「信心」と言っても「本願の名号をきく」ことの他にはない、南無阿弥陀仏の他にはない、「我にまかせよ、必ず救う」という大悲招喚の勅命をただ聞き受けるのみ

本願文は、成就文を介することでより一層明らかになります。成就文について親鸞聖人は、

『無量寿経』(下)のなかに、あるいは「諸有衆生 聞其名号 信心歓喜 乃至一念 至心回向 願生彼国 即得往生 住不退転」と説きたまへり。「諸有衆生」といふは、十方のよろづの衆生と申すこころなり。

「聞其名号」といふは、本願の名号をきくとのたまへるなり。きくといふは、本願をききて疑ふこころなきを「聞」といふなり。またきくといふは、信心をあらはす御のりなり。「信心歓喜乃至一念」といふは、「信心」は、如来の御ちかひをききて疑ふこころのなきなり。

「歓喜」といふは、「歓」は身をよろこばしむるなり、「喜」はこころによろこばしむるなり、うべきことをえてんずと、かねてさきよりよろこぶこころなり。「乃至」は、おほきをもすくなきをも、ひさしきをもちかきをも、さきをものちをも、みなかねをさむることばなり。

「一念」といふは、信心をうるときのきはまりをあらはすことばなり。「至心回向」といふは、「至心」は真実といふことばなり、真実は阿弥陀如来の御こころなり。「回向」は、本願の名号をもつて十方の衆生にあたへたまふ御のりなり。「願生彼国」といふは、「願生」は、よろづの衆生、本願の報土へ生れんとねがへとなり。「彼国」はかのくにといふ、安楽国ををしへたまへるなり。「即得往生」といふは、「即」はすなはちといふ、ときをへず、日をもへだてぬなり。

また「即」はつくといふ、その位に定まりつくといふことばなり。「得」はうべきことをえたりといふ。真実信心をうれば、すなはち無碍光仏の御こころのうちに摂取して捨てたまはざるなり。摂はをさめたまふ、取はむかへとると申すなり。をさめとりたまふとき、すなはち、とき・日をもへだてず、正定聚の位につき定まるを「往生を得」とはのたまへるなり。
一念多念証文

とお示しです。今回はこの御文を通して浄土真宗を伺っていきたいと思います。


諸有衆生」は本願文の「十方衆生」と同じく「十方のよろづの衆生」と仰せです。ですが、これは他の誰でもない「この私」と受け取るべきでしょう。「この私」を除いて本願はありません。

「聞其名号」といふは、本願の名号をきくとのたまへるなり。きくといふは、本願をききて疑ふこころなきを「聞」といふなり。またきくといふは、信心をあらはす御のりなり。

聞其名号」とは、本願成就文の直前、第十七願成就文で説かれている本願の名号を聞くということです。

十方恒沙の諸仏如来は、みなともに無量寿仏の威神功徳の不可思議なるを讃歎したまふ。

全ての世界の数限りない仏方は、みな同じく無量寿仏のはかり知ることのできない勝れた功徳を褒め称えておいでだというのです。その勝れた功徳である本願の名号、南無阿弥陀仏を聞くのですが、これは本願を聞いて疑う心が無い、我が胸に持ち替えずにそのまま聞き受けていることを「本願の名号をきく」と言われています。そして、そのように疑い無く聞き受けていることを「信心」というのだと仰せです。このことは後の、

「信心歓喜乃至一念」といふは、「信心」は、如来の御ちかひをききて疑ふこころのなきなり。

の語でも知られるでしょう。ですから、「信心」と言っても「本願の名号をきく」ことの他にはない、南無阿弥陀仏の他にはない、「我にまかせよ、必ず救う」という大悲招喚の勅命をただ聞き受けるのみだということが分かると思います。またこの「信心」は、

「信楽」といふは、如来の本願真実にましますを、ふたごころなくふかく信じて疑はざれば、信楽と申すなり。(尊号真像銘文)

とあるように本願文の「信楽」と全く同じです。ただ、本願文では「どうしたら信楽の心になれるのか」「本願の何を聞くのか」が不明だったのが、成就文を介しますと

十方諸仏が褒め称える南無阿弥陀仏の名号を聞いて信心歓喜乃至一念する

ことが明らかになります。十七願で誓われた通りの名号が既に南無阿弥陀仏と仕上がって、私を救うとはたらいているぞと聞いたなら、私の「どうしたら」「こうしたら」といった計らいは無用であり、そのまま南無阿弥陀仏におまかせとなるのです。そのように疑い無く慮り無く彼の願力に乗じたのを本願文では「信楽」、成就文では「信心」とお示しなのであります。


ところで、高森会長は信心について

地獄一定と極楽一定の二つの心がハッキリしたことだ

などと訳の分からない説明をし、「ハッキリするまで求め抜け」と言っては「本願の名号をきく」こととは無関係の組織拡大活動を会員にやらせています。会員の皆さんは信一念とそれまでとを分ける教えによってそれで納得してしまっているのかも知れませんが、早く気付いて南無阿弥陀仏とは無関係の活動から脱しない限り「本願の名号をきく」ことはできません。教義上からしても雑行をやりまくっている者が真実信心を獲られる道理がないからです。その雑行以前の善もどきの善に執心してこれを修め、しかも「本願の報土」に生まれようというのではなく「絶対の幸福」「幸せな人生にガラリと変わる」といった「夢・幻のような現世の幸せ」を追い求めている者が真実信心を獲て念仏するなど夢のまた夢です。


さて、話を戻しますが、次に聖人は

「歓喜」といふは、「歓」は身をよろこばしむるなり、「喜」はこころによろこばしむるなり、うべきことをえてんずと、かねてさきよりよろこぶこころなり。

と仰っています。これも誤解しやすいところですが、問題は何を「歓喜」するのかです。

「歓」は身をよろこばしむるなり、「喜」はこころによろこばしむるなり

ここだけ読んで、とにかく身も心も喜びに満ち溢れるのだ、そうでなければ信心ではないと思う会員の皆さんがほとんどと思いますが、そうではありません。それは「うべきことをえてんずと、かねてさきよりよろこぶこころ」とあるように、必ず往生するであろうということです。「うべきこと」とは往生のこと、それを「えてんず」、きっと得るであろうと、かねてさきより喜ぶ心です。往生するという未来の果を今から待っている喜びということです。浄土往生が約束された喜びということです。

浄土往生が約束されたというのはどれほど素晴らしいことかをこの記事でも少し書きましたが、しかし私達の腐った性根は、法をお聞かせ頂いている時は往生すべき身と定まったことを喜んでおっても、ちょっとつまらないことがあればその喜びはどこへやら。法話を聞いた帰りに知らない人と肩がぶつかって、相手に罵声を浴びせられでもしたらどうですか? また、変わらず健康に留意し、事故や怪我や病気に気をつけて生きているのも死にたくないからです。死ねば安楽浄土ですよ? ところがそれがちっとも恋しくない、迷いの世であるこの苦悩の旧里がいいとしがみついているのが自分というやつです。そして、目先の五欲を満たすことに夢中というどうしようもないやつです。

このようなことですから、私達の心持ちで「喜びが多いから往生一定」と決まるのでもなければ、「喜びがちっともないから往生不定」と決まるのでもありません。我々のコロコロの心は何のあてにもなりません。われらが往生の定まりたる証拠はあくまで本願が成就して仕上がったいまの南無阿弥陀仏であります。

死ぬと同時に浄土往生というこの上ない証果が約束されてもちっとも喜ぶ心のない、そんな煩悩具足の凡夫と知り抜いて、そんな者を助けるという阿弥陀仏の仰せをお聞かせ頂く度に、いよいよ大悲大願はたのもしく、往生は決定と思い知らされます。

本願力にあひぬれば
 むなしくすぐるひとぞなき
 功徳の宝海みちみちて
 煩悩の濁水へだてなし
(高僧和讃 天親讃)

本願力に遇えてよかったです。なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ。(つづく)

批判に応じて話のスタイルを変えるも、本人が真宗に無知なために意味不明な説明で終わっている高森顕徹会長

日曜日の講師部講義では、またも片手に余るレパートリーの中、

映画『なぜ生きる』の蓮如上人のお言葉
「『聞く一つで、大船に乗せる』ということは、阿弥陀仏の命を懸けたお約束だからです。」
の「大船に乗せる」について


だったそうです。私は又聞きなのでどうか知りませんが、今回はお約束の内容は

至心信楽 欲生我国(至心に信楽して我が国に生まれたいと欲う心)

だとし、その説明に「絶対の幸福」という文言は使わなかったようです。『飛雲』などで様々に批判され、それに応じて説法の内容をコロコロと変えるのが高森顕徹会長ですので、今回はそうしたのかも知れません。

それで、「至心信楽 欲生我国(至心に信楽して我が国に生まれたいと欲う心)」とはどのような身になるのかという説明に本願成就文を出し、

信心歓喜 乃至一念 至心回向 願生彼国 即得往生 住不退転

がそれに当たり、阿弥陀仏がまことの心で差し向けて下される、与えて下される、乗せて下される、それが「至心回向」だと話したというのです。それにより「信心歓喜 乃至一念 願生彼国 即得往生 住不退転」の身に死んでからではなく、生きている今なれる、それを親鸞聖人は「不体失往生」と明らかにされた、ということなんですが・・・。しかし、この説明では

至心信楽 欲生我国(至心に信楽して我が国に生まれたいと欲う心)とはどのような身になるのか

の答えになっていません。読者の皆様はこれで分かりますか? 結局、批判に応じて話のスタイルを変えるも、本人が真宗に無知なために意味不明な説明で終わっていることが伺えます。こんな説明になっていない話を聞かされ、普段は因果の道理に縛られて活動の延長線上に救いを眺めている会員の皆さんが、「至心回向」が分かる方がおかしいというものです。


まず、細かい事ですが。「どのような身」とか言っておりますが、「至心信楽 欲生我国」は信心です。「本願の三心」と言われるでしょう? なので、「どのような心か」、「どのような信心か」と言わなくてはなりません。私達の身体が変化するわけではないのです。超サイヤ人のように見た目が変化する、或いは見た目は変化しないが言動がガラリと変わるというのであれば別ですが、そうでない以上「どのような身」という表現は適切ではありません。

さて、本題です。普通は、本願文の説明をするのであれば『教行証文類』や『尊号真像銘文』を出すでしょう。せっかく親鸞聖人がこのようにご解説されているのにそれを用いないで、よく親鸞学徒だとか言えるものだと感心してしまいます。今回は『尊号真像銘文』より伺いたいと思います。

「至心信楽」といふは、「至心」は真実と申すなり、真実と申すは如来の御ちかひの真実なるを至心と申すなり。煩悩具足の衆生は、もとより真実の心なし、清浄の心なし、濁悪邪見のゆゑなり。
「信楽」といふは、如来の本願真実にましますを、ふたごころなくふかく信じて疑はざれば、信楽と申すなり。この「至心信楽」は、すなはち十方の衆生をして、わが真実なる誓願を信楽すべしとすすめたまへる御ちかひの至心信楽なり、凡夫自力のこころにはあらず。
「欲生我国」といふは、他力の至心信楽のこころをもつて安楽浄土に生れんとおもへとなり。
尊号真像銘文

最初に、「至心」とは「真実」であり、「如来の御ちかひの真実なる」を至心というのだと言われています。阿弥陀仏の本願が噓偽り無く、また外見ばかり立派で中身が伴わないということもない、まことの誓願であることを「至心」と言われています。対して私達は、「煩悩具足の衆生は、もとより真実の心なし、清浄の心なし、濁悪邪見のゆゑなり。」と仰せのように、元来まことの心、清らかな心を持ち合わせておりません。そのような私達に「至心」を起こせ、真実心を起こせと言われても無理です。ない袖は振れません。そこで、これは後に

御ちかひの至心信楽なり、凡夫自力のこころにはあらず。

とあるように「御ちかひの至心信楽」、成就文で言えば「至心回向」すなわち阿弥陀仏より恵み与えて下される「至心」であって「凡夫自力のこころ」ではない、「凡夫自力のこころ」で起こす信心ではないということが分かります。

次に、「信楽」ということについて聖人は

「信楽」といふは、如来の本願真実にましますを、ふたごころなくふかく信じて疑はざれば、信楽と申すなり。

と仰っています。阿弥陀仏の本願が真実であること、つまり私達を必ずお救い下さる、浄土往生の証果を得させるということを二心なく深く信じて疑いない心ということです。それから改めて、

この「至心信楽」は、すなはち十方の衆生をして、わが真実なる誓願を信楽すべしとすすめたまへる御ちかひの至心信楽なり

と仰っています。至心信楽というのは、十方衆生に「私の真実なる誓願を疑い無く信じなさい」という阿弥陀仏の仰せ、お勧めなのだというのです。「真実なる誓願」とは、つまり「浄土往生させるぞ」、ごく簡単に言えば「助けるぞ」ということですから、「浄土往生させるぞ」「助けるぞ」の仰せを疑い無く聞きなさい、疑い無く信じなさいということです。この「疑い無く信じる」というのも私達の心で疑わないように深く信じ込むということではなく、「御ちかひの至心信楽」、すなわち阿弥陀仏より賜る信心であります。

そして最後の「欲生我国」については、

「欲生我国」といふは、他力の至心信楽のこころをもつて安楽浄土に生れんとおもへとなり。

と仰っています。こちらも先ほどまでと同様、私達の「凡夫自力のこころ」でもって阿弥陀仏の浄土に生まれたいと思うのではありません。「他力の至心信楽のこころをもつて」安楽浄土に生まれると思いなさいということです。つまりは「浄土に生まれさせるぞ」という阿弥陀仏の仰せをそのまま受け容れて「浄土に生まれられる」と思いなさいということです。

問答形式にすると、このようなことです。

Q.「至心信楽 欲生我国(至心に信楽して我が国に生まれたいと欲う心)とはどのような心か?
A.阿弥陀仏の本願が噓偽りない真実であることを二心なく深く信じて、阿弥陀仏が仰せの通り「安楽浄土に生まれる」と思う心

ただ、親鸞会の会員の皆さんはちょっと理解不能かも知れません。皆さんは「絶対の幸福」だとか「幸せな人生にガラリと変わる」と叩き込まれていますので、そんな身にしてみせるというのが阿弥陀仏の本願だと信じている内は本願の仰せを疑い無く聞くことは難しいでしょう。阿弥陀仏の本願とは、

弥陀の本願と申すは、名号をとなへんものをば極楽へ迎へんと誓はせたまひたる『末灯鈔』第12通

と仰せのように、「念仏を称える者を極楽へ迎えよう」という誓いです。この世で「絶対の幸福にしてみせる」とか、「苦しみの人生を、幸せな人生にガラリと変えてみせる」という誓いではないのです。この世を明るく楽しく、大安心大満足で生きようと願うなら、阿弥陀仏の本願以外の方法で、自力修行で成仏を目指すなり、自己啓発セミナーに通うなり何なりでお願いします。

また、そんなだから「どのような身」と聞いてすんなり受け入れられるのですし、「お釈迦様が45年もかかって説かれた教えが簡単に分かるわけがない」との先入観と今までの経験から、理解できない我々が悪いと思考処理しているものと思われます。ハッキリ言いましょう。高森顕徹会長の話が間違っている上に意味不明だから理解できないのです

私達は、「念仏を称える者を極楽へ迎えよう」という阿弥陀仏の真実なる誓願を二心なく深く信じて念仏するのみです。この誓願は既に成就して南無阿弥陀仏と仕上がっておりますから、この名号がわたしに今現にはたらいていると聞いたなら私の計らいは無用なのであり、名号願力にまかせて往生を願うばかりなのです。こうした名号のいわれを「」くのが「信心」すなわち「至心信楽 欲生我国」であります。「与えて下される」と聞くと、今まで無かった何かが心に入ってくるように思いますが、名号のいわれを聞くままが信心ですから、そういった心の変化を追い求めるのではなく、ただ「浄土往生させるぞ」という本願をそのまま聞いて頂きたいと思います。

成就文を出したまではよかったですが、今回はいつも話す「聞其名号」が無かったですね。まぁ出しても本願の説明が間違っているので何ですけど・・・。

仏教の根幹だという「因果の道理」もまともに理解できていない高森顕徹会長と愉快な仲間達

親鸞会では、

因果の道理は仏教の根幹、大宇宙の真理。
因果の道理が分からなければ、仏教は何十年聞いても分からない。


とか言う割に因果の道理に反することを言ったりやったりしています。その一つが

一切衆生 必堕無間

という邪義です。『こんなことが知りたい①』には、

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 親鸞聖人や蓮如上人が不惜身命の覚悟で教示下された生死の一大事とは、どんなことかといいますと、これは後生の一大事ともいわれていますように、総ての人間はやがて死んでゆきますが、一息切れると同時に無間地獄へ堕ちて、八万劫年苦しみ続けねばならぬという大事件をいうのです。
 死後の存在を認める人も認めない人も関係なく、この一大事から逃れることは出来ません。地獄の実在を肯定する人にも、否定する人にも同じくこの一大事が惹起致します。経典に釈尊は、「一切衆生、必堕無間」とこれを説かれています。これは、総ての人間は必ず無間地獄へ堕ちて苦しむということです。その他、後生の一大事の説かれていない経典はありません。
 親鸞聖人はこれを、「念仏誹謗の有情は、阿鼻地獄に堕在して、八万劫中大苦悩、ひまなく受くとぞ、説きたまう」と仏意を述べておられます。
 蓮如上人も「この信心決定されずんば、極楽に往生せずして無間地獄に堕在すべし」と『御文章』にしばしば仰言っていられます。
(『こんなことが知りたい1』p.6~p.7)
********************


などと書いています。総ての人間は、一息切れると同時に無間地獄へ堕ちて、八万劫年苦しみ続けねばならぬというのです。この手の教義は、因果の道理を知らない教祖や教団幹部が信者に恐怖を植え付け、教団に縛り付ける目的でしばしば謳われます。邪教という記事でも紹介しましたが、この内容はまさに親鸞会そのものです。

そもそも「無間地獄に堕ちる」というのはですが、ではそのは何でしょうか?

それは「五逆罪」と「謗法罪」です。この二つの罪を造った者は無間地獄に堕ちると説かれています。

『経』にいはく、〈五逆の罪人、阿鼻大地獄のなかに堕して、つぶさに一劫の重罪を受く。誹謗正法の人は阿鼻大地獄のなかに堕して、この劫もし尽くれば、また転じて他方の阿鼻大地獄のなかに至る。かくのごとく展転して百千の阿鼻大地獄を経〉と。「信文類」正法を誹謗するものが往生できないわけ

五逆の罪を犯した人は無間地獄に堕ちて、一劫の間その重い罪の報いを受けます。一方で、正しい法を謗った人は無間地獄に堕ちて、一劫が尽きると、また続いて他の無間地獄に堕ちるというようにして、次々と数多くの無間地獄をめぐるというのです。しかも、誹謗正法の人はいつ地獄から出ることができるのかを仏は明らかにされていません。こうした二つの重罪を犯すような者は十八願の救いの対象からも除かれていますから、如何に恐ろしい、犯してはならない罪かということが分かります。

では、どのような罪なのかというと、五逆罪については、

一つにはことさらに思うて父を殺す、
二つにはことさらに思うて母を殺す、
三つにはことさらに思うて羅漢を殺す、
四つには倒見して和合僧を破す、
五つには悪心をもつて仏身より血を出す。
恩田に背き福田に違するをもつてのゆゑに、これを名づけて逆とす。この逆を執ずるものは、身壊れ命終へて、必定して無間地獄に堕して、一大劫のうちに無間の苦を受けん、無間業と名づくと。
「信文類」五逆追釈

と教えられ、謗法罪については、

 問うていはく、なんらの相か、これ誹謗正法なるやと。
 答へていはく、もし無仏・無仏法・無菩薩・無菩薩法といはん。かくのごときらの見をもつて、もしは心にみづから解り、もしは他に従ひてその心を受けて決定するを、みな誹謗正法と名づくと。
「信文類」正法を誹謗するすがた

と教えられています。

親鸞会では独自の理論とひねくれ解釈により「全ての人が五逆罪、謗法罪を造っている」と教えていますが、

ことさらに思うて
倒見して
悪心をもつて


ですから、故意に、殺そうという強い意志をもって父母や阿羅漢を殺すこと、間違った考えをおこして教団の和を乱すこと、悪い心をいだいて仏の体を傷つけて血を流すことを五逆罪というのです。

親が死んでくれたらいいのにと思う
こんなに苦しいなら死んだ方がマシだと思う
乳の出が悪いと乳児が母親の胸を叩く


親の死を願うとか、死んだ方がマシだと思うことの良し悪しは別として、こんなのを五逆罪とは言いません。

謗法罪にしても同じことで、仏もなく仏の教えもなく、菩薩もなく菩薩の教えもないというような考えを、自分自身でおこしたり、他の人に教えられて、その通りと心に定めることを謗法罪というのです。

そもそも高森顕徹会長の話を聞きに行かない(←体で謗法罪を造っているとか言っている)
高森顕徹会長の話を居眠り半分に聞く(←善知識をおろかに思っているからだと言っている)
高森顕徹会長の話をどれだけ聞いても分からんと不満を言ったり、聞かなければよかったと後悔したりする
高森顕徹会長の話の内容を「長かった」「短かった」「分かりやすかった」「分かりにくかった」等と評価する
高森顕徹会長や上司の指示に無条件に従わない
高森顕徹会長や親鸞会について悪く言う
高森顕徹会長や親鸞会について悪く言う人の話を聞いたり、インターネットの情報を見たりする


言うまでもありませんが、こんなのを謗法罪とは言わないのです。また、最近は書き込みをしてきませんが、私達のように親鸞聖人の教えが正しいと信じている者が「「仏はいないのではないか」とほんの一瞬だけ思っただけ」は謗法罪とは言いません。謗法罪の定義をよく読めば一瞬の気の迷いは入らないことはお分かりでしょう。こんなことを一々聞いてくるのも、高森顕徹会長という「」に依り、その教えが正しいという前提の上での質問と見受けられますが、このように五逆罪や謗法罪は一部のとても悪い人間が造っているのであって、「全ての人が五逆罪、謗法罪を造っている」とは言えないのです。このようなことですから、

一切衆生 必堕無間

完全な邪義です。こうした思想は「一切衆生必堕無間」の根拠は釈尊ではなく日蓮でも書いていますが、日蓮の著書や組織拡大法を真似た大元の創価学会から出てきたものと考えられます。


ただし、私達は三悪道に堕すると見てまず間違いありません。三悪道の因は「貪・瞋・痴の煩悩」でありますから、日々こうした貪・瞋・痴の煩悩で煩い悩む我々の後生は良くて畜生界、多くは地獄や餓鬼道に堕するでしょう。そしてその後も六道、二十五有生を果てしなく流転して、真の安らぎ、真の楽しみを得られないまま苦しみ続けてゆくことが経典や聖教などから分かります。

そうした迷いの世から離れて悟りを開き、真の安らぎ、真の楽しみを得る教えが仏教です。私達はこの世ではとても自力修行によってはさとれないとこの世での成仏をあきらめて、阿弥陀仏の本願力によって次生浄土に往生してさとろうとしている者達です。そのような仏教を信じ、法話に足を運ぶような人が謗法罪を造っているとは通常は考えられません。そもそも謗法罪の悪人は仏教を聞きに来ないでしょう。それどころか謗法罪の悪人とは、悪い心を抱いて経典を焼き、仏像や塔寺を破壊し、僧物を盗み、和合僧を乱し、尼僧を犯すなど、仏教を破壊することを平気でやるような人です。まぁ阿弥陀仏の木像や絵像を忌み嫌い、法要を妨害し、己の私利私欲のために法を利用し、会計報告はあやふやで会員から集めた布施金を己らの欲望のために使い、退会者の法話会の集まりに乱入して法話を妨害し、上司と部下の関係にかこつけて女性の講師や会員と正当でない肉体関係を結ぶような人達は謗法罪の悪人と言われても仕方がないかなと思われます。仏教を滅ぼすのは他に非ず、仏法者を騙って害をもたらす、獅子身中の虫によって滅ぶのだと説かれたのも道理です。

大分脱線しましたが、このようなわけで、徒に「私は五逆、謗法の者だ」と恐れおののく心配はありません。たとえそのような者であったとしても、過去にそのような罪を造っていたとしても、阿弥陀さまはそんな者をも必ず光明の中に摂め取って決して捨てないことを誓っておられます。その本願は既に成就して私にはたらいて下さっておりますから、私は何の計らいもなく、その本願の仰せを疑い無く聞き受けてお念仏申すのみです。


釈尊は、父親を殺害した罪の意識から全身にできものが出来て、無間地獄に堕ちると悶え苦しむ阿闍世王にどう教えを説かれたでしょうか? 「お前は必堕無間だぞ」「父を殺し、母をも殺そうとした五逆の大罪人がお前だ」「お前は今までこんなこともこんなこともやってきた。それは善か悪か」と己の罪悪をまくし立て、責め立てたでしょうか?

親鸞聖人は『教行証文類』の約1割、「信文類」の約4割を割いて『涅槃経』から阿闍世王の獲信について事細かに引文し、紹介しておられます。原文が難しい方は

「信文類」抑止門釈 現代語訳

をお読み下さい。まだ読んだことがない会員、元会員の方は目から鱗の内容かと思います。また

『飛雲』親鸞聖人が最重要視されたのに高森会長が全く知らない阿闍世の体験1

から順番に7までありますので、こちらもまだ読んだことがない方は一読をお勧めします。

親鸞会会員の誤解―活動しなければ救われない(1)

親鸞会会員の皆さんは高森顕徹会長から間違った教えを聞かされ、それを本当の親鸞聖人の教えだと誤解しています。当ブログではこれまで、

・高森会長は51段目の位にいる
・親鸞会でしか真実は説かれていない
・方便だからやらなければならない
・「聴」を重ね、「聴」の先に「聞」がある


といったことに関して、会員がどのように誤解しているかを述べてきましたが、今回からは、

・活動しなければ救われない

ということに触れたいと思います。


親鸞会会員の目的は、『親鸞学徒聖則』

一、親鸞学徒は信心獲得することを本と致します。

にあるように信心決定、信心獲得以外にはありません。そのためには

活動しなければ救われない

と思う、そうとしか思えない、そのように教えられるからこそ、推進される様々な活動に勤しんでいます。もし会の活動と無関係に信心が獲られるなら、誰もそんな一生懸命に勧誘活動をしたり、生活をトコトン切り詰めて財施したりする者はいないでしょう。私も活動が信心獲得に必要不可欠、「活動しなければ救われない」と固く信じていたからこそ、毎回の富山詣で、朝晩の勤行、地元行事の参加、声かけやチラシ配り、家族友人の勧誘、うんざりするほどやってくる募財への参加等、それなりに活動していました。その

活動しなければ救われない

と思わせるキーワードが、一昔前は「宿善」でした。

親鸞会では、設立当初はどうだったか知りませんが、少なくとも『会報第三集』が発行された昭和43年には既に『厚い宿善になる』として、破邪顕正という名の人集め、六度万行第一の布施と称した金集めが勧められていたことが伺えます。宿善についてはその後発行された『こんなことが知りたい①』(昭和44年)、『白道燃ゆ』(昭和49年)等にも出てきます。中でも有名なのは、『白道燃ゆ』

 宿善と言うのは、過去世の仏縁のことであるが、過去世に仏縁浅き者は、現在に於いて真剣に宿善を求められねばならない。
 でなければ、宿善開発の時節到来ということはあり得ない。
 されば宿善は待つに非ず、求むるものである。
(p.203)

の文章でしょう。昔は「宿善」の名の下に破邪顕正と称して様々な勧誘活動、時には本願寺へ座り込みなどといった事まで行っていたようです。また「真実のために財施することは、尊い宿善になる」だとか言われて、中には家一軒建つ位親鸞会へ財施したという人も少なくないと思います。そうやって活動していくことで横の道を進み、信心獲得に近づく、やがて宿善開発の時節が到来するんだと信じていたに違いありません。


ところが、浄土真宗には高森顕徹会長の説くような「宿善を求めよ」「宿善を厚くせよといった教えもなければ、宿善になると言って信心を獲るために聴聞、勤行、破邪顕正、財施、六度万行をせよといった教えもありません。逆にそういった自力修善は徹底的に廃して、念仏一行を勧められたのが親鸞聖人であります。前回も挙げましたが、覚如上人は祖師の教えを

一 自力の修善はたくはへがたく、他力の仏智は護念の益をもつてたくはへらるる事。

 たとひ万行諸善の法財を修し、たくはふといふとも、進道の資糧となるべからず。ゆゑは六賊知聞して侵奪するがゆゑに。念仏においては、「すでに行者の善にあらず、行者の行にあらず」と等釈せらるれば、凡夫自力の善にあらず。まつたう弥陀の仏智なるがゆゑに、諸仏護念の益によりて六賊これを犯すにあたはざるがゆゑに、出離の資糧となり、報土の正因となるなり。しるべし。
(口伝鈔)

と表されています。まぁ親鸞会の活動はそのほとんどが「善もどきの善」、組織拡大に都合の良い行いなわけですが、どれほど推進される活動(聴聞、勤行、破邪顕正、財施、六度万行等)に取り組んでも、それがもとで信心獲得し、往生するわけではないのです。修めた行いが宿善となり、段々と厚くなって、やがて開発して救われるように考えている方も多いと思いますが、行いが如実の善だとしても「たとひ万行諸善の法財を修し、たくはふといふとも、進道の資糧となるべからず」でありますから、我々の獲信・往生と修善とは無関係です。ただ弥陀の仏智である念仏によってのみ往生を得るので、活動することで宿善が厚くなるとか、横の道を進むとか、信心獲得に近づくといった考えは大間違いも大間違いなのです。


宿善については長くなりそうなので、今回はこれで終わります。なお親鸞会の宿善に関した邪義については、

『親鸞会教義の誤り』宿善とは
『飛雲』2012年5月の、5月1日~5月16日のエントリー
現代における異議の研究 伝道院紀要24号

等に既に詳しく書かれていますので、参照して下さい。


【追記】
林遊@なんまんだぶ様、宿善様からコメントを頂きました。ありがとうございました。お二人が挙げて下されたリンク先を以下に貼っておきますので参照してください。なお、宿善様の最後のリンク先は上の『飛雲』のエントリーを順に辿っていけばありますので貼り付けてはいません。

『用管窺天記』自業自得の救済論
『WikiArc』宿善
『親鸞会の邪義を正す』宿善の意味

大丈夫です。絶対後生助かります。

南無阿弥陀仏。字にすればたった六字であり、それを口に称えるという至って易しい行なのに、どうしてただそれだけのことで浄土往生という証が得られると言われるのでしょうか。その答えが善導大師の

一心にもつぱら弥陀の名号を念じて、行住坐臥に時節の久近を問はず念々に捨てざるは、これを正定の業と名づく、かの仏の願に順ずるがゆゑなり。『観経疏 散善義』称名正定業

であります。法然聖人は承安5年(1175年)43歳の時、様々な修行や学問、読経の末にこの御文に出会われ、ご自身は勿論、人々の救われる道は専修念仏によるしかないと感得し、それから比叡山を下りて東山吉水に移り住み、念仏の教えを弘めてゆかれました。それで浄土宗ではこの年が立教開宗の年であると言われています。法然聖人は善導大師のこの御文を『選択本願念仏集』にて引かれています。

阿弥陀仏はその本願において、念仏一行を本願の行として選び択られたことを次のように教えられています。

もしそれ造像起塔をもつて本願となさば、貧窮困乏の類はさだめて往生の望みを絶たん。しかも富貴のものは少なく、貧賤のものははなはだ多し。もし智慧高才をもつて本願となさば、愚鈍下智のものはさだめて往生の望みを絶たん。しかも智慧のものは少なく、愚痴のものははなはだ多し。もし多聞多見をもつて本願となさば、少聞少見の輩はさだめて往生の望みを絶たん。しかも多聞のものは少なく、少聞のものははなはだ多し。もし持戒持律をもつて本願となさば、破戒無戒の人はさだめて往生の望みを絶たん。しかも持戒のものは少なく、破戒のものははなはだ多し。自余の諸行これに准じて知るべし。まさに知るべし、上の諸行等をもつて本願となさば、往生を得るものは少なく、往生せざるものは多からん。しかればすなはち弥陀如来、法蔵比丘の昔平等の慈悲に催されて、あまねく一切を摂せんがために、造像起塔等の諸行をもつて往生の本願となしたまはず。ただ称名念仏一行をもつてその本願となしたまへり。難易義

もし仏像を造り、塔寺を建てる者を助けるという本願であれば、金持ちしか助かりません。もし賢く智慧すぐれた者を助けるという本願であれば、愚かで智慧の劣った者は助かりません。もし仏の教えを多く見聞して学問がある者を助けるという本願であれば、学問がない者は助かりません。もし戒律を守って犯さない者を助けるという本願であれば、戒律を守れない者は助かりません。それで阿弥陀仏は法蔵菩薩であった昔、様々な行を選んでは「これではダメだ」と捨て、また選んでは「これでもダメだ」と捨てて、そして最終的に我が名を称える者を助けようと余の一切の難行諸行を選び捨て、至って易くしかも最も勝れた行である称名念仏を本願の行として選び択り、本願をお建て下さったというのです。

念仏を称えるというのは至って簡単なことで、3歳の子供でも称えることができます。うちの末っ子はまだ1歳なのでちょっと難しいですが、4歳の次女であれば「なんまんだぶなんまんだぶ」と簡単に称えることができます。しかも念仏を称えるのはその行に心身共に集中しなければならないという制限はなく、立っていても座っていても臥していても、止まっている時も動いている時も、仕事や家事、子育てをしている合間にでも称えることができます。とても保ちやすい行です。

ただ、どうしてそれだけのことで浄土往生の証果を得られるのかということが問題でした。仏教では教があって、行があって、その行に応じた証(さとり)を得るというのが常識ですが、ただそれだけのことで十悪五逆の悪人でも浄土往生というのですから、到底考えられないことです。法然聖人も天台宗で学ばれていましたので、『観無量寿経』下品下生の往生はご存知だったかと思いますが、その理由が分からなかったのでしょう。

そして辿り着いたのが先の善導大師の御文です。そこには、本願の行である念仏を称えるということは、「彼の仏願に順ずるが故に」、だから往生できるのだと教えられています。だから、一心に専ら弥陀の名号を念じ、行住坐臥、時節の久近を問わず、念々に捨てざるは、これを正しく浄土往生が決定する行業、正定業と名づけるのだと言われています。私が称えるから往生するのではなく、阿弥陀仏が「称える者を往生させる」と誓われているから往生するのだというのです。


阿弥陀仏は、この淳心房を仏にせずば、我も正覚ならじと誓われ、今はその本願が成就して南無阿弥陀仏と成りましまして私にはたらいております。こうした本願が既に成就してはたらいて下さっているからこそ、私の計らいや様々な方法論は無用なのであり、この本願力に乗じて間違いなく往生を得るのであります。だから、こうした本願のいわれを信じて念仏すれば、皆人が必ず後生助かります。淳心房の言葉など何のあてにもなりませんが、阿弥陀仏が真実の御言葉で誓われ、そしてそれが成就されたことを釈尊をはじめ十方諸仏が証誠されていますから大丈夫です。安心して下さい。必ず後生助かります。ですから、安心して阿弥陀さまに後生まかせて下さい。阿弥陀仏は決してあなたを救うことをあきらめません。だからあなたもどうか「俺(私)みたいな者はどうせ・・・」とあきらめないで下さい。

その上での私の心の有り様は問題ではありません。喜びが有るとか無いとか、多いとか少ないとか、そういった私の心で往生が決定しているかどうかが決まるのではありません。私の心など次の瞬間には変化するもので、何のあてにもなりません。往生の定まりたる証拠はあくまで南無阿弥陀仏です。南無阿弥陀仏、往生之業、念仏為本。まことに私に相応したありがたい教えです。なんまんだぶ、なんまんだぶ。

念仏往生? 一念義? 多念義? いや、邪義です。

親鸞聖人は第十八願の教法を「念仏往生」と度々仰っています。

浄土真宗のならひには、念仏往生と申すなり、まつたく一念往生・多念往生と申すことなし、これにてしらせたまふべし。(一念多念証文)

この『一念多念証文』とは、一念とは一念義のこと、多念とは多念義のことです。一念義とは、浄土往生は信心ひとつで決定する、またはひと声の称名で決定するとし、その後の称名を軽視する説です。これに対して多念義とは、浄土往生は一生涯数多くの念仏を称え、臨終来迎をまって往生が決定するとする説であります。親鸞聖人在世の頃、法然門下の諸流派がこの一念多念をめぐって互いに論争したことを受け、専修念仏は一念・多念のいずれにも偏執しない念仏往生の義であることを明らかにされたのがこの書物です。

これを踏まえて考えてみますと、親鸞会の教えは一念義に近いものがあります。「信心正因 称名報恩」が行き過ぎて信心を強調するあまり念仏がおろそかになり、「念仏は信後報謝に限る」とか、「信前も信後も念仏はお礼」と言って、選択本願の大行である念仏を軽視しています。また、高森顕徹会長の

本願寺は、念仏さえ称えておれば死んだら極楽、死んだら仏、死んだらお助けと説いている

という本願寺批判の言葉等から、会員は「信前の念仏は信心獲得するのに無意味」との異安心に陥っているとも考えられます。念仏は、

一心専念弥陀名号、行住坐臥、不問時節久近、念々不捨者、是名正定之業、順彼仏願故。

と教えられる通り、彼の仏願、阿弥陀仏の本願に順ずる行為であるから、正しく往生が決定する行業であります。阿弥陀仏が本願において、一切の諸行を廃して唯一選び択られたのが念仏ですから、そのいわれを信じて念仏する者は必ず浄土往生の証果を得るというのです。「順彼仏願故」の意味が分からず、また信一念とそれまでとを分ける教えによって「一心専念弥陀名号、行住坐臥、不問時節久近、念々不捨者」が只今のことだと受け容れられないことから、会員は念仏を「正定之業」だなどとは到底思えなくなっていると推測されます。まぁ「信心正因」と言われてはいても肝心の「信心」の内容が間違っているので、実際のところは一念義とは程遠いものがありますが・・・。

一方で、親鸞会では独特の「光に向かう教え」「宿善を厚くする教え」「三願転入の教え」「信一念とそれまでとを分ける教え」によって、会員は只今の救いを只今の救いと捉えられなくなっています。親鸞聖人の教えの一枚看板は「平生業成」だと言ってはいますが、「一念の救い」にあずかるまでにはやれ因果の道理だとか、やれ廃悪修善だとか、やれ後生に驚き立たねばならんとか、やれ19願から始めなければならないとか、いくつもいくつも関門を設けています。

会員は求めるほどにそれだけ「一念の救い」に近づいているかと思いきや、結局因果の道理も心から分かっていないと間接的に教えられてまたスタート地点に逆戻りということを繰り返しているかと思われます。そんなことを何年と繰り返していれば、「死ぬまでに助かれば万々歳だ」としか思えなくなるのは道理でしょう。加えて、後生の一大事、一生参学の大事と繰り返されるほどに、助かるには一生涯に一回でも多く高森顕徹会長の話を聞き、活動を続けてようやく「一念の救い」にあずかれるかどうかだという理解に至るのは容易に想像できます。そうなりますと、そういった意味で親鸞会は多念義にも通ずるところがあります。ただやっていることが念仏相続ではなく邪義を聞き続けることと、善もどきの善の相続では多念義とも違いますが・・・。

詮ずる所、タイトルにも示した通り親鸞会教義は、念仏往生? 一念義? 多念義? いや、邪義です。浄土真宗を知り、浄土往生を遂げたい方は早く見切りをつけて離れることをお勧めします。


【参照】
『WikiArc』一念多念

親鸞会会員の誤解―「聴」を重ね、「聴」の先に「聞」がある(3)

親鸞会では一秒の何憶分の一よりももっと短い「一念」で救われるとか、人生の目的が現在に完成するだとか説いてはいますが、聞いても聞いても、求めても求めても「一念の救い」とやらに到達する兆しはありません。それは、全て阿弥陀仏のお力のみで往生成仏せしめられるという本願力回向の法をそのまま受け容れ信ずるのみであるのに、受け容れるどころか逆らい、撥ね付けて見当違いのことをやっているからです。

「聴」を重ね、「聴」の先に「聞」がある

こんな誤解を、いつもの縦と横の線の図で視覚的にも強く植え付けられていますから、素直に聞けるわけがありません。まずは正しく聞こうと、高森会長の話をいかに正確に覚えているかをもって本とし、それを重ねて「聞」まで進もうというのですから自力そのもの、自力のおしまかせです。更には高森流因果の道理も手伝って、

 因果は厳しく、結果を招く。
自己の善根を往生の助太刀にするから雑毒の善、虚仮の行と嫌われるのだが、善根そのものに変りはない。
 実行しなければ、善果の現れぬは、当然である。
『親鸞会批判の真実』修善を実行さすのが、十九願より)

こんな理論を獲信・往生に関してまで適応しようというのですから、そんな頭で他力回向の法が受け容れられる方がおかしいというものです。お布施を募る時なんかは決まってこんなことを講師部員や先輩から言われたり、こんな文章が『顕正新聞』に載ったりします。もうじきシネマ学院がお披露目されるでしょうが、

『親鸞会を脱会した人(したい人)へ』「捨てものは「自力の心」ただ一つ」の論説(顕正新聞平成29年8月1日号)を読んで思ったこと

にある通り、今回も漏れなく「善の勧め」が論説に掲載されました。それで多くの会員が「諸善に努めねば善い果報は来ない」というところを「諸善に努めねば宿善開発の時節到来は来ない」等と脳内変換して捉え、「少しでも横の道を進めるなら」「信心獲得に近づくなら」という思いで今回も財施に参加したことと思います。高森教では聴聞に関しても「聞法善」だとか言いますので、「聞法善に努めねば宿善開発の時節到来は来ない」等とも脳内変換して捉えている節はあります。聞法までも自分の善根として捉えているのですから、「聴」を重ね、「聴」の先に「聞」があると考える、としか考えられないのは道理です。

しかし、どうでしたか? 毎回毎回、阿弥陀仏の善巧方便だとか、善の勧めだとか都合の良いことを言われ続け、その都度聴聞し財施をして、今回は少しでも横の道を進めましたか? 信心獲得に近づきましたか?

私は、どれだけ富山へ聴聞に出かけても、どれだけ献金や勧誘に努力しても、少しも横の道を進んだとか、信心獲得に近づいたという感覚はありませんでした。それもそのはずです。我々が救われるにはただ五劫思惟の本願を仰いで仏智を信受する以外なく、親鸞会の活動が如実の善だとしても、それは報土往生のためにプラスにもマイナスにもならないからです。

かかるあさましき三毒具足の悪機として、われと出離にみちたえたる機を摂取したまはんための五劫思惟の本願なるがゆゑに、ただ仰ぎて仏智を信受するにしかず。
(中略)
機に生れつきたる善悪のふたつ、報土往生の得ともならず失ともならざる条勿論なり。さればこの善悪の機のうへにたもつところの弥陀の仏智をつのりとせんよりほかは、凡夫いかでか往生の得分あるべきや。
(中略)
ただ善悪のふたつをば過去の因にまかせ、往生の大益をば如来の他力にまかせて、かつて機のよきあしきに目をかけて往生の得否を定むべからずとなり。
(『口伝鈔』4、善悪二業の事)

会員の皆さんは、きっと阿弥陀仏の本願力によらねば助からないということまでは分かっていると思います。ところが、本願力のみでは助からない思い、そこに私が「聴」いた力、教えを実践した力をプラスして、救われるべき地点へ到達してようやく救いにあずかるかのように思ってはいないでしょうか? そうした行為は、全て

報土往生の得ともならず失ともならざる条勿論なり

と切り捨てられ、ただ弥陀の仏智をたのむ、如来の他力にまかせる他に我々凡夫が往生する方法はないと、

・さればこの善悪の機のうへにたもつところの弥陀の仏智をつのりとせんよりほかは、凡夫いかでか往生の得分あるべきや
・往生の大益をば如来の他力にまかせて、かつて機のよきあしきに目をかけて往生の得否を定むべからず


と教えられています。このような教えを知らず、弥陀の仏智をつのりとするのではなく、高森顕徹会長という「人」をつのりとし、高森教という新興宗教をつのりとし、高森教の活動をつのりとしているのでは、いつまでも往生の大益をば如来の他力にまかせることができないのは当たり前の当たり前のことです。

更に覚如上人は、親鸞会の邪義を完膚なきまでに次のように叩きのめしています。

たとひ万行諸善の法財を修し、たくはふといふとも、進道の資糧となるべからず。ゆゑは六賊知聞して侵奪するがゆゑに。念仏においては、「すでに行者の善にあらず、行者の行にあらず」と等釈せらるれば、凡夫自力の善にあらず。まつたう弥陀の仏智なるがゆゑに、諸仏護念の益によりて六賊これを犯すにあたはざるがゆゑに、出離の資糧となり、報土の正因となるなり。しるべし。(『口伝鈔』5、自力の修善はたくはへがたく、他力の仏智は護念の益をもつてたくはへらるる事)

たとえ諸善を修し、善根をたくわえるといっても、往生のもといとはならないのです。ということは、獲信のもといとならないということです。善をしなければ信仰は進みませんと言われ、会員の皆さんは善をして横の道を進もうとか、善をして信心獲得に近づこうと活動に励んでいると思われます。その一番の方法が熱心な聞法すなわち真剣な聴聞だと言われ、聞法善なる言葉まで出して、全ては「」の名の下に様々な活動が勧められています。聴聞にしても、「」という聞法善を重ね、その先にと聞こえる時があるからそこまで進め、みたいな。ところが、そういった親鸞会の活動が諸善の中に入るとしても、それらは獲信・往生のもといとはならないのだと覚如上人はバッサリ切り捨てられています。

聞法を自分の善根として捉え、聞法を始めとする様々な親鸞会の活動に取り組んでも、それでは他力の信心は獲られません。生死の大問題に手も足も出ない、生死苦悩から離れられない私を出離させ、往生成仏せしめる本願力をお聞きかせ頂くのを聴聞とか聞法というので、これを自分の善根と捉えるのは誤りです。これでは、念仏を自分の善根として捉え、念仏を称えて救われようというのと構造は変わりません。親鸞会は

念仏を一生懸命称えて助かろう

というのが、

聴聞を一生懸命して助かろう

に変化しただけです。尤も念仏の場合は阿弥陀仏が本願に誓われたことなので行は正しいですが、間違った教えを聞き、念仏を軽視して、本願に選び捨てられた念仏以外の諸善(善もどきの善)に励んでいる点、親鸞会は浄土真宗にもなりません。


私はただ本願の仰せをお聞きし信受するだけであって、そういった真宗の聞法に自力的要素はありません。あるとすれば、信受しようとしている機の側にあります。救いを遠くに見据えて、

「聴」を重ね、「聴」の先に「聞」がある

と思って聞法しているのはまさに自力そのものです。只今、この場で、この私一人を助ける本願と聞き受けるのみですので、このような間違った考えは捨てて、直ちに本願を聞き受け念仏して下さい。


【参照】
『飛雲』都合の悪い根拠を隠し、断章取義を繰り返す確信犯

「正雑の分別」ができていない者が、「一向一心」になることも、「信心決定のうへに仏恩報尽のために念仏申す」こともあるわけがない

日曜日の高森顕徹会長は相変わらず「絶対の幸福」「ガラリと変わる」を連呼し、真宗もどきの話をしていたようです。真宗の皮をかぶるためにお聖教の言葉を出しているのみで、浄土往生の正しい教えも行も教えられませんから、それをまともに聞いて正しい信心を獲、報土往生・成仏の証果を得るなど奇跡です。

今回は「お疲れのため」だそうで、いつもの説法ではなく座談会形式での話だったそうですが、あのような高齢でも高森顕徹会長が話をしなければならない、会員は高森顕徹会長の話を求めて聞きに来ている、ということを考えるに、つくづく親鸞会というのは高森顕徹会長という「」に依っている集団なのだなと感じます。それが将来どのような結果につながるかは、推して知るべしでしょう。


さて、『顕正新聞』9月1日号「論説」へのツッコミ記事を書いていて思ったことがあります。会員の皆さんが救われないのは、もちろん間違った教えを正しいと信じているから、正しい教えを全く知らないからなのですが、これは言葉を代えると

「正雑の分別」ができていないから

と言えるのではということです(それ以前に、倫理道徳上の善悪の分別もできているか疑問ですが・・・)。

「正雑の分別」くらいできている!

と会員の皆さんは思うかも知れませんが、できていません。その証拠に、横の道を進んで信心決定に近づこうという目的でお布施をし、人を誘う活動をし、上司の無理難題にも「畏まりたる」と表面上つくろっていませんか? 「正雑の分別」ができていたら、こんなことはしないんです。たとえ親鸞会の活動が仏教の善に含まれるとしても、それらは「雑行」もしくは「正行と雑行の兼行」だからです。

安養浄刹にして入聖証果するを浄土門と名づく、易行道といへり。この門のなかについて、横出・横超、仮・真、漸・頓、助正・雑行、雑修・専修あるなり。
正とは五種の正行なり。助とは名号を除きて以外の五種これなり。雑行とは、正助を除きて以外をことごとく雑行と名づく。これすなはち横出・漸教、定散・三福、三輩・九品、自力仮門なり。
(化身土文類)

【現代語訳】
浄土に往生してさとりを開くのを浄土門といい、易行道という。この浄土門の中に、横出と横超、方便と真実、漸教と頓教、そして助正と雑行、雑修と専修がある。
正とは、読誦・観察・礼拝・称名・讃嘆供養の五正行である。助とは、称名以外の読誦・観察・礼拝・讃嘆・供養の五種である。雑行とは、正・助の行以外をすべて雑行というのである。これは、浄土門の中の自力である横出の教えで、長い時を費やす漸教であって、定善・散善や世福・戒福・行福の善を修め、三輩・九品のそれぞれの資質に応じて行を修める自力方便の教えである。


まぁ実態を言えば、浄土に往生してさとりを開こうというのではなく「絶対の幸福」「ガラリと変わる」だとかいう「夢・幻のような現世の喜び」を追い求めており、勤行など一部の行為を除いて他は一新興宗教の組織拡大、私利私欲を満たすための活動ですから、親鸞会は「浄土門」でもなければ活動のほとんどは「雑行(諸善)」でもありません。一部経典や真宗用語を使っているだけの「新興宗教」すなわち「外道」であり、主たる活動の多くは「善もどきの善」「行もどきの行」つまり「悪行(諸悪)」です。こんな教えをまともに信じて親鸞聖人と同じ信心になれる方があり得ないというものです。


ところで、『御文章』1帖目1通に、蓮如上人は

うれしさをむかしはそでにつつみけり こよひは身にもあまりぬるかな

という古歌を引いています。この意味について上人は、

「うれしさをむかしはそでにつつむ」といへるこころは、むかしは雑行・正行の分別もなく、念仏だにも申せば、往生するとばかりおもひつるこころなり。
「こよひは身にもあまる」といへるは、正雑の分別をききわけ、一向一心になりて、信心決定のうへに仏恩報尽のために念仏申すこころは、おほきに各別なり。かるがゆゑに身のおきどころもなく、をどりあがるほどにおもふあひだ、よろこびは身にもうれしさがあまりぬるといへるこころなり。


と続けて教えられています。信前の「むかし」と、信心獲得の「こよひ」とで、違う点がいくつかあります。

むかし」・・・「雑行・正行の分別もなく、念仏だにも申せば、往生するとばかりおもひつる
こよひ」・・・「正雑の分別をききわけ、一向一心になりて、信心決定のうへに仏恩報尽のために念仏申す

その一つが、「正雑の分別」があるかないかだというのです。「雑行・正行の分別」もない会員が信心決定していないというのは至極尤もな話なのです。

また、信前の「雑行・正行の分別」もなかった「むかし」であっても蓮如上人は「念仏だにも申せば、往生するとばかりおも」っていたと仰っています。親鸞会の大好きな「諸善」いわゆる「雑行」をやっていたという記述もなければ、「諸善」「雑行」をやれば往生すると思っていたとも言われていません。信前にして既に往生行として「念仏一行」であったことが伺えます。信前も信後も関係なく、浄土真宗は往生行として「念仏一行」。これは当たり前の当たり前のことなのです。「正雑の分別をききわけ」るとは捨自帰他のことですが、それにはまず何が正行で何が雑行かを分別し、往生行は「念仏一行」となっていなければ話になりません。

つつしんで往相の回向を案ずるに、大行あり、大信あり。
大行とはすなはち無碍光如来の名を称するなり。この行はすなはちこれもろもろの善法を摂し、もろもろの徳本を具せり。極速円満す、真如一実の功徳宝海なり。ゆゑに大行と名づく。
(「行文類」大行釈)

しかれば名を称するに、よく衆生の一切の無明を破し、よく衆生の一切の志願を満てたまふ。称名はすなはちこれ最勝真妙の正業なり。正業はすなはちこれ念仏なり。念仏はすなはちこれ南無阿弥陀仏なり。南無阿弥陀仏はすなはちこれ正念なりと、知るべしと。(「行文類」経文結釈)

その当たり前のことが教えられず、教義だけ見ても「雑行」もしくは「正行と雑行の兼行」を勧めているから

「正雑の分別」ができていない

と言っているのです。「正雑の分別」を聞き、浄土真実の行は「念仏一行」となって、それから念仏する心が自力か他力かということが問題になるわけで、「念仏一行」どころか念仏を軽視し、「雑行(という名の悪行)」をやりまくっている者は、高森顕徹会長の言葉で言えば「コンマ以下」なのです。

正雑の分別」ができていない者が、「一向一心」になることも、「信心決定のうへに仏恩報尽のために念仏申す」こともあるわけがありません。会員の皆さんは、まず正しい教えを聞いて「正雑の分別」をし、「念仏一行」になるところから始めてはいかがでしょうか。なお、私が勧めているのはあくまで「一向一心」の他力の念仏ですから、そこのところはお間違いなく。

親鸞会会員の誤解―「聴」を重ね、「聴」の先に「聞」がある(2)

会員の皆さんは、何年何十年と「聴」き続けても一向に「聞」と聞くことができない現実と、

弥陀仏の本願念仏は、邪見・驕慢の悪衆生、信楽受持することはなはだもつて難し。難のなかの難これに過ぎたるはなし。(正信偈)

しかるに常没の凡愚、流転の群生、無上妙果の成じがたきにあらず、真実の信楽まことに獲ること難し。(信文類)

善知識にあふことも
 をしふることもまたかたし
 よくきくこともかたければ
 信ずることもなほかたし

一代諸教の信よりも
 弘願の信楽なほかたし
 難中之難とときたまひ
 無過此難とのべたまふ
(浄土和讃)

等のお言葉、また高森顕徹会長の、雑行は30年40年聞いて分かるものではないとか、お釈迦様は全ての人をあの軌道(縦と横の線でいう横の道)に乗せるのに45年かかった等の話から、

信心獲得することは大変難しい
その前段階の、よく聞く、正しく聞くということも難しい
真剣に、一座でも多く「聴」を重ねていかねば「聞」と聞くことはできない

としか考えられなくなっていることと思われます。そうした高森教の色眼鏡をかけた状態で、

一 「至りてかたきは石なり、至りてやはらかなるは水なり、水よく石を穿つ、心源もし徹しなば菩提の覚道なにごとか成ぜざらん」といへる古き詞あり。いかに不信なりとも、聴聞を心に入れまうさば、御慈悲にて候ふあひだ、信をうべきなり。ただ仏法は聴聞にきはまることなりと[云々]。 (『御一代記聞書』193)

【現代語訳】
「<きわめて堅いものは石である。きわめてやわらかいものは水である。そのやわらかい水が堅い石に穴をあけるのである。心の奥底まで徹すれば、どうして仏のさとりを成就しないことがあろうか>という古い言葉がある。信心を得ていないものであっても、真剣にみ教えを聴聞すれば、仏のお慈悲によって、信心を得ることができるのである。ただ仏法は聴聞するということにつきるのである」と、蓮如上人は仰せになりました。

のお言葉を聞けば、何年何十年と聞かなければ助からないとしか思えないでしょう。石に水で穴を開けるのは一滴二滴では到底不可能です。何十年と同じところに水が落ち続けてようやく穴が開きます。その理屈で考えたら、私のぬるい聞法心、求道心の水で後生の一大事という大石に穴を開けるなどということは絶対不可能です。一般人が100m10秒切るより不可能です。その絶対不可能なことに挑戦しているんですから、一生聞き続けて解決できるかどうかという考えに至るのは至極当然なことです。


ここで会員の皆さんは、親鸞聖人が「真実の信楽まことに獲ること難し」と仰るその理由を知らねばなりません。信文類には、このお言葉に続いてこう教えられています。

なにをもつてのゆゑに、いまし如来の加威力によるがゆゑなり、博く大悲広慧の力によるがゆゑなり。

【現代語訳】
なぜなら、信心を得るのは、如来が衆生のために加えられるすぐれた力によるものであり、如来の広大ですぐれた智慧の力によるものだからである。

全て阿弥陀仏のお力によって得られる、本願力回向の信心であるから難しいというのです。一見「ん?」と思うかも知れませんが、これは一般的には勿論、仏教界(聖道門)からしても常識外れなことなので、これを聞いて素直に信じられる人は少なく、多くの人は逆に疑って信じないのです。

因果の道理は仏教の根幹というのは親鸞会では耳タコと思いますが、これについては確かにそうで、釈尊も十二因縁を順観し逆観することによってさとりを得られたそうです。その十二因縁の内、苦悩の根本である無明、煩悩を滅すれば、一切の苦悩は滅し無為涅槃のさとりの境地に出られるというのです。そのために菩薩が行う修行を六波羅蜜とか、六度万行というのですが、当然さとりの境地に至るには、「私が」行を修めなければなりません。「他人が」行を修めたその功徳によって私がさとりを開くというのは因果に反しますわね。他人が働いて得たお金がまんま私のものになるようなもので、因果を深く信じていればいるほどそんな理屈は受け入れられないでしょう。

「私が」行を修めなければならないというのは、仏教以外の他宗教でもそうでしょう。どのような宗教でも、教えがあって、その教えに従って実践する行があって、そして行に応じた利益が得られるとかどうとか言います。宗教に限らず私達の生きている世界はみんなそうです。受験合格も、お金や財産を築くことも、地位や名声を得ることも、恋愛成就だって健康だって一家和楽だってそうです。自分の理想を実現する、果報を得るためには、その因果を学び、心得て、その因行を積むべく努力する。勿論、望む結果を得たくても何をやったらいいのか分からないとか、いくら努力しても果報を得られない、他人と同じようなことをやっても自分は上手くいかないなどといったことは当然あります。ただいずれにしても、何かの教えに従って行を実践するのは果報を得ようとしている「私」であって他人ではありませんね。

ところが真宗の場合、浄土に往生し、同時に成仏するという果報を得るのに、全く私の力を要せず、ということは行を要せず、ただ弥陀の名号願力によってそのようになさしめられるというのです。全く南無阿弥陀仏の独用(ひとりばたらき)で、行を回向され、信を回向され、如来の行信によって証果を得るのです。これが、私の行に阿弥陀仏のお力をプラスしてさとるというのならまだ話は分かるのですが、他なる阿弥陀仏のお力のみで私が往生成仏の果報を得るのですから、これは親鸞会で言うところの「他因自果」です。これでは一般的な考えを持つ人、自業自得の因果論を信じる人は簡単に信じられなくて当然でしょう。特に聖道門の学僧は、深く因果を信じ、廃悪修善を行じてさとりを得ようとされている方々です。自業自得の修道の因果論に立脚し、自業自得の因果論の延長線上に浄土教の救済を見るのが彼らの立場ですから、ただ本願を信じ念仏するだけで浄土に往生するなどというのは悪人を導く方便の教えであると捉えていたのでした。

しかし、このような因果を超越した、ただ如来の本願力によって往生成仏せしめられるこの第十八願の法門こそが、一切衆生の救われるただ一つの乗り物なのだと明らかにしていかれたのが親鸞聖人であります。そして、本願の名号であるなんまんだぶによって私が往生成仏せしめられると疑いなく聞き受けたのを「」といい、それがそのまま「信心」であると明らかにされたのでした。私は何の力も要らず、智慧も才覚も要らず、ただ名号願力におまかせするのみで、それが「信心」ですから、信心を獲ることは難しいどころか、逆にこんなに簡単なこと、易いことはないのです。

この一念の安心一つにて浄土に往生することの、あら、やうもいらぬとりやすの安心や。されば安心といふ二字をば、「やすきこころ」とよめるはこのこころなり。さらになにの造作もなく一心一向に如来をたのみまゐらする信心ひとつにて、極楽に往生すべし。あら、こころえやすの安心や。また、あら、往きやすの浄土や。(御文章2帖目7通)

何の造作も要らず、本願の仰せ、なんまんだぶを疑いなく聞き受けるのみです。それで、私達のような末代不善の凡夫が極楽に往生することが定まったのです。こうした本願力にすっかりゆだねてしまえばよいものを、

「そんなのは観念の遊戯であって、後生の一大事はそんな簡単に済む話ではない」
「自己の上に『救われたぞー』『助けられたぞー』というハッキリした自覚がなければならない」
「大安心大満足の身にならねば助かったとは言えない」
「一つの善もできないと地獄一定の自己が知らされなければ阿弥陀仏の絶対の救済にあずかれない」
「それまでは高森先生から教えを真剣に聞いて、聞いたこと(廃悪修善)を実行しなければならない」
「真剣必死な『聴』を重ね、『聴』の先に阿弥陀仏の呼び声がジカに聞こえる『聞』がある」


このように自らの上での自覚を重視し、救済にあずかるまでの道程があると思ってそこまで求めよう、求まるんだと、如来の諸智を疑惑して信ぜず、それでいて自業自得の因果論に基づいて本願の救いを捉え、自らの求道によって救いをつかもう、救いにあずかろう、救いに近づこうとしているのですから、これほど難しいことはないとなってしまうのです。

信心を獲ることは大変難しい、だからそれまでは地に足をつけた求道で真剣に「聴」を重ね、求道に精も根も尽き果てた絶壁に行き詰まり、地獄一定の自己を如来の御前に投げ出す体験をしなければ「聞」と聞くことはできない。

こんなのがおおよその会員の理解だと思いますが、まさに自力そのものです。そんな誤解や先入観、高森流因果の道理をもって本願の救いを捉えているのですから、「難のなかの難これに過ぎたるはなし」となるのは当然です。しかし、今はそのような状態でも、もっている誤解や先入観を捨てて素直に本願を聞いたなら、もはや「真実の信楽まことに獲ること難し」ではなくなります。信心を獲るといっても、何かものを貰うとか、確固たる信念のようなものが心に定まるのではなく、「助けるぞよ」の仰せ、なんまんだぶをそのまま聞き受け後生をおまかせするのを「信心を獲る」と言い表しています。ですから、信心を獲ようとか貰おうとか考えるのではなく、ただ本願の仰せを仰せの通りに聞いて下さい。それがそのまま「信心」です。南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏


【参照】
『用管窺天記』自業自得の救済論

2017年(平成29年)親鸞会報恩講の日程 及び ツッコミ『顕正新聞』9月1日号「論説」

最近の親鸞会の発行物は、月2回の『顕正新聞』に加えて、『親鸞会法話のある仏事のご案内パンフレット』だとか、レストランウェルカムの販売広告チラシ『ウェルカム通信』だとか、同朋の里にある食事処「サンキュー」の無添加洗剤の広告チラシ、アニメバス事業への支援を募る『移動映画館 友の会』とやらの案内など、多岐にわたっています。すっかり事業仏教が板についてきた感がありますね。

それと、今年2017年(平成29年)親鸞会の報恩講は

10月7日(土)、8日(日)

だそうです。演題はまだ分かっていません。情報をお持ちの方はお知らせ頂ければと思います。


さて、『顕正新聞』平成29年9月1日号では、1面に「晴れて大悲の願船に乗せていただくことができました」と喜びを語るブラジルの会員さんの記事が載せられている一方で、3面の「論説」では最後に

 仏教の目的は、夢・幻のような現世の喜びではない。曠劫流転の迷いの打ち止めをし、浄土往生一定の身になることである。
 ゆめ、忘れてはならない。


と書かれています。おやおや、1面で語られているような喜びも所詮は「夢・幻のような現世の喜び」でしかないと皮肉っているのかな?

でも、この世の幸せが仏教の目的ではないといくら言われても、親鸞会では絶対の幸福が強調され、「この世から救われる」と説かれるので、会員さんはどうしたってそんな現世利益、「夢・幻のような現世の喜び」を求めてしまいますよね。浄土往生もありがたいが、それより今のこの苦しみを救うてもらいたい、この世を喜びいっぱい、幸せいっぱいで生きたいというのが本音じゃないでしょうか? 結局、会員の皆さんは「大安心大満足」「広かったぞー、大きかったぞー、想像を絶する大きな慶びの心が起きたぞー、といった驚天動地の体験」「変わらない安心、満足、喜びの境地」「絶対の幸福」という「夢・幻のような現世の喜び」を追い求め、言われるままに活動に従事しているのが実態かと思います。まして、そんな喜びの境地に至ったのを他力の信心だと誤解していたら、そりゃ親鸞聖人の教えられた信心は分かりませんわ。


ところで、3面の「論説」では

往生極楽の道

という見出しで『歎異抄』第2条

おのおのの十余箇国のさかひをこえて、身命をかへりみずして、たづねきたらしめたまふ御こころざし、ひとへに往生極楽のみちを問ひきかんがためなり。

のお言葉を挙げ、

関東で二十年、聖人の教えは「往生極楽の道」以外になかったことが知らされる。
「往生極楽の道」とは何か。
「必ず極楽浄土へ往ける身にしてみせる」と誓う、阿弥陀仏の本願(お約束)のことである。


と書かれています。

必ず極楽浄土へ往ける身にしてみせる

という表現は、1面の

すべての人を 必ず助ける 絶対の幸福に

よりは随分マシですが、きちんと聖人の言葉を示して

念仏する者を極楽へ迎えよう

という本願であることを伝えるべきです。しかし、そんなことは絶対に言いません。それでは組織拡大、私利私欲を満たすという目的を果たすのに不都合だからです。

「論説」ではその後、現当二益であることを蓮如上人のお言葉を挙げて説明し、先に紹介した文章へとつながっています。会員にとっては尤もな文章かも知れませんが、実は「往生極楽の道」とは何かということについて大事な部分が隠されています。『歎異抄』第二条の続きを読んでみますと、

しかるに念仏よりほかに往生のみちをも存知し、また法文等をもしりたるらんと、こころにくくおぼしめしておはしましてはんべらんは、おほきなるあやまりなり。
(中略)
親鸞におきては、ただ念仏して弥陀にたすけられまゐらすべしと、よきひと(法然)の仰せをかぶりて信ずるほかに別の子細なきなり。念仏は、まことに浄土に生るるたねにてやはんべらん、また地獄におつべき業にてやはんべるらん。総じてもつて存知せざるなり。
たとひ法然聖人にすかされまゐらせて、念仏して地獄におちたりとも、さらに後悔すべからず候ふ。そのゆゑは、自余の行もはげみて仏に成るべかりける身が、念仏を申して地獄にもおちて候はばこそ、すかされたてまつりてといふ後悔も候はめ。いづれの行もおよびがたき身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし。
(中略)
このうへは、念仏をとりて信じたてまつらんとも、またすてんとも、面々の御はからひなりと[云々]。


とあるように、

親鸞聖人の仰る「往生極楽の道」とは「念仏」である

ということが分かります。親鸞会では「念仏」を「本願」と言い換えられてしまい、「本願を聞きなさい」「(本願を)聞く一つで助かる」とは言われても「念仏一つで助かる」とはまず言われません。本願寺への批判の一つが

本願寺は、「念仏さえ称えておれば死んだら極楽、死んだら仏、死んだらお助け」と説いている

というものですので、その反動でか、念仏を表立って勧めません。それどころか、念仏は信後のお礼だとか、信前も信後も関係なくお礼だとか言って軽視しています。しかし実は、

「念仏一つで助かる」が法然聖人から親鸞聖人へと相承された浄土真宗

なのです。勿論その「念仏」は、何の分別も無くただ南無阿弥陀仏と称えれば助かるという念仏でも、念仏を自分の善根だと思って称えて助かろうという念仏でもありません。「ただ念仏して弥陀にたすけられまゐらすべしと、よきひと(法然)の仰せをかぶりて信ずる」ですから他力の念仏です。また、「ただ念仏して弥陀にたすけられまゐらすべし」ですから、阿弥陀仏にお助け頂くにはただ他力の信心(真実の信心)で念仏してと教えられていることが分かります。

『飛雲』「どうすれば救われるのか」真宗と高森教との決定的な違い2 の問答

Q.どうすれば救われますか?
A.真実の信心で念仏して(最初から他力の念仏)


ということの正しさが『歎異抄』第二条からも窺えます。加えて、「ただ念仏して」ですから往生極楽の道はただ念仏一行であり、念仏以外の「自余の行」、すなわち念仏以外の諸善をせよという教えはないことが分かります。シネマ学院だ大阪会館だ越前鯖江会館だとハコモノばかり建設し、阿弥陀仏の善巧方便とか都合の良いことを言ってお布施を要求しているのは、「ただ念仏して」という教えに反する邪義であります。聞く方も聞く方で、会で勧められる活動をやればそれだけ横の道を進んで信心獲得に近づくと思って念仏以外の「自余の行」(行もどきですが)に励んでいるのですから、こんな体たらくで「往生極楽の道」が正しく理解できる方がおかしいというものです。

往生極楽の道」「往生のみち」は「ただ念仏して」です。「自余の行」ならぬ、邪教への献金、勧誘、無条件服従という罪悪に執心している内は、「必ず極楽浄土へ往ける身」になることはありません。まして「絶対の幸福」だとかいう現世利益を追い求めていては・・・。会員の皆さんは、親鸞聖人のお言葉に順い、直ちに「念仏する者を極楽へ迎えよう」という本願を疑い無く信じて念仏して頂きたいと思います。
プロフィール

淳心房&しゃあ

Author:淳心房&しゃあ
(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


(しゃあ)
平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
singikensho@yahoo.co.jp
(スパム防止のため@を大文字にしてあります。メール送信時は小文字に変えて下さい。)

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