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【考察】念仏の勧めについてⅡ(26)

親鸞聖人は『往生礼讃』から直接ではなく、『集諸経礼懺儀』から善導大師の二種深信のお言葉を、言わば孫引きされています。存覚上人はこれについて『六要鈔』

「十声聞」とは恐らくはこれ展転書写の誤か。

と仰っていますが、当時は文献の調査がままならなかったのでしょう。現在では、これは誤りとか誤記などではないことが分かっています。

親鸞聖人のこうした孫引きは他にもあります。例えば親鸞会では有名な

自信教人信 難中転更難 大悲伝普化 真成報仏恩
(みづから信じ人を教へて信ぜしむること、難きがなかにうたたさらに難し。大悲をもつて伝へてあまねく化するは、まことに仏恩を報ずるになる。)
『往生礼讃』

もそうです。「信文類」「化身土文類」に引かれていますが、

弘の字、智昇法師の『懺儀』の文なり

とあるように『集諸経礼懺儀』からの孫引きです。『礼讃』では「大悲をもつて伝へてあまねく化する」の部分が、『集諸経礼懺儀』では「大悲弘くあまねく化する」となっているというのです。

親鸞聖人はただ経論釈の文を引用するのではなく、独自の読み替えやこうした孫引きをして、より深い仏意を探っていかれたのであろうと思います。そして、それまでの諸経論の上では明らかではなかったことを聖人独自の発揮をもって明らかにされたのでしょう。


では、親鸞聖人は「」の字の入った『集諸経礼懺儀』を用いることによって何を明らかにされたのでしょうか。その聖意は測り難いですが、今まで学び聞いたことを基にして、それは次のようなことではないかと考察しました。

第一には、称名は衆生が称えて功徳を積むような行ではなく、本願に選択された名号を称えて聞く大行であることです。念仏は私達の側から功徳を積んで仏に成ろう、さとりに近づこうという凡聖自力の行ではなく、阿弥陀仏から与えられる本願力回向の大行であるということが明らかになると考えます。

第二には、名号を称するということと、名号を聞くということは同じであるということです。『大経』本願文では乃至十念ですが、『大阿弥陀経』や『平等覚経』では聞我名字と説かれています。『大経』本願成就文でも聞其名号信心歓喜乃至一念とあります。

南無阿弥陀仏と称えれば、南無阿弥陀仏と聞こえてきます。諸仏称揚の願によって成就し回向されている本願の名号を称えるということは、それはそのまま「我をたのめ、必ず浄土に迎えて仏にするぞ」という大悲招喚の勅命を疑いをまじえずに聞き受けることであるということを明らかにされていると考察します。

第三には、全ての人が救済の対象であることです。若くして法縁に遇う人もあれば、臨終にしてようやく遇う人もあります。こればかりは自分で選ぶことはできません。若くして遇った人は幾百万遍もお念仏を称えられますが、臨終に遇った人はわずか十声一声、あるいは名号を聞いただけで一声も称えられずに命終わるという方もあるでしょう。また、何かの事情でお念仏を称えることができないという方もあるかも知れません。

しかし、道綽禅師や善導大師、法然聖人や親鸞聖人のように何百万遍、何千万遍称えた人生も、わずか十声一声称えただけの人生も、あるいは名号に遇っただけで一声も称えられなかった人生も、いずれも立派な念仏者としての人生です。称えた回数によらず、遇法のタイミングに関わらず、最悪の人に焦点を当てて、どんな者も漏らさず救い尽くす究極の大悲であることを示す意図があったのではないかと考えます。

第四には、衆生の力を借らず、衆生の動作に依らず、本願力の独用による救済であることです。それと第五には、信心が肝要であることです。阿弥陀仏は「名号を称える者を救う」と誓われていますが、これを字面通り受け取ると、救われるために最低でも1回の称名が必要ということになります。また衆生の称名を待って救いが成立するということになります。

称名は万人に与えられている往生の正定業ですが、これを私が受け容れなければ私の救いにはなりません。名号を聞いて信ずる者をも救う本願であるとすることで、衆生の動作を待たない救いであること、そして念仏の信心が肝要であることを明らかにされていると考察します。


他にもまだまだ私の考えの及ばぬ聖意があるかと思います。ですが、ここで誤解してはならないのは、親鸞聖人は「」の字によって念仏は救いに必要ないとか、念仏は往生の因ではないと仰っているのではないということです。

確かに名号を聞いて信ずる者も往生させるのですから、理論上は一回も念仏を称えなくても往生ができます。しかし現実には、そのような方は滅多におられないでしょう。阿弥陀仏の本願は、「念仏を称える者を往生させる」という本願です。そのように聞きながら、実際の救いを求めて、念仏を称えない者などあるでしょうか。そういう人は、本願を聞いていない人、実際の救いを求めていない人と言わざるを得ません。

確かに信心は肝要です。けれども、それは念仏の信心であって、念仏と無関係な信心ではありません。信知する内容は「名号を称すること下至十声聞等に及ぶまで、さだめて往生を得しむ」であって、念仏は救いに必要ない、念仏は往生の因ではないと信知するのではないのです。

御開山は不思議の仏智を信ずる信心が報土の因、涅槃の真因であると仰っていますが、同時に安養浄土の往生の正因は念仏を本とするとか、称名は無上涅槃のさとりをひらくたねであるとも仰っています。念仏と信心は、信心が因だから念仏は因ではないというような二者択一的なものではありません。これも念仏と信心の関係が分かっていれば難しい話ではないですが、信因称報説に偏執しているといかがであろうかと怪しく思われます。



【参照】
【考察】念仏の勧めについて(23)
親鸞思想における「乃至一念」の意義(該当箇所はp.76~)
『大悲にふれて』大悲弘普化
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『考察』念仏の勧めについてⅡ(25)

親鸞聖人は行の一念を釈する過程で、智昇師の『集諸経礼懺儀』を引いています。

深心はすなはちこれ真実の信心なり。自身はこれ煩悩を具足せる凡夫、善根薄少にして三界に流転して火宅を出でずと信知す。いま弥陀の本弘誓願は、名号を称すること下至十声聞等に及ぶまで、さだめて往生を得しむと信知して、一念に至るに及ぶまで疑心あることなし。ゆゑに深心と名づく

この御文は「行文類」と「信文類」と二箇所にありますが、今は「行文類」ですから真実行の根拠として引いておられます。ここで

弥陀の本弘誓願は、名号を称すること下至十声聞等に及ぶまで、さだめて往生を得しむ

とあるように、阿弥陀仏の本願は名号を称えることわずか十声などの者や、ただ名号を聞いて信じる者に至るまで、必ず往生させるという誓いです。つまり、

名号を称える者、名号を聞いて信じる者を往生させる

という本願であることが分かります。ただし「聞等」とあるからと言って念仏は往生の条件ではない、往生の因ではない、救いに必要ないなどと解釈する人がありますが、それは違います。

『集諸経礼懺儀』の元である『往生礼讃』の文には「下至十声聞等」ではなく「下至十声・一声等」と「」の字がありません。それを『礼讃』では直接ではなく敢えて『集諸経礼懺儀』から引かれたのは「」の字に着目されたからであるのは間違いないでしょう。しかし、この「」だけを見てそれまでの高僧方の教えを根本からひっくり返すような極端な異説が出るというのは何とも残念な話です。


これまで大行釈経文結釈念仏成仏の文などで見てきたように、称名は破闇満願の徳をもった往生の正定業です。称名は阿弥陀仏が本願に「乃至十念」と誓われ、第十七願によって与えられている本願の行です。善導大師は本願のことを

二河白道の譬喩
なんぢ一心正念にしてただちに来れ。 われよくなんぢを護らん。 すべて水火の難に堕することを畏れざれ

『往生礼讃』
もしわれ成仏せんに、十方の衆生、わが名号を称すること下十声に至るまで、もし生ぜずは、正覚を取らじ

『観念法門』
もしわれ成仏せんに、十方の衆生、わが国に生ぜんと願じて、わが名字を称すること、下十声に至るまで、 わが願力に乗じて、もし生ぜずは、正覚を取らじ

『観経疏』玄義分
もしわれ仏を得たらんに、十方の衆生、わが名号を称してわが国に生ぜんと願ぜんに、下十念に至るまで、もし生ぜずは、正覚を取らじ

と様々に言い換えられています。本願の「乃至十念」、二河譬の「正念」に当たる部分を、いずれも「下至十声」と釈されています。法然聖人はこうした教えを承けて本願のことを

念仏往生の願

と仰っています。この言葉は親鸞聖人も覚如上人も蓮如上人も使われています。意味は勿論ですが

念仏を称えて往生する願

あるいは

念仏を称える者を往生させる願

です。念仏は救われた後のお礼、つまり18願の念仏は救われるには関係のない、いわばおまけ、ではないのです。すなわち、

往生が定まった信後の報謝として念仏を称える願
念仏は報恩であって往生とは無関係の願


という意味で使われているのではないということです。もし、救いに念仏が要らない、関係ないなら、どうして阿弥陀仏が本願に誓われたでしょうか。どうして法然聖人が声高に称名念仏の一行を叫ばれたでしょうか。どうしてそのために聖道諸宗から幾度も非難攻撃を受けねばならなかったのでしょうか。どうして承元の法難、嘉禄の法難を始めとする様々な念仏弾圧事件が起きたでしょうか。

念仏は仏の本願です。念仏は、これ一つで往生できるようにと衆生の行として、衆生を浄土へ迎えるために、衆生に与えるために誓われ成就されたものです。ですから親鸞聖人も、

弥陀の本願と申すは、名号をとなへんものをば極楽へ迎へんと誓はせたまひたるを、ふかく信じてとなふるがめでたきことにて候ふなり。信心ありとも、名号をとなへざらんは詮なく候ふ。また一向名号をとなふとも、信心あさくは往生しがたく候ふ。されば、念仏往生とふかく信じて、しかも名号をとなへんずるは、疑なき報土の往生にてあるべく候ふなり。『末灯鈔』12通

と仰っています。阿弥陀仏の本願とは「念仏を称える者を往生させる願」であり、その本願を「ふかく信じてとなふるがめでたきことにて候ふなり」と教えられています。この「ふかく信じて」が「信知して、一念に至るに及ぶまで疑心あることなし」という「深心」「真実の信心」です。

ここで「一向名号をとなふとも、信心あさくは往生しがたく候ふ」は誰しもが言うことですが、一方で親鸞聖人は「信心ありとも、名号をとなへざらんは詮なく候ふ」とも仰っています。たとえ信心があっても、名号を称えないようなことでは要が抜けているというのです。勿論、念仏が伴わない信心は真実の信心ではないと仰っているように読めないことはないですが、表面上はそうではありませんし、ともかく念仏が救いに必要ないならこのようなことは言われません。

そして「念仏往生とふかく信じて、しかも名号をとなへんずるは、疑なき報土の往生にてあるべく候ふなり」なのです。このことを親鸞聖人は『三経往生文類』

この真実の称名と真実の信楽をえたる人は、すなはち正定聚の位に住せしめんと誓ひたまへるなり。

とも仰っています。真実の称名と真実の信楽を獲て、本願を疑いなく信じ念仏する人は正定聚の位に住し、報土に往生することは疑いない、というのです。これを『歎異抄』では簡潔に

本願を信じ念仏を申さば仏に成る

と教えられています。親鸞聖人が「」の字の入った『集諸経礼懺儀』を引かれた理由は、少なくとも念仏が往因ではないなどというトンデモ学説を生み出すためでは無かったことは間違いないでしょう。これについては、記事を改めて考察したいと思います。




【参照】
『飛雲』善導大師の教えられ方でも高森顕徹会長を攻撃しておきます
『WikiArc』十声・一声等

【考察】念仏の勧めについてⅡ(24)

親鸞聖人は『大経』流通分の大利について釈された後、行の一念のもう一つの意味である行相の釈を施されています。行相の釈というのは、善導大師が「専心専念」といわれた言葉を釈して、

釈に「専心」といへるはすなはち一心なり。二心なきことを形すなり。「専念」といへるはすなはち一行なり。二行なきことを形すなり。           (『註釈版聖典』一八九頁)


といわれたなかの専念の釈がそれです。これは二心(疑心)なく一心(信心)をもって念仏の一行を専修するという、一行一心の実践をあらわすために、宗義によって因みに施された釈ですので、宗釈と呼んでいます。それに対して、行の一念の一を遍数と見る遍数釈は、文章の当面の意味ですから、当釈と呼びます。

この専心専念の釈は、善導大師が「散善義」で、「専心念仏」とか「一心専念」といわれた言葉によって、専心は念仏に対しているから信心の意味であり、専念は一心に対しているから称名念仏の意味で用いられていると取り、専心と専念を一心と一行という法義をあらわしていると見た釈でした。「専」とは「もっぱら」と読むように、物事を一つに限定する言葉ですから、「専心」とは、「一心」ということであり、「専念」とは「一念」ということになります。一念の「念」という言葉は、心念の意味にも称念の意味にもとられますが、いまは「一心」(専心)に対する「一念」(専念)ですから、心念の言葉ではなくて、称念のことで行をあらわしていると見るべきだといわれるのです。

「一念」の「念」が称名という行をあらわしているとすると、「一念」という言葉を「一行」と言い換えることができます。この「一行」とは、「一心」が「二心がない」という状態をあらわしていたように、「二行をまじえない」という意味をあらわします。つまり、選択本願の念仏は、その一行によって、往生が決定するように選択された行ですから、一切の余行をまじえない念仏であるということを表しています。いわゆる専修念仏であるということを知らせているのが、行の「一念」の教説であるというのです。

こうして『無量寿経』の終わりに、釈尊が弥勒菩薩にこの経の法義を付属されるにあたって、「行の一念」をもって説き与えられたのは、この経に説かれた本願の念仏は、わずか一声称えるだけで無上の功徳を円満せしめるという究極の行法であることを知らせるためであったというのが、行一念の遍数釈でした。また、そういう絶対無上の徳をもつ行であるから、一行を専修すべきであって、自力の余行をまじえる余地のない専修念仏であるということを示す意味も含まれていたと読み取られたのが、行一念の行相の釈でした。このように、一心をもって一行を修するということが、本願力回向の行信の相であるとあらわされたのです。

行の一念について、遍数と行相の釈が終わると、それらを「散善義」や『往生礼讃』などの文とあわせて、さらに深い意味を顕すために転釈が施されます。それが「いま弥勒付属の『一念』はすなはちこれ一声なり。一声すなはちこれ一念なり。一念すなはちこれ一行なり。一行すなはちこれ正行なり。正行すなはちこれ正業なり。正業すなはちこれ正念なり。正念すなはちこれ念仏なり。すなはちこれ南無阿弥陀仏なり」(『註釈版聖典』一八九頁)という文章です。

弥勒付属の一念は、遍数釈によれば一声であるが、行相釈によれば一行です。一声に無量の徳を具えている称名一行こそ、正行とも、正業とも説かれたものでした。その称名は、本願を疑いなく信受している正念と呼ばれる信心を内にもった念仏であって、信も行も南無阿弥陀仏が私達に届いて躍動しているほかにないことを知らしめられるのが、この転釈会名です。


阿弥陀仏は一行(称名)と一心(信楽)を回向されています。このことから、阿弥陀仏は一心にふたごころなく念仏の一行を修せよと勧められていることが分かります。この行一念釈からしても、

阿弥陀仏は念仏を称えよと仰っている

ことは明らかです。念仏は、阿弥陀仏の勧めです。



【参考文献】
『聖典セミナー 教行信証[教行の巻]』

【考察】念仏の勧めについてⅡ(23)

本願に一連に誓われ、私達に回向されている行と信について、『大無量寿経』には行の一念、信の一念ということが説かれていると親鸞聖人は領解されています。実は『大経』には乃至一念の語が三箇所に説かれています。第一は本願成就文、第二は三輩段の下輩の文、第三は流通分の弥勒付属の文です。

この三箇所に説かれた一念について、法然聖人はすべて行の一念、すなわち一声の称名のことと解釈されています(利益章)。それに対して親鸞聖人は、本願成就文の一念は信の一念であり、流通分の一念は行の一念であると理解されたのです。下輩の一念については何の釈もされていません。それは親鸞聖人が、この三輩段には自力方便の行が説かれているという一面があると見られていたからでしょう。

親鸞聖人は行の一念に二種の理解を示されています。すなわち、「行の一念」とは一声の称名のことであって、一声の称名に無上の功徳が具わっていて、どんな行よりもすぐれた行であるといって、易行であることの究極の意義を意義を顕されたものを、行の一念の遍数の釈といいます。遍数というのは、一遍二遍と数える数のことで、その最少の数である一遍の称名念仏を、一念といっているわけです。

そしてまた、一念ということは、称名一行ということを顕しているともいわれています。阿弥陀仏が決定往生の行として選び定められたのは称名念仏の一行だけですから、本願を信ずるものは、その他の自力の行を雑えることなく称名一行を専修せよと勧められているのが、行一念の教説であると見る釈です。これを行一念の行相の釈といっています。


まず遍数の釈ですが、「行文類」には

行の一念といふは、いはく、称名の遍数について選択易行の至極を顕開す。

といい、続いて『無量寿経』の付属の経文が引用され、称名が大利を得しめる無上功徳の法であるということが証明されています。この釈を、行の一念の遍数の釈といいます。すなわち『無量寿経』の弥勒付属の経文に、初めて称えたわずか一声の称名によって無上の功徳を具足せしめられると説かれていますが、これは、阿弥陀仏が万人を救う行法として選び定められた念仏は、わずか一声で無上の功徳を円満せしめ、決定往生せしめてゆく、最勝の徳をもった究極の易行であるという法の徳の絶対性をあらわすための教説であったといわれるのです。

法然聖人は、『選択集』の本願章のなかで、阿弥陀仏が諸行を選び捨てて称名の一行を往生の行として選び取られたのはなぜかという問いに答えて、勝劣と難易の二義をあげて説明されています。念仏は最も勝れた行であって、しかも誰でもが行ずることのできる易行だから選び取られたのであり、諸行は勝れた能力をもっている人でなければ修行することのできない難行であって、しかも念仏に比べれば劣った行であるから、阿弥陀仏は選び捨てられたといわれるのです。

念仏が最も勝れた行であるというのは、阿弥陀仏の名号には、阿弥陀仏がさとりあらわされている無量の功徳がこめられていて、そっくりそのまま名号を称えるものの身に与えられるからであるといわれるのです。また念仏が易行であるというのは、たもちやすく、称えやすく、仏教の教義を知らなくても称えられるし、老人であれ子どもであれ、臨終の病人でも行ずることができるから、一人も落ちこぼれる人はありません。阿弥陀仏が本願をたてられたのは、万人を平等に救って、安らかな涅槃のさとりを恵み与えようという平等の大悲心に促されてのことでした。それゆえ、善人であれ悪人であれ、知者であれ愚者であれ、出家であれ在家であれ、平等に救って、最高のさとりを得させることのできる易行であって、しかも最勝の行である念仏を選び取られたのであると、念仏選択の仏意を顕されたのです。

こうして、念仏は易行であるから誰でもが歩めるし、どんな愚悪なものも最高のさとりを獲ることができるわけです。このような至極の易行であって、しかも最も勝れた行であるといういわれを端的に表しているのが、「わずか一声の称名に無上の功徳を具えている」と説かれた『無量寿経』の付属の経文であるといわれたのが、『選択集』利益章でした。そこには、

しかればもろもろの往生を願求せん人、なんぞ無上大利の念仏を廃して、あながちに有上小利の余行を修せんや。

と結ばれています。それを承けて、親鸞聖人は、行一念の釈を施して、

大利といふは小利に対せるの言なり。無上といふは有上に対せるの言なり。まことに知んぬ、大利無上は一乗真実の利益なり。小利有上はすなはちこれ八万四千の仮門なり。

といい、本願の念仏こそ一切の衆生が速やかに、確実に成仏することのできる、最高にして唯一無二の仏教であり、それ以外の八万四千の法門の法門は、すべて未熟なものを念仏に導くためにしばらく仮に与えられた権仮方便の法門であると言い切っていかれたのでした。こうして行一念の遍数釈は、本願の行法の徳の普遍性と絶対性を顕すための釈であったことがわかります。このように、釈尊は『無量寿経』の最後に本願の法が一乗無上の徳をもつことを明らかにして、当来の教主弥勒菩薩に付属されたのです。


なお、親鸞聖人は遍数釈を述べる過程で、『大経』の乃至と『散善義(意)』の下至について釈されています。親鸞聖人当時は対外的には聖道諸宗の問題がありましたが、その一方で、対内的には法然門下の異流の問題がありました。その中でも主だったものは一念多念の諍論です。詳細は分かりませんが、どうやら法然聖人の門弟の間で、一念義と多念義に別れて水火の如く争っていたようです。

これに対して隆寛律師は『一念多念分別事』を著して一念や多念に偏執してはならないことを諭され、親鸞聖人は『一念多念証文』(『一念多念文意』)を著して註釈を施されています。「行文類」でも

乃至とは一多包容の言なり。

と、一念も多念も共に往生の因であり、称名の数を限定しない本願の行であることを表しているのが「乃至」であると教えられています。

また『一念多念証文』では「一念をひがごととおもふまじき事」「多念をひがこととおもふまじき事」として一念・多念に関する要文を引証し、浄土真宗の教え、専修念仏は一念・多念のいずれにも偏執しない念仏往生の義であることを明らかにされています。

浄土真宗のならひには、念仏往生と申すなり、まつたく一念往生・多念往生と申すことなし、これにてしらせたまふべし。

これによって専修念仏の正意を顕し、一念に偏執して多念を軽視したり、あるいは多念に偏執して一念を軽んずるというような不毛な諍いに明確な決着を与えて、信を一念に生まれると決定し行(念仏)を多念に相続するのが法然聖人の本意であり、これが浄土真宗、念仏往生なのであると結論されたのです。



【参考文献】
『聖典セミナー 教行信証[教行の巻](梯實圓)』
『WikiArc』一念多念証文
『WikiArc』一念多念

【考察】念仏の勧めについてⅡ(22)

「行文類」では、行信利益を明かして真実信心の行者は現生において正定聚不退転となり、菩薩の初歓喜地に匹敵するような利益を得ていることが示されています。次に両重因縁の段では、念仏往生と信心正因の交際を明らかにして、法からいえば念仏往生といわれる法義は、機受からいえば、信心正因ということに帰するということが明らかにされます。

念仏往生(念仏成仏)といっても、決して信心を離れたものではなく、信心正因といっても念仏往生の法義を離れたものではありません。親鸞聖人は高田の覚信房に宛てた御消息の中で、行と信の関係について次のように教えられています。

四月七日の御文、五月二十六日たしかにたしかにみ候ひぬ。さては、仰せられたること、信の一念・行の一念ふたつなれども、信をはなれたる行もなし、行の一念をはなれたる信の一念もなし。そのゆゑは、行と申すは、本願の名号をひとこゑとなへて往生すと申すことをききて、ひとこゑをもとなへ、もしは十念をもせんは行なり。この御ちかひをききて、疑ふこころのすこしもなきを信の一念と申せば、信と行とふたつときけども、行をひとこゑするとききて疑はねば、行をはなれたる信はなしとききて候ふ。また、信はなれたる行なしとおぼしめすべし。
これみな弥陀の御ちかひと申すことをこころうべし。行と信とは御ちかひを申すなり。


これによりますと、

「行」 ― 本願の名号をひとこゑとなへて往生すと申すことをききて、ひとこゑをもとなへ、もしは十念をもせん
「信」 ― この御ちかひをききて、疑ふこころのすこしもなき


という関係にあります。

「本願の名号を一声称えて往生する」ということを聞いて、すなわち「念仏を称える者を往生させる」という本願を聞いて、その通り一声、十声、更には命のある限り一生涯称名するのが行です。

この御ちかひ」とは「念仏を称える者を往生させる」という本願のことですから、そのような本願を聞いて疑う心が少しも無いのが信です。

この行と信の二つに共通するのは「念仏を称える者を往生させる」という本願です。この本願を聞いての、行と信である点にまず注意すべきでしょう。「行と信とは御ちかひを申すなり」で、本願を離れて行も信も無いことが分かります。

次に、行と信は一つに組み合っており、相離れた二つの事柄では無い点も注意すべきです。本願には「至心信楽欲生我国」の信心と、「乃至十念」の行とが一連に誓われています。つまり、「わが真実なる誓願を疑いなく受けいれて、浄土へ生まれようとおもって、念仏せよ」と誓われているのです。この本願の心をあらわしているのが南無阿弥陀仏であって、それは南無の信と、阿弥陀仏の行とを私たちに与えて救いたまうといういわれを示しているのです。


覚信房は恐らく『教行証文類』を読んでいて、その中の「行の一念」「信の一念」について親鸞聖人に手紙にて質問したのでしょう。ここでは親鸞聖人のお答えしかありませんのでどういう質問なのか具体的には分かりませんが、覚信房は「行の一念」「信の一念」とは結局どういうことで、この二つの関係はどうなっているのかをお聞きしたかったのではないかと思います。

というのも、親鸞聖人は称名念仏が真実の行であることを顕す過程において、行と信についてそれぞれ一念釈を施されています。

おほよそ往相回向の行信について、行にすなはち一念あり、また信に一念あり。「行文類」行一念釈

この内、行の一念についてはこの後すぐに

行の一念といふは、いはく、称名の遍数について選択易行の至極を顕開す。

という遍数釈を施されます。これは称名の数の最少単位である一声のところで、阿弥陀仏が選択された易行の称名に込められている究極の意義を顕そうとする教説です。そして、経釈の引文を経て、わずか一声で無上大利の功徳を行者の身に具足せしめるという念仏の法の超勝性、絶対性を示し、

釈(散善義)に「専心」といへるはすなはち一心なり、二心なきことを形すなり。「専念」といへるはすなはち一行なり、二行なきことを形すなり。いま弥勒付属の一念はすなはちこれ一声なり。一声すなはちこれ一念なり。一念すなはちこれ一行なり。
一行すなはちこれ正行なり。正行すなはちこれ正業なり。正業すなはちこれ正念なり。正念すなはちこれ念仏なり。すなはちこれ南無阿弥陀仏なり。


という行相を釈されます。念仏の行者は余行をまじえず、称名念仏の一行を専修するという行のすがたを明らかにしておられるのです。

信の一念については、それからしばらくして行文類を終え、信の巻に入って菩提心釈を終えた後にまず

それ真実の信楽を案ずるに、信楽に一念あり。一念とはこれ信楽開発の時剋の極促を顕し、広大難思の慶心を彰すなり。

という時剋釈を施し、経釈の引文と続いて、

「一念」といふは、信心二心なきがゆゑに一念といふ。これを一心と名づく。一心はすなはち清浄報土の真因なり。

という信相釈を展開されています。一念とは真実の信心が我々の心に開け発る最初の時を顕し、しかもそれはふたごころなく、疑いをまじえずに本願を受け容れた一心であるというのです。


このような親鸞聖人の詳細かつ精密な解釈を伺いますと、行の一念と、信の一念とは別々の二つの事柄なのだろうかと疑問を抱くのは無理からぬことです。そこから、行と信についても、何か違った別々の二つの事柄なのかとも考えてしまいます。覚信房も同じような疑問を抱いたのかも知れません。

親鸞聖人は御消息にて、『教行証文類』には行の一念、信の一念があると書いたけれども、詮ずる所は「念仏を称える者を往生させる」という本願を疑いをまじえずに受け容れて(信)、仰せの通りに念仏申す(行)以外には無いのだよ、行を離れた信も無ければ信を離れた行も無い、行と信とは共に本願のことなのだよと教えられています。

往相回向の行信について、なまじいの凡夫の計らいを差し挟み、やれ信の一念が先で行の一念が後だとか、やれ信心が往生の因であり念仏は往生の因ではないだとか、余計な詮索をしたがる人が昔からいます。ですが、行と信のどちらが先でどちらが後だとか、どちらが因でどちらが因ではないだとか、聖人は仰っているでしょうか。私の勉強不足なら訂正しますが、行も信も阿弥陀仏の清浄願心の回向成就したもうたものであり、このような議論は実際の救いには全くの無駄であると感じます。

私達はただ善知識方の仰せ通り、阿弥陀仏が選択し与えられている本願の名号を信楽し、仰せの通りにお念仏申す、信心決定後の称名は御恩報謝と心得て一生涯相続する、これ以外ないと思います。

【考察】念仏の勧めについてⅡ(21)

「行文類」では続いて真実の行信による利益が教えられています。

しかれば真実の行信を獲れば、心に歓喜多きがゆゑに、これを歓喜地と名づく。これを初果に喩ふることは、初果の聖者、なほ睡眠し懶堕なれども二十九有に至らず。いかにいはんや十方群生海、この行信に帰命すれば摂取して捨てたまはず。ゆゑに阿弥陀仏と名づけたてまつると。これを他力といふ。ここをもつて龍樹大士は「即時入必定」(易行品 一六)といへり。曇鸞大師は「入正定聚之数」(論註・上意)といへり。仰いでこれを憑むべし。もつぱらこれを行ずべきなり。

行文類も半ば、大信(信心)の説明もまだなされていない中で、親鸞聖人はここで唐突に

しかれば真実の行信を獲れば

と行に加えて信を出して「行信」と仰っています。なぜでしょうか。


これについて考えてみますに、四つの理由が挙げられます。一つには、これまで経論釈を引いて説明してきた行の内容を計らいをまじえずに受け容れることが信心であるということです。かいつまんで箇条書きにすると、これまでの説明では、行は

・大行とは、無碍光如来の名を称する称名である
・称名は如来が完成されたすべての善徳をおさめ、あらゆる功徳の根本としての徳を具えている
・称名は極めて速やかに功徳を行者の身に満足せしめる勝れたはたらきをもっている
・称名は仏のさとりの領域である真如と呼ばれる絶対不二の真実の顕現態である
・称名は阿弥陀仏の第十七願によって与えられた本願力回向の行である
・称名は破闇満願のはたらきをもった最勝真妙の正業(正定業)である
・称名は則ち正定業、正定業は則ち念仏、念仏は則ち南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏は即ち正念である
・称名の行体である南無阿弥陀仏は、衆生を浄土へ招き喚び続けておられる本願の仰せである
・南無阿弥陀仏は、阿弥陀仏が衆生救済の願いを発し、衆生の行を廻施したもう仏心である
・南無阿弥陀仏が往生の行であるのは、それが選択本願によって選び定められたからである
・称名は凡夫であれ聖者であれ、自らの計らいによって往生の行にしていくような自力の行ではない
・称名は阿弥陀仏より与えられた往生行であり、行者の方からは不回向の行である
・阿弥陀仏の浄土へは、全て同じく念仏して生まれるのであり、別の生まれる道は無い


といった内容です。信心とは何を信ずるのかというと、行を信ずるのです。この場合の行は称名ですから、称名がどのような行であるのか、行の体である南無阿弥陀仏にはどのような意義があるのか、称名をもって本願とされたのにはどのようなわけがあるのか、これらを聞いて信ずる、つまり仰せの通りに受け容れるのです。それが信心です。仏法は、仏智というさとりの領域から出た教えであって、さとりの領域は凡夫の小賢しい智慧を働かせて理解できるような代物ではありません。仏法を真摯に受け止めるためには、凡夫の浅智を差し挟まず、教えを教えの通り受け容れることが大切ですから、古くから

仏法の大海は、信を能入と為し、智を能度と為す。(『大智度論』)
経の始めに「如是」と称するは、信を能入となすことを彰す。『浄土論註』

と教えられています。また、浄土への往生も信心が肝要ですから、法然聖人も

生死の家には疑をもつて所止となし、涅槃の城には信をもつて能入となす。『選択集』三心章

と信疑決判され、親鸞聖人も『正信偈』

生死輪転の家に還来ることは、決するに疑情をもつて所止とす。
すみやかに寂静無為の楽に入ることは、かならず信心をもつて能入とすといへり。


と教えられているのです。何を信ずるかは既に述べてきたから、ここでは「真実の行信」と仰っているのだと推測します。


二つには、行を受け容れて私の救いが成立することです。行は善悪賢愚の隔てなく、一切衆生に回向されている普遍の法です。それに対して我々個々の上に救いが成立するのは、我々一人一人がこの念仏の法を受け容れた時です。病気を治す妙薬があっても飲まねば治らないように、どんなに素晴らしい行、素晴らしい救いの法があっても、その法を信受しなければ私は救われません。利益は行を信受した時に成立しますから、「真実の行信を獲れば」と行に信を加えて教えられているのだと思われます。


三つには、行と信は不離の関係にあることです。御消息にて

信の一念・行の一念ふたつなれども、信をはなれたる行もなし、行の一念をはなれたる信の一念もなし。そのゆゑは、行と申すは、本願の名号をひとこゑとなへて往生すと申すことをききて、ひとこゑをもとなへ、もしは十念をもせんは行なり。この御ちかひをききて、疑ふこころのすこしもなきを信の一念と申せば、信と行とふたつときけども、行をひとこゑするとききて疑はねば、行をはなれたる信はなしとききて候ふ。また、信はなれたる行なしとおぼしめすべし。
 これみな弥陀の御ちかひと申すことをこころうべし。行と信とは御ちかひを申すなり。


と教えられているように、行を離れた信も、信を離れた行もありません。阿弥陀仏の本願は

本願の名号をひとこゑとなへて往生す

という誓いです。この誓いを聞いて仰せの通り一声、十声、更には一生相続するのが行です。この誓いを聞いて疑いをまじえずに受け容れたのが信です。ですから、信心は

念仏を称えて往生する

という信心です。念仏を離れた信心というものはありません。

また、信心を離れた念仏というものもありません。なぜなら、念仏もそれを受け容れる信心も、本願力によって回向される他力真実の行信だからです。そのことを親鸞聖人は、

しかれば、もしは行、もしは信、一事として阿弥陀如来の清浄願心の回向成就したまふところにあらざることあることなし。「信文類」総決

と教えられています。この行信不離なることを表そうと、「真実の行信」と仰っていると推察します。


四つには、自力心の誡めです。行は同じく名号を口に称えていても、その信心が異なる場合があります。念仏を他の諸善と同じように自分の功徳だと思って、諸善を修める時のように念仏を修めて功徳を積んで浄土に往生しようというのは、定散自力の信心です。これでは法然聖人や親鸞聖人と同じ浄土へは参れません。行が真実なら、信も真実でなければならない。この道理を表し、自力の計らいを誡める意味で、「真実の行信」と仰っていると考えられます。


まだ、今の私では思いもよらない、もっと大事な理由があるかも知れませんが、ともかく浄土への往生は本願を疑いをまじえずに信じて念仏申す、これだけです。私達は、阿弥陀仏、釈迦、諸仏、七高僧、親鸞聖人の勧め通り、なんまんだぶと称えて必ず往生すると深く信ずるのみです。

なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ・・・

【考察】念仏の勧めについてⅡ(20)

親鸞聖人は「行文類」決釈の引証として『浄土論註』の同一念仏無別道故の文を引かれます。

ここをもつて『論の註』(論註下 一二〇)にいはく、「かの安楽国土は、阿弥陀如来の正覚浄華の化生するところにあらざることなし。同一に念仏して別の道なきがゆゑに」とのたまへり。

阿弥陀如来の極楽浄土へは、みな全て如来の清らかなさとりの花からの化生である。それはなぜかと言うと、浄土へは同じ念仏によって生まれ、それ以外の道は無いからである、というのです。これがどうしたと思われるかも知れませんが、この御文は念仏が阿弥陀仏によって衆生に同一に与えられる本願力回向の行であることを示す重要な根拠なのです。

元の『浄土論註』を見てみますと、荘厳眷属功徳成就のところで曇鸞大師は

おほよそこれ雑生の世界には、もしは胎、もしは卵、もしは湿、もしは化、眷属そこばくなり。苦楽万品なり。雑業をもつてのゆゑなり。 かの安楽国土はこれ阿弥陀如来正覚浄華の化生するところにあらざるはなし。同一に念仏して別の道なきがゆゑなり。遠く通ずるにそれ四海のうちみな兄弟たり。〔浄土の〕眷属無量なり。いづくんぞ思議すべきや。

と、雑生の世界の生まれ方と、阿弥陀仏の極楽浄土の生まれ方を比較されています。雑生の世界、つまり迷いの世界へは、胎生、卵生、湿生、化生と生まれ方も違えば、それぞれ受ける苦楽の果報も万別です。なぜなら、各々の衆生が為したさまざまな迷いの行為が因であるからです。

それに対して浄土へは蓮華化生、これ以外の生まれ方は無い。なぜなら、浄土へは同一に念仏して生まれるのであり、それ以外に別の生まれる手段は無いからである、というのです。念仏という因が同じだから、蓮華化生という果も一緒なのだということです。

念仏がそれぞれの行者の為した自力の善根ならばこうはいきません。しかし、念仏は凡聖自力の行ではなく、阿弥陀仏によって成就され、衆生に与えられている本願力回向の行ですから、それを頂いて称える念仏はみな同じであり、同じ蓮華蔵世界に化生するのです。

ここからもまた、念仏は観像や観相、実相の念仏ではなく、阿弥陀如来の名を口に称える称名念仏であるということが分かります。観像や観相、実相の念仏は衆生それぞれの行であって、同じになるというわけにはいきません。思い描く心も違えば、思い描かれる仏もみな違うからです。しかし、称名念仏は同じ阿弥陀如来の名号であり、その名号が私達の心に届いて生ぜしめられる信心も同じですから、同じく念仏して、同じく蓮華化生するわけです。念仏は称名でなければならない理由はここにもあることが分かります。

そのようなわけで親鸞聖人は、浄土への生まれ方は全て蓮華化生という同一の果を見た時に、その因は同一のものでなければならない道理から、それは自力諸善ではなく、また各人各様の心で仏を思い描くという類の念仏でもなく、阿弥陀如来の正覚成就して回向されている南無阿弥陀仏の名号を称する称名念仏でなければならないことを同一念仏無別道故の文によって確認されたのでした。


阿弥陀仏の第十七願の要請に応じ、釈尊によって説かれた念仏往生の法門は、七高僧を経て親鸞聖人へと受け継がれ、更に浄土はさとりの境界であるから往生は即成仏であるという念仏成仏の教えへと展開されました。念仏は阿弥陀仏の勧めであり、諸仏が証誠する法であり、釈尊、七高僧、親鸞聖人が勧められている唯一無二の成仏道です。特に末代悪世を生きる煩悩具足の凡夫である私達には、念仏より他に往生のみちはありません。

ただし、同じく阿弥陀如来一仏を礼拝し、同じく本願力回向の行を修めて往生を願っていても、それを諸善を修める時のように自分の善根功徳だと思い、これを積み重ねて往生しようとか、往生の取引材料に利用しようなどと計らう悪き自力の心であっては蓮華化生という同一の果は望めません。そのように弥陀の誓願不思議を疑い計らって願力にまかせない者は、極楽に往生しても宮殿の内に五百歳の間空しく過ごす、胎生という別の果を受けるというのです。詳しくは「化身土文類」をご覧下さい。その他、『浄土和讃』巻頭讃

誓願不思議をうたがひて
 御名を称する往生は
 宮殿のうちに五百歳
 むなしくすぐとぞときたまふ


や、『正像末和讃』誡疑讃にも詳述され、仏智疑惑を厳しく誡められています。私達は、小賢しい凡夫の計らいを離れ、選択の本願に身も心もすっかりまかせて念仏し、成仏すべきです。本願の念仏一つで助かると深く信ずる、計らいをまじえずに受け容れる、これが信心です。



【参照】
『WikiArc』同一念仏…

【考察】念仏の勧めについてⅡ(19)

今回は、親鸞聖人の六字釈の続きを見ていきます。

発願回向といふは、如来すでに発願して衆生の行を回施したまふの心なり。

発願回向とは、一般的には衆生が往生したいと願いを発して往生の行を修め、その善根功徳を如来に回向するという意味です。ところが親鸞聖人はそれとは逆に、如来が衆生を往生させたいと願いを発して往生の行を成就し、その大善大功徳を衆生に回施して下さる仏心であると解釈されています。

穢土を厭離し、浄土を欣求し、迷いを離れてさとりを開こうという願いは、当然我々が発すべき心でありますが、この末法五濁の世に生きる煩悩妄念の凡夫である私達は、真実にその心を発すことができません。それに、発すことができたとしても、その心を相続し、浄土を目指して往生するべく行を修めていくということは至難の業と言わねばなりません。

阿弥陀仏は本願を発されるに当たって五劫の間思惟されたとありますが、それはひとえに私のような者がいたからです。自ら菩提心を発して、退転なくさとりの完成へと精進してゆく聖者や善人と違って、私のような者を浄土に迎え取り、仏にするということは諸仏の誰も出来なかったことです。それを阿弥陀如来ただ一人、超世の大願を発して、我ら一切衆生を平等に救おうと誓われて、既に阿弥陀仏と成りたまいました。これひとえに私一人のためでしたと、親鸞聖人は

弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとへに親鸞一人がためなりけり。されば、それほどの業をもちける身にてありけるを、たすけんとおぼしめしたちける本願のかたじけなさよ『歎異抄』後序

と御述懐されたと伝えられています。

ここで「衆生の行」とは称名、念仏です。なぜなら、阿弥陀仏が選択本願において選び定められた衆生往生の行は称名念仏の一行だからです。それを表しているのが、次の

即是其行といふは、すなはち選択本願これなり。

の釈です。南無阿弥陀仏が即ちこれ其の行であるというのは、名号を称する称名が本願において選択された行だからなのです。阿弥陀仏が「お願いだから私の名号を称えて、我が国に生まれてきておくれ」と与えて下されているのが称名、念仏です。念仏は阿弥陀仏の勧めです。

このように、称名、念仏は私の口に現れるものですが、私の行と言うべきものではありません。また、私が恣意的に選んだものではありません。勿論、私の中から出たものでもありません。阿弥陀仏の願いが私を通して顕れ出ている如来の行であり、阿弥陀仏の願いによって選ばれた行であり、阿弥陀仏の方から与えられた行であると言わねばなりません。そのため、親鸞聖人は七高僧方を始め広く聖道諸師の念仏讃仰の文までも集められ、法然聖人の三選の文まで引かれた後に

あきらかに知んぬ、これ凡聖自力の行にあらず。ゆゑに不回向の行と名づくるなり。大小の聖人・重軽の悪人、みな同じく斉しく選択の大宝海に帰して念仏成仏すべし。

と決釈されています。

称名、念仏は、凡夫であれ聖者であれ、自らのはからいによって往生の行にしていくような自力の行ではない、私達の側から言うと不回向の行と名づけるというのです。不回向の行の語は『選択集』不回向回向対から出たものですが、そこで法然聖人は

たとひ別に回向を用ゐざれども自然に往生の業となる

と教えられています。諸善は、行者が浄土に生まれたいと願いを発し、その善根功徳を仏に回向しなければ往生の業になりません。しかし、念仏は本願の行であるから、行者の側から回向しなくても自然に往生の業となるというのです。そのように別段回向を用いずとも自然に往生の業になるということは、念仏が阿弥陀仏より与えられた往生行、本願力回向の行だからであると親鸞聖人は見られたのです。

念仏は如来が完成されたすべての善徳をおさめ、あらゆる功徳の根本としての徳を具えており、極めて速やかに功徳を行者の身に満足せしめる勝れたはたらきをもっています。しかもそれは阿弥陀仏の大悲の願によって恵み与えられた本願力回向の行であります。親鸞聖人はそのことを経論釈から導き出し、大乗の聖者も小乗の聖者も、自らの善をたのまず、また悪人も罪の重い軽いをあげつらうことなく、同じく自力のはからいを離れて、大海のような広大無辺の徳をもって一切を平等に救いたまう選択本願に帰入して、念仏し成仏すべきであると結ばれています。

念仏は阿弥陀仏の勧めです。だから釈尊も十方諸仏も、七高僧方も、聖道諸師も、広く念仏を讃仰し、勧められているのであり、親鸞聖人もまたこのように勧められているのです。

【考察】念仏の勧めについてⅡ(18)

「行文類」では、善導大師の釈文を引文したところで、親鸞聖人が南無阿弥陀仏の六字を釈されます。これは、元々善導大師が『観経疏』の「玄義分」において、名号のいわれを顕すために施された六字釈を更に展開されたものです。善導大師は、当時の摂論宗の一派が主張した念仏別時意説を批判し、南無阿弥陀仏の名号には願と行が具足しているから別時意の方便ではなく、衆生がこれを称えれば往生できることを字義の上で釈されています。対して親鸞聖人は、南無阿弥陀仏の名号は如来の喚び声であり、如来より回向された往生の行であり、往生の行として選択本願において選び定められたものである、このような如来の願力を聞くところに報土の真因決定するということを教えられています。

なお善導大師は「南無」の二字と「阿弥陀仏」の四字に分けてそれぞれ釈されていますが、親鸞聖人の六字釈は南無阿弥陀仏の六字全体がこうであるというような示し方です。


今回は、南無阿弥陀仏の六字は如来の喚び声であるという釈について見てみます。

しかれば南無の言は帰命なり。帰の言は、[至なり、]また帰説(きえつ)なり、説の字は、[悦の音なり。]また帰説(きさい)なり、説の字は、[税の音なり。悦税二つの音は告なり、述なり、人の意を宣述するなり。]命の言は、[業なり、招引なり、使なり、教なり、道なり、信なり、計なり、召なり。]ここをもつて帰命は本願招喚の勅命なり。

随分と緻密な字釈がなされていますが、結論である「ここをもつて帰命は本願招喚の勅命なり」に導くために帰と命のもつ様々な意味を探っておられることが分かります。

このように南無阿弥陀仏を、衆生に「帰せよ」と命じる如来の喚び声、衆生を招き喚び続けておられる阿弥陀仏の本願の仰せだと解釈される元になったのが、前回述べた二河白道の譬喩です。善導大師は、譬喩の中で阿弥陀仏を西岸上の人に譬え、本願の仰せを

なんぢ一心正念にしてただちに来れ。 われよくなんぢを護らん。 すべて水火の難に堕することを畏れざれ

と表現されています。これが「本願招喚の勅命」です。そのことは合譬/合法の中で

「西の岸の上に人ありて喚ばふ」といふは、すなはち弥陀の願意に喩ふ。

弥陀悲心をもつて招喚したまふによりて


等と言われている通りです。旅人は、東の岸の人(釈尊)の勧める声と共に阿弥陀仏の喚び声を聞き、もはや尻込みすることなく白道を進む決心をします。この白道は他力の信心を顕しています。


さて、この弥陀の願意、すなわち18願意を明らかにされた本願招喚の勅命を、親鸞聖人は『浄土文類聚鈔』と『愚禿鈔』において解説されています。まず『浄土文類聚鈔』には

これによりて師釈を披きたるにいはく、「西の岸の上に人ありて喚ばひてのたまはく、〈なんぢ、一心に正念にしてただちに来れ、われよくなんぢを護らん。すべて水火の難に堕せんことを畏れざれ〉」と。また〈中間の白道〉といふは、すなはち、貪瞋煩悩のなかによく清浄願往生の心を生ぜしむるに喩ふ。仰いで釈迦の発遣を蒙り、また弥陀の招喚したまふによりて、水火二河を顧みず、かの願力の道に乗ず」と。{略出}
ここに知んぬ、「能生清浄願心」は、これ凡夫自力の心にあらず、大悲回向の心なるがゆゑに清浄願心とのたまへり。しかれば、「一心正念」といふは、正念はすなはちこれ称名なり。称名はすなはちこれ念仏なり。一心はすなはちこれ深心なり。(後略)


【現代語訳】
そこで、 善導大師の 『観経疏』をひらくと、 次のようにいわれている 。
「西の岸に人がいて、 〈そなたは一心に正念してまっすぐに来るがよい。 わたしがそなたを護ろう。 水の河や火の河に落ちるのではないかと恐れるな〉と喚ぶ声がする」
また次のようにいわれている。
「〈水の河と火の河の間にある白い道〉というのは、 貪りや怒りの心の中に、 往生を願う清らかな信心がおこることをたとえたのである。 浄土へ往生せよという釈尊のお勧めと、 浄土へ来たれと招き喚ぶ阿弥陀仏の仰せにしたがって、 貪りや怒りの水と火の河を気にもかけず、 阿弥陀仏の本願のはたらきに身をまかせるのである」
これによって知ることができた。 「清らかな信心が起こる」 とは、 凡夫が自力で起す心ではない。 大いなる慈悲により回向された心であるから、 清らかな信心といわれているのである。 そして 「一心に正念して」 というのは、 「正念」 とはすなわち称名である。 称名はすなわち念仏である。 「一心」 とは深い心、 すなわち深心である。 (後略)


とあります。

正念はすなはちこれ称名なり。称名はすなはちこれ念仏なり。一心はすなはちこれ深心なり

であり、深心とは真実の信心のことですから、弥陀の悲心招喚、すなわち本願招喚の勅命とは

真実の信心で念仏して(西の岸)に来なさい=白道を歩みなさい

であると判ります。


次に『愚禿鈔』には

「また、西の岸の上に、人ありて喚ばうていはく、〈汝一心正念にして直ちに来れ、我能く護らん〉」といふは、

「西の岸の上に、人ありて喚ばうていはく」といふは、阿弥陀如来の誓願なり。

「汝」の言は行者なり、これすなはち必定の菩薩と名づく。龍樹大士『十住毘婆沙論』にいはく、「即時入必定」となり。曇鸞菩薩の『論』には、「入正定聚之数」といへり。善導和尚は、「希有人なり、最勝人なり、妙好人なり、好人なり、上上人なり、真仏弟子なり」といへり。「一心」の言は、真実の信心なり。「正念」の言は、選択摂取の本願なり、また第一希有の行なり、金剛不壊の心なり。

「直」の言は、回に対し迂に対するなり。また「直」の言は、方便仮門を捨てて如来大願の他力に帰するなり、諸仏出世の直説を顕さしめんと欲してなり。

「来」の言は、去に対し往に対するなり。また報土に還来せしめんと欲してなり。

「我」の言は、尽十方無礙光如来なり、不可思議光仏なり。「能」の言は、不堪に対するなり、疑心の人なり。「護」の言は、阿弥陀仏果成の正意を顕すなり、また摂取不捨を形すの貌なり、すなはちこれ現生護念なり。「念道」の言は、他力白道を念ぜよとなり。


とあります。

「正念」の言は、選択摂取の本願なり、また第一希有の行なり、金剛不壊の心なり。

とあるように、正念とは第一希有の行である本願の念仏のことです。やはり本願招喚の勅命とは

真実の信心で念仏して報土(西の岸)に来なさい=白道を歩みなさい

であると判ります。


元々、「本願招喚の勅命」=「真実の信心で念仏しなさい」ということなのです。善導大師はそのように教えられたのだと親鸞聖人が解釈されています。喚び声、喚び声と言いますが、阿弥陀仏は具体的にどのように喚んでおられるのかというと、ただ単に「我をたのめ」「我にまかせよ」のみではなく

真実の信心で念仏しなさい

と喚んでおられるのです。念仏が阿弥陀仏の勧めであることはこれによっても明らかです。



【参照】
【考察】念仏の勧めについて(25)
【考察】念仏の勧めについて(26)

【考察】念仏の勧めについてⅡ(17)

『行文類』では、大行について述べられた後、まず経文による引証がなされます。経典に無いことでは仏説とは言えませんから、称名がキチンと本願にあることを経典の上で証明されるわけです。ところで阿弥陀仏の名号を諸仏が称揚讃嘆することは、衆生に聞かせ与える、すなわち衆生に回向するために他なりません。そのように往生の行を回向することを誓われた願だから、親鸞聖人は第十七願を

往相回向の願

と名づけられています。そして、なぜ名号を回向するかというと、それは阿弥陀仏が本願(第十八願)において、衆生往生の行として称名念仏の一行を選択されたからだとして、続いて

選択称名の願

と名づけられています。諸仏称揚の願諸仏称名の願諸仏咨嗟の願、この三つの願名は本願文の上に明らかですから「名づく」と言われています。中でも諸仏称揚の願は法然聖人が三部経大意で用いられている願名ですから、最初に持ってこられたのでしょう。しかし先の二つの願名は、本願の上では明らかではないが、「そうとも言える」という親鸞聖人の命名ですから「名づくべし」「名づくべきなり」と言われています。

選択称名の願」、この願名から見ても、

阿弥陀仏は念仏を称えよと仰っている

ことは明らかです。称名は、阿弥陀仏の勧めです。


このように称名は阿弥陀仏が勧め、また第十七願の要請によって諸仏が勧める浄土往生決定の行業ですから、親鸞聖人は経文引証を終えたところで御自釈として

しかれば名を称するに、よく衆生の一切の無明を破し、よく衆生の一切の志願を満てたまふ。称名はすなはちこれ最勝真妙の正業なり。正業はすなはちこれ念仏なり。念仏はすなはちこれ南無阿弥陀仏なり。南無阿弥陀仏はすなはちこれ正念なりと、知るべしと。

と仰っています。聖人が大行の定義を「無碍光如来の名を称するなり」とされたのは『浄土論註』讃嘆門釈からだと言われます。そこには

「かの如来の名を称す」とは、いはく、無礙光如来の名を称するなり。「かの如来の光明智相のごとく」とは、仏の光明はこれ智慧の相なり。この光明は十方世界を照らしたまふに障礙あることなし。 よく十方衆生の無明の黒闇を除くこと、日・月・珠光のただ空穴のなかの闇をのみ破するがごときにはあらず。 「かの名義のごとく、如実に修行して相応せんと欲す」とは、かの無礙光如来の名号は、よく衆生の一切の無明を破し、よく衆生の一切の志願を満てたまふ。

とあります。阿弥陀仏が、大悲智慧の光明をもって十方世界を隈なく照らし、善悪・賢愚の隔てなく、万人をさわりなく救う絶対的な救済力をもっておられることが「尽十方無碍光如来」という名号に最も端的に表れています。その名号は、それをいただいて称える人々の無明(疑惑)の闇を破り、往生成仏の願いを満足させるというすばらしいはたらきをもっていて、よく成仏の因となるといういわれがあるというのです。阿弥陀仏の名号にはこうした破闇満願の徳があることを示すために、「阿弥陀仏の名を称するなり」ではなく、敢えて讃嘆門釈から「無碍光如来の名を称するなり」と表現されたのです。

尤も曇鸞大師は、無礙光如来の名号に破闇・満願の徳があることを教えられていますが、親鸞聖人は、名号がそのまま口に現れている称名に破闇・満願の徳があることを教えられています。それから

称名
=「最勝真妙の正業
=「念仏
=「南無阿弥陀仏
=「正念

と転釈されます。称名は浄土往生の正定業であると善導大師の称名正定業説を裏付け、これこそ念仏なのだと、観像でも観相でも実相でもなく称名を選択本願の行と教えられた法然聖人の真実性を証明し、これこそ南無阿弥陀仏のもつ徳、南無阿弥陀仏のなしたもうはたらきなのであると曇鸞大師の名号破闇の釈に由来する旨を述べられています。

このように疑いをまじえずに受け容れたことを信心と言います。南無阿弥陀仏が衆生を喚び覚まし、衆生の帰命の信となりますから、称名破満の釈義の最後に

南無阿弥陀仏はすなはちこれ正念なり(南無阿弥陀仏 即是正念也)

と教えられています。称名から南無阿弥陀仏までは「」の字で転釈されていますが、ここは「」の字を用いられています。「正念」の語は行にも信にも通じているからでしょう。またこのことは、南無阿弥陀仏と称名することの他に別して信心は無いことを表しているとも推察されます。


ところで、なぜここに唐突に「正念」の語が出てきたのでしょうか。すぐに思い浮かぶ出拠は

なんぢ一心に正念にしてただちに来れ、われよくなんぢを護らん。すべて水火の難に堕せんことを畏れざれ

という、二河白道の譬喩にある弥陀の招喚です。私はここから採られたのではないかと考えています。理由は二つあります。

一つは、称名は南無阿弥陀仏という本願招喚の勅命を称え聞くことであり、南無阿弥陀仏の仰せを受け容れて仰せに順うことの他に信心はないことを示す意図で用いたという理由です。称名、念仏と言うと、自分の功徳のように思ったり、「助けて下さい阿弥陀さま」を意味する呪文のように思われがちですが、それらとは質的に異なっていることを表しているのではないでしょうか。

もう一つは、明恵上人の『摧邪輪』にある論難の一つ、聖道門を以て群賊に譬うる過失に応答する意図で用いたという理由です。

『興福寺奏状』第二 新像を図する失などにあるように、法然聖人在世当時は、摂取不捨曼陀羅という絵図を用いて念仏を勧めるという教化がなされていたようです。摂取不捨曼陀羅とは、阿弥陀仏の光明は念仏の衆生のみを照らしおさめ、「顕宗の学生、真言の行者」「諸経を持し、神呪を誦して、自余の善根を造(な)すの人」には光明は逸れて横を照らしたり、元に還るという有り様で、一人として光明に照らされていないという絵図です。

恐らく聖道諸宗の怒りに触れ、悉く没収され焼かれてしまったのでしょう。現存する摂取不捨曼陀羅は一幅もないそうです。弥陀の光明は遍く十方世界を照らしてすべての者を救おうとされているが、念仏以外の余行を修めて自己をたのみ、本願をたのまない自力の行者を光明が照らしおさめることはない、二河白道の譬喩の通りであるということを「正念」の語を出して表そうとされたのではないかと個人的には推察しています。


法然聖人も親鸞聖人も善導大師の「散善義」三心釈を非常に重要視されており、法然聖人は『選択集』三心章に、親鸞聖人は「信文類」にそれぞれ引いておられます。それだけでなく、『愚禿鈔』のおよそ半分が三心釈の解釈であり、『浄土文類聚鈔』、『唯信鈔文意』、『一念多念証文』でもその一部が解釈されています。『唯信鈔文意』は聖覚法印の『唯信鈔』を、『一念多念証文』は隆寛律師の『一念多念分別事』を釈したものですから、聖覚・隆寛両師も三心釈を重視されていたことが分かります。

その三心釈の中、回向発願心釈に出てくる二河白道の譬喩は『選択集』、「信文類」に引かれており、親鸞聖人は「信文類」、『浄土文類聚鈔』、『愚禿鈔』、『一念多念証文』などで解釈もされているという非常に重要な譬喩です。『高僧和讃』には

善導大師証をこひ
 定散二心をひるがへし
 貪瞋二河の譬喩をとき
 弘願の信心守護せしむ


ともあります。この譬喩には、18願を弥陀の悲心招喚の喚び声として表されています。後に親鸞聖人は善導大師の文を引いたところで、南無阿弥陀仏という名号は本願招喚の勅命であると釈されています。その元になっているのが二河譬です。これについては別の記事にて書いていきたいと思います。




【参照】
『本願力』称名破満の釈義
『WikiArc』正念
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淳心房&しゃあ

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(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


(しゃあ)
平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
singikensho@yahoo.co.jp
(スパム防止のため@を大文字にしてあります。メール送信時は小文字に変えて下さい。)

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