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【考察】念仏往生の法義と信心正因、平生業成について(6)

本願の名号は往生の業因(往生成仏の果を得させる力)であり、その本願の名号を疑いなく聞き受けた信心が往生の正因であると言われます。この名号と信心、業因と正因ということについて、以下のようなたとえで教えられることがあります。

船(名号)は沈むものを乗せて渡すはたらきがあります。
でも、その船に私が乗らなければ(信心)私は彼の岸(浄土)に渡る(往生)ことはできません。
私の病を治す薬(名号)ができてそれを与えられても、
私が服用(信心)しなければ私の病はなおりません。


このたとえで言うと、本願の名義にかなって称える如実の称名、すなわち念仏は、悪道に沈む私達を迷いの世界からさとりの世界へと渡すはたらきがある「大船」のようなものです。また、治しがたい五逆・謗法・一闡提という重病をも療したもう「醍醐の妙薬」のようなものです。念仏が浄土真実の行、選択本願の行であると言われるのには、このようなわけがあるのです。

ただし、たとえにもあるように「その船に私が乗らなければ」、薬を「私が服用しなければ」、私の救いにはなりません。ですから、「念仏往生」と言われる法義が私達一人ひとりの上に実現するのは私達がその法を疑いなく信受した時であり、私達にとってはその信心が肝要ですから、これを「信心正因」と言われます。

信心が大事、信心正因、唯信独達と言われますが、何を信ずるのかと言ったら「念仏往生」の法です。この法を我々一人ひとりが信受して初めて救いが成立するのです。信受した時に、「念仏往生」という万人の道が私の道になるのです。念仏は、末代に生きる我らがごとき愚劣な凡夫に与えられた唯一の「往生のみち」であり、私の生きる道です。しかもどの道よりも速く、確実に往生成仏せしめられる最高の仏法、無二の法なのです。その念仏という法が届いて我々の帰命の信心となるわけで、念仏という法が抜け落ちた信心はありません。

また、念仏は我々に届いた本願の「」であり、本願の念仏にはわずか一声称えた者をも往生させる正定業としてのはたらきがあるということを聞いて疑いないのが「」です。この「」と「」は決して分けることができない不離の関係であることを、親鸞聖人は「御消息」にて次のように仰せられています。

信の一念・行の一念ふたつなれども、信をはなれたる行もなし、行の一念をはなれたる信の一念もなし。そのゆゑは、行と申すは、本願の名号をひとこゑとなへて往生すと申すことをききて、ひとこゑをもとなへ、もしは十念をもせんは行なり。この御ちかひをききて、疑ふこころのすこしもなきを信の一念と申せば、信と行とふたつときけども、行をひとこゑするとききて疑はねば、行をはなれたる信はなしとききて候ふ。また、信はなれたる行なしとおぼしめすべし。
これみな弥陀の御ちかひと申すことをこころうべし。行と信とは御ちかひを申すなり。


このことは、「行文類」の始めに「つつしんで往相の回向を案ずるに、大行あり、大信あり」と、これから顕す大行は勿論、後に詳細に顕す大信までも同時に示しておられることからも分かります。また、行一念釈においても「おほよそ往相回向の行信について、行にすなはち一念あり、また信に一念あり」と、行信それぞれに一念ということがあることをも同時に教えておられます。「信文類」本の大信釈や「同」末の信一念釈は、遠くこれらの示唆を承けての解釈です。

そして、「行文類」では「真実の行信」「選択本願の行信」と行信の次第で説かれ、「信文類」では真仏弟子釈において「この信行によりてかならず大涅槃を超証す」と信行の次第で説かれています。「」と「」は切っても切れない、分けるに分けられない不離の関係であることがよく分かります。

これは元々、阿弥陀仏が念仏往生の願(第十八願)において「至心信楽欲生我国乃至十念」と行信を誓われ、本願を信じて念仏する者を往生させると仰っているからです。親鸞聖人は行を第十七願に、信を第十八願に配当されましたが、第十七願と第十八願は元々一つの願でしたから、法然聖人の教えを継いで第十八願に集約して教えられてもいます。その一例が上に示した御消息です。

こうした信不離の行、行不離の信であることを、「行文類」でも「信文類」でも善導大師の「専心専念」(散善義・意)を釈して、一心一行、一行一心の行信を示しておられます。念仏を離れた信心もなければ、信心を離れた念仏もありません。これが親鸞聖人の教えられる「選択本願の行信」です。

しかし、姿かたちは念仏一行を専修していても、本願に相応しない行者もあります。本願を疑い、我が善根として名号を称える定散心自力の念仏の行者は化土にとどまるとして、自力疑心、自力の計らいを厳しく誡められていることはご承知の通りです。ですから、聖人は不離不二の行信を敢えて二つに分け、三心即一の信心を伴った念仏一行を専修せよと教えられたのです。この一心帰命の信心が肝要であると示すと共に、願力回向の信心こそ横超の大菩提心であり、往生成仏の果を開く仏道の正因であると聖道諸宗の論難に的確に答えられたのが「信文類」でした。


このようなことですから、

念仏がないから信心一つ
阿弥陀仏は念仏を称えよと仰っていない

などという教えが親鸞聖人の上にあるわけがないのです。中にはそのような説を真受けにしていたり、様々な考察を加えて折衷案を示したりという方もありますが、こういう教えは親鸞聖人の上には勿論、蓮如上人の上にもないことです。それに、今まで現れた和上様方もこんなことを仰っているとは聞いたことも読んだこともありません。もしそんな説法や記述がありましたら、ぜひ根拠を示して頂きたいものです。自分の信奉する先生を擁護したい気持ちはよく分かりますが、私達が一番にすべきは如来聖人のお言葉であり教えです。

真実の信心で念仏せよ

これが弥陀、釈迦、諸仏の本意にかない、七高僧方の勧められた「選択本願の行信」であり、真実報土へ往生するまことの因だと示されたのが親鸞聖人です。信心が涅槃の真因、真実報土の正因だと示すことは誠に結構なことですが、その信心の本体は如来の大悲心であり、それは念仏となって私の心に響き込んでくるのです。その念仏がないとか、称えよと仰っていないとか、信後の報謝であって信心獲得するには無意味とかいう説を受け容れてしまう人は、信心正因称名報恩説を誤解している可能性があります。

親鸞聖人が勧められたのは行だけでも信だけでもなく、「選択本願の行信」であることを私達は深く受け止めて、「助けるぞ」「我にまかせよ」という招喚の勅命となって響き込んで下さる南無阿弥陀仏の仏心を計らい無く受け容れ、お念仏申させて頂くのが如来聖人のおこころに合いかなうことであると思います。

蓮如上人は親鸞聖人の教えを承け、信心の体である「南無阿弥陀仏の六字のこころ」を示すことで正しい信心を顕し、称名は報恩行として教えられています。上人の時代は真宗だけでなく浄土宗や時宗の方々の影響もあり、往生には念仏だという思想が大分広まっていたと見えます。そういう人達には、その信を示すことが重要でしたが、そこから遠く時代が下った現代ではどうでしょうか。

信心正因称名報恩説が悪いとは思いません。ただ、昔と違って現代は往生も願わず、念仏が往生の業だとも知らない、念仏にどんな意味があるのかよく分からない、そんな人が多くはないでしょうか。こういう人に念仏の法を説かず、信心正因称名報恩説を説いても、念仏も信心も判らず方法論に迷うばかりではと危惧されます。実際に親鸞会会員は、信心獲得の方法論として「三願転入の教え」を授けられ、教義上は「雑行」を、実態は一新興宗教の組織拡大活動、「悪業悪行」をやって迷い続けている有り様です。


ちなみに、自説に都合の悪い『教行証文類』以外の聖人の著作やお手紙は「法然聖人の教え」だとして受け入れない方がありますが、そもそも『教行証文類』からして法然聖人の『選択本願念仏集』の真実性を証明されたものです。『教行証文類』を含めた親鸞聖人の著作の全てが「法然聖人の教え」と言ってもいいほどです。勿論聖人独自の発揮点も沢山ありますが、自説の都合に応じて「これは親鸞聖人の教え、これは法然聖人の教え」と分ける姿勢は問題と言わざるを得ません。

法然聖人の著作ならまだしも、『尊号真像銘文』等の著作や御消息は親鸞聖人のお書きになられたものです。そこには法然聖人の影響は多分にありましょうが、ご自身が信じてもいないことを書かれたり、門弟の方々に教えられたりする聖人ではないでしょう。やはりそこは「親鸞聖人の教え」として受け止めるべきだと思います。それでも御消息に書かれていることが「法然聖人の教え」であると主張するならば、では御消息に度々示される現生正定聚説は「法然聖人の教え」かと反論したいほどです。

親鸞聖人は法然聖人の正当なる教義継承者ですから教義の肝要な部分については完全に一致しています。親鸞聖人の教えの元は法然聖人にありました。それは、親鸞聖人の教えとされている信心正因、平生業成ということについてもです。これについては、長くなりましたので記事を改めて述べていきたいと思います。



【参照】
【報徳寺】「正信偈」本願名号正定業

「現実は悪い事ばかりなさっておいで」で、仏様相手の求道もしていなければ、当然「機の深信」も立っていない現役カルト信者

現役カルト信者はこちらの質問に答えず、相変わらずどうでもいいことを低俗な言葉でツッコむアラシコメントを連投しています。言っておきますが淳心房への人物批判に終始しているのは教義に対して反論できないという何よりの証拠ですから喜ばしいことです。また低俗なコメントを連発するほど親鸞会会員の程度の低さが露呈するので、そういう意味ではこれも良い傾向です。そして世間や疑問を持って調べるようになった会員にそれらを知らしめるきっかけにもなります。


さて、親鸞会にいると、善悪の価値判断の基準が狂ってきます。何度も書いていますが、親鸞会の勧めは

・高森顕徹会長の話を自力で命がけで聞くこと
・親鸞会に人を勧誘し、会員(学徒)にすること
・親鸞会に財施すること
・高森会長や上司の指示に無条件で従うこと


を中心とする「高森の行」いわゆる組織拡大活動で、善でも行でもない悪業悪行です。これが最優先で、大学や社会人サークルでは正体を隠した勧誘活動をしたり、家族や周囲の反対に遭ったらやめた体でいて活動を続けたり、時には噓まで平気でついたりします。後生の一大事の解決が一番で、最優先すべきことという気持ちなのでしょうが、教義上善を勧められていながら止むを得ないと分かってか、そういう自覚も無しか、いずれにしろ悪業悪行に走っているのが親鸞会会員です。

中には、親鸞会会員であることを公表するのに後ろめたさを感じる会員も少なくないでしょう。唯一絶対にして真実の宗教だとか言いながら、その自信が全く無いのです。よくキリスト教や他宗教の方が戸別訪問やチラシ配りをしておりますが、それらの方々の方がよほど堂々としています。自分の信ずる教えに自信を持っているのでしょう。対して親鸞会会員は、本当にこの道を進んだ先に救いはあるのか不安な思いにかられながら、しかし無常と罪悪にせめたてられて活動している人が多いと見受けられます。自信がない上に救われる確証もない、加えて批判を恐れているから、後ろめたい気持ちを拭えないのです。そこには、勧められること、やっていることが自身の道徳的良心に照らしておかしいのではと思う心があるからと考えられます。会員の皆さんは、まだかすかに残っている道徳的良心をもっと大事にし、教義に疑問を抱くべきです。

これが現役カルト信者の場合は、悪をしているという自覚も無く、麻痺しきった状態ですから手に負えません。ハンドルネームからして周囲を欺くようなネーミングですし、しかも複数使い分けて、同一人物同士で批判しています。IPアドレスを調べればすぐ分かることです。精神分裂症なのか知りませんが、そんなことで周囲をかく乱できていると思っているようで実におめでたい脳みその持ち主です。ここまで酷いのは、会員の中でも彼や異星教の教祖様くらいでしょう。尤も、書き込みはしないまでも同程度の会員はいるでしょうが。


さて、現役カルト信者は仏教にまるで無知であることがコメントからよく伺えます。彼は、我々の行為は

佛の眼から見られたら100%悪


だと思っているようです。雑毒の善の区別もつかないようなので、教えてあげます。

しかるに無始よりこのかた、一切群生海、無明海に流転し、諸有輪に沈迷し、衆苦輪に繋縛せられて、清浄の信楽なし、法爾として真実の信楽なし。ここをもつて無上の功徳値遇しがたく、最勝の浄信獲得しがたし。一切凡小、一切時のうちに、貪愛の心つねによく善心を汚し、瞋憎の心つねによく法財を焼く。急作急修して頭燃を灸ふがごとくすれども、すべて雑毒雑修の善と名づく。また虚仮諂偽の行と名づく。真実の業と名づけざるなり。この虚仮雑毒の善をもつて無量光明土に生ぜんと欲する、これかならず不可なり。「信文類」信楽釈

【現代語訳】
ところで、はかり知れない昔から、すべての衆生はみな煩悩を離れることなく迷いの世界に輪廻し、多くの苦しみに縛られて、清らかな信楽がない。本来まことの信楽がないのである。このようなわけであるから、この上ない功徳に遇うことができず、すぐれた信心を得ることができないのである。すべての愚かな凡夫は、いついかなる時も、貪りの心が常に善い心を汚し、怒りの心が常にその功徳を焼いてしまう。頭についた火を必死に払い消すように懸命に努め励んでも、それはすべて煩悩を離れずに修めた自力の善といい、嘘いつわりの行といって、真実の行とはいわないのである。この煩悩を離れないいつわりの自力の善で阿弥陀仏の浄土に生れることを願っても、決して生れることはできない。

いわゆる「機無」の釈ですが、我々の三業はどれをとっても煩悩にまつわられて、善心を起こしてどれほど懸命に励んでも有漏善、煩悩の雑じった善しかすることができない、そのような善では無量光明土(真実報土)へは往生できないということがここでは述べられています。私達の行為は佛の眼から見られたら100%悪なのではないのです。なる行いもするのです。ただ、佛の眼から見られたら100%真実の業とは呼べない善しかできないので、我々のやる善では絶対に報土往生できないということです。これが「機無」の釈です。

我々の行為はどれだけ努め励んでも「雑毒雑修の善」「虚仮諂偽の行」であって「真実の業」ではありません。しかし「雑毒雑修の悪」「虚仮諂偽の悪」でもないのです。こんなことすら区別がつかないのが現役カルト信者です。

「現実は悪い事ばかりなさっておいで」で、仏様相手の求道もしていない彼の行為は、自分で宣っているように佛の眼から見られたら100%悪なのでしょうが、そんなことは釈尊を始め七高僧のどなたも仰っていませんし、当然親鸞聖人の教えにもありません。


第一、彼には「機の深信」がありませんので分からないのも無理からぬことです。「二種深信」の釈は、親鸞会で紹介している以外にもう一つあります。それが『往生礼讃』

二には深心。すなはちこれ真実の信心なり。自身はこれ煩悩を具足する凡夫、善根薄少にして三界に流転して火宅を出でずと信知し、いま弥陀の本弘誓願は、名号を称すること下十声・一声等に至るに及ぶまで、さだめて往生を得と信知して、すなはち一念に至るまで疑心あることなし。ゆゑに深心と名づく。

のお言葉です。この中で

自身はこれ煩悩を具足する凡夫、善根薄少にして三界に流転して火宅を出でずと信知

したのが「機の深信」です。自身は佛の眼から見られたら100%悪と仰っているでしょうか? それはつまり、我々は無善根だということになりますが、善導大師はそのように仰っていません。「善根薄少」と仰っています。善根はあるにはあるが、迷いの世界を出離するには全く及ばないということです。「善根薄少」と「無善根」の区別さえつかないのが現役カルト信者です。まぁ自分で言っているように謗法闡提なのですから、彼は「無善根」なのでしょうが、それを全ての人もそうなのだと拡大解釈するところに親鸞会特有の傲慢さがあります。

ちなみにですが、

いま弥陀の本弘誓願は、名号を称すること下十声・一声等に至るに及ぶまで、さだめて往生を得と信知して、すなはち一念に至るまで疑心あることなし

の部分が「法の深信」です。念仏を称えて必ず往生すると信知したのが「法の深信」です。

お念仏でも助かりませんでした( TДT)
2019-01-25(06:42) : 元会員


という現役カルト信者とは真逆の信心です。「機の深信」が立ってないのですから当然ですが、「法の深信」もない、「真実の信心」でも何でもないのが彼の信心です。


自力心の虜で、倫理道徳的な善悪の価値判断もない、親鸞会での価値判断が全ての現役カルト信者は、何よりもまずそのような自分に気づくところから始めるべきでしょう。なお、彼の言動からも分かるように、親鸞会の活動をしていったところで「善のできない自分」とは知らされませんし、それに対して心から申し訳ない、情けないという気持ちも起きません。逆に、悪にほこることを平然とするような人間になりかねません。というか、ほぼそうなってしまっているのが会員です。

機無」の釈では、自力では絶対に報土往生できないことを知らせ、如来の大悲心が本体であるような信楽が報土の因であることが教えられています。それをそこだけ切り取って、しかもそのような自分であると知らされなければ救われない、それには真剣に善に励むより方法は無いと組織拡大活動に走らせているのが親鸞会で、完全に誤りです。会員の皆さんは、いいように使われているだけであることに早く気付いて脱会すべきです。

【考察】念仏往生の法義と信心正因、平生業成について(5)

本願の念仏には私の計らいは露ほども雑じっていません。如来が真実心をもって「どうか称えておくれ」と回施された他力の行だからです。「他力には義なきを義とす」、全て如来の計らいで、私としては計らいをまじえずにただ如来の計らいにおまかせするばかりです。そのおまかせしている姿が、お念仏申している姿なのです。

このように念仏は私の口より出ていますが、私が称えているのではなくて、「わが真実なる誓願を信楽し、念仏して浄土に生まれてきなさい」と誓われた本願力が私の上に現れたものだというのです。念仏は凡夫の計らいで称え、往生を願う自力回向の行ではなく、「我にまかせよ」と喚んでおられる本願の仰せであり、阿弥陀仏の本願力によって自ずからしからしめられる他力回施の行、我々の方からは不回向の行なのです。そのことを、南無阿弥陀仏の六字を精密に解釈することによって示されたのが親鸞聖人の六字釈でした。

しかれば南無の言は帰命なり。帰の言は、[至なり、]また帰説(きえつ)なり、説の字は、[悦の音こえなり。]また帰説(きさい)なり、説の字は、[税の音こえなり。悦税二つの音こえは告なり、述なり、人の意を宣述するなり。]命の言は、[業なり、招引なり、使なり、教なり、道なり、信なり、計なり、召なり。]ここをもつて帰命は本願招喚の勅命なり。
発願回向といふは、如来すでに発願して衆生の行を回施したまふの心なり。
即是其行といふは、すなはち選択本願これなり。必得往生といふは、不退の位に至ることを獲ることを彰すなり。
『経』(大経)には「即得」といへり、釈(易行品 十五)には「必定」といへり。「即」の言は願力を聞くによりて報土の真因決定する時剋の極促を光闡するなり。「必」の言は[審なり、然なり、分極なり、]金剛心成就の貌なり。


【現代語訳】
そこで南無という言葉は、翻訳すれば帰命といいます。「帰」という言葉には、至るという意味があります。また帰説(きえつ)と熟語した場合、説は「悦(えつ)」と同じ意味になって、悦服のことで、「よろこんで心からしたがう」という意味になります。
また帰説(きさい)と熟語した場合、説は「税(さい)」と同じ意味になって、舎息のことで「やどる、安らかにいこう」という意味になります。
説(せつ)の字には、悦(えつ)と税(さい)の二つの読み方がありますが、説(せつ)と読めば「告げる、述べる」という意味で、人がその思いを言葉として述べることをいいます。「命」という言葉は、業(はたらき)、招引(まねきひく)、使(せしめる)、教(おしえる)、道(目的地に通ずる道。また「言う」の意)、信(まこと)、計(はからい)、召(めす)という意味を表しています。
こういうわけですから「帰命」とは、衆生を招き喚び続けておられる阿弥陀仏の本願の仰せです。
「発願回向」とは、阿弥陀仏が、衆生の願いに先立って、久遠のむかしに衆生を救済しようという大悲の願いを発し、衆生に往生の行を施し与えてくださる仏心をいいます。「即是其行」とは、如来が発願し回向されたその行が、選択本願において選び定められたものであることを表しています。
「必得往生」とは、この世で不退転の位に至ることを顕しています。『無量寿経』には「即得往生」と説かれ、その心を釈して『十住毘婆沙論』には、「即時人必定」といわれています。
「即」の字は、阿弥陀仏の本願力を疑いなく聞くことによって、真実報土に往生するまことの因が決定する時の極まりを明らかに示された言葉です。「必」の字は、「明らかに定まる」ということであり、本願力によって自ずから然らしめたまうという道理を表しており、迷いの境界と分かれて、さとりを極めるべき正定聚の位につけしめられたことを表しており、金剛のように堅固な信心を得ているすがたを表しています。


これによって、我々が称えている南無阿弥陀仏の六字に込められている心が明らかになりました。そして、引文の最後に法然聖人の『選択本願念仏集』の題号と標宗の文、そして『選択集』結論である三選の文を引き、称名念仏は自力回向の行ではなく、本願力回向の行、私達の方からは不回向の行であると結ばれたのです。

そもそも「行文類」は法然聖人が示された選択本願の念仏が真実の行であることを顕かにした文類ですから、その中に「阿弥陀仏は念仏を称えよと仰っていない」なんて教えがあるわけがないのです。また、本願の念仏を浄土真実の行と選定された親鸞聖人の上に、「念仏がないから信心一つ」などという教えもあるはずがないのです。前者は衆生の無作を強調するが故、後者は信心を強調するが故の説と見受けられますが、いずれも選択本願念仏という行法を無視、または軽視していると言わざるを得ない説です。


本願の名義にかなった称名は、よく衆生の一切の無明を破し、よく衆生の一切の志願を満たす正定業としてのはたらきがあります。称名がすなわち正定業であり、正定業がすなわち名号であり、名号がすなわち信心であり、信心がすなわち称名であるという、そのような南無阿弥陀仏が成就して今私の上にはたらいている。だから私の往生は間違いないんだと南無阿弥陀仏の六字のいわれを疑いなく受け容れたのが信心です。

一声一声が如来より回向され、浄土往生の正しき行業であるような念仏によって往生成仏せしめられることから、これを法の上では「念仏往生」の法義といいます。この「念仏往生」が私達の上に実現するのは、私達一人ひとりが「念仏往生」を誓われた本願を計らいなく受け容れる信心が開き起こった時です。私達にとっては本願に二心ない信心が肝要ですから、機の上では「信心正因」と言われます。それは臨終に往生が決定するというものではなく、平生、つまり只今、本願の名号を聞き受けたその時に往生治定するというので、後の世の人がこの親鸞聖人の教えを「平生業成」と言ったのです。

なお、臨終にこうした念仏往生の法義を承り、本願を信じわずかに念仏して命終わったとしても、それは立派な平生業成の行人です。また、臨終間際に法義を聞き受けたものの、わずか一遍も念仏を申せずに命終わったとしても、その人は素晴らしい念仏の行者というべきです。阿弥陀仏の大悲は平生の人も臨終の人も選ばずに摂取するのですし、念仏に込められた大悲心を信受した方は口に念仏できずとも念仏の衆生だからです。

ただ、これを勘違いして「念仏を称える必要は無い」「信心さえあればいい、念仏は要らない」という邪見に陥ってはなりません。そう思ってしまう人は、念仏に込められた意味をよく領解していない人です。諸仏讃嘆の名号であり、阿弥陀仏が大悲を込めて回向して下さる真実の行業であり、常に私を浄土へと喚ばせたもう勅命である、それが念仏です。そして、本願のはたらきによって私の口に現れ出るものであり、信心の本体である如来の大悲心であり、永遠不変にして一切衆生を善悪賢愚の隔てなく往生成仏せしめる究竟にして唯一の法でもあるのです。そのような、名号であり、行であり、法そのものであるような念仏一つで往生することに疑いないのが信心ですから、どちらかを取り上げてどちらかを否定するようなことは真宗ではない異説です。


念仏往生」と「平生業成」は別物だと誤解しているとしたら、それは「念仏往生」を「自力念仏往生」と決めつけているからであろうと思われます。善導大師、法然聖人を始めとする浄土真宗の祖師方が明らかにしてこられた「念仏往生」は、当たり前の当たり前ですが内に本願を疑いなく受け容れた信心を具足した念仏による往生すなわち「他力念仏往生」です。

「念仏を称える」という我々の行為によって往生するのではなく、「念仏を称えさせる」という本願力が届いて、その本願のひとりばたらきで往生するのです。ですから、本願の念仏には、自然に本願を疑いなく信受する信心が具足しているのです。このようなことですから、法の立場で言えば「念仏せよ」と説かれ、これを受ける機の立場で言えば「計らいを捨てて本願を信受せよ」となるのです。

本願の念仏と信心は不離不二の一具の機と法です。衆生の無作を強調して本願の行法を説かない、信心正因だから称名はお礼などと軽視して専修念仏を説かないようでは、聞く側は信心の何たるかを知らないだけでなく、行にも迷い、信心を獲る方法論に陥ってゆくことでしょう。この最たる例が親鸞会の「雑行の勧め」であり、「三願転入の教え」、「宿善を厚くする教え」、「光に向かう教え」であることを忘れてはなりません。

【考察】念仏往生の法義と信心正因、平生業成について(4)

親鸞聖人が顕された真実の「」は念仏です。以前に

本願のはたらきを「行」という

という話を聞いたことがありますが、これは「」というよりは「他力」のことでしょう。Abcさんのコメントにあるように間違った表現ではありませんが、「」というのは「行文類」の始めに

大行とはすなはち無碍光如来の名を称するなり。「行文類」大行釈

と釈され、経文の引証の後に

しかれば名を称するに、よく衆生の一切の無明を破し、よく衆生の一切の志願を満てたまふ。称名はすなはちこれ最勝真妙の正業なり。正業はすなはちこれ念仏なり。

とも仰っていることから念仏であることは自明の理です。称名正因の異義に陥ることを恐れてなのか、衆生の無作を強調してなのか、自力を捨てて他力に帰するのが宗の極致と言いたいからなのか。よく判りませんが、とにかく信心正因称名報恩を掲げて信や聞を強調し、念仏という行を説かない方が散見されます。

称名念仏は、私の口から出るものですが、私の計らいによるものではなく、本願が成就して回向された他力の行です。本願のはたらきがそのまま私に現れたのが、「なんまんだぶ、なんまんだぶ」と称え聞こえるお念仏だというのです。ですから大行釈の始めには「往相の回向を案ずるに、大行あり」と仰り、お念仏の出所は私ではなく、「真如一実の功徳宝海」より出で来たもうた大行であると言われるのです。

そのような本願力回向の「」が念仏です。親鸞聖人は「」について「おこなふとまうすなり」と左訓されています。また「真実の行業あり」(『如来二種回向文』)とも仰せですから、「」とは「おこなう」「おこない」のことと見られていたことがわかります。もちろんその「おこない」は、それによって迷いの根源である無明煩悩が寂滅し、涅槃の境地に至ることのできるような徳をもった「まことのおこない」(真実行)のことです。

」とは、梵語チャリャー(caryā)の漢訳で、行為・動作・実践の意です。浄土往生する者の正しい行い、これが念仏という浄土真実の行、選択本願の行なのです。これは本願においてただ一つ選択され、誓われ、回向されている浄土往生の正しき行業ですから、正定業というのです。18願の「乃至十念」か、17願の「称我名」かという出拠の違いはありますが、ともあれ念仏阿弥陀仏ご自身が選ばれた行です。


」のない宗教はありません。天台宗には天台宗の「」があり、真言宗には真言宗の「」があります。禅宗にも、日蓮宗にもそれぞれの「」があります。これは何も仏教に限ったことではありませんね。キリスト教にはキリスト教の「」があり、イスラム教にはイスラム教の「」があります。ヒンズー教にしても、その他数多くの宗教にしても、それぞれの宗教の「」があります。

」というのは、それを見たらその人がどのような生き方をしているか分かるものです。その人が何を拠り所とし、何を信じて生きているのか、それはその人の「」を見たら分かるのです。「」は、その人の生き方を表すのです。それくらい、「」というのは大事なものなのです。

それが、なぜか知らないけれども、浄土真宗には「」が無いかのように説くお坊さんがいます。おそらく一切の自力を捨てて他力に帰するという教えを誤解してか、何も「」ずるものがないように思っているのでしょう。確かに、こちらから阿弥陀仏の救いに何かを加えることはありません。逆に何かを加えることが計らいであるとして、それを真宗では厳しく誡められています。

では浄土真宗には「」が無いのかと言ったら違います。無いのなら、「教行証文類」なんて言わないでしょう。教えがあって、それを聞いて信心を頂いて、さとるというのなら、「教聞証文類」あるいは「教信証文類」じゃないですか。でも違う。親鸞聖人はご自身が書かれたあの大部な著書を「顕浄土真実教行証文類」と名づけています。これは「浄土に往生する真実の教と、行と、証に関する文を集めた書」ということでしょう?

だから浄土真宗にもちゃんと「」があるんです。ただそれは私達の計らいによって如来、浄土に近づいていこうという「」じゃなくて、如来、浄土より私に届いた「」だというのが一般の宗教や他宗と違ったところです。それが南無阿弥陀仏、あるいは帰命尽十方無碍光如来、南無不可思議光仏と申す念仏です。これは先ほども述べたように阿弥陀仏ご自身が選ばれた行であり、私に「これを称えて生きよ」と与えて下さった真実の行であります。浄土往生する者の正しい行い、真実の行い、つまり正しい生き方、真実報土へ生まれてゆく生き方。これが念仏という阿弥陀仏より与えられた真実の行なのです。


だから、お念仏を申して生きるというのは、阿弥陀仏の本意にかなった生き方なんです。正しい行いというのは、つまり正しい生き方のことです。阿弥陀さまに、私達はどのように生きていったらいいですかとお尋ねすると、「我が真実なる誓願を疑いなく信じ、我が名を称えて生きなさい」というのです。これが一番心が安らぐ生き方であり、仏様を始め様々な人やものへ感謝していける幸せな生き方です。

そして、どんな頓教より速やかに真実報土へ往生してこの上ないさとりを開き、この世ではどうしてあげることもできなかった人々を、今度は責任をもって救ってゆくという、最高の仏道の生き方です。私達は阿弥陀さまからお念仏という、この上ない素晴らしい「」を与えられているのです。それを

阿弥陀仏は念仏を称えよと仰っていない

とか訳の分からないことを平然と言い、またそのように指導している人が本願寺内にいるというのですからゆゆしき事態です。しかも根拠が「行文類」親鸞聖人の六字釈だというのですから、どこをどう読めばそうなるのかと呆れてしまいます。

私達は、阿弥陀仏より素晴らしい「」を賜っていることを慶び、もっぱらこの「」に仕え、と同時に如来から賜った「」を崇めてゆくべきであると思います。なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ・・・



【補足】
Abcさんのコメントを承けて、記事内容を一部修正しました。Abcさん、ご解説ありがとうございます。

【考察】念仏往生の法義と信心正因、平生業成について(3)

桐谷順忍和上は次のように仰せと紹介されています。

~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・
では、どうして衆生の称名が諸仏の称名(名号)と不二になるのかというに、その重要な表現の一に「称即名とまきあがる」というものがある。それがこの学轍の不二の最要の表現であるとも思われるのである。それは衆生の称名がそのまま諸仏の称名である名号と「位が同じく」なるという意味であり、自分の称えた称名がそのまま聴聞の名号の位にまきあがるのだと主張するのである。
ここに空華学轍のいう「称名」の意味が、善導・法然によって説かれてきた、称名念仏と、称名の意味、念仏の意味が大いに異なるものがあることに注意しなければならないのである。すなわち、行巻の「称無碍光如来名」とは、無碍光如来のみ名を称えることではあるが、それは在来、日本浄土教で用いられて来た称名ではなく、自分の口から出て下さる南無阿弥陀仏ではあるが、それは行巻で示される「本願招喚の勅命」としての南無阿弥陀仏とするのである。

だから、この六字釈の意味からいえば「称無碍光如来名」の称名は、信後の報恩の称名ではなく、自分の口から出るものではあるが阿弥陀如来が「我に帰せよ」の招喚の勅命であり、自分にとっては聞きものという立場に立つものである。この意味で「称即名とまきあがる」というのである。

この行巻の六字釈がなければ、諸仏の称名と衆生の称名とが不二一体であるという意味が、十分理解することが出来ないのではないか。名号が称えられているのだから、能称と所称とが不二だといわれても十分ではないが、私の称名が単なる仏名を称するものではなく、如来のよび声であり、本願招喚の勅命であり、称えながら聞きものである場合でハッキリと称即名といえるのである。
それは諸仏の称名は、私にとって聞きものである。もし私の口から出て下さる南無阿弥陀仏が如来のよび声であったら、私の口から出るものではあるが、私にとっては「聞きもの」である。諸仏の称名も聞きものであり、私の称名も聞きものであるという立場にたったとき、はじめて純粋に「私の称名」が「諸仏の称名」と不二一体になるのである。そこにはじめて能所不二であり、しかも、所称の法体の名号を大行という説が成立するのである。
空華学轍の思想/桐谷順忍
~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・

和上は、親鸞聖人の六字釈によって「諸仏の称名と衆生の称名とが不二一体である」ことが分かると仰っています。「自分の称えた称名がそのまま聴聞の名号の位にまきあがる」、つまり念仏を称えるというのは、私の口から出て下さるなんまんだぶを「本願招喚の勅命」として聞くことであるというのです。ですから念仏を称えるとは、本願の名号を聴聞するのと同じ、「称名」=「聞其名号」というわけですから、空華学派でも

そのまま聴聞の名号の位にまきあがる

という意味での称名念仏は勧められていることが分かります。どなたかのように六字釈によって

阿弥陀仏は念仏を称えよと仰っていない

ことが分かるなどとは、上の文章内はもちろん、リンク先を全文読んでも欠片も見当たりません。


阿弥陀仏が17願において諸仏讃嘆の名号を誓われ、諸仏に称揚称讃せしめているのは、私に聞かせて称えさせるためでしょう。この無碍光如来の名号に破闇満願のはたらきがあるのだから、その名義にかなって称える我々の称名にまた破闇満願のはたらきがあると親鸞聖人は教えられたのです。

しかれば名を称するに、よく衆生の一切の無明を破し、よく衆生の一切の志願を満てたまふ。称名はすなはちこれ最勝真妙の正業なり。正業はすなはちこれ念仏なり。念仏はすなはちこれ南無阿弥陀仏なり。南無阿弥陀仏はすなはちこれ正念なりと、知るべしと。「行文類」破闇満願

こうした破闇満願のはたらきのある、浄土往生の正しき行業である称名念仏一行を本願の行として選び択られたのは他ならぬ阿弥陀仏です。私が選んで称えているのではなく、阿弥陀仏が選んで称えさせているのです。私が称えたから往生の業となるのではなく、阿弥陀仏が往生の業となるように選び択って与えて下さった行だから、自然に往生の業となって下さるのです。これを法然聖人は『選択集』不回向回向対にて

正助二行を修するものは、たとひ別に回向を用ゐざれども自然に往生の業となる。

と仰せられています。これを親鸞聖人は、念仏が行者の回向を用いない行であるということは、如来の方から回向されている本願力回向の行なのだと反顕されたのです。親鸞聖人が六字釈で明らかにされたのはむしろ念仏が我々の方からは不回向の行であり、他力回施の大行ということなのでした。

ところで、「本願招喚の勅命」としての南無阿弥陀仏とは、南無阿弥陀仏は「助けるぞ」「我にまかせよ」と喚んでおられる如来の仰せだということです。この如来の仰せを計らい無く聞いて仰せの通り後生をおまかせしたままが信心でありますから、念仏を称えることの他に信心があるのではありません。念仏が私の心に入ってきて、帰命の信心となって下さるわけで、法と機、行と信の別はありますが、同じ南無阿弥陀仏の名号を疑いなく信受して(信)、称える(行)という選択本願の行信が往生の因なのです。

それから信心の必然として名号が称えられ、その念仏をまた如来の喚び声と聞いて往生安堵と慶ぶのです。

私達は、ともすれば正定業としての念仏に計らいをまじえて、「どうぞ称えますから往生させて下さい」と往生を祈願する自力の念仏にしてしまいます。それだけならまだしも、阿弥陀さまの願いのお念仏を無病息災だとか、商売繫盛だとか、家内安全だとかという私達の願いを満たす念仏としてしまうのです。

念仏とは私達のそういう欲望を満たす功徳ではありません。それで私達としては、私達の念仏を称えるという行為に功を見ずに、南無阿弥陀仏の六字を如来の呼び声として聞き、そのまま受け容れることが大切なのです。これが信心であり、こうした信心が肝要ですから、ご開山は「本願招喚の勅命」としての南無阿弥陀仏という独自の解釈を加えられ、私達の自力疑心を誡めると同時に、選択本願の行を疑いなく信楽するという行信を勧められたのでしょう。


念仏がないから信心一つ
阿弥陀仏は念仏を称えよと仰っていない

このような説を平然と唱える人がありますが、あくまで信ずるのは

念仏往生の願(第十八願)

であり、それは

名号をとなへんものをば極楽へ迎へんと誓はせたまひたる
本願の名号をひとこゑとなへて往生すと申す

という本願、また本願成就の名号、すなわち念仏です。成就文を重視する方は、得てして念仏軽視、信心重視のきらいがあります。そうではないと仰るかも知れませんが、念仏抜きの本願でもなければ本願成就の名号でもありません。そうしたことでは、阿弥陀仏の選択の願心に背くことになるやも知れません。

アラシが目的で、「便所の落書き」のような書き込みを繰り返して慚愧あることない現役カルト信者

かつて親鸞会では、ネットでの会への批判は「便所の落書き」だと揶揄していました。しかし今や立場は逆転し、批判サイトに「便所の落書き」のような書き込みをしてくるのが親鸞会の不良信者です。

こちらの質問に答えられず、自分で「そんなサイト、イラン、スパムしてくだはれ」と宣言した現役カルト信者ですが、先日より秘密コメントでなおもしつこくアラシコメントを寄せてきました。それで現在、非公開コメントを受けつけない設定にしています。私と個人的にやり取りしたい方がいらっしゃいましたら、

singikensho@yahoo.co.jp
(スパム防止のため@を大文字にしてあります。メール送信時は小文字に変えて下さい。)

までメールを下さるようお願いします。

ちなみに、このブログの対機は主に親鸞会の教義や組織に疑問を持った会員や、退会しても未だに会の呪縛を引きずっている方です。そういう方に、親鸞会教義の誤りと、正しい浄土真宗の教義を知って頂き、本願を信じ念仏を申して浄土往生の本懐を遂げて頂きたいと思って書いています。


現役バリバリの会員は当面は対象外です。第一、熱心な現役会員は上司からの指示を守って批判サイトを見ることもしないでしょう。会からの一方的な情報を鵜呑みにし、高森会長や会を絶対視してこちらの話を聞かないのが彼らです。本来は彼らにも読んでもらいたいですが、現状ではとても当ブログの内容は受け入れ難いでしょう。それに反って謗法のくちびるをめぐらすだけですから、当面は対象外としています。

ところが、時折いるんですよね。「批判サイトを読むことは謗法罪だ」と教えられていても読んで、冒頭申し上げたように「便所の落書き」のようなアラシコメントをしてくる輩が。講師部員、もとい高森会長の指示を聞いてるんだか聞いてないんだか、よく判りません。彼らの言う「破邪顕正」のつもりかも知れませんが、正しいことを知りもしない、間違っていることに気づきもしないで書き込んでくる辺りが実に愚かです。

参考までに、今までに現役カルト信者から寄せられた「便所の落書き」は以下のようなものです。

●雑行をすてよ!御文章にたくさんあんねか~

親鸞会館で雑行勧めてないよ!

善いことは勧めているけど!


●親鸞会館に有る書籍に雑行勧めてる所有るか探してみ~


●イコールって(笑)

雑行の本質知らんがけ?


●地獄脅しでないよ♪

無常脅しだよ♪

一瞬先は闇、もどき坊やも私もね♪(私は光に向かって進んでいるけどね!)


●誰の人も速く後生の一大事を心にかけて・・・

蓮如会長の地獄脅しww


●自力の命懸けの求道ww

何聞いてんの???ダラ♪

おまんらの言葉遊びじゃぼけ!

わしゃ今まで1度も聞いた事ないわ!


●Abcそなた善をしないとな?
よい結果帰ってこないよ(笑)


●万善自力・・・

よろずの善を後生助かろうとして弥陀にお供えする気持ちでするのを自力と嫌われ棄てよと教えておられるところ

善をするなと言う事ではない


●自力を離れず他力に入ってないAbcさんが、そのような御文だされても・・・(笑)

念仏はご恩返し・・・

世間ではご恩返しは善いことでは?(笑)


●もどき坊やAbc(浄土真宗)の教えに善の勧め!ある?ない?


謗法のくちびるをめぐらしていることがよくお判りでしょう。気付いていないのは本人ばかりです。


ところで、現役カルト信者は「雑行」の意味すら判っていないようなので解説しておきます。まず意味は

正行に対する語。雑は邪雑、雑多の意味で、本来はこの世でさとりをひらくことをめざす聖道門の行である諸善万行を、往生行として転用したものであるから、このようにいう。     (浄土真宗辞典)


です。善導大師は

この正助二行を除きて以外の自余の諸善は、ことごとく雑行と名づく。「化身土文類」引文

【現代語訳】
この正定業と助業以外のすべての行は、みな雑行という。

と教えられ、親鸞聖人は

正とは五種の正行なり。助とは名号を除きて以外の五種これなり。雑行とは、正助を除きて以外をことごとく雑行と名づく。これすなはち横出・漸教、定散・三福、三輩・九品、自力仮門なり。
(中略)
それ雑行・雑修、その言一つにして、その意これ異なり。雑の言において万行を摂入す。五正行に対して五種の雑行あり。雑の言は、人・天・菩薩等の解行、雑せるがゆゑに雑といへり。もとより往生の因種にあらず、回心回向の善なり。ゆゑに浄土の雑行といふなり。
正助雑釈雑行釈

【現代語訳】
正とは、読誦・観察・礼拝・称名・讃嘆供養の五正行である。助とは、称名以外の読誦・観察・礼拝・讃嘆・供養の五種である。雑行とは、正・助の行以外をすべて雑行というのである。これは、浄土門の中の自力である横出の教えで、長い時を費やす漸教であって、定善・散善や世福・戒福・行福の善を修め、三輩・九品のそれぞれの資質に応じて行を修める自力方便の教えである。
(中略)
さて、雑行と雑修とは同じような言葉であるが、意味は違っている。雑という言葉には、すべての行をおさめてしまうのである。五種の正行に対しては、五種の雑行がある。この雑という言葉は、人間や神々に生れる行や菩薩の行などがさまざまにまじっているという意味で雑というのである。これはもとより阿弥陀仏の浄土に往生する因ではなく、浄土を願う心をおこし、これらの行を浄土往生のための善としなければならないから、浄土往生の行としては雑行というのである。


と仰せられています。つまり19願の「諸功徳」、『観経』顕説の定散二善、「七仏通戒偈」の「衆善」等は、往生行としてはことごとく雑行と名づくというのです。そういった雑行を修めて往生を願っても末代の我々は助からないから、選択本願の行である念仏一行を専修せよと教えられたのが法然聖人、親鸞聖人です。だから聖道諸宗に仏教ではない邪教であると攻撃され、浄土宗は法難に遭って死刑に処せられる方まであったのです。

こうした往生行としての善、いわゆる雑行と、倫理道徳上の善の区別がついていないのが現役カルト信者です。倫理道徳上の善は本来往生行ではありませんから、浄土を願って発願回向しなければ雑行にはなりません。往生を願って、往生に役立てようとするから雑行と嫌われ捨てよと言われるのです。逆に言えば、往生を願わず、往生とは無関係だとわきまえて行えば雑行ではありません。

ところが、親鸞会ではそうではありません。彼らの目的は獲信であり、往生のはずです。そのために宿善を厚くせよといい、宿善を厚くするための聴聞や破邪顕正、また財施等の六度万行を勧めています。三願転入の教えにしても同様で、獲信・往生のために19願の「諸功徳」や定散二善を勧めています。これらは、獲信を願い、獲信に役立てようとしている雑行に他なりません。それでは化土へしか往けないから速やかにこれを捨てて、本願を疑いなく信受して選択回向せられる本願の念仏一行を専修しなさいと教えられたのが親鸞聖人でした。

ですから、親鸞会では教義上雑行を勧めていることになります。ただ、実態は組織拡大活動という悪業悪行を中心とする「高森の行」ですから雑行にも入らないということは再三述べている通りです。


アラシが目的で、「便所の落書き」のような書き込みを繰り返して慚愧あることない現役カルト信者は、どこまでも哀れ哀れです。あのような書き込みをすることが「善」だと思っているところが輪をかけて哀れです。

彼に付き合って、コメントを機会に親鸞会の邪義を明らかにしていってもいいのですが、過去の法論ですでに決着がついているものばかりですし、それもいささか飽きました。また、私が現在書こうとしている記事が書けなくなってしまうので、相手をするにもほどほどにしておきます。

相手にしてほしかったら、現役カルト信者は、的外れのアラシコメントをしていないで

「弥陀の呼び声」について
1.弥陀の呼び声の「そのまま来い」とは「どこへ」来いということか?
2.弥陀の呼び声の「そのまま来い」の「そのまま」とは「どのまま」か?
3.二河白道の譬えで言えば、どこで弥陀の呼び声を聞くのか?
a.東の岸にいる時
b.白道を中間ほどまで進んでから
4.声なき声、片手で打つとは?(二河白道の譬えで言えばどれに当たる?)


の残りの質問に早く答えて下さい。1は渋々「弥陀の浄土」と答え、2は「五逆、謗法、闡提のまま」と愚かな回答をしましたが、残りはまだです。高森教の邪義は結構ですから、聖教に基づいて答えて下さい。

【考察】念仏往生の法義と信心正因、平生業成について(2)

 『教行証文類』には、二つの序文が置かれています。一つはこの書の最初に書かれた序文であって、それは『教行証文類』全体の序文でしたから「総序」と呼んでいます。それに対して、ここ「信文類」のはじめに挙げられたものは、「信文類」のための特別の序文ですから、「別序」と呼ばれています。このように「総序」と「別序」という言葉を初めて用いられたのは存覚上人でした。その『六要鈔』第三に、

二に別序とは、第一巻の最初の総序に対してこれを別序と号す、これ安心の巻、要須たるがゆゑにこの別序あり。                                     (『真聖全』二、二七四頁)


といわれているのがそれです。「信文類」にだけ特別に序文が置かれたのは、「安心の巻、要須たるがゆゑに」といわれているように、安心、すなわち信心を顕すこの巻が、とくに真宗の肝要であったからです。

 この書で主として顕される真実の教、行、信、証という往相回向の四法のなかで、教は浄土真宗の法義を説き表された釈尊の教説(『無量寿経』)をいい、行・信・証は『無量寿経』に顕されている法義を指しています。そのなか行信は往生成仏の因を表しており、証はその行信がもたらす必然の結果を表しています。そこで浄土真宗の法義のなかでは、往生成仏の因を明らかにすることが肝要ですから、『教行証文類』は、行信を明らかにすることに力を注がれていました。たとえば「総序」(『註釈版聖典』一三一~一三二頁)には「もつぱらこの行に奉へ、ただこの信を崇めよ」といい、「たまたま行信を獲ば、遠く宿縁を慶べ」といわれていました。また「正信偈」の偈前の文には、『教行証文類』に顕される法義の全体を「選択本願の行信」にまとめ、それを讃嘆するのが「正信(信)念仏(行)偈」であるといわれるなど、至るところで行信は切り離すことのできない一具の法門として顕されていました。

 その行と信について、存覚上人の『六要鈔』一に、「行は所行の法なり、信はこれ能信なり。(中略)信行離れず、機法これ一なり」(『真聖全』二、二一二頁)といわれているように、行は第十七願で表されているように所行の法であり、信は、第十八願成就文に「その名号を聞きて信心歓喜する」と説かれているように、所行の法である本願の名号を受け容れる機受の能信を顕していました。

 親鸞聖人が、行は法を表し、信は機を表すとみなされていたことは、「行文類」の一乗海釈に、念仏を一乗の教法とし、信心を一乗の機と呼ばれていることでもわかります。それは行と信とは、切り離すことのできない一具の法義ではあるが、行と信とがそれぞれ顕そうとしている事柄には法と機との別があることを明確にするためでした。

 いいかえれば、行とは、本願の名号(念仏)という、一切の衆生を平等に救済する普遍の法が選択し回向されているということを表しており、信とは、その普遍の法が私のうえに届いて、私がその法を疑いなく受け容れたときに私の救いが実現するという機の受け心を表していました。ですから万人を救う法を顕す場合には、「本願の名号は正定の業である」と説きます。しかし、いつ私の往生が定まるのかという「往生の定まる時」を示す場合には、本願の名号という法を、私が疑いなく信受する時ですから、かならず「正定の因は唯信心なり」といわれるのです。法は普遍性を表していますから、時と所を超えています。しかしその普遍の法が、時間的、空間的に限定された一人ひとりのうえに実現していく信には、初めて開け起こった「時」が成立します。それを「信楽開発の時剋(信心の発った時)」というのです。『六要鈔』はそのことを、「行と信は所行の法と、それを信受する能信の機との関係にある。本来一つの南無阿弥陀仏を救う法として表すのが大行であり、救われる機がそれを受け取る側から表すのが大信である。だから機法の違いはあるが本体はまったく一つである」といわれたのでした。

 たとえば「念仏往生」というのは、念仏という選択本願の行は、万人を平等に往生させる徳を持った決定往生の行業であると行法の徳義を顕す法義であって、私が念仏した「とき」に往生が定まるというような法義を表す立場ではありません。念仏は普遍の法を表しているのですから、もし時間的に表現する場合は、「時節の久近を問わず」といい、空間的に表す場合には、「処を嫌わず、所縁を簡ばず」といわれています。時間と空間を超えて包んでいるのが法だからです。法然聖人や親鸞聖人が念仏について一念多念の争いをすること自体が誤っているといわれるゆえんです。

 それにひきかえ私の往生はいつ定まるのかといえば、私がその念仏往生の本願を疑いなく受け容れた「時」、すなわち信の一念です。それは時間と空間を超えた普遍の法を、私という時間的、空間的に限定されている機が疑いをまじえずに聞き受けたとき、普遍の法が個人のうえに実現し、私を完全に包摂します。その時、法の徳が私という機の徳となり、私の往生成仏の正因となるわけです。それを、「信心正因」というのです。

 このように、一人ひとりにとって救いが成立するのは、法を疑いなく受け容れたときですから、機受の極要(究極の肝要)は、信心一つであるといわねばなりません。法然聖人が『選択本願念仏集』の「三心章」において一人ひとりの往生の決定を論ずる場合には、信と疑をきびしく決判されたのはそのゆえです。救いの法はあっても、疑って信受しないものにはないのと同じだからです。すなわち、

三心はこれ行者の至要なり。(中略)まさに知るべし、生死の家には疑をもって所止となし、涅槃の城には信をもつて能入となす。ゆゑにいま二種の信心を建立して、九品の往生を決定するものなり。                              (『註釈版聖典』七祖篇一二四七~一二四八頁)


といわれるものがそれです。念仏往生という本願の法を信ずるか、疑うかによって、一人ひとりのさとりと迷いは決まるのです。それゆえ信心の有無は行者の至要であるといわれるのです。このように機受の極要であり、行者の至要である信心のいわれを顕すのが「信文類」ですから、とくに「別序」を置かれたのです。

(『聖典セミナー 教行信証[信の巻]』(梯 實圓)p.2~p.7)

「地獄脅し」と自力の命がけの求道を勧めるばかりで、聞くべき「阿弥陀仏の本願」も「仏の御名」も説かずに浄土三部経以外のお経もどきの話をし続ける高森顕徹会長

昨日の高森顕徹会長の講演は、毎度おなじみの

映画『なぜ生きる』の質問
「『聞く一つで、大船に乗せる』ということは、阿弥陀仏の命を懸けたお約束だからです」
とは、どんなことでしょうか。」


について話すというものでした。その内容は

この大宇宙が火の海になっても、そこをくぐり抜けて聞け

と、これまたいつもの根拠を出して話してからの、『仏説譬喩経』とは異なる「オカシナ話」を出して「地獄脅し」をする、というものだったようです。『仏説譬喩経』とは異なる「オカシナ話」をするのは今年はや3回目です。

たいがい、こうした自力の命がけの求道と死後の「地獄脅し」を繰り返す時というのはお布施を募る時が多いのですが、映画『歎異抄をひらく』に関してのお布施が不十分なのか、それとも他に新たな名目で募財を始めたのか。とにかく、親鸞会の台所事情を垣間見ることができます。


さて、名目上「後生の一大事を助かろうとして」いる会員ですが、どうも「五雑行」には敏感な割に、読誦雑行のような行為を繰り返していることには気づいていない様子です。彼らの定義では、読誦雑行とは

後生の一大事を助かろうとして、浄土三部経以外のお経を読む行為

としていますが、浄土三部経以外の『仏説譬喩経』の話を聞くという行為を彼らはどう思っているのでしょうか。また、浄土三部経の内容とは言い難い映画のシナリオブックを読む行為を彼らはどう思っているのでしょうか。

ちなみに親鸞聖人は、本物の「黒白二鼠の譬え」さえもご依用になっていません。まして況や『仏説譬喩経』とは異なる「オカシナ話」をやです。そのような外道の偽の「黒白二鼠の譬え」と、死後の「地獄脅し」の話を聞き続けるばかりで、聞くべき

阿弥陀仏の本願
仏の御名


とは何かを聞いて信受しなければ、「後生の一大事の解決」もへったくれもありません。信心決定報土往生とは真実信心の念仏の行者の話で、会員のように浄土三部経以外のお経の話を聞いて喜んでいる偽の仏弟子とは無関係なのです。

わたくしにいはく、この文を見るに、いよいよすべからく雑を捨てて専を修すべし。あに百即百生の専修正行を捨てて、堅く千中無一の雑修雑行を執せんや。行者よくこれを思量せよ。『選択集』純雑対

経家によりて師釈を披くに、雑行のなかの雑行雑心・雑行専心・専行雑心あり。また正行のなかの専修専心・専修雑心・雑修雑心は、これみな辺地・胎宮・懈慢界の業因なり。ゆゑに極楽に生ずといへども三宝を見たてまつらず。仏心の光明、余の雑業の行者を照摂せざるなり。「化身土文類」雑行釈

会員は、真剣に聞く聞かない以前に、聞いている内容を確かめた方がいいです。


阿弥陀仏の本願とは、久遠劫より迷いの世界を流転して苦悩から離れられないこの私を必ず浄土へ迎えて仏にするという、世を超えた法蔵菩薩の因位の誓い、願いです。

我を信じる者を絶対の幸福に救う
光明輝く生活のできるようにしてやろう

などというご利益、現世利益を誓われたものではありません。

仏の御名とはその願成就して

我が真実なる誓願を疑いなく信じ、お念仏を申して浄土に生まれてきてくれよ
必ず浄土へ迎えるから、安心してまかせなさい

と喚ばせたもう、果位の阿弥陀仏の名号(南無阿弥陀仏)のことです。この阿弥陀さまの御計らいに対して、我々の小賢しい詮索や先入観をまじえずに、本願の仰せを仰せのままに聞き、仰せのままに受け容れることを「仏の御名をきく」というのです。高森教の様々な邪義を聞くことを「仏の御名をきく」とは言いません。


地獄脅し」と自力の命がけの求道を勧めるばかりで、聞くべき「阿弥陀仏の本願」も「仏の御名」も説かずに浄土三部経以外のお経もどきの話をし続ける高森顕徹会長からいくら話を聞いていても何の所詮もありません。高森教しか知らずに付き従うしか能がない信者は、どこまでも哀れ哀れです。



【参照】
「いつもの根拠」 ⇒ 『当ブログ』雨風雪はもののかずかは
自力の命がけの求道」 ⇒ 「飛雲」自力の聞しか知らない高森顕徹会長と会員の関係は、善鸞と善鸞の言うことを信じて親鸞聖人の元に行く気のない同行

「10代前半の死因の第1位が自殺」という報道を聞いて思ったこと

2017年の人口動態統計で、戦後初めて日本人の10~14歳の死因として自殺が1位になっていたそうです。

『日本経済新聞』10代前半の死因は自殺が1位 17年調査、戦後初めて

記事によりますと、17年に自殺した10~14歳の子は100人で、この年代の死因の22.9%に達したとのことです。2位はがんで99人(22.7%)、3位は不慮の事故で51人(11.7%)と続いています。不慮の事故のおよそ2倍に当たる数の子供達が自ら命を絶っているというのです。

国内の日本人の自殺者数は、3万2千人を超えた03年をピークに減少し、17年は2万465人に。しかし年代別の自殺死亡率(人口10万人当たりの自殺者数)では、10代だけは横ばい状態のままだ。また同統計で、15~39歳を5歳刻みにした5区分では12年以降、死因の1位を自殺が占め、20代では死因の5割近くに及ぶ。


ということですから、非常に深刻な問題です。

この話題を取り上げ、今年で10歳になる長女に「なぜ自殺すると思う?」と聞いたところ、「いじめ」だと答えが返ってきました。確かにいじめを苦に自殺する子供も少なくないと思います。実際、小中高生がいじめを受けたと思われる遺書を残して自殺した、という報道を時折見聞きしますから、これも解決しなければならない問題であることに違いありません。

ただ、それだけではないのも事実です。私も学生の頃に自殺を思い立ちましたが、それはいじめによる苦しみからではありませんでした。きっかけは失恋ですが、特に明確な目標もなく、なりたい自分も描けずにただ知識を詰め込み、順位を競い、大学に合格するためだけの勉強に嫌気が差していたこともありました。

こんな苦しい思いをして生きて死ぬくらいなら、今死ぬのと何が違うのか。いや、苦しい思いをしなくて済む分、今死んだ方がマシではなかろうか。自分一人この世からいなくなったところで社会全体からすれば何も変わらないし、いずれ必ずこの世からいなくなるのだ。だとすれば、自分は社会から見たらちっぽけで無価値な存在。今死のうが、寿命まで生きて死のうが何が変わるというのだ。何も変わらないではないか。

結局、真っ暗な死への恐怖から思い止まりましたが、似たような事を考えて自殺していく人は子供に限らず少なくないのではないでしょうか。そのきっかけがいじめであったり、失恋であったり、虐待であったり、自己嫌悪であったり、虚しい憂鬱な毎日であったり、色々あるだけで、根本は生きることの意味も死ぬことの意味も判らず、楽しみも喜びもなく無意味な生を続けていくことに耐えられないからであると私は考えます。

学校でも命の大切さを教える道徳の授業はありますが、それを本当にそうだと感じて、生きることは有難いことであると思っている子供達が一体どれだけあるのか、心にかかります。それ以前に、家庭において、生きることの意味と死ぬことの意味をしっかりと話しているのか、もっと言えば、話すべき大人、親が、きちんとそういうことを分かって生きているのか、そこが問題だと思います。

子供の見本となるべき大人が自ら命を絶っているのに、子供にだけ「自殺はダメだ」「命は尊い」と教えても説得力が無いでしょう。やはり大人がきちんと生きることも死ぬことも共に有難いことだと言える人生を生きてこそ、子供達に人生の意味を説いて共に生きていこうと実感のこもった言葉で教えられるというものです。


浄土真宗では、生きることと死ぬことの意味が分からず、無意味な生と死を繰り返して迷っている全ての人に、人生は迷いを離れてまことの安らぎをもらたす阿弥陀仏の本願の救いに遇う場所なのだと一つの答えを示されています。阿弥陀仏が完成された南無阿弥陀仏という念仏は、

必ず浄土に迎えてまことの安らぎを与えるから、安心して生まれてきなさい

と私に真実の救いを告げる言葉であるというのです。この真実の言葉を受け容れた時、闇を彷徨うようだった迷いの人生はお浄土へ生まれる人生に転換し、目指すべき方向を知らされた安心を与えられます。また、無意味だと思っていた人生は阿弥陀さまに願われ、生かされていた人生であったと意味を転換させられます。

それと共に、今まで自分で生きてきたように思っていたのが、実は多くの人やものの「おかげさま」によって生かされていたのだと、様々なものへの恩を知り、恩を感じられるようになります。そうなると、今度は私がその恩に応えようと御恩報謝の人生となってゆくのです。阿弥陀仏の本願を信じ、念仏を申して浄土へ生まれる人生を生きることが、まことに実りのある人生なのだと宗祖親鸞聖人は教えていかれました。


これは宗教の話であり、非常にデリケートな問題なので、無理に勧めるのではありません。ただ、この記事を通してもし浄土真宗の教えに関心を持って頂けたなら、

浄土真宗の法話案内

などの情報を手がかりにその教えを聞いてみられることを勧めます。これを機会に、一人でも自ら命を絶つ人が減るように、そして一人でも本願を信じお念仏を申す方が現れて下さるように願います。

なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ・・・

【考察】念仏往生の法義と信心正因、平生業成について(1)

念仏」とは、永遠不変の法です。

時間的に無限、空間的に無辺、三世十方に亘って、あらゆる生きとし生けるものを善悪・賢愚の隔てなく平等に往生成仏せしめる究竟にして一乗の法です。これが「念仏往生」の法門です。「正信偈」にはそれを

本願名号正定業
(本願の名号は正定の業なり)


と仰せられています。本願の名号を称する称名念仏が浄土往生の正しき業因であって、称名以外の行は浄土往生の正しき業因ではないということです。また、『歎異抄』ではそれを

ただ念仏して弥陀にたすけられまゐらすべし

と教えられています。「念仏」という法は、我々にとってただ一つの「往生のみち」なのです。

その永遠不変の法が、時間的にも空間的にも有限である機(私)の上に実現するのは、私がこうした念仏の法を計らいをまじえずに受け容れた時です。

ですから、法の上では「念仏往生」と言われる法義は、機の上からすると法を計らいなく受け容れた信心が開き起こった時に救いが成立することから、これを「信心正因」と言います。それを「正信偈」では

正定之因唯信心
(正定の因はただ信心なり)


と仰せられ、また『歎異抄』では、

弥陀の誓願不思議にたすけられまゐらせて、往生をばとぐるなり
と信じて念仏申さんとおもひたつこころのおこるとき、すなはち摂取不捨の利益にあづけしめたまふなり。


と言われています。念仏した時ではなく、念仏する者を救う本願を信じた時に救われるのだというのです。

その信心は、平生に「念仏を称える者を必ず往生させる」という真実なる誓願を疑いなく聞き受けたその時に定まります。そのことを本願成就文には、

聞其名号信心歓喜乃至一念
(その名号を聞きて、信心歓喜せんこと乃至一念せん)


と説かれています。本願の名号を疑いなく聞き受けたまさにその時に信心が決定するということです。

そして往生は、臨終の称念を待って定まるのではなく、平生聞信の一念に定まることから、これを「臨終業成」に対して「平生業成」と言い慣わしています。『御消息』にはその義を

来迎は諸行往生にあり、自力の行者なるがゆゑに。臨終といふことは、諸行往生のひとにいふべし、いまだ真実の信心をえざるがゆゑなり。また十悪・五逆の罪人のはじめて善知識にあうて、すすめらるるときにいふことなり。真実信心の行人は、摂取不捨のゆゑに正定聚の位に住す。このゆゑに臨終まつことなし、来迎たのむことなし。信心の定まるとき往生また定まるなり。来迎の儀則をまたず。

と仰せられています。

念仏往生」と「信心正因」「平生業成」は、一つの衆生救済の道理を法の側から言い表したのと、機の側から言い表したことの違いであって、これらは別物ではありません。



【参照】
『WikiArc』安心論題/念仏為本
プロフィール

淳心房&しゃあ

Author:淳心房&しゃあ
(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


(しゃあ)
平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
singikensho@yahoo.co.jp
(スパム防止のため@を大文字にしてあります。メール送信時は小文字に変えて下さい。)

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