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【考察】念仏の勧めについて(11)

阿弥陀仏は念仏を称えよと仰っている」ことは自明の理です。それゆえ、釈尊をはじめ七高僧方は例外なく念仏を勧めています。

今回の記事では、まず教主釈尊についてです。ここで、

『飛雲』「どうすれば救われるのか」真宗と高森教との決定的な違い1

には、釈尊が臨終の父親(浄飯王)に対して念仏を勧められていることが紹介されています。

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『教行信証』行巻に『安楽集』を引かれて

『安楽集』にいはく、「『観仏三昧経』にいはく、〈父の王を勧めて念仏三昧を行ぜしめたまふ。父の王、仏にまうさく、《仏地の果徳、真如実相、第一義空、なにによりてか弟子をしてこれを行ぜしめざる》と。仏、父の王に告げたまはく、《諸仏の果徳、無量深妙の境界、神通解脱まします。これ凡夫の所行の境界にあらざるがゆゑに、父の王を勧めて念仏三昧を行ぜしめたてまつる》と。
(以下略)


(現代語訳)

『安楽集』にいわれている。
「『観仏三昧経』に、<世尊は、父である浄飯王に念仏三昧を修めるようにお勧めになった。父の王は世尊に、≪仏のさとりの徳は真如実相第一義空とのことでありますが、それを観ずる行を、どうして弟子であるわたしに教えてくださらないのですか≫とお尋ねした。
 世尊は父の王に、≪仏がたのさとりの徳は、はかりがたい深い境地であり、仏は神通力や智慧をそなえておいでになります。これはとうてい凡夫が修めることのできる境地ではありません。そこで、父の王に念仏三昧を修めることをお勧めしたのです≫と仰せになった。


行巻の念仏は他力の念仏について教えられたところですので、親鸞聖人は、釈尊が最初から他力の念仏を浄飯王に勧められたと解釈なされていることが判ります。

(中略)

一応言っておきますが、浄飯王はこの時点では信心決定していません。信前です。信前の人に、釈尊は最初から念仏三昧を勧められていて、そのことを道綽禅師も親鸞聖人も、そのまま教えられているのですから、信前の人に何を勧めるのかの答えがこれだということです。

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この通りです。釈尊がそうですから、『観無量寿経』では善知識は、下三品の悪人に、その臨終に際して諸善を説かずに念仏を勧めています。

念仏の勧めというと、自力の勧めのように受け取る方がいます。ですが、なんまんだぶはなんまんだぶです。念仏自体には自力も他力もありません。念仏を称える我々の信心に自力あり、他力ありなのです。そもそも、親鸞聖人の仰る自力、他力とは「念仏を称える信心について」です。なので、念仏を称えるのは前提なんです。

衆生の往生の行として念仏を選択されたのは阿弥陀仏です。「わずか十遍でも我が名を称えよ」と、阿弥陀仏ご自身が仏名を称することを往生の行と選定されているのです。その念仏を称えないということは、本願を聞いてないということです。お前何を聞いてるんだ、浄土へ参る気があるのか、という話になってしまいます。

それで、迷いの世界からの出離を願い、我が身は愚悪ではあるが本願を聞いて浄土に往生したいと思い、仰せの通りに念仏一行を修めて浄土を願っている。そういう人に、念仏を称える信心が、本当に本願の仰せを疑いなく信受している信心なのか、それとも本願を疑っている信心なのかが問われているのです。


念仏を自分の功徳として捉え、これを積み重ねて浄土に往生しよう、少しでも浄土に近づこう、往生をより確かなものにしようと我が計らいの心をもって称えることを自力といいます。親鸞聖人は、それでは報土に生まれず化土にとどまるとして厳しく誡められています。

それに対して、「念仏を称える者を極楽に迎える」という本願をそのまま聞き受けて疑いを差し挟まず、本願の仰せのままに称名していることを他力といいます。「他力には義なきを義とす」と言われるように、阿弥陀さまのはからいにまかせて自力の計らいをまじえないことを他力というのです。

阿弥陀さまのはからいにまかせるとは、仰せの通りにお念仏を申すことであり、仰せの通りお念仏申すことが、取りも直さず阿弥陀さまのはからいにまかせているすがたです。同じ南無阿弥陀仏を心に領受したのが信心、口に称えるのが念仏であって、信心と念仏は決して分けることのできない一具の法なのです。

念仏は本願に誓われた決定往生の業ですから、これを頂いて称える者は必ず浄土に往生し、仏に成さしめられます。念仏とはそのようなはたらきをもった正定業であると疑いなく信ずる、これが真実の信心です。この、本来一具である筈の行と信がバラバラな同行が多いですから、親鸞聖人はわざわざ行から信を別開して顕かにされ、『歎異抄』の作者は化土にとどまる同行が無いようにと泣き泣き筆を染めたのでした。


『安楽集』を通して行文類に『観仏三昧経』のこの教説を引文されたということは、親鸞聖人は、釈尊が浄飯王に他力の念仏、真実の信心による念仏を勧められたと見られたのです。つまり釈尊の勧めは最初から

真実の信心で念仏しなさい

だったのです。これはどういうことかというと、そうです。本願文の

至心信楽 欲生我国 乃至十念

を顕しているわけです。本願に、

我が真実なる誓願を疑いなく信じ、我が浄土に生まれられると思って、我が名を称えよ

と誓われた通りに釈尊は勧められていることが判ります。これが真実の行信、他力の行信です。もし、

阿弥陀仏は念仏を称えよと仰っていない

ならば、こうした『観仏三昧経』の教説は存在しないし、親鸞聖人も引文されることはなかったでしょう。


なお、念仏と信心は本願力によって回向される一具の法なのですが、現実にはそれと気づかず、分からずに、自力の計らいにたぶらかされて本願力回向の法を自力回向の法に貶めている同行が少なくありません。それで善知識は南無阿弥陀仏の六字のいわれを説いて門徒を勧化されるわけですが、ここで悪いのはあくまでも自力の計らいであって念仏ではありません。諸善は捨て去るべき行法ですが、念仏はそうではないのです。

先ほども申し上げた通り、真宗の信心は「念仏を称える際の信心」です。信心が正因で、称名は報恩だから、称名は往生に関しては無意味であるとか、信前は聞名のみすればよいので称名する必要は無いとか、そもそも称名せよとは仰っていないとか、そんな教えではないのです。

私達は念仏という法に救われるのです。その法を疑いなく信受したのが信心です。信心を重視するのは結構なことですが、帰依し奉持すべき念仏を「称えよと仰っていない」はありません。実際に、祖師も覚師も蓮師も、どなたもそのような本願であるとは一言も仰せられていません。

本願の名号は仰いで信ずべきであり、専らこれを行ずべきです。その行ずべき念仏、信ずるべき行を本願から抜いてしまうような発言には、注意が必要だと思います。

【考察】念仏の勧めについて(10)

阿弥陀仏は念仏を称えよと仰っていない

とすると、では私はどなたの勧めに順ってお念仏しているのでしょう?

釈尊? 諸仏? 七高僧? 親鸞聖人? 蓮如上人? 布教使の先生?

確かにそうとも言えるでしょう。では、なぜこれらの方々はお念仏を勧めるのでしょうか。その根源は一体どこにあるのでしょうか。


念仏は、本願のはたらきがそのまま出てきたものだとは彼の先生も仰っています。

ここで、本願のはたらきがそのまま出てきたのが念仏ならば、本願に「念仏を称えよ」と誓われていなければなりません。言い換えれば、「阿弥陀仏は念仏を称えよと仰っている」本願でなければなりません。そういう本願でなければ、それが私の上にはたらいたとしても、念仏は出てこないからです。

自然法爾の事

 「自然」といふは、「自」はおのづからといふ、行者のはからひにあらず、「然」といふは、しからしむといふことばなり。しからしむといふは、行者のはからひにあらず、如来のちかひにてあるがゆゑに法爾といふ。「法爾」といふは、この如来の御ちかひなるがゆゑに、しからしむるを法爾といふなり。法爾はこの御ちかひなりけるゆゑに、およそ行者のはからひのなきをもつて、この法の徳のゆゑにしからしむといふなり。すべて、ひとのはじめてはからはざるなり。このゆゑに、義なきを義とすとしるべしとなり。「自然」といふは、もとよりしからしむるといふことばなり。

 弥陀仏の御ちかひの、もとより行者のはからひにあらずして、南無阿弥陀仏とたのませたまひて迎へんと、はからはせたまひたるによりて、行者のよからんとも、あしからんともおもはぬを、自然とは申すぞとききて候ふ。

 ちかひのやうは、無上仏にならしめんと誓ひたまへるなり。無上仏と申すは、かたちもなくまします。かたちもましまさぬゆゑに、自然とは申すなり。かたちましますとしめすときには、無上涅槃とは申さず。かたちもましまさぬやうをしらせんとて、はじめて弥陀仏と申すとぞ、ききならひて候ふ。弥陀仏は自然のやうをしらせん料なり。この道理をこころえつるのちには、この自然のことはつねに沙汰すべきにはあらざるなり。つねに自然を沙汰せば、義なきを義とすといふことは、なほ義のあるになるべし。これは仏智の不思議にてあるなるべし。


念仏は私達の煩悩妄念から出たものではなく、私達のはからいによって称える自力の行でもなく、また私達が恣意的に選んで称えているものでもありません。本願のおのずからなるはからいによって、私達の口をついて出てくるのがお念仏であるというのが親鸞聖人の領解でした。お念仏が出てくる元は、本願にあるのです。

それは具体的には、念仏を往生の行と誓われた第十八願、またその行体である南無阿弥陀仏を普く十方衆生に聞かせようと誓われた第十七願のはたらきによってです。


親鸞聖人以前は、行の根拠と言ったら本願文の「乃至十念」でした。ところが、法然聖人の選択本願念仏論に寄せられた疑難の一つに

どうして「十念」が「称名」であり得るのか

という論難があって、親鸞聖人はこれに的確に応答して師説の正当性を主張しなければならなかったのです。御開山は、名号の出てくる元である第十七願に着眼し、諸仏が勧められている事柄の中に称名があるとみて、その「咨嗟称我名」から称名という語を導き出したのでした。

この第十七願によって、釈尊は娑婆世界に応現して名号のいわれを広く讃嘆し、私達にその素晴らしさを説いて下さいました。そして、国や時代や人種の差を超え、高僧知識方をしてお念仏の教えを、インド・中国・日本と三国を伝来せしめたのです。そうやって只今、私の元に届いて下さったのであります。

また第十七願によって、私達は阿弥陀仏が本願の行として選択された称名の価値が如何ほどのものがが知られます。称名は、ただ本願の行として誓われた正定業であるというだけでなく、その行体である名号は諸仏に讃嘆され、称せよと勧められている真実行であり、諸仏の讃嘆と徳を同じくする如来行であり、一切の衆生が善悪・賢愚の隔てなく平等に救われる唯一無二の成仏法だったのです。


諸仏が名号を讃嘆するのは、衆生に聞かせたい、与えたい、称えしめたいがためです。その元は、大悲の願(第十七願)にあったというのです。

それが釈尊を動かし、諸仏を動かし、七高僧、親鸞聖人、蓮如上人、その他多くの念仏者を動かして、今、私の元へ届き、そして私の口を動かして「なんまんだぶ、なんまんだぶ・・・」と称えられているのではありませんか。お念仏の根源をたどっていくと、「南無阿弥陀仏とたのませたまひて迎へん」という「弥陀仏の御ちかひ」、すなわち本願が根源にあるのです。

本願に、「我が名をほめられよう、称えられよう」と誓われているから諸仏は名号を讃嘆し、そのおかげによって私達は名号を聞かせて頂けたのです。また本願に、「本当に(至心)、疑いなく(信楽)、私の国に生まれられると思って(欲生我国)、我が名を称えよ(乃至十念)。必ず浄土に迎え取る(若不生者不取正覚)」と誓われているから、その本願のおのずからなる計らいによって、私達は本願を信じ念仏する者に育て上げられたのです。


『歎異抄』では、親鸞聖人は「念仏して弥陀にたすけられまゐらすべし」というよき人の仰せを被って、そのまま信じ念仏する他に何も無いと言い切られています。しかしその根源を言えば、

弥陀の本願まことにおはしまさば、釈尊の説教虚言なるべからず。仏説まことにおはしまさば、善導の御釈虚言したまふべからず。善導の御釈まことならば、法然の仰せそらごとならんや。法然の仰せまことならば、親鸞が申すむね、またもつてむなしかるべからず候ふか。

とあるように「弥陀の本願」でした。それは「行文類」も同じで、諸仏が称讃し、高僧方が勧める本願の念仏は、その根源を言えば

しかるにこの行は大悲の願(第十七願)より出でたり。大行釈

とあるように「大悲の願」、すなわち本願でした。確かに行の根拠を十八願とするか、十七願とするかの違いはありますが、お念仏の根源は本願にあるのだということ、これは間違いありません。

阿弥陀仏は念仏を称えよと仰っている

からこそ、今の南無阿弥陀仏があるのです。これが逆に

阿弥陀仏は念仏を称えよと仰っていない

としたら? そう、全て狂ってくるんです。自然法爾は成立しません。すなわち、一遍も私の口をついてお念仏が出てくることはなかったのです。


何も難しいことはありません。答えは決まっています。それを、立場がどうのとか理由をつけているだけなんです。だから、無理に本願から念仏を抜いてしまっているんです。だから、無理なこじつけ解釈をしなければならないんです。だから、『教行証文類』以外の御聖教を全て無視するという暴挙に出なければならないんです。

その結果、『教行証文類』さえ誤読して、教えの本質を見失っているんです。

浄土真宗の教えは念仏成仏です。その念仏成仏の法を受け容れた時に救いが成立します。それが信心正因です。信心が決定した平生の一念に往生また定まりますから、平生業成です。これらは皆同じことです。

親鸞聖人の勧めは、一心一行の選択本願の行信です。本願の念仏をふたごころなく一心に称える、これです。これが本願のおこころにかなった、利他円満の妙位、無上涅槃の極果をさとる因なのです。

それを何十年と他の仕事もせず、ひとすじに研鑽してきた結果が「阿弥陀仏は念仏を称えよと仰っていない」とは・・・。呆れて物が言えません。

念仏は、本となる本願に明確に誓われており、それゆえ釈尊も、七高僧も、親鸞聖人も、蓮如上人も、どなたも念仏を勧められています。次回以降、それを伺っていきたいと思います。

【考察】念仏の勧めについて(9)

親鸞聖人の主著は確かに『顕浄土真実教行証文類』(『教行証文類』)です。ただ、親鸞聖人の書かれたものは『教行証文類』のみではありません。親鸞聖人は生涯において実に沢山の書物を著して下さいました。略典である『浄土文類聚鈔』、仮名交じりで書かれた『三帖和讃』、『愚禿鈔』、『一念多念証文』、『三経往生文類』、『唯信鈔文意』、『一念多念証文』などなど。これらの他に『御消息』もあります。

それらは、全て親鸞聖人の教えです。違うでしょうか? そこには確かに七高僧、特に法然聖人の影響は大きく表れています。ただそれは、『教行証文類』とて同じことです。師説の正当性を証明されたのですから。

それに、『教行証文類』だけが親鸞聖人の真意が書かれており、その他の御聖教は書かれていないなどというものではないでしょう。他の御聖教も同様に、親鸞聖人が命として信じていた真意が書かれているはずです。

『教行証文類』以外の御聖教の根拠は全て無視し、『教行証文類』の一部のお言葉をこじつけ解釈をして

阿弥陀仏は念仏を称えよと仰っていない

と放言して回る坊さんは、一体何宗の布教使なのでしょうか。

阿弥陀仏の仰せは「我にまかせよ」であって「念仏を称えよ」ではない

こんなの、こじつけ解釈です。何でそうなる? 聖教にまったく根拠の無い珍説です。

ある時は「我にまかせよ」と「念仏を称えよ」は同じとか言っていましたが、同じならどちらか片方を取って片方を捨てるように説く必要はないはずです。同じである理由を説いて、両方勧めればいい話です。実際、親鸞聖人は本願の行である念仏一行をふたごころなく一心に称えよと両方勧められています。

明らかに聖教に反することなのに、多くの人に自信満々に語ってきた手前、今更間違いでしたと認められないだけです。もし上の説が間違いない真実の仏法であるなら、それを経論釈の上で証明して頂きたいものです。



さて、『顕浄土真実教行証文類』とは「浄土の真実の教・行・証を顕わす文類」ということですが、これについて梯實圓和上は

『顕浄土真実教行証文類』という題には、これから顕すこの書物の内容のすべてが顕し尽くされています。「浄土」とは往生浄土宗の略で、浄土に往生して、そこでさとりを完成することを目指す法門(教法)を意味しています。そのような往生浄土宗(浄土宗)のなかでも、とくに阿弥陀仏の本意にかなった「真実」の「教」と「行」(信を含む)と「証」が何であるかということを顕示するために、それらについて釈尊や祖師方が説き示された経、論、釈のなかから、それに該当する「文」章をそれぞれの項目ごとに分「類」して集めた書であるということを表す書名です。それゆえ「浄土の真実なる教行証を顕す文類」と名づけられたわけです。

と仰っています。仏教である限りは、「」(仏の説いた教え)「」(教に従ってなす行)「」(行によって得られるさとりの証果)の枠を出ません。法然聖人や浄土宗門下の方々が聖道諸宗から厳しい批判を受け、朝廷を通して念仏停止の弾圧を受けたのも、法然聖人の説くところが仏教の「教行証」からはみ出た異端の教えであるとみなされたからです。

そこで、法然聖人の示された選択本願念仏の教法こそが真実の仏教であることを証明するために、お弟子の一人として敢然と立ちあがり、著された書物が『顕浄土真実教行証文類』だったのです。

これは親鸞聖人が後半生の全てを捧げて著されたと言っていい浄土真宗の根本聖典です。そこには何が書かれているかというと、浄土真実の「教」と「行(信を含む)」とよって真実報土へ往生する(「証」)ことです。これは私達の側から言ったことですが、仏の側から顕せば、浄土真実の「教」「行(信を含む)」「証」を与えるということです。こうした本願力回向によって私達を本願を信じ念仏する者に育て上げ、往生成仏させるという法が仏教に存在することを、経・論・釈の上で顕かにした文類、それが『顕浄土真実教行証文類』ということです。

真実の「教」は『無量寿経』に説かれている教え、すなわち阿弥陀仏の本願です。そこに説かれる行・信によって真実報土へ往生し、さとりを開く(証)というのが浄土宗の真実の教え、浄土真宗ということです。ここで、証はさとりで、助かった結果ですから、問題は行・信なんです。聖人はこれについてまず、

つつしんで往相の回向を案ずるに、大行あり、大信あり。「行文類」大行釈

と仰せです。ここにして既に「往相の回向」とあるように如来より往生浄土の相状を回向される、恵み与えられることを言われ、そして「大行あり、大信あり」と行と信を同時に述べられています。行と信は分けて説かれているけれども、体は南無阿弥陀仏で一緒です。この分けるに分けられない不離不二の関係を、同時に出すことで顕されたのでしょう。その内、「大行」については

大行とはすなはち無碍光如来の名を称するなり。

であるというのです。つまり南無阿弥陀仏と称名すること、念仏が真実の「」であるということです。では何故にここでは「阿弥陀如来の名を称するなり」と言われずに「無碍光如来の名を称するなり」と言われたのかというのが問題です。これは『浄土論註』讃嘆門の釈から採られたものですが、これによって称名は如来讃嘆の行であって、こちらの計らいをまじえ、往生を祈願して称える自力の行ではないことを明かされているのです。

往相の回向」、「無碍光如来の名を称するなり」の文言から既に凡聖自力の行ではなく、本願力回向の行、他力の行であるのは明らかなのですが、「行文類」では経・論・釈とご自釈の展開によって、

念仏は第十七願によって回向された浄土真実の行、選択本願の行であること
念仏は弥陀、釈迦、諸仏の本意にかなった、浄土往生の正しき行業(正定業)であること
念仏は私の口から出るものであるが、それは如来の「助けるぞ」の呼び声(本願招喚の勅命)であること
念仏は浄土の祖師方のみでなく、他宗の祖師方も讃仰されている普遍の大行であること
念仏は凡聖自力の行ではなく、本願力回向の行(不回向の行)であること
念仏は行者に届いて帰命の信心となり、その信心が報土の真身を得証する因(信心正因)であること
念仏は生きとし生ける者を平等に成仏せしめる絶対唯一の教法(誓願一仏乗)であること
念仏は諸善に超え勝れた絶対不二の教であること
念仏の行者(の金剛の信心)は諸善の行者(の自力の信心)に超え勝れた絶対不二の機であること

等が明かされてゆきます。なお、今は念仏で統一しましたが、経文や破闇満願の文、

釈(散善義)に「専心」といへるはすなはち一心なり、二心なきことを形すなり。「専念」といへるはすなはち一行なり、二行なきことを形すなり。いま弥勒付属の一念はすなはちこれ一声なり。一声すなはちこれ一念なり。一念すなはちこれ一行なり。一行すなはちこれ正行なり。正行すなはちこれ正業なり。正業すなはちこれ正念なり。正念すなはちこれ念仏なり。すなはちこれ南無阿弥陀仏なり。「行文類」一念を釈す

の文、一乗海釈の文等から分かるように、真実の「」とは称名であり、正定業であり、念仏であり、名号であり、信心であり、また法そのものであるという実に沢山の意味が含まれていることは既に考察の過程で述べたことです。


念仏は弥陀回向の法であり、諸仏が勧める普遍の行であり、一切衆生が平等に救われる唯一無二の成仏法です。これらを経論釈の上で証明したのが「行文類」ですから、「行文類」は要するに

阿弥陀仏は念仏を称えよと仰っている

ことを明確に顕していると言えます。ご自釈を含めて引文の一つ一つが、念仏は阿弥陀仏の本意にかなった行であることを物語っているのです。ですから、『教行証文類』の上で言うならば、「行文類」全体が

阿弥陀仏は念仏を称えよと仰っている

証文です。私は「行文類」をおさえてこう主張しているのです。その逆の主張をするというなら、明確な根拠を示して頂きたいものです。根拠が示せないなら、それはその先生独自の説であって、仏法とは言えないでしょう。



【参照】
『WikiArc』三法立題
『WikiArc』称名

善知識方の教えに無い「宿善が厚くなる方法」を説いて本願力回向の法を与えず、会員に信心獲得させる気が全く感じられない高森顕徹会長(再び)

お知らせした通り、昨日予定されていた高森顕徹会長の講演は中止となり、その代わりに富山では高森会長の過去の講演ビデオが上映されたようです。それは、内容から伺うに約一ヶ月前の講演でした。

善知識方の教えに無い「宿善が厚くなる方法」を説いて本願力回向の法を与えず、会員に信心獲得させる気が全く感じられない高森顕徹会長

に一部内容を紹介していますので参照して下さい。


映画も大コケで会員にも不評らしく、財源確保に必死のようです。言っておきますが、

宿善を求めよ、厚くせよ

という教えは浄土真宗にはありません。

聞法は本願のこころ、南無阿弥陀仏の六字のこころをお聞かせ頂くのであって、「聞法」という善を積んで宿善を厚くして、救いに近づこうという自力的な意味合いはありません。

朝晩のお勤めにしても、聞法であり御恩報謝であって、「朝晩のお勤め」という善を積んで宿善を厚くして、救いに近づこうという自力的な意味合いはありません。

六度万行は、本来はこの土でさとりをひらく聖道門の行であって、往生行ではありません。往生行としては邪雑な行ということで、真宗では雑行と言われ、捨てよと教えられています。その雑行を勧めている時点で、親鸞会はもはや浄土真宗と呼べる団体でないことは明らかです。


浄土真宗は本願力回向の教えです。如来・浄土に向かって進むことも、にじり寄ることもできない、それどころかそんな気すらない、迷いの世界から離れられずに苦悩するよりない私達に、至極成就された本願力を回向して浄土に迎え取り、仏にしようという教えです。それは、南無阿弥陀仏の六字に結晶していますから、私達はそのこころをよくお聞かせ頂いて、この六字を疑いなく信受し、仰せのままにお念仏申すばかりです。

高森会長にとって会員は、組織拡大のためのコマでしかありません。残念ながら、これが現実です。会員の皆さんは、いつまでも高森会長の心を忖度していないで、また、親鸞会に希望をつないでいないで、今宵の後生と真剣に向き合い、本当に親鸞会の教えで救われるのかよく考えて頂きたいものです。

【お知らせ】高森顕徹会長の講演中止

本日予定されておりました、富山での高森顕徹会長の映画解説は中止となったそうです。

情報に寄りますと、ホームページには案内が変更されていないので、またビデオ聴聞か何かになるようです。これで今年何度目の青空か、いや間違えた、何度目の中止か知りませんが、迷惑な話です。尤も、会員は

「会長先生が我々の後生を案じてご無理を重ねられた結果だ」

などと妄想し、思考停止していることでしょう・・・。

会は、まだ映画『歎異抄をひらく』が上映している映画館に動員をかけるつもりかも知れません。本日上映予定の映画館は、検索したところでは全国7か所と非常に少なく、しかもミニシアターでの上映でしょうから、近隣の会員を招集すれば容易に満員御礼にできるでしょう。

一応、8月4日(日)には追悼法要をやると前々から宣言していますが、現段階ではそれも怪しいです。


以上、お知らせでした。

【考察】念仏の勧めについて(8)

私は大学などで仏教学も真宗学もまともに学んだことも無い、ただの一念仏者です。対してA先生は本願寺派の輔教であり、他にも様々な肩書きをお持ちのようです。また先生は大江淳誠和上が提唱したと言っている、「十八願を五願に開いた」という説に反対して「成就文を五願に開いた」という説を提唱し、事あるごとにそれが正しい浄土真宗の理解であるように披露しています。

そのような先生ですから、私にちょっとツッコまれた位であっさり自説を撤回するような人物でないこと位は目に見えて明らかでした。案の定、4月のとある会では『教行証文類』以外の御文は認めないという態度で

教行信証、親鸞聖人の言葉を元にして、アンタの言ってることは、どこに出ているんだ、教えろって言うんです。だから、「阿弥陀さまは 念仏称えよと言ってる」って人には、逆に聞きますよ。教行信証のどこを押さえて言っているんですか? 教行信証にどう書いてあるんです? 阿弥陀さまは「念仏申しなさい」と、教行信証のどこに書いてあるんですか?と聞きたい。

等と語っておられたようです。その挙句、自説を批判する者を正法誹謗呼ばわりしています。

前回示したように、親鸞聖人は法然聖人の

正定の業とはすなはちこれ仏の名を称するなり。称名はかならず生ずることを得。仏の本願によるがゆゑに『選択本願念仏集』引文

という教えに対して、

念仏成仏すべし決釈

と応答されています。「阿弥陀仏は念仏を称えよと仰っている」は自明の理です。なぜなら

仏の本願によるがゆゑに

だからです。阿弥陀仏の本願にそう誓われているからです。これも常套文句の「それは法然聖人の教えだ」で片付ける気か知れませんが、まさか、「行文類」においてご自身が信じてもない教えを引文するような親鸞聖人ではないでしょう。その他の御聖教やお手紙にしてもそうで、ご自身が信じてもない教えを書かれるような聖人ではないはずです。そういうことにすら認識が及ばないほど、先生の頭の中は成就文でいっぱいなのでしょう。そうやって聖教の言葉を選り好みして自説に都合の良い根拠を並べ、独自の解釈を披露して聞く者を自分の信者にしていくことの方が「カルト」だと思いますが・・・。



ところで『用管窺天記』どこにそんなことを仰ってるんだ?には、阿弥陀仏が称名を指示しておられるとして

仏のたまはく、〈菩薩(四衆)この間の国土において阿弥陀仏を念ぜよ。 もつぱら念ずるがゆゑにこれを見たてまつることを得。すなはち問いたてまつれ。いかなる法を持ちてかこの国に生ずることを得ると。
阿弥陀仏報へてのたまはく、来生せんと欲せば、まさにわが名を念ずべし。休息することあることなくは、すなはち来生することを得ん。
『般舟三昧経』

の文が紹介されています。ちなみに、彼の先生が言い驚かしているのは門徒ではなく同門の僧侶のようです。

上ブログによりますと、善導大師は『観念法門』にこの経文を引いて

仏のたまはく、〈専念するがゆゑに往生を得。

等と仰っているというのです。こうした念仏という行に就いて信を立てて、一心専念弥陀名号と称名正定業説を打ち立てたのが善導大師であり、その善導一師に依って選択本願念仏、専修念仏を説かれたのが法然聖人でした。称名は本願に誓われた往生の業である、つまり

阿弥陀仏は念仏を称えよと仰っている

と教えられたのが善導大師であり、法然聖人だったのです。その法然聖人によって救われたのが親鸞聖人です。その聖人が突如としてこの御二方の教えに反し

阿弥陀仏は念仏を称えよと仰っていない

などと言い出す訳がないでしょう。上ブログではこのように説く僧侶を

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ともあれ本願寺派の「信因称報説」を突き詰めると、愚直になんまんだぶを称えている者に、阿弥陀如来は「どこにそんなことを仰ってるんだ」と、大行であるなんまんだぶを否定するような坊さんを生み出すのであった。ある意味で、

つつしんで往相の回向を案ずるに、大行あり、大信あり。
大行とはすなはち無碍光如来の名を称するなり。この行はすなはちこれもろもろの善法を摂し、もろもろの徳本を具せり。極速円満す、真如一実の功徳宝海なり。ゆゑに大行と名づく。(行巻 P.141)

という、御開山の「行信」の破壊であろう。
坊さんの、知性と教養が邪魔をして、法然聖人の示して下さった、穢土と浄土という相対の二元論を飛び越えて、己の「自覚」としての、

しかるに末代の道俗、近世の宗師、自性唯心に沈みて浄土の真証を貶す、定散の自心に迷ひて金剛の真信に昏し。(p.209)

の自性唯心の輩(はらから)であろう。かえるべき浄土を持たない現実主義者の坊さんである。

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と厳しく書かれています。

尤も、『般舟三昧経』は浄土往生を願ってではなく、現世での般舟三昧の行によって見仏を目指すことが説かれている経典です。また、今の仏の説法の対機は菩薩(四衆)であって、末法の世に生きる煩悩具足の我々に直接関係するかは不明です。それに親鸞聖人は行の根拠としてこの文は引文されておりません。これは禅定し見仏するという諸善万行を勧めた文と見られたのかも知れません。

このようなことで、この御文を提出したとしても彼の先生への有効打となるかどうかは分かりません。なお、この御文については『WikiArc』般舟三昧にて林遊さんが考察されていますので参考までに。ただ何にせよ

阿弥陀仏は念仏を称えよと仰っている

ことは確かです。


ところで、真実経である『大無量寿経』は還相の菩薩を対機に説いた経典であると言われます。その『大経』には『観経』のように「称南無阿弥陀仏」と称名を指示する言葉は見当たりません。これと、本願ではなく成就文に腰を据えていることが相俟って、あのような本願の破壊とも受け取れる主張がまかり通ってしまい、一定層に支持されてしまうのかも知れません。

しかし、本願文の「乃至十念」は本願の行である称名念仏を顕すというのは、曇鸞大師、道綽禅師、善導大師以来の伝統ですし、当然親鸞聖人も引き継がれています。

また、『大経』流通分に至っては、釈尊は当来の仏である弥勒菩薩に念仏を付属しておられます。

仏、弥勒に語りたまはく、「それかの仏の名号を聞くことを得て、歓喜踊躍して乃至一念せんことあらん。まさに知るべし、この人は大利を得とす。すなはちこれ無上の功徳を具足するなりと。

この「乃至一念」は、法然聖人だけでなく親鸞聖人も「行の一念」と解釈されています()。弥勒付属の一念とは、念仏の一行を指しているというのです。もし阿弥陀仏が称名を指示しておられなければ、このような教説は無いでしょう。称名を指示しておられるからこその念仏付属です。

また、『大経』の異訳経である『大阿弥陀経』では、釈尊が阿難に称名を指示しておられます。

仏の言く、若(なん)じ起ちて更た袈裟を被て西に向て拝し、まさに日の所没の処に当りて、阿弥陀仏の爲に礼を作し、頭脳を以て地に著け、南無阿弥陀三耶三仏檀と言え。

三藐三菩提」=「」ですから、釈尊は阿難に「南無阿弥陀仏と言え」と仰っているのです。この時の釈尊は阿弥陀仏そのものですから、阿弥陀仏自身が念仏を付属し、称名せよと仰っていることになります。


いずれにしても

阿弥陀仏は念仏を称えよと仰っている

はどうあっても覆せない仏教の常識です。親鸞聖人の領解も当然そうです。『教行証文類』にさえ、あのような教えは書かれていません。それをどう誤読したらあんな説が出てくるのか、頭の中を覗いてみたいものです。



【参照】
『Wikipedia』般舟三昧経

【考察】念仏の勧めについて(7)

A先生側の方々も、先生を擁護したい気持ちはよく分かります。私も高森教徒だった頃は、高森会長の教えは絶対正しいと信じ、これに異を唱える人は教えがよく分かっていないからだと決めつけ、相手の主張は、受け容れるどころか「何とかこれを破ってやろう」という気持ちで苦々しく聞いていたものです。

しかし考えてみて下さい。A先生は大江淳誠和上が提唱したと言っている、「18願を五願に開いた」という説に異を唱えて、「成就文を五願に開いた」という説を立てて騒いでいます。それは良くて、私がA先生の主張した「阿弥陀仏は念仏を称えよと仰っていない」という説に異を唱えることは悪いのでしょうか?

また、A先生がなされることは破邪顕正で正しく、私がすることは正法誹謗で間違いなのでしょうか?

恵日会やどこかで、皆さんがA先生や他の先生の元で本願の御法を慶ばれているというのは大変素晴らしいことだと思います。そこは同じ念仏者同士、手を取って慶び合いたいところです。ただそれと、A先生が今主張している説が正しいかどうかということは別の話です。それを混同されないようお願いしたいと思います。

何度も書いている通り、「阿弥陀仏は念仏を称えよと仰っていない」という教えなど浄土真宗にはありません。あるのなら、それを経論釈の上で真実の仏法だと証明して見せて下さい。そうしたら私も黙ります。



さて、第十七願をどのような願と見るかによって、「行」の捉え方が違ってきます。

十七願は往生の因行である名号の成就を誓った願と見る説が一つ。もう一つは、十七願は諸仏が称名を勧めた願と見る説です。前者の説を採用する人たちは、大行とは「名号」そのものであると主張し、一方で後者の説を採用する人たちは、大行とは「他力の称名」であると主張しているようです。前者のグループを所行派、後者のグループを能行派と呼ぶ人もあります。

なお私は、この両説の内、片方を取り上げて片方を間違いだと非難するつもりはありません。両説のどちらも頷けるものがあり、共に片方だけでは説に弱点が存在するからです。大行とは諸仏讃嘆の名号であり、如実讃嘆の称名であり、弥陀・釈迦・諸仏の本意にかなった唯一の成仏法であると私は領解しています。そのことを経典の上で証明しているのが、大行釈以下の引文です。

ちなみに引文の中の『大阿弥陀経』は、『二十四願経』と言われるように本願の数が24です。本願の数が24であるのは『平等覚経』も同じです。この二つの経典は前期無量寿経と言われています。この二経は、『大経』の第十七願と第十八願に相当する願が一つの願として誓われています。

第四に願ずらく、〈それがし作仏せしめんとき、わが名字をもつてみな、八方上下、無央数の仏国に聞かしめん。みな諸仏おのおの比丘僧大衆のなかにして、わが功徳・国土の善を説かしめん。諸天・人民・蜎飛・蠕動の類、わが名字を聞きて慈心せざるはなけん。歓喜踊躍せんもの、みなわが国に来生せしめ、この願を得ていまし作仏せん。この願を得ずは、つひに作仏せじ〉『大阿弥陀経』引文

〈われ作仏せんとき、わが名をして、八方上下、無数の仏国に聞かしめん。諸仏おのおの弟子衆のなかにして、わが功徳・国土の善を嘆ぜん。諸天・人民・蠕動の類、わが名字を聞きてみなことごとく踊躍せんもの、わが国に来生せしめん。しからずはわれ作仏せじ〉『平等覚経』引文

ここでは、『大経』の十八願文に相当する部分に「わが名字を聞きて」と説かれています。これは本願成就文の「聞其名号」と同じです。そればかりか、『大阿弥陀経』四願と『平等覚経』十七願は、構造的に『大無量寿経』の第十七、十八願成就文と非常によく似ています。

阿弥陀仏は、御自身の名を十方諸仏に讃嘆させ、十方衆生に聞かしめて浄土に迎え取ろうと、諸仏の称名と衆生の聞名を一体に誓われていることが判ります。このように経典の根拠を見てみますと、「大行」とは「名号」そのものを指すと主張する説も頷ける話ではあります。

ところが、称名破満の釈の後に出てくる論釈の文では、諸仏の称名ではなく、また衆生の聞名ばかりでもなく、衆生の称える念仏が説かれています。ですから、「名号」そのものという理論に留まらず、それが衆生に届いて「信心」となり、「称名」となる、その「称名」を「大行」というんだという説も頷ける話であります。実際、「行文類」にて親鸞聖人は、大行のものがらを称名と指定されています。

特に親鸞聖人は、法然聖人の選択本願念仏論の真実性を証明すべく『教行証文類』を著されましたから、その内の真実行に称名の意がなければ当然おかしな話になります。法然聖人の

正定の業とはすなはちこれ仏の名を称するなり。称名はかならず生ずることを得。仏の本願によるがゆゑに『選択本願念仏集』引文

という教えに対して、

念仏成仏すべし決釈

と応答されたのが親鸞聖人ですから、「大行」に「称名」の意があることは自明の理です。なぜなら

仏の本願によるがゆゑに

だからです。淳心房が勝手に言ってるんじゃない。阿弥陀さまの本願にそう誓われているからです。


ともかくも、釈尊は諸仏のお一人として本願の名号をお説きになり、念仏を勧められましたが、これはその本となる本願に「衆生に我が名を聞かしめたい、称えしめたい、浄土へ迎え取って仏に成さしめたい」という大悲があったからです。阿弥陀仏の要請に応じて釈尊は『無量寿経』を説いて本願の名号を勧められたのですから、阿弥陀仏が念仏を称えよと仰っていなければ釈尊も勧められるわけがありません。

阿弥陀仏は念仏を称えよと仰っている

親鸞聖人の教えにおいては当たり前の当たり前のことです。これと真逆なことを主張して、いたずらに道俗や同門の僧侶を言い驚かさないで頂きたいものです。

【考察】念仏の勧めについて(6)

お隣のブログのコメント欄が随分と炎上していたようで驚きでした。全てのコメントを追うのでまた時間がかかってしまいました。あちらには時系列的に事の顛末をおおすじで書かせて頂きましたので、ご参考下さい。

随分とけなし合いのコメントの応酬がなされていてそこは残念に思います。ただ、私にはそれと同じくらい残念に思うことがあります。それは、「A先生がどのような御心であのように仰ったのか」を問題にする人はあれど、「阿弥陀仏は念仏を称えよと仰っていない」という教え自体が浄土真宗には無いと認識されている方がA先生側にはいらっしゃらないということです。それと、聖教の言葉をもってA先生の主張の真実性を証明しようという方もA先生側にはいらっしゃらないということです。

先生は『教行信証』の教えからそう仰ったようですが、『教行証文類』のどこを読んでもそのような教えは見当たりません。こんなやり取りをしていて思い出したのが、かつてmixiの三願転入の法論で、「こうへい氏」が19願を勧めた根拠を尋ねられて「教行信証全体です」とか宣っていたことです。


さて、本題に入ります。

第十七願の「称名」とは、少なくとも文面上は我々の称名念仏ではなく、諸仏が阿弥陀仏の名号を褒め讃えることです。その第十七願を、親鸞聖人は「行文類」の始めに「諸仏称名の願」と標挙して、真実の行を与えることを誓われた願と見られています。では、「諸仏称名」ということをどのように解釈すれば行を誓われた願名になるのでしょうか。

これについて、大きく二つの説に分かれます。一つは、諸仏の讃嘆を通して衆生に回向され、衆生往生の因行となっている「名号」を誓った願と見る説です。諸仏が称揚・称讃する名号はもともと往生の因行として如来が選択された行体ですから、讃嘆される所の法を主と見ていけば「この行(名号)を領受せよ」と、行を誓った願になります。これは、「行文類」で明かされる大行とは、衆生のうえに届いて、信心となり称名となってはたらいている「名号」そのものを指しているという学説を主張する人たちが多く採用している説です。

もう一つは、諸仏が称名を勧めた願と見る説です。諸仏の讃嘆には、経典を説いて広く仏徳を褒め讃える広讃と、名号を称えて端的に褒め讃える略讃とがあります。ここで、第十七願の「咨嗟」は広讃を表していますが、「称我名」は略讃を表していて、「咨嗟称我名」とは、諸仏が十方の衆生に「我が名を称えよと咨嗟する」ことと読むことができます。このように諸仏が称名を勧めた願と見れば、第十七願は行を誓った願と見ることができるというのです。この説は、「行文類」で明かされる大行とは他力の称名を指していると見る人たちが多く採用している説です。


親鸞聖人は、第十七願の称名には、もともとの意味であった広讃の称揚の義のほかに略讃の称念の意味を見られていたと考えられるのです。前回、聖人は「咨嗟称我名」を「咨嗟して我が名を称する」と読まれたと書きましたが、ここから、ほめられること(咨嗟)と別に、称えられること(称)を挙げられているように見えるのです。特に『唯信鈔文意』にはそれが顕著です。

おほよそ十方世界にあまねくひろまることは、法蔵菩薩の四十八大願のなかに、第十七の願に、「十方無量の諸仏にわがなをほめられん、となへられん」と誓ひたまへる、一乗大智海の誓願成就したまへるによりてなり。
『阿弥陀経』の証誠護念のありさまにてあきらかなり。証誠護念の御こころは『大経』にもあらはれたり。また称名の本願は選択の正因たること、この悲願にあらはれたり。この文のこころはおもふほどは申さず、これにておしはからせたまふべし。


『唯信鈔文意』ではまず第十七願のことを

「十方無量の諸仏にわがなをほめられん、となへられん」と誓ひたまへる、一乗大智海の誓願

と仰っています。ここでは、諸仏に名号を誉め讃えられることとは別に、諸仏に名号を称えられることを誓っているように見えます。更にその後には、

称名の本願は選択の正因たること、この悲願にあらはれたり

と言われています。この場合の称名は称揚ではなくて名号を称える称念のことであるのは明らかです。称名が本願において選択された往生の正因であることは、この悲願(第十七願)によって明らかに知ることができるというのです。

親鸞聖人は第十七願名に「選択称名の願」「往相正業の願」という名称を立てられています。これは、「称我名」を称名すなわち略讃の称念仏名をあらわす一面があるとみられたからでしょう。

ともあれ、諸仏讃嘆の名号は、人師の上では我々の称える念仏となっていることからも伺えるように、諸仏が名号を讃嘆するのは我々に聞かせるだけでなく、「名を称えよ」と称名を勧める一面もあるとみられるのです。

実際、『観無量寿経』では下三品に念仏が勧められ、流通分に至っては阿難に、それまで広く説いてきた定散二善ではなく、念仏を付属されています。『阿弥陀経』でも、顕わには一日乃至七日の自力念仏の勧めが説かれていますが、隠彰の義では真実の一心による他力念仏の勧めが説かれています。そして『無量寿経』でも、流通分では弥勒菩薩に念仏を付属されています。「行文類」にも

勧無勧対、念仏は十方の諸仏が勧められる法であり、諸善には諸仏の勧めはない。

とあります。それは、とりもなおさず本願の念仏が

自説他説対、念仏は阿弥陀仏自身が説かれた行法であり、諸善はそうではない。
選不選対、念仏は如来が選び取られた法であり、諸善は選び捨てられた法である。
有願無願対、念仏は本願の行であり、諸善は本願の行ではない。


等とあるように阿弥陀仏自身が説かれた行法であり、阿弥陀如来が選び取られた法であり、阿弥陀仏の本願の行であるからです。それゆえ、釈尊は阿弥陀仏の第十七願の要請に応じて娑婆世界に応現し、『無量寿経』を説いて阿弥陀仏の本願を讃嘆し、南無阿弥陀仏の名号のいわれを説き明かされたのです。


諸仏が讃えるのも南無阿弥陀仏。我々が称えるのも南無阿弥陀仏。諸仏と我々とは大変な差がありますが、どちらも南無阿弥陀仏で一緒です。如実讃嘆の称名は、諸仏の讃嘆と徳を同じくすると先徳が教えられる通りです。称名は確かに私達の口にあらわれ出ていますが、決して人間の煩悩妄念から出たものではなく、真如一実の功徳法海から流れ出てきた如来行だったのです。

称名はすなはちこれ最勝真妙の正業なり。正業はすなはちこれ念仏なり。念仏はすなはちこれ南無阿弥陀仏なり。

の聖語の通り、如実の称名は往生の正定業であり、正定業は念仏であり、念仏は南無阿弥陀仏です。こうした往生の正定業である念仏、南無阿弥陀仏を回向するというのが第十七願です。それで祖師は、名号を誓った願、諸仏が称名を勧めた願ということで、真実行である念仏の根拠を第十七願に見出されたのでしょう。

念仏は阿弥陀仏がその徳を全て収め、これで助かってくれよと大悲を込めて与えられている本願の行ですから、本願の仰せを計らいをまじえずに受け容れ、仰せの通りに称名させて頂くことが阿弥陀仏の本意にかなうことであるのです。それを親鸞聖人は

弥陀の本願と申すは、名号をとなへんものをば極楽へ迎へんと誓はせたまひたるを、ふかく信じてとなふるがめでたきことにて候ふなり。信心ありとも、名号をとなへざらんは詮なく候ふ。また一向名号をとなふとも、信心あさくは往生しがたく候ふ。されば、念仏往生とふかく信じて、しかも名号をとなへんずるは、疑なき報土の往生にてあるべく候ふなり。

と仰ったのだと拝します。なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ・・・

【考察】念仏の勧めについて(5)

阿弥陀仏が念仏を勧められているかどうかについては、本願文の「乃至十念」の文と、それについて解釈されている親鸞聖人の『尊号真像銘文』の文を紹介しました()。何度も言いますが、

親鸞聖人は「念仏を称えよと仰っている」本願であると解釈されている

です。その根拠は数多くあり、逆に

阿弥陀仏は念仏を称えよと仰っていない

と教えられた根拠はただの一箇所もありません。この意味がお判りにならない方が少なくないようで困ったものです。なお親鸞聖人のお言葉を「それは法然聖人の教えだ」などといって撥ね付けるようならば、浄土真宗としての議論はもはやそれまでです。


なお、親鸞聖人は本願の念仏が浄土真実の行、選択本願の行である根拠を第十七願に見出しておられます。法然聖人や聖覚法印の御指南をもとに、諸仏が阿弥陀仏の名号を称揚讃嘆するのは、衆生に聞かせ与えるためであるというので、称名は大悲の願である第十七願によって回向されたものであると教えられています。親鸞聖人はしばしば第十七願のことを「称名の悲願」とも仰せられています。

第十七願とその成就とによって、諸仏のお一人として釈尊はこの娑婆世界に応現し、諸仏讃嘆の名号の尊いことをお説き下さいました。それによって私達は、これを頂いて称える者を往生成仏させるという大悲の願心を聞かせて頂き、仰せの通りに称名して浄土往生の身とさせて頂くことができるわけです。

諸仏称名の願『大経』(上 十八)にのたまはく、「たとひわれ仏を得たらんに、十方世界の無量の諸仏、ことごとく咨嗟してわが名を称せずは、正覚を取らじ」と。{以上}

親鸞聖人は、「行文類」にこのように引文されています。

ところで第十七願の「咨嗟称我名」とは、咨嗟もほめる、も称揚称讃ということでほめるという意味で同義ですから、本当は「我が名を咨嗟し称する」と読むべきところです。それを「咨嗟して我が名を称する」と読まれたということは、咨嗟讃嘆することと、我が名を称することとを分けられているように見えます。これについては、機会を改めて伺いたいと思います。

ともあれ、『教行証文類』の上で「阿弥陀仏が念仏を称えよと仰っている」経典の根拠を挙げるとすれば、この第十七願や、後に挙げられている重誓偈の文、第十七願成就文等ということになります。それは、前回示した決示の文から伺えば明らかでしょう。更には『無量寿如来会』や『大阿弥陀経』、『平等覚経』と異訳経の文を、最後に『悲華経』の文を引いてこれを助顕しています。


そもそもなぜ親鸞聖人が行の根拠を第十七願に見出されたのかという話です。親鸞聖人以前は、行の根拠は第十八願の「乃至十念」でした。ところが、法然聖人の選択本願念仏論に寄せられた論難の一つに

本願の十念がどうして称名であり得るのか

という難があり、これを論証しておかなくてはならなかったのです。『興福寺奏状』第七の「念仏を誤る失」にも、一口に念仏と言っても口称念仏に限定されるものではないという趣旨のことが論じられていますし、明恵上人高弁は『摧邪輪荘厳記』で心法と色法と混乱すること甚だしいと論難しています。これについて

『WikiArc』トーク:一念多念証文 第十六講第十七願文の文意

には次のように書かれています。当記事では一部のみ略出します。

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 それは、第十八願の「乃至十念」を称名と見る有力な手がかりを示されたものということができる。法然聖人の選択本願念仏論に寄せられた論難の一つに、本願の十念がどうして称名であり得るのかということがあった。

 『大経』の中に称名という言葉が出ていないことが大きな問題であったわけである。異訳の『大阿弥陀経』(『真聖全』・一七九頁)の霊山現土の初めに釈尊が「南無阿弥陀三耶三仏檀」と言えといわれたのに応じて、阿難が「南無阿弥陀三耶三仏檀」といったという言葉はあるけれども、魏訳の『大経』には名号を称えるということはでていない。善導大師が本願の十念を称名とされたのは、『選択集』「本願章」(『註釈版聖典七祖篇』一二一二頁)にいわれているように、『観経』の下下品の「具足十念称南無阿弥陀仏」と合わせられたからであった。しかし『大経』に称名という言葉が出ていないということは、十念を称名とする文証がないことになる。鎮西派の派祖の弁長上人も『浄土宗名目問答』上(『浄全』一〇・三九九頁)でこの間題を取りあげて、「この難、この宗の極めて大事なり、よくよくこれを習ふべし」といい、経文の義を料簡するということと、三昧発得の義という二義を挙げて論究されていた。経文の義を料簡するとは、本願成就文に聞其名号といわれているから、名号に対応する本願の十念は称名であるとするものであり、三昧発得の義というのは、三昧発得の聖者である善導大師の釈であるから信受すべきであるという意味であった。この二義は法然聖人から直伝された義であるといわれていた。

 しかし「聞其名号」の出てくる元である第十七願に着眼して、諸仏が勧められている事柄の中に称名があるとみて、その「咨嗟称我名」から称名という語を導き出したのは親鸞聖人であった。

 それは法然聖人が[三部経大意』(『真聖全』四・七八四頁)に、第十二・十三・十七・十八願を挙げて、

つぎに名号をもて因として、衆生を引摂せむがために、念仏往生の願をたてたまへり。第十八の願これなり。その名を往生の因としたまへることを、一切衆生にあまねくきかしめむがために諸仏称揚の願をたてたまへり、第十七の願これなり。


といわれたものを承けて展開された説であろう。またそのことを強調されたのが聖覚法印の『唯信抄』(『註釈版聖典」一三四〇頁)であった、そこには、

これによりて一切の善悪の凡夫ひとしく生れ、ともにねがはしめんがために、ただ阿弥陀の三字の名号をとなへんを往生極楽の別因とせんと、五劫のあひだふかくこのことを思惟しをはりて、まづ第十七に諸仏にわが名字を称揚せられんといふ願をおこしたまへり。この願ふかくこれをこころうべし。名号をもつてあまねく衆生をみちびかんとおぼしめすゆゑに、かつがつ名号をほめられんと誓ひたまへるなり。しからずは、仏の御こころに名誉をねがふべからず。諸仏にほめられてなにの要かあらん。


といわれていた。このような法然聖人・聖覚法印の第十七願観を承けて、親鸞聖人は、真実教の根源を第十七願に見出すとともに、第十八願の念仏往生の法義の根源を第十七願の諸仏所讃の名号に見出し、諸仏が名号を咨嗟し、称えられるといって、称名の必然性を諸仏の教位において確認されたのであった。

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このような歴史を知らなかったなら、本願成就文を根拠に行を第十七願、信を第十八願に開かれた、成就文を五願に開いたという説は尤もに感じられてしまうかも知れません。勿論、成就文の存在は全く無関係とは言えませんが、親鸞聖人が第十八願の「乃至十念」の根拠を第十七願に見られたというのは別に辻褄合わせでも何でもなく、論難に対する応答という自然の流れだったのです。

少々長くなりましたので、続きは記事を改めたいと思います。

【考察】念仏の勧めについて(4)

私達のような凡夫が速やかに生死を離れ、浄土に往生しようと思ったら、「念仏を称える者を極楽に迎えよう」と誓われた本願の仰せを疑いを差し挟まずに受け容れ、本願の仰せのままにお念仏を申して、ひとえに往生を阿弥陀さまにおまかせするだけです。これだけです。これを『歎異抄』第十二条には

他力真実のむねをあかせるもろもろの正教は、本願を信じ念仏を申さば仏に成る、そのほかなにの学問かは往生の要なるべきや。

と仰せられています。愚直に浄土より届いたなんまんだぶを称え、なんまんだぶに往生をまかせて、後生をくつろがせて頂く。あとは、縁に触れ折に触れ、一生涯お念仏を申して、如来広大の恩徳、師主知識の恩徳に思いを致して慶びつつ、浄土へ向かって生きてゆく。このことが、法然聖人の教えられた

ただ念仏して弥陀にたすけられまゐらすべし

の聖語にズバリおさまっています。教義の本質は何も難しくない、本当に簡単な教えなのです。逆に、複雑で難しい教えあれば、それを理解することのできる一部の賢善な者しか救われません。

ところが、簡単なるが故に、それはどうにでも取られてしまうという危険性があり、またこの教えを、既成仏教の方々を相手に真実の仏法であると証明することは反って大変な大事業だったわけです。『教行証文類』が非常に複雑で難しいのは、こうした念仏往生の法義の真実性を経論釈の上で理論的に証明した書物だからです。


ご承知のように、浄土宗には聖道諸宗を始め、朝廷からも激しい非難が加えられました。その項目は多岐にわたりますが、中でも手厳しい非難は専修念仏という行法に対する論難と、菩提心撥去に対する論難でしょう。

なぜ、凡夫が南無阿弥陀仏と仏名を称えたくらいのことで阿弥陀仏の報土に往生することができるのか。一口に念仏と言っても無漏の定心念仏が最上であって仏名を称えるということは最下の行ではないか。それを法然は、さも本願に誓われた最上の行のように言っているが間違いも甚だしい。その上、念仏以外の行をする必要はないと、様々な経典に広く説かれた諸善万行を捨てさせることは仏法を破壊する謗法罪である。

簡単に言いますと、前者についてはこのような非難が加えられたのです。

こうした論難を破って、法然聖人の明かされた選択本願念仏の教えが真実の仏法であることを証明する場合、どうしたらよいでしょうか。

仏教である限りは教行証の枠組みを出ません。仏陀の教説にかなった教え、すなわちその宗の拠り所となる経典があり、そこに説かれる行を実践して、説かれている通りのさとりを得る。その教行証を示し、そしてそれは歴代の高僧方が教えてきた真実の教法であると菩薩方の論や高僧方の釈によって証明する。これによって、浄土宗の教えが教行証に則った、れっきとした仏教であることを示す以外にはないでしょう。

その内、教は『無量寿経』であると断定されますが、問題は次の行です。

なぜ、凡夫が南無阿弥陀仏と仏名を称えたくらいのことで阿弥陀仏の報土に往生することができるのか。

これに明確に回答し、本願の念仏は弥陀、釈迦、諸仏の本意にかなった大行であり、法然聖人ばかりでなく、インド・中国・日本の高僧方が広く勧められた最高の仏道であると証明しなくてはならなかったわけです。これが「行文類」が撰述された動機です。ですから、「行文類」だけは経典は勿論、七高僧すべての文が引文され、そればかりか広く聖道の祖師方の文までも集められて、選択本願念仏という行法の真実性が証明されているのです。


『教行証文類』は相手が同行や庶民ではなく、聖道諸宗の学僧でしたから、経・論・釈の文を縦横無尽に引いて非常に複雑で重厚な学術書として仕上がっています。ですから、一様な理解を許さないのは当然です。確かにそこに説かれる御文の一つ一つを正確に知るには、その道一筋に何十年も研鑽しなければ分からないものかも知れません。ただ、現段階でも、「行文類」で証明したかったことの一つは、

なんまんだぶは本願力回向の行であって自力の行ではないんだ、どんな行よりも勝れた最高の行なんだ、浄土往生の決定版のおこないなんだ、なんまんだぶの他に「往生のみち」はないんだ

ということに尽きるということは理解できます。それが高僧方の数々の念仏讃仰の文や、「念仏成仏」の法語、選択易行の至極を顕開された行一念釈、そして

これすなはち真実の行を顕す明証なり。まことに知んぬ、選択摂取の本願、超世希有の勝行、円融真妙の正法、至極無碍の大行なり、知るべしと。

【現代語訳】
これらの経論釈の文は、念仏が真実の行であることを顕す明らかな証文です。これらによって明らかに、念仏は如来が選び取られた本願の行であり、他に超え勝れたたぐいなき行であり、万物が分け隔てなく円に融け合っている真実が顕現している正真の法であり、何ものにも妨げられることなく衆生を救う究極の大行であるということを知ることができました。

決示のお言葉、更には一乗海釈のお言葉などから伺うことができましょう。


こうした大行である念仏には、当然大信を具足しています。その大信を別に開いて顕したのが「信文類」です。念仏という行法の尊高性を示したのが「行文類」とすれば、「信文類」はその法を受け容れる機受の極要を示したものと言えるでしょう。

万人を救う法は成就して届いていても、私が受け容れなければ救いは成立しません。救いの法を信受した時に、万人の往生の道が私の往生の道となります。それで、念仏成仏という法を機の上で適示するならば、信心正因のいわれが自ずから明らかになってきます。こうした念仏成仏と信心正因との交際を明らかにされたのが両重因縁釈でありました。

親鸞聖人の上では、念仏成仏といっても信心正因を離れたものではなく、信心正因といっても念仏成仏の法義から逸脱したものでもありませんでした。それがいつの間にやら、信心正因ばかりが強調されて本願の行である念仏が本願から消えてしまいかねない事態に陥っています。

あるいは「無条件の救い」という表現にこだわっているからなのか、あるいは一切の自力を捨てて他力に帰するという教えを誤解してなのか、真宗には我々の上に「行」が無いかのように説く者、聞く者が一定層いるようです。そのような方々に念仏を勧めると、どうも自力の勧めの如く、あるいは、無条件の救いに私の念仏を足して救いが成立すると言っているかの如く聞こえてしまうようなのです。

念仏は、本願の行として誓われ、私達に与えられている行ですから「不回向の行」であると言われます。それは、「念仏を称える者を極楽に迎える」という本願を受け容れて、その仰せに順って一声、十声、そして一生涯称える本願随順の行でした。要は南無阿弥陀仏につかえている行為であって、自力を募る行、自力の行とは質を異にするものだったのです。


私達は、阿弥陀さまから「なんまんだぶ」という素晴らしい行を与えられているのです。それを疑いを差し挟まずに領受したのが信心であり、届いたまま口に出ているのが称名であって、こうした行も信も「如来の御ちかひ」以外の何物でもなかったのです。私達は本願の仰せのままに「南無(我にまかせよ)阿弥陀仏(必ず救う)」を受け容れて(信)、仰せのままに称名して(行)、往生を一定と期するべきであります。

なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ・・・
プロフィール

淳心房&しゃあ

Author:淳心房&しゃあ
(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


(しゃあ)
平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
singikensho@yahoo.co.jp
(スパム防止のため@を大文字にしてあります。メール送信時は小文字に変えて下さい。)

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