも、本願を疑う心は無いというのが「信楽」です。凡夫自力の心とは一線を画しています。

このようなことですから、世の無常や自己の罪悪を観じ、迷いを離れて永生の楽果を得たいというのであれば、「絶対の幸福」「変わらない幸福」だとかいう幻想的な楽を追い求めるのはやめることです。「絶対の幸福」「変わらない幸福」などというのは、蓮如上人のお言葉で言えば「五十年百年のうちのたのしみ」「栄耀栄華」の範疇を出ません。

ただふかくねがふべきは後生なり、またたのむべきは弥陀如来なり。信心決定してまゐるべきは安養の浄土なりとおもふべき(1帖目11通)

であります。そして、選択摂取したまへる第十八の念仏往生の本願を信楽することです。

また他力と申すことは、弥陀如来の御ちかひのなかに、選択摂取したまへる第十八の念仏往生の本願を信楽するを他力と申すなり。(中略)
他力は本願を信楽して往生必定なるゆゑに、さらに義なしとなり。 (中略)
本願の念仏を信楽するありさまをあらはせるには、「行住座臥を簡ばず、時処諸縁をきらはず」(意)と仰せられたり。
(親鸞聖人御消息)

19願も20願も、廃悪修善の実践も、宿善を求めることも要りません。ただ本願の念仏、南無阿弥陀仏を信楽するのみです。それは、小賢しい凡夫の計らいを交えずに、ただ願力にまかせることです。

往生はともかくも凡夫のはからひにてすべきことにても候はず。めでたき智者もはからふべきことにも候はず。大小の聖人だにも、ともかくもはからはで、ただ願力にまかせてこそおはしますことにて候へ。ましておのおののやうにおはしますひとびとは、ただこのちかひありときき、南無阿弥陀仏にあひまゐらせたまふこそ、ありがたくめでたく候ふ御果報にては候ふなれ。とかくはからはせたまふこと、ゆめゆめ候ふべからず。(親鸞聖人御消息)

南無(我にまかせよ)阿弥陀仏(必ず救う)の仰せをそのまま聞き受け、仰せの通りにただ願力にまかせて往生を丸投げしてしまうのです。いかにも他人まかせのように聞こえますがその通りです。後生、往生ほどの一大事、自分の力で何とかなりますか? 何とかなれるという人は聖道門に行って自力修行によって迷いを離れるでしょう。しかし、龍樹菩薩や天親菩薩といった像法の時の智人も念仏の法に帰依しているというのですから、我が身の程を思えば尚更念仏の法しかないでしょう。

幻想的な楽、現世利益をちらつかせて、会員から多くのお布施を出させ、新規会員を多く獲得するのが「よき講師部員」。また少しでも多くお布施し、会員獲得に尽力すればその分だけ横の道を進めるだろう、やらないよりはやった方がいいだろうと思っているのが「会員」。そうではないでしょうか? 多少違いはありますが、

これについてちかごろは、この方の念仏者の坊主達、仏法の次第もつてのほか相違す。そのゆゑは、門徒のかたよりものをとるをよき弟子といひ、これを信心のひとといへり。これおほきなるあやまりなり。また弟子は坊主にものをだにもおほくまゐらせば、わがちからかなはずとも、坊主のちからにてたすかるべきやうにおもへり。これもあやまりなり。かくのごとく坊主と門徒のあひだにおいて、さらに当流の信心のこころえの分はひとつもなし。まことにあさましや。師・弟子ともに極楽には往生せずして、むなしく地獄におちんことは疑なし。なげきてもなほあまりあり、かなしみてもなほふかくかなしむべし。(1帖目11通)

の坊主と門徒の関係は、親鸞会と会員の図式と非常によく似ています。要るのかどうかよく分からないハコモノをまた建てることに疑問を持った方は、この際教えの真偽をよく検証してみましょう。

会員の皆さん、「シネマ学院」なる映画館は本当に必要ですか?

『飛雲』「念仏は無碍の一道なり」が判らず否定する高森顕徹会長

にも少し触れられていますが、現在親鸞会では同朋の里に映画館を建設中で、

シネマ学院

とか命名したそうです。今年9月に竣工予定とのことです。


別に映画館なんか建てなくても、正本堂のスクリーンか何かに映して見りゃいいじゃんとか思いますが・・・

アニメ映画『なぜ生きる』は各地の公共施設で上映会が行われ、公共施設の上映がない所は1台4000万円のアニメバスで上映をしているそうで、今更親鸞会内だけの映画館が必要とは私も思えません。去年親鸞会版の吉崎御坊(リフォーム)を建てたと思ったら今度は専用映画館です。これにまた何億円とかかるのでしょう?

会員の皆さん、「シネマ学院」なる映画館は本当に必要ですか?

親鸞会会員の誤解―親鸞会でしか真実は説かれていない(3)

前回の続きです。「高森会長が話す人間のはかなさ、この世の無常などの話が正しいとしても、それが親鸞会教義全体が正しいという証拠になるか?」という問いを皆さんに投げかけていました。

中には薄々勘付いている会員さんもあるかと思いますが、答えは「証拠にはなりません」。

無常の話はあくまで無常の話であって、浄土真宗の教義体系とは別ものです。高森会長は無常などの世の真実を話した上で、時折り根拠を混ぜてもっともらしく教えを説くので、浄土真宗に疎い素人は騙されてしまうというわけです。

聖教の内容は読み誤りやすい。自己流に解釈するな。意味が判らなければ聞きなさい

という上からの指示も実に巧妙です。これによって会員は聖教の内容を自分で考えることをしなくなり、疑問に思うことがあっても質問したら大概丸め込まれてしまいます。その結果、親鸞会の邪義を存分に刷り込まれることになります。このように真実を一部取り入れた邪義を説いているため、その一部分の真実に惹かれて「正しい」と思ってしまうと、教義全体が正しいように錯覚、誤解、早合点してしまうのです。

この「一部分の真実」というのが、前回挙げた人間のはかなさ、命の短さ、この世の無常についてです。また『なぜ生きる』第一部にあるような、この世の幸せは続かないとか、欲を満たす喜び、仕事の喜び、愛する人との出会い、その他どのような趣味・生き甲斐・目標達成の喜びも、一時幸せでも続かないしキリがない、やがて老や病や死のために必ず崩れ去るといった話もそうです。他に、罪悪や煩悩に関しても正しい部分があります。こうした機の部分に関しては、邪義もあるものの概ね親鸞会で言われる通りと言っていいでしょう。

ところが、私達が阿弥陀仏に救われることに関して、すなわち救いの法という肝心かなめの部分については、勿論正しい解釈をしている所もありますが大部分は邪義だらけです。主要な教義に絞って見ましても、

・全ての人は死ねば必ず無間地獄に堕ちる
・全ての人は生まれながらにして五逆罪、謗法罪を造っている
・世の中に善人は一人もいない、全ての人は悪人である
・善をしなければ絶対に獲信できない
・白道は自力の求道心、信心
・19願の実践は必要
・定散二善や六度万行の実践は必要
・宿善の薄い者が、そのままで信心獲得はあり得ない
・宿善を積め、求めよ、厚くせよ
・獲信すると、逆謗の屍と必ず知らされる
・獲信すると、浄土往生することが火に触ったよりもハッキリする
・善知識に無条件服従せよ
・因果の道理を深信しなければならない
・三願転入しなければ蟻一匹救われない
・全ての人は19願から始めなければならない
・「聞く一つ」とは、聞いたこと(廃悪修善)を実践することを含む
・縦と横の線と人の図
・活動することで横の道を進み、縦の線に近づいていく


とまぁ実に沢山の誤りがあります。これに細部を合わせたらそれこそキリがありません。

親鸞会の教えは、一部分は正しいが教義全体で言えば邪義であります。ですから、人間のはかなさやこの世の無常といった機の部分はよく分かっても、救いの法の部分は矛盾点だらけでサッパリ分からないでしょう?

例えば現在只今助かると言われながら、相当求めても一向に横の道を進んだ気がせず、このままで助かるのか不安に思っている方はありますか? 極難信だからとか、方便が必要だとか、後生の一大事は人生賭けての最大事だとか色々理由をつけて救いを先延ばしにし、終いには臨終までに間に合えば万々歳、今生助からなくても遠生の結縁になればいいなどと考えている方はいないでしょうか? これは「現在只今助かる」は正しいのですが、高森会長が説く「横の道」が浄土真宗に存在しない、でっち上げの架空の道であるためです。

高森会長の教えに疑問を抱かず、諾々と従っている人は、『白骨の章』の話で言えば

・死は他人事であり、自分事と全く思っていない
・「人や先、人や先」としか思っていない
・明日死ぬとは全く思っていない
・いつかは死なねばならないとは思うが、腹底は永遠に死なないと思っている


人そのものです。「我や先」だと思えたら、今日明日にも死なねばならないと考えたら、白骨の章に書いてあることが「そうだ!」と分かったら、延々と信仰とやらを進めていってその先に救いが有るだか無いだか、有るとしてもそこまで自分が到達できるのかハッキリしない教えで満足できますか? 自分の命が今日一日しかないとしたら、その24時間の間にどれだけの善をして信仰が進んで助かるというのでしょうか? まして現在只今助かりますか? 答えは自ずとハッキリしてきます。親鸞会の教えで私は助からないと。それで私も、この人だけは辞めないだろうと思っていた先輩の退会をきっかけとして親鸞会から脱した一人です。

退会した当初は、それこそとくよしみねさんのこの記事にあるような気持ちでしたが、本願力にお遇いすることができて本当に良かったです。必堕無間の呪縛からも解放され、後生は阿弥陀さまにおまかせして安心です。

親鸞聖人の教えに矛盾はありません。現在、ここにいる、このままの私を「助けるぞ」と仰せられる阿弥陀さまの誓いをそのまま受け容れるだけです。私を助ける手筈は阿弥陀さまが五劫永劫の願行を成就し整えられており、既に十劫の昔から招喚しておられます。それは「なんまんだぶ」となって私の元へ届いていますから、私としてはこの誓いの御名を素直にお聞きするのみです。確かに自力で他力を掴もうとかかっている内は分からないことも当然ありますが、大丈夫です。煩悩に穢れた私の言葉は不真実ですが、「我にまかせよ、必ず救う」と阿弥陀さまが真実の言葉で仰せられているのですから大丈夫です。必ず助かります。この際親鸞会の教義や組織、度重なる朝令暮改の無理難題に疑問を持っている方は、邪義だらけの高森教から脱して本物の浄土真宗を聞き、真実なる誓願を信楽して念仏して頂きたいと思います。
プロフィール

淳心房&しゃあ

Author:淳心房&しゃあ
(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


(しゃあ)
平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
singikensho@yahoo.co.jp
(スパム防止のため@を大文字にしてあります。メール送信時は小文字に変えて下さい。)

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