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昨日の「埼玉恵日会」のお話について

昨日の記事に様々なご意見、ありがとうございました。

昨日「埼玉恵日会」に伺ってきましたが、阿部信幾先生が出した根拠は「行文類」の六字釈でした。

しかれば南無の言は帰命なり。帰の言は、[至なり、]また帰説(きえつ)なり、説の字は、[悦の音こえなり。]また帰説(きさい)なり、説の字は、[税の音こえなり。悦税二つの音こえは告なり、述なり、人の意を宣述するなり。]命の言は、[業なり、招引なり、使なり、教なり、道なり、信なり、計なり、召なり。]ここをもつて帰命は本願招喚の勅命なり。

ここから、南無とは「帰せよの命」、つまり「我にかませよ」であって、阿弥陀仏の仰せは「念仏を称えよ」ではない、というものでした。以前とほぼ同じ回答でした。

先生曰く、法然聖人までと、親鸞聖人とでは違うそうです。法然聖人までは『観無量寿経』に立って、念仏を称える者を助ける本願だから、これを信じて称えよと教えられた。対して親鸞聖人は『大無量寿経』に立っている。南無阿弥陀仏が往生の証拠であり、名号のいわれを聞いて計らいの無い。南無阿弥陀仏の名号が届いているのだから、名号のはたらきに我々の方で加えるものは一つもないという立場。『観無量寿経』と『大無量寿経』の立場の違いだと言われていました。

「乃至十念」と申すは、如来のちかひの名号をとなへんことをすすめたまふに(尊号真像銘文)

のお言葉はどうなのかと示しましたら、それは法然聖人の教えだと言われていました。また、

臨終の人に念仏を称えよと勧めるか、往生の証拠が届いているから安心せよと勧めるか

という問いも出されていました。その話の中で、『観経』の下下品で臨終の人に善知識が念仏を勧められたその元は、阿弥陀仏が「念仏を称えよ」と仰っているからではないのですかと質問もしましたが、そのお答えは娘が周りでカチャカチャやっていてよく覚えていません。誰か聞かれた方がありましたら補足お願いします。

『観無量寿経』と『大無量寿経』の立場の違い、念仏往生と平生業成の違い、とのことです。一方で、仰せにまかせるとは念仏することだとも教えられていました。先生の意図としては、称えて助かろうというのは自力だと自力心を誡める意味で教えられたのかと伺えますが、

計らいのまじった念仏を称えよとは仰っていないということですか?

と質問しましても、それについては肯定されていませんでした。

他に出された根拠は『御文章』4帖目8通位でしょうか。私の問いと直接関係する根拠は特に無く、また和上様方のお言葉もありませんでした。


これでスッキリされた方もあるのかも知れませんが、私のモヤモヤは続いています。

親鸞聖人は、腹底では「念仏を称えよと仰った本願ではない」と思いながらも門弟の皆さんの前では「念仏を称える者を助ける本願」と教えておられたのかなぁ? 俺なら往生の一大事の問題について、そんな本音と建前を使い分けて本心と異なるようなことは説けないし説きたくないがなぁ、と思ったりもしました。

また、臨終の人に仰せが届いているから安心せよと説くか、念仏を称えよと勧めるか、この二者択一を迫られたらどう答えるか。実際その場に立ったらどう話すべきか、考えていますが現時点で答えは出ていないです。両方話したいがどっちかなぁ。その人が安心できなかったらどうしようかなぁ。難しい問題です。


結論としては、このまま質問を重ねていっても平行線かなと思いました。こちらも念仏は自力念仏、救いの条件のつもりで言っているのではないし、我々が日々お念仏しているのは「念仏を称えよ」という本願が成就してはたらいているからではないか、全て本願のおはたらき以外の何物でもないではないかとしか思えません。

先生の仰ることも分からないでもないが、だからといって「阿弥陀仏は念仏を称えよとは仰っていない」は無いではないかというのが正直な感想です。今後、阿弥陀仏は念仏を称えよと仰っているかいないかを私なりに考察し、書いていきたいと思います。どちらが正しいかではなく、阿部先生と淳心房、どちらの説を取るか、あるいは両方とも取らないか、両方の折衷案を起こすか、という視点で見て頂ければ幸いです。


なおこれは私が聴聞したこととその思いを一部書いたものなので、先生のお話を皆さんに分かってもらいたいという方は、ぜひ昨日の音声を文字に起こしたものを紹介して頂ければと思います。



【追記】
別の質問で、御恩報謝ということについて教えて頂きました。

浄土真宗の生活は御恩報謝の生活。幸せを頂いている生活。今まで気付いて来なかった幸せに気付く。おかげさまに気付く。一番は南無阿弥陀仏を頂いている。また、食事も「いのち」を頂いている。頂いた命をどう生きるか。それが御恩報謝ということだと教えて頂きました。これについては有難いお話であると思いました。

また、字で書いた阿弥陀仏に固執する親鸞会教義の誤りについても話の中でありました。南無阿弥陀仏が声と成り、字と成り、絵像と成り、木像と成っている。名号のいわれを知らないところに親鸞会のごとき固執があるのだということを教えて頂いて、これもその通りだなと思いました。

先生への質問、質問の経緯及び考察、まとめ

今日は富山で高森顕徹会長の座談会の予定でしたが、来週に延期だそうです。延期の理由について、コメントは「無し」とのことです。今後ますます高森会長の話の機会が減ってゆくだろうという飛雲さんの見解通りです。

ところで、昨日の記事で扱った理想論者のコメントと、更に寄せられた彼のコメントにツッコミを入れていきたいところですが、それは次回以降にします。今回はちょっと話題を変えます。


今日は、あさ川さんのブログに紹介されているように埼玉県熊谷で阿部信幾先生による「埼玉恵日会」があります。去年の年末にこの記事にて、

阿弥陀仏は念仏を称えよと仰っているかいないか

について教義に関する解釈において意見の食い違いから論争のような感じになってしまったと書きましたが、その相手はコメント欄を見ればお判りのようにRCさんです(;´・ω・) その元は、阿部信幾先生の

阿弥陀仏は念仏を称えよと仰っていない。強いて「称えよと仰っている」と言うなら、お釈迦様が仰っている

というようなお話からです。それで何回かこのことについて質問をして取り上げて頂いたのですが、今一つ先生のお答えでは納得できないところがありましたので、新たに質問文と私なりの見解をRCさんに送付致しました。今日の「埼玉恵日会」でお答え頂けるかどうかは分かりませんが、とにかく今のところ伺う予定です。もし会場で子連れ狼を見かけたらそいつは淳心房だと思って下さい(笑)

なお、質問文と私なりの見解は以下の通りです。

~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・
【質問】
「阿弥陀仏は念仏を称えよと仰っていない」と教えられた聖教の根拠を教えて下さい。また、今までの和上様方、先生の師匠である桐渓順忍和上、稲城選恵和上のお言葉でも結構です。そのように仰った根拠を示して下さい。

【質問の経緯及び考察】
「阿弥陀仏は念仏を称えよと仰っていない」

と先生が発言されたことについて、今までに

・念仏往生の立場からは「仰っている」だが、平生業成の立場からは「仰っていない」
・阿弥陀仏の仰せは「我にまかせよ」であって「念仏を称えよ」ではない

等とお答え頂きました。この説明で納得されている方もあるのでしょうが、私は納得していません。なぜなら、今までにそのように教えられた聖教の根拠が全く見当たらないからです。その逆に、本願の説明に念仏をハッキリと打ち出し、「阿弥陀仏は念仏を称えよと仰っている」と教えられた根拠なら沢山見つかります。

●願(第十八願)にのたまはく、〈たとひわれ仏を得たらんに、十方の衆生、心を至し信楽してわが国に生ぜんと欲うて、乃至十念せん。もし生れずは正覚を取らじと。ただ五逆と誹謗正法とをば除く〉と。仏願力によるがゆゑに十念念仏してすなはち往生を得。往生を得るがゆゑに、すなはち三界輪転の事を勉る。輪転なきがゆゑに、このゆゑにすみやかなることを得る一つの証なり。(曇鸞大師『浄土論註』)

●〈もしわれ成仏せんに、十方の衆生、わが名号を称せん、下十声に至るまで、もし生れずは正覚を取らじ〉と。かの仏いま現にましまして成仏したまへり。まさに知るべし、本誓重願虚しからず、衆生称念すればかならず往生を得と。(善導大師『往生礼讃』)

●いはんやまた、もろもろの聖教のなかに、多く念仏をもつて往生の業となせり。その文、はなはだ多し。
(中略)
三には、四十八願のなかに、念仏門において別に一の願を発してのたまはく(同・上意)、「乃至十念せん。もし生ぜずは、正覚を取らじ」(第十八願)と。
四には、『観経』(意)に、「極重の悪人は、他の方便なし。ただ仏を称念して、極楽に生ずることを得」と。(源信僧都『往生要集』)

●弥陀如来、余行をもつて往生の本願となさず、ただ念仏をもつて往生の本願となしたまへる文。
『無量寿経』の上にのたまはく、「たとひわれ仏を得たらんに、十方の衆生、心を至し信楽して、わが国に生ぜんと欲して、乃至十念せんに、もし生ぜずといはば、正覚を取らじ」(第十八願)と。(法然聖人『選択集』本願章)

●「乃至十念」と申すは、如来のちかひの名号をとなへんことをすすめたまふに、遍数の定まりなきほどをあらはし、時節を定めざることを衆生にしらせんとおぼしめして、乃至のみことを十念のみなにそへて誓ひたまへるなり。(親鸞聖人『尊号真像銘文』)

●尋ね仰せられ候ふ念仏の不審の事。念仏往生と信ずる人は、辺地の往生とてきらはれ候ふらんこと、おほかたこころえがたく候ふ。そのゆゑは、弥陀の本願と申すは、名号をとなへんものをば極楽へ迎へんと誓はせたまひたるを、ふかく信じてとなふるがめでたきことにて候ふなり。信心ありとも、名号をとなへざらんは 詮なく候ふ。また一向名号をとなふとも、信心あさくは往生しがたく候ふ。されば、念仏往生とふかく信じて、しかも名号をとなへんずるは、疑なき報土の往生にてあるべく候ふなり。詮ずるところ、名号をとなふといふとも、他力本願を信ぜざらんは辺地に生るべし。本願他力をふかく信ぜんともがらは、なにごとにかは辺地の往生にて候ふべき。このやうをよくよく御こころえ候うて御念仏候ふべし。(親鸞聖人御消息『末灯鈔』12通)

このように、どなたも本願文の説明に念仏を抜かしておられません。それどころか、善導大師に至っては大事な信心を抜かして念仏のみで本願を語られています。

「阿弥陀仏は念仏を称えよと仰っていない」どころか、その真逆です。「阿弥陀仏は念仏を称えよと仰っている」からこそ、その本願が成就してはたらいているからこそ、私達の上にお念仏が出ているのです。「阿弥陀仏は念仏を称えよと仰っていない」なら、その本願が成就してはたらいていても、私達の上にお念仏は出ないでしょう。

こう言いますと、これらの御文は念仏往生の立場だからだと言われそうですが、親鸞聖人の領解は念仏往生です。それと信心往生の両面が見られるというだけです。

●浄土真宗のならひには、念仏往生と申すなり(一念多念証文)

親鸞聖人が明確に「如来のちかひの名号をとなへんことをすすめたまふ」「弥陀の本願と申すは、名号をとなへんものをば極楽へ迎へんと誓はせたまひたる」と仰っているのに、それを否定するようなことを言うのは浄土真宗の先生としてどうなのかと私は思ってしまうわけです。

そもそも、念仏という行から証へと直接する法門が念仏往生というのに対して、念仏の信を別開して信から証へと直接する法門が平生業成なのであって、両者はまったく別物ではありません。この関係は、法の面から阿弥陀仏の救いを言われたのが念仏往生であるのに対し、機の面から阿弥陀仏の救いを言われたのが平生業成ということもできましょう。法の側からしたら、往相回向の大行、不回向の行である称名念仏によって往生し成仏する。これを機の側からしたら、大行たる念仏、南無阿弥陀仏の六字のこころを領受した信心により往生し成仏する、という関係です。

他力の信心、真実の信心と言いますが、それは念仏の信心です。念仏と無関係な信心ではありません。だから、信心獲得を勧めるイコール念仏を勧めるです。信心だけ勧めて念仏は勧めないなんてことはあり得ないです。念仏の勧めは当然なんです。称えても称えなくてもいいとか、称えないよりは称えた方がいいとか、そんな曖昧なものじゃありません。「念仏を称えよ」は仏の本願なんですから。なので七高僧方、親鸞聖人は真実の信心と念仏の両方を勧めてこられました。

それで、その念仏のこころはというと、それが「我にまかせよ」です。称えよと言われるお念仏は、阿弥陀仏の願いのお念仏です。しかし、これをたいがいは私の願いと聞き誤るんです。私が南無阿弥陀仏と申しますからどうぞお浄土へ連れていって下さいという願いだと。念仏を救いの取引条件とし、称功を認めようと計らう。

そうではなくて、この念仏、今お前が称えている南無阿弥陀仏は、阿弥陀仏がお前に向かって「我にまかせよ」と喚んでおられる声なんだというのです。念仏に称功を認めず、我が計らいをまじえず、ただ如来招喚の声として聞く。私の口を借りて「助けるぞ」と喚んでおられる声だと聞く。そう聞いたままが信心です。その信心の必然として称名が出てきます。その称名は御恩報謝でありまた如来招喚の声です。

称えるままが聞く、聞くままが信ずる、信ずるままが称する、これが念仏、南無阿弥陀仏です。この念仏、南無阿弥陀仏が回向され、私にはたらいている。だから私は南無阿弥陀仏を称え聞き、「我にまかせよ」と仰せのままに弥陀をたのむ。私達がお念仏申しているその元には「念仏を称えよ」と仰っている本願があり、その本願の通りに成就した南無阿弥陀仏があるのです。

【まとめ】
「念仏を称えよと仰っている」本願が成就してはたらいているから、私達はその通りにお念仏申している。
「念仏を称えよと仰っていない」本願なら、成就してはたらいていても私達の上にお念仏は出ない。
「念仏を称えよ」は仏の本願。念仏のこころは、「我にまかせよ」。

このようなことで、私は「阿弥陀仏は念仏を称えよと仰っている」と主張します。もし先生が聖教の根拠も、和上様方のお言葉も示さずにあくまで「阿弥陀仏は念仏を称えよと仰っていない」と主張されるなら、それは先生独自の説として理解します。以上、よろしくお願いいたします。

~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・

もし先生が、我々の自力疑心を誡め、本願力回向の信心を勧めようとして

自力念仏、計らいの雑じった念仏を称えよとは仰っていない
往生の取引条件としての念仏を称えよとは仰っていない

と言われたのだとしたら私はすぐに納得しますが、そうでない限りはたとえ本願寺派の輔教という、司教に次ぐお立場の方の話であっても私は納得いかんです。私が異端なのかも知れませんが、浄土真宗で念仏と言えば往相回向の行、不回向の行なんだから他力念仏に決まっています。阿弥陀仏が他力念仏を称えよと仰っていないなら、浄土真宗はお念仏の教えでも何でもないじゃないかと思ってしまうわけです。

本願の念仏は、弥陀、釈迦、諸仏の本意にかなった最高の仏道です。浄土真実の行、選択本願の行です。確かに本願のはたらきを「行」と言いますが、その本願のはたらきにより称えられる念仏もまた「行」です。

もつぱらこの行に奉へ、ただこの信を崇めよ。(「総序」)
仰いでこれを憑むべし。もつぱらこれを行ずべきなり。(「行文類」)


親鸞聖人がこう仰るからには、その根底に阿弥陀仏の勧めがあるからでしょう。

私としては、本願力回向と今の救いを説かれる先生であり、博識で話が大変上手であり、御恩報謝ということを教えて下さったという点で御恩のある先生の御一人なのですが、この発言だけは頂けないです。先生がどのような意図であのような発言をされたのかも含めて、伺いたいところです。

親鸞会の主張を裏付けるどころか、むしろ逆に親鸞会の主張を否定する根拠を提示していることに気づかない理想論者

親鸞会の理想論者が次のようなコメントをしています。

~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・
>今示された「長明寺さんの主張」に関しましては私は「同じ考えであります」が、あなたはなぜこの文言を出されて「淳心房の言われていることは間違いである」といわれているのか、がいまいち要領を得ません。

お答えしますと、「歓喜初後」では、

初一念の歓喜とは、「仏願力の摂受に対して疑雲の晴れた即時の心相」であり、身口意の三業によろこびをあらわすのは、後続の歓喜である。

とあります。すなわち、二つの歓喜が説かれています。

しかし、淳心房氏は、つぎのようにコメントされています。


『言っておきますが、大慶喜心とか広大難思の慶心とは真実信心の別名ですからね。大きな喜びがあるとか、無いとかというのは意業の問題でしょう』


つまり、「初一念の歓喜がない」がないと言う主張です。

従って、本願寺から見ても、異安心と言えますね。

だから、この根拠に反論ができなく、論点すり替え(引用することを自体を非難)しています。

しかし、祖師は儒学者を非難しながら、「論語」を引用されています。聖人を「みっともない」と仰っているのでしょう。悲しいことです。

2019-02-01(22:48)

~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・

現役カルト信者よりは詭弁に長けていることは間違いありませんが、やはりカルト教義に脳を浸食されているらしく、国語の能力、読解力が常人と比べて著しく低下しています。

この中の「長明寺さんの主張」とは安心論題(殿試勉強用のようなもの)にある以下の文章です。

~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・
【歓喜初後】

謹んでご論題歓喜初後を按ずるに
【題意】本願成就文では、「信心歓喜」と示されているが、その「歓喜」とは初一念からあるのか、それとも後続に出てくるものかを検討し、歓喜は初後に通ずるのであり、初起の歓喜は行者の三業の造作ではないことを明かにする。
【出拠】
聞其名号 信心歓喜 乃至一念
【釈名】歓喜は信心の相であり、信楽の楽の意味。楽には種々の意味があるが、ここでは「よろこぶ」「たのしむ」という意味。初後の初とは、成就文の一念(時剋の極促:初一念・信一念)とこと。初後の後とは、成就文の乃至であり、信心の後続、相続のこと。
【義相】
 真宗は信一念に正定聚不退の身になる法義である。しかし、初一念の歓喜が自己の意業であるとすれば、歓喜正因、意業安心、一念覚知といった誤解を生む。が、初一念に歓喜はないとすれば、信楽・信心歓喜の一念であるとも言えない。ここに問題が存する。
 信楽とは「金剛の真心」「破壊すべからず」等といわれるように、初起から後続まで続いてゆく。また、信楽は無疑心であり、この心のあり方がそのまま信心歓喜と示されているのであるから、無疑心(信)がそのまま歓喜心(楽)であり、信心と歓喜は別ものではない。
 初一念の歓喜とは、「仏願力の摂受に対して疑雲の晴れた即時の心相」であり、身口意の三業によろこびをあらわすのは、後続の歓喜である。聖人が、「言歓喜者、形身心悦予之貌也(信巻)」「歓喜といふは、歓はみをよろこばしむるなり、喜はこころによろこばしむるなり、うべきことをえてむずと、かねてさきよりよろこぶこころなり(一念多念文意)」といわれるのは、相続の姿であり、初一念の時に身心にわたって歓喜があらわれるという意味ではない。
 字訓釈には、信楽のことを「歓喜賀慶之心」とあり、正信偈には「能発一念喜愛心」とあり、曇鸞讃には「一念歓喜するひとをかならず滅度にいたらしむ」とある。これらの歓喜は信心の異名だが、信心正因をいいかえて歓喜正因とはいわない。私が名号を信受すること、その信心こそが往生成仏の因であるという意味で信心正因というのであり、身口意にあらわれる喜び(歓喜)が因となって往生が決定するのではない。よって歓喜正因ということはできない。
【結び】成就文に信心歓喜といわれる信心と歓喜とは別のものではない。そして信心が初後一貫するのであるから歓喜も初後一貫する。初起一念の歓喜は「仏願力の摂受に対して疑雲の晴れた即時の心相」であり、行者の三業にあらわれたものではない。三業の上にあらわれるのは第二念以後の後続である。
と窺います。

~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・

この中で「長明寺さんの主張」と「淳心房の主張」を比較しますと

これらの歓喜は信心の異名」⇒「大慶喜心とか広大難思の慶心とは真実信心の別名

ですし、

初起一念の歓喜は「仏願力の摂受に対して疑雲の晴れた即時の心相」であり、行者の三業にあらわれたものではない。」⇒「大きな喜びがあるとか、無いとかというのは意業の問題

です。長明寺さんと淳心房とでどこか違いますか? 普通の読解力をもってすれば同じことを言っているのがお判り頂けるのではないでしょうか。

文章から読み取れるように、『初起一念の歓喜は「仏願力の摂受に対して疑雲の晴れた即時の心相」』とは「信心」のことです。『信心歓喜といわれる信心と歓喜とは別のものではない』とあることからも明らかです。ここで淳心房の主張は、

真実の信楽(信心)には一念(時剋の一念)ということがある

であって、「信心歓喜」と表される真実の信楽が開け起こる最初の時がある、というものです。つまり

初起一念の歓喜ということがある

というものです。それを勝手に

「初一念の歓喜がない」がないと言う主張

と捏造するのはやめてもらいたいものです。

ここで問題は、親鸞会が主張しているように

救われた一念、信心獲得の瞬間は、必ず、ハッキリするものだ
信一念の瞬間は、必ず、我々の上でハッキリと自覚できるものだ


と言えるのかということです。この主張は言葉を換えれば、

初起一念の歓喜は、必ず、我々の上でハッキリと自覚できるものだ

となります。これは【歓喜初後】の文章を読めば明らかなように、

「行者の三業にあらわれたものではない」初起一念の歓喜がどうして、必ず、我々の上でハッキリと自覚できますか?

というわけで間違い、異安心です。【歓喜初後】の文章は、淳心房の主張を裏付けるものでこそあれ、親鸞会が主張するようなことを裏付ける根拠とはなりません。むしろその逆です。

・初起の歓喜は行者の三業の造作ではないことを明かにする
・初一念の歓喜が自己の意業であるとすれば、歓喜正因、意業安心、一念覚知といった誤解を生む
・無疑心(信)がそのまま歓喜心(楽)であり、信心と歓喜は別ものではない
・初一念の歓喜とは、「仏願力の摂受に対して疑雲の晴れた即時の心相」であり、身口意の三業によろこびをあらわすのは、後続の歓喜
・初一念の時に身心にわたって歓喜があらわれるという意味ではない
・これらの歓喜は信心の異名
・初起一念の歓喜は「仏願力の摂受に対して疑雲の晴れた即時の心相」であり、行者の三業にあらわれたものではない。三業の上にあらわれるのは第二念以後の後続である


よく読んで頂きたいものです。これらを読んで

救われた一念、信心獲得の瞬間は、必ず、ハッキリするものだ
信一念の瞬間は、必ず、我々の上でハッキリと自覚できるものだ


と主張しているのだとしたら、よほど読解力に欠けています。現役カルト信者よりは随分マシだと思っていたのですが、どうも五十歩百歩のようです。親鸞会の主張を裏付けるどころか、むしろ逆に親鸞会の主張を否定する根拠を提示していることに気づかないという、実に愉快な仲間達の一人であることが明白です。


それにしても、理想論者の文章中に

本願寺から見ても、異安心

とあるのがまたミソです。この言葉の裏には

まして正しい信心を説かれる高森先生から見たら、完全に異安心

という意図があるのが見え見えです。彼は現在の本願寺の教義を高森会長の説に幻惑されて間違い、異安心と信じ込み、親鸞会、高森会長の主張こそ正しい浄土真宗だと狂信しているのでしょう。心から正しいと思っていない団体の文章を持って来て退会者の主張を間違いだとし、聖教の根拠を基に議論しないのは、自身が拠り所としている教義に自信が無いことの表れです。

親鸞会の主張こそ真実だという自信があるのなら、

救われた一念、信心獲得の瞬間は、必ず、ハッキリするものだ
信一念の瞬間は、必ず、我々の上でハッキリと自覚できるものだ


という聖教の根拠を示しましょう。それがなされない限り、

親鸞会の主張は浄土真宗ではない

ということにしかなりませんので悪しからず。


なお、文章を書いている途中に新たなコメントが来たので、こちらにも紹介し、また淳心房からも質問をします。

~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・
私の過去のコメントをよくよく見て頂いてもわかるかとおもいますが、「信一念の瞬間が必ずハッキリと自覚できる」とは主張していません。

過去に「その人は、救われてもハッキリしない(救われた時の自覚がない、いつとはなしに救われる)、救われても大きな喜びが起きないと言いますが、なぜだと思いますか?」

と書きましたが、これは「信一念の瞬間が必ずハッキリと自覚できる」ということではありません。

「いつとはなしに救われる」の否定が「信一念の瞬間が必ずハッキリと自覚できる」ということではありません。

それは、前に何度も言ったように0か100で物事を考えていらっしゃるように思います。

あなたは、それを親鸞会の主張ともいわれますが、それほどまでに、「信一念の瞬間が必ずハッキリと自覚できる」ことに、こだわる理由を教えて頂けないでしょうか。

2019-02-02(07:03)

~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・

私が「信一念の瞬間が必ずハッキリと自覚できる」ことにこだわるのは、貴方が「救われた時の自覚」を問題にしているからです。この「救われた時」とはいつのことですか? 信一念のことですか? それとも第二念後以降のことですか? これをハッキリと示して頂きたいと思います。

「みみが無い」のは自分自身であることにすら全く気付かない愚かな現役カルト信者

私もかつてそうだったから判るのですが、高森教徒は実に愚か者です。たかだか350問の短冊教学を覚えて「大導師」、それに少し応用を加えた試験に合格すれば「講師」、講師試験に5回受かれば「大講師」の学階を授かり、その程度の知識で本願寺の勧学和上より上だ位に思っているのですから。

実際は『御文章』に何が書いてあるのかすら分からない、まして『教行証文類』なんて分かるどころか一度も通読さえしたことがない、七祖聖教に至っては読むことを禁止されているというのですから当然知らない、それが親鸞会会員の偽らざる実態です。

これに加えて、親鸞会の邪義ばかりを吹き込まれ、正しい意味を教えられないまま自力もどきの「高森の行」を授けられ、無常と罪悪に責めたてられて組織拡大活動に邁進しているだけなので、念仏の行者、信心の行者とは縁遠い、高森教徒の名が相応しい人々です。

ですから、親鸞会会員は真宗の知識も信心も、本願寺の勧学はおろか、司教、輔教、助教は勿論、得業という一番低い学階の先生にさえ全く歯が立たないでしょう。それどころか、在家の信者である林遊さんや、飛雲さんを始めとする博識の退会者の方々にも遠く及びません。淳心房はそれらの方々よりも知識においては下です。その淳心房ごときを言い負かせられないようでは笑止千万、話にならないです。会員は、まず自身の知識の無さ、間違った真宗教義の理解をしていることをアキラカニミテ恥を知りましょう。


聖教の根拠も挙げられず、高森教に固執する現役カルト信者が吠え続けていますが、こちらはカルト創作教義を基に議論する気は更々ありません。聖教の根拠をもって、その教えが浄土真宗かどうかを判定しようとしています。なので、創作教義を聞く耳はありません。聞いてほしければ聖教に基づいた説明をし、親鸞会教義の正当性を訴えて下さい。スマホでやりづらいなど、怠慢の言い訳でしかありません。

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いえいえ
淳心房どのにみみが無いだけ♪

2019-01-31(19:33) : 元会員

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またまたこんな面白いことを書いてきて、本当に話題提供に余念が無い現役カルト信者です。みみが無いのはどちらだとツッコんでくれと言わんばかりのコメントに失笑を禁じ得ません。

ちなみに、「めが無い」「みみが無い」と釈尊や親鸞聖人が仰るのは、他ならぬ高森教徒のことです。「無眼人」「無耳人」の意味さえ知らず、「みみが無い」のは自分自身であることにすら全く気付かない愚かな現役カルト信者のために、『飛雲』「凡夫の浅智」以前に無智なんですよからその意味を紹介します。

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高森会長もその信奉者も、信仰云々以前に、あまりにも無智です。「無眼人」「無耳人」の意味さえ知らないのですから。「凡夫の浅智」でも少し勉強すれば、「無眼人」「無耳人」の意味くらいは判るでしょうに。
無眼人」「無耳人」は『目連所問経』に説かれてあることですが、道綽禅師が『安楽集』で紹介されています。

また『目連所問経』のごとし。「仏、目連に告げたまはく、〈たとへば万川の長流に浮べる草木ありて、前は後を顧みず、後は前を顧みず、すべて大海に会するがごとし。世間もまたしかなり。豪貴・富楽自在なることありといへども、ことごとく生老病死を勉るることを得ず。ただ仏経を信ぜざるによりて、後世に人となれども、さらにはなはだ困劇して、千仏の国土に生ずることを得ることあたはず。このゆゑにわれ説く、《無量寿仏国は往きやすく取りやすし。しかるに人修行して往生することあたはず、かへりて九十五種の邪道に事ふ》と。われこの人を説きて無眼人と名づけ、無耳人と名づく〉」と。

(現代語訳)

また《目連所問経》に説かれているとおりである。

世尊が目連に仰せられる。「たとえば、よろずの長い川の流れに漂う草木が、前のものは後のものを顧みず、後のものは前のものを顧みず、すべて大海に流れ込むようなものである。世間のありさまもまたそのとおりで、威勢や地位や財産や、また歓楽の自由自在なものでも、ことごとく生老病死を免れることはできない。どのようなものでも、仏のみ法を信じなかったならば、後の世に人間に生まれても、困苦の身となり、千仏の出られる国土に生まれることはできぬ。それゆえ、わたしは、〈無量寿仏の国は往きやすくさとりやすいのに、人々はこれを行じないから、往生することができず、反対に九十五種の外道につかえている〉と説くのである。わたしは、こういう人を〈眼のない人耳のない人〉と名づける。」


とあります。「九十五種の邪道に事ふ」ような人を「無眼人」「無耳人」と釈尊が仰ったのです。

これを承けられて親鸞聖人も『浄土和讃』諸経讃

大聖易往とときたまふ
 浄土をうたがふ衆生をば
 無眼人とぞなづけたる
 無耳人とぞのべたまふ


と仰り、また『御消息』

釈迦如来のみことには念仏するひとをそしるものをば「名無眼人」と説き、「名無耳人」と仰せおかれたることに候ふ。

と仰っています。
念仏誹謗の高森会長とその信奉者は「無眼人」「無耳人」で間違いないでしょうが、真宗の同行は「無眼人」「無耳人」ではないですね。全人類が「無眼人」「無耳人」と喚く人が、「無眼人」「無耳人」です。

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良く言って「雑行の勧め」、実態は雑行にもならない「悪業悪行の勧め」をしている親鸞会は浄土真宗どころか仏教どころか「九十五種の邪道」そのものでしょう。行を見ればその人の宗教が分かると言われますが、

・高森会長の話を自力で命がけで聞く
・親鸞会に人を勧誘する
・親鸞会に献金する
・会長及び上司の指示に無条件に従う


これらを中心に、孝養父母や親切、言行一致等の世俗の善行をくっつけて体よく見せているのが「高森の行」ですから、ただの一新興宗教であり、「九十五種の邪道」の一つです。対して、浄土真実の行、選択本願の行として親鸞聖人が選定されている真実の行

つつしんで往相の回向を案ずるに、大行あり、大信あり。大行とはすなはち無碍光如来の名を称するなり。「行文類」大行釈

です。本願力回向の称名大行こそが「浄土真宗の行」なのです。無碍光如来の名を称する、南無阿弥陀仏、帰命尽十方無碍光如来と称えることが「浄土真宗の行」であり、南無阿弥陀仏、帰命尽十方無碍光如来という名号のいわれを計らいをまじえずに聞き受けて如来の計らいにまかせている、本願力に乗託して自力を離れているのが「浄土真宗の信」です。

こうした「浄土真宗の行信」を知らず、信を誤り行を軽んじ、あまつさえ

自力念仏の者は必堕無間

等と念仏誹謗しているのが高森会長と愉快な仲間達です。「信仰云々以前に、あまりにも無智」と飛雲さんに一刀両断されるのは当たり前の当たり前の話です。


退会者や本願寺の先生方にきく耳を持ってほしいなら、まずは国語の能力と最低限の知識を身に付けるところから始めましょう。そして聖教に基づいて親鸞会の教えこそ「唯一絶対にして真実の宗教」と宣伝して下さい。それをしない、できないならば、退会者の批判を指を加えて黙って見ているよりありません。尤も、高森会長が公開法論に応じないままもうすぐ7年ですから、その下がまともな法論に応じないのは当然ですが。

「細々に信心の溝をさらへて、弥陀の法水を流せといへることありげに候ふ」「信不信ともに、ただ物をいへと仰せられ候ふ」

前回の記事で「他力の信心を獲たということは我々に判ります」と書きました。ところが、特に親鸞会出身者は他力の信心ということも判らなければ、信心を獲るということも誤解に誤解を重ねていますから、本願の仰せを疑いなく聞き受けていたとしても最初はそれに気が付かないということがあり得ます。

誤解の中でも最たるものと言っていいのが、最近ずっと議論になっていて親鸞会側が根拠を出してこない、

救われた一念、信心獲得の瞬間は、必ず、ハッキリするものだ
信一念の瞬間は、必ず、我々の上でハッキリと自覚できるものだ


に関する誤解です。これは、この記事で紹介している

一念とは疑晴れて大満足の境地に開発したひとおもいをいい、盲者の開眼の一刹那、地獄一定が極楽一定と転じた時、煩悩具足が至徳具足と転じた一刹那、明来闇去、闇去明来の一念、いままで閉塞していた心中が開発して信楽と晴れ亘った一念、言説や思惟の及ぶところではない驚天動地の一刹那をいうのである。(『顕正』p.99)

というような大沼法竜師の味わいを教義と勘違いした高森会長の妄想です。高森会長自身の体験談は

はからずも夏休み数日前に、増井君をはじめ数名の求道者諸兄の御指導を受け、半信半疑、なお私の心は悶えました。親切にも休暇中『仏敵』の書をお借りして読ませていただき、また家にあった書物により、さらにまた華光をも送っていただき、次第にその迷雲も晴れ、今日までの悪疑を恥づるに余念がありません。ただただ「そのままこい」「そのままでよい」とは何と有難いことでしょうか。『飛雲』もろもろの行業を回してただちに西方に向かふより)

とこのようなものですから、『顕正』で書いているような驚天動地の摩訶不思議な神秘的体験ではありません。信心決定を神秘体験と位置付けることで会員が「自分もそうなりたい」と憧れるように、そして組織拡大活動の起爆剤、促進剤となるように大沼法竜師の著作をパクったのでしょう。

なお、この体験談をもって高森会長の信心が真実信心だともそうでないとも断言できませんが、高森会長は華光会時代と親鸞会時代とで全く異なる信心を教えている、親鸞会創設後は大沼法竜師の著書をパクって信心を語っていることがお判り頂ければ結構です。


信前と信後で劇的な変化があると教えられていないことは「二河白道の譬え」でも明らかです。

この人、すでにここに遣はし、かしこに喚ばふを聞きて、すなはちみづからまさしく身心に当りて、決定して道を尋ねてただちに進んで、疑怯退心を生ぜずして、あるいは行くこと一分二分するに、東の岸の群賊等喚ばひていはく、〈きみ回り来れ。この道嶮悪なり。過ぐることを得じ。かならず死せんこと疑はず。われらすべて悪心あつてあひ向かふことなし〉と。この人、喚ばふ声を聞くといへども、またかへりみず、一心にただちに進んで道を念じて行けば、須臾にすなはち西の岸に到りて、永くもろもろの難を離る。

旅人は、東の岸で釈迦の発遣と弥陀の招喚を聞き、「決定して道を尋ねてただちに進んで、疑怯退心を生ぜずして、あるいは行くこと一分二分」したと書かれています。違いは決定して白道に乗ったかどうか、これだけです。『飛雲』高森秘事の二河白道の譬え話にあるように、

~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・
信前信後の話に絞って言いますと、三定死を迎えるのは、東の岸にいる時であり、西の岸にいる人の喚び声を聞くのも東の岸にいる時です。したがいまして、信前信後の違いは、東の岸にいるか白道に乗ったかの違いです。ここで、白道に乗ったこと以外に何かが変わったかどうかです。

・旅人の姿は変わらない。
・東の岸も変わらない。
・白道は四五寸のまま変わらない。
・水の河と火の河も変わらない。
・群賊悪獣悪知識も変わらない。
・東の岸と西の岸の距離も変わらない。
・西の岸も変わらない。
・東の岸の人も変わらない。
・西の岸の人も変わらない。
・西の岸の人から新たな喚び声はない。


要するに、白道に乗ったこと以外には、何も変わらないということです。
そうなると、救われてハッキリするのは、白道に乗ったこと、つまり他力の信心を頂いたことだけで、他にはハッキリすることが何もないということになります。

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ということです。信心獲得の際に何か奇跡的な体験を伴うと信じている人は、まずその思い込み、先入観を持つことをやめましょう。奇跡体験を求めるのならハッキリ言って他宗教に行った方が早いです。


淳心房の場合は、奇跡体験、ハッキリスッキリ体験はありません。27歳の冬のことでしたが、気が付いた時には既に如来の方からの一方的なお助けであることに何の疑いも無くなっていました。「どうしたら」「どうすれば」の心が消えて、「助けるぞ」「我にまかせよ」の仰せの通り往生をまかせるより後生助かる道は無いという思いになっていました。これで地獄へ行こうと阿弥陀さまがお連れ下さる処であり、元々どんな行もできずに地獄なのだから他にどうすることもできない。ただかたじけなくも阿弥陀さまは「浄土へ参らせるぞよ」と仰って下さっているから、その仰せに「お浄土へ参らせて頂きます」とまかせるのみ。あとはただなんまんだぶ、なんまんだぶとお念仏申すのみでした。当時生後4ヵ月ほどの長女を抱っこしている時にこのように気付かせて頂きました。こうして本願力回向の法、只今の救いを計らい無く聞き受けた以外、特別な体験はありません。当初は訳が分からなかったので同行に尋ね、また聖教を繰り返し読んで、それでようやく分からせてもらいました。

中には、特別な体験をされた方もあるかも知れません。淳心房のような思いとは違う思いになられた方もあるかも知れません。どちらでもよいですが、親鸞会教義が前提にあると特に、他力の信心を頂いてもそれとは判らず、ただ今までと違う心境に戸惑うしかないと思います。今これを読んでいる方で、何か心境の変化があったという方。決して恥ずかしいことではありませんから、先生やお同行にどんどん尋ねてみて下さい。

『御文章』2帖目1通
そもそも、今度一七箇日報恩講のあひだにおいて、多屋内方もそのほかの人も、大略信心を決定したまへるよしきこえたり。めでたく本望これにすぐべからず。さりながら、そのままうちすて候へば、信心もうせ候ふべし。細々に信心の溝をさらへて、弥陀の法水を流せといへることありげに候ふ。

『御一代記聞書』(86)
一 蓮如上人仰せられ候ふ。物をいへいへと仰せられ候ふ。物を申さぬものはおそろしきと仰せられ候ふ。信不信ともに、ただ物をいへと仰せられ候ふ。物を申せば心底もきこえ、また人にも直さるるなり。ただ物を申せと仰せられ候ふ。

蓮如上人はこのように仰り、よくよく聴聞し、信心や思いを語ってゆくことが大事だと教えられています。先生やお同行が信心を判定するのではありませんが、聴聞や談合をさせて頂くことで自身の信心が如来回向の他力の大信心なのかどうなのか分かってゆくことと思います。

信の一念の際にもの凄い体験をする、火に触ったよりもハッキリする等と思い込んでいたら、そういう体験をしなかったら、ハッキリしなかったら自分はまだ救われていないんじゃないかと思う他ありません。まして人に聞くまでもなくハッキリ判る、人に聞いているようでは信心決定ではない等と思い込んでいたら、不信心の表れだと恥ずかしく思って人に尋ねることすらしなくなってしまうでしょう。

凡夫が地獄に堕ちるのは当たり前です。こんなもの、当然の報いであって一大事でも何でもありません。その凡夫がこの度仏に成るとしたら、これは一大事です。また、そんな法があるのにそのお救いにあずかれないとしたら、これも一大事です。そんな一大事ですから、聞いて恥かくとしても一時の恥です。しかし聞かぬは一生どころか、万劫の恥です。お前こんな事思ってたんかと馬鹿にする奴もあるかも知れない。でも、語らないことには何も分かりません。とにかく、自身が信頼している先生やお同行に、心中を(言える範囲で構わないので)ありていに申し上げることが大切かと思います。もし淳心房やしゃあにお尋ねになりたいという方がありましたら、ブログ右上のプロフィール欄にメールアドレスがあるのでそちらへご連絡下さい。


ともあれ、

救われた一念、信心獲得の瞬間は、必ず、ハッキリするものだ
信一念の瞬間は、必ず、我々の上でハッキリと自覚できるものだ


に関しては、そのように仰せられた聖教の根拠は無いということで決着しました。現役カルト信者も理想論者も聖教の根拠を出さずに高森会長の説(大沼法竜師のパクリ)に固執するのみです。未だ信心を獲ていない人も、既に本願を信じ念仏申す身となった人も、「細々に信心の溝をさらへて、弥陀の法水を流」し、「信不信ともに、ただ物をい」って、皆人一同に今度の一大事の報土往生をよくよく遂げて頂きたいものです。

信心が開け起こる最初の時(信の一念)ということがある。それが具体的にいつか、ハッキリと自覚があるかということは述べられていない。信心は獲た時ではなく、「いま」で語られている

信心決定とは第十八の願をこころうることであり、それはまた南無阿弥陀仏のすがたをこころうることです。

信心獲得すといふは第十八の願をこころうるなり。この願をこころうるといふは、南無阿弥陀仏のすがたをこころうるなり。このゆゑに、南無と帰命する一念の処に発願回向のこころあるべし。これすなはち弥陀如来の凡夫に回向しましますこころなり。『御文章』5帖目5通

これは凡夫自力の心ではなく、自分で起こす信心でもありません。本願の名号が至り届いて帰命の信心と成って下さるのです。このように如来より恵み与えられる信心であるというので、

法然聖人の仰せには、「源空が信心も、如来よりたまはりたる信心なり、善信房の信心も、如来よりたまはらせたまひたる信心なり。されば、ただ一つなり。別の信心にておはしまさんひとは、源空がまゐらんずる浄土へは、よもまゐらせたまひ候はじ」『歎異抄』後序

と、「如来よりたまはりたる信心」と法然聖人は仰せられました。ですから、本願の名号が至り届いた最初の時、如来より信心を賜った最初の時というものがあるのです。それを親鸞聖人は

それ真実の信楽を案ずるに、信楽に一念あり。一念とはこれ信楽開発の時剋の極促を顕し、広大難思の慶心を彰すなり。「信文類」信一念釈

と仰ったのでした。本願力をたのんで自力を離れるという「時」が確かにあるのだというのです。自力から他力に切り替わった「時」というのがあるのです。


これについて色々の異義意見があることは皆さんご承知かと思います。この「時」というのは実時だとか仮時だとか。信の一念は必ず、我々の上でハッキリと自覚できるとか、いやそんなハッキリと自覚できるものではないとか。ハッキリと自覚できるならその年月日時を刻明に記憶しているはずだとか、記憶が無いのは信心ではないだとか。また信の一念をハッキリと自覚していないのは信心ではないとか。まぁ色々です。

ところで、他力の信心を獲たということは我々に判ります。

しかるにこの光明の縁にもよほされて、宿善の機ありて他力の信心といふことをばいますでにえたり。これしかしながら弥陀如来の御方よりさづけましましたる信心とはやがてあらはにしられたり。かるがゆゑに、行者のおこすところの信心にあらず、弥陀如来他力の大信心といふことは、いまこそあきらかにしられたり。『御文章』2帖目13通

阿弥陀仏の光明の縁にもよおされて、他力の信心ということを今既に獲た。この信心は弥陀如来の御方より授けられる信心であることが引き続き明白に知らされた。そうであるから、行者のおこす信心ではなく、弥陀如来より賜る他力の大信心だということが今こそ明らかに知らされた。意訳すればこのようになるでしょう。ですから他力の信心は無念無想ではなく、我々の上で判るものだということが知られます。ただし問題は、賜った最初の時というものが我々の上でハッキリと自覚できるのかどうかということです。

親鸞会ではこのお言葉を中略して、信心決定の瞬間、信の一念は「今こそ明らかに知られたりと驚きたつ」、「モヤモヤした疑心が、他力信心を獲ると同時に晴れ渡って日本晴れの大安心、大満足の心になれる」根拠としていますが果たしてそうでしょうか。

2帖目13通のお手紙を書かれたのは文明六年で、西暦では1474年です。一方1帖目1通を書かれたのは文明三年で、西暦では1471年です。蓮如上人が御勧化をされるようになったのがいつからなのかは明確に分かりませんが、少なくとも1帖目1通を書かれてからおよそ3年経っていることが判ります。1帖目1通を書かれた時点で蓮如上人は既に

正雑の分別をききわけ、一向一心になりて、信心決定のうへに仏恩報尽のために念仏申すこころは、おほきに各別なり。

と仰っていますから遅くとも1471年には獲信されていたことが伺えます。2帖目13通はそれから約3年の歳月が流れていますが、その時に「他力の信心といふことをばいますでにえたり」「いまこそあきらかにしられたり」と仰っています。ですからこの御文を挙げても、ある程度年月が経ってから「いまこそあきらかにしられたり」とハッキリする根拠でこそあれ、信の一念が、必ず、我々の上でハッキリと自覚できる根拠にはならないのです。

これは、信の一念の際どうだったかという過去を問題にすることがそもそも問題であることを物語っています。同時に、信心は信の一念の時という過去で語るのではなく、「いま」で語るべきものであることも示唆されています。信心を「いま」で語られているのは蓮如上人ばかりでなく、親鸞聖人もそうです。

しかるに、いまことに方便の真門を出でて、選択の願海に転入せり。「化身土文類」真門決釈

親鸞聖人が『教行証文類』を書き始められたのは52歳の頃からだと言われています。雑行を棄てて本願に帰されたのが29歳の時だと言われていますが、それでも「いま」です。その後も一生涯に亘って『教行証文類』を推敲されていますから、晩年、臨終でも「いま」だと仰っていると伺うことができます。

これらのことから判るのは、

・信心が開け起こる最初の時(信の一念)ということがある
・それが具体的にいつか、ハッキリと自覚があるかということは述べられていない
・信心は獲た時ではなく、「いま」で語られている


等のことです。

真宗の信心は、過去の体験をたのむのでもなく、未来に救いを期待するのでもなく、現在只今私に届いている本願力をたのんで自力を離れるというものです。本願力は「南無阿弥陀仏」という称え聞くことのできる名号となって我々に届いていますから、私達はその名号のいわれをしっかりと聞いて信心獲得し、「助けるぞ」「我にまかせよ」の如来招喚の勅命のままに往生をおまかせするばかりです。

それでも、信の一念の瞬間がどうだとか、ハッキリと自覚できると主張するならば、

救われた一念、信心獲得の瞬間は、必ず、ハッキリするものだ
信一念の瞬間は、必ず、我々の上でハッキリと自覚できるものだ


という聖教の根拠を提示してからにしましょう。根拠がなければ、その主張は真宗にない珍説です。

「救われた一念、信心獲得の瞬間は、必ず、ハッキリするものだ」「信一念の瞬間は、必ず、我々の上でハッキリと自覚できるものだ」という聖教の根拠を挙げられない親鸞会の理想論者

根拠を挙げろと言うと挙げられない、答えに窮すると間違いものだと言っている本願寺の出版物が根拠という、実にみっともない親鸞会の理想論者であることが判ります。当ブログでは、名無しさんに改めて親鸞会が主張する根拠の提示を求めます。余計な説明は結構なので、聖教の根拠のみ示して下さい。それをしないもしくはできないならば、親鸞会の主張は親鸞聖人の仰せと異なる、それがハッキリするだけのことです。

と書いて、「名無し」さんに

救われた一念、信心獲得の瞬間は、必ず、ハッキリするものだ
信一念の瞬間は、必ず、我々の上でハッキリと自覚できるものだ


という聖教の根拠を求めましたが、案の定挙げられず、「名無し」さんの返答はこのようなものでした。

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>言っておきますが、大慶喜心とか広大難思の慶心とは真実信心の別名ですからね。大きな喜びがあるとか、無いとかというのは意業の問題でしょう。ハッキリするとかしないとか、大きな喜びが起きたとか起きないとか、そんなことを問題にしている人の方が合点安心です。意業安心です。私の心の良し悪しを沙汰せずに、ひたすら「助けるぞ」の如来の仰せをあおぐ。これが信心です。

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➝「私の心の良し悪しを沙汰せずに、ひたすら「助けるぞ」の如来の仰せをあおぐ。」これも「あなたの」意業ではないでしょうか。

あなたは、御聖教を理解した安心である『合点安心』のように思えます。
本当にご自身が救われているのか考え直された方が良いかと存じます。

また、上のコメント全体に対して下の引用(歓喜初後の論題)で答えます。
(前回根拠をあげていたのですが、文言そのものを上げる手間を省いてしまい申し訳ありませんでした。)

また、(安心)論題というものは、『今の本願寺』が作ったのではなく、江戸時代からあるものです。その伝統を継承している限り問題はありません。

また、これ以外のリンクや書物でも内容はそう大きく変わらないと思います。
これに合わなければ、あなたの信心は本願寺が説く信心でもありません。

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http://www.geocities.jp/choumyouji/dennshi.html#3kanngi

【歓喜初後】

謹んでご論題歓喜初後を按ずるに
【題意】本願成就文では、「信心歓喜」と示されているが、その「歓喜」とは初一念からあるのか、それとも後続に出てくるものかを検討し、歓喜は初後に通ずるのであり、初起の歓喜は行者の三業の造作ではないことを明かにする。

【出拠】
聞其名号 信心歓喜 乃至一念

【釈名】歓喜は信心の相であり、信楽の楽の意味。楽には種々の意味があるが、ここでは「よろこぶ」「たのしむ」という意味。初後の初とは、成就文の一念(時剋の極促:初一念・信一念)とこと。初後の後とは、成就文の乃至であり、信心の後続、相続のこと。

【義相】
 真宗は信一念に正定聚不退の身になる法義である。しかし、初一念の歓喜が自己の意業であるとすれば、歓喜正因、意業安心、一念覚知といった誤解を生む。が、初一念に歓喜はないとすれば、信楽・信心歓喜の一念であるとも言えない。ここに問題が存する。

 信楽とは「金剛の真心」「破壊すべからず」等といわれるように、初起から後続まで続いてゆく。また、信楽は無疑心であり、この心のあり方がそのまま信心歓喜と示されているのであるから、無疑心(信)がそのまま歓喜心(楽)であり、信心と歓喜は別ものではない。

 初一念の歓喜とは、「仏願力の摂受に対して疑雲の晴れた即時の心相」であり、身口意の三業によろこびをあらわすのは、後続の歓喜である。聖人が、「言歓喜者、形身心悦予之貌也(信巻)」「歓喜といふは、歓はみをよろこばしむるなり、喜はこころによろこばしむるなり、うべきことをえてむずと、かねてさきよりよろこぶこころなり(一念多念文意)」といわれるのは、相続の姿であり、初一念の時に身心にわたって歓喜があらわれるという意味ではない。

 字訓釈には、信楽のことを「歓喜賀慶之心」とあり、正信偈には「能発一念喜愛心」とあり、曇鸞讃には「一念歓喜するひとをかならず滅度にいたらしむ」とある。これらの歓喜は信心の異名だが、信心正因をいいかえて歓喜正因とはいわない。私が名号を信受すること、その信心こそが往生成仏の因であるという意味で信心正因というのであり、身口意にあらわれる喜び(歓喜)が因となって往生が決定するのではない。よって歓喜正因ということはできない。

【結び】成就文に信心歓喜といわれる信心と歓喜とは別のものではない。そして信心が初後一貫するのであるから歓喜も初後一貫する。初起一念の歓喜は「仏願力の摂受に対して疑雲の晴れた即時の心相」であり、行者の三業にあらわれたものではない。三業の上にあらわれるのは第二念以後の後続である。
と窺います。

2019-01-26(13:16) :

~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・

本願寺の灘本愛慈先生の安心論題/歓喜初後では都合が悪かったのか、長明寺HPの

安心論題(殿試勉強用のようなもの) 【歓喜初後】

を出してきています。灘本愛慈先生と言えば、桐渓順忍和上や山本仏骨先生などと並んで、高森顕徹会長がその著『本願寺なぜ答えぬ』で批判した相手方の一人です。『本願寺なぜ答えぬ』では、「宿善について」という灘本愛慈先生の書かれたものを掲載しています。なお、同著では、紅楳英顕先生の

『派外からの異説について』

を全文掲載すると言いながら、実際は掲載しておりません。また、紅楳英顕先生は

現代における異義の研究-高森親鸞会の主張とその問題点-

でも親鸞会教義の問題点を指摘されていますのでご参照下さい。


さて、コメントの中で「名無し」さんは

(安心)論題というものは、『今の本願寺』が作ったのではなく、江戸時代からあるものです。その伝統を継承している限り問題はありません。

と仰っていますが、これもおかしな話です。『今の本願寺』はダメだが、『江戸時代の本願寺』ならよいのでしょうか? しかしリンク先の文章は見る限り明らかに現代文であり、誰かはよく分かりませんが前置きにあるように長明寺の方が「自分なりに纏めたもの」です。この方が江戸時代からの伝統を継承しているならば、少なくとも長明寺の中には善知識がいるということです。これは「蓮如上人以来の善知識高森先生」の否定です。会員の皆さんは、長明寺へ行って安心論題を書かれた方から聴聞された方がいいんじゃないでしょうか?

「名無し」さんはあれだけ退会者の信心を攻撃しておきながら、結局聖教の根拠が出せないのです。本願寺に助けを求めていることが見え透いていて面白いです。そして、本願寺の主張と違うならあんたらの信心は

本願寺が説く信心でもありません

まぁつまり間違いだと言いたいんでしょう。

本願寺が説く信心でもありません

というのがミソで、『今の本願寺』を肯定しているわけでもないが、その『今の本願寺』が書いているものを根拠としているという、彼の何とも言えないアンバランスな立ち位置が伺えます。


それで本文を読んでみましたが、皆さんも読んでお分かりのように私が求めている聖教の根拠はありません。それどころか【結び】の箇所では、

初起一念の歓喜は「仏願力の摂受に対して疑雲の晴れた即時の心相」であり、行者の三業にあらわれたものではない。三業の上にあらわれるのは第二念以後の後続である。

と書かれています。対して親鸞会の主張は、淳心房の言葉で言えば

救われた一念、信心獲得の瞬間は、必ず、ハッキリするものだ
信一念の瞬間は、必ず、我々の上でハッキリと自覚できるものだ


というものですから、信一念の瞬間が行者の意業、つまり三業に明瞭に現れるという主張です。これは

初一念の歓喜が自己の意業であるとすれば、歓喜正因、意業安心、一念覚知といった誤解を生む。

とあるように間違いです。要は

真実の信楽(信心)には一念(時剋の一念)ということがある

とは仰っているが、親鸞会が主張するような

救われた一念、信心獲得の瞬間は、必ず、ハッキリするものだ
信一念の瞬間は、必ず、我々の上でハッキリと自覚できるものだ


といったことは聖教のどこを読んでも見当たらないのです。当たり前です。高森会長が大沼法竜師の味わいを教義と勘違いしてそのままパクっただけなんですから。

信一念の自覚の有無については、既にこの記事で書いています。

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では真宗の信心とはいかなるものかというと、それについては

年月を知るも障とせず、知らざるも亦功とせず、覚もよし、覚ぬもよし、共に仏智に信順するを以て当流安心の正義とす(鮮妙師『意業非意業之論』)

とあります。信一念の自覚があってもよい、なくてもよい。信一念の自覚がある人も、ない人も、共に仏智に信順したのが真宗の信心だというのです。自身は罪悪生死の凡夫、煩悩を具足せる凡夫、善根薄少にして火宅を出ることのできない、出離の縁有ること無い凡夫であり、そのような私が私のままで「必ず往生させる」という阿弥陀仏の本願の仰せを受け容れ、その御言葉に疑いなく慮りなく往生をおまかせする。それが真宗の信心、他力の信心です。親鸞会ではこのおまかせした瞬間、すなわち信一念の自覚が必ずなければならないというのですが、それは真宗の聖教上に根拠のない妄情であります。

~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・

この中の「仏智に信順」した帰命の信心を淳心房は

私の心の良し悪しを沙汰せずに、ひたすら「助けるぞ」の如来の仰せをあおぐ。

と書いたのですが、彼にはこれが意業安心に見えるようです。それは彼が、安心論題にあるように

歓喜正因、意業安心、一念覚知といった誤解を生む

教えを信じているからでしょう。自身が意業安心の最中でそれが真実信心と勘違いしているから、退会者の主張が異安心だとしか思えないのだと伺えます。考え直すも何も、救うも救わないも阿弥陀さまのお計らいなんだから、他の方は分かりませんが淳心房は阿弥陀さまのお計らいにまかせてただお念仏申すのみです。自余の行では仏に成れない、それどころか自力では永遠に流転の苦難を免れない淳心房です。この度の往生は

私の心の良し悪しを沙汰せずに、ひたすら「助けるぞ」の如来の仰せをあおぐ。

のみです。この他に淳心房の信心はありません。


ともあれ、

救われた一念、信心獲得の瞬間は、必ず、ハッキリするものだ
信一念の瞬間は、必ず、我々の上でハッキリと自覚できるものだ


という聖教の根拠は「無い」、親鸞会の主張は「間違い」ということで決着です。文句があるのならば、私が再三再四求めている聖教の根拠を挙げて下さい。根拠のみで結構です。根拠を挙げずに何を書こうとも負け犬の遠吠えとしか私を含めて皆さん思われないでしょうから、その点よろしくお願いします。

「信楽」を頂くことと、「信楽」の心になることの違いが判らない高森教徒

本日は昨日の記事にある「名無し」さんの次の質問に答えたいと思います。

~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・
なぜ別名として大慶喜心や広大難思の慶心が説かれているのでしょうか。
~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・

これは「信楽」が我々の心では無く、「如来の大悲心」だからです。

この心はすなはち如来の大悲心なるがゆゑに、かならず報土の正定の因となる。「信文類」信楽釈

信楽」すなわち「如来の大悲心」には多くの特徴があり、その特徴に応じて様々な呼び名で言われています。「信楽」の別名は「信文類」一念転釈にも見られますが、今は

『飛雲』何がおかしいのかも判っていない高森顕徹会長と会員のための補足

より引用させて頂きます。

信楽
=一心
=深心
=堅固深信
=真心
=金剛心
=無上心
=淳一相続心
=大慶喜心
=三信に順ず
=大菩提心
=真実信心
=願作仏心
=度衆生心
=衆生を摂取して、安楽浄土に生ぜしむる心
=畢竟平等心
=大悲心
=作仏す
=仏なり


信楽」とは、最後にある「仏なり」という仏のはたらきそのものになりますから、軽々しく、「信楽」の身に生まれ変わるなどというものではありません。我々の煩悩に汚れた心が、仏の心になるのではないのです。「信楽」を頂くことと、「信楽」の心になることは、当然ながら違います。ですから、「信楽を獲得」したからといって我々の心が大慶喜心広大難思の慶心、またその他の願作仏心度衆生心畢竟平等心大悲心になるわけではないのです。このような言葉で表される「信楽」を頂くのであって、「信楽」の心になるのではありません。

この違いが判らない高森教徒が信心獲得を摩訶不思議な驚天動地の体験だと勘違いしてしまうのは当然の話です。我々の心が

一心、深心、堅固深信、真心、金剛心、無上心、淳一相続心、大慶喜心、三信に順ず、大菩提心、真実信心、願作仏心、度衆生心、衆生を摂取して、安楽浄土に生ぜしむる心、畢竟平等心、大悲心、作仏す、仏なり

という心になるとでも思っているのですからね。我々の心が最後の「仏なり」となったらこれは即身成仏ですよ。親鸞会が「一益法門」だと言われるのはこうしたことに原因があるのでしょう。

では、「信楽」と我々の心は全く関係がないかというとそうではありません。元は「如来の大悲心」だけれども、それを頂くことによって我々の心が影響を受ける、そういう関係です。「信楽」は我々の煩悩具足の心から生じたものではありません。如来の方から恵み与えられたもの、至り来たものです。これは我々の煩悩心中にありながら煩悩に汚されず、逆に煩悩具足のまま我々を摂取してよく往生成仏の正因となって下さるものです。

ですから、大悲の弘誓を憑み、お念仏を申すところに往生の喜びも起きてくるし、仏恩報謝の心、仏徳讃嘆の心、仏様を思う心、仏に成ろうという心、人々に幸せになってもらいたいと思う心となって我々の心に表れてくるのです。如来が至り来て影の如く我々の心身に寄り添い、我々に影響を及ぼして下さるのです。

本来、欲や怒り、腹立ち、そねみねたむ心といった煩悩しかなく、さとりを求める心も、人々の幸せを願う心も持ち合わせていない私達が、「如来の大悲心」である「信楽」を頂くことによって、流転輪廻の迷いの人生を浄土へ向かう人生へと方向転換させられ、お念仏を申しながら一日一日を浄土へ向かって生きてゆく。そして臨終一念の夕べに大般涅槃を超証する。私達の心が「信楽」になるとしたらその時です。


仏心が我々に届いて我々の心に影響を与え、有難いことだ、うれしいことだという喜びの心として現れてきますが、我々の心が仏心になるわけではないのです。親鸞会では「信楽を獲る」ことと「信楽になる」ことの区別がついてないので当然ですが、こういうことも判らないのです。それと、何が喜びかというとそれは往生の喜び往生が定まった喜び法の喜びです。いわゆる慶喜であって狂喜ではありません。日常生活がいつでも、何があっても、例え大事な人が死んだ直後であっても喜んでいるというような幻想的な楽のことではありません。

絶対の幸福」という創価学会の信心を教えられ、「光明輝く生活」を目当てに高森教を聞いていても現当二益どころか現当無益です。往生の喜び往生が定まった喜び法の喜びも判らなければ、喜ぶべきことを喜ばない煩悩具足の我を恥じる心、その我を助ける本願のたのもしさも判らないでしょう。

また、我々の往生は心に「歓喜」が起こっているかどうかで決まるのではなく、あくまで真実なる誓願を疑いなく領受した「信心」が正因だとも申し添えておきます。私には飛び上がるような喜びが無いから往生は不定ではなかろうかと心配する必要もないし、逆に躍り上がるような喜びが沸き起こったから往生間違いないと決めることもできません。「南無阿弥陀仏」の六字をよく心得、念仏とは「助けるぞ」「我にまかせよ」との如来の喚び声だと疑いなく聞き受け、仰せの通り往生をおまかせしたのが「信楽」です。

「信楽」といふは、如来の本願真実にましますを、ふたごころなくふかく信じて疑はざれば、信楽と申すなり。『尊号真像銘文』

きくといふは、本願をききて疑ふこころなきを「聞」といふなり。またきくといふは、信心をあらはす御のりなり。「信心歓喜乃至一念」といふは、「信心」は、如来の御ちかひをききて疑ふこころのなきなり。『一念多念証文』

等と仰せのように、如来の本願を聞いて疑う心の無いのが「信楽」、「信心」です。

この「信心」が往生の正因で、「歓喜」は「信心」の必然として伴ってくるものです。「歓喜」は心の内にあるけれども、それが表れている時もあれば表れていない時もあります。特に法に触れなければ中々表れてくるものではないと思います。今の自分の心を見て、「歓喜」があるかどうかで信心を計らずに、常に信心は仏辺に仰ぎ、如来の仰せを仰せのままに聞き受けて下さい。それ以外に「信心」も「歓喜」もありません。


最後に、

救われた一念、信心獲得の瞬間は、必ず、ハッキリするものだ
信一念の瞬間は、必ず、我々の上でハッキリと自覚できるものだ


という聖教の根拠は何でしょうか? 「名無し」さんには再度根拠の提示を求めます。今度もそれ以外のことを書いてきたら、根拠はない、親鸞会や「名無し」さんの主張は浄土真宗ではないということで決着とします。

根拠を挙げろと言うと挙げられない、答えに窮すると間違いものだと言っている本願寺の出版物が根拠という、実にみっともない親鸞会の理想論者

現役カルト信者ほど頻繁ではありませんが、理想論者の名無しさんからも未だ時折コメントが届きます。先日もこの記事にこんなコメントが寄せられました。

~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・
> また、考えてみれば分かると思いますが、現在残っている会員は全員が100をしてきてはいません。つまり、会員にはいろいろな立場があり、強制的になにかをさせるということはないです。強制されているというのは、あなたの印象であり、他因自果であります。辞めるということも一つの手段ですが、辞めなくても良い手段もあるということです。

⇒またまた御冗談を。今まで在籍何十年という方なら貴方の言葉はウソだとすぐ判りますよ。見え透いたウソをつきなさんな。一つ例を挙げれば、富山での高森会長へのお布施は一律5000円(学生は3000円)でしょう。仏法を聞かせて頂くお礼だとか言いながら具体的に金額を定めて納めることを強制しています。また、納めたかどうか判るようにお布施を納めた後に色付きの紙を渡すという徹底ぶりです。

勧誘にしてもそうです。入会目標人数が届かなかった支部長は降格です。学友部は幹部会員が集まる会合では指摘の嵐でした。明らかに、目標人数を立ててそれを達成することを強制しています。

善知識への無条件服従ということにしてもそうです。

会長先生のご指示に無条件で従い、信心獲得を本と致します。
上司の指示は会長先生の命と心得ます。【親鸞会講師部聖則】

こんなことを言わせ、高森会長と上司の指示には無条件に服従するように強制しているではありませんか。



➝あなたは分かっていないかもしれませんが、額が決まっているものに関しても免除制度はあります。入会にしても、会費にしてもそうです。あなたが言うお布施にしても事情があれば減額もしくは免除されると思いますよ。


組織に関しては、世間の組織のように規則はあるでしょう。しかし、それが不満なら、幹部にならなければ良いだけです。幹部で無ければ救われない本願ではありません。2019-01-21(22:15) : 


> その人は、救われてもハッキリしない(救われた時の自覚がない、いつとはなしに救われる)、救われても大きな喜びが起きないと言いますが、なぜだと思いますか?

⇒ならば救われた一念、信心獲得の瞬間は、必ず、ハッキリするものだという聖教上の根拠を挙げて下さい。

言っておきますが、大慶喜心とか広大難思の慶心とは真実信心の別名ですからね。大きな喜びがあるとか、無いとかというのは意業の問題でしょう。ハッキリするとかしないとか、大きな喜びが起きたとか起きないとか、そんなことを問題にしている人の方が合点安心です。意業安心です。私の心の良し悪しを沙汰せずに、ひたすら「助けるぞ」の如来の仰せをあおぐ。これが信心です。


⇒はじめにハッキリする根拠を上げるように書かれていますが、私がハッキリするという根拠ををあげれば、信心が崩壊するのでしょうか。

また、これでは、自分が助かっているのか助かっていないのか、分からないですよね。助かった気分になっているだけかもしれません。

また、「私の心の良し悪しを沙汰せずに、ひたすら「助けるぞ」の如来の仰せをあおぐ。」これも「あなたの」意業ではないでしょうか。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

> ⇒はじめにハッキリする根拠を上げるように書かれていますが、私がハッキリするという根拠ををあげれば、信心が崩壊するのでしょうか。

⇒だから挙げてみなさいよ。そうすれば分かりますから。全ては貴方が根拠を挙げてからです。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

➝信心そのものは、言葉ではあらわせません。

だから、あなたが書かれた「私の心の良し悪しを沙汰せずに、ひたすら「助けるぞ」の如来の仰せをあおぐ。」も、信心そのものではありません。

信心そのものはあらわせないのですが、信心を説くことはできます。それが経典であり御聖教です。

つまり、「私の心の良し悪しを沙汰せずに、ひたすら「助けるぞ」の如来の仰せをあおぐ。」も、信心そのものではありませんが、それと同様に、大慶喜心や広大難思の慶心も信心そのものではありません。

また、信心を「私の心の良し悪しを沙汰せずに、ひたすら「助けるぞ」の如来の仰せをあおぐ。」と説けるように、信心を、大慶喜心や広大難思の慶心と説くこともできます。

あなたは「大慶喜心とか広大難思の慶心とは真実信心の別名ですからね。」と言われますが、それでは、なぜ別名として大慶喜心や広大難思の慶心が説かれているのでしょうか。


また、なぜ時剋の一念と信相の一念を説かれたのでしょうか。

信心そのものを私たちに分別できません、また、時剋の一念そのもの、信相の一念そのものも分別できませんが、信心を頂くことによって、時剋の一念があること、信相の一念があることはわかります。


こういうことを考えた上で、あなたが言われることが、合点安心ではないかと危惧して、助言させて頂きました。再度考えられた方が宜しいかと存じます。

最後に根拠ですが、安心論題の中に「歓喜初後」というものがあります。
それをご覧いただければ少なくても歓喜については分かられると存じます。

もし、「歓喜初後」の内容が見当たらなければ、ネットでも検索すれば出てくる思いますので、お手数をおかけしますが宜しくお願い致します。
2019-01-21(23:12) :


は淳心房の主張、茶色は名無しさんの言葉です。また「歓喜前後」⇒「歓喜初後」と修正しています。
~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・

グダグダと言葉を書き連ねずに、サッサと淳心房の求めている

救われた一念、信心獲得の瞬間は、必ず、ハッキリするものだという聖教上の根拠

を挙げればよいものを、それをせずに回りくどい言い方で判るような判らんような言い方で煙に巻こうとしている姿勢がよく伺えます。根拠を挙げるとそれは根拠にならないことを総攻撃されるのは目に見えていますから出さないというより出せないのです。私の、教義とは関係ない日常思ったことに関してはズバズバと物申せても、教義となると途端に尻すぼみして曖昧な返答しかできないのが親鸞会クオリティです。

ところで、根拠として

安心論題/歓喜初後

を紹介していますが、あれだけ馬鹿にしている/いた本願寺の灘本愛慈先生が書いたものが根拠ですか? 「本願寺は死んだら極楽、死んだら仏、念仏さえ称えていたら死んだらお助けと説いて大衆を地獄に突き落としている」とか何とか、話の度に高森会長は説いてませんでしたか? 結局、答えに窮すると間違いものだと言っている本願寺サンの出版物を根拠としているところがお笑いです。

それと、安心論題/歓喜初後の中の、具体的にどの言葉が根拠なのか明かされていません。それをハッキリ示してくれないと、根拠を挙げたことにはなりません。尤も、その中の根拠はいずれも

真実の信楽(信心)には一念(時剋の一念)ということがある

ということを言われたものであって、私が求めているところの

救われた一念、信心獲得の瞬間は、必ず、ハッキリするものだ
信一念の瞬間は、必ず、我々の上でハッキリと自覚できるものだ


という根拠にはなりませんが。


信の一念があるということと、信の一念の瞬間が、必ず、我々の上でハッキリと自覚できるということは当然ですが違います。親鸞会では信心決定すると火に触ったよりもハッキリするとか、それを盲者の開眼の一刹那、驚天動地の一刹那等と呼んで、信心決定とは驚天動地の神秘的体験であるかのように語っています。

(1)『マインドコントロールと親鸞会の真実』一念の信心
(2)『親鸞会批判の真実』親鸞会を攻撃する人工信心集団(3/4)
(3)『なぜ私は親鸞会をやめたのか』高森顕徹氏の獲信体験
(4)『飛雲』「千歳の闇室のたとえ」は「一念」ではない
(5)『当ブログ』覚もよし、覚ぬもよし、共に仏智に信順するを以て当流安心の正義とす

この辺りを読んで頂けば、それは明らかでしょう。同時に、高森会長の華光会時代の獲信体験と、大沼法竜師の著書をパクって著した『顕正』の内容との違いも判って面白いと思います。

親鸞会が挙げて来そうな根拠はリンク先(2)に集約されていますが、いずれも信の一念の瞬間における、我々の上の自覚がどうだということを論じているのではないと判ると思います。あれらのお言葉をもって、

救われた一念、信心獲得の瞬間は、必ず、ハッキリするものだ
信一念の瞬間は、必ず、我々の上でハッキリと自覚できるものだ


とは言えないのです。


根拠を挙げろと言うと挙げられない、答えに窮すると間違いものだと言っている本願寺の出版物が根拠という、実にみっともない親鸞会の理想論者であることが判ります。当ブログでは、名無しさんに改めて親鸞会が主張する根拠の提示を求めます。余計な説明は結構なので、聖教の根拠のみ示して下さい。それをしないもしくはできないならば、親鸞会の主張は親鸞聖人の仰せと異なる、それがハッキリするだけのことです。

正雑の分別もなく諸善もどきの教えを信じ、自分は「下根の機」だという自覚もない現役カルト信者

現役カルト信者のコメントは実に笑いものです。というか、ここまで来ると哀れです。

~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・
あんたがった下根の機ww
2019-01-23(13:16) : 元会員 URL :


全人類は逆謗の屍だと無二の大善知識高森会長先生様が、断言なさっていらっしゃるのを知らんのかよ。

逆謗の屍とは下根の中でも最下位なんだけど、キミは会長に輪をかけて更に輪をかけてもう一度輪をかけたくらい無知だな。
2019-01-23(13:22) : 元カルト



御文章1-1
正雑の分別を聞きわけ、一向一心になりて信心決定の上に、云々

おまんらのお戯れはここが抜けている。
2019-01-23(13:35) : 元会員



>正雑の分別を聞きわけ

雑行は捨てものだから直ちに捨てて、正業の念仏を専修して

下根の意味さえ知らないスーパーウルトラ無知のキミにはわからん話だわ
2019-01-23(14:10) : 元カルト


〉あんたがった下根の機ww

自分のことが抜けている幸せ者ですね。(正確には「不」のつく幸せ者)
自分のことがよく見えていないらしく、会の教えで助かる自分だと勘違いして自惚れるのも理解できる。おまけにそれが自力だとも気付かない。
決して元○○という現役○○さんは責められない。ご本人に罪はない。
あわれあわれ。
2019-01-23(20:41) :

~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・

「元会員」さんの仰る通り、私は「下根の機」です。それゆえ、如来がお与えになった念仏一行によってこの度浄土に生まれさせて頂こうとお念仏の教えに帰依しております。それに対して

あんたがった下根の機ww

と仰る「元会員」さんは、自分が「下根の機」だという自覚が無いのでしょう。ということは、「上根の機」だとでもお思いなのでしょうね。これは「全人類は逆謗の屍」という高森会長の説にも合いませんし、そんな自覚では「機の深信」などとてもとても・・・。自分は無安心無信心だと表明しているようなもので実にお笑いです。

このように「下根の機」だとの自覚も無い者が、『御文章』1帖目1通

正雑の分別をききわけ、一向一心になりて、信心決定のうへに仏恩報尽のために念仏申すこころ

など分かるわけがありませんわ。

せいぜい仏教の倫理道徳版の漫画にでもしがみついて、正雑の分別もないまま高森の行に勤しんで下さい。正雑の分別もなく諸善もどきの教えを信じ、自分は「下根の機」だという自覚もない現役カルト信者は実に滑稽です。それはそのまま、「逆謗の屍」と聞きつつも本願寺や退会者を見下し、「どう生きるかしか知らない人達」と全人類を下に見ている現役会員の心情を正直に表しているのかも知れません。

その他の皆さんは、往生のためには念仏一行を専修し、その念仏は「助けるぞ」「我にまかせよ」との如来の勅命であると聞き受けて、信心決定のうへに仏恩報尽のために念仏申させて頂きましょう。

なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ・・・
プロフィール

淳心房&しゃあ

Author:淳心房&しゃあ
(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


(しゃあ)
平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
singikensho@yahoo.co.jp
(スパム防止のため@を大文字にしてあります。メール送信時は小文字に変えて下さい。)

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