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知りたい人にはどうしても知りたい、「生まれてきた理由」「生きる意味とその方向性」

人生、気が付くと既に始まっています。

私は4歳位からでしょうか、それくらいからおぼろげに記憶があります。便所で、曾祖母にケツを拭いてもらったことを覚えています。幼稚園で友達と砂場を掘ったり遊具で遊んだりしたこと、また園にいる時に大きな地震があったことも覚えています。庭で走っていて、自分ほど速く走れる者はいないだろうなんかと自惚れていた記憶が残っています。まぁそれは小学校の徒競走で見事に打ち砕かれましたが・・・。

4歳頃ですからある程度大きくなっていて、自分の頭や目、耳、鼻、口、手足、体があって、小さな物を掴んだり投げたり、歩いたり走ったり、食べたり飲んだりできることは分かりました。それから父母、祖父母、曾祖母、妹、近所の人や友達、先生など、多くの人達が周りにいることを知っていきました。住んでいる家、庭、周辺の地理も覚えていきました。色々な遊び、自転車の乗り方、読み書き計算、挨拶、その他様々な「生きる知恵」を習得し、段々世界が広がってゆきました。


そうやって大きくなってゆく過程から現在まで、勉強や様々な「生きる知恵」を教えてくれる人はありましたが、「生まれてきた理由」「生きる意味とその方向性」はこれだと教えてくれたのは、私には親鸞会しかありません。他は、まるで考えてない、関心が無い、どころか、触れるのがタブーかの如く、誰も問題にもしませんでした。

別に「生まれてきた理由」「生きる意味とその方向性」を知らなくても生きてはいけます。毎日毎日、変わり映えもなく台所とトイレの往復、家と会社の往復、寝て起きてを繰り返すだけの人生ならば。でもそれでは動物とは違う、人としての一生を生きたと言えるのか。これでは動物と変わらない一生ではないかと思ってしまいます。否、人間は動物と違って耐え難きを耐え忍び難きを忍んで生きている分、苦しみが深いのではないでしょうか。

人生が順風満帆であったり、生きるのに必死過ぎて心を亡くしている状態の時ならばこんなことは思いません。苦しみや将来の不安、身近な人の死や臨死体験など、考えさせられる縁でも来ない限り。そして、同じことの繰り返しで最期死ぬだけの人生ならば今死ぬのとさして変わらないと気付いてしまうと、どうしても「生きる意味」を知りたくなります。知ることができなければ生きていけません。そんな事、いっそきれいさっぱり忘れて楽しく生きられたらいいのですが、考えてしまった者からしたらそんな簡単に方向転換できないものです。


かく言う私も小学生、中学生位まではそこそこ楽しく生きていましたが、志望の高校に入った頃から段々とこの問題を考え始めました。というのも、私は小さい頃から母親に「○○高校に入学してもらいたい」と言われており、それを目標に生きてきたからです。当然高校入学で終わりではないわけで、目標を失った自分は迷いました。次は大学だと期待をかけられましたが、中学までと違って勉強量は膨大でキリがありません。なりたい職業があったとか、好きで勉強していたとかではなく、私は当時好きだった女の子が勉強ができたから勉強していたに過ぎなかったので、意味も分からずただ知識を詰め込むだけの勉強が徐々に苦しくなっていきました。

高校では、やはり天才というか秀才というか、上には上がいるもので、自分が最大限努力しても勝てない相手がクラスにいました。好きなTVゲームもやり過ぎて親がいい顔をしません。時々受ける模試の判定は苦手の国語が足を引っ張ってCとかDランク。迫ってくる受験を考えると暗くなるだけです。また、当時心の支えであり好きだった女の子への恋も実らず、思うようにならない現実に嫌気が差してきました。

自分は一体何がしたいのか。何をするためにこの世に生まれてきたのか。全く分からない。とにかく苦しい。この苦しい気持ちを抱いたまま生きてゆくのはつらい。その内にも通信教育の課題はドンドン溜まり、時間はドンドン過ぎていきます。やりたいことが分からないし、本当に欲しいものも得られない。将来に希望も持てない。親や先生の期待は重圧でしかない。しかも苦しいこの気持ちを分かってもらえない。他人にとっては「その位の事で何悩んでんだ?」と思うことでも、自分にとってはそれが全てと言っていい位大きいことだったのです。

高3の2学期、いよいよ苦しくなってきた私は「どうせ死ぬなら今死んだ方がマシだ」と自殺を決意しました。が、いざ死のうとすると真っ暗で、恐怖しかありません。それまでは死んだらタンパク質の塊になるだけ、自分は無になると考えていましたが、その考えは一変し、この言いようのない死への恐怖に驚き、負けて、自殺も断念しました。その頃の自分が自分に出した答えは、

「人生に意味は無い。自分には死ぬ勇気も無い。ならば無意味な人生を死ぬまで生きるしかない・・・」

というものでした。その後、奇跡的に大学に合格しましたが、この暗い心はどうにもなりませんでした。


知りたい人にはどうしても知りたい、「生まれてきた理由」「生きる意味とその方向性」。日本で自殺者が多いのも、新興宗教にハマる人が多いのも、こうした人生の根本的な問題が家庭でも学校でも、社会でも全く扱われていないからではないかと私は考えます。訳の分からない無意味な行動はできないように、意味も目的も分からない人生を明るく楽しく生きることができるはずがないからです。きっと、生きる目的や意味が分からないことが根本にあり、そこへ様々な苦しみが関係して自殺したり、新興宗教にハマったりするのだと思います。

だから、教義は間違いだらけですが、「人生の目的」「なぜ生きる」という親鸞会の問いかけまでは間違いではありません。むしろまともです。私はその答えを知りたい、人生の目的を果たしたいという気持ちがあったので、先輩の勧誘も手伝って入会しました。結果は散々でしたが、「親鸞聖人の教え」というところまでは間違っていませんでした。おかげさまで私は今、本願を信じお念仏を申して、往生を期として浄土への旅路を歩む身とならせて頂けています。「親鸞聖人の教え」の存在を示してくれた点のみ、親鸞会には感謝、感謝です。


親鸞聖人の教えには、人間の力では如何ともし難い生死の問題を超えてゆく、「生死出づべき道」が示されています。それが「念仏」であるということを一生涯通して明らかにされたのが親鸞聖人です。その教えによって、私はこの人生は迷いの世界を出離させる「念仏」に遇うための人生だったと知らせて頂きました。

勿論、人生の苦悩が全て解決されたわけではありません。今までの業報で、現在も様々に苦しみ悩んでいる事に変わりはありません。仕事、人間関係、病気、経済面、その他人生の一切の苦しみは、煩悩具足は変わりませんから、生きてある限り存在し続けます。しかし、真っ暗な死後の恐怖に怯え、無意味な生を受け入れて、空しさを抱えながら死ぬまで生きる人生ではなくなりました。

「生まれてきた理由」「生きる意味とその方向性」、更には「死んでゆく意味」をも知りたいという方には、聖人の教えを学び、そこに答えを見出すというのも一つの選択肢だと思います。浄土真宗に関心がある方は、

浄土真宗の法話案内

等で日時や場所を確認の上、参詣されてはいかがかと思います。

この世に「生まれる」ということ、「生きる」ということ、「生きてゆく」ということ

この記事で「命の大切さ」「生きる意味とその方向性」「死んでゆく意味」といったことを掘り下げてみたいと書いてから早や10ヶ月。それから随分と間が空いてしまいましたが、今日はこのことについて触れていきます。


私達はこの世に「生まれて」きました。英語で言うと

I was born.

そう、受身形です。学生の頃、

I was born:吉野弘

をチラッと読んだ記憶がありますが、これにある通り自分の意思とは無関係にこの世へやって来たのです。もしかしたら、過去世において「次こそは人間に生まれて仏法を修め、永遠に迷いを離れてこの上ないさとりを開くぞ」と固く誓って両親の元へやって来たのかも知れませんが、そんなことは覚えていません。ただ、気が付いたら自分という存在がここにあったのです。

前世はおろか、生まれてすぐや、赤ん坊の頃の記憶は全くありません。でも、前世はともかく、胎児だった時、生まれた時、赤ん坊だった時は確実にあったのです。母親のお腹の中で十月十日、肉体を分け与えられて、恐らく出産の際には自分には想像できない痛みと共に生まれたのです。その後もお乳を飲ませてもらったり、オムツを変えてもらったり、親からしたらつまらない遊びに付き合ってもらったり・・・。

きっと、転んで泣いた時は抱っこしてあやしてもらったのです。病気の時などは眠い目を擦り擦り看病してもらったことでしょう。自分は小さい時に庭の池に落ちて溺れてしまったと母に聞きましたが、その時は必死に救助されたのです。本能的に生きようとする意思があったというのもありますが、そんなものは微々たるもの。全く親のおかげで、周りの人々のおかげで、そして自分の血となり肉となるために犠牲になった豚や鶏、魚などの多くの命のおかげで「生かされて」きたのです。

この肉体は生まれた時からして既に母親の一部を分け与えられて始まっています。乳児期に飲むお乳も母親のものです。それ以後も、植物のように自ら栄養を産み出すことなく、水やお米、肉や魚、野菜、果物、その他数多くの命を頂くことで保っています。最初から最後まで、私のものだったものなど一つもありません。全て与えられたものです。全て頂いたものです。それを我が物顔に、「自分の命なんだから、生きようが死のうが自由」などと考えること自体、こうしたことが全く分かっていない証拠です。ただし、このようなことはよほど感性が鋭いか、教えてもらうかしなければまず分からないことでしょう。そういう教えが普段の生活や教育現場で説かれない現状は実に悲しいことです。


ただ、そうやってこの世に「生まれて」、「生かされて」いるのは何のためでしょうか? 確かにこの問いに答えが無くても生きてはいけます。また、現状に満足し、生きているのが楽しいならば疑問に思うことはありません。現在小3の長女も学校が楽しいようで、嫌なこともあるものの、まだこの問いを考えるには到っていないようです。ところが、行動する意味を考えずにいられないのが人間であり、生きるのが苦しければ問わずにはいられないのがこの問題です。

生物学的に言えば「子孫を残すため」ですが、じゃあ独身で子供の無い人、子供を産みたくても産めない人は生きる意味がないのかということになってしまいます。「富を築くため」かと言えば、多くの人は十分な金や財を得られず、しかも富豪でも自殺している人がいることを考えるとどうも違います。「地位や名声を得る」にしても、「なりたい職業に就く」にしても、「愛する人と結ばれる」にしても、そういった願望、欲望関係は違うようです。

誰か、こうした「生まれてきた理由」、「生きる意味」について考え、「これだ!」と納得のいく答えを導き出せた人はあるでしょうか? また親でも先生でも、こうした問いについて真摯に答えてくれた人はあったでしょうか?


これについて答えを持たずに生きるということは、実に薄っぺらい、そして危うい人生だと私は思います。人生の裸形は、「世の中は起きて箱して(糞して)寝て食って後は死ぬを待つばかりなり」と一休和尚が言ったように、同じことの繰り返しでやがて必ず死んでゆくというものです。

「生きる」とは、「死に向かって」進行していることであり、「生きてゆく」と言いますが、結局「死に向かってゆく」ということです。よく、苦しい状況に「死んじゃうよ」と言う人がありますが、そんな苦しみの象徴、嫌なものの象徴である「」に向かって刻一刻と我々は向かっているのです。ですから、「生まれてきた理由」、「生きる意味」を考えずに、知らずに生きるというのは、「死ぬために生きる」ようなものです。「起きて糞して寝て食って」なら動物だって立派にやっています。ですから以前、生きる意味とその方向性、そして死んでゆく意味を考えずに生きることは「ハッキリ言って動物と一緒」だと書きました。

ところが、そのように大事な、人生の根本でもある、「生きる」とはどんなことか、生きてゆく先である「死」とはどんなことかということを、誰かまともに取り扱っている人はいるでしょうか? 誰も立ち止まって考えることなく、ただ目の前の勉強であったり、仕事であったり、やらなければならないことに追い立てられて生きているように思います。そしてその内に、この世での持ち時間が切れて、「もうあなたの人生は終わりだよ、さようなら」と死んでゆかねばならないのだとしたら、一体何のための人生だったのでしょうか? 「こんなところでくたばってたまるか」とよく言われますが、こんなところでくたばらなければならないのです。「死んでも死に切れん」とよく言われますが、死に切れなくても死んでゆかねばならないのです。

何の為に生きて行くのか答えなんて無くていいよ

と歌っている人もありますが、本当に答えが無くていいですか? まぁ、変な宗教に騙されてしまうよりはマシかも知れませんが、それで安心して、満足して、「有難い人生でございました」と死んでゆけますか?


同じ生きてゆくなら、「生きる意味とその方向性」を知って生きてゆきたいじゃないですか。同じ死んでゆくなら、「苦しい事、辛い事も沢山あった。やり残したことも沢山ある。でも、今死んでも満足だ。真に有難い、けっこうな人生でございました」と合掌し、家族や周囲の皆さんに感謝して死んでいきたいじゃないですか。更には、この世を終わって「死んでゆく意味」は何なのか、そこまで知って次の世へ旅立ちたいじゃないですか。

これについては親鸞会でも言っているように、政治、経済、科学、医学、文学、芸術、倫理、道徳・・・、これらの人間の営みの中では答えがありません。そもそもこれらはそのような問題を扱っていないからです。扱っているのは哲学や宗教です。現在私が帰依し学んでいる浄土真宗を開かれた親鸞聖人は、この問題について、その教えを通して一つの答えを示されています。今は詳しく言いませんが、キーワードは万人共通の往生成仏の道である「念仏」です。お念仏申す人生を送ることこそが本当に意味のある人生であり、様々な御恩に感謝していける人生になり、人生がお浄土への旅路へと転換することになり、やがて一切衆生を思うが如く利益することになる。私はそのように領解しています。なぜそう言えるのか、詳細はいずれ別記事で書きたいと思います。

それを聞いて納得する人もいるでしょうし、そうでない人もいるでしょう。それも一つの考えだねと無関心な人もいるでしょう。ただ、いずれにしても「生まれてきた理由」、「生きる意味」、「死んでゆく意味」について考えるのは無駄な事ではありません。むしろ考えずに生きる方が危ないです。ここまで読まれて、未だ考えたことがないという方がありましたら、この記事が考えるきっかけにでもなればいいなぁと思います。

なお浄土真宗の教えに関心がある方は、

浄土真宗の法話案内

などから検索してお参りして頂ければと思います。なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ・・・

仏法をあるじとし、世間を客人とせよ

なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ・・・

俺はこの世に仕事するために生まれたんじゃない。食うて糞して寝て起きて死ぬばかり、そんなことのために生きてるんでもない。この人生、ひとえにお念仏申すための人生です。

何のために生まれてきたのか。本願を信じ念仏を申して二度と迷わない身となる。これが第一の目的で、自分がそういう身となったならば今度はその喜びと共に有縁の方々に本願をお伝えする。これが第二の目的です。そして浄土に参った暁にはこの上ない悟りを開いて一切衆生を思うが如く利益する。これが第三の目的です。

迷いを離れ、往生成仏する万人共通の道。本願を伝え、御恩に報いる道。一切衆生を救うてゆく道。それが「念仏」であり、先の三つの目的は往相回向の「念仏」によって達せられますから、この人生はお念仏申すための人生だというのが淳心房の領解です。ですから、当然お念仏申すことが人生の中心になければならない・・・はずです。


ところが、現実としては生活が中心になっています。仕事の合間にお念仏、移動の間にお念仏、家事や育児の間にお念仏、ブログを書いている間にお念仏・・・。お念仏が出てくるのは有難いことだけれども、これでは仕事や生活が主人で、お念仏は客人、脇役となっている感が否めません。迷いの深い自分は、気が付くとお念仏と生活の立ち位置が逆転しています。

仏法をあるじとし、世間を客人とせよといへり。
仏法のうへよりは、世間のことは時にしたがひあひはたらくべきことなりと[云々]。
『御一代記聞書』(157)

「仏法を主とし、世間のことを客人としなさい」という言葉がある。
仏法を深く信じた上は、世間のことはときに応じて行うべきものである。


蓮如上人はこのように仰せられたとあります。主人が誰なのか、客人が誰なのかすら分からなくなってしまう。そんなことは普通はあり得ない話ですが、そのあり得ないことが自分にあり得ている。何と恥ずかしいと思うと共に、やはり法を聞き続け、お念仏を相続してゆく重要性を痛感します。それでいくと、

仏法には世間のひまを闕きてきくべし。世間の隙をあけて法をきくべきやうに思ふこと、あさましきことなり。仏法には明日といふことはあるまじきよしの仰せに候ふ。
「たとひ大千世界に みてらん火をもすぎゆきて 仏の御名をきくひとは ながく不退にかなふなり」と、『和讃』(浄土和讃・三一)にあそばされ候ふ。
『御一代記聞書』(155)

「仏法は世間の用事を差しおいて聞きなさい。世間の用事を終え、ひまな時間をつくって仏法を聞こうと思うのは、とんでもないことである。仏法においては、明日ということがあってはならない」と、蓮如上人は仰せになりました。このことは『浄土和讃』にも

たとひ大千世界に みてらん火をもすぎゆきて 仏の御名をきくひとは ながく不退にかなふなり
たとえ世界中に火が満ちているとしても、ひるまず進み、仏の御名を聞き信じる人は、往生成仏すべき身に定まるのである。

と示されています。


のお言葉も、当面は厳しく聞法姿勢、聞法精神を正しているお言葉ですが、上に示した主人と客人を間違えぬようにとの御指南であるとも私には受け取れます。


本願を信じられました。お念仏称えました。それでおしまい・・・ではさみしい。信後も如来のお育てにあずかり、自身が相応の念仏者に育てられてゆくと共に、多くのお仲間と共にお浄土参りを果たしたい。

六字のみ名を となえつつ
世の生業(なりわい)に いそしまん
海の内外(うちと)の へだてなく
み仏(おや)の徳の とうとさを
わがはらからに 伝えつつ
浄土(みくに)の旅を ともにせん


真宗宗歌でも「六字のみ名をとなえつつ」世の生業にいそしまんと、六字の御名を称えることが先です。宗歌に触れる度、主客が逆転している浅ましい自分だと気付かされ懺悔すると共に、仏法が主人であることを再確認し、この宗歌の通りに生きていきたいと思います。

まぁ現在の自分の仕事は宅配関連で、はたを楽にするというよりはどうも欲望の増長をしている感が否めなく、また理不尽なことも多くて「おかげさまで生活させてもらえるのだ」という心を保ち続けるのは自分には極めて困難ですがね(;^ω^) 世の生業も御恩報謝と達観できるようになるには先は長そうです。

なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ・・・



【参照】
仏法を主とし(真宗の味わい)
真宗宗歌

善知識方は「死んだらどうなるか」を明確に教えられているのに、間違った本願を説き、触れられてもいない「死んだらどうなるか分からない心」にこだわって浄土真宗を説かない高森顕徹会長

近年は圏央道などの高速道路ができたり、外環道が延長開通し高速道路同士がつながったりして益々便利になりました。昨日は子供2人を連れて実家へ行っていましたが、その帰り道にできて間もない高速道路を通り、ふと「これが10年前に開通していたら富山への往復が随分と楽だったのにな・・・」などと思った次第です(笑)


さて、時を同じくして昨日は高森顕徹会長の話があったようです。内容は

自分が獲てもいない空想妄想創作信心を偉そうに説明する高森顕徹会長

に一部紹介されています。今回は「無明の闇」についての質問に答えるというものでした。高森会長はお尋ねの「無明の闇」を

1.苦しみの元凶(根元)
2.疑情
3.阿弥陀仏の本願を疑っている心
4.死んだらどうなるか分からない心


等、様々に言い換え、

「死んだらどうなるか分からない心」がある
=「往生一定」の身になっていない
=阿弥陀仏の本願を疑っている心がある


と説明し、「無明の闇」が破れると「死んだらどうなるか分からない心」が無くなる、つまり「死んだらどうなるかハッキリ分かる心」になると。こうなったのが「往生一定」「往生治定」ということだという話でした。

こうした高森会長の説も、先ほどの「無明の闇」の言い換えが全て適切で、聖教に根拠のあることなら尤もなのですが、言い換えの適切性を検証しますと、

1.半分正解
2.正解
3.正解
4.大不正解(w

となって間違いです。

1は、「流転輪廻のきはなきは 疑情のさはりにしくぞなき(※)」等と言われるように、流転輪廻の因は輪廻を断ち切って往生させると本願に誓われていてもそれを受け容れない疑情であるとも言えます。ただ、流転の因はあくまで我々の煩悩なので半分正解としました。

また、親鸞会の会員の場合「絶対の幸福」「光明輝く生活」という言葉が連想させるように「無明の闇」が破れたなら生きて行く上での苦悩が全て無くなって(苦悩が転じ変わって)幸せになれると考えている節があります。苦しみの元凶(根元)とは何か、それが無くなるとどうなると理解しているのか甚だ疑問です。この人生の不幸の元で、生死出離まで考えが至らないことにつながるので、この点からしてもこの言い換えは半分正解です。

2と3は特に問題ありません。

問題は4です。「無明の闇」が「死んだらどうなるか分からない心」である、という聖教上の根拠はありません。そもそも「死んだらどうなるか分からない心」というものを善知識方は問題にしていません。問題にしているのは高森会長と愉快な仲間達が主で、それと「無明の闇」「疑情」を結び付けて考えるという発想自体が善知識方にはありません。というのも、善知識方は「死んだらどうなるか」を明確に教えられているからです。

法然聖人は本願を信じるか疑うかで、涅槃の城へ入るか、生死にとどまるかが決すると教えられていますし、親鸞聖人は本願を深く信じて念仏する者は報土往生し、本願を浅く信じている者は一向に名号を称えていても化土往生すると教えられています。第一、こういう心でこういう行いをした者はこうなると「死んだらどうなるか」を細かく分類して教えられているのが仏教です。親鸞会で有名な「八大地獄」なんかも、それぞれどういう因でどういう地獄へ堕ちるのか、その因果関係を教えられています。普段は因果の道理、因果の道理とうるさいのに、その辺は一括りに「一切衆生必堕無間」とする、非常に大雑把なのが親鸞会です。

仏教を信じる、因果を信じるというのは、こういう因がこういう果を生むという釈尊の教えを信じるということです。例えば、こういう因を造ると死後こういう世界に堕ちるとか、こういう因を積めばこういうさとりが開けるということを信じるわけです。それを信じないということは、仏教を信じている、因果を信じているとは言えません。

ここで阿弥陀仏の本願を信じるというのは、念仏を称える者を極楽へ迎えるという誓いを信じるということです。誓いを信じたらどうなるか。その信心が自力だろうと他力だろうと、念仏を称えますわね。信じない人は念仏を称えません。逆に言うと、念仏を称えない人は、浅くも深くも信じていないということです。それで、念仏を称える身になった上で、念仏を称える際の心、信心に特に重きを置いたのが親鸞聖人です。

ここからして親鸞会では本願の説明が「どんな人も 必ず助ける 絶対の幸福に」ですからもうダメなんですよ。本願の行、信、証の代わりに、訳の分からない「絶対の幸福」だとかいう文言が盛り込まれている。だから本願を信じるも何も無いんです。会員が念仏軽視、念仏誹謗に陥っているのは、どんな者をどうする本願かということを間違って教えられているからです。

それで、せっかく念仏を称えていても、自分の功徳のように思い、それを積み重ねて往生しようというのは自力のはからいであって、それでは化土にとどまり報土往生できない。念仏は自分が称えて功徳とするのではなく、善根薄少にして生死火宅を出ることのかなわない我々を必ず往生させると誓われ、これを成就した阿弥陀仏がお与えになった大善大功徳なんだから、その誓いの名号のいわれを聞いてそのまま受け容れて称えなさいよと聖人、蓮師は懇ろに示して下さったのです。

おほよそ大小聖人、一切善人、本願の嘉号をもつておのれが善根とするがゆゑに、信を生ずることあたはず、仏智を了らず。かの因を建立せることを了知することあたはざるゆゑに、報土に入ることなきなり。「化身土文類」真門決釈

他力と申すことは、弥陀如来の御ちかひのなかに、選択摂取したまへる第十八の念仏往生の本願を信楽するを他力と申すなり。如来の御ちかひなれば、「他力には義なきを義とす」と、聖人(法然)の仰せごとにてありき。義といふことは、はからふことばなり。行者のはからひは自力なれば義といふなり。他力は本願を信楽して往生必定なるゆゑに、さらに義なしとなり。『末灯鈔』2通

弥陀の本願と申すは、名号をとなへんものをば極楽へ迎へんと誓はせたまひたるを、ふかく信じてとなふるがめでたきことにて候ふなり。信心ありとも、名号をとなへざらんは詮なく候ふ。また一向名号をとなふとも、信心あさくは往生しがたく候ふ。されば、念仏往生とふかく信じて、しかも名号をとなへんずるは、疑なき報土の往生にてあるべく候ふなり。詮ずるところ、名号をとなふといふとも、他力本願を信ぜざらんは辺地に生るべし。『末灯鈔』12通

さて南無阿弥陀仏といへる行体には、一切の諸神・諸仏・菩薩も、そのほか万善万行も、ことごとくみなこもれるがゆゑに、なにの不足ありてか、諸行諸善にこころをとどむべきや。すでに南無阿弥陀仏といへる名号は、万善万行の総体なれば、いよいよたのもしきなり。『御文章』2帖目9通

このように、本願を疑いなく信じて念仏する者は報土往生と「死んだらどうなるか」を明確に教えられているのが善知識方です。一方で、我々の側の「死んだらどうなるか分からない心」がどうだとかは一切触れられていません。つまり、我々の側で「死んだらどうなるか」が分かるようになるわけでもなければ、分かる必要もないわけです。必要なのは、本願を疑いなく信じて念仏するということ、ただこれだけです。それを教えずに、触れられてもいない「死んだらどうなるか分からない心」にこだわって浄土真宗を説かないのが高森会長です。


この身は、いまは、としきはまりて候へば、さだめてさきだちて往生し候はんずれば、浄土にてかならずかならずまちまゐらせ候ふべし。

とあるから聖人は「死んだら浄土に往くとハッキリしていたのだ」とか高森教徒は強弁するかも知れませんが、ではどうして親鸞聖人と同じ信心であるはずの覚如上人は

・われとして浄土へまゐるべしとも、また地獄へゆくべしとも、定むべからず。
・さればただ地獄なりといふとも、故聖人のわたらせたまふところへまゐらんとおもひかためたれば、善悪の生所、わたくしの定むるところにあらずといふなりと。これ自力をすてて他力に帰するすがたなり。
『執持鈔』【2】

と仰ったのか。本願で阿弥陀仏が誓われているからそれを信じて受け容れている、だから死ねば浄土で待っていると仰ったのであって、自己の自覚の上で死後がハッキリしているわけではないことがお判りでしょう。

故聖人[黒谷源空聖人の御ことばなり]の仰せに、「源空があらんところへゆかんとおもはるべし」と、たしかにうけたまはりしうへは、たとひ地獄なりとも故聖人のわたらせたまふところへまゐるべしとおもふなり。(同)

ですから、我々は法然聖人、また親鸞聖人のおられるところへ参るのだと心得るのであって、我々の側で後生どのような世界へ往くかはハッキリしないのです。飛雲さんの言葉で言えば、

「死んだあとどうなるか分かる」のではなく、「念仏往生の願を深く信じたならば死んだあとは阿弥陀仏が浄土に連れて行ってくださると誓っておられるので浄土に往けると分かる」

です。我々の側の自覚ばかり強調して如来の御誓いにまかせよと教えないばかりか、三願転入は弥陀のお計らいなどと珍しい教えを説く知識に従う結果は・・・。とにかく会員の皆さんは哀れ哀れです。

ねんぶつとは、なんまんだむです

娘の宿題の一つに、日記のようなものがあります。この前、特に書くことがなかったのか、娘が突然

「念仏について書こう」

と言い出しました。しかもその書き出しが

ねんぶつ
ねんぶつとは、南無阿弥陀仏です。

(漢字は私が書きました。娘は更に、横に「なんまんだむ」と振り仮名を振っています)

ですから二度ビックリ。「なんまんだぶととなえることです」とか書くと思ったけど、確かにこれで間違いない。

念仏はすなはちこれ南無阿弥陀仏なり。「行文類」経文結釈「破闇満願」

しかも南無阿弥陀仏を赤鉛筆で横線引いて「大じ!」と書いている。間違いない。これ以上大事なことは無い。

すげーな我が娘。しかし宿題でこんなこと書いていいのか?


まぁせっかくだからと様子を見ていると、どうもその後、「念仏を称えると極楽浄土に往ける」と書きそうだったのでちょっと手助けを。これでも間違いではなんですけどね・・・どうせなら正確な教えを書いてもらいたい。ただ、あまり長ったらしいと娘も書く気をなくしてしまうだろうな。少し考えた結果、

阿弥陀仏はその昔、全ての人を平等にすくうにはどうすればいいか考えて、わが名をとなえる者を往生させるとちかいを立てました。今はそのちかいがかんせいし、ちかいをうたがいなくしんじてとなえるものはかならずじょう土に生まれます。

習っていない漢字もあるので、このように書いてもらいました。ほとんど手伝っちゃった感がありますが、念仏について書くことは恐らくこれが最初で最後だと思ったので、まぁいっか。あと、先生としたらいきなりこんなことを子供が書いてきたらビックリすると思ったので、一応

パパはこういうのをべんきょうしているそうです。

と書き足してもらいました。オウム真理教の一件以降、日本では宗教偏見が多いのでどう思われるかおおよそ察しはつきますが、読むだけ読んでもらいましょうというつもりで・・・。


ちなみに後日。先生のコメントは赤ペンで

むずかしいのにすごいなあ・・・

というものでした。非常にまともなコメントですね(^-^;

どうも極楽とか浄土というと遊園地のちょっといいのを向こうに思い描いているような娘ですが、往生のみちは弥陀選択回向のお念仏以外には無いと計らいなく信じて称えるようになってもらいたいものです。


なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ・・・

19願は臨終来迎、辺地・胎生・懈慢界の往生を誓われた願であって、実践していけば20願へ進むという願ではない

会員の中で一番下の親会員の会費が月5,000円となったそうですね。これによって、ますます会員の中には「さすがにおかしい」と疑問に思う人が出てくるでしょう。なおこれとは違いますが、私がかつて会費を一燈から親会員へと下げた時、当時の担当支部長が血相変えて理由を聞いてきたことに少なからず疑問を感じました。

それにしても高すぎる。高森顕徹会長の話へのお布施が1回に5,000円ですから、普通に活動している会員なら月1回話を聞くとしてもそれだけで最低10,000円かかる計算です。月2回話を聞けば15,000円。遠方から富山へ行く会員は交通費や宿泊費もばかになりません。更に、降誕会や報恩講ではお布施が50,000円。また映画や著書への財施やら、地元会館への御報謝、地元行事の参加費等を含めると、活動費は年間100万円は固いんじゃないでしょうか。私も当時は独身だったからもっていましたが、今なら無理や・・・(;^ω^)

こう思うと親鸞会の会員は金持ちですね~。そして熱心な方々ですね~。そんな金銭的にも恵まれ、求道心の強い方々でさえ助からないのでは、その教えのどこが「全人類の救われるたった一本の道」なんだと疑問に思ってしまうのは私だけでしょうか?


さて、

『飛雲』19願を無視された歴代の獲信者、一方で19願を重要視する聖道門と高森顕徹会長

では、歴代の善知識方や妙好人が、どなたも「18願で救われるためには必ず19願を通らなければならない」とは教えられていないことが判り易く書かれています。

18願で救われるためには必ず19願を通らなければならない

そんな主張をすること自体、19願がどのような願なのか全く無知な証拠です。前々回、前回の記事で19願を実践するとはどのようなことか述べて来ました。

「発菩提心」がどのような事かも全く知らない高森顕徹会長と愉快な仲間達(1)
「発菩提心」がどのような事かも全く知らない高森顕徹会長と愉快な仲間達(2)

菩提心」をおこし、すなわち「四弘誓願」をおこし、心から浄土に生まれたいと願って、死ぬまで「修諸功徳」の善を修める。「菩提心」をおこせなければ、そしてその上で「諸功徳」を修めなければ、「至心発願」しなければ、19願の行にならんのです。もし19願の行の真似事をして、それをもって19願を通ったとするなら、それこそ「観念の遊戯」というものでしょう。如実に実践してこそ「通る」と言えるのです。

確かに親孝行や親切、慈善事業といったことは大事ですよ。でもね、それをやる時の心はどうですか? また、それが往生の業因になり得ると思いますか? 「絶対の幸福」とやらになりたいという自己の欲望の実現を願ってやっていても19願の行になりませんよ。それじゃお寺の阿弥陀仏の仏像に商売繫盛、家内安全などを祈願している人と本質的に何も変わりません。「後生の一大事の解決」とは口では言うけど、純粋に迷界からの出離を目指し、さとりの領域である阿弥陀仏の浄土に往生したい、そして必ず仏と成り、一切衆生を救おうという崇高な菩提心をおこして種々の善行を修めているんですか? それに今まで修めた善行は、阿弥陀仏が多くの聖衆を伴って来迎して下さるほど価値が高い代物ですか?

このように、19願の実践というのは口で言うほど容易いことではありません。というかこの末法の世において、在家の生活をしている煩悩具足の我々が行えるような行ではないのです。「菩薩道を作す」者が19願の対機であって、自己中心的な想念に支配され、愛欲と憎悪にまみれた我々には到底不可能な行なのです。菩提心をおこして菩薩道を歩める優れた善人が生涯修め続ける行、それが19願の行というものです。

更に、そうやって生涯懸命に19願の行に努め励んでも、臨終に阿弥陀仏の来迎がなければ往生できません。行自体大変厳しいことに加えて、臨終に往生が決まり、それまで往生できるかどうか不確定なのが19願です。また、往生できたとしても「辺地・胎生・懈慢界」の往生であって、報土往生ではありません。そのように19願をご覧になり、これは自力諸行往生を誓われた願だと教えられたのが親鸞聖人であり覚如上人でした。

来迎は諸行往生にあり、自力の行者なるがゆゑに。臨終といふことは、諸行往生のひとにいふべし、いまだ真実の信心をえざるがゆゑなり。また十悪・五逆の罪人のはじめて善知識にあうて、すすめらるるときにいふことなり。真実信心の行人は、摂取不捨のゆゑに正定聚の位に住す。このゆゑに臨終まつことなし、来迎たのむことなし。信心の定まるとき往生また定まるなり。来迎の儀則をまたず。
(中略)
定散の善は諸行往生のことばにをさまるなり。この善は他力のなかの自力の善なり。この自力の行人は、来迎をまたずしては、辺地・胎生・懈慢界までも生るべからず。このゆゑに第十九の誓願に、「もろもろの善をして浄土に回向して往生せんとねがふ人の臨終には、われ現じて迎へん」と誓ひたまへり。臨終まつことと来迎往生といふことは、この定心・散心の行者のいふことなり。
『末灯鈔』1通

来迎は諸行往生にあり、自力の行者なるがゆゑに。臨終まつこと来迎たのむことは、諸行往生のひとにいふべし。真実信心の行人は摂取不捨のゆゑに正定聚に住す、正定聚に住するがゆゑに、かならず滅度に至る。かるがゆゑに臨終まつことなし、来迎たのむことなし。これすなはち第十八の願のこころなり。臨終をまち来迎をたのむことは、諸行往生を誓ひまします第十九の願のこころなり。『執持鈔』(1)

読めばお判りのように、19願について説明されているものの、18願と比較する形で教えられ、その上で18願のみを勧められています。19願を実践せよとか、実践していった先に18願の救いがあるなどとは一言も教えられていません。19願を実践していった先は臨終来迎、化土往生です。平生業成、報土往生を誓われた18願とは行も、信(菩提心)も、往生の定まる時期も、証も全く異なります。18願と19願の関係を比較すれば、

18願
行ー往相回向の念仏(他力念仏)
信ー本願力回向の信心(他力の菩提心)
往生の定まる時期ー平生(至心信楽帰命の一念)
証ー報土往生

19願
行ー自力諸善
信ー自力の信心(自力の菩提心)
往生の定まる時期ー臨終
証ー化土往生(来迎があって)


となります。18願と19願では他力回向と自力発願でベクトルも180°違う上、行から証果から全て異なります。平生に往生が定まり、報土往生する18願の救いを求め、どうして化土往生の業因を積まねばならないのか。親鸞会の理論は理解不能です。19願を実践していくと20願へ進みますよ、18願の救いに近づきますよという教えがあり、実践しなさいと勧められた根拠でもあれば話は別ですが、そんな教えも根拠も全く無いのです。

そういえば20願についての記述は?

にも書きましたが、19願の実践の先について教義の対比は以下の通りです。

19願を実践していくとどうなるか

親鸞聖人 (臨終に来迎があれば)辺地・胎生・懈慢界の往生。20願へ進むという説示は無い

――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
高森会長 善のカケラもできない自己が知らされて、20願へ進む

19願を実践せよと勧める知識方も無ければ、実践していけば20願へ進むと教えられたお言葉もありません。親鸞聖人自身、高僧知識方の教えによって「19願を出た」とこそ仰せられたものの、「19願に入った」とは仰っていません。

ここをもつて愚禿釈の鸞、論主の解義を仰ぎ、宗師の勧化によりて、久しく万行諸善の仮門を出でて、永く双樹林下の往生を離る。「化身土文類」真門決釈

先ほどの飛雲さんの記事にある通り、善知識方も妙好人も、どなたも19願を勧められていません。そのことを踏まえてこのお言葉を普通に読めば、善知識方の教えは「19願を出なさい」という教えだと判るでしょう。その仰せに順って聖人はその通り「19願を出た」のです。それをどう解釈すれば我々に19願の実践が必要だということになるのでしょうか。親鸞会の理論は悪意と詭弁と誤魔化しに満ちています。加えて、

それ濁世の道俗、すみやかに円修至徳の真門に入りて、難思往生を願ふべし。「化身土文類」真門釈

これがどうして19願を勧めた根拠になるのか理解不能です。20願を勧められているから19願を勧められていると訳の分からないことを言っています。もし善知識方の歩まれた道を通らねばならないとしたら、聖道門の修行から始めなければならないでしょう。あるいは曇鸞大師のように仙人の教えから始めなければならないかも知れません。勿論その必要は無いです。70年に及ぶ布教人生の中で、会長の口から19願を実践してきたと語られないことが何よりの証拠です。

ちょっと考えてみて下さい。高森会長は特攻隊を志願して16歳の頃は軍隊にいました。それから戦争が終わって、彼は18歳で信心決定したと言っています。そのたった2年間の間、いつどれだけの19願の善を成したのか。それで信仰が進んで18願の世界に転入できるというなら、会員の皆さんはとっくにしているはずです。なのに、一向に真仮を知らず、如来広大の恩徳を迷失しているのは一体どういうわけでしょうか?

それさえ、「先生は宿善の厚い人だったからだ」とか理由をつけておさめてしまうつもりですか、会員の皆さん。あるいは「軍隊で無常と罪悪に満ちた厳しい現実世界を見せつけられたからだ」とか? なら我々は軍隊から始めなければなりませんよ。

・親鸞聖人が19願を勧められたお言葉がない
・19願を実践していくと20願へ進むと教えられたお言葉もない
・高森会長自身、19願を通ってきたと告白していない


このように親鸞会流「三願転入の教え」は完全に破綻しています。その破綻した邪偽の教えにいつまでも付き合わなければならない愉快な仲間達は哀れ哀れです。

「発菩提心」がどのような事かも全く知らない高森顕徹会長と愉快な仲間達(2)

最近の教科書はどうか知りませんが、私の記憶によれば、中学校の歴史の教科書には法然聖人や親鸞聖人のところで「念仏を称えれば極楽浄土に往ける」というような事が書かれていました。一方で、諸善については全く書かれていませんでした。

もし親鸞聖人の教えに「善の勧め」があれば、「諸善を修め念仏を称えれば極楽浄土に往ける」と説いた人といった説明になるでしょう。しかしそんな事を書いている教科書があるでしょうか? それほど親鸞聖人の教えと言ったら念仏だけなんです。信心は目に見えませんから、第三者は信仰を言動で判断するしかありません。では聖人の書かれたものや、各地の伝承といった言動から教えを判断するとどうなるか。

親鸞聖人の教えに「善の勧め」は無く、「専修念仏の勧め」しかない。

そのように言わざるを得ないのです。歴史の教科書の担当者とて、デタラメに書いているわけではありません。日蓮上人といったら題目、道元禅師といったら禅というように、親鸞聖人の教えの特徴は念仏なのです。それは高森会長が注目し、映画まで作ろうとしている『歎異抄』に特に顕著です。

しかるに念仏よりほかに往生のみちをも存知し、また法文等をもしりたるらんと、こころにくくおぼしめしておはしましてはんべらんは、おほきなるあやまりなり。もししからば、南都北嶺にもゆゆしき学生たちおほく座せられて候ふなれば、かのひとにもあひたてまつりて、往生の要よくよくきかるべきなり。
親鸞におきては、ただ念仏して弥陀にたすけられまゐらすべしと、よきひと(法然)の仰せをかぶりて信ずるほかに別の子細なきなり。
『歎異抄』第二条

念仏のほかに往生のみちがあるというなら、それは奈良や比叡山へ行って聞きなさいと仰せです。念仏のほかに諸善という往生のみちを教える親鸞会は、断じて親鸞聖人の教えではないことがここからも明らかです。


さて、前回の続きです。「菩提心」をおこすとは、すべての仏や菩薩に共通している「四弘誓願」をおこすということでした。その上で、

修諸功徳、至心発願、欲生我国・・・

と19願は続いていきます。「菩提心」がおこせなかったら、その後どのような善根功徳を積んでも19願の行とは言えません。行を起こす時の心を重んじる。仏教で心の行いを重視するとはこういうことです。「死んでくれ」と親に対して思っただけで五逆罪とか、そんな事とは違うのです。また、たとえ「菩提心」をおこせたとしてもその心が途中でくじけたり失われたりしてしまっては落第です。

この「菩提心」をおこすこと自体、末法の世に生きる煩悩具足の我々にはとてもできることではありませんが、勿論それだけでは自利と利他とを円かに具えた仏陀とはなれません。「菩提心」をおこした者は仏道の完成、すなわち仏のさとりを目指して修行していくのです。その修行内容は数え切れないほど多いので「諸善万行」と言われますが、これをまとめて説かれているのが「六度万行」とか、「六波羅蜜」と言われる六種の行業です。それを19願では次に「修諸功徳」、諸々の功徳(善)を修めよと説かれているのです。

それは本来、苦しみ悩みの人生を明るく楽しく幸せにわたす行いとか、幸せで豊かな人生を送れるとかいったそういう目的で行ずるものでもなければ、我々にもちょっと努力すればできるというような程度の低い行いでもありません。「諸功徳」とか「六度万行」、「六波羅蜜」とは自利利他円満した仏陀となるべき修行内容で、突き詰めれば法蔵菩薩のなされた行業であります。

国を棄て王を捐てて財色を絶ち去け、みづから六波羅蜜を行じ、人を教へて行ぜしむ。無央数劫に功を積み徳を累ぬるに、その生処に随ひて意の所欲にあり。『大無量寿経』法蔵修行

それを19願では「発菩提心、修諸功徳」と言われているのです。我々にそんなことができるかどうか。確かに、やってみなければ分からないということもありましょう。が、法蔵菩薩の修行が我々にできるかどうかですから、そんなことはやる前からハッキリしています。


ところで、19願ではこの世でのさとりの完成を目指す聖道門と違って、「諸功徳」を阿弥陀仏の浄土に往生するために行じます。それが次の「至心発願欲生我国」です。行ずる内容は聖道門と変わりません。ただ心を浄土に振り向けてやるのです。浄土へは遊びに行くのでも、楽をしに行くのでもありません。仏陀のさとりを完成し、あらゆる衆生を救ってゆくためです。往生してそこで終わり、良かったね、ではありません。

この世界は五濁悪世と言われるように、仏道修行を妨げる因縁があまりに多く、さとりを完成することは極めて困難です。そのような悪縁が全く無い世界が阿弥陀仏の浄土です。ですから、19願の行者はまず阿弥陀仏の浄土に往生して、そこで修行してさとりの完成を目指すわけです。仏陀のさとりを完成し、あらゆる衆生を救うという自利利他が究極の目的であることは、聖道門も19願も、勿論18願も変わりません。

そうやって諸々の功徳を積み重ねた行者の臨終に、多くの聖衆を伴って迎えに行きましょうと誓われているのが19願です。そしてその19願意を明らかにされたのが『観経』顕説の定散二善です。ちなみに散善も三世諸仏の成仏の業因です。

かの国に生ぜんと欲はんものは、まさに三福を修すべし。一つには父母に孝養し、師長に奉事し、慈心にして殺さず、十善業を修す。二つには三帰を受持し、衆戒を具足し、威儀を犯さず。三つには菩提心を発し、深く因果を信じ、大乗を読誦し、行者を勧進す。かくのごときの三事を名づけて浄業とす」と。
仏、韋提希に告げたまはく、「なんぢいま、知れりやいなや。この三種の業は、過去・未来・現在、三世の諸仏の浄業の正因なり」と。
『観無量寿経』散善顕行縁

ですから、19願の修行を仕事や子育ての片手間にやるとか、そういう訳にいかないんです。全てを捨てて出家して、一生涯身命を賭して仏道修行に打ち込まねばなりません。当然です。一体、何を目指していると思っているのか。三悪道はおろか、この迷いの世界から出離して、さとりの境界である阿弥陀仏の浄土へ往生しようというのですよ。しかも自分の成した善で。十九願というと捨家棄欲、そんなの当たり前でしょう。これは半身不随的理解じゃないですよ。何かの片手間にちょっと修行して往生できるほど甘い世界じゃないんです、19願は。

今まで積み重ねた功徳に往生できるほどの価値があるか分かりませんし、この後の人生において、どんな罪を犯して功績が消えてしまうかも分かりません。阿弥陀仏は行者の功績を評価して迎えに来て下さるわけですから、19願の行者は死ぬまで仏道一筋、修行一筋で廃悪修善に励み、臨終も心乱れることなく祈願を凝らし、来迎を待ち望まねばならないのです。もし来迎が無ければ、今までの成果も空しく往生はかないません。


このように19願は大変厳しいことを言われているとお判り頂ければけっこうだと思います。そのようなことに全くもって無知なのが高森顕徹会長と愉快な仲間達です。だから軽々しく19願の実践だとか、定散二善の実践だなどと言っているのでしょう。「菩提心」をおこして行を修めなければ19願の実践にならんのですよ。園児さんのコメントの通り、親鸞会は「菩提心」をなめていると言わざるを得ません。ですから、「19願を実践しました」とか「三願転入して救われました」とうそぶいている親鸞会のなんちゃって獲信者などみなもつてそらごとたはごとと考えて間違いありません。

菩提心」「至心発願欲生我国」どころか、「絶対の幸福」だとかいう楽を獲たいがためじゃね・・・。ましてやっていることが「諸功徳」ではなく親鸞会への献金や勧誘、会長及び上司への無条件服従でしょう? 行も、行ずる心もみな間違い。だから、一生懸命やっていたって19願とは無関係ですし、18願の救いにも遇えません。

18願によって救われようというなら、19願を聞いていても無意味です。19願は菩提心を発し、至心発願して諸の功徳を修めて往生しようとする行者を臨終に迎えに行く、つまり救うという願ですから、平生、至心信楽帰命の一念に往生が定まるという18願とは全く異なる救いです。平生業成の教えを聞いて今救われようというのに、臨終に救うと誓われた願を聞いて実践しようとしてどうなりますか? ただちに18願を聞いて、南無阿弥陀仏のこころ、すなわち「助けるぞ」のお心を領受すべきなのは当たり前の当たり前のことです。

三願転入の教え」なる邪義を授けられ、18願の救いとは無縁な話ばかり聞き、18願の救いとは無縁な行いばかりやらされている会員の皆さんは実に哀れです。早く教義の誤りに気付いて邪義を授ける人の手から離れ、浄土真宗の正意に基づいて本願を信じ念仏して頂きたいと思います。


ちなみに、我々には絶対に起こせない菩提心ですが、親鸞聖人は願力回向の他力の信心が横超の大菩提心だというのですから驚きです。こんなことは聖人でなければ言えたことではありません。全く、とんでもない御方の教えを学んでいるのだなとつくづく知らされます。なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ・・・



【参照】
『WikiArc』六波羅蜜

「発菩提心」がどのような事かも全く知らない高森顕徹会長と愉快な仲間達(1)

諸善は絶対に不要だと言わないのに、念仏はその時々で必要だと言ったり、不要であるかのように説いたりするのが高森会長です。20願から18願の世界に転入するんでしょ? なら念仏は絶対に必要じゃないですか? その絶対に必要な念仏を絶対に必要だと言い切らない高森会長が「三願転入の教え」を説く目的は、会員を18願の世界に転入させるためではなく、単に諸善(という名の組織拡大活動)をさせるためでしょう。

さて、その親鸞会流「三願転入の教え」にて絶対に必要なのが19願の諸善の実践です。19願は要門であり、重要な教え、必要な教え、通らなければならないかなめの教えだと喚き散らしています。ところがその割には、それほど強調する19願の説明は随分といい加減なものです。特に序盤の「発菩提心」の解説、これは本当にいい加減です。私は、高森会長や講師部員らから「発菩提心」について

・「よーし、やるぞ!」とやる気を起こして
・奮発心を起こして
・ド真剣になって


というような説明しか聞いたことがありません。他の皆さん、会員の皆さんはどうでしょうか?

この「発菩提心」、菩提心を発すというのがどのような事か。これ一つ分かっただけでも、19願を実践するのは我々には不可能、それこそ捨家棄欲、出家して仏道一筋にでもならなければできないことだと判るでしょう。


古くはこの記事で林遊さんの解説を載せてありますが、今一度説明します。まず、菩提心とは

梵語ボーデイ・チッタ(bodhi-citta)の漢訳。詳しくは阿耨多羅三藐三菩提心といい、無上正真道意・無上菩提心・無上道心などと漢訳する。仏果に至りさとりの智慧を得ようとする心のこと。

です。この心をおこすことを「発菩提心」といい、仏道の出発点とされるというのです。「絶対の幸福」などというこの世の楽しみを得ようとする心でもなければ、単純にやる気、奮発心を起こすということでもありません。

これについて、梯實圓著『本願のこころ』ではこのように書かれています。

********************
すべての仏や菩薩は、仏道修行を始めるときに総願と別願とをおこします。総願というのは、すべての菩薩に共通している誓願のことですから、通願ともいいます。菩薩が修行を始めるときに、まず自利(智慧)と利他(慈悲)を完成して仏になろうと誓う菩提心をおこしますが、その内容は、願作仏心(仏になろうと願う自利の心)と度衆生心(衆生を済度しようと願う利他の心)であり、さらにそれを広げれば四弘誓願として表されているような誓願を総願といいます。
 『往生要集』作願門には、
  一には衆生無辺誓願度。(衆生は無辺なれども、度せんと誓願す)
  二には煩悩無辺誓願断。(煩悩は無辺(尽)なれども、断ぜんと誓願す)
  三には法門無尽誓願知。(法門は無尽(量)なれども、知らんと誓願す)
  四には無上菩提誓願証。(無上なる菩提を証せんと誓願す)
                             (『註釈版聖典』七祖篇、九〇三~九〇四頁)
という度、断、知、証の四弘誓願として表されています。なお文言は書物によって少し違うこともありますが、意味は同じです。
 別願というのは、特定の仏、菩薩が、それぞれ特色のある誓いを立てられることをいいます。釈尊には五百の大願があり、薬師如来に十二の大願があり、阿弥陀如来に四十八願がありますが、それを別願というのです。
(p.39~p.40)
********************

菩提心」の内容は、仏になろうと願う自利の心(願作仏心)と、衆生を済度しようと願う利他の心(度衆生心)であり、それをさらに詳しく言い表したものが四弘誓願であります。ですから、

菩提心を発して」=「四弘誓願を発して

ということです。我々に四弘誓願をおこせというのですから無茶ですね。「発菩提心」とはこういうことなんです。救うべき衆生は数限りなくいるが、ことごとく救い尽くそう。煩悩は際限なくわき起こってくるが、残らず断ち切っていこう。学ぶべき真理に尽きることはないが、ことごとく知り尽くしていこう。さとりの智慧は無上であるが、完全にさとり極めていこう。これが四弘誓願の内容であり、このような心をおこすことを「発菩提心」と言うのです。高森会長と愉快な仲間達はこの「菩提心」ということをあまりに軽く考えすぎています。

19願を実践するというのなら、まずは「菩提心」をおこすところからです。でなければ、次の「修諸功徳」以降が意味をなしません。19願も究極的にはさとりを完成し、あらゆる衆生を救う自利利他円満を目指す仏道です。仏道の出発点であり阿弥陀仏がおこせと言われる「菩提心」の抜けた行は19願の行とは言えません。


会員の皆さんは、自身はそのような清らかで崇高な「菩提心」をおこせるものかどうか、よく考えてみましょう。そして、やるなら「菩提心」をおこしてから様々な善根功徳を修めて下さい。そうでないと「19願を実践する」ことになりません。親鸞会で言う「三願転入の道」とやらを進むことにはなりませんよ。

今回はここまでとし、続きは改めてまた書きたいと思います。



【参照】
『WikiArc』菩提心

「御正忌」の御文章に出てくる「南無阿弥陀仏の六つの字のこころ」が、親鸞会流「三願転入の教え」を完全否定していることに全く気付いていない高森顕徹会長

本日はまたいつもの演題

映画『なぜ生きる』のセリフ
「『聞く一つで、大船に乗せる』ということは、阿弥陀仏の命を懸けたお約束だからです」
とは、どんなことでしょうか。


で高森顕徹会長の話がありました。内容の一部は

『飛雲』曇鸞大師の体験談を全否定する高森顕徹会長の謗話

で紹介されている通りです。前回の鳥取会館落慶の時には

・18願のお約束通りになるために必要な方便が「諸善」であり「念仏」であり、大切な「宿善」となる

などと、救われるには念仏称えることが必要であるかのように説いておきながら、今回は

・親鸞聖人の教えについて、学校の教科書では「念仏称えたら極楽浄土に往ける」とあるが間違いだ
・今朝の西本願寺のラジオ放送でも「念仏称えたら極楽浄土に往ける」と間違ったことを言っていた


と、前々回の報恩講の時のような念仏否定の教えを話していました。相変わらずの迷走ぶりです。


ところで、今回は話の中で『御文章』5帖目11通が取り上げられました。この「御正忌」の御文章では、親鸞会の大好きな「信心決定」とはどんなことかについて、その正確な意味が教えられています。それが、

他力の信心をとるといふも、別のことにはあらず。南無阿弥陀仏の六つの字のこころをよくしりたるをもつて、信心決定すとはいふなり。そもそも信心の体といふは、『経』(大経・下)にいはく、「聞其名号信心歓喜」といへり。

善導のいはく、「南無といふは帰命、またこれ発願回向の義なり。阿弥陀仏といふはすなはちその行」(玄義分)といへり。「南無」といふ二字のこころは、もろもろの雑行をすてて、疑なく一心一向に阿弥陀仏をたのみたてまつるこころなり。

さて「阿弥陀仏」といふ四つの字のこころは、一心に弥陀を帰命する衆生を、やうもなくたすけたまへるいはれが、すなはち阿弥陀仏の四つの字のこころなり。されば南無阿弥陀仏の体をかくのごとくこころえわけたるを、信心をとるとはいふなり。これすなはち他力の信心をよくこころえたる念仏の行者とは申すなり。


というお言葉です。ここから、

信心決定す
=「南無阿弥陀仏の六つの字のこころをよくしりたる
=「南無阿弥陀仏の体をかくのごとくこころえわけたる

ということが分かります。「信心決定す」とは、高森会長の言葉で言えば「18願のお約束通りになる」ということですから、蓮如上人は高森式に言うなら

・18願のお約束通りになるために必要なのが、南無阿弥陀仏の六つの字のこころをよくしること

と教えられています。では「南無阿弥陀仏の六つの字のこころ」とはどんなこころかと言えば、

「南無」といふ二字のこころは、もろもろの雑行をすてて、疑なく一心一向に阿弥陀仏をたのみたてまつるこころなり。

「阿弥陀仏」といふ四つの字のこころは、一心に弥陀を帰命する衆生を、やうもなくたすけたまへるいはれが、すなはち阿弥陀仏の四つの字のこころなり。


だというのです。諸善は「必要な方便」どころか「もろもろの雑行をすてて」と教えられています。

蓮如上人 もろもろの雑行(諸善)をすてて
――――――――――――――――――
高森会長 必要な方便が「諸善」


蓮如上人の仰せと高森会長の主張は正反対です。他の『御文章』もそうですが、「必要な方便」だと言って諸善を勧めている箇所は1箇所もありません。どこを読んでも諸善(雑行)は「すてて」としか教えられていません。つまり、知りなさいと言われる「南無阿弥陀仏の六つの字のこころ」の中に

・18願のお約束通りになるために必要な方便が「諸善」

などという内容は無いことが分かります。親鸞会流「三願転入の教え」の完全否定です。高森会長はそのことに全く気付いていない様子です。


人間の力では如何ともしがたいこの生死出離の問題、後生の一大事を、ひとえに阿弥陀仏におまかせする。そのような者を造作もなく助けて下さる。これが「南無阿弥陀仏の六つの字のこころ」です。阿弥陀仏は名号を称える者を極楽に迎えるとお誓いですから、ひとえに阿弥陀仏におまかせするとは

念仏一行で助かると深く信じて称える

ということです。それを、浅く信じて、念仏を自分の功徳のように思っていたり、あるいは何の分別もなく、信心もなくただ発音念仏していたりしたら往生は極めて不確定だから、「南無阿弥陀仏の六つの字のこころ」をよく知って称えなさいよと教えられたのが蓮如上人です。

信心は大事ですが、念仏を離れた信心はありません。しかし、親鸞会では信心の内容に念仏はまったく関りが見えません。これでは会員が信心も安心も無いのは当たり前です。会員の皆さんは、蓮如上人とは正反対の教えを授ける高森会長から離れ、「南無阿弥陀仏の六つの字のこころ」をよく知ってお念仏申して下さい。

退会して9年を振り返る ー 悔いが残らない方を自分で選べ

私が親鸞会を退会したのが2009年10月25日の事です。もうその後、親鸞会在籍期間より長い時間を過ごした計算になりますが、気がついてみればあっという間だったなぁという感想しかありません。退会して9年、年末にはブログを始めてから10年目ということになります。何か特別な事情がない限りは今後もボチボチと更新していくつもりなので、読者の皆様どうぞよろしくお願いいたします<(_ _)>

それにしても改めて読んでみると懐かしいです。昔はこんな記事を書いてたんだなぁ(;^ω^)

退会から1年を振り返る
退会して2年
退会して3年を振り返る
退会して7年を振り返る ― 決して幸せにならない教えに彷徨(まよ)って

普段忙しくて振り返る余裕もありませんが、たまにはそんな時間を設けたいものです(笑)


さて、何度も書いていますが、私が親鸞会を退会した理由は教義上の矛盾です。弥陀の救いは「一念の救い」だと言いながら、実際は「宿善を厚くする教え」、「三願転入の教え」、「光に向かう教え」。宿善が厚くなるにしても、信仰(?)が進むにしても、横の道を進むにしても、救われるのは宿善が厚くなった先、信仰(?)が進んだ先、横の道を進んだ先、縦の線まで辿り着いた先の「未来」であって「」ではありません。これでは明らかに「あと一秒しか命のない人に、三秒かかる(※)」教えです。

高森会長によると、お釈迦様は当時の人々を横の線の軌道に乗せるのに45年かかったらしいです。それなら俺はいつ横の線の軌道に乗って、それから横の道を進んで助かるんだ? これがずっと疑問でした。とにかく言えるのは、とても今助かる教えではないということです。

その分かり易い例を一つ挙げるならば、親鸞会ではよく「善をしなければ信仰は進みません」と言うでしょう? ここで考えてみて下さい。もし自分の命が今日一日しかないとしたら。その一日24時間の間に、どのような善をどれだけやれば信仰が進んで助かるというのでしょうか?

「因果の道理」や「七仏通戒偈」、「十九願」や「定散二善」、「宿善」や「方便」等の語を用いてさも「善の勧め」が要るように説いているけれども、それを実践した後でないと助けないという本願では救いから漏れてしまう者が相当いるのではないか。何より自分自身、死ぬまでに如実に実践して横の道を進み、縦の線まで辿り着けるのだろうか? たとえ教えは正しいとしても、自分のような者にはとても無理なのではなかろうか?

このように信仰上の疑問をずっと抱えていたところ、先に退会した先輩から教義の誤りを知らされ、これはもう親鸞会にいても駄目だ、無駄だと見切りをつけて退会しました。


もはや思考能力のある人、今の救いを求める人は粗方出て行ってしまったかもしれませんが、会員の皆さんの中にはまだ真摯に我が身の後生と向き合い、阿弥陀仏に救われたいと求めている方がおられると思います。

もし、教義上や信仰上の疑問でも、組織的な点でも、「何か親鸞会はおかしい」と感じて当ブログを読んでいる会員さんがありましたら、どうかその疑問を放っておかずに、納得ゆくまで調べて頂きたい。親鸞会からの情報のみを信じ、鵜呑みにするのではなく、もっと幅広く情報を取り入れて、総合的に、自分の頭で良し悪しを判断して頂きたい。その結果、やはり親鸞会が正しいと判断したのなら続ければいいし、間違いだと判断したら退会するなり、お仲間に教えてあげるなり、その他自分が最善だと思える道を選んだらよいと思います。

私に言わせれば、親鸞会を退会して本当に良かったです。その後、まことの真宗に遇い、本願を信じ念仏申す身とさせて頂きました。最近は、聴聞し、お念仏申すほどに、如来大悲の恩徳、師主知識の恩徳、有名無名の教法伝持に携わった方々の御恩、また今まで私を護り育んで下さった両親を始め、多くの有情非情の御恩が思われ、その有難さ、申し訳なさにしばしば目頭が熱くなります。もしもあのまま親鸞会に留まり続けていたら、お念仏の尊さも分からず、助からない不安や焦燥をずっと抱えていたことでしょう。生活面も経済面も、今より格段に苦しかったに違いありません。可愛い子供達も親鸞会の行事に巻き込み、運動会等の学校の行事より富山へ行くことを優先していたでしょう。とにかく、心から退会して良かったと思っています。


ただ、私の価値判断が全てではありません。だから今回は、今後どうしようか迷っている人に、決断を下す際のヒントとして『進撃の巨人』からリヴァイ兵士長の言葉を紹介します。

まぁせいぜい…悔いが残らない方を自分で選べ

私や他の人に言われるまま退会するなら、それは親鸞会に言われるまま活動しているのと何ら変わりません。大事な事は自分で考え、自分で調べ、自分で探し、自分で選ぶべきです。親鸞会に居続けた方がいいのか、勇気を出して外へ踏み出した方がいいのか、自分で考えて選んで頂きたいのです。当ブログの内容は、その考えて選ぶ際の材料として読んで頂きたいと思います。


親鸞会側の情報は会員の皆さんはよくお聞きの通りですので、当ブログでは「それはおかしいんじゃない?」という情報を提供しています。また他のブログ等でも多く取り扱われていますので、それらで言われていることは正しいのかどうか、経典や聖教に忠実であるのかどうか、読んでよく考えて自分で判断して頂きたいです。

教義面では、
飛雲 ~親鸞会の邪義を通して~
親鸞会を脱会した人(したい人)へ
親鸞会教義の誤り
用管窺天記
安心問答(浄土真宗の信心について)
元会員から見た浄土真宗親鸞会
21世紀の浄土真宗を考える会
親鸞会の邪義を正す

組織面、法話案内、その他に関しては、
さよなら親鸞会
なぜ私は親鸞会をやめたのか
浄土真宗の法話案内
あさ川進の、宗教と私
私の白道
あなたの白道

等が参考になると思います。他にも親鸞会経験者、非経験者問わず浄土真宗関連のブログは多くあります。一部は右下のリンク先に載せてありますが、ご自分で検索してご法義に則したものを探すのも良いでしょう。

人生は一度きりで、失った時間は戻りません。ことは生死出離の問題、後生の一大事です。この問題に関しては、どうか一人一人が悔いなき選択をして頂きたい。そう思うばかりです。

なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ・・・



【参照】
悔いが残らない方を自分で選べ:進撃の巨人

(※)・・・『なぜ生きる』p.343より
プロフィール

淳心房&しゃあ

Author:淳心房&しゃあ
(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


(しゃあ)
平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
singikensho@yahoo.co.jp
(スパム防止のため@を大文字にしてあります。メール送信時は小文字に変えて下さい。)

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