高森の教行信証(総序編) - 阿弥陀仏の本願は、苦しみの波の絶えない人生の海を明るく楽しくわたす大船である。この船に乗ることこそが人生の目的(=絶対の幸福)だ

親鸞聖人が「真実の教行信証」を教えられたのに対して、高森顕徹会長は独自の教行信証を会員に説き与えています。「真実の教行信証」と親鸞会の教えの違いは歴然で、浄土亜流どころか全く別物、まさに「高森教」「高森の教行信証」と名付けるのがふさわしいかと思います。

それが証拠に、『教行証文類』総序のお言葉の解説からして既に「浄土真宗」ではありません。

ひそかにおもんみれば、難思の弘誓は難度海を度する大船、無碍の光明は無明の闇を破する恵日なり。

会員なら誰でも知っている言葉だと思いますが、これを高森顕徹会長は

弥陀の誓願は、私たちの苦悩の根元である無明の闇を破り、苦しみの波の絶えない人生の海を、明るく楽しくわたす大船である。この船に乗ることこそが人生の目的だ」(『なぜ生きる』p.115)

と訳しています。これで正しいだろうと信じ込んでいる会員ばかりでしょうが、違います。「難思の弘誓」「難度海」「無碍の光明」「無明の闇」どれも正しくありません。

難思の弘誓」=「弥陀の誓願」≠「どんな人をも 必ず助ける 絶対の幸福に

ですし、

無明の闇」=「疑情」=「自力疑心」≠「後生暗い心

ですし、

無碍の光明」=「無明の闇を破する恵日」≠「後生明るくする、智慧の太陽」(『なぜ生きる』p.282)

です。どれをとっても「高森教」が混じっているので、会員は親鸞聖人の仰せをそのままお受けできません。


難度海」にしても当然「高森教」が混じっています。高森会長は「苦しみの波の絶えない人生の海」とか言っていますが、そんな低レベルの話ではないのです。そもそも「難度海」という言葉は、『十住毘婆沙論』易行品

かの八道の船に乗じて、よく難度海を度す。みづから度し、またかれを度せん。われ自在人を礼したてまつる。

にあって、聖人はこれを「行文類」に引文されています。龍樹菩薩は、聖道門の八聖道(八道)を船に譬え、その船に乗って難度海を度するとされたのです。

難度海」とは生まれてから死ぬまでの人生だけの事ではありません。「」とは、過去無量劫から未来永劫に亘って生まれ変わり死に変わりを繰り返し、永遠に苦しみ彷徨い続ける、この迷いの世界の広く果てしないさまを例えたものです。それは、「難度海」を「生死の苦海」と表現されていることからもお判りになるかと思います(『高僧和讃』)。そして「度し難い」とは、こうした広く果てしない迷いの世界を出ることが難い、つまり我らは六道から離れられない、出離できないことを仰ったものです。この世を生きていくことが苦しいとか、そういった低次元の話ではないのです。

このようなことですから、「阿弥陀仏の本願」が「難度海」を「度する大船」であるというのは、この広く果てしない迷いの世界を自分の力では出離できないことを知って、「阿弥陀仏の本願」が成就したすがたである「南無阿弥陀仏」という「大悲の願船」によって迷いを離れなさいと、18願に帰依することを教えられたものです。要は二種深信の言い換えです。これは世間的な幸福云々を越えた出離を目指した上での非常にレベルが高い話であって、人生を明るく楽しく生きるだとかいう低レベルの話ではないのです。


この非常にレベルが高い話を、低俗な話に貶めている一つが、「難度海」の説明の際に必ずと言っていいほど出てくる丸太や板切れの話です。「難度海」にはたくさんの丸太や板切れが浮いていて、それらは金や財産、地位や名誉、友人や恋人、妻子、才能、健康、仕事、趣味、生き甲斐などである。私達はそれらにすがっては裏切られ、すがっては裏切られを繰り返してやがて力尽きて死んでゆく等と言っていますが、親鸞聖人の上にはそういった丸太や板切れについての言及はありません。聖人は先ほども申し上げたように、世間的な幸福云々を越えた出離を目指した上で、自分の力では出離できないことを知って18願に帰依し、念仏成仏せよと教えられた方です。木の深信」という珍しい信心を獲た人物がこだわっている丸太や板切れなどは、最初から問題外なのです。

高森会長のこの例えは、当てにならないものを信じて生きているという点では判り易いですが、「難度海」を説明するには大分不適切です。例えでは、大船に乗るには丸太や板切れを捨てなければなりませんが、本願を信じ念仏するようになっても丸太や板切れにすがる人生は変わりません。相変わらず信じて、たよりにして、あて力にして生きていくのです。命や健康を信じて生きているし、金や財、妻子をあてにして生きています。滅多なことはなかろう、今日も無事に過ごせるだろうと日々暮らすことは変わりません。時に信じているものに裏切られることもありますが、そうしたら大なり小なり苦しむのです。信心獲得したら丸太や板切れをあて力にしない人生になるように錯覚する方もあるかも知れませんが、そうではありません。

第一、丸太や板切れの話をするのであれば、「高森会長も丸太」「親鸞会も板切れ」と、知識や組織をあてにすることをも捨てよと説かねばなりません。ところが現実はどうでしょう? 会内では「誰が何と言おうと高森先生が正しい」「親鸞会に間違いない」ということを強調する話ばかりで、会員の皆さんは教義や組織への批判には耳を塞いで頑なに信じ込んでいませんか? 疑問に思うことがあっても、「教義は正しいがついていけない自分が悪い」と親鸞会を絶対視していませんか? 本当にまことなのは「ただ念仏のみ」「南無阿弥陀仏」だけだと言わなければ丸太や板切れの話にはならないのですが、そんなことを言ったら「謗法罪」だとか言って「除名」になってしまうので誰も言いません。高森会長や組織に捨てられるのを恐れているのです。


ところで、高森会長は崇高な本願を低俗な本願に貶めるだけに留まらず、阿弥陀仏の救済法についても間違った認識を聞く者に植え付けています。「救助の大船の厳存と、方角を明示されているのが親鸞聖人である(『なぜ生きる』p.182)」などと言い、高森会長が指し示す方角の先に大船があって、そこまで泳いで求めていった先に大船に乗れるかのような印象を与えています。しかし、大船に乗せられるのは現在只今であり、すべて阿弥陀仏のお力によってであり、私の力は必要なく、また私がどこかまで泳いでいく必要はありません。逆に私が何かしなければならないと自力を加えること自体が間違いになります。ここの所は、一部では真実らしい説明もあると言えばあるのですが、「高森の教行信証」が頭に染み付いていると、突然そんなことを言われても今まで受けてきた教えが邪魔をして受け容れられないでしょう。


それから、実際に海で溺れ苦しんでいる人が救助されて船に乗れば、その前と後でガラリと変わるし、変わったことがハッキリ分かるでしょう。しかし、あくまでも譬えですから、実際に救助された時のような体験をするわけではありません。私達としては、ただ「助けるぞ」の仰せを聞き受けて念仏し、後生・往生という大事は私の手に負える問題ではないと自力を離れるだけです。本願力におまかせして念仏するようになっても、私は何も変わっていないし、周囲も何も変わりません。

大悲の願船に乗せられると同時に、私たちの苦しみの人生は、幸せな人生にガラリと変わります

だとか映画の蓮如上人に言わせていますが、私達の悪業煩悩は絶えず、また罪が全て消えるわけではありませんからこうは言えません。相変わらず欲まみれであり、些細な事ですぐに腹を立てるような私達です。物事がうまくいかなかったり、悪事災難がやってきたら当然苦しみますよ。信心獲得のその時から、念仏と何の関係があるのか分からないがとにかくとてつもなく大きな幸福感に満たされてそれがずっと続くなどということはありません。幸福感は外からの作用や、内からの煩悩によって常に変化します。

他力の信心」≠「絶対に崩れない、変わらない幸福感

です。幻想的な幸福感を夢見て、そんな幸せになりたい、なれるんだと親鸞会で聞いている人は多いと思いますが、そんな幸福感を獲たのが「他力の信心」などとは思わないことです。

譬如日月覆雲霧 雲霧之下明無闇(『正信偈』)

のお言葉にしても、どんなに煩悩が逆巻こうとも煩悩が往生の妨げとはならないことを言われたのであって、私達の心が明るく愉快になることを譬えられたわけではありません。


以上、延々と述べて来ましたが、要は高森会長の教えは

阿弥陀仏の本願は、苦しみの波の絶えない人生の海を明るく楽しくわたす大船である。この船に乗ることこそが人生の目的(=絶対の幸福)だ。聞く一つで、人生を明るく楽しく生きることができる。だからワシの話だけをド真剣に聞け

という程度のもので、まかり間違っても「浄土真宗」でもなければ「仏教」でもありません。幻想的な楽をエサに組織拡大を図らんとする、ただの一新興宗教であり、「高森教」と名づけるのが相応しいと冒頭申し上げた通りです。仏語や浄土真宗の言葉はそれを真実らしく見せかけるだけの装飾品に過ぎません。会員の皆さんは、こうした一新興宗教の教義に満足せずに、正しい浄土真宗を聞き受けて念仏して頂きたいと思います。



【参照】
『WikiArc』難度海
『飛雲』木の深信が立った高森顕徹会長
『飛雲』愉快な信心の高森顕徹会長と愉快な仲間たち

公園の水道が凍っていて・・・

今週は最強クラスの寒波が2つも日本上空にあるらしく、とにかく寒いです。東京は48年ぶりの寒さとなったそうです。日本海側を中心としてものすごい雪になっています。月曜日には関東でも大雪が降りましたが、その夜、奇しくも子供達は『アナと雪の女王』を見ていました。その中の、

国中が 雪と氷に包まれたの!

というセリフ通り、自分の住んでいる一帯が雪と氷に包まれてしまいました(苦笑)

木曜朝に、子供が公園に行きたいというので連れていくと、公園はまだ真っ白に近い状態でした。水飲み場の水道管は凍っていて水が出ませんでした。こんなにも冷えていたのかと思うと共に、水道設備が壊れていなくてもこうして凍ってしまえば水が出ないことがあるのだなと改めて知らされました。


お釈迦様によって説かれ、七高僧方、親鸞聖人、覚如上人、蓮如上人と脈々と受け継がれてきた阿弥陀仏の本願念仏の教えが私まで届き、現在こうして本願力をたのんでお念仏申させて頂いております。なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ。数え切れない有名無名の方々が「弥陀の法水」のパイプとなり、今私の口という蛇口からなんまんだぶが出てきております。有難いことです。

ところが、この教法伝持に際して、水道管の例えで言えば途中で混ぜ物を加えたり、パイプを詰まらせて飲めなくさせる人がいるのは今も昔も変わりません。古くは中国で摂論宗の一派が念仏別時意説を唱えたために当時念仏する人がいなくなってしまったなどということがありました。法然聖人の教えを誤解して、諸善も19願に誓われているのだから往生の正因となるなどと専修念仏の教えを乱す輩も現れました。善鸞も、三業惑乱の智洞も、本願念仏の教えを誤り、邪義を唱えた者達の一人です。

せっかく親鸞聖人のお名前を知り、本願念仏の教えが目の前にあっても、そこに邪義を混入されてしまえば「弥陀の法水」は飲めません。私も約8年の間、そうしたことで本願を信じ念仏することができませんでした。私のかつての仲間達も、未だ「弥陀の法水」でない、言わば泥水をすすらされてしまっていることと思います。今回、凍結した水道管を見て、私も微力なりとも教法伝持の一旦を担うと共に、泥水を精製して与える者達の邪義を暴かねばならないと改めて思いました。なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ。

成就文から念仏を抜き去り、更に信心も抜いてしまう高森顕徹会長

前回、高森顕徹会長が話の中で

其の名号を聞くとは、本願を聞く一つ。信ずる一つではない。

と発言したと紹介しました。高森会長は「」と「」の関係も全く知らないようで、これで「浄土真宗」「親鸞」会という団体の会長なのかとため息をつかずにはいられません。早くこの看板を下ろした方が身の為です。

真宗では「聞即信」と言われるように、本願を疑い無く聞くことが、取りも直さず信心です。聞くことがそのまま信心であり、聞のほかに信はありません。この「聞即信」も親鸞会のような、

高森会長の話を真剣に「聴」き続け、おつとめ、財施、破邪顕正等の活動をし続けていった先についに求道の絶壁に行き詰まり、助かる望みが断ち切られて「地獄は一定すみかぞかし」と無間のドン底に叩き堕とされた時、間髪入れずに阿弥陀仏のジカの呼び声が聞こえ(聞)、その一念(即)に信心決定(信)する

などということではありません。会員の皆さんはこのような摩訶不思議な体験を「聞即信の一念」だと思い、それを縦の線になぞらえて、そこまで進もうと横の線の道を行こうとしていると思いますが、そうやってこちらから阿弥陀仏の救いを掴みにかかっているのを自力と言うのです。

自力疑心」=「無明の闇

ですから、こうした親鸞会の「横の線の道を進む教え」は「無明の闇の教え」と言えましょう。これで「浄土真宗」とか「親鸞聖人の教え」とか、果ては「信心決定」とか「阿弥陀仏の救い」と言われても困ってしまうのですよ。


さて、本願を聞くことがそのまま信心でありますから、

本願を聞く」=「本願を信ずる

で、この二つはイコールです。この「信ずる」というのは言うまでもないと思いますが、当然自力の信ではなく「本願力回向の信心」です。

「聞」といふは、衆生、仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし、これを聞といふなり。信心といふは、すなはち本願力回向の信心なり。「信文類」

お前は決して迷いの世界を出られん者だぞ。そのお前一人を助けようと阿弥陀仏が五劫永劫の願行を成就して本願をお建て下されたのだ。今や本願は南無阿弥陀仏と成って私にはたらいているぞ。「必ず助けるぞ」という呼び声と成って絶えず私を喚んでいるぞ。往生のためにはただ南無阿弥陀仏に身も心もまかせて念仏しなさいよ、という「仏願の生起本末」を疑い無く聞くことがそのまま信心です。「煩悩具足」の自分のすがたばかり聞いていたのでは救いはありません。「煩悩具足」の自分を助ける本願を、その本願が成就したすがたである「南無阿弥陀仏」の六字のこころを聞かないことには救われるも何も無いのです。


こうした「本願を聞く」ことがイコール「本願を信ずる」ということなのですが、

本願を聞く一つ。信ずる一つではない。

ということは、本願を聞くだけで信心は無いということなのでしょうか? 信心の無い宗教など存在しないはずですが、成就文から念仏を抜き去り、更に信心も抜いてしまうとはさすが「高森教」です。そういえば、

一、われら親鸞学徒は、人生の究極の目的は、絶対の幸福を獲るにあり、絶対の幸福は、真実の宗教を信ずることによってのみ獲得できることを信じます。
一、われら親鸞学徒は、阿弥陀仏の御本願を聞信すれば、一念往生、現生不退、絶対の幸福を獲ると教え給うた親鸞聖人のみ教えを信じます。


などと「親鸞学徒信条」に謳ってありますが、「浄土真宗親鸞会」の会員(親鸞学徒)とは上記のようなことを「信ずる」人達ではなかったのでしょうか? この中の

真実の宗教を信ずる

とは、「真実の宗教」⇒「仏教」⇒「大無量寿経」⇒「阿弥陀仏の御本願」ですから

阿弥陀仏の御本願を信ずる

ということではないのでしょうか? また、

阿弥陀仏の御本願を聞けば

ではなく、わざわざ

阿弥陀仏の御本願を聞信すれば

と言っているのも、間違っていても「聞即信」であると知っていたからだと伺います。しかし今はそれすら無かったものとして、「信ずる」ではなく「聞く」一つだと主張するつもりなのでしょうか?

高森センセイ、どうかされたんじゃないですか? 頭変になられたんじゃないですか?

成就文から念仏を抜き、信心を抜く、高森会長の「無明の闇の教え」を「本願」だとして「聞く一つ」といくら聞き続けていっても、親鸞聖人の教えられる「真実の教行信証」は分かりませんし、「本願力回向の信心」を獲て報土往生することはできません。会員の皆さんには、「絶対の幸福」だとかいう幻想的な楽、現世利益に惑わされずに、そんな教えを早く捨てて本当の浄土真宗を聞き、本願を信じ念仏されるよう強くお勧めします。



【参照】
『親鸞会を脱会した人(したい人)へ』なぜ親鸞会の話を聞いてみようと思うのかを考えてみる。

『「其の名号を聞く」とは、本願を聞く一つ。信ずる一つではない』と、親鸞聖人の仰せも、過去の自身の製作物も完全否定する高森顕徹会長

昨日は富山で「高森教」の映画『なぜ生きる』の解説がありました。内容は、

「大船」とは何ですか? 「大悲の願船」とは何ですか? 「絶対の幸福」とはどんな幸福ですか?

といった映画を観られた方(会員)からの疑問に答えるというものだったそうです。それでこの度、またも

其の名号を聞くとは、本願を聞く一つ。信ずる一つではない。

というトンデモ発言が飛び出しました。


順を追って高森顕徹会長の話を辿っていきますと、まずは

大船」=「大悲の願船」=「阿弥陀仏の本願」=「どんな人をも 必ず助ける 絶対の幸福に

と従来の説を繰り返しました。「絶対の幸福」とはどんな幸福かということについては

譬如日光覆雲霧 雲霧之下明無闇(「行文類」正信偈)

とこれまたいつもの根拠を出して

天一面、雲霧に覆われても太陽が出れば、その雲霧の下は明るく闇はないのと同じ

であると話したとのことなんですが・・・


会員の皆さんはこんな説明で、「絶対の幸福」とはどんな幸福か分かったんですかね?

雲霧に覆われているとは「煩悩具足の凡夫」のこと

で、闇が晴れて、「大船に乗って初めて、煩悩具足の凡夫であったと分かる」と宣っていますが、自分が煩悩具足ということが分かったから何なのでしょうか?

煩悩具足の凡夫であったと分かる」=「絶対の幸福

なんでしょうか? どんな幸福なのかということがサッパリ分からないのは私だけではないと思います。

不退転」=「正定聚の位」=「絶対の幸福

とするのも

『飛雲』親鸞聖人の教えを知らないのだから七高僧方の教えなど何一つ知らない高森顕徹会長

にて破られているので、こうした曖昧な説明しかできないのでしょう。極度に批判を恐れていると伺えます。


それで、訳の分からない「絶対の幸福」とやらにどうしたらなれるかというところで、先に紹介したトンデモ発言につながります。高森会長は、成就文の「聞其名号」を出して

其の名号を聞くとは、本願を聞く一つ。信ずる一つではない。

と説明しました。

阿弥陀仏の本願を信じなさいとはどこにも教えられていないし、そんなことを口が腐っても言ってはならない

に続く、あっと驚くタメゴロー発言です。「」と「」の関係も分からないのかと言いたくなります。

それにしても、アニメ『世界の光 親鸞聖人』で、法然聖人に

いかなる智者も、愚者も、弥陀の本願を信ずる一念で救われるのです

などと言わせたり、親鸞聖人に

すべての人が、どうにもならぬ極悪人だからこそ、阿弥陀如来は我を信じよ、必ず、救い摂ると誓っておられるのです

などと言わせていたのはどこのどいつでしょうか。また、『こんなことが知りたい②』p.154にて

阿弥陀仏の御誓いは「聞其名号、信心歓喜」とありますように、聞いて信ずる者を助けるという御約束

と書いていたのは何だったのかという話です。


五逆と正法を誹謗している私のための本願であると分かるところまで聞け。

と最後の方では話していたようですが、相変わらず「仏願の生起」に邪義を織り交ぜた話ばかりで、全くと言っていいほど「仏願の本末」が説かれません。それでいて、「横の線の道を進む教え」に結び付け、役に立たない「雑行もどきの組織拡大活動」を会員にやらせようとしています。

こんな話をいくらまともに聞いていても「聞其名号 信心歓喜」とはなりませんから、会員の皆さんは皆さんを「信心獲得」させるつもりのない偽の善知識から離れて、「其名号」である「南無阿弥陀仏の六字のこころ」を説かれる方から聞いて下さい。直接説法を聞かれるのが一番ですが、難しい場合は、本、ブログ、音声、動画等を通してでも構いません。「本願寺は間違い」という大本営発表を真に受けていてはダメです。

南無阿弥陀仏(必ず極楽浄土へ迎えるから、安心してこの阿弥陀にまかせなさい)」という本願招喚の勅命を聞くのがすなわち信です。私の計らいを入れず、聞いたことを我が胸に持ち替えたりせず、聞こえたそのままが信心です。聞くことがそのまま信心であり、聞のほかに信はありません。どうかこうした本願の仰せを疑い無く聞き受けて念仏して頂きたいと思います。なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ。



【参照】
『WikiArc』聞即信

浄土真宗は、浄土往生の教行信証を教えられたもので、「絶対の幸福」だとかいう現世利益の教行信証を教えられたのではありません

浄土真宗は「二種の回向」があると教えられています。その内、「往相の回向」について「真実の教行信証」があるとして、その内容を詳しく開かれたのが『教行証文類』でした。『教行証文類』は、正確には

『顕浄土真実教行証文類』

であり、「浄土往生に関する真実の教、行、証を顕かにした文献を集めたお聖教」だと言えましょう。親鸞聖人在世当時は、聖道門からの厳しい宗教弾圧があり、また法然門下の中からも様々な説を唱える者が出てくる有様でした。そこで聖人は聖道門の教行証に対して浄土門の教行証を示し、念仏往生の教えが法然独自の教えではなく真実の仏教であることを明らかにすると共に、本願力回向について、念仏は凡夫自力の行ではなく如来回向の行であること、また本願力を疑い無く受け容れた信心が肝要であることを「行文類」、そこから別に開いた「信文類」によってお示しになられたのでした。

その「真実の教行信証」を簡単にまとめますと、

真実の教:『大無量寿経』
それ真実の教を顕さば、すなはち『大無量寿経』これなり。

真実の行:無碍光如来の名を称する(称名念仏)
大行とはすなはち無碍光如来の名を称するなり。

真実の信:至心・信楽・欲生
阿弥陀如来の清浄願心の回向成就したまふところにあらざることあることなし
疑蓋間雑なき
回向利益他の真実心
利他真実の信心
回向心(大小・凡聖、定散自力の回向にあらず。ゆゑに不回向)
本願力回向の信心

真実の証:利他円満の妙位、無上涅槃の極果(仏のさとり)
つつしんで真実の証を顕さば、すなはちこれ利他円満の妙位、無上涅槃の極果なり。)


です。教・行・信・証ともに「本願力の回向」であり、真実の教として示された『大無量寿経』の体である「仏の名号」、南無阿弥陀仏を称えるという真実の行によって真実の証を得る。これが「浄土真宗」であります。

行が凡夫自力の行ではなく如来回向の行ならば、当然信心も如来回向の真実信でありますから、行と信は一つであって切り離すことはできません。一応、分けて説かれてあるため、行と信を別々に考えたり、信を重んじて行を軽視したりされがちですが、そうではありません。「南無阿弥陀仏の六字のこころ」、すなわち「必ず助けるから、安心してこの阿弥陀にまかせなさい」という真実の仰せを疑い無く聞き受けたのが真実の信、その信心を具えて称える「南無阿弥陀仏」が真実の行とこういうことですから、信の無い行も無ければ、行の無い信というものも有りません。

しかしながら、現実には信の無い行というのがあるもので、何の分別もなく「南無阿弥陀仏」と称えれば往生できるかのように思っている人が今も昔もいるのです。であるから、親鸞聖人は別して「信文類」をお書きになって、本願を疑い無く聞き受けた信心が大事だぞとご教示になり、蓮如上人も「南無阿弥陀仏の六字のこころ」を確と心得て念仏しなさいとお示し下されたのであります。

こうした「浄土真宗」の教えを我々の側から言うと

本願を信じ念仏を申さば仏に成る『歎異抄』第十二条

となるのであり、それを仏の側から正確に言えば、本願力の独用(ひとりばたらき)によって本願を信じさせ、念仏と称えさせ、往生成仏させるという教えなのであります。ここで教・行・信・証の関係を言えば、「往生成仏」という真実の証が目的、それには真実の信を具えた「念仏一行」という真実の行、本願力回向の真実の行信が手段、それは真実の教によって裏付けられ示されたものであるという関係です。


こうした「浄土真宗」に対して、親鸞会の教えは随分違っています。まず、「証」は一応は「往生成仏」ですが、会員の目的というか、魅力に感じ目指しているもの、実態としての「証」は、高森顕徹会長が示す「絶対の幸福」だとかいう幻想的な楽、現世利益でしょう。親鸞学徒聖則に

一、親鸞学徒は信心獲得することを本と致します。

とあり、会では「信心獲得」=「絶対の幸福」という等式で教えられるからです。

往生成仏」もけっこうなことだが、それよりも今が苦しいんだ。今のこの苦しみを救うてもらいたい。只今、永遠に変わらない崩れない、最高無上の幸せになりたい。「生まれてきてよかった」という生命の大歓喜を獲たい。「絶対の幸福」になれば、苦しい事が起こっても煩悩即菩提ですぐさま喜びに転じ変わるのだろう。すべての苦労が報われる、流した涙の一滴一滴が真珠の玉となって戻ってくる、そんな世界に早く出たい。

会員の皆さんの本音とはこういうことではないでしょうか? そういう身になったことを「信心獲得」だと信じて、それを追い求めて高森会長の話を聞き、活動しているのが実態であると思います。

往生成仏」の証果は死んでからであり、「信心獲得」すれば必ず付いてくるのだから、今「信心獲得」して「絶対の幸福」になるのが大事である。そうすればこの世から未来永遠に変わらない幸せに救い摂られるのだと、「往生成仏」を「絶対の幸福」の副産物のように捉えてはいないでしょうか? あくまで後生の一大事の解決が目的だといくら聞いても、それは雲を掴むような話であり、それよりも「よくぞ人間に生まれたものぞ!」という生命の大歓喜だとか、「絶対の幸福」に魅力を感じていませんか? とにかく安心したい、満足したい、ハッキリしたい、求めているものを獲たいと、現世利益を求めて活動してはいないでしょうか?

それは結局、私達の「欲望」です。そんなものを叶えるための阿弥陀仏の本願ではありません。そんなものを追い求めている人は決して救われないことを会員の皆さんはよく知るべきです。

次に「行」ですが、浄土真実の行は何度も書いている通り「念仏一行」です。ところが、親鸞会ではどうしたら「絶対の幸福」になれるかと言うと、その方法として

高森顕徹会長の話を真剣に聞くこと
朝晩のおつとめをキチンとすること
親鸞会に人を勧誘すること(「破邪顕正」とか「法施」と言っている)
親鸞会に献金すること(「財施」「御報謝」「お布施」等と言っている)
高森会長や上司の指示に無条件で従うこと
六度万行を実践すること

などを勧めています。ですが、高森会長は「念仏一行」とは言いませんし、「南無阿弥陀仏の六字のこころ」も説いておりません。だから親鸞会での聴聞は蓮如上人の仰る「聴聞」ではありませんし、親鸞会で教えられる念仏が浄土真実の行だとは絶対に言えません。おつとめも、「五正行の実践」などと言ってこちらから獲信に近づく手段と捉えていますから、「本願力の回向」にまるで反しています。その他の活動は、如実の善だとしても「雑行」であり、実態は「雑行」にもならない「一新興宗教の組織拡大活動」、要は「悪業悪行」がほとんどです。これが親鸞会の「行」です。

それから、彼らが最も重要視している「信」は「地獄一定と極楽一定が同時に知らされる」などというまるで訳の分からないものです。それを「絶対矛盾的自己同一」だと西田幾多郎氏の語で説明したり、またその不思議な境地が「信楽」であり「絶対の幸福」だと言ったりしています。「信」と「証」が一部同じです。一応、信心を「阿弥陀仏からたまわる信心」と説明する場合もありますが、その際念仏の説明は出てきません。「絶対の幸福」になるには、人生の目的が達成できるのは「ひとえに弥陀よりたまわる信心」によるというような説明です。で、そこまでは上に述べた「行」をやっていけというのです。

これら親鸞会の「行」「信」「証」はどこから出ているかと言うと、「高森教」という「教」からです。それは大沼法竜師、伊藤康善師らの著書を剽窃し、そこへ創価学会の組織拡大法や思想を混ぜた、浄土真宗の語を使いながら全く浄土真宗でないトンデモ邪義、デタラメ創作教義です。『こんなことが知りたい』シリーズや『本願寺なぜ答えぬ』、『なぜ生きる』、『なぜ生きる2』などは「高森教」という「教」のテキストです。そして「高森教」の集大成がアニメ映画『なぜ生きる』であると言っていいでしょう。ですから、肝心な部分の根拠は全て高森会長の言葉や理論であって、経典や聖教ではありません。


このように、親鸞会の「教」も「行」も「信」も「証」も、すべてみな高森会長のミココロから現れたものであります。この「高森の教行信証」を開く際に浄土真宗を体よく利用しているだけです。「教」も「行」も「信」も「証」も全て「真宗の教行信証」と異なっていながら、それで親鸞聖人と同じ信心が獲られるという方がおかしいんですよ。また、会員がやっている「行」のほとんどは「悪業悪行」であり、「信」は「誰が何と言おうと高森先生が正しいという信心」ですから、そんな行信ではこの世の幸せさえ訪れないことは言うまでもありませんわね。

浄土真宗は、浄土往生の教行信証を教えられたもので、「絶対の幸福」だとかいう現世利益の教行信証を教えられたのではありません。こうした「高森の教行信証」に騙されて人生を棒に振る人が一人でも少なくなることと共に、「真宗の教行信証」によって念仏の行者となって下さる方が一人でも多く現れることを願っています。


【参照】
『WikiArc』教行証

念仏は行者のために非行・非善なり

『あなたの白道』お知らせ
『あさ川進の、宗教と私』【投稿文】嶋田さんが お浄土に旅立たれました。

を既に読まれた方も多いかと思いますが、1月9日に嶋田久義元講師が往生されたそうです。南無阿弥陀仏。私はそれほど嶋田元講師とご縁はありませんでしたが、お書き下された

『私の白道』

を読んだことが退会するきっかけの一つに、そしてやがて「南無阿弥陀仏」の六字のこころを知らされ、本願を信じ念仏する身になるきっかけになったことは間違いありません。それにしても、近藤智史元講師といい、梯實圓和上といい、増井悟朗先生といい、私を導いて下された方々がこうも早く往生されてしまうとは・・・。

嶋田元講師の意思を継ぐではないですけど、ご縁があった一人として、親鸞会教義の誤りと、南無阿弥陀仏の六字のこころをこれからも綴っていきたいです。



さて、親鸞聖人は念仏を「大行」と仰せられています。念仏とは口に「南無阿弥陀仏」と称することですが、これは3歳の子供でも「なんまんだぶ、なんまんだぶ」と簡単に称えることができる極めて容易い行です。念仏よりも布施をしたり、戒律を守ったりする方がよほど難しく、また勝れた行に思えますが、どうして親鸞聖人は念仏を「大行」だと言われたのでしょうか。それについては、

つつしんで往相の回向を案ずるに、大行あり、大信あり。
大行とはすなはち無碍光如来の名を称するなり。この行はすなはちこれもろもろの善法を摂し、もろもろの徳本を具せり。極速円満す、真如一実の功徳宝海なり。ゆゑに大行と名づく。
しかるにこの行は大悲の願(第十七願)より出でたり。すなはちこれ諸仏称揚の願と名づく、また諸仏称名の願と名づく、また諸仏咨嗟の願と名づく、また往相回向の願と名づくべし、また選択称名の願と名づくべきなり。
「行文類」大行釈

と、このように仰せです。ごく簡単に言うと、念仏は「往相の回向」であるからだというのです。念仏は阿弥陀仏が私達に施し与えて下さる阿弥陀仏の行だから「大行」というのだということです。念仏は私が称える私の行かと思っているかも知れないがそうではない。阿弥陀仏が称えさせている阿弥陀仏の行なんだ。阿弥陀仏の、「どうか私の名を称えてくれ」という願いが私に届いたすがたが、私の口から出ている「なんまんだぶ」なんだ。「そなたを間違いなく極楽へ連れてゆくぞ」の大悲がはたらいているすがたが、私の口を通して現れ出ている「なんまんだぶ」なんだと、こういうことです。

それでは、「往相の回向」である念仏はどういうもので、どういうはたらきがあるのかというのがそれ以降のお言葉です。念仏には阿弥陀仏が完成されたすべての善根功徳がおさまっています(もろもろの善法を摂し)。また、念仏はあらゆる功徳の根本としての徳を具えています(もろもろの徳本を具せり)。また、念仏は極めて速やかに往生成仏の因徳として行者の身に具わります(極速円満す)。また、念仏は仏のさとりの領域である真如と呼ばれる絶対不二の真実から現れたものです(真如一実の功徳宝海)。このようなことですから、称名念仏を「大行」と名付けるのだというのです。

この「大行」である念仏は、第17願より出てきた本願力回向の行です。第17願は諸仏が「称我名」、この阿弥陀の名を称讃し、称揚し、咨嗟する、つまり褒め称えるということですが、そうでなければ仏に成らないという願です。そのような阿弥陀仏の御名である「南無阿弥陀仏」を称えるというのは、十方のあらゆる諸仏が称讃し、称揚するのと徳を同じくする行であるというのです。であるから、称名は衆生の無明の闇、自力疑心を打ち破り、往生成仏の志願を満たして下さる「最勝真妙の正業」なのだということを、

しかれば名を称するに、よく衆生の一切の無明を破し、よく衆生の一切の志願を満てたまふ。称名はすなはちこれ最勝真妙の正業なり。正業はすなはちこれ念仏なり。念仏はすなはちこれ南無阿弥陀仏なり。南無阿弥陀仏はすなはちこれ正念なりと、知るべしと。「行文類」破闇満願

と仰せられてあります。称名という行為自体は極めて簡単でありながら、最も勝れた、真実にして妙なる正定の行業であるというのです。そして、正定業とはすなわち念仏であり、念仏はすなわち南無阿弥陀仏であり、南無阿弥陀仏はすなわち正念、つまり信心であると結ばれています。元々

つつしんで往相の回向を案ずるに、大行あり、大信あり。

と、最初に「大行」と「大信」を一緒に教えられていることから分かるように、行と信は二つであって一つ、一つであって二つという不離の関係でした。それを分けて説けば、「大行」は「行文類」となり、「大信」は「信文類」となったのです。分けて説かれてあるけれども、念仏と信心と別々にあるんじゃないんだ。「南無阿弥陀仏」の他に信心も念仏も無いんだと、こういうことです。「南無阿弥陀仏」が心に届いた、映ったのが信心、それが口に出れば念仏で、体は一つです。この「南無阿弥陀仏」は、「必ず極楽浄土へ迎えるから、安心してこの阿弥陀にまかせなさい」という本願招喚の勅命でありますから、こうした本願の勅命を疑い無く信受して仰せの通り往生をおまかせしたのが信心、勅命を口に称えて仰ぎ聞いているのが念仏と、こういう言い方もできましょう。


念仏は私の口から出るものでありますが、実はそれは阿弥陀仏より回向された行であって、我が計らいの心をもって称える私の行ではありません。ですから『歎異抄』第八条には

念仏は行者のために非行・非善なり。わがはからひにて行ずるにあらざれば非行といふ。わがはからひにてつくる善にもあらざれば非善といふ。ひとへに他力にして自力をはなれたるゆゑに、行者のためには非行・非善なりと[云云]。

と教えられています。これが、Abcさんがコメントを下さった「不回向の行」、また「自然法爾」の念仏ということです。浄土真宗はこのように阿弥陀仏が与えて下さった「南無阿弥陀仏」を称えるという行、「南無阿弥陀仏」におまかせして自力を離れた信によって、往生成仏という証を得る教えなのです。

私達が往生成仏という証を得る、もとい本願の行信を獲るに当たって、因果の道理を深く信じる必要もなければ、真実の自己とやらを知らされる必要もありません。後生に驚き立つ必要もなければ、地獄の釜底に堕ちるとか言う体験をする必要もありません。信仰とやらを進める必要もなければ、念仏以外の善に手出しして信仰が進む資糧を積む必要もありません。宿善を厚くする必要もなければ、煩悩と闘って求道する必要もありません。光とやらに向かう必要もなければ、横の線の道とやらを進む必要もありません。真実の教行信証は、阿弥陀仏が大悲の心をもって私達にお与えになる利益であって、往生成仏の因も果も、すべてみな阿弥陀仏の清らかな願心の回向が成就したものにほかならないからです。このことを、

しかれば、もしは行、もしは信、一事として阿弥陀如来の清浄願心の回向成就したまふところにあらざることあることなし。因なくして他の因のあるにはあらざるなりと、知るべし。「信文類」

それ真宗の教行信証を案ずれば、如来の大悲回向の利益なり。ゆゑに、もしは因、もしは果、一事として阿弥陀如来の清浄願心の回向成就したまへるところにあらざることあることなし。因、浄なるがゆゑに果また浄なり。知るべしとなり。「証文類」

と聖人は仰せです。私達はただ、本願を仰いでそのままお順い、おまかせし、念仏申すだけです。逆に、念仏の他に我々がやるべきことがあるように考え、上に列記したようなことが必要だと思って、それらをやって救いを求めようというのを「仏智疑惑」「疑情」「無明の闇」というのです。


こうした「真実の教行信証」を知らず、「善をしなければ信仰は進みません」とかいう邪義にだまされて行に迷い信に惑っているのが今も残って活動している親鸞会の会員です。念仏を勧めると「称名正因の異安心だ!」とアレルギーの如く拒絶反応を示し、ありもしない信心を追い求め、ありもしない道程を通ろうとしているのが彼らのすがたです。しかし、念仏は元々阿弥陀仏が選んで「称えてくれ」と与えて下さったのであり、諸仏の勧めは勿論、親鸞聖人も当然勧められているわけで、念仏よりも活動に重きを置いているのは「教に昏くして真仮の門戸を知ら」ないのです。

そのようなことでは本願の行信を獲て念仏成仏などとは縁遠い世界を彷徨うことになりますから、会員の皆さんはどうか「真実の教行信証」を知って本願の御名を計らい無く聞き受けて頂きたいと思います。そして、阿弥陀仏の願いにかなった念仏の行者となって下さい。なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ。



【参考文献】
『安心問答』称名念仏は「私の行」ではなくて「阿弥陀仏の行」である・・・ということは、未信の人の称名念仏は「阿弥陀仏のお育て」であると理解すればよろしいですか?(もかなさんのコメント)
『WikiArc』称名破満の釈義

真実の教行信証

前回、「浄土真宗」=「本願力の回向」であるということに触れました。

往相の回向について真実の教行信証あり(教文類)」
それ真宗の教行信証を案ずれば、如来の大悲回向の利益なり。ゆゑに、もしは因、もしは果、一事として阿弥陀如来の清浄願心の回向成就したまへるところにあらざることあることなし。因、浄なるがゆゑに果また浄なり。知るべしとなり。(証文類)」

とお示しのように、「真実の教行信証」はすべて阿弥陀仏の方で用意し与えて下さるものです。私達の方で加えるものは何も無く、逆に何か加えようとするのは誤りです。私達はただその「本願力」が成就して今現にはたらいている、「回向」せられていることをお聞きし念仏する、言葉を変えると、私達に救いを告げる御名である「南無阿弥陀仏」の六字のこころを受けて「なんまんだぶ、なんまんだぶ」とお念仏申すのみです。

私が「助かりたい」と思い、救いを求める遥か以前に「助けるぞ」と誓われ、本願力を成就して回向されているのです。本願力に摂取されるに当たり、「私の求道」など要りません。そんなもの、阿弥陀仏の「五劫思惟」、また一念一刹那も真実清浄の心身を乱さない「不可思議兆載永劫」のご修行と比べたら、どれだけド真剣に取り組んだところで遊びにもなりません。逆にそんなものにすがっていても本願力を撥ね付け、阿弥陀仏の御手を煩わすだけですから、早く打ち捨てて阿弥陀仏の真剣を受けるべきなのです。このことを、「自力を捨てて、一心に弥陀をたのめ」と言われています。

本願力が成就したすがたが「南無阿弥陀仏」の「名号」、「南無阿弥陀仏」を心に頂いたのが「信心」、そして「南無阿弥陀仏」が口に現れれば「念仏」です。ですから、「信心」といっても「南無阿弥陀仏」が届いたすがたに他なりません。「地獄の釜底に叩き堕とされ、そこから救われて大安心大満足」みたいな神秘的体験とは違うのです。「地獄一定と極楽一定が同時に知らされる」とか言った訳の分からない信心、「絶対の幸福」だとかいう幻想的な楽を追い求める人は真宗の「信心」は分かりませんから、真宗の「信心」決定して報土往生を遂げたいと願う方はまず高森教を断捨離するところから始めましょう。


さて、本日は「真実の教行信証」とは何かを少しばかり伺いたいと思います。まず「真実の教」については

それ真実の教を顕さば、すなはち『大無量寿経』これなり。「教文類」

と教えられています。その『大無量寿経』の中でも最も大事なものは阿弥陀仏の本願であり、本願成就のすがたである仏の名号、南無阿弥陀仏が『大無量寿経』の本体であることを

ここをもつて如来の本願を説きて経の宗致とす、すなはち仏の名号をもつて経の体とするなり。

と仰っています。ここは親鸞会でも似たようなことを教えていますが、「縦と横の線」などのオリジナル教義によってその後が悲惨なことになっています。そういえば以前、高森会長が三願転入(主に19願、『観無量寿経』の定散二善)を強調するあまり、「真実の教は『観無量寿経』なのではないか?」という疑問が会員から出てきたこともありました。

話を戻します。「真実の教」から開顕されるのが「真実の行」ですが、それについては、

つつしんで往相の回向を案ずるに、大行あり、大信あり。
大行とはすなはち無碍光如来の名を称するなり。この行はすなはちこれもろもろの善法を摂し、もろもろの徳本を具せり。極速円満す、真如一実の功徳宝海なり。ゆゑに大行と名づく。
「行文類」

と教えられ、「真実の行」は「無碍光如来の名を称する」、念仏することだと仰っています。なぜ念仏を「大行」というのかと言えば、念仏は如来が完成されたすべての善徳をおさめ、あらゆる功徳の根本としての徳を具えており、極めて速やかに功徳を行者の身に満足せしめる勝れたはたらきをもっているから「大行」であるというのです。それともう一つ、

しかるにこの行は大悲の願(第十七願)より出でたり。すなはちこれ諸仏称揚の願と名づく、また諸仏称名の願と名づく、また諸仏咨嗟の願と名づく、また往相回向の願と名づくべし、また選択称名の願と名づくべきなり。

とあるように第十七願で誓われたものであるからだというのです。煩悩具足の私の口で称えるのだけれども、それは諸仏が称讃し、称揚するのと徳を同じくする行である、だから「大行」なのだと仰せです。であるから、

しかれば名を称するに、よく衆生の一切の無明を破し、よく衆生の一切の志願を満てたまふ。称名はすなはちこれ最勝真妙の正業なり。正業はすなはちこれ念仏なり。念仏はすなはちこれ南無阿弥陀仏なり。南無阿弥陀仏はすなはちこれ正念なりと、知るべしと。「行文類」

念仏によって「よく衆生の一切の無明を破し、よく衆生の一切の志願を満てたまふ」というのです。このようなことですから、浄土真宗は「念仏一行」が当然なのです。「善をしなければ信仰は進みません」などという邪義は、浄土真宗をまともに学んでいれば出てきようがありません。

この「念仏」は「往相の回向を案ずるに、大行あり」ですから、阿弥陀仏より回向された行です。それは

あきらかに知んぬ、これ凡聖自力の行にあらず。ゆゑに不回向の行と名づくるなり。大小の聖人・重軽の悪人、みな同じく斉しく選択の大宝海に帰して念仏成仏すべし。「行文類」決釈

のお言葉によっても知られるでしょう。「自力の行」ではありません。称えた念仏に功徳があると思って、それを積み重ねて往生しようという行とは違うのです。しかし、同じく阿弥陀仏を合掌・礼拝し、念仏していても、その行だけ見ては自力の行か他力の行かが分かりません。自力の行か他力の行かによって報土に往けるかどうかが別れるのですから、念仏する際の称え心、信心は非常に重要な問題となってまいります。そこで親鸞聖人は「真実の信」を示すため、行から信を別に開いて、「信文類」を明らかにされたのでした。


その「真実の信」については、

つつしんで往相の回向を案ずるに、大信あり。大信心はすなはちこれ長生不死の神方、欣浄厭穢の妙術、選択回向の直心、利他深広の信楽、金剛不壊の真心、易往無人の浄信、心光摂護の一心、希有最勝の大信、世間難信の捷径、証大涅槃の真因、極速円融の白道、真如一実の信海なり。「信文類」

と仰っています。信心にしても「往相の回向を案ずるに、大信あり」ですから、行と同じで阿弥陀仏がお与えになるものです。凡夫が自力で起こす信心ではなく、阿弥陀仏より賜る浄らかなまことの信心であるから「大信」と言われています。

ところで、よく林遊さんがコメントを下さることですが、「信文類」については「教文類」「行文類」、また後に示す「証文類」と違って出体釈がありません。「教」は『大無量寿経』、「行」は称名、「証」は

つつしんで真実の証を顕さば、すなはちこれ利他円満の妙位、無上涅槃の極果なり。「証文類」

とお示しように仏のさとりですが、「信」はものがらが無いのです。よく「信心獲得」とか「信心を頂く」と言われますが、「獲得」「頂く」と聞くと、獲得した、頂いた暁には何か確固とした、ハッキリした信念のようなもの、一種のさとりと言ってもいいかも知れません、そういうものが心にしっかりとすわる、定着するかのように思ってしまいます。ここで、体が無い、ものがらが無い、というのは、私達が現実に「物を貰う」ように「信心」という確固とした信念のようなものを頂くのではないということです。

矛盾するようですが、一応、「信」のものがらは有るには有ります。それが「行文類」で示されている「南無阿弥陀仏」の名号です。この六字を心に頂いたすがた、「必ず極楽浄土へ迎えるから、安心してこの阿弥陀にまかせなさい」という本願招喚の勅命をそのまま聞き受けて、仰せの通り阿弥陀さまに後生おまかせしたすがたが「信」です。ですから、先ほど「行から信を別に開いて」と書いたように、「信」は「行」から出てきたんです。「信」単体というのはありません。南無阿弥陀仏」を離れた信心というものは無いんです。

南無阿弥陀仏はすなはちこれ正念なり

と「行文類」で言われていたように、「南無阿弥陀仏」がすなわち「信心」です。それで蓮如上人は

信心をとるといふも、この六字のうちにこもれりとしるべし。さらに別に信心とて六字のほかにはあるべからざるものなり。『御文章』5帖目13通

と仰せです。また、信心は「南無阿弥陀仏」を疑い無く聞き受けていることの他にはありませんから、祖師は

「聞其名号」といふは、本願の名号をきくとのたまへるなり。きくといふは、本願をききて疑ふこころなきを「聞」といふなり。またきくといふは、信心をあらはす御のりなり。「信心歓喜乃至一念」といふは、「信心」は、如来の御ちかひをききて疑ふこころのなきなり。『一念多念証文』

ともお示しです。「念仏は信後報謝に限る」とか「念仏は信前も信後もお礼」などと軽視し、成就文から念仏を抜いてしまうような教えを真受けにしていては、真宗の「信心」はまず分かりません。更に、「善の勧め」なる教えを信じ込み、阿弥陀仏が選び捨てられた「諸善万行」をやっていかねば救いに遇えないと信じて「善もどきの善」に励んでいるのは、「行に迷ひ信に惑」っているすがたです。そして、

信心決定」=「絶対の幸福

として、「南無阿弥陀仏」と何の関係があるか分からないが、とにかくとてつもなく大きくて変わらない幸福感が心に満ち満ちたことを「信心」だと妄想しているのは、「金剛の真信に昏」いすがたです。「信心正因」だから、とにかく信心、信心と、念仏を抜きに信心を追い求める人を「信心乞食」と林遊さんは仰いますが、親鸞会の会員がまさにそうです。本願の仰せを聞き受けて「なんまんだぶ」する他に信心は無いことをよく知らなければならないと思います。


さて、このように「本願力の回向」、「念仏成仏」の教えを開かれたのが親鸞聖人であります。我々は阿弥陀仏の本願力によって往生の行信を与えられ、本願を信じ、念仏を申して、仏に成るのです。我々の方で用意するものは何もありません。往生の行信を獲るためにどこかまで進む必要もなければ、何か特別なことを知らされる必要もなければ、念仏以外の雑行に手出しする必要も毛頭ありません。逆にそれらを必要だと思う心を「自力」といい、「仏智疑惑」「疑情」「無明の闇」というのです。高森顕徹会長の教えは自力を助長させる教えであり、闇の教えであることがお分かりでしょう。

せっかくの阿弥陀さまの完璧な仕事を、私達の側でぶち壊すことはないのです。小賢しい智慧をはたらかせて我々の側で何か仕事があるように思い、すべて阿弥陀さまが完璧に仕上げて下さった仕事を台無しにしてはなりません。「お前を浄土に迎えて仏にする用意は整えたから、安心してこの阿弥陀にまかせなさい」と仰せられてありますから、私達は何の計らいも無く、阿弥陀さまの仰せに身も心もすっかりおまかせしてしまえばよいのです。これが、「如来の大悲回向の利益」を受けた念仏行者のすがたです。

高森教を信じている人、信じてきた人は特にですが、どうしてもオリジナル教義による先入観が強くて、何か自分の方でやらねばならないことがあるのではないかと考えがちです。闇の教えは中々根深いものです。私から阿弥陀仏に向かって救いを求めようという方向性で物事を捉えがちだと思いますが、真逆です。阿弥陀仏からすでに往生の行信を差し向けられているのですから、私としてはただ、「南無阿弥陀仏(助けるぞ)」の仰せを受けるのみです。どうか、「南無阿弥陀仏」の他に行も信も無いことを知って、本願の仰せを疑い無く信じ念仏して頂きたいと思います。

浄土真宗には、「横の線」に該当する教えは無い

親鸞会の会員は、「信一念とそれまでとを分ける教え」が深く脳裏に染み付いているため、只今本願の救いにあずかるということ、この場で本願を信じ念仏すれば必ず往生を得るということを受け容れられずにいると思います。それを助長しているのが、高森顕徹会長の話の際に必ず出てくる「縦と横の線の図」です。



例えばどうでしょう? 会員の皆さんは初聞法会の話を聞いて、

「無条件だったー!」となるのは信一念(縦の線)のことで、それまでは重ねて聴聞し、顕正し、実地に(横の線の道を)求道していかねばならない。そうしなければ「無条件だったー!」と救われることはない。

などと思いませんでしたか? 私は会員だった8年間、ずーっとこのように理解していました。そうでなければ話の落しどころがありませんでしたから。指示棒で横の線を右から左になぞっていき、縦の線を指して

ここが決勝点、ここがゴール、ここが卒業、ここで救われる、一念で救われる

と聴聞の度に見て聞いていたのと、自分も周囲も一向に救われていない様子から考えて、そのように理解するしか無かったのです。高森会長が正しいと信じる限り、

縦の線まで到達するには、横の線の道を進んでいくしかない

という考えに、また高森会長のその時々の話ぶりから

自分なんかまだまだ黒板の右端、もしかしたら横の線の軌道にも乗っていないかも知れない

という考えになることは必至でした。ですから、会員の誰一人として、現在から未来の信一念に至るであろうまでのトータルで考えると「無条件の救い」「一念の救い」とは到底思えないのではないかと思います。


勿論、このような「信一念とそれまでとを分ける教え」「信心獲得するためにどこかまで進む教え」は浄土真宗にはありません。あくまで高森教でしか言われない邪義です。そもそも浄土真宗とはどんな教えかと言うと、

つつしんで浄土真宗を案ずるに、二種の回向あり。一つには往相、二つには還相なり。往相の回向について真実の教行信証あり。「教文類」

とあるように、往相と還相の二種類の回向です。「回向」とは、阿弥陀如来が、本願力をもってその功徳を衆生にふり向けられる、つまり恵み与えられることです。このことは『教行証文類』の略本である(『浄土文類聚鈔』【3】)にも

しかるに本願力の回向に二種の相あり。一つには往相、二つには還相なり。

と教えられています。ここから、「浄土真宗」=「本願力の回向」であることが分かります。「本願力の回向」の内、往相回向を教・行・信・証の四法で顕されたのが「教文類」「行文類」「信文類」「証文類」です。ちなみに、「証文類」には往生成仏の証果を開いた者が十方の衆生を救うためにこの世に還り来るすがた(還相)も説かれていますが、ここでは詳しく述べません。


さて、このように浄土真宗とは「本願力回向」の教えですが、それは言葉を代えれば

・私達の力は全く要せず、すべて阿弥陀仏の本願力を与えられて往生成仏する
・私達が本願を信じるのも、念仏を称えるのも、仏に成るのも、すべて本願力によってのこと


ということです。それは、真実四法の結論として

それ真宗の教行信証を案ずれば、如来の大悲回向の利益なり。ゆゑに、もしは因、もしは果、一事として阿弥陀如来の清浄願心の回向成就したまへるところにあらざることあることなし。因、浄なるがゆゑに果また浄なり。知るべしとなり。「証文類」

と仰っていることからもお分かりかと思います。「如来の大悲回向の利益」とあるように、私達が本願を信じ念仏を申して仏に成るという一連の教行信証は、「すべて阿弥陀仏の大いなる慈悲の心から回向された利益」なのです。往生の因も果も、聞法求道した対価として獲られるものではないし、また、聞法求道を阿弥陀仏が評価し、その功績を讃えて行者に与えるというものでもありません。繰り返しになりますが、「すべて阿弥陀仏の大いなる慈悲の心から回向された利益」なのです。

ですから、浄土真宗には「本願力回向」を求める自力の道程、つまり未信の者が信心獲得するまでに通らねばならないと言っている道、親鸞会の図で言えば「横の線」に該当する教えは無いんです。それを高森会長が勝手にでっち上げて、ありもしない架空の道を教えて会員を通そうとしているだけなんです。

親鸞会のように私達が重ねて重ねて聞き続け、また推進される活動を求道と称してやり続けて、今いる地点から進んである地点まで到達した後に救われるというのと「本願力回向」とは、根本的に異なるのです。それは「本願力回向」ではなく、「自力回向」です。願で言えば、18願ではなく19願です。19願は平生に修諸功徳の善を修めた者を、その功績を評価して臨終に迎えに行こうという願ですから、構造的に19願に近いです。

阿弥陀仏は本願を成就され、「南無阿弥陀仏」と成って今現に私にはたらいています。「必ず極楽浄土へ迎えるから、安心してこの阿弥陀にまかせなさい」と喚んでおられます。それを、これから将来どこかまで移動した先に聞くのではありません。只今、この場で聞くのです。こちらの方であれこれ計らったり、我が胸に持ち替えたりせずに、この「なんまんだぶ」の勅命をそのまま聞くのです。そのまま聞くのが信心です。あとは、後の世のことは阿弥陀さまにおまかせして安心です。このような身とさせて頂いたご恩を思えば「なんまんだぶ、なんまんだぶ」とお念仏を申して、有難いことだ、かたじけないことだと報謝する人生を生きてゆくのです。


親鸞会は、「自力一杯求めたことのない者に自力無功と知らされる筈がありません」と「自力一杯の求道」を勧める「自力回向」的な集まりです。それを批判されて、会内では

他力になるまで他力を求める

などと詭弁を使っていますが、高森会長の説く教えが他力ではないので、会員は他力を求めていることにはなりません。また、他力を求めるのは当然自力ですから、他力を求めて他力になるなら自力が役に立つということです。「自力無功」の完全否定です。他力は私達が求めた結果獲られるのではなく、求めた功績を讃えて求めた人を救うのでもありません。「他力回向」ですから、阿弥陀仏より一方的に与えられるのです。それも、縦の線まで進んだ者に与えられるのではなく、只今この場で与えられるのです。「なんまんだぶ」と成って今現に私に届いているからです。その願力、はたらきをただお聞きし念仏するのみであるのに、逆らって

救われるのは縦の線のことで、そこまでは求道しなければならない

などと本願力を疑うのを「仏智疑惑」といい、これを「無明の闇」というのです。「闇に向いて走るものは滅ぶ」とか何とか言っていますが、実際闇に向いて走っているのが親鸞会会員と言えましょう。

本願力回向」の法を与えられず、獲信・往生と無関係、むしろ障害にしかならない活動を強いられる会員の皆さんは本当にお気の毒です。必堕無間と脅され、「絶対の幸福」というエサに釣られて、ありもしない信心を求めてありもしない道程を通ろうとしているのが自分であることに早く気付いて下さい。そして、親鸞会の「横の道を進む教え」、「信一念とそれまでとを分ける教え」とはきれいさっぱり決別して、只今この場で往生すべき身に定まる本物の浄土真宗を聞信して頂きたいと思います。



【参照】及び【参考文献】
『WikiArc』補註12 他力・本願力回向
『WikiArc』往相
『WikiArc』三法立題

『「無条件の救いだったー!」というところまで仏願の生起本末を聞く』のだと救いに条件を付け、ありもしない道程を設けてそこを通そうとする高森顕徹会長

1月3日の親鸞会初聞法会は、去年に引き続きいつもの

大悲の願船に乗せられると同時に、私たちの苦しみの人生は、幸せな人生にガラリと変わるとは、どう変わるのでしょうか

という演題で話があったそうです。相変わらず「難思の弘誓は難度海を度する大船」(総序)という、

五道、六道という迷いの世界を難度海という海にたとえ、阿弥陀仏の本願、お約束をそこから出離して往生成仏せしめる船にたとえて教えられた

ことを、

人生を難度海という海にたとえ、阿弥陀仏の本願、お約束をその苦しみの海から救う船にたとえて教えられた

という低次元な話に貶め、阿弥陀仏の本願を

「どんな人をも 必ず助ける 絶対の幸福に」

というこれまた低次元な現世利益を獲させる本願に貶めています。ここで、「絶対の幸福」とは煩悩を断ぜずになる幸福であり、それは「無明の闇」が晴れたことだというのです。ところが、高森会長によると「無明の闇」とは

「後生暗い心」「死に向かったら真っ暗になる心」

だというのですから、それが晴れたということは、

「後生明るい心」「死んだ先がハッキリ分かった心」

になったということでしょう。この誤りについては散々述べていますが、例えばこの記事を参照して下さい。


さて、今回は、

(阿弥陀仏の本願は)無条件で絶対の幸福にするとのお約束とのことだが、(私達は救われるのに)条件があるとしか思っていない。(本願に対する)疑いの心がある。
無条件で助けるとは、「○○した人は(大船に)乗せてあげよう」ということではない。
「無条件(の救い)だったー!」というところまで仏願の生起本末を聞く。

などと高森会長が「無条件の救い」について宣っていたことを取り上げます。

阿弥陀仏の本願、中でも18願は、迷いの世界を離れて往生成仏するような因を持たない私に、成就された本願力を回向して、すなわち南無阿弥陀仏を与えて、私をさとりの世界へ導こうというものです。私の力、自力は全く要せず、ただ本願力、南無阿弥陀仏の独用(ひとりばたらき)で往生成仏せしめられます。罪の軽重、善根の多少、修行の久近といったことは救いの条件に含まれません。ただ本願の仰せ、「必ず極楽浄土へ迎えるから、安心してこの阿弥陀にまかせなさい」を聞き受けて念仏する者を極楽へ迎えようという本願ですから、「無条件の救い」とよく言われます。

ただ「無条件の救い」と言っても前提があります。全ての人を救うべく本願力ははたらいているのですが、まず本願あることを知らない人は残念ながら救われません。

聞其名号 信心歓喜

ですから、本願、また本願が成就したすがたである名号を聞かないことにはどうしようもないです。次に、本願あることを知っていても、本願によって救われようと思わない人も救われません。例えば異教徒や無宗教者であったり、仏教徒であっても聖道の修行によってさとろうとする者、浄土教を信じていても19願や20願によって往生しようとする者などです。また、謗法や闡提の者は謗法なり闡提を止めてからでなければ救われません。

仏教、中でも浄土教を信奉している者で、本願(18願)によって救われようと思っている人、という前提があるのです。私達で言えば、「親鸞聖人の教えが正しいと信じている人」と言っていいでしょう。親鸞会の会員でも、親鸞聖人の教えが正しいと思い、18願によって救われたいと思っているのであれば対象者に含まれます。ここで「無条件の救い」とは、そのような18願によって救われたいと願う人が、「本願を聞くのに」「本願に救われるためにその人の方で○○しなければならないという条件は無い、ということです。

判り易く言うと、私達の側で、善をしなければならないとか、後生に驚きが立たねばならないとか、地獄一定の自己を知らされなければならないといった条件は無いということです。主体を変えて言うと、私達の行為如何で「この人は救う」「この人は救わない」「この人は早く救う」「この人は後で救う」と阿弥陀仏の方で選んだりしないということです。親鸞会の会員で言えば、

「(縦と横の線で)縦の線まで聞き抜いた者を助ける」
「因果の道理をよく聞いて理解しない者は助けない」
「廃悪修善の心の無い者、弱い者は助けない」
「後生に驚きが立たない者は助けない」
「宿善の薄い者は助けない」
「今生において真剣に宿善を求める者を助ける」
「善をせず信仰が進まない者は助けない」
「三願転入する者(19願の善、定散二善をする者)を助ける」
「微塵の善もできない極悪人と知らされた者を助ける」


本願を聞くのに」「本願に救われるために」上記のような条件は無いということです。


ところが親鸞会ではどうでしょうか? まさに上記のような条件を付けていることは言うまでもありません。

第一、親鸞会では阿弥陀仏の本願を「絶対の幸福」だとかいう幻想的な楽を獲させる本願だとしています。信心については「地獄一定と極楽一定が同時に知らされる」とか訳の分からない説明をし、その際念仏は出てきません。信心の体である「南無阿弥陀仏の六字のこころ」を説かないのはいつも指摘している通りです。そして、親鸞聖人が教えられたことの無い信心獲得までの道程、いわゆる「横の線の道」を勝手に設けて、そこを通って救われるべき地点(縦の線)まで到達しなければ救われないかのように説いています。「横の線の道」が時として

因果の道理が深く知らされてゆく道
廃悪修善の気持ちが強くなってゆく道
後生の一大事が知らされてゆく道
仏法の重さが知らされてゆく道
薄い宿善が厚くなってゆく道
二河白道を煩悩と闘って求道してゆく道
『聴』から『聞』ときこえるまでの道
信仰が進んでゆく道
三願転入の道

などと変化しますが、いずれにせよ、只今、この場で、本願を聞いて極楽浄土へ往ける身に救われることは無いようです。逆に「只今この場で救われる」と説く者を「土蔵秘事やそれに類する者達」だと非難し、あくまでも高森会長が説く「横の線の道」に万人を当てはめようとしています。今回で言えば、

「無条件(の救い)だったー!」というところまで仏願の生起本末を聞く。

と、「横の線の道」を通って、ある地点(縦の線)まで到達しなければ「無条件の救い」にはあずかれないように説いています。もうお気付きのように、高森会長の説く「無条件の救い」は、いくつもいくつも条件を張り巡らせた上での「無条件の救い」であることがお分かり頂けるかと思います。これでは最早「無条件の救い」とは言えません。何十年と聞いている会員や、講師部員でさえ救われていないことがそれを物語っています。こんな教えをまともに聞いていて、阿弥陀仏に救われるとかどうとか言っていること自体が気狂い沙汰なんです。



『「無条件の救いだったー!」というところまで仏願の生起本末を聞く』のだと救いに条件を付け、救いにあずかるまでにありもしない道程を設けてそこを通そうとするのが親鸞会のやり方です。ところが、親鸞聖人の教えに「横の線の道」に該当する教えはありません。存在しない道をいくら通ろうとしても通れないのは道理です。会員の皆さんには、皆さんの求道姿勢が悪いのではなく、教えが間違っているから信心も安心も無いのだということに気付いて頂きたいです。そして、邪義を授ける人の手から離れて浄土真宗に帰依し、只今、この場で、本願の仰せを聞いて念仏して頂きたいと思います。



【参照】
『飛雲』木の深信が立った高森顕徹会長

年頭所感でも、当然「南無阿弥陀仏の六字のこころ」を説かない高森顕徹会長

親鸞会が今年から「新体制」になったようです。詳しくは

『親鸞会を脱会した人(したい人)へ』新体制になり最後のカーブを曲がった親鸞会(顕正新聞平成30年1月1日号を読んで)

をご覧下さい。「同志」だとか言っているのが隣国を連想させます。


さて、親鸞会発行『顕正新聞』2018年1月1日号の高森顕徹会長の年頭所感は、『歎異抄』第二条

おのおのの十余箇国のさかひをこえて、身命をかへりみずして、たづねきたらしめたまふ御こころざし、ひとへに往生極楽のみちを問ひきかんがためなり。

の御言葉から始まっています。親鸞聖人が20年関東で説かれた教えは「往生極楽の道」以外無かった、その「往生極楽の道」とは、

「必ず極楽浄土へ、往ける身に救う」と、阿弥陀仏が誓われている本願

であるというのです。ところがと言うか、当然と言うか、その後はこの記事でも紹介したいつもの根拠

たとひ大千世界に
 みてらん火をもすぎゆきて
 仏の御名をきくひとは
 ながく不退にかなふなり
浄土和讃

火の中を 分けても法は聞くべきに
 雨風雪は もののかずかは


や、『御一代記聞書』155

仏法には世間のひまを闕きてきくべし。世間の隙をあけて法をきくべきやうに思ふこと、あさましきことなり。

などを出して

・たとい大宇宙が、火の海になろうとも、そのなか仏法を聞きひらく人は、必ず絶対の幸せに成れる
・仏法を仕事の合間に聞けばよかろう、程度に思っているのは、まだ本当の仏法が分かっていない


と創価学会用語をパクった「絶対の幸福」なるものを勧めたり、叱咤したりするのみで、本願の何を聞くのか、どうすれば「必ず極楽浄土へ、往ける身」に救われるのかについては最後まで書かれていませんでした。


この、実に中途半端というか、言わないのか言えないのか不明ですがとにかく必ず大事な部分をボカすところが高森顕徹会長らしいです。これでは、たとえこの年頭所感を何百回読んでも

もっとド真剣に聞け! お前はまだ仏法の重さが分かっとらん!

ということが分かるのみで、「往生極楽の道」とは何かということは絶対に分かりません。「往生極楽の道」とは

「必ず極楽浄土へ、往ける身に救う」と、阿弥陀仏が誓われている本願

と言っても差し支えありませんが、『歎異抄』で言うとそれは

・念仏よりほかに往生のみちをも存知し
・親鸞におきては、ただ念仏して弥陀にたすけられまゐらすべしと、よきひと(法然)の仰せをかぶりて信ずるほかに別の子細なきなり。
・このうへは、念仏をとりて信じたてまつらんとも、またすてんとも、面々の御はからひなり


とあるように「往生極楽の道」=「念仏」です。また「阿弥陀仏が誓われている本願」とは、

弥陀の本願と申すは、名号をとなへんものをば極楽へ迎へんと誓はせたまひたる『末灯鈔』12通

とあるように、「「念仏を称える者を必ず極楽浄土へ迎える」と、阿弥陀仏が誓われている本願」です。ですから、「念仏」のいわれ、またそれを聞いて称えよということが勧められていなければ、「往生極楽の道」を説いているとは言えないのです。それがどうですか? 年頭所感を始め、高森会長の話のどこに、

念仏」のいわれ、またそれを聞いて称えよということ

が勧められているでしょうか? 高森会長が挙げた『浄土和讃』にも

仏の御名をきくひとは

とちゃんと書いてあるでしょう。だから私達は「仏の御名」である「本願の名号」、「南無阿弥陀仏」のいわれを聞いて「念仏」せよと教えられるのです。


親鸞聖人は「行文類」にて、「南無阿弥陀仏」とは衆生に帰せよと命じる如来のよび声、つまり「必ず極楽浄土へ迎えるから、安心してただこの阿弥陀にまかせなさい」という命令、仰せなのだと教えられています。また、それは阿弥陀仏が、衆生の願いに先立って、久遠のむかしに衆生を救済しようという大悲の願いを発し、衆生に往生の行を施し与えてくださる仏心であるとも仰せです。この、私達に施し与えて下さるという「往生の行」というのが「念仏」です。

念仏」は、私達が様々な行の中から選んで称えるのではなく、如来が発願し回向されたその行が、選択本願において選び定められたものでありますから、阿弥陀仏の方でただ一つ選んで「なんまんだぶせよ」と仰せられる行なのです。こうした阿弥陀仏の勅命を受けたなら、念仏以外の自余の諸善、すなわち「雑行」は要らないなと廃るのです。そして、阿弥陀仏の仰せに帰して念仏する者はこの世で不退転の位に至る、お助け下さるというのです。

これが、蓮如上人が度々仰せられる「南無阿弥陀仏の六字のこころ」です。例えば『御文章』5帖目8通には

「南無」の二字は、衆生の弥陀如来にむかひたてまつりて後生たすけたまへと申すこころなるべし。かやうに弥陀をたのむ人をもらさずすくひたまふこころこそ、「阿弥陀仏」の四字のこころにてありけりとおもふべきものなり。

とある通りです。阿弥陀仏は私達を必ず助けるために本願をお建てになり、想像もつかない御身労をされて、「南無阿弥陀仏」と成って下さいました。

これすなはちわれらがやすく極楽に往生すべきいはれなり(同)

ですから、この「南無阿弥陀仏の六字のこころ」を知る以外に私達が極楽に往生するも何も無いことがお分かり頂けると思います。

されば信心をとるといふも、この六字のうちにこもれりとしるべし。さらに別に信心とて六字のほかにはあるべからざるものなり。『御文章』5帖目13通

とも仰せのように、「南無阿弥陀仏の六字のこころ」を知る以外に信心も安心も無いのです。であるのに、そのような肝心要の「南無阿弥陀仏の六字のこころ」を高森会長が説かない理由は何なのでしょうか?

1、そもそも高森会長は「南無阿弥陀仏の六字のこころ」を知らない。
2、知ってはいても、会員に信心を獲させる気が無い。


考えられるのはこの2つしかありません。いずれにしても、そんな知識から聞き続けても浄土真宗の信心を獲て、極楽に往生することはできないのは言うまでもないことです。


いつもの「光に向かう教え」「横の道を進む教え」「信一念とそれまでとを分ける教え」「宿善を厚くする教え」「三願転入の教え」といった高森教に支配された頭では受け入れ難いものがあるかも知れませんが、これが浄土真宗です。『歎異抄』に「ただ念仏して」とあるのも、元々は阿弥陀仏が「ただ念仏せよ」と仰せられていますから、その勅命を受けて「ただ念仏して」と言われているのです。

ただのだだもいらんただじゃったー!

などという訳の分からない境地ではないのです。阿弥陀さまの勅命を受けて、その通りにおまかせする以外に信心はありません。ありもしない信心を追い求め、「絶対の幸福」だとかいう幻想的な楽に憧れて、「往生極楽の道」とは無関係の組織拡大活動をしている限りは他力の信心など毛頭分かりませんから、会員の皆さんは早く親鸞会の邪義に気付き、高森教を捨てて浄土真宗に帰依し、阿弥陀仏の仰せを受けて念仏して頂きたいと思います。なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ。
プロフィール

淳心房&しゃあ

Author:淳心房&しゃあ
(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


(しゃあ)
平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
singikensho@yahoo.co.jp
(スパム防止のため@を大文字にしてあります。メール送信時は小文字に変えて下さい。)

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