親鸞会会員の誤解―高森会長は51段目の位にいる(3)

親鸞会では度々、

もし自分の考え、思いが正しいのなら、仏法なんか聞く必要はない。自分の思う通りにやっていけばいい。それで幸せになれる。ところが実際思い通りに生きているような人でも、「私ほどの幸せ者はありません」と喜んでいる人はいない。それどころか、「四方八方眺むれど、ただ愁嘆の声のみを聞く」と言われるように苦しみ、憂い、嘆きの声ばかりが聞こえてくる。その原因と解決の道、全人類が本当の幸せになれるたった一本の道を仏法は教えている。だから聞かなければならない。
仏法には真実が説かれている。真実は、私達が納得できるできない、正しいと思える思えないは関係ない。納得できるからやる、納得できないからやらない、というのは世間の考え。それでは仏法は聞かれない。善知識方は、私達が人生の目的を果たし絶対の幸福になるために選び抜かれた最短の道を教えられている。たとえ分からないこと、納得がいかないことでも、親鸞聖人のなされたようにされた蓮如上人のように、我々もさせて頂かねばならない。


というようなことを聞かされます。会員の皆さんはこれがすんなり受け入れられると思いますが、それはマインドコントロールされているからです。私達が従うべきはお釈迦様が説かれた「」、親鸞聖人が教えられた「」であって、教えを説く「」ではありません。勿論、教えを説く先生を尊敬し、信頼することは大切です。しかし、教え以外の行動、言動、指示、命令にまで無条件に従うのではありません。

法に依りて人に依らざれ

とはそういう事です。これが過去の顕正新聞や講師部聖則には、

********************
我々も又、善知識の仰せに対し本会の指示に対し、何事も何事も仰せのままに指示通りに無条件で服従するように努めていかねばならない。これが求道であり、 この過程があってこそ、親鸞聖人の「よき人の仰せをこうむりて信ずるほかに別の仔細なきなり」という真の無条件服従が体験できるのである。

ただひたすら、善知識を弥陀の化身と仰ぎ、善知識のお言葉を弥陀の直説と頂いていく事にのみ、私達が無碍の大道に雄飛できる道のある事を再自覚し、会長先生の御下にぬかずかねばならない。

この絶対の体験をするまで、聴聞によって無条件服従の心を培い、本会の指示に無条件に従うことによってその形を整え、心身ともに無条件服従へ仕向けていく努力が自己の信心決定を早め、強固な組織作りとなり、真宗の流れをより早く可能たらしめるのである。

会長先生のご指示に無条件で従い、信心獲得を本と致します。
上司の指示は会長先生の命と心得ます。(親鸞会講師部聖則)

********************

等とあり、「高森先生や上司の言うことに無条件に従え」ということにすり替えられています。


最初の内は「合点ゆかずば合点ゆくまで聞きなされ」と妙好人の言葉を出して、質問大歓迎、納得・合点のゆく教えだからと言われますが、会員となり、段々とマインドコントロールが進むにつれて、求道上の悩みや教義の矛盾点、指示の意義については質問しづらい雰囲気になっていきます。

元々矛盾の上に成り立つ教義であり、講師部員も先輩方も信心の本質的な部分については何も知りませんから、いくら質問しても歯切れの悪い答えしか返ってきません。結局、「もっと真剣に聴聞しよう」「より一層光に向かって進ませて頂こう」で終わりです。指示に「なぜ?」と口答えしようものなら、特に幹部以上はやり玉に挙げられてしまうでしょうし、仏法がどのようなものか分かっていない信仰の幼稚園児だとみなされてしまいます。そして、やがて教義の矛盾点は「まだ信を獲ていないから矛盾としか思えないんだ」「高森先生の深いミココロなのだろう」と片付け、何もかも上司の指示に従うような、親鸞会的人間になってしまうのです。

『親鸞会公式ホームページ』三願転入は弥陀のお計らい

には、こんなことが書かれています。

********************
阿弥陀仏の十九の誓いは、「修諸功徳(しゅしょくどく)の願」と言われている。「諸(もろもろ)の功徳を修し」とは、諸善万行、善と教えられるものなら何でもしなさい。知っただけでは観念の遊戯、論語読みの論語知らず、になってしまう。実行しなければ、結果は分からない。「力一杯、功徳(善)を修めなさい」と、阿弥陀仏が十方衆生に勧められているのが十九の願である。

「では、信仰が進めば、救われるのか」と、聞きたい人がいるに違いない。

 それは、凡夫の計ろうべきことではない。ひとえに弥陀のお計らいである。阿弥陀仏の絶対の救済を、どうして我々が計らえようか。

 不可称・不可説・不可思議の弥陀の本願を計らうことの愚かさを、親鸞聖人は、こうたしなめられている。

「補処の弥勒菩薩をはじめとして、仏智の不思議を計らうべき人は候わず」(末灯鈔)

“最も仏に近い、弥勒菩薩でさえ、弥陀の本願力不思議は想像も思慮もできないのに、阿弥陀如来の仏智を計らえる人がいるはずないではないか”

********************

これで納得してしまう人は、完全に思考停止しています。「信仰が進めば救われるのかどうかなど我々が計らうべきことではない」と、求道上の疑問や悩みを持つことさえ許されず、ひたすら財施に顕正に励め、上司の指示は会長先生の指示と心得て無条件に従え、そうしなければ信心決定できずに必堕無間だとせめたてられて、正常な思考判断ができない状態に陥っているのです。こうなってしまうのも、

・高森先生はさとりの52位の内、あと1段で仏という51段目の位にいる
・高森先生は阿弥陀仏の御心が分かり、自分達に正しく説いて下さる唯一の御方


だと思っていることが原因の一つに挙げられると思います。51段目という、常人の智慧も才覚も及ばない境地にいると思うからこそ、「会長先生の深いミココロ」で納得してしまうのでしょう。

しかし、たとえ信心決定しても智慧や徳、人格までが弥勒菩薩に等しくなるのではありませんし、獲信したと言っている高森会長の言動は菩薩とか仏法者以前の、一般人と比べてもどうかと疑問なレベルであることは既に述べてきました。もうすぐ降誕会で、会員の皆さん(特に幹部以上)は目標達成に追われて必死な状況とは思いますが、毎年毎年そんな事を繰り返してきて信心獲得できていますか? そんなものは、獲信・往生とは何の関係もないのです。それを獲信・往生と関係あるかのように思い、「やればこの道進むだろう」などと考えているのを「自力」というのです。会員の皆さんには、早く仏法者以前の悪知識から離れて、弥勒菩薩と等しく必ず仏と成ることが決定している念仏の衆生になって頂きたいと思います。


【参照】
『元会員から見た浄土真宗親鸞会』「三願転入を計らうな」なのか?、「18願を計らうな」なのか?
カルト宗教の特徴で最初に挙げられるのが、「指導者に対する崇拝・絶対的なリーダー(教祖)がいる」という点

親鸞会会員の誤解―高森会長は51段目の位にいる(2)

親鸞聖人は、真実信心を獲たら等覚(等正覚)にいたり、一生補処の位にある弥勒菩薩と同じで、この世の命が終わり次第必ず大般涅槃をさとる、この上ないさとりを開かせて頂くのだと教えられています。

等覚を成り大涅槃を証することは、必至滅度の願(第十一願)成就なり。(正信偈)

まことに知んぬ、弥勒大士は等覚の金剛心を窮むるがゆゑに、竜華三会の暁、まさに無上覚位を極むべし。念仏の衆生は横超の金剛心を窮むるがゆゑに、臨終一念の夕べ、大般涅槃を超証す。ゆゑに便同といふなり。(信文類)

如来二種の回向を
 ふかく信ずるひとはみな
 等正覚にいたるゆゑ
 憶念の心はたえぬなり

弥陀智願の回向の
 信楽まことにうるひとは
 摂取不捨の利益ゆゑ
 等正覚にいたるなり

五十六億七千万
 弥勒菩薩はとしをへん
 まことの信心うるひとは
 このたびさとりをひらくべし

念仏往生の願により
 等正覚にいたるひと
 すなはち弥勒におなじくて
 大般涅槃をさとるべし

真実信心うるゆゑに
 すなはち定聚にいりぬれば
 補処の弥勒におなじくて
 無上覚をさとるなり
(正像末和讃)

この「弥勒菩薩と同じ」というのは、「必ず仏と成ることが決定している」という点で弥勒菩薩と念仏の衆生は同じということです。智慧や徳まで同じということではありません。
等正覚とは、3.仏因円満した正覚に等しい位で仏陀の一歩手前にあるもの。菩薩の修行の五十二位あるうちの第五十一位。という意味で用いられることもありますが、親鸞聖人が仰せられる「等正覚」とは、

4.真実信心を得たものは、仏因円満していて、必ず仏と成るから、現生の正定聚の位を「弥勒に同じ」といい、また「等正覚」ともいう。

という意味においてです。そのことを、

・この二尊の御のりをみたてまつるに、「すなはち往生す」とのたまへるは、正定聚の位に定まるを「不退転に住す」とはのたまへるなり。この位に定まりぬれば、かならず無上大涅槃にいたるべき身となるがゆゑに、「等正覚を成る」とも説き、「阿毘跋致にいたる」とも、「阿惟越致にいたる」とも説きたまふ。「即時入必定」とも申すなり。この真実信楽は他力横超の金剛心なり。

・「次如弥勒」と申すは、「次」はちかしといふ、つぎにといふ。ちかしといふは、弥勒は大涅槃にいたりたまふべきひとなり。このゆゑに「弥勒のごとし」とのたまへり。
念仏信心の人も大涅槃にちかづくとなり。つぎにといふは、釈迦仏のつぎに五十六億七千万歳をへて、妙覚の位にいたりたまふべしとなり。「如」はごとしといふ。ごとしといふは、他力信楽のひとは、この世のうちにて不退の位にのぼりて、かならず大般涅槃のさとりをひらかんこと、弥勒のごとしとなり。
(一念多念証文)

 信心をえたるひとは、かならず正定聚の位に住するがゆゑに等正覚の位と申すなり。『大無量寿経』には、摂取不捨の利益に定まるものを正定聚となづけ、『無量寿如来会』には等正覚と説きたまへり。その名こそかはりたれども、正定聚・等正覚は、ひとつこころ、ひとつ位なり。等正覚と申す位は、補処の弥勒とおなじ位なり。弥勒とおなじく、このたび無上覚にいたるべきゆゑに、弥勒におなじと説きたまへり。
 さて『大経』(下)には、「次如弥勒」とは申すなり。弥勒はすでに仏にちかくましませば、弥勒仏と諸宗のならひは申すなり。しかれば弥勒におなじ位なれば、正定聚の人は如来とひとしとも申すなり。浄土の真実信心の人は、この身こそあさましき不浄造悪の身なれども、心はすでに如来とひとしければ、如来とひとしと申すこともあるべしとしらせたまへ。弥勒はすでに無上覚にその心定まりてあるべきにならせたまふによりて、三会のあかつきと申すなり。
浄土真実のひともこのこころをこころうべきなり。
 光明寺の和尚(善導)の『般舟讃』には、「信心のひとは、その心すでにつねに浄土に居す」(意)と釈したまへり。「居す」といふは、浄土に、信心のひとのこころつねにゐたり、といふこころなり。これは弥勒とおなじといふことを申すなり。これは等正覚を弥勒とおなじと申すによりて、信心のひとは如来とひとしと申すこころなり。
(末灯鈔)

と仰せられています。命ある限り、私達はあさましき不浄造悪の身であります。煩悩は満ち満ちて、欲や怒りや憎しみの心が善心を汚し、己を律するどころか常に流されて生きています。しかもそれをどうにかしようとしてもある程度までで、それ以上はどうすることもできません。弥勒菩薩に等しい徳が具わるのではありませんし、等覚の菩薩にふさわしい人格者になるのでもありません。また、信後は経典や聖教がすらすら読めるようになるとか、意味が分かるようになるわけではありません。法をお聞かせ頂いて味わいが変わる等はありますが、信前は無かった特別な智慧が具わるわけではないのです。

もし現生で51段目に相当する智慧や徳が身に具わり、「恒沙の諸仏に怒号叱咤することの出来る豪快な自覚」とやらが起きるのであれば、七高僧が仰っていないわけがありません。しかし親鸞聖人までは、七高僧のどなたも、等正覚にいたり正定聚の位に入るのは当益、つまり死後の利益とされました。11願には「国中の人・天」、如来會の11願には「国中有情」とあり、11願成就文には「かの国に生るるもの」、如来會の11願成就文には「彼の国の衆生、もし当に生まれん者」と説かれていますから、等正覚にいたり正定聚の位に入るのは浄土に往生してからだというのは当然の解釈だったのです。ということは、等正覚にいたり正定聚の位に入るという明らかな自覚は無いということです。それを親鸞聖人があえて現益とされたのは、豪快な自覚からではなく、そうでなければ理屈が通らないという聖人の理論です。

それを、信心獲得したら51段高とびして正定聚不退転の明らかな大自覚が起き、現生で十種の幸せに生かされると言い、仏智満入、仏智全領して相当の事が知らされるかのように説いているのが高森会長です。ところが先ほど述べたように、七高僧方は浄土に往生した後に正定聚に入る、と仰っています。もし、入正定聚の益を知らされていないことをもって異安心だと言うのであれば、七高僧方は異安心になります。

また、親鸞会内では信心獲得したという人は高森会長はじめ数えるほどしかいません。しかも教えを正確に分かりやすく説ける人は高森会長のみだとされています。これもおかしな話です。獲信者が51段目の覚りの境地にいるのなら、彼らがもっと法を説けるはずでしょう。聞く側ももっと彼らに近づいて教えを聞いたり、質問に答えてもらったりすればよさそうなものです。それに彼らが年老いた会長に代わってもっと壇上やそれぞれの支部で教えを説いていけばよさそうなものですが、決してそうはしないのです。あくまで会員は高森会長の言葉を絶対視し、高森会長の言葉のみを信じている状態です。ほぼ高森会長しか出ていない世界のことを、自分もその世界に出れるんだと夢見て、毎回なけなしの金をはたいて富山へ行っては手を空しくして帰ってくる。それを何年、何十年と懲りずに疑問も持たずに繰り返しているのが哀れな会員の姿です。極難信だと言われていつまでも獲信できないことに納得してしまっている体たらくですが、そもそも信心獲得とはどういうことで、何が変わって何が変わらないのか、これについて無知で誤解が甚だしいから信心も安心もさっぱり分からないのです。全ては外道の教えを説いて迷わせている高森会長が元凶です。

そして、弥勒菩薩に等しい智慧や徳を具えるなら、他人の著書を剽窃、盗用したり、一族専用の施設を会員には内緒で建設したり、法論にいつでも応じると公言しながら約束の一つも果たさなかったり、批判サイトに反論を依頼した会員を除名にしたりと、菩薩とか仏教徒以前に、ただの人としてもどうかと疑問に思うような言動をするものでしょうか? 会員の多くは周囲の賛美や親鸞会製作物のみをもって高森会長を唯一無二の善知識と崇めている節がありますが、そうしたマインドコントロールが抜けた上で高森会長や親鸞会の言動を見てみますと、人としても実に低レベルな、我利我利亡者という表現が相応しい人物、団体であります。

仏心と一つになるという事と、仏智を体得する事の違いが判らず、教学も無い、教養も無い、人としてもどうかと疑わしい人物を唯一無二の善知識と崇めている会員の皆さんは実にお気の毒です。特に学生上がりの皆さんは、難関大学に合格した明晰な頭脳を今一度使ってよく考えてみたら如何でしょうか?

【参照】
『WikiArc』6 正定聚
『安心論題』正定滅度
『飛雲』どちらが異安心か?
信心決定しても51段目の覚りの境地には出られません

親鸞会会員の誤解―高森会長は51段目の位にいる(1)

親鸞会では、高森会長を権威づけし、会員を服従させるのに

高森先生はさとりの52位の内、あと1段で仏という51段目の位にいる

と会員に思い込ませています。

高森先生は阿弥陀仏の御心が分かり、自分達に正しく説いて下さる唯一の御方

であると推量、忖度させるには、我々とは次元が違う境地にいると思わせる必要があります。

親鸞会ではさとりの52位の話をし、1段でも違えばその境界は人間と虫けらほど違うと言います。我々は1段のさとりも開いていない凡夫で、仏覚は52段目の最高位。そして信心獲得すると51段高とびしてあと1段で仏という等覚の位に到達するように教えられています。さとりの52位を図で示し、一番下から上に向かって曲線を引いて、信一念で一気に51段の位まで飛び越えるように印象付けています。あまり上手ではありませんが、下の絵を参照して下さい。



信一念で51段高とびして、既に等覚のさとりを開いて一生補処の位にいる弥勒菩薩と肩を並べるという話は高森会長のオリジナルかと言えば、当然そんなはずは無く、伊藤康善師からのパクリです。伊藤康善著『安心調べ』には

そんなあっさりした話で生死の大問題が解決する人があれば、吾等は求道に苦労することもない。仏勅をすなおに信ぜられるほど、我等はお目出度い人間にできていない。そこには深酷な体験の苦しみがなくてはならぬ。払うても払うても後から後から現われ、奪えるだけ奪っても、なお心の底にこびりつく仏智疑情の薄紙を破らねばならぬ。だから説く者も愛想をつかし、求める者も愛想をつかし、求道に精も根も尽き果てて、悲泣悶絶のどん底から、湧き上がる精神的大飛躍の境地がなければならぬ。廻向信は決して、おぼろではない。今こそ明らかに知られたりと驚き立つこころである。
この信は仏階52段の中、下50段を超えて41品の無明を断ずる等覚不退に類同せられる。……、真に手の舞い足の踏むところを知らぬ大歓喜である。至心信楽己を忘るというも愚かなり、大千世界を踏む破って、恒沙の諸仏に怒号叱咤することのできる豪快な自覚が生まれてくるのである。この体験がなくては何を言っても駄目な話だ。
(P255~P256)

とあります。これが高森顕徹著『会報第二集』では

そんなあっさりした話で生死の大問題が解決するものか、十劫の昔の話を素直に信ぜられる程我らはお目出度い人間に出来ていないのだ。そこには、生死の断頭台上に生首をつき出す苦しみがある。払うても払うても後から後から現われ、奪えるだけ奪っても尚心の底にこびりつく仏智疑情の薄紙を破らねばならぬ。だから説くものも愛想をつかし、求める者も愛想をつかし求道に精も根もつき果てて悲叫悶絶のどん底から湧き上がる精神的大飛躍の境地がある。一念は断じておぼろではない。今こそ明らかに知られたりと驚き立つ心である、この一念に仏階五十二段の中、下五十段を超えて四十一品の無明を断ずる等覚不退に類同せられるものであり、真に手の舞、足の踏むところを知らぬ大歓喜があるから慶喜一念という。至心信楽己を忘れるというも愚なり、大千世界を踏み破って恒沙の諸仏に怒号叱咤することの出来る豪快な自覚が生まれるのだ。この一念の体験がなくては何をいっても駄目なのだ。(P94)

とあります。所詮はこれが「一念に仏階五十二段の中、下五十段を超えて四十一品の無明を断ずる等覚不退に類同せられ」たと宣っている「無二の善知識」の本当の姿です。会員の皆さんは、いい加減気づきましょう。



【参照】
『なぜ私は親鸞会をやめたのか』高森顕徹氏と伊藤康善氏の著書の類似点(2)

大沼師や伊藤師だけでは飽き足らず、批判者が挙げた根拠も使って法を捻じ曲げる高森顕徹会長

『飛雲』教えを徹底的に捻じ曲げて、会員を騙すこと以外考えていない外道の親玉高森顕徹会長

に既に挙がっていますが、日曜日の高森会長の話は酷い内容でした。相変わらず「若不生者」の「」はすべての人を「信楽」の身にすることだと説いていたようですが、こんなものは可愛いと思えるほどに今回高森会長から発せられたことはトンデモ邪義です。

本題の前に、これも可愛いもんですがツッコミを一つ。「どうすれば大船に乗れるのかがこの本願だけでは分からない」として本願成就文を挙げたのに、

其の名号を聞くとは、阿弥陀仏の本願を聞くこと

と説明をしていたことも紹介しておきます。おいおい、本願だけでは分からないって言ってるのに、「本願を聞くこと」とはどういうことだよ・・・(-_-;) その後、

本願の何を聞くのか、それは本願の生起本末を聞くこと

と教えたそうですが、成就文を見てもそれは分かりません。「仏願の生起・本末」を聞くというのはあくまで親鸞聖人のご解釈であります。まぁこれは良しとしても、親鸞会では邪義を織り交ぜた「生起」の話ばかりで、肝心の「本末」は間違って教えられています。

『親鸞会公式ホームページ』「聴聞」とは何をどう聞くのか

にて「親鸞聖人が「本末」の「末」で表されているのは、その十九、二十願であり、「方便の願」ともいう。」と明記していますから、「仏願の生起・本末」の「」が18願、「」が19願・20願というのは親鸞会の公式見解です。これは間違いです。「仏願の生起・本末」の内容に19願・20願は入りません。まかり間違っても、18願の世界に入るためには19願から始めねばならないといったは教えは浄土真宗にはありません。それは高森教であって親鸞聖人の教えとは異なります。このように教えが間違っていますから、それをまともに信じている会員の皆さんが親鸞聖人の教えられる信心を獲得できないのは当たり前です。

ちなみに過去において高森顕徹会長は「仏願の生起・本末」を18願の内容のみで説明していました。これも時代とともに変わる教えの一つです。

『元会員から見た浄土真宗親鸞会』「仏願の生起本末」の本とは18願、末とは19願と20願のこと???(学生大会より)

に書かれていますので参照して下さい。


さて、本題に入ります。本願成就文を挙げ、「親鸞聖人や蓮如上人が木像や絵像を本尊とせず、名号を本尊とされた根拠も成就文である」ということまでは従来通りでした。問題は、

木像や絵像は「人」、名号は「法」

だと言い、人はやがて滅ぶが法は三世十方を貫くとしてお釈迦様が臨終

法に依りて人に依らざれ

と説かれたのだと話した点です。何を根拠にこんなことを言っているのか、まことにもって「珍らしき法」であると同時に、こんな邪義の正当化にお釈迦様のお言葉を利用するとは言語道断です。阿弥陀仏を誹謗する外道の親玉としか言いようがありません。

親鸞会では独自の「方便」論を展開しているので分かりづらいかも知れません(方便については下記参照)が、本来色も形も無い、我々の認識を超えた真如法性を私達に知らしめようと形を表し、すがたを示しているのが「方便法身」である阿弥陀仏です。

法身はいろもなし、かたちもましまさず。しかれば、こころもおよばれず、ことばもたえたり。この一如よりかたちをあらはして、方便法身と申す御すがたをしめして、法蔵比丘となのりたまひて、不可思議の大誓願をおこしてあらはれたまふ御かたちをば、世親菩薩(天親)は「尽十方無碍光如来」となづけたてまつりたまへり。この如来を報身と申す、誓願の業因に報ひたまへるゆゑに報身如来と申すなり。報と申すはたねにむくひたるなり。この報身より応・化等の無量無数の身をあらはして、微塵世界に無碍の智慧光を放たしめたまふゆゑに尽十方無碍光仏と申すひかりにて、かたちもましまさず、いろもましまさず。無明の闇をはらひ、悪業にさへられず、このゆゑに無碍光と申すなり。無碍はさはりなしと申す。しかれば阿弥陀仏は光明なり、光明は智慧のかたちなりとしるべし。(唯信鈔文意)

この「方便法身」を「報身」とも言うのです。『教学聖典』にもあるので会員の皆さんも言葉だけはご存じかと思いますが、阿弥陀仏の木像も絵像もこうした「方便法身」「報身」であり、真宗門徒ならば敬い拝すべき対象なのです。その木像や絵像を「」だとか言ってやがて滅ぶものだとの放言、謗法罪もいいところでしょう。

次に「法に依りて人に依らざるべし」(大智度論)のお言葉ですが、「」「」についての定義がまるで間違っています。このお言葉は、釈尊の説かれた教え、すなわち「」に従うのであって、教えを説く「」に従うのではないということを言われたものです。「阿弥陀仏の木像や絵像を本尊とするのではなく、名号のみを本尊とせよ」という根拠にならないのは当たり前の当たり前のことです。

『飛雲』朝令暮改の人に随ふべからず

にもありますが、親鸞聖人の教え、「」に従うのであって、こんな邪義を堂々と唱え、朝令暮改の無理難題を押し付けるような「」に従ってはならないということです。また、上の『大智度論』のお言葉は親鸞会では一度も目にも耳にもしなかった言葉です。批判ブログでは

『親鸞会教義の誤り』善知識には無条件服従しなければならないのか 3

や『飛雲』でしかお目にかかったことがありませんが、批判者が挙げた根拠も使って法を捻じ曲げるのは最早高森会長の常套手段となっています。有名な例では、

おほよそ八万四千の法門は、みなこれ浄土の方便の善なり。これを要門といふ。これを仮門となづけたり。この要門・仮門といふは、すなはち『無量寿仏観経』一部に説きたまへる定善・散善これなり。定善は十三観なり、散善は三福九品の諸善なり。これみな浄土方便の要門なり、これを仮門ともいふ。この要門・仮門より、もろもろの衆生をすすめこしらへて、本願一乗円融無碍真実功徳大宝海にをしへすすめ入れたまふがゆゑに、よろづの自力の善業をば、方便の門と申すなり。 (一念多念証文)

が挙げられると思います。この文をもって、要門、仮門、定善散善の教えは真実を直ちに受け入れない衆生を導くためにしばし仮に設けられた方便の教説であることを批判者が示したところ、高森会長が逆に19願を勧める根拠として利用したというものです。大沼師や伊藤師だけでは飽き足らず、批判者からもパクるとはさすが盗用、剽窃の名人ですね。


会員の皆さんのほとんどはこうした邪義を聞いていても、疑問に思う人はいないでしょう。それどころか、「こんな意味があったのか!」などと感動している人さえあるかと思います。深いマインドコントロール下にある人は難しいかも知れませんが、阿弥陀仏を誹謗し、他人の著書や文章を剽窃、盗用して多くの人を騙す「」が高森会長であることに早く気づいて、親鸞聖人が教えられる「」に従って頂きたいものです。


【参照】
『WikiArc』15 方便・隠顕

「高森顕徹会長の意に迎合するだけのオベッカ者にすぎない」のが親鸞会の会員

テストとかメンタルテストと聞いて思い出されるのが、『光に向かって123のこころのタネ』第101話

正直を試される

という話です。文中に「甲斐守も阿波守も、主君の意に迎合するだけのオベッカ者にすぎない」とありますが、

高森顕徹会長の意に迎合するだけのオベッカ者にすぎない

のが親鸞会の会員です。そうすることが出世の肝要といち早く気づいて会長や息子に取り入り迎合した者達の一握りが幹部となり、支配する側になります。逆に迎合できない者、意見する者は責められ、叩かれ、果ては除名されます。「ものを言え」と言いながら、実際にものを言うとその正直さが仇となる、酷い団体です。

清森義行氏の除名の真相(1)
投稿:ある特専部員の除名の真相(前編)

などを読めば、自分達の意に迎合しない者達をどうするのが親鸞会なのかお判りでしょう。

会の中では、高森会長が「これは黒豆だ」と言えば、たとえ這っていても「這っても黒豆なんだ」と言わねばなりません。そしてそれを聞いている者も、疑問を持ちながらも「這う黒豆なんだ」と思い込む、思うようにする。これが親鸞会の会員です。そのようにマインドコントロールされている、しかもそれがマインドコントロールされているとは思わない、実に哀れな方々です。どうしてそうなってしまうのか。無常と罪悪にせめ立てられて、正常な思考能力を失い、見捨てられたら助かる術が無いと思い込んでいるからです。無常と罪悪をやたらと強調してくるのは、正常な思考判断能力を奪い、組織拡大要員として効率よく利用・搾取するためでしょう。間違っても「私達一人一人の後生を案じて・・・」などと夢見ていないことです。


何事も高森顕徹会長の言葉を鵜呑みにし、正しいと信じ込んでしまうのが親鸞会の会員ですが、信心決定を体験としか思えないのも間違った教えのせいです。信心決定とは、本願の名号のいわれを聞いて疑い無いこと、南無阿弥陀仏のすがたを心得ることであって、地獄に堕ちてそこから救われるといったような摩訶不思議な神秘的体験のことではありません。

・「聞其名号」といふは、本願の名号をきくとのたまへるなり。きくといふは、本願をききて疑ふこころなきを「聞」といふなり。またきくといふは、信心をあらはす御のりなり。(一念多念証文)
・「聞名念我」といふは、「聞」はきくといふ、信心をあらはす御のりなり。「名」は御なと申すなり、如来のちかひの名号なり。「念我」と申すは、ちかひの御なを憶念せよとなり、諸仏称名の悲願(第十七願)にあらはせり。憶念は、信心をえたるひとは疑なきゆゑに本願をつねにおもひいづるこころのたえぬをいふなり。(唯信鈔文意)
・信心獲得すといふは第十八の願をこころうるなり。この願をこころうるといふは、南無阿弥陀仏のすがたをこころうるなり。(御文章)


私から阿弥陀仏へ、「助けて下さい」という祈願請求する思い、すなわち自力の心が廃り、「まかせてくれよ」というお言葉通りに往生をおまかせしたこと、本願のお言葉をそのまま受け容れたことを信心決定とか、信心獲得というのです。それは過去、何月何日の何時頃の体験ということではなく、また本願を聞き受けた信一念に限定されるものでもありません。現在只今のことです。

入信までの過程は一人一人異なります。どんな話が自分に刺さったか。どのように心境が変化していったか。いつ、何をしている時に獲信したか。自分が何歳の時か。聴聞している時か。おつとめの最中か。仕事をしている時か。寝て起きた時か。一人の時か。大勢の人がいる時か。獲信の瞬間にどんな体験をしたか。信一念をハッキリ覚えているか・・・。こういったことは、その表現方法も含めて人それぞれです。

「お坊さまの一言一言が、私の腹にピシッピシッとこたえました」
「もうこれ以上堕ちるところがないというところまで堕ちてゆきました」
「その地獄の底で生きた阿弥陀仏とお値いすることができました」

とか、こんなのは個人の体験であって万人に通ずるものではありません。一人一人業が違いますから、同じになりっこないのです。この人にこたえたという説教が私にこたえるかは分かりません。堕ちるとか地獄といっても、私が想像している地獄と、皆さんが想像している地獄はきっと違うでしょう。冷たく昏い世界なのか、紅蓮の炎に包まれたような世界なのか、恐ろしい怪物や毒虫等がうじゃうじゃいる世界なのか。はたまた全く別の世界なのか。一人一人異なるでしょうし、そしていずれも、きっと私が死んで実際に堕ちる地獄とは違うのです。阿弥陀仏とお値いするといっても、それはその人が思い描いた阿弥陀さまです。本物の阿弥陀さまは色も形もありません。音もにおいもありません。仏像や絵像のような姿をしておられるのかは分かりません。こういった体験談は、阿弥陀仏に救われるということがあるという励みにはなっても、それ以上参考にはなりません。詳細に聞いて真似たから獲信できるとか、そういったものではないのです。

それと、信心決定を信一念に限定するのでは過去の体験、心境をたのむことになってしまいます。一念の覚、不覚も必ず問題になります。一念の時を覚えていなければ救われていないという邪義も出てくるでしょう。こんなのは問題ではありません。過去にどんな体験をしたかとか、一念の時を覚えているかどうかが問題なのではなく、現在「助けるぞ」の仰せを仰せのままに受け容れているかどうかが問題なのです。

ところが高森顕徹会長は信心決定ということについてどう教えているでしょうか?

現在只今、苦悩渦巻く人生を光明輝く生活の出来るようにしてやろう、というお約束です。
(『こんなことが知りたい①』p.32)

とか現世利益をちらつかせてカモを釣り、

********************
 では、どうしたら自力が廃るのか。これは説明を聞いて判るものでもなければ、自ら捨てようと思って廃るものでもありません。先ず、自ら善知識を求めて真剣に聞法しなければなりません。そして、払っても払っても、後から後から現われ、奪えるだけ奪っても、なお心の底にこびりつく自力の心に悲泣悶絶、求道聞法の絶壁に行きづまり、曠劫流転の逆謗の屍を如来の前に投げ出す体験を通らなければ廃りません。(『こんなことが知りたい①』p.110~p.111)

 信じたのも知ったのも、学問も修養もすべて間に合わず、堕ちるも助かるも判らぬ心一つが業に引かされて、地獄は一定すみかぞかしと、無間のドン底に叩き堕とされた時(機の深信)、
自力無功と他力不思議とは同時に働き、信心歓喜、歓喜踊躍とおどり上がり、阿弥陀さまこうまでして下さらなければ聞かない、しぶとい私でございました。(法の深信)
 どうしてこの御恩に報いようかと泣くより外にないのです。
(『こんなことが知りたい③』p.128~p.129)
********************

などと、一度は地獄のずんどこに突き堕とされて、そこからこの上ない喜びの身に救われるような体験を信心決定と思わせ、アニメにまでして「一念の体験」とやらを強調しています。こうした高森会長の教え、アニメを真実だと思っている間は、そういった体験をしなければ信心決定ではないと思う他ないでしょう。ところが七高僧方も、親鸞聖人、覚如上人、蓮如上人も、こんな体験が信心決定だとか、捨自帰他の際には必ずこのような体験をするなどとは一言も仰ってはいないのです。

「笑わば笑え、そしらば謗れ。真実の信心は三業で判断できないのだから」と自分が救われている体験があるがゆえに悠然と構え・・・

こんなことを言っているのは、邪義を真に受けて、正しい親鸞聖人の教えを知らない証拠です。コメントも頂いていますが、まさに体験至上主義です。会員の皆様には、マインドコントロールから解き放たれ、信心決定を摩訶不思議な体験という観念は捨てて、南無阿弥陀仏のおこころを素直に頂いてもらいたいと願うばかりです。



ちなみに一万年堂出版発行の書物については大沼法竜師からの盗用が数多く散見されます。まだ確認できてはいませんが、当エントリーで紹介した話も大沼師からの盗用である可能性が高いです。

【参照】
大沼法龍師の言葉
信心決定とは

多くの会員が考えているであろう、全人類の階級ピラミッド

十方衆生の中には善人もいれば悪人もいます。善人の中でも高いさとりを開いている聖者もあれば、悪人の中でも五逆、謗法、闡提等の重罪人もあります。要は、上から下まで十方衆生には無限の階層があるということです。そして、自分より上等の人を見ては自分を反省し、向上しようという心が起きてくるのです。

ところが親鸞会にはそれがありません。「十方衆生に善人は一人もいない」「全人類は逆謗の屍」「善人とは、悪しか造れぬ己の実態がわからず、「善人」と自惚れている者のこと」と独自の解釈をして、善人の存在を認めません。このことから、親鸞会会員は自分達より上がいないんだと錯覚します。それでいて、「全人類の中で、真実を知らされているのは自分達だけだ」と勘違いをしていますから、真実を知らされている分、真実を知らされていない人よりも上だとの認識があるのです。

また、「高森先生以外に今日、正しい親鸞聖人の教えを説かれる方はいない」とこれまたすごい勘違いをし、本願寺はじめ真宗十派は全て異安心、退会者は聞法の敗残者という意識が強いです。一般の人々、僧侶、退会者をいずれも「自分達より下だ」と見下す傾向にあります。論戦になりますと、こうした排他的見方が一層強くなります。「自分達以外に正しい親鸞聖人の教えを知っている者はいない」「他は全て異安心」とお山の大将を気取り、井の中の蛙でいるのですから、家族や友人、僧侶や退会者の言うことが素直に聞けるわけがありません。


ここで、自分が会員だった頃を振り返って、親鸞会会員は全人類をどういう階層で見ているのか考えてみました。その上下関係はおおよそ以下のような感じです。


                           /\
                         高森先生
                       /       \
                     /           \
              講師部幹部(M布教局長、K講師長、W弘宣部長等)
                  /                 \
                /        講師部員       \
              /          特専部員         \
            /            親友部員           \
          /              幹部会員             \
        /             学階や燈が高い会員           \
      /       聞法歴が長い会員、法友通信等に載るような会員   \
    /                                             \
  /                      一般会員                     \
/                                                     \
                         
                         幽霊会員
                    一般の人々、僧侶、退会者



あくまで一般会員としての感覚で主観も多分に混じっていますが、当たらずとも遠からずと思います。

教えは大沼法竜師と伊藤康善師のパクり損ない、それにS価の思想が加わったデタラメ創作教義であり、人格はこんな感じな人がトップなのですから、こんな組織の人間は哀れというよりありません。


親鸞会という団体、組織、風土から離れて真宗界を見てみますと、自分は如何に閉鎖された環境にいたか、そこでしか通じない観念を持っていたかが知らされ恥ずかしい限りです。現代でも正しい親鸞聖人の教えを説く方は沢山あり、浄土真宗の信心を伝達相続されています。著書も数多く、勿論ピンキリですが、親鸞聖人の教えを聖教に基づいて忠実に示している書物も多くあります。最近ではYouTubeなどで法話も聞くことができ、どの先生から聞くべきかがすぐ調べられるという点も含めて大変便利になりました。

親鸞会に在籍していた時、上からの情報を鵜呑みにして本願寺の僧侶の方々は「真宗の信心に昏き者達」と思っていました。しかし実際は、全てとは言いませんが、素晴らしい方々が沢山おられます。在家の方でも林遊さんのようなとんでもなく詳しい方もおられます。退会者でも飛雲さんや宮田さん、いつもの元会員さん、他有名無名の方々、真宗の信心と教義に詳しい方は数多くおられます。退会して色々学ぶ内、上に示したピラミッドは私の中で完全に粉砕されました。

親鸞会では、入れ込み様によっては、極端な例ですが一昨日までコメントをしてきたような人物、そこまでいかなくてもそれに近い思想を持つ人物に、いわゆる親鸞会的人間にされてしまいます。私は運良く途中で教義の誤り等に気づくことができましたが、未だに正しいと信じて求めている人が多くあると思うにつけ暗澹たる気持ちになります。かつての仲間達も多くが未だに信じているのかと、時折り案じられます。皆さん一刻も早く間違った教義、閉鎖的排他的環境から脱して、広く深い海のような阿弥陀仏の大いなる慈悲の誓願を疑い無く聞いて頂きたいと思います。

こちらからの質問にはまともに答えず、逃亡するしかできない親鸞会会員

恐らくこれが、親鸞会会員と思しき人物の最後の書き込みでしょう。

********************
淳心房さん。

>後ではなく、次のコメントで必ず私の信心を二種深信以外の要素で判定したのか答えて下さい。必ずです。こちらからの質問には返事がありませんし、議論になりません。次で明確な返答が無ければ今後あなたのコメントには応答しません。

「私の信心を二種深信以外の要素で判定したのか」
でお怒りのようですね。

では、お答えしましょう。
三業で信心を判定できないのは当たりまえ。
私はあなたの信心を判定したのではありません。
「あなたの月間アーカイブ件数が減っていることは真実信心でない証拠」といったことに対するあなたの反応を見たのです。つまりテストしたのです。
もし三業で信心を判定できないとあなたが本当に知らされているなら、必死に反論することはないでしょう。「笑わば笑え、そしらば謗れ。真実の信心は三業で判断できないのだから」と自分が救われている体験があるがゆえに悠然と構え、自分のアーカイブ件数が減っていることを反省や懺悔する余裕が少しはあったでしょう。月間アーカイブ件数が減っていることが何ですか。そんなことにいちいち反論しなくて良いでしょう。三業で信心は判定できないのですから。
しかし、あなたは違いました。必死に親鸞会を攻撃しました。攻撃しなくては安心できないからでしょう。
あなたは私のテストに落ちました。
でも、安心してください。テストに落ちたからといって私はあなたの信心を判定はしませんので。淳心房さんご自身が判断することです。

信後絶対でない言葉として教学に「疑いがなくなったから大丈夫」など100がありますが、これを信心を判定していると聞いていたら大間違いです。これについては最初にこの教学設問の意義が話されていますが、当時の講師の人から伝え聞いていないのですね。

そもそも高森先生70年のご教導を、あなたのようにわずか10年か20年聞いた内容だけで判断するのは断章主義なのです。釈迦45年の説法を法華経だけで判断するようなものです。
あなたが親鸞会について云々するのは100年は早いですね。
いや言い過ぎでした。50年は早いですね。
あなたが親鸞会の教えを深く知るには50年かかるでしょう。
ですから50年後にまたこのサイトでお会いしましよう。
淳心房さんは私より少しだけ人生の先輩のようですね。50年後に脳梗塞になってパソコン操作できないとか認知症になってぼけないように。もちろんこの世を去らないように心身共に健康でいてください。老少不定なので、私が先にこの世を去るかもしれませんが、私も心身共に健康でいたく思います。
では2067年の4月18日、またこのサイトでお目にかかりましょう。

********************

やり取りが始まったのが3月21日。それからツッコミが入り、こう答えるまでに何日かかっているのでしょう。しかもこれは「弁明」ではなく「負け犬の遠吠え」にしか聞こえないのは私だけでしょうか?

ところで「テスト」と聞いて思い出されるのがT社法論です。

『㈱チューリップ企画と田中一憲の法論』2008年1月26日 チューリップ企画 → 田中氏

このやり取りも酷いものでした。話をはぐらかして議論が展開せず、さすがの田中氏側も呆れて論戦を放棄すると、T社側が一方的に勝利宣言です。まだご覧になっていない人、親鸞会の議論の進め方をよく知らない人は読んでみるといいかも知れません。

高森先生70年のご教導とか言っていますが、大沼法竜師や伊藤康善師の著作を剽窃し、S価の組織拡大法を真似てきただけですから大した厚みも内容もありません。そして説いている内容が聖教とは真逆なことばかりですので、偽装浄土真宗、偽装親鸞聖人の教えだと言っているのです。悔しければ退会者側の質問に聖教をもって答えればいいだけのことです。それが高森会長からしてできないということは、

「親鸞会の教え」=「高森先生70年のご教導」=「偽装浄土真宗、偽装親鸞聖人の教え」

だと認めているようなものです。


こうやって明らかに議論では劣勢なのに上から目線で物を言う態度にはほとほと呆れてしまいます。プライドだけはいっちょ前に高く、自分の非を認めようとはしない。ちょっと親鸞会の「教学」なるものをやっている人はこういう傾向の人が多いです。それも高森会長から間違った教えを延々聞かされてきたからでしょう。

親鸞会では、善人は一人もいない、全人類は「逆謗の屍」、「一つの善もできない極悪人」だと説いています。また、親鸞会会員の多くは「全人類の中で自分達だけが真実を知らされている」と思い込んでいます。自分達より上がいないことに加えて、「自分達は真実を知らされている」というアドバンテージがある分、全人類よりは上だという認識が少なからずあるのです。そして親鸞会以外の人間に対して、真実を知らないくせに何を言うか、少なくとも真実を知らされていない者達よりは上だ、という妙なプライドがあるのです。

自分達以外、正しい親鸞聖人の教えを聞いている者は今日いないという痛々しい誤解が、コメントしてくる彼ばかりでなく多くの会員にあるということです。これでは高森会長や親鸞会の人間以外の他の言葉は聞けないでしょうし、撥ね付けてしまうのも頷けます。

こうした間違った教えが染み付くことにより、人間的にもおかしくなってしまうのです。彼は親鸞会的人間の典型例でしょう。現在、大学や社会人サークルなどで声をかけられ、話を聞いている人もあるかも知れませんが、どうか気をつけて頂きたいものです。


今回も親鸞会側は都合の悪い質問には答えず、負け犬の遠吠えめいたことだけ発言して撤退していきました。正しい親鸞聖人の教えを聖教に基づいて示しもせずに。今は無理でしょうが、コメントの彼にも教義の誤りが分かる日が来ればいいと思います。

たとひ大千世界にみてらん火をもすぎゆきて聞けと親鸞聖人が仰っているその内容は、因果の道理でも19願・20願でもありません

親鸞会の論戦のやり方はワンパターンです。T社法論から、いやそれ以前から変わっていません。返答に窮する質問には、質問で返して答えず、相手が呆れて論戦を放棄すると勝手に勝利宣言します。間違ったことを言っても間違ってましたと認めません。法論以前の、日本語の問題でつまづいている親鸞会に相変わらず親鸞会会員と思しき人物が書き込んできていますが、読者の皆さんは呆れていることでしょう。本当に高森顕徹会長はじめ親鸞会会員は、手のかかるやんちゃ坊主です。

> 淳心房さんも含めて、皆さんは信心を三業で判定できるという立場なのか、できないという立場なのか、どちらですか。それをハッキリさせないと議論にならないでしょ。

とか何とか言っていますが、元から議論になっていません。次のコメントで「1.淳心房や退会者の信心を三業で判定した弁明」をしなければ、それ以降は彼がこちらの質問に答えない限り応答しません。また、以下の質問への回答も要求します。

2.三大諍論で高森会長は信心を判定しているが、それは三業で判定していることではないのか言いなさい。
3.淳心房が書いていることを「おかしな教義」と言っているが、具体的にどこがどのようにおかしくて、正しい教義はどうなのか、聖教に基づいて示しなさい。




さて、親鸞聖人が本願成就文を釈されたお言葉は『信文類』の他にもあります。『一念多念証文』

『無量寿経』(下)のなかに、あるいは「 諸有衆生 聞其名号 信心歓喜 乃至一念 至心回向 願生彼国 即得往生 住不退転」と説きたまへり。
「諸有衆生」といふは、十方のよろづの衆生と申すこころなり。
「聞其名号」といふは、本願の名号をきくとのたまへるなり。きくといふは、本願をききて疑ふこころなきを「聞」といふなり。またきくといふは、信心をあらはす御のりなり。


では、「聞其名号」とは本願の名号を聞くことであり、「聞く」とは本願を聞いて疑いの心が無いことを言うのである。またそのように疑い無く本願を「聞く」というのがすなわち信心であるというのです。

本願の名号とは17願が成就して仕上がった、十方の諸仏が褒め称える南無阿弥陀仏の名号のことであり、その名号を衆生に信じさせ、称えさせて、必ず往生させようと誓われたのが本願であります。ですから、親鸞聖人が聞きなさいと仰るその内容は南無阿弥陀仏の名号のいわれ、南無阿弥陀仏のおこころであり、名号を我々に回向して救わんとされている如来の願力なのです。そうして南無阿弥陀仏の名号、仏の御名を聞く人は紛れもなく浄土に往生すべき位に定まるので、たとえこの宇宙が火の海となってもそこをかいくぐって聞きなさいと、

たとひ大千世界に
 みてらん火をもすぎゆきて
 仏の御名をきくひとは
 ながく不退にかなふなり
(浄土和讃)

と仰せられてあります。

因果の道理でも、19願や20願でもなく、仏の御名、南無阿弥陀仏のおこころを聞きなさいというのです。これを親鸞会ではどのように話しているでしょうか? 仏の御名をきくひとはを、

仏教を聞く人は

とか適当なことを言い、

仏教の根幹は因果の道理。因果の道理が分からなければ仏教は何十年聞いても分かるものではない。

仏の御名とは無関係な話へ誘導し、

18願の世界に転入するには、19願・20願の道程を通らなければならない

と邪義を吹き込んで会員を組織拡大要員として利用・搾取している有り様です。無常と罪悪で会員を煽りせめたて、後生助かりたかったらたとひ大千世界にみてらん火をもすぎゆきて聞けと、都合の良い部分だけ聖教の言葉を利用しています。

たとひ大千世界にみてらん火をもすぎゆきて聞けと親鸞聖人が仰っているその内容は、因果の道理でも19願・20願でもありません。「其名号」「本願の名号」「本願」です。それを「仏願の生起・本末」と言い換えられているのですから、「仏願の生起・本末」の内容に19願や20願が入るはずがないでしょう。

会員の皆さんは、親鸞聖人が聞けと仰せられる内容とは全く異なることを聞かされています。これでは信心決定も信心獲得もあるはずがありません。一刻も早く邪義からはさよならし、南無阿弥陀仏のおこころを疑い無く聞いて信心獲得下さい。

『「仏願の生起・本末」の本は18願、末は19願・20願』だとかいう珍説が出てくる自体、『大無量寿経』も『教行証文類』もまともに読んだことが無い何よりの証拠

コメントを読みまして、未だ真宗をろくに学んだこともない高森顕徹会長を絶対視し、「誰が何と言おうと高森先生に間違いない」とマインドコントロールされている会員さんがいるのだな、そしてその方に何とか邪義を邪義と分かってもらいたいと動いている人がいるのだなと改めて知らされました。それで私なりに、経典や聖教と、邪義の違いを明確化せんと書いたものを以下に紹介します。


しかるに『経』(大経・下)に「聞」といふは、衆生、仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし、これを聞といふなり。

ところで『無量寿経』に「聞」と説かれているのは、わたしたち衆生が、仏願の生起本末を聞いて、疑いの心がないのを聞というのである。

『信文類』のこのお言葉は、『大無量寿経』下巻

聞其名号 信心歓喜 乃至一念

のお言葉、すなわち本願成就文、18願成就文を親鸞聖人が釈されたものです。18願成就文の解釈をなされているのに、その中に19願や20願が出てくるというのはおかしなことです。ちなみに、19願成就文は『無量寿経』の三輩の往生を説く文であり、また『観無量寿経』の定善・散善、九品の往生を説く文であるとして

この願(第十九願)成就の文は、すなはち三輩の文これなり、『観経』の定散九品の文これなり。(化身土文類)

と教えられています。『大無量寿経』では18願成就文の後に三輩の文が続きます。何が言いたいかというと、親鸞聖人は19願は19願で18願とは別に解釈されている、しかも『信巻』とは別の『化土巻』に教えられているということです。

さて、「聞其名号」の「其(その)」とは18願成就文の直前にあるお言葉、17願成就文を承けて「其名号」と説かれています。『大無量寿経』では17願に誓われた通りの、諸仏が褒め讃える名号が成就し、それからあらゆる衆生がその名号(17願成就の名号)を聞いて信心歓喜すると続いています。当然ながら「其名号」と17願は関係がありますが、19願や20願は関係ありません。

では、「その名号を聞いて」とあるがここでの「聞く」とはどういうことなのか。それは「仏願の生起・本末」を聞いて疑いの心が無いことだと先の御文では仰せられています。このことから、

其名号」=「仏願の生起・本末

であることが分かります。ですから、「仏願の生起・本末」の内容に19願や20願は出てきようがないのです。この理由については後でも説明します。

ところで、「仏願の生起・本末」とは、阿弥陀仏が本願を起こされた顛末、一部始終ということです。どうして本願が起こされたのか、そのわけと、本願が起こされてどうなったのか。その全てということです。これについて親鸞聖人は機無・円成・回施で教えられています。『信文類』至心釈では、

一切の群生海、無始よりこのかた乃至今日今時に至るまで、穢悪汚染にして清浄の心なし、虚仮諂偽にして真実の心なし。ここをもつて如来、一切苦悩の衆生海を悲憫して、不可思議兆載永劫において、菩薩の行を行じたまひしとき、三業の所修、一念一刹那も清浄ならざることなし、真心ならざることなし。如来、清浄の真心をもつて、円融無碍不可思議不可称不可説の至徳を成就したまへり。如来の至心をもつて、諸有の一切煩悩悪業邪智の群生海に回施したまへり。

とあります。迷いを離れられない衆生(機無)のために発願修行して名号を成就され(円成)、名号を回向して我々を救おうとなされている(回施)ということです。そして、阿弥陀仏が誓われ成就された名号が我々に届いて、間違いなく我々をお救い下さるということに疑いが無いのを「」というのです。

この「」は、疑いの心が無いことを指しています。ということは、疑いの心が有る聞き方があるということです。それが第二十願を聞いている時の聞き方です。第二十願

聞我名号 係念我国 植諸徳本 至心回向 欲生我国

の「聞」は如来の諸智を疑惑して信じていません。それでいて罪福を信じ、念仏を自分の善根として称えて浄土に生まれたいと願っている状態です。これを『大無量寿経』智慧段には

仏、慈氏に告げたまはく、「もし衆生ありて、疑惑の心をもつてもろもろの功徳を修してかの国に生れんと願はん。仏智・不思議智・不可称智・大乗広智・無等無倫最上勝智を了らずして、この諸智において疑惑して信ぜず。しかるになほ罪福を信じ善本を修習して、その国に生れんと願ふ。このもろもろの衆生、かの宮殿に生れて寿五百歳、つねに仏を見たてまつらず、経法を聞かず、菩薩・声聞の聖衆を見たてまつらず。このゆゑに、かの国土においてこれを胎生といふ。

釈尊が弥勒菩薩に仰せになる。「さまざまな功徳を積んでその国に生れたいと願いながら疑いの心を持っているものがいて、無量寿仏の五種の智慧を知らず、この智慧を疑って信じない。それでいて悪の報いを恐れ、善の果報を望んで善い行いをし、功徳を積んでその国に生れたいと願うのであれば、これらのものはその国に生れても宮殿の中にとどまり、五百年の間まったく仏を見たてまつることができず、教えを聞くことができず、菩薩や声聞たちを見ることもできない。そのため、無量寿仏の国土ではこれをたとえて胎生というのである。」

と説かれています。こうした疑いの心が有る第二十願の「聞」は、疑いの心が無い本願成就文の「」とは区別されています。すなわち、20願が「仏願の生起・本末」に入っているならば「疑心あることなし」とはならないわけです。本願を疑っているのは19願を聞いている時も同じですから、「仏願の生起・本末」の内容の中に19願や20願は入りようがないのです。

「仏願の生起・本末」の本は18願、末は19願・20願

だとかいう珍説が出てくる自体、『大無量寿経』も『教行証文類』もまともに読んだことが無い何よりの証拠なのです。ですから、こんな珍説を本にまで堂々と書く高森顕徹会長を唯一無二の善知識と思い込み、高森会長の言葉しか信じずに他を排斥する会員はマインドコントロールされていると言っているのです。


以上、参考になるかどうかは分かりませんが書いてみました。勿論言い方等もありますが、未だ騙されマインドコントロールされている会員の皆さんの心に届いてほしいと願っています。



【追記】
機無・円成・回施について林遊@なんまんだぶさんが、『WikiArc』機無・円成・回施・成一にて解説して下さっています。ぜひそちらも参照して下さい。

仏願の生起・本末は、真実が説かれている、信後のことが書かれている、18願について教えられている『信巻』に説かれています

【お知らせ】平成29年、親鸞会の降誕会について

にて、仏願の生起・本末について触れたところ質問を頂いたのでお答えします。

********************
「仏願の本」が「阿弥陀仏(法蔵菩薩)が発願し修行されたこと」であるという事を仰っている聖教上の根拠と
「仏願の末」が「五劫思惟、永劫の修行を経て十劫のいにしえに本願が成就し、私にはたらいているということ」であるという事を仰っている聖教上の根拠を教えて頂けないでしょうか?

********************

親鸞聖人が仏願の生起・本末について教えられている箇所は何箇所かあり、親鸞会でも用いられる根拠では『信文類』至心釈

一切の群生海、無始よりこのかた乃至今日今時に至るまで、穢悪汚染にして清浄の心なし、虚仮諂偽にして真実の心なし。ここをもつて如来、一切苦悩の衆生海を悲憫して、不可思議兆載永劫において、菩薩の行を行じたまひしとき、三業の所修、一念一刹那も清浄ならざることなし、真心ならざることなし。如来、清浄の真心をもつて、円融無碍不可思議不可称不可説の至徳を成就したまへり。如来の至心をもつて、諸有の一切煩悩悪業邪智の群生海に回施したまへり。

すべての衆生は、はかり知れない昔から今日この時にいたるまで、煩悩に汚れて清らかな心がなく、いつわりへつらうばかりでまことの心がない。そこで、阿弥陀仏は、苦しみ悩むすべての衆生を哀れんで、はかり知ることができない長い間菩薩の行を修められたときに、その身・口・意の三業に修められた行はみな、ほんの一瞬の間も清らかでなかったことがなく、まことの心でなかったことがない。如来は、この清らかなまことの心をもって、すべての功徳が一つに融けあっていて、思いはかることも、たたえ尽すことも、説き尽すこともできない、この上ない智慧の徳を成就された。如来の成就されたこの至心、すなわちまことの心を、煩悩にまみれ悪い行いや誤ったはからいしかないすべての衆生に施し与えられたのである。

です。過去の記憶によりますと、親鸞会の講師試験において、

親鸞聖人が仏願の生起について教えられたお言葉と根拠を示せ。

というような問題があって、その答えが上に挙げたお言葉の内、

一切の群生海、無始よりこのかた乃至今日今時に至るまで、穢悪汚染にして清浄の心なし、虚仮諂偽にして真実の心なし。(教行信証信巻)

だったかと思います。

至心釈のこのお言葉は、灘本愛慈師によりますと

一切の群生海、無始よりこのかた乃至今日今時に至るまで、穢悪汚染にして清浄の心なし、虚仮諂偽にして真実の心なし。

というのが仏願の「生起」、

ここをもつて如来、一切苦悩の衆生海を悲憫して、不可思議兆載永劫において、菩薩の行を行じたまひしとき、三業の所修、一念一刹那も清浄ならざることなし、真心ならざることなし。

というのが仏願の「本」、

如来、清浄の真心をもつて、円融無碍不可思議不可称不可説の至徳を成就したまへり。

等というのが仏願の「末」であるとお示しです。


同様に『信文類』信楽釈

しかるに無始よりこのかた、一切群生海、無明海に流転し、諸有輪に沈迷し、衆苦輪に繋縛せられて、清浄の信楽なし、法爾として真実の信楽なし。ここをもつて無上の功徳値遇しがたく、最勝の浄信獲得しがたし。一切凡小、一切時のうちに、貪愛の心つねによく善心を汚し、瞋憎の心つねによく法財を焼く。急作急修して頭燃を灸ふがごとくすれども、すべて雑毒雑修の善と名づく。また虚仮諂偽の行と名づく。真実の業と名づけざるなり。この虚仮雑毒の善をもつて無量光明土に生ぜんと欲する、これかならず不可なり。なにをもつてのゆゑに、まさしく如来、菩薩の行を行じたまひしとき、三業の所修、乃至一念一刹那も疑蓋雑はることなきによりてなり。この心はすなはち如来の大悲心なるがゆゑに、かならず報土の正定の因となる。如来、苦悩の群生海を悲憐して、無碍広大の浄信をもつて諸有海に回施したまへり。

『信文類』欲生釈

しかるに微塵界の有情、煩悩海に流転し、生死海に漂没して、真実の回向心なし、清浄の回向心なし。このゆゑに如来、一切苦悩の群生海を矜哀して、菩薩の行を行じたまひしとき、三業の所修、乃至一念一刹那も、回向心を首として大悲心を成就することを得たまへるがゆゑに、利他真実の欲生心をもつて諸有海に回施したまへり。

も、仏願の生起・本末について教えられています。いずれもいずれも、迷界を出ることのできない私どものために(生起)、大悲の誓願を起こして永劫に修行せられ(本)、遂に十劫のいにしえに果成の阿弥陀仏となって、現に私どもを救いつつある(末)、ということです。


ちなみに大江山さんが仰っているように、

仏願の生起・本末」=「其名号」=「十七願の名号」

です。無量寿仏の威神功徳の不可思議なるを聞く、すなわち南無阿弥陀仏のいわれを聞くのであって、19願や20願のことを聞くのではありません。親鸞会でも

・『教行信証』前五巻には真実が、化土巻には方便が説かれている
・『教行信証』前五巻は信後のことが、化土巻は信前のことが書かれている


などと言うでしょう。では

仏願の生起・本末が説かれているのは何巻ですか?

と質問してみては如何でしょうか? そうです、真実が説かれている、信後のことが書かれている、18願について教えられている『信巻』です。方便であり、信前である19願や20願は関係ないでしょう? また、逆に

高森会長以外で、『仏願の生起・本末の「」が19願20願のことだ』なんてどの真宗学者が言っているんですか?

と聞いてみるのもいいかも知れません。それにしても、『教行証文類』すらまともに読んでいない高森会長や会員に、「一切経全てを読んだこともないのになぜ断言できるのか?」なんて言われたくないですけどね。

親鸞会会員にとっては「高森会長の言葉」が絶対であり、それ以外は忌み嫌う傾向にありますので対話は難しいかとは思いますが、その難しいことに挑戦されていることに感服いたします。分かって頂けたらいいですね。

最後に、コメントを下さったはるばるさん、大江山さん、ありがとうございました。


【参照】
『安心論題』(1)聞信義相
プロフィール

淳心房&しゃあ

Author:淳心房&しゃあ
(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


(しゃあ)
平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
singikensho@yahoo.co.jp
(スパム防止のため@を大文字にしてあります。メール送信時は小文字に変えて下さい。)

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QRコード