【考察】念仏の勧めについてⅡ(26)
親鸞聖人は『往生礼讃』から直接ではなく、『集諸経礼懺儀』から善導大師の二種深信のお言葉を、言わば孫引きされています。存覚上人はこれについて『六要鈔』に
「十声聞」とは恐らくはこれ展転書写の誤か。
と仰っていますが、当時は文献の調査がままならなかったのでしょう。現在では、これは誤りとか誤記などではないことが分かっています。
親鸞聖人のこうした孫引きは他にもあります。例えば親鸞会では有名な
自信教人信 難中転更難 大悲伝普化 真成報仏恩
(みづから信じ人を教へて信ぜしむること、難きがなかにうたたさらに難し。大悲をもつて伝へてあまねく化するは、まことに仏恩を報ずるになる。)(『往生礼讃』)
もそうです。「信文類」と「化身土文類」に引かれていますが、
弘の字、智昇法師の『懺儀』の文なり
とあるように『集諸経礼懺儀』からの孫引きです。『礼讃』では「大悲をもつて伝へてあまねく化する」の部分が、『集諸経礼懺儀』では「大悲弘くあまねく化する」となっているというのです。
親鸞聖人はただ経論釈の文を引用するのではなく、独自の読み替えやこうした孫引きをして、より深い仏意を探っていかれたのであろうと思います。そして、それまでの諸経論の上では明らかではなかったことを聖人独自の発揮をもって明らかにされたのでしょう。
では、親鸞聖人は「聞」の字の入った『集諸経礼懺儀』を用いることによって何を明らかにされたのでしょうか。その聖意は測り難いですが、今まで学び聞いたことを基にして、それは次のようなことではないかと考察しました。
第一には、称名は衆生が称えて功徳を積むような行ではなく、本願に選択された名号を称えて聞く大行であることです。念仏は私達の側から功徳を積んで仏に成ろう、さとりに近づこうという凡聖自力の行ではなく、阿弥陀仏から与えられる本願力回向の大行であるということが明らかになると考えます。
第二には、名号を称するということと、名号を聞くということは同じであるということです。『大経』本願文では乃至十念ですが、『大阿弥陀経』や『平等覚経』では聞我名字と説かれています。『大経』本願成就文でも聞其名号信心歓喜乃至一念とあります。
南無阿弥陀仏と称えれば、南無阿弥陀仏と聞こえてきます。諸仏称揚の願によって成就し回向されている本願の名号を称えるということは、それはそのまま「我をたのめ、必ず浄土に迎えて仏にするぞ」という大悲招喚の勅命を疑いをまじえずに聞き受けることであるということを明らかにされていると考察します。
第三には、全ての人が救済の対象であることです。若くして法縁に遇う人もあれば、臨終にしてようやく遇う人もあります。こればかりは自分で選ぶことはできません。若くして遇った人は幾百万遍もお念仏を称えられますが、臨終に遇った人はわずか十声一声、あるいは名号を聞いただけで一声も称えられずに命終わるという方もあるでしょう。また、何かの事情でお念仏を称えることができないという方もあるかも知れません。
しかし、道綽禅師や善導大師、法然聖人や親鸞聖人のように何百万遍、何千万遍称えた人生も、わずか十声一声称えただけの人生も、あるいは名号に遇っただけで一声も称えられなかった人生も、いずれも立派な念仏者としての人生です。称えた回数によらず、遇法のタイミングに関わらず、最悪の人に焦点を当てて、どんな者も漏らさず救い尽くす究極の大悲であることを示す意図があったのではないかと考えます。
第四には、衆生の力を借らず、衆生の動作に依らず、本願力の独用による救済であることです。それと第五には、信心が肝要であることです。阿弥陀仏は「名号を称える者を救う」と誓われていますが、これを字面通り受け取ると、救われるために最低でも1回の称名が必要ということになります。また衆生の称名を待って救いが成立するということになります。
称名は万人に与えられている往生の正定業ですが、これを私が受け容れなければ私の救いにはなりません。名号を聞いて信ずる者をも救う本願であるとすることで、衆生の動作を待たない救いであること、そして念仏の信心が肝要であることを明らかにされていると考察します。
他にもまだまだ私の考えの及ばぬ聖意があるかと思います。ですが、ここで誤解してはならないのは、親鸞聖人は「聞」の字によって念仏は救いに必要ないとか、念仏は往生の因ではないと仰っているのではないということです。
確かに名号を聞いて信ずる者も往生させるのですから、理論上は一回も念仏を称えなくても往生ができます。しかし現実には、そのような方は滅多におられないでしょう。阿弥陀仏の本願は、「念仏を称える者を往生させる」という本願です。そのように聞きながら、実際の救いを求めて、念仏を称えない者などあるでしょうか。そういう人は、本願を聞いていない人、実際の救いを求めていない人と言わざるを得ません。
確かに信心は肝要です。けれども、それは念仏の信心であって、念仏と無関係な信心ではありません。信知する内容は「名号を称すること下至十声聞等に及ぶまで、さだめて往生を得しむ」であって、念仏は救いに必要ない、念仏は往生の因ではないと信知するのではないのです。
御開山は不思議の仏智を信ずる信心が報土の因、涅槃の真因であると仰っていますが、同時に安養浄土の往生の正因は念仏を本とするとか、称名は無上涅槃のさとりをひらくたねであるとも仰っています。念仏と信心は、信心が因だから念仏は因ではないというような二者択一的なものではありません。これも念仏と信心の関係が分かっていれば難しい話ではないですが、信因称報説に偏執しているといかがであろうかと怪しく思われます。
【参照】
【考察】念仏の勧めについて(23)
親鸞思想における「乃至一念」の意義(該当箇所はp.76~)
『大悲にふれて』大悲弘普化
「十声聞」とは恐らくはこれ展転書写の誤か。
と仰っていますが、当時は文献の調査がままならなかったのでしょう。現在では、これは誤りとか誤記などではないことが分かっています。
親鸞聖人のこうした孫引きは他にもあります。例えば親鸞会では有名な
自信教人信 難中転更難 大悲伝普化 真成報仏恩
(みづから信じ人を教へて信ぜしむること、難きがなかにうたたさらに難し。大悲をもつて伝へてあまねく化するは、まことに仏恩を報ずるになる。)(『往生礼讃』)
もそうです。「信文類」と「化身土文類」に引かれていますが、
弘の字、智昇法師の『懺儀』の文なり
とあるように『集諸経礼懺儀』からの孫引きです。『礼讃』では「大悲をもつて伝へてあまねく化する」の部分が、『集諸経礼懺儀』では「大悲弘くあまねく化する」となっているというのです。
親鸞聖人はただ経論釈の文を引用するのではなく、独自の読み替えやこうした孫引きをして、より深い仏意を探っていかれたのであろうと思います。そして、それまでの諸経論の上では明らかではなかったことを聖人独自の発揮をもって明らかにされたのでしょう。
では、親鸞聖人は「聞」の字の入った『集諸経礼懺儀』を用いることによって何を明らかにされたのでしょうか。その聖意は測り難いですが、今まで学び聞いたことを基にして、それは次のようなことではないかと考察しました。
第一には、称名は衆生が称えて功徳を積むような行ではなく、本願に選択された名号を称えて聞く大行であることです。念仏は私達の側から功徳を積んで仏に成ろう、さとりに近づこうという凡聖自力の行ではなく、阿弥陀仏から与えられる本願力回向の大行であるということが明らかになると考えます。
第二には、名号を称するということと、名号を聞くということは同じであるということです。『大経』本願文では乃至十念ですが、『大阿弥陀経』や『平等覚経』では聞我名字と説かれています。『大経』本願成就文でも聞其名号信心歓喜乃至一念とあります。
南無阿弥陀仏と称えれば、南無阿弥陀仏と聞こえてきます。諸仏称揚の願によって成就し回向されている本願の名号を称えるということは、それはそのまま「我をたのめ、必ず浄土に迎えて仏にするぞ」という大悲招喚の勅命を疑いをまじえずに聞き受けることであるということを明らかにされていると考察します。
第三には、全ての人が救済の対象であることです。若くして法縁に遇う人もあれば、臨終にしてようやく遇う人もあります。こればかりは自分で選ぶことはできません。若くして遇った人は幾百万遍もお念仏を称えられますが、臨終に遇った人はわずか十声一声、あるいは名号を聞いただけで一声も称えられずに命終わるという方もあるでしょう。また、何かの事情でお念仏を称えることができないという方もあるかも知れません。
しかし、道綽禅師や善導大師、法然聖人や親鸞聖人のように何百万遍、何千万遍称えた人生も、わずか十声一声称えただけの人生も、あるいは名号に遇っただけで一声も称えられなかった人生も、いずれも立派な念仏者としての人生です。称えた回数によらず、遇法のタイミングに関わらず、最悪の人に焦点を当てて、どんな者も漏らさず救い尽くす究極の大悲であることを示す意図があったのではないかと考えます。
第四には、衆生の力を借らず、衆生の動作に依らず、本願力の独用による救済であることです。それと第五には、信心が肝要であることです。阿弥陀仏は「名号を称える者を救う」と誓われていますが、これを字面通り受け取ると、救われるために最低でも1回の称名が必要ということになります。また衆生の称名を待って救いが成立するということになります。
称名は万人に与えられている往生の正定業ですが、これを私が受け容れなければ私の救いにはなりません。名号を聞いて信ずる者をも救う本願であるとすることで、衆生の動作を待たない救いであること、そして念仏の信心が肝要であることを明らかにされていると考察します。
他にもまだまだ私の考えの及ばぬ聖意があるかと思います。ですが、ここで誤解してはならないのは、親鸞聖人は「聞」の字によって念仏は救いに必要ないとか、念仏は往生の因ではないと仰っているのではないということです。
確かに名号を聞いて信ずる者も往生させるのですから、理論上は一回も念仏を称えなくても往生ができます。しかし現実には、そのような方は滅多におられないでしょう。阿弥陀仏の本願は、「念仏を称える者を往生させる」という本願です。そのように聞きながら、実際の救いを求めて、念仏を称えない者などあるでしょうか。そういう人は、本願を聞いていない人、実際の救いを求めていない人と言わざるを得ません。
確かに信心は肝要です。けれども、それは念仏の信心であって、念仏と無関係な信心ではありません。信知する内容は「名号を称すること下至十声聞等に及ぶまで、さだめて往生を得しむ」であって、念仏は救いに必要ない、念仏は往生の因ではないと信知するのではないのです。
御開山は不思議の仏智を信ずる信心が報土の因、涅槃の真因であると仰っていますが、同時に安養浄土の往生の正因は念仏を本とするとか、称名は無上涅槃のさとりをひらくたねであるとも仰っています。念仏と信心は、信心が因だから念仏は因ではないというような二者択一的なものではありません。これも念仏と信心の関係が分かっていれば難しい話ではないですが、信因称報説に偏執しているといかがであろうかと怪しく思われます。
【参照】
【考察】念仏の勧めについて(23)
親鸞思想における「乃至一念」の意義(該当箇所はp.76~)
『大悲にふれて』大悲弘普化
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